はてなキーワード: 棚卸しとは
この例のケースって、ほんとあるあるなんですが、仮に規模が小さい場合は、AB共にこれ以上の改善は困難な可能性が高いです。
FAXというと馬鹿にされがちなんですが、小規模の場合は最小労力になっている場合が多々あります。
ちなみにこのケースで、受注側のBがWeb発注システムを持っている場合に、現実にしばしば発生するケースは、
Web発注があっても、発注側のAがFAXを使い続けるというケースです。
まぁでもこれも、考えてみたらAからすると理にかなっている面があるんですね。
Aからしたら、現場で棚卸しして、それをWebにアクセスして、そのサイトの固有のUI上から入力するだとか、
あるいは、iOSアプリを利用するためにiPadを購入するしたり、リースであってもその管理をしたり、
そのためだけのアプリを使わなければならないとうのは、手間でしかないんですよね。
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例えばAの側で100店舗管理していて、発注量・必要量なども本部で管理・調整したいとかであれば、話は変わってくるのですが、
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小規模の場合、「やりすぎず、汎用的で、地味な改善」をやったほうが良いことは多いです。
例えば、どうしても電子化したいとうのであれば、専用システムとかアプリなんかじゃなくて、Googleスプレッドシートの共有で済ます、等。
なんだか頭が回らなくて、でも作業しなくちゃということで何か打ち込もうとするのだがいろんなことがチラチラしてなにも思いつかず
頭がショートして「あああ」と打っては消すというヤバげなことをしばらく繰り返していた。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃあれどーしようと頭の中のメモリを食いつぶしている心配事や不安がいくつかあるような気がするので、
これは大丈夫やぞとか、今別に考えんでもええぞと棚卸して明確化すれば少しマシになるだろうか。
所持金134円
不安になってるけど会社の自販機でお茶(110円)買っても24円残る、お茶が買えるなら今日は会社にいる間はとりあえず問題ない。
帰りにおろせば大丈夫。
晩ごはん
コロッケonごはんの状態で食べきれなくて残ってしまっているものを今夜何とか食べないといけない。
とりあえずラップかけておいてあるけど、卵とじ的な何かを施せば食えるだろうか?
美味しく食べるアイデアを思いついてないのがすげー不安なんだけどとりあえず今は置いておいてもいい気がする。
昨日乾燥を使ったけど掃除し忘れた気がする。家に帰ってから確認すればいいから今は考える必要なし。
作業優先度
一旦区切りがついてるけど少し手直ししたい先週末までの作業Aと今日からやり始める予定の作業B
どっちから手を付けようか迷ってしまっている、Bからやってとりあえずスケジュール遅延を避けるべきか?
でも作業Aが昨日から頭の中にずっとこびりついていて、なかなか離れられない、昨日はそれで寝れなかったし
せっかく頭が整理できてきたのに忘れてしまいそうなのも怖い
なにをどう手直しするつもりだったのかまとめる作業だけやっておいて作業Bに取り掛かって後から作業Aをやるというのがいい塩梅っぽいのだが
でもまとめるのに時間がかかってたら新しく無駄な作業生み出しただけで時間が無駄なのでは感
っていうかこの頭の中の整理に時間をかけなきゃいけない時点で時間の無駄なのではなかろうか
しかし自分はこうしないと半日でも数日でも平気で頭の中がアバババってなったまま何もしないで固まってることがあるのもまた事実でごわすし
って言って何もできてない時間がまた増あああああああ
この時期多いであろう忘年会という名の無礼講、クリパという名の寄せ集めバカ騒ぎに辟易としている全ての人々に捧ぐ
結論としては、もう俺は誘われたからといって安直に飲み会参加を決めないことにした。
周りがうざいからとかじゃない。うざいときもあるけどほぼ問題は自分なのはわかってるからそこについて。
俺はコミュ障だ。それはとっくの昔に自覚済みで、コミュ障改善のため学校やバイト先で頑張ったり本読んだりしてきた(好きな子とかパリピみたいな奴と汗かきながら話した後は通常の五割増でコミュニケーションが上手くいく気がする)。
そのおかげかわからんけどかなり友達も増えたし中学の頃よりはよっぽどまともになったと勘違いして最近調子に乗ってたんだと思う。
こないだ少し早めの忘年会ということで、元バイト先の飲みに誘われた。
メンツはよく知っている人もいる中で、あんまり話したことない同期とか年が離れた先輩とかもちらほら。
呼んでくれた先輩は俺みたいなのにも気さくに接してくれた人で、まあその人いるし、仲良い人もいるにはいるから余裕だろと謎に過信して参加することにした。
で当日、
参加者は結局10人を超え、ワ○ミになだれ込んだ俺たちはテーブル二つに分かれて座ることになったんだけど俺の座った方が地獄。
静かすぎる地獄。俺、あんまり話したことない先輩、あんまりryその2、仲良い同期、とっつきにくい同期という布陣に俺は何をどう話したらいいか分からず地蔵になった。
みんな自分から何も話さない。空気がこわばり、それに呑まれたのか俺は心理的にもう何もできねえなこれと諦めた。
他の面々は探り探りといった感じで主に沈黙。
隣のテーブルに主催者の先輩をはじめ盛り上げ上手な人が固まってしまい盛り上がり格差が生まれてしまった。
で、隣がワッと沸くたびに気まずい雰囲気が流れ、あまり話したことない先輩1,2が気にしてません風でこっち静かだねえと笑う。
そこから話が誰かに振られ、ようやくたどたどしくも会話が始まり、そのまま盛り上がることもあれば鎮火していくこともあった。
俺は本当にどうも出来ないままサラダ食ったり他の人の発言に笑ったりジムビーム飲んだりしてやり過ごしつつ、どうしてこうなったと脳内緊急反省会を開き、自分のコミュニケーション力のレベルを棚卸しした。
現状不自由なく出来ることは
・笑う
・話の流れで質問
・自分の話
この程度が自分の本当の実力だと整理した。
俺に出来ることは、全部他人ありきの受け身か、
すごく優しい人が聞いてくれるという安心感があった上でする自分語りだけだった。そもそも今まで上手く行ってたように思ってたのは、面白くて心優しい友人たちのおかげだったのだ。
最初にコミュ障改善しようと思ったときは上に書いたことさえもできなかったゴミだったから成長はまあしてると思う。
ただ自分と同じく受け身の人間の集まりでは手も足も出ないんだなと。
そこまで把握して脳内会議は打ち切って、後半のマジで話すことなくなってたまに皆が斜め下ってかテーブルを見つめる空間が生まれるような地獄の極みを乗り切り、
なぜか俺は、疲れていたせいか少しだけ泣きながら家に帰った。
例えば、この全員コミュ障のテーブルの中に1人か2人普通にコミュニケーションがとれる人間がいたら俺も何とか戦えたかもしれない。
成長は自分の能力よりも少しだけ上の環境でやるのがいいと思う。
それかものすごい達人ばっかりがいるところ。今日みたいな不毛地帯に花畑を作るようなところ、俺にはとてもじゃないけど力不足。
それができないと辛くなるだけ。まあ今回は気づけたから良しとして、次からはメンツと自分の力量を見極めてから行く。
でももう俺疲れたよ!!!飲み会行ってよくわかんない別に話したくもない奴と頑張って話して何になるんだよ!!というかそんなに人にわざわざ話すことなんてねえわ!!!そんな時間あったらポケモンやりたいの俺は!!!!!
あーー人里離れた山奥でひとり暮らしたい。誰にも会わず、誰とも話さず生きれたらどんなにいいだろう。傷付くことなく本読んで勉強してさ。
こんな自分なりに頑張ってみてもコミュ強は生まれたときから強い。積んでるエンジンが違うからどこまで走っても追いつけねー、はあ。もうどうしたらいい。人生辛い。絶対変な人って思われた。死にたい。
ってことでした。まとめるつもりなかった。
とりあえず生きるよ
互いに気にしていることが折り合わない場合であっても、少なくとも片方の人間が、最低限でいいから相手が気にしているものに寄り添わないと、平穏な関係は続かない。
もしお互いが相手に全く寄り添わなければ、関係は悪化する一方になる。
よく言われる
「人に敬意を示すときは、あなたがそうしたいと思うやり方ではなく、その人がそうされたいと思うやり方ですべき」
というアドバイスは、そういうことの言い換えにすぎない。
さて、そんなごく基本的なことに、40にもなってようやく気付いた、救えない男がいる。
自分のことだ。
先日、今までの仕事を棚卸ししたとき、失敗した現場は全て「お互い気にするものが全く折り合わなかった」現場であり、上手く行った現場は全て「たまたま、お互い気にするものがほぼ一致ないし似通っていた」現場と、ハッキリ明暗が分かれていたことに気付き、ようやく思い至った。
つまりそれは、ごく最近まで「相手の気にしているものは何か?」を全く意識していない人生を送ってきたということである。
我ながら恐るべき独り善がりっぷりである。
思えば物心ついた頃から、普通の人が感じ取っているような「他人の存在感」が皆無だった気がする。
「他の人が何を感じているのか」に全く興味が無かったと言い換えてもいい。
というか多くの読者諸兄が仰天する書き方をするなら、人間の95%以上が多かれ少なかれ感じているであろう、「疲れるので気にしたくないときもあるけど、それでも気にせずにいられない、他人の反応」が、自分に限っては本当に全然気にならなかったのだ。
人間誰しも欠点はあるだろうが、こういうのはもはや人として超致命的な欠陥ではないかと思わされる。
だって、純粋に「俺が、俺が」しか頭にない人間とか、周囲からしたら相当不気味だろうし。
実際、学生時代は全然普通にしているつもりなのに「クラスに必ず一人はいる変人」というポジションに甘んじ、非常に不本意だったが、それも今なら理解できる。
そして今は立派なコミュ障だが、他人に興味のない人間が相手の反応の感じ取り方など体得できるわけがないので、必然の結果である。
即ち、「俺は本当に他人に興味がない、ヤバい」と今更感じたからって、それだけでコミュニケーションが大きく改善するわけではないということでもある。
自己中な人間には「他人の反応を感じ取れるけど、敢えて一顧だにしない選択をした」者と、自分のように「ナチュラルに他人に興味がなく、結果他人の反応を感じ取れず自己中になってしまう」者がいると思うが、両者を比べたら、多分後者の方がタチが悪いだろう。
しかし、日本人男性の平均寿命に照らし合わせたら、自分はもはや折り返し地点を過ぎて復路に差し掛かっているタイミングだが、一体これからどうしたものか。
このままでは、今までがそうだったように、今後も新たに人間関係を構築する必要が出てくるたび「うまくいくかは運次第」という、呆れるほど低レベルな話が続くことになってしまう。
仕事だったら、それ一つ取ってみても「いい歳こいて半人前」という評価に甘んじることになる。
自分に関わった他人が、もし自分みたいなヤツとトラブルになったらいい迷惑だし、本当に申し訳ない話だ。
というか、自分はそんな風に、周囲に不快と迷惑を撒き散らすために生まれてきたわけじゃないのだが・・・と深い溜息が出る。
誰にも迷惑を掛けないで生きる人間など存在しないが、だからと言って自分が周囲に掛ける迷惑の免罪符にはならないだろうし。
そんなことを考えた、不惑の秋だった。
退職して半年ちかくたったのだけと、新しい環境にようやく落ち着いてきたので思い出しながら書いていく(需要があるかわからないが)
私は某大手のテレビ通販専務チャンネルに勤めていた(以後Qとする)
そこで上司だった人が数年前に取締役待遇で引き抜かれ、以前から私も誘われていた
その会社もテレビ通販、しかし紹介するのがジュエリーのみという変わった会社(以後Gとする)
Qでもジュエリー部門の管理をやっていた私。誘われた条件は課長待遇。その他の条件もいい。なによりQでのマンネリ化していた業務に飽きていた私には元上司からの「Gは常に変化していて飽きないぞ」という言葉がとても魅力的だった
しかし結果は散々
Gはとにかくヤバイ。
結局、半年もしないうちに辞めることになった
Gに転職したあと、私は誘ってくれた元上司の直属として商品管理、品質管理の業務改善を取り仕切る予定だった
しかし、いざ転職してみると元上司は異動させられていた。肩書きは取締役のままだが違う部署の管轄をしていた
Gでは通販会社ではあるまじき商品不備や発送遅延が常態化していた
商品不備は工場が原因。しかし工場は専務の管轄。表沙汰にすると専務からの「余計なことをしゅるな!」とのトンデモ発言
しかし社長へは「私君にしかりやらせてますからぁ」と報告。辛でくれ
お前が工場の地金をちょろまかしているのは知っている。
上場を目指しているらしいが無理だろう
常に棚卸しが合わない
以前は3000万円近く合わないことがあったらしい。
社長の言う事もその時の気分ですぐ変わる
単なる宝石屋のジジイがテレビの事に口出しするもんじゃないんだが、誰も止められない
「これすぐにやって!!」と言われやったはいいが、数ヶ月後に「なんでこんなことやってるの?!!」というのは日常茶飯事
とにかくこの会社はヤバかった
辞めてよかったと本当に思っている
おけおめ!
今年はじめての増田だよ!
みんな今年の目標は立てた?
いつでも目標達成出来てしまう人には全く役にたたない内容だよ!
どうしても途中でくじてけしまう人にはもしかしたら役に立つかと思ってまとめてみたよ!
お役に立てれば何よりだよ!!
・週三回のウォーキング
・性格マネジメント(アンガーマネジメント、傾聴、ポジティブシンキング)
・習慣化
コツは簡単。たったのこれだけ。
だけど目標達成できない人のほとんどはこれができてないというのが事実。
目標達成を阻む最大の原因を考えてみよう。
自分の弱さ、周囲の誘惑、目的意識の喪失、、、こんなところだろうか。
ただ、これらに共通して言えることが一つある。
それは「現在の習慣」だ
今の自分というのは、今の自分を取り巻く「現在の習慣」で構成されている。
例えば朝起きてから夜眠るまで、真剣に選択していることっていくつくらいあるだろう。
もしそれが数えるほどしかないとしたら、残りの行動は全てが習慣だと言っていい。
自分というのは、数々の習慣によって成り立っている。
言い換えれば、多くの習慣に支配されている状況とも言える。
もし新しいことを始めたいのであれば、この「現在の習慣」という支配から抜けださなくてはいけないんだ。
とくに現代の人は、手のひらにスマートフォンを握りこんでいることでかなり多くのタスクを抱えている状況と言える。
分刻みで通知を上げてくるアプリ。
欲求は解決しないとストレスになり得るために、どうしても欲求を伴わない習慣よりもプライオリティが上がってしまう。
その中に新しい習慣を取り込むということはとてもハードルが高い。
だからこそ大切なことは、ステップを細分化するということなんだ。
想像してみて欲しい。
今自分の生活の中で、30分というまとまった時間を何かのために使うことができるだろうか。
もしそれができる人にはこの話はあまり意味がないかもしれない。
しかし、先ほど書いたとおり、様々な習慣に取り囲まれている人なら30分は愚か5分ですら難しいって人がほとんどじゃないだろうか。
だから提案したいのは3分トレーニングだ。なんだったら1分でも30秒でもいい。
達成したい目標を思い描いたら、そのために必要なトレーニングをこの時間単位に細分化することから始めるんだ。
当然トレーニングの時間を小さくすれば、達成までの期間は長くなる。
もし、達成までに期限が必要な目標だったならば、当然逆算してトレーニングの時間を増やさないといけない。
でも思い返して欲しい。
3年前に立てた目標は達成できただろうか。
もし、それが今達成できてたとしたら、それは喜ばしいことなんじゃないだろうか。
三日坊主とはよく言ったものだけど、個人的な経験則からいうと大切なのは7日間だ。
7日続けると、8日目にはそれをしないとなんとなく気持ち悪くなるように感じることを経験で学んだ。
つまり、人間が習慣化するにはどうやら1週間程度の継続が必要だということがわかった。
だからまず3分でも1分でも30秒でも、とにかく1週間続けることが大切だ。
そのトレーニング自体にどれだけの意味があるかなんて考えるだけ無駄だ。
逆を返すと、3日もすると習慣は忘れられていくものでもある。
例えばこのお正月が終わって会社や学校に行こうとしたとき、洗顔、歯磨き、食事、着替えの順番に少し戸惑ったはずだ。
それこそが習慣が失われ始めている証拠といえる。
つまりは、習慣は環境によってコントロールすることができるという証拠なのだ。
習慣化していくと、習慣を消化したこと自体に安堵感や達成感が生まれ始めてくる。
そうなればしめたものだ。
そうすれば一日に30分というまとまった時間を作れなくとも、3分×10回程度のことであれば簡単にできるようになる。
現代人のいう時間のなさというのは、「まとまった時間」がないだけなのだ。
隙間を狙って沢山挟み込めば良いのだ。
最後に、そうしたトレーニングを効果的に挟みこむ方法を一つ伝授する。
ところが、仕事が変わってからというもの今は年に1冊も読んでいない。
読書が好きだったはずなのにどうしてだろうと考えてみたが、その一番の原因は、通勤が無くなったことだとわかった。
そうした制限される中で自分なりにもっとも楽しめるものが読書だったのだ。
ところが通勤が無くなったことで不自由な時間は無くなってしまった。
その分家にいる時間が増えたのだが、家の中は自由すぎて読書という選択肢のプライオリティはとても低くなってしまったのだ。
とくに最近ではスマホが様々な不自由な環境を乗り越えてくるのでやっかいだ。(防水機能、地下鉄内アンテナ、電池持ち改善、オフライン機能など)
例えばトイレ内はスマホの持ち込みを禁止するなど、自らを不自由な環境に持っていくことで目標達成に必要なトレーニングをより身近にすることができる。
もしなかなかトレーニングのプライオリティが上がらない場合は、自らが不自由な環境にトレーニングを持ち込んでみてはどうだろうか。
だから目標達成にはその時間スケールにあわせたトレーニングが必要なんだ。
そして、人間は習慣で生きているということを忘れてはいけない。
あたらしい習慣を身につけるには、古い習慣を棚卸ししなくてはならないんだ。
だけど習慣は身に付けることができれば長く続けることができる。
大切なことは、続けてさえいればいつかは達成できるということだ。
目標に合わせて環境をデザインすること。それこそがこの内容通して言いたいことであり、なりたい自分になるための最短ルートなのだ。
だから今年も増田を書くよ。それが自分の財産になるって知っているからね!
今年もよろしくっ!
彼女は20代だと思う。俺は43だ。そして彼女は結構、斜視だ。
よく通っているスーパーでただの客とレジの関係だ。何回か彼女が棚卸ししているのを見たことがあるが、割りと肉感的ななボデイをしているなっていうのだけ頭にはいっていた。
1ヶ月ほど前の話なのだが、彼女のレジで俺より何人か前の客が外国人で言葉がわからないようだった。彼はレジ袋が欲しいと言っているのを自分は彼の言葉が分かったので、気づいてしまったのだが、それでレジをちょっと塞いでしまっていた。
さすがにちょっとキューも長くなっていたので、彼女に「多分、レジ袋ほしいっていってるよ」って言ったら、彼女もハッとして、その後はいつもの対応に戻った。
といっても雑談だ。彼女は相変わらず斜視で肉感的だがそれ以上でもそれ以下でもない。ましてや彼女は若く、俺はオールドタイプの人間だ。服装に気を使い、白髪はビゲンで染めている
それぐらいが出来る限界のオシャレだ。
昨日のことだ。
いつものように軽く挨拶した後、俺は彼女を映画に誘った。それは、息を吐くように自然に出た言葉だった。緊張もなく、挨拶と同時に自然に出てきた。
そして彼女も気軽にOkをくれた。
今、緊張でガチガチに震えている。何を話せばいいのか。何を着ればいいのか。
どうしていいかもう分からない。
RSSフィードにちょうど1年前にぶくましたネタが降りてくるんですよ。
ちゃんと「ぶくま卸し」ってカテゴリに登録してるんだけど、全フィードごっちゃで見てるとたった今の話題と勘違いしたりしてね、あれーこの話題前に見たことあるなーとかね。面白い記事が来たんで最後までじっくり読んでいざぶくましようと思ったらとっくにされてたりとかして楽しかったのですよ。
あと、当時は勢いでぶくました記事を解除したりもしてました。ほんと、便利だったのに残念です。
9月末をもって終了した「Yahoo! Pipes」って、あちこちで使われているWikiみたいにすでにPipesという技術があってそれのYahoo版クローンと思い込んでいたので、代替サイト探せばあるだろうと思ってたんだけど、いざ探してみたらこれが無くて困りました。同じ機能を自分で開発出来る能力ないし。
もう何年も、日々自分がつけたぶくまを省みるという事をして来たので、これから先はぶくましっぱなしかと思うとただただ埋もれていくぶくまを思って何だか寂しい様な気分になる秋なのでした。
と思ったら 2014/10/01 のぶくまがRSSに降りてきてました。
時差かな?
6月時点で金融資産を棚卸したら7,050万円だったのが、7月末に棚卸したら7,200万円になっていた。
こんな調子で無意味に貯まっていくのだが、読者の中から『資産運用しないなんて情弱』とのツッコミを受けている。
申し訳ないが、平日は仕事で忙しいし、土日は『子供を習い事に連れていく』とか『子供を地元のイベントに連れていく』とか『子供のくもんの相手をする』とか、
いろんな子供関係の行事に忙殺されて、銀行がやってるような『土曜日資産相談会』なんかに、行く余裕ないから。
ああいう土曜日資産相談会って、前提は『子育てに忙殺されていない50代』とかがメーンターゲットなんだろうか。
逆に言えば、『子育てに忙殺されている層が、資産7,000万円も持っている訳がない』ということで、この層は無視されているのだろうか?
棚卸しが必要。着なくなった服やもう自分には必要ない本を捨てるのと同じように、もう選べない選択肢や現実的でない空想を取り払う作業のことだ。
ぱっと思いついて少しずつ実行しつつあるもの:
思えば学生時代、生まれた時から人生に選択肢のない友人が何人かいたが、彼/彼女らは若いうちから、それこそ中学生や高校生の時には覚悟を決めていたのだろうと思う。
三十路を過ぎてから焦ってお見合いパーティや出会い系SNSで恋活・婚活をしている。
お見合いパーティは一度に10~20人前後、SNSは登録者数百人~数千人以上と、確かに知り合いになり得る機会は転がっている。
しかし、かわいい上に教養レベルと趣味が合う子となると、なかなか見つからない。
年齢が行き過ぎていたり、見た目が恋愛対象にならない子を外していく。
若くてかわいくても、高卒無職なんて子もいて戸惑ったり、趣味に「ヨガ・カフェ巡り」とある子はいったい何を話していいのか分からない。
そんな自己選考をくぐり抜けた子が見つかったとしても、大抵ライバルの男が多く、激戦のためマッチングしない。
自分の今あるステータスを棚卸しして人気の子に必死にアピールするもなかなか振り向いてもらえず、空しさばかりが増長していく。
「お見合いパーティや出会い系SNSは出会いの効率がいい」なんてことを聞いたが、やっていくうちに本当に効率がいいのか疑問に思えてきたとき、
http://anond.hatelabo.jp/20140720013419
という記事を思い出した。
同じ大学という時点で教養レベルフィルターをくぐり抜け、さらに同じサークルとなると、同じ趣味条件で検索に引っかかってきたのに等しい。
同じサークルの人はどうも馬が合うと思っていたが、世の中いろんな人がいると思い知らされた今、よく考えてみれば当たり前のことで、恵まれた環境だった。
婚活市場でこういった子を見つけるのすら大変なのに、自動的に希望条件をくぐり抜けたたくさんの若い子が毎年入学してくる訳だ。
いったい当時の俺は何をやっていたのか。タイムマシンがあったらしかりつけたい。
一方、サークル内恋愛を行うにおいては、「活動との折り合い」や「サークル内の目」と戦う必要があり、独特な別の難しさがあるだろう。
当時の私もその葛藤に悩んでいたが、サークル内で次々とカップルが誕生し、いいなと思った子も他の男に取られていく中、
嫉妬もしていたのか、最終的に「俺はここにサークル活動をしに来ている訳であって、恋愛をしに来ている訳ではない(キリッ!)」と硬派を貫き通すことにし、
どんな醜男でも彼女ができているという異常な状態だったそのサークルから、最後まで彼女を作らずに卒業した。何人か、自分のことを好きだったっぽい後輩もスルーしてしまった。
数年後、そのうちのいくつかのカップルは既に結婚し、子どもも生まれ、幸せな家庭を築いている。
一方の俺は、状況に絶望を覚えながら帰宅後や休日にパーティスケジュールや女性プロフィールの検索に余念がない。
「活動」や「サークル内の目」は4年で終わる。気を遣うのが間違いだった。サークル内で生まれた愛のいくつかは、これからも一生続くのだろう。
お見合いパーティや出会い系SNSを利用して、さらに気づいたことがある。
たまたまいい人が見つかってマッチングしたとしても、そこからこまめに連絡を取って仲良くなっていくというのも大変な労力で、至難の業だということだ。
所詮は赤の他人同士に過ぎず弱い結びつきのため、気を抜くとあっという間に疎遠となってしまう。
反面、「同級生」「同じ学校」「同じサークル」という動かせない事実の、なんという結びつきの強さか。
何年も会わなくても、会ったときにはブランクを感じさせないほどすぐ意気投合し、盛り上がる。
婚活サービス利用疲れをしていたある日、街中のとある場所で働いているサークルの後輩と偶然再会した。
相手も自分のことを覚えてくれていた。仕事中だったため、卒業後何をしていたのだろうとあれやこれや話したいことをいったん飲み込み、すぐ別れた。
ガソリンスタンドは簡単に持ち逃げ出来ないシステムが簡単に作れるから。
スーパーなんかだと、持ち逃げの可能性は結構大きいけど、一部であれば監視をきちんとしておけば減る。
日本でそういうとこを見たことないけど(あるみたいだけど)海外だとバーコードに重さ情報も入っててかごに移動するのに
正しく通してるかどうか見てたりするね。
どこでも体外人は近くに待機してるけど。
スーパーで大量にレジがあるようなところだと、レジ専用、みたいになってくる人が出てくるから、
ガジェット好きな人が買って、すぐ飽きてオクに流しているのかなぁ?
だけど、短期解約繰り返すとブラックリスト入りして買えなくなるんじゃないの?
この人、いくつも『綺麗な携帯』を出品してる。業者?
同じような『個人』が何人もいて、大量の『綺麗な携帯』を出品している。
オクで端末買うだけならセフセフだよね? 恐る恐る某最新機種を落札。
入金後数時間で発送、翌日着。やっぱなんか変だ。
液晶にはフィルム(ロゴが印刷されていて付けたままじゃ使えない)が貼られたまま。
付属品は全部ある。説明書の入ったチャチなセロハンの袋まである。
糊で閉じるタイプの袋じゃなくて、熱で封をする方式の袋だから、本当に一度も使われていない。
唯一使った形跡が見られたのは電池残量。
95%充電されてた。
普通、工場から出荷されるときは3〜6割程度充電されてるよね。
でも個人が「ひと通り使ったけど状態は綺麗だよ」と、真偽の疑わしいエクスキューズをした上で、新品同然の商品を売ってる。
私、頭すごく悪いけど、棚卸しっていう言葉と、その意味・目的くらいは知ってる。
最近楽しんでいることの話をすれば否定され、大変だったことの話をすれば愚痴言うなと一喝された。
私の行動を終始観察していて、何かと粗さがし。したり顔で注意ばかりしてきた。
一緒にいて全然楽しくなかった。
よほど途中で放り出して帰ろうかと思ったくらい。
思い返せば、顔を会わせた時に「久しぶり、会えてうれしい」って声かけたのもスルーされてた。orz
他の友達とだったら「元気にしてた?変わってないね」とか返ってきて、そこは少し盛り上がるところ。
遠方から来るというから、色々と手配して楽しみに待っていたので余計にがっかりした。
無料の観光ガイドとしての役割しか求められていなかったんだなとよく分かったので、もう金輪際関わらない。
利害関係の無い相手で、親切にされることにこんなにあぐらをかく人は初めてだった。
いざというときの自分の誠実さや慎重さが当てになりません。だから、ここぞというときや心が浮ついて動揺したとき、潜在意識に自分の身を守ってもらう為に、私は車のいない赤信号でも止まって待つよう心がけています。
きっとさんざん議論され尽くしているだろう。いろいろな考え方を目にしたり耳にしてきた。それでも未だにつらつら考える。何も考えていなかった頃、信号が赤なら渡ってはいけないと無条件で従ってた。自分の周りもそうだと認識してた。みんな信号を守っている世界が自分の見ている世界だった。思春期、ちょっと大人びた同級生がいた。車が来ないと分かっているのに待っているのは頭を使っていない証拠だよねと貶された。その瞬間から自分は車が来ない赤信号の意義を絶えず意識してしまうようになった。馬鹿にされたことがきっかけだったから、自分は意地になって渡らない理由を探し求めた。見つけた答えは「人間の脳は誤作動する。赤信号で車が向かってきても渡ってしまうような過ちを犯す。だからフールセーフティーのために渡らない習慣を普段から養う」だった。時が過ぎ、海を渡り、時代が環境が変わった。気付けば、今度は信号が赤でも渡れるなら渡ってしまう人ばかりが周りにいた。そしてまた考える。みんなが渡っている中で、自分だけ渡らないでいるのはなぜだ?集団心理として、周りの行動に揃えて動こうとする自分がいた。みんなが渡っているから自分も渡ってしまっていいんじゃないか。渡らないと外国では信号が赤でも安全確認できたら渡ってしまうよと、なぜ日本人は馬鹿みたいに立ちすくんでいるの。そんな意見もよく目にしてきた。でも誰かがやっているからやっていいなんていう理屈では、集団心理で動くメンタリティそのものだ。
映画「サトラレ」の主人公は、天才的な手術スキルを通して患者を直接救う道と、その人並みはずれた知能でもってより多くの未来の患者を救う研究の道と、進むべき道、進みたい方向で葛藤するけれども、仮に手術の道で数千人救えたとしても、研究の道でもし数万人の人を救えたのだとしたら、そしてそれが約束されたものだったなら、彼は救える人を救わなかった人殺しなのだろうか。何も知らずに決断したときには罪の意識はないけれど、全てを想定した上でなお万の命を諦めて、数千の命を助けようと決断したのならば、それは罪ではないのだろうか。許されるかどうかは別として。
そのような決断は誰もがしているはずで、自分の力をどこに注ぐか、その決断如何で未来が大きく分かれることを予想した上で影響の小さい方を選ぶのは正しいのかどうか。
「怒りを覚える」だけがupsetの意味じゃなく、「動揺する」リアクションのほぼ全般を指している単語だと理解したとき、とても腑に落ちた。動揺して泣き出す人もいれば、あまりのことに笑い出す人もあったりして、そのへん喜怒哀楽の感情と心が動揺することの間には線が引かれてる、つまり別ものとして認知されるべき。
人の個性なんて、1) 五感から取り込む情報への感度と2) それに対する心の処理と情動、3) そしてそれをどう発散するか、おおざっぱに三つ区切っただけでも無限のパターンができあがってしまう。
ところが、他人の個性を認識するには、その人が受け止め抱いた感情をどのように表現したかでしか認知出来ない。しかも、互いに相手の個性もまた一つの情報として自分は受け止めるわけだし、それをもって己の感情表現が現れるのだから、もうこの世の中、お互いの認知の順序はすごく入り組んでぐるぐるしてる。
例えば、脱いだ靴を思い出させる不快な臭いを嗅ぎ取ったとして、で臭いの元をたどったらそれが納豆だったとして、そこで許せる人と、許せない人といる。本能的に正常でない音を耳で受け取って、避けるべき事態が起こっていると認知すると、それに応じて臨戦態勢なり避難態勢に入るべく感情のモードが変わる。その後で音源が赤ちゃんの泣き声だと分かって許せる場合と、そうでないケースが人それぞれにある。一方で、無意識でも意識的にでも五感から伝わってくる情報というのは、赤ちゃんが鳴き出す前からたくさんあって、これもまた人それぞれ取捨選択して自分の感情や態度、心構えを状況に合わせて整えている。赤ちゃんの存在を認知して、飛行機内の気圧の変化やノイズ、温度や湿度、明るさや周囲の人との距離感など、さまざまな情報から、事前に赤ちゃんが泣くことを想定できている場合とそうでない場合がある。それが想定出来ていたとして、いざ赤ちゃんが鳴き出しても動揺しないでいられる体調、分かっていても我慢ならないコンディション、はたまた予想の段階から動揺してしまい、いざそうなったら腹が立ってしまうなんていうメンタリティもありうる。
マジョリティー・マイノリティーなんていうのは、あくまで一つの側面で多数派少数派となるだけで、ちゃんと全員が自分の認知模様を理解して分類し始めたときに、初めて、どちらが当たり前かなんて話題そのものの無慈悲な単純さが見えてくる。分類しちゃえばみんな孤独なんだって受け容れられて、ようやく多様性への理解が始まる。多様性への寛容さとどちらが多数派なのかという数の工作とマイノリティの保護と、いろんなこと分別なしにごっちゃにしたまま、正しさなんて主張出来っこないし、ましてやルールなんて出来上がる訳が無い。
もし、今の記憶や能力のまま10年前に戻ってやりなおせたらなあと思っているなら、今の自分は、10年前には持っていなかったやる気や能力を手に入れているか、今やっていることに意義を見いだしているか、もっといいやり方を知っているということ。ちっとは信じなくちゃな、自分の成長を。
勝つため(一番になるため)には、既存の枠に収まらない力が必要。それを勝つ力にするために二つのやり方がある。枠に収まらないアイディアを枠に収めて、ルールに則って勝つ方法と、枠に収まらない新しい発想で勝てる競技を生み出して世界に広める方法があるのではないか。
何をしているのか謎でふわふわした存在だけど、何となく社会にとけ込んでいる。そういうポジションで生きていける世の中であるというゆとりの証として存在している。そのような人がそこかしこにいて目に留まると、なんとなく誰もがその社会に安心し、ほっと息をつける。自分の所属する社会が「何をしているかいまいちはっきりしないけれど欠かせない人」を支えていけるゆとりある世の中であるために頑張れるなら、優しい空気が循環する世界になりそうだ。