はてなキーワード: 実写化とは
これ「https://note.mu/amakara_no_tare/n/na4eb53fb6768」を受けて書きたいと思ったこと記事。
自分は今回に関してはテレビ局に慎重に取り扱ってほしい旨をメールで送った、ドラマ実写化に関してのみ規制賛成派。
該当作品はツイッター投稿をリアルタイムで見てて、その後ピクシブのぶんだけ読んだ。
ここまで前提。
■幸色のワンルームは少女にとって魅力的なのは「性」の扱い方にもあるんじゃないか
■クロスメディア展開がへたくそなのと制作側が色々甘く見てそうで怖い
■実写ドラマ反対したい理由は色々だけど、私個人に関しては”自分のため”だったと思う
の3本です。長い。一番最後に3行でまとめたから忙しい人はそれ読んでくれたら嬉しい。
幸色のワンルームは単なる誘拐の話ではなく、ただの男女の逃避行でもなく、
・理不尽にただ蹲って耐えるしかなかった少女が守るべきもの(=居たいと思える居場所、人)をはじめて得て戦うことで少女から大人へと羽化する話であり、
・リアルの男女の性に絶望した読者に対して「男と女ではなく、大人と子供でもなく、ひとりとひとりの人間として関係性を結ぶ」という夢を与える物語。
と捉えることができる。できるんですよ。傍から見たら犯罪だけど。
(問題は誘拐ストーカー設定なくてもこれを描けたことだけど、その設定のおかげで(いろんな意味で)バズってるから うん…)
「男とか女とか性とか支配被支配とかラベルだけの話ではなく、ぜんぶひっくるめて、私という人間とあなたという人間の話であり、救いの話」というふうに見たとき、
正直、読み口としては2000年代の商業BLやブロマンスに近いなと私は思った。
実際幸色のワンルームの幸とお兄さんの関係は決して恋愛感情だけにはとどまらないという風に描かれています。
加害者と被害者であり、無自覚的な搾取する側とされる側であり、姫と従僕であり、ナウシカと王蟲の幼生であり、友情であり、慈愛や同情であり、恋愛感情もうっすらあり、依存であり、共闘関係であり、勘違いであり、共犯者であり、そして全てを肯定し合う関係である。
だから人気が出た。
恋も愛もべたべたラベルが付いてひと山いくらで売られていることを、十代の少女たちはとっくに気づいている。そんなふうに安っぽくない、けれど十代少女たちに門戸を開いているフィクション作品をもとめている。それがどれだけ過去の文学や映画や漫画でありふれてやりつくされてきたものだとしても、「いま」「ここ」で「私たちに対して」向けられている作品に惹かれて何がおかしいのだ。
またこれは重大なポイントだが、お兄さんは性のにおいがしない。
デフォルメされた世界で成人男性の記号をほとんど持たない、いってしまえば無性の存在。メンタル的にもそう。
その上、精神年齢は少女とほぼ変わらないため、罪の意識を持った姿は読者にはどこか可哀想にうつる。過去の傷があるらしく年下の幸が守らねばと思うほどいたいけでたよりない。幸に都合の悪いこともしない。
けど、男。
「そんなやついねえよ」だ。だからこれはファンタジーだし理想たりえる。リアルと切り離せる免罪符でもある。
ひと山いくらのラノベに出てくる都合のよいヒロインから性の匂いをひっぺがしたようなものだ。少女にとって男の性は不要なもの、というか幼いころから自分を脅かしてきたものでしかないから、無い方がいい。幸の安心できる居住空間を提供する為にも。
だから、ストーカー、誘拐犯の男、というショッキングでスキャンダラスな設定はあるものの、それは今やおにいさんと幸が法を犯したことをしても問題ないというハードル下げのための設定になり下がっており、基本「ある日突然(可愛くて自分が居ないと生きていけない(A))女の子が空から降ってきた」と同義なのだ。ぺらっぺらだが、それこそが求められている。「怖くないから」だ。
(A)には「やんごとない身分の」「血のつながらない妹/姉である」とか、あと「大量殺戮生体兵器の」とか「妖怪の」とか「暗殺者の」とか「殺人鬼の」とか「サイコパスの」とか入ったりする。よくあるやろ。そういうのを①男女逆にして②リアル現代の③クライムフィクションにチューニングすると
ついこないだあった事件にそっくりで笑えなくなる、みたいなの超あるあるなんすわ…
とはいえフィクションだし少女漫画だし、問題ねーじゃんと思うだろ?私も思う。お兄さんは捕まるか虐待親に突撃して共倒れして死んで美しい思い出になって欲しいけど(どうせやるなら徹底的に幸に都合よく退場して欲しい)。
ツイッターへの最初の投稿とか現実の事件に対してタイミングが最悪すぎる件に関してわざとかどうかはもう「関係ありません」で貫き通すだろうし実際分かんねえからいいわ…。マジでインスピレーションさえ受けてないとしてももう運が悪かったと思ってほしい。というか当時あれだけのトップニュースすらチェックしてなかったなら作者はうかつだし、チェックしてても特に何も考えず出したならそれはそれで大変アレなのでそれは怒られても仕方ないんじゃねーかと思う。
特に問題に思うのは、クロスメディアするとしたら慎重にやるべき題材だったということだ。
「先生!」「PとJK」の実写化の時も同じこと思ったけど(あれも「少女漫画なら素敵だがリアルに考えるとわりとやばい」案件)今回は格が違う。なんせ誘拐犯でストーカーだ。どれだけ気を使っても使いすぎるということは無いだろうに…と思う。
後ろめたさも、退廃的なことも、この作品の魅力と分かちがたく結びついている。伝え方を一つ間違えたら倫理観を疑われる作品なのは変わらないのだ。
このへんは制作側の、なかでもプロモーションの腕が必要な作品だろうなと思う。
たとえば、この作品がギリギリまで性のにおいを消臭できているのは、絵柄の影響が大きい。デフォルメが強く、リアルさは無いティーン向けの絵。虐めのシーンにも性的なものは見受けられず変態教師とのバトルでさえ匂わせる程度だ。
性も犯罪も、それが主題ではないのだと、なによりも絵が主張している。
また、この作品は家族で見てやいやい言いながら見るより、一人で集中して見たいものじゃないだろうか?ターゲットは現在テレビを良く見る層と被っているか?いないんじゃないか?ティーンの原作ファンがこの作品を見て語り合うなら、家族よりも、同性で趣味の合う友達とではないか?
だから、メディア展開を思い切り間違えてる気がしてならないのだ。
テレビでやるならアニメ作品にすべきだったと思う。その人気に火を付けた一端でもあるキャッチーな絵柄を生かし、フィクションであることを最大限利用すればよかった。あくまでこれは夢物語で、リアルとは違うのだとアピールすればよかった。それでも非難は受けただろうが実写化よりはましだったはずだ。「誤解されやすいけど本来こういう話ですよ」と12話でも24話でもかけてやればよかった。
実写化したいなら、この退廃的な作品は映画の方が合うだろうと思った。それに映画館でしか見れない、というフィルタリングは大きい。実写化することでどうしても露悪的に、生々しい匂いになる画面をテレビから無作為にまき散らすのではなく、納得して料金を払い席に着いた観客にだけ誠心誠意向き合う形をとれば良かった。観客を巻き込んで二人の世界に浸れる場所を作ればよかった。
広告展開で規制派の火に油を注ぐ可能性は大いにあっただろうが、中止よりはマシな結果になったんじゃないか。
なんで再現が難しい絵柄を実写で、なんでナイーブかつ視聴者を選ぶであろう題材を全国放送の誰でも見れる割にメインターゲットを逃しまくるであろうテレビで、やろうとしたのだろう。やはりコストの問題だろうか。
いや本が売れたらいいなと思ってたんだろうけど炎上商法やった割にリターンがアレ過ぎない?そうでもない?わからんけど
正直、ドラマ制作側も作者の方も編集部も、「現実にある犯罪を扱った現代劇である」という認識が甘すぎたのではないかと思う。
それも、未成年の被害者がいる事件を、「犯罪としてではなく救済として描く」というひねりを売りにした作品でだ。
「カリオストロの城」でも撮っている感覚だったのかもしれない。モニタの解像度低いわ。
もしくは、とてもリアルだと思ったから実写にしよう!と思ったのかもしれない。
そのリアルさは虚構で夢でしかなく、それでいてとてもありふれた現実だ。
だって、実際の誘拐や幼児への事案はひっきりなしに起こっていて(マジでひっきりなしに起こっている)。
ストーカーや誘拐犯の脳内で、自分は被害者と愛し合っていたという美しい物語が展開されているのは決して珍しくないのだから。
その恐ろしさを無視して、リアルに寄せる実写化をするのは賛成できなかった。
苦言を呈す派に対して作者からのコメントは「実際の事件とは切り離してみてください」これだけだ。たったこの一言で全て免罪されるなら表現の自由とはなんとも気楽で無責任なものではないですか。いや作品内で色々ファンタジー要素盛って免罪符切ってるしあれこれ言及するより作品に集中するのは良い手だと思うけど無責任だとは思うぞ。
だって「世の中いろんな人もいる」と、これが現実でもありえるかもね、とでも捉えられるコメントを付けて世に送り出したのは、他ならぬ作者自身なのだ。
ドラマにしても、女優に「実際にこういうこともあるかもと思う」というコメントを、編集もせず流してしまった。(これで規制派の使命感に火を付けたようなものだと思っている)。制作側止めろよ…
現代のクライムフィクション作品でこのコメントが出るときは「だから怖いなって思いました」くらいのことが続くはずが、「実際あったら素敵」と続いてしまうような。
作品そのものというよりもその周りの倫理観がガバガバなのだ。現実がガバガバ。
そうでなくても今現在、長年沈黙されてきたハリウッドやら世界的に女優の性的搾取の告発が起きてて転換期で、それでも搾取する側の擁護をやめない(「いや、でも女性側も望んでたんじゃないか」みたいなのワイドショーで沢山見ましたね!)、日本のテレビ業界をつい最近私たちは見せつけられているのだ。そもそもの信頼感が地に落ちている時に「地獄の真ん中で搾取されてるけど女の子はハッピーです」みたいな作品作ってもそりゃ倫理観が疑われるだろという話だ。
お兄さんと幸の間にある感情はとても純粋なもののように描かれる。
それは憂いを帯びて美しい。破滅に向かっているからだ。地獄の上にある安息だからだ。あかるい太陽ではなく、暗闇の中の星。
薄汚く、ふたりを虐めるものばかりの世界でここだけは綺麗であるように感じる。実際そうだからなのだろう。未来なんて考えたくもないし過去の事は忘れたい。いまここにある、おにいさんと幸のあいだにある、形容しがたいなにか、それだけが全ての世界でいたい。
この作品のメディア展開が一つ潰れることで、悲しく思うファンもいるだろうなと思う。恨まれるだろうなとも。
つーか私も十代の時に、リアルで起きた殺人事件(娘が父を鎌かなんかで…)をうけて「ひぐらしのなく頃に」のメインキャラが義父を鉈で殺す回の放送が見送られた時「いやリアルとの区別くらいついてますけども~~~~~????」って怒ってたよ。
でも今(アラサーだよ)、もし「新幹線で鉈をふるう殺人事件が起きたけど、犯人は実は悪い人ではなかった」みたいなフィクション作品がテレビで予定されてるとしたら…今の私は、「それは見送った方が良いのではないか」と思う。
大人になるにつれて、想像力は広がりだけではなくリアルさを増していった。経験と知識が増えたからだ。
「これのせいでちいさい子供や、少年少女が酷い目にあうかもしれない」と思うと、耐えられなくなってくる。大人になれば強くなると思っていたのに、陰惨なフィクションも年々見れなくなっている。それは、年を重ねた分現実に起きる陰惨な事件を、それに対する酷い言説を、これまで見過ぎて、現実を見過ぎて、どうしても思い出すから、なんだか嫌になっちゃうからだと思う。大人になるにつれて、後から生まれてくる子たちが傷つかない世界になればいいと、祈るようになってきたからだと思う。
フィクションなのに、現実で被害に遭って泣いていた子や、かつて嫌な思いをしたときの自分を、思い出す。被害者の絞り出す様な言葉や、それに向けられた酷い言葉の数々を、理不尽を、やたらと思い出して、想像してしまって、苦しいときがある。
子供の時はフィクション作品やメディアの力を舐めてたし、大人になればもっと区別がつくようになる、
なんならフィクションを見てリアルを思い出すなんてオタク失格だとすら思っていた。
でもそうじゃなかった。
倫理観スイッチ切って倫理観ゼロの作品を楽しむには、TPOがある程度大事だと知った。自分の家族を亡くした直後に、家族を殺す話を楽しく読めないように。
倫理観ゼロの作品は、倫理観ゼロの現実世界では楽しめないと分かった。楽しめるならそれは娯楽である以上に、麻酔や薬であり、治療なのかもしれないと思った。生きるための救済。
作品の影響力を舐めたらダメだと思った。面倒なオタクである自分は偶像やフィクションに命を救われてなんとか生きてきた。
ならば人の命を奪う作品が無いなどとどうして言えるのか。
だから今回の幸色のワンルームへの規制は、わたしは(あくまで私はな)、
これを見た「大人」がリアルに起きた事件や今までの経験のフラッシュバックに耐えきれなくて「やめろ、せめて少女漫画のカテゴリのなかにいてくれ。そうでないなら無作為にまき散らす前に対策してくれ無作為にまき散らされて何が起こるか分かってんだおれはくわしいんだ(※嫌なことを沢山思い出しながら)」
って言ったんだと思う。
そういう側面は大いにあると思ってる。
「それでも僕はやってない。」が公開された以降から痴漢被害者への二次加害が酷くなったって話聞いてワァーってなった。
そんな変遷を見てきたら「こういう作品が公開されたら、また…」というフラバもそりゃ起きるよと思った。
直前に現実の誘拐事件があり被害者バッシングを見てるんだから余計に「あれが、また…」ってなるよ。(だから本当にタイミングが悪すぎたんだよ…)
というかそれはダメだ。現実がこうだから配慮して作品自体消そうみたいなのは私が一番やりたくないことだった。だからゾーニングとフィルタリング推進派なんだけどさ。
そしてゾーニング・フィルタリングはメディアの差でも実施できると思う。その作品に触れるまでのハードルの差があると考えているから。テレビは特にハードルが低い。例えば映画館での上映や本屋で棚が分けられパッキングされた単行本等とはそれだけでも違う。同列に語れないと思う。
だからってガチガチにこの本は誰向け!この本はこの性別この年齢このカテゴリ!とかマジ誰もやりたくねーよ。なにそのディストピアだよ。
ネックは「現実の事件に対する二次加害が野放しなこと」だから、ここがマシになれば結果的に表現の自由も守られるんじゃねーかなと思うけどどうですかそのへん。
ほんとね現実クソだったよ。現実の誘拐事件おこす犯人もマジでクソだったし被害者に向ける目も相当クソ。二次加害を大量に見過ぎて本当にメンタル削れたし、なによりオタクのリアル事件に対する大喜利に慣れ過ぎて、被害者がいるっつーのに自分も一瞬「あっそんなひどいことされてなかったのかも?」とか思ってしまったのがめちゃくちゃ自己嫌悪で死にたくなった(自分ネットのアイドルと二次元オタクカルチャーに10数年どっぷりなんですよ)。「そんなわけねーだろ」と思った。被害者の苦しみをも加害者のやったことも軽視出来るもんじゃない。絶対。
この感覚のままでいるのはやばいと思った。でもこれは曲りなりにも女体持ちで嫌な思いも散々してきたから「そんなわけねーだろ」と思えた部分はあるだろうなってのもあるし、「そんなわけねー話」をいくらでも茶化せる人がいるのも知っていた。
誘拐もストーカーも盗撮も被害者叩きも遠い世界の人にとってはそれはファンタジーだろうしな。
でもファンタジーじゃねえんだよな。
私が生きていく現実に影響があるんなら、私は私のために戦わないといけないと思ったんだよ。
日本の漫画原作映画の場合、漫画好き映画好き両方から評判が悪いくせに興行収入だけはいいから、酷い映画が量産されてみんな頭を抱えてる気がする。
進撃の巨人も前編は年間ベスト20入り、テラフォーマーズですらそれなりの興行収入だったはず。
アメコミ映画と日本の漫画原作映画を比べるのも流石に何から何までレベルが違いすぎるんじゃないかな。。
一般的な日本の実写化と比べるならスーサイドスクワッドくらいの話の酷さが妥当かなとも思うけど、あれもビジュアルだけならすごくよかったし。
原作ファンから文句言われてた作品だとダークナイトなんかは結構議論されてた記憶があるし、フロムヘルは作品自体の評価も低かったし改変多くてクソ扱いされてた。
あと米ドラマのビッグバンセオリーを見てるとグリーンランタンみたいな駄作はよくネタにされてるのと、主人公たちとの対比もあるだろうけどオタク以外のキャラはアベンジャーズすら認識してなさそうな感じもする。
元々アイアンマンなんて子供とオタク以外のアメリカ人は誰も知らなかったってくらいアメコミのコミュニティ自体が狭いし、そういう人に向けて作るくらいだから原作と映画は別物ってコンセンサスも割と強くありそう。
この前アニメ化されていない有名漫画みたいなのを募る増田がちょっと話題になってて、
それもあって最近ふと思ったんだけど浅野いにおの漫画ってヒット作多いのに不自然なくらい映像化される気配がないよな。
実写化なら代表作であるソラニンがあるけどアニメはてんで聞かない。
人気漫画家なのにアニオタっぽい人にあまり好かれてないっぽい。
けど前者は浅野いにおがキャラデザしたってことは殆ど話題にならず、作品自体の出来も不評で存在感がない。
後者はサブカルとウェーイノリが合わさったいかにも広告代理店という様相で、アニオタが親しむアニメ/マンガのノリとはなんか毛色が違った。
連載するたびに高評価を得てヒットさせる売れっ子作家でありながら、メイン読者層であるアニメ/マンガオタから支持されていない、浅野いにおは稀有な漫画家である。
ふとYouTubeの急上昇にアニメ「君の膵臓をたべたい」の特報映像が載っていた。前から独特なタイトルが気になっていたし、実写化からアニメ化のスパンが短く、なぜそんなに人気なのだろうかとミーハーながらもこれを機に読んでみることにした。読後なぜか感想を言わないともどかしい思いにとらわれたものの、こんなのを言う相手もいないのでここに投稿することにした。長いし臭いし拙い感想文だが、付き合ってくれるとうれしい。あと、かなりネタバレ注意なのであしからず。
美しい終わりへの話。
最初僕はそう思ってこの小説を読んでいた。春樹(僕)の初めて感じる楽しさと、桜良の僅かな時間を精一杯楽しみながらも死と直面する恐怖が合わさりながら美しく生と死を描いていると思っていた。読み進めて残りページが減るにつれ、いつ桜良は死んでしまうのかと悪知恵ながらもドキドキしながら読んでいた。しかし、突然出刃包丁というワードが出てきた瞬間、頭が止まった。言葉にならない感情が湧き上がってきた。そして、死がいつめぐってくるかなど誰にもわからないという当然な決まりが自分の頭から抜けかけていることに気づき震えた。
人はいつ死ぬかわからない。仲良い友達も家族も、挨拶を交わすだけの人も、話したことない他人も。痛みを伴わない病にかかっているかもしれないし、ふいによろけて電車が入ってきているホームから線路へ転落してしまうかもしれない。それこそ突然電柱の影から現れた通り魔に刺されてしまうかもしれない。当たり前に人はその事実を知っている。何万もの命が一瞬に奪われた大地震を経験して。或いは平穏な朝に起きた悲惨なテロで。しかしその日が終わればまた何も無い日常が繰り広げられ、大多数はTVに映る悲惨な光景の一片を目にしただけで受け流してしまう。1年も経つとそんなのあったな程度に感じてしまう。それが人間の性であるから仕方がない。一日一日を大切にしよう。明日死ぬ気で一日を生きよう。そう思っても絶対明日が来るという確固たる事実が、経験が、邪魔をして惰性で生きてしまう。安定した日本で生きる僕らの頭の中で埃をかぶって小さくなっているそれらを、この小説はつついて大きく存在感があるものにしてくれた。
朝起きて、学校へ行き、ただいまをしておやすみをする。何ら変わらない退屈な毎日で生きている実感が薄れていた。しかしそこには変わらないと思える贅沢があり命があることに気づいた。いつしか涙が溢れていた。
ルールじゃないが、鉄腕アトムからOPEDはあったらしい。そのテンプレがまだ残っているんだろう。
キャラソンは歌う性格のキャラじゃないとか、そういうの無視して声優に歌わせたい、とりあえず歌わせるぐらいの勢いに見える。
声優はアニメ文化に理解のあるかわいいスターで、アイドルはアニメ文化に理解のないかわいいスターだからだと思う。
声優はあのアニメが面白い、あのゲームが面白いという話をするから、つながっている感があって、声優オタクはそれを求めている。
逆に、アイドルオタクは「塩対応」でもめげない人がやってるんだろうと思う。
俳優オタクに自分の好きなアニメを貶されるとか、ろくに作品をわかってない奴が作ってるのがわかってしまうとか、そういうのは実写化にもある。
尺稼ぎ、演出、タイアップ、スタッフロールをまとめてこなせるから。
OPだけでなくEDもあるのは昔のレコードがA面B面で2曲入っていたから。
なんでキャラソン前提なのか知らんが、キャラソンならだいたいキャラ声で歌われてるよ。
二次元に命をかけているアニオタならアイドルだけでなく声優も嫌っているだろうし、
もちろん普通のアニオタでも声優に興味がなかったりアイドルを嫌っていなかったりする人はたくさんいる。
実写ではキャラの顔を再現しづらいし、ファンタジーやSFだと実写で再現するのは難しいから。
ただし実際にはアニメ原作の実写は売れているものが多く、アニオタが「実写は爆死する」と毛嫌いしているのも感情先行のところはある。
憶測だが尺を埋めるためだと思う。
アニメは手間がかかるから少しでもシーンを使いまわしたい製作陣の苦肉の策としてOPとEDを配置しているのでは?
声優は養成所や劇団で下積みを経験した者しかなれないためプロフェッショナルな役者として認められているのではないか。
グラドルは無論、地下アイドルやAKBグループはレッスンに力を入れていないイメージがあるので、アイドルは卑下されがちなのかもしれない。
家族の影響で家には大量の漫画があり、小さいころからそれを読んで育ってきた。ラインナップはメジャーからサブカルまで様々だ。新しい話題作もどんどん入ってくる。ジャンプを始めとして漫画雑誌も様々読んでいたし、自分のお小遣いで漫画を買うことも多かった。そのほとんどを読んで育ちながら、ひょっとして自分は結構詳しいのでは?”そこらのオタク”では適わない”強さ”を持っているのでは?そんな風にイキっていた。
成長し、”オタク文化”に触れるようになると、その認識は根本から間違っていたことがわかった。オタク文化というのはアニメ文化のことらしい。
俺はアニメはほとんど見ずに育ってきた。そうすると、びっくりするほど話が合わない。他の人と知っている作品の話に参加しようとする。「あの声優が、あの脚本が、あの作画が、あのOPが…!」何も言ってることがわからない。どうやらオタクのコミュニケーションはアニメで成り立っているようだ。
仕方ないので、勉強と思ってアニメを多少は見るようになった。まあ食わず嫌いは何でもよくない。…うーん。文脈がわからないなあ…。漫画だったら「右上から左下に読む」みたいな、根本的なところからわからない感じがする。知らない作品ならまだいい。知ってる作品のアニメを見ると、なぜそこをカットしたのか、なぜこういう演出になったのか、なぜ…悪いところしか目に入ってこない。
そんな状態が続いていて、未だに漫画好きながらアニメとは適切な距離感が取れない。人前でオタクとも名乗れない。一般人と話が合わなくなるからじゃない、もしそこにオタクがいたらそいつと話が合わないからだ。
・オープニングとエンディングで必ず歌を入れるのは何で?ルール?そこで歌ってるキャラ、そんな風に歌うようなキャラだっけ?
・声優関連の文化が全体的にわからない、何で普通のアイドルは嫌うくせに声優はアイドルとして崇拝するのか
・なんで漫画の「アニメ化」ならやったね!で「実写化」なら残念なのか。同じことでは?
こんなアニメ嫌いのオタクって話を他であまり聞かないけど、仲間はそこそこいるんだろうか。もし今後出会えたら、そいつとは多分仲良くはなれないと思う。
もう時代遅れな感もあるが、「幸色のワンルーム」の実写化が炎上していた際、こんなツイートがあった。
魔法使いの嫁といい幸色ワンルームといい不幸な境遇の子供(何故か女の子ばかり)が搾取される話が量産されてて気色悪い
一番不気味なのはほんわかラブストーリーみたいになってるとこだよ
全然ほんわかしてないから!!
成人男性が素面で未成年の女の子口説いてるの怖いよ!ホラーだよ!— るき (@mumuri7575) 2018年3月21日
「幸色のワンルーム」とかいう漫画聞いてまず思い出したのは、新潟少女監禁事件だな。あれから10年以上経っても(ご丁寧に「少女」限定で)自分こそが「やさしいお兄さん」という唯一絶対的な庇護者になれる…みたいな男たちの妄想が後を絶たないのは、性教育・人権教育の失敗としか言いようがない。— ライジ (@lije_bailey) 2018年3月22日
一つ目のツイートは「幸色のワンルーム」を少女が搾取される物語としてとらえている。
二つ目のツイートは「幸色のワンルーム」について男の妄想と関連づけてとらえている。
こういうツイートを真に受けるならば、「なるほど、幸色のワンルームは男性の少女を搾取したいという妄想が悪い形で描かれているがゆえに批判されているのか」ということになる。
ただ、実際に「幸色のワンルーム」が男性向けの作品かというと怪しい。
「このマンガがすごい!」の2018年版のランキングにおいて「幸色のワンルーム」はオンナ編で29位を記録しており、女性向けと考えたほうが自然そうだ。
(もちろん、商業誌の、回答者が特定層に限られたアンケートをどれくらい信用していいかは疑問だが)
少なくとも、この作品が男性向けであることを積極的に支持する理由はない。
「幸色のワンルーム」は悪いことを考える男性にとって都合のいい世界が、女性向けに受ける形で描かれているから危険だ、という論理展開はわかる。
危険だから規制すべきと言っていいかはわからないが、そういう可能性は否定できない。
実在の事件を想起させる、という話もまた、別の問題として理解できる。
しかし、「幸色のワンルーム」について男性の欲望や妄想が反映された世界を描いている、と考えることに対しては疑問がある。
誘拐犯の男性にとって都合のいい世界が描かれている物語があったとして、それが男性の欲望を反映して描かれた物語とは限らない。
そもそも「魔女集会で会いましょう」とかは不幸な境遇の男の子が搾取される話の好例だと思うのだが、そういうものが上のようなツイートをする人たちには見えていないのだろうか。
あれに対する反発への反論として、「私たちは自己投影をしたいわけではない」というものがあった。
「幸色のワンルーム」について男性の欲望を見出す向きに対して「私たちは自己投影をしたいわけではない」とか「そもそもあの作品は俺たちの欲望を代弁するものではない」とか、そういうことを言いたい気持ちになった。
私は某漫画が好きだった。
男が多数、しかも同性愛じみたシーンがあるということで、BL界隈で爆発的な人気を得ていた。
私もそのひとりで、特に好きだったのがA×B。
Aが原爆でBを屈服させるのも愛ゆえと変換する創作が一部にはあった。
さすがに原爆という言葉は使われないが、大怪我を負ったBという構図で受け手は理解できるようになっている。
けど、「表現の自由だ」「フィクションだ」「Bの重症描写が原爆の暗喩でAの動機も愛からだとお前が勝手受け取っているだけ」と、
抗議者に言い返すことはなかった。
もし(絶対にないが)、この二次創作が実写化されて、被爆者やその子孫が消極的なのに目に触れるようになったら。
反対していただろう。
他にも、私には、法に触れないように児童ポルノやグロ画像を見る趣味がある。
これを、合法だから阻止するな、と批判者を、ポリコレ棒だと開き直って叩くことはできない。
そんな私でも、いつかは、表現の自由戦士のように
「あなたがそう読み取っているだけだ」「フィクションだ」「エビデンスは?」と、
言い返せるようになりたい。
いろんな漫画家が今ネットでバズってやる!ってあの手この手で狙って、作劇研究して、ツイッターで漫画描いてるだろうに
幸色のワンルームは、ラフで単調なコマ割りで、顔アップ多くても、
元からフォロワーが多い作家だったから拡散されやすかったっていうのもあると思うけどさ
もしあれを自分が描いたら、と想像してみたりもするがあんな恥ずかしい漫画書けないだろうな。
身体中が痒くなりそうだ。
でも作者はあれが好きで描いてるんだよな羨ましいな。
正直作者がもっと絵が上手かったらコマ割りが上手かったら納得できるのかもしれない そんなことないかな?
漫画って結局技術じゃないんだな、感性なんだなって思ってしまう。
『幸色のワンルーム』という作品が、実写化を期に色々なバッシングを受けている。
というか、申し訳ないが私も言っている。
大人がくだらないことで誤解をして騒いでいるとうんざりしているのではないだろうか。
なので、私の考えることをいくつか書く。
まず言わなくちゃいけないのは、
「あなたがあの作品を好きなことを、咎める権利も、バカにする権利も誰にもない」ということだ。
ある作品を読んで、それが好きだと思う気持ちは最大限に尊重されなくてはならない。
彼女にとってあの部屋の外の人間こそが害悪であることも知っている。
あの作品を見て誘拐事件を起こすような人間がいるかも、とも、私は思っていない。
では、なぜ非難するのか。
それは、『幸色のワンルーム』が、バカの妄想とよく似てしまっているからだ。
「現実は現実、フィクションはフィクション。なんで混同して叩くんだ、区別くらいつけろ、ばかばかしい」
という意見はたくさんあった。
実際その通りで、現実とフィクションを混同するのはバカのすることである。
同様に、あの作品を読んで「女の子を誘拐しようと思う男」もバカだろうし、
では、これはどうだろうか。
「(『幸色のワンルーム』の幸みたいに)自分でお兄さんのところに住みたいって言ったんじゃないの?」
という奴がもしいたら。
そいつは現実とフィクションの区別のつかないバカではないだろうか?
そんなバカ、世の中にいるとは思いたくないが、いたのである。現実に。それもたくさん。
朝霞市の女子中学生が、大学生の男に2年間監禁されていた事件を覚えている人は多いと思う。
「じつはこの女の子は自分から男のところに住みたいと言ったのではないか?」
「監禁されたなんていっているけど、喧嘩でもした腹いせに、男を悪者に仕立てあげてるだけじゃないか?」
実際の事件の被害者や家族のことを考えたら、とても口にはできない妄想だ。
彼らのなかには、「中学生くらいの女の子に好かれたいな」という願望がある人がいる。
また、何を見ても「男は悪くない、ずる賢い女にひどい目に遭わされただけ」と考えるクセがついている人もいる。
そして、実際の事件を見て、「もしかして、自分の願望通りのことが現実に起きたんじゃないか」と期待し、妄想してしまう。
だから、監禁された女の子は自分から男のところにとどまったことにしてしまうし、
必死で逃げ出したことを「喧嘩の腹いせに被害者ぶった」ことにしてしまう。
2016年、『幸色のワンルーム』が発表される直前の話である。
もちろん、彼らは『幸色のワンルーム』を読んでこんな妄想をしたわけじゃない。
だが、一人でもそんな妄想をして、それを他人にぶつけてしまうバカが、
『幸色のワンルーム』を読んだらどう思うだろうか。
「やっぱり俺の思った通りだ。この漫画は女にうけてるじゃないか。
女は家出して、男のところに泊まるのに抵抗がないんだ」
そして、そうなりそうなバカがたくさんいることを、私たちは朝霞の事件で目の当たりにしたのだ。
私は、読者が『幸色のワンルーム』を好きなことは何ら問題ないと思っている。
最初に書いたように、好きなものを咎められる必要もバカにされる必要もない。
だが、作者については、もう少し「バカに見つからないように」できなかったのか、と言いたい。
privetterを使うとか、注意書きをつけるとか、何か方法はあったはずじゃないのか。
しかし、誰かを傷つけたり、バカを調子づかせてしまう恐れがあるのなら、
作品で傷つく人が増えるのを、できる限り防ごうと努力することは必要だと思う。
それは、バズらせるよりも大切なことではないだろうか。
もしテレビで放映するのなら、バカに見つかる可能性はぐっと上がる。
そのことを、そのバカによって誰かが傷つけられることを、真剣に考えた上でメディアミックスを進めているのだろうか。
『幸色のワンルーム』という作品を、他人を傷つける道具にしてしまうバカに、「見つからないように」する努力。
そうして、きちんと「わかってる」人がこの作品を楽しめるようにしてほしい。