はてなキーワード: 喪中とは
株式会社ディスクユニオンは29日、70万件以上の顧客情報が漏洩したと発表した。SNS界隈では前日28日からダークウェブへの流出が確実視(スクショあり)されていたが、夜が明けてからようやく重い腰を上げて公表に踏み切った。
以下に続く散文は、ユニオンを愛する者の率直な心境と受け止めていただきたい。
※6/30夕刻追記:
昨日のニュースを見た勢いで書きなぐった時は、自分自身の心のモヤモヤを吐き出すことがこのダイアリーの主目的であり、少しトーンが過剰な部分などもあったなと、今あらためて読み直し反省しています。
少しだけ、言葉足らずだった部分を加筆などしておりますが、ご容赦ください。
・パスワードの平文保存
こんなご時世だ。悪意のある行為で情報が流出してしまうリスクはどんな業種であっても否めない。ただ、今回最悪だったのはDBがテーブルごとぶっこ抜かれ、あげくパスワードを平文で持っていたということだ。暗号化処理せずにパスワードを保管するというのは愚の骨頂であり、ここに小売業としての前時代的な姿勢がはっきりと見えてしまった。通販事業は決して120%アウトソーシングしているわけではなく、社内にはフロントエンド/バックエンドを担当する社員もいるはず。ゆえに、なぜ?という思いが強い。偉い人たちは何が悪いのか理解できてなさそうだけど。
・第一報の遅れ
>6月24日の漏えい懸念から本日のご案内に至るまで、時間を要しましたことを深くお詫び申し上げます。
>本来であれば疑いがある時点でお客様にご連絡し、注意を喚起するとともにまずはお詫び申し上げたい思いでしたが、不確定な情報の公開はいたずらに混乱を招き、
>お客様へのご迷惑を最小限に食い止める対応準備を整えてからの告知が不可欠であると判断し、情報の収集と把握に時間を要しました。
>本日の公表までお時間を要しましたこと、重ねてお詫び申し上げます。引用元=https://diskunion.net/
違うんだよ。お客様へのご迷惑、は流出した瞬間から実際に目に見えるかたちで起こってしまった。SNSでは公式発表に先駆けて、「何が、何件、どんな風に」漏れたのか、情報が拡散されまくった。一方でユニオンは、早々にオンラインショップ(ここにはコーポレートページも含まれる)をクローズし、「緊急メンテ」という名の殻に閉じこもった。もし、SNSで話題になることがなければ、本当に7月4日までダンマリを決め込んでいたかもしれない。結果的に29日の発表では有効な対応策を提示できず、公式アナウンスの遅れだけがネガティブに目立ってしまった。少しずつでも、情けなくても、スピード勝負に出るのが最善だったと私は思う。
「いやいや、でもそんなすぐに公表するのは現実的に無理」と考える人もいるだろう。だが、2022年4月1日に施行日を迎えた改正個人情報保護法は、情報の漏洩時は本人に迅速に通知するなど、企業に個人の権益を保護する行動を強く求めている。
さらに、不正アクセスの痕跡など「漏洩の可能性がある個人データは、すべての該当者に通知する必要がある」と個人情報保護委員会は明言している。強調するが、漏洩の「可能性」が露見した時点でだ。そのタイミングで企業側には本人通知や事実公表のアクションが求められる。情報の収集と把握に時間をかけたというユニオンの初動は致命的な悪手であり、何よりコンプライアンス意識の希薄さを自ら明らかにしているようなもの。個人情報を取り扱う多くの企業が、この改正個人情報保護法への対応や関連規約のアップデートに追われていたのが今年の春前。ユニオンの準備はどうだったのだろうか。サイトが表示されない今となっては、確認する術がない。参考元=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/02006/032800002/
現在もHPにはテンプレ通りのお詫び文と問い合わせフォームの連絡先しか掲載をしていない。会社概要、プライバシーポリシー、個人情報保護方針……何も表示されない。この重大なインシデントを起こしながら、なんとか目につく部分を隠して乗り切ろう、としているなら残念でしかない。
ディスクユニオンの公式Twitterは「@diskunion_news」のはずだ。異常なのは28日までスクリーンネームでキャンペーン情報を訴求し、投稿ではトートバッグやレコクリンをプッシュしていたことだ。これは店舗アカウントも同様で、粛々と普段と同じプロモーションをかけていた。しかし、29日になると公式も店舗もジャンルも、全て”喪中”かのごとく宣伝投稿を止めた。一斉にやめるくらいなら24日からやめるか、一人でも多くのユーザーに一刻も早くこの異常事態をアナウンスして周知してもよかったはず。悪さした小学生じゃないんだから、そこは意思を持った運用しようや。(※SmartFLASHの記事を読む限り、どうやら店舗が詳細を把握できたのは、ユーザー向けアナウンスと同一タイミングだったと認識するべきか。オンラインショップを緊急メンテに突入させた時点では、店舗に情報を下ろしていなかったという可能性が高そうだ。出典元=https://smart-flash.jp/sociopolitics/189040)
ここで、対応失策の遠因とも言えるユニオンの体制について考えたい。
ユニオンは中古品と新品を同時に取扱い、レア盤や特典商法、マニアックな品揃えで知られる。また、パッケージの復刻企画や自社制作も行っている。このバランスがあるからこそ、ユーザーに支持され、(たいしたイニシャル数をオーダーできないが)アーティストやレーベルからも好意的な反応を得てきた。ただの中古屋(●ックオフとか)をアーティストがリスペクトしますか?って話。しかし、この土台は大きく揺らいでおり、今となっては綱渡り状態に突入している。
約10年前、社長と専務に次ぐ人物がユニオンを去ると、ここから誰の目にも明らかな権力闘争が巻き起こった。中古を扱い粗利を稼ぐ「店舗」の人間と、新品仕入れや制作を担い音楽業界の”今”とユニオンをつなぐ「本部」の人間。詳細は割愛するが、結果として本流になったのは店舗側だった。そして、多くの名物社員や気概のあるスタッフ、何よりビジネスマインドを持ち良い意味で「サラリーマン」的だったキーパーソンが本部を離れた。退職した者の一部は、当時レコードビジネスに本腰を入れたHMVや、その後はタワーレコードにもジョインした。通販部門もECのプロフェッショナルではなく、いきあたりばったりの采配という感は否めない。
※追記1:組織/企業である以上、異動があることや、俗に言う「役職」につけるスタッフの数に限りがあることは当然であり、そこはユニオンも同じです。成績や年次やらが絡みますよね。“権力闘争”というワードを初稿で選んでしまった点について、書き手の私情が強めに入っていると言われれば、否定できません。違う表現を選ぶとすれば、組織内での大きなうねり・転換期がこの当時にあったということです。
※追記2:店舗=中古、本部=新品、という基本線はそのとおりですが、常に両者が喧嘩腰だったわけではないと念のため補足させてください。同じ音楽ソフトであっても性質が異なるこの2種が相互補完することで、ユニオンというブランドがここまで支持されてきた/事業として動いてきた、のは間違いありません。前述のうねりの中でこのバランスが以前と異なるかたちに変化した、ということです。
この頃からユニオンの新品仕入れ額は落ち込んでいるはず。音楽業界を支え、アーティストとレーベルが活躍できる土壌を小売として成熟させるには、新品を仕入れ、販売しないことには難しい。なにより、新品を仕入れて販売することで、その盤が今後中古市場に出回る可能性が生まれ、結果として中古市場の下支えにもなる。すでに中古市場に出ているレア盤を高額買取→高額販売してぶん回したところで、そこに未来はない。また、音楽業界という立場で考えれば、中古がいくら売れたところで、アーティストには1円も入らない。
さらに数年が経つと、結果として上層部は社長(※ファミリー経営2代目)と一部社員(※店舗叩き上げ)の集団になっていった。外部からの血も入れず、利益は上がるが、社員の給料は上がらない。レコードブームだから、とりあえず店は出して中古で埋める。廃盤セール(※ただし廃盤が安くなるわけではない)でいつものあの人に来てもらう……ここ数年、ユニオンの店先や棚から「勝負してんな、攻めてんな」という熱量を感じなくなったのは自分だけだろうか。ユニオンの器が小さくなったと感じるのは自分だけだろうか。
もちろん、一流の店舗スタッフが多数在籍していることも声を大にして伝えたい。決して中古推しがどうのこうの、いや新品推しがどうのこうの、という話ではないのだ。昨今のレコードブームの裏で、戦略と組織設計のバランスが崩れ、あるべき姿から逸脱し続けているというのが問題なんだと強調させていただく。青臭い思いかもしれないが、ユニオンが過去から現在まで、何を紡いできたのかということだ。
※追記3:組織/企業である以上、利益を確保することは当然です。そこは否定しません。ただし、私が知っているユニオンはそれだけじゃない要素が売り場に宿っていたと、抽象的な表現ですが感じていた次第です。じゃなかったら、あんなに店舗に通わないはずです。しかも狭い店舗に。
遡ればユニオンの創業は戦前。そこからなんとか今日までサバイブしてきたわけだから、そんじょそこらの会社とは良くも悪くも一味違う。ただそれは、ユーザーの知的好奇心を満たすため、中古品、新品、制作、流通、委託販売、アーティストマネージメント、販促、オーディオなど、様々な分野で試行錯誤を続けてきたからだ。もちろん中には失敗もある。オークション事業やイベントスペースなど、黒歴史になっているものもある。それでも「ユーザーにとって面白いことをやる」、そして「ユーザーを囲い込む」ことでユニオン経済圏を確立してきた。事業の中心にはいつもユーザー目線があった。
ただ、利益追求に舵を大きく切ったここ数年、そして今回の漏洩騒動での対応を見ると、どこか古き良きユニオンはもう幻となってしまったとすら思えてくる。
どんなに給料が安くても(陳腐な言葉だが)音楽とユニオンが好きだから支えてきたアルバイトや若手社員はどう思うだろうか。今回の初動対応をとった会社に、今後もついていく気が起きるのだろうか。そして後手後手の対応をとられたユーザーは果たして本当にまた戻ってくるのか。
ユニオンがしっかりとこの問題と向き合い、そしてもう一度適材適所の布陣で挑戦を始めるときが訪れれば、私はまた店頭に足を運びたいと思う(通販はしっかり対策して、原因と改善策明示してね。それからだ)。ずっと探していた中古の名盤と、今という時代の空気感をしっかりと伝えてくれる新譜を同時に手に取ることができる場所は、世界的にも希少になりつつあるわけだから。
最後に、HPのキャッシュから拾ってきたユニオン商い五訓を貼っておきたい。
ユニオン商い五訓
2 損得より先に善悪を考えよう
3 お客様に有利な商いを続けよう
※追記4:今回の騒動と組織の顛末を並列で吐き出したのは、あくまで私の主観(=ずっと感じてきたこと)が入っています。そこは最後にハッキリと書き記します。ここも当然、人それぞれで受け止め方が変わります。お前、こんなにダラダラ書いておいて最後に逃げるなよと、私自身も思いますが。
ユニオンに求めること、期待することもまた人それぞれなはずです。中古レア盤しか興味がない、最近レコードデビューしたからお手軽盤欲しい、新譜の特典にやっぱつられる、紙ジャケBOX最高、色々あるはずですし、そういった需要に応えられるのがユニオンの店舗/通販であると信じています。
音楽のジャンル同様に、確かな多様性がある世界で我々は日々踏ん張っています。この駄文も、絶対の正義ではないです。そのために書いたワケではないです。ただ、こんな世界線もあるんだ、くらいの受け止め方の方が、息もしやすいと思います。
反響に驚いてしまい、こんな当たり前のことを追記してしまいましたが、私はユニオンにもう少しだけ、期待してみようと思っています。
(了)
去年、コロナ真っ只中のマンボウ中、親族の結婚式に行った。とても行きたくなかったしこの状況下で開催するなんてありえないと思ったのだが(コロナに加え式の半年前に親族の家で死者が出て喪中だった)、血縁関係上どうしても出席しなければならずしぶしぶ上京して出席してきた。
親族の結婚相手は神奈川県警だった。ものすごかった。上司スピーチは内容が保守的で長すぎ、警察の権威の強調しすぎていた。しかし出席した同僚一同がすごかった。ホテルのスタッフに何度注意されても、マスクを外し酒を飲んでどんちゃん騒ぎ。いまどきありえない脱ぐタイプの余興。綺麗なオープンテラスで、親族の子供をそっちのけで大騒ぎしながらタバコを吸いまくる。
神奈川県警の不祥事が多いことを後から知って、むべなるかなと思った。自分は北海道の田舎の出身なので、こんなにハメを外す警察官は見たことがなかった。とにかく驚いた。
ガン告知を受けて2ヶ月で亡くなった。
(※最初に断っておきますが、非常に自己中心的な考えなので不快に思う方がいらっしゃったら大変申し訳ございません。)
のどっちかかと思われる。
新郎新婦やそのご家族がしきたりに厳しいようなら、喪中の出席はやめておいた方が良いかなと勝手に思う。
私の場合は大親友だったので、相手は私の母親が亡くなったことも知っているし、私も「喪中だけど出席して問題ないか」と聞いてOKをもらったから参列することにした。
さすがに忌中だったら友人の許可云々以前に辞退してたけど。
中座のエスコートを頼まれていたくらい、とても仲の良い友人なので私も結婚式にはなるべく参加したかったしとても楽しみにしていた。
母親が死んでからずっと抱いてきた鬱々とした気分も、お祝い事を目の前にすれば吹き飛ぶかもしれないという考えもあった。
結果、「親友の花嫁姿を見られて良かった、でも結婚式の演出がしんどくて出席を後悔した」というのが感想。
「自分で出席すること選んでおいて後悔とか言い出すの常識ねーわ」ってのはわかっている。
でももちろん親友本人にはそんなこと言ってないから見逃してほしい。
挙式、披露宴で随所に差し込まれる、「父親・母親・娘(花嫁)」の3人が揃っていることを大前提とした演出がしんどかった。
調べたらいろんな事情で親が結婚式に参列できない場合の演出方法もあるらしい。
もし親を亡くして数年経っていたなら落ち着いて見ていられたのだろうが、両親がいることを「完璧」として、どちらか一人でもいなかったら「欠陥」とみなされているようでとてもつらかった。
また、母親が生きているうちに結婚できなかった自分も責められているような気になってしまった。
披露宴で泣いたが、感動して泣いたわけではない。
自分の母親は亡くなったということを改めて突きつけられているようでつらくて泣いたのだ。
中座のエスコート役をやると、カメラマンが花嫁とのツーショットを撮ってくれる。
カメラマンに「笑って〜!」と何度も言われた。
笑えたら笑ってるし、笑ってないってことは笑えないということだからなにも言わないでくれと思った。
ただまぁ人の結婚式出て写真撮ってもらうのに笑わない人間は常識がない。
あり出席者側が「今日ちょっと機嫌悪いからムスッとしてる」とかはダメだと思う。(当たり前)
■結婚式後も引きずる痛み
結婚式の最中に感じた悲しみのせいでもあるし、大親友の結婚式に出てもネガティブな感情しか抱けなかった自分への嫌悪のせいでもあった。
家に着いたら、花嫁から「結婚式来てくれて本当にありがとう!!」「大好き!!!!」といったLINEが届いていた。
また悲しくなった。
これに対して私は「めちゃくちゃ良い式だったね!!」とかなんとか、素敵な言葉で返答しなければならない。
今は微塵もそんなこと思えないのに。
喪中なのに参加すると言ったのは私自身だし私がどうしようもないくらい悲しみを感じてしまうのはすべて私に責任がある。
■結論:新婦側の友人の場合、親が死んだばかりなら欠席した方が良い
結婚式からもうしばらく経つが、未だに花嫁である友人とは距離を置こうとしている。
「この友人と会って、結婚式の話になるたびに私はこのとき感じた痛みを思い起こしてしまうのか。」
「そして私はその痛みを隠して友人に当たり障りのないことを言い続けなければならないのか。」
そう思うと会いたくもなくなってくる。
中学生の時からの友人だし、社会人になってからも月1で会っているし、(コロナ前は)年に一回は一緒に海外旅行していた仲なのに、私はもう会いたくない。
結論としては、親が死んで喪中ならやっぱり結婚式への出席は考えた方が良いかもしれない。
また、結婚式を行う側の方々も、もしどうしても出席してほしい大親友が親御さんを亡くされたばかりなら、どうか気を配ってあげて出席辞退しやすいようにしてあげてください。
私は断るべきだったと思うし、もしかしたらこのままこの親友とは交流を断つかもしれない。
いや、知らんがな!
人が亡くなったのに知らんがなというのは些か失礼ではあると思う。
だが、両親・兄弟の不幸なら分かるが、こっちが会ったこともない爺さん婆さんの逝去を通知されても困るのだ。
喪中はがきの更にダメなところは、喪中はがきを受け取ったら年賀状を送ってはいけないという謎文化があることだ。
いや、年賀状送らせろや。
数年に1回程度しか会う機会のない地元の友人。あけましておめでとうメールを送りあうほど親密ではないけど、年に1回だけ年賀状受け取って「あー、こいつも元気でやってんな」「また子供生まれたんだな」とか思えるのが年賀状の良いとこなのに、その希少な機会すらこの喪中はがきは奪っていく。
まだ親族が亡くなって日も経たないから、来年の正月は明るく過ごせません。年賀状を送るのは今回はちょっと遠慮してね。
まぁ分からんでもない。
だけど上期に亡くなったのにそんなの正月まで引きずって何かいいことあるんか?
給食マスクと聞くと、小学生だった時の担任のM先生を思い出す。
M先生は30歳前後の女性で、2年間自分の担任だった。小学生ながらに「この先生ちょっとヤバイ」と思っていたので、M先生について思い出せたエピソードを客観的に書いてみる。別に変じゃないエピソードもあるかもしれない。もう自分では何が普通で何が異常なのかよくわからなくなっている。
給食当番は、家からマスクを持ってこないといけないルールだった。M先生は、マスクを忘れた生徒を怒り、黒の油性マジックで顔にマスクを書いた。口の周りに大きな四角を、それから耳まで紐の部分を書いた。さすがに四角を黒で塗りつぶすことはしなかったが、四角の中に大きくバッテンを書いていた気がする。そしてそのまま生徒を下校させた。
授業参観の前日、M先生は「明日は授業参観なので、みんなで1本ずつバラの花を持ち寄りましょう!教室が華やかになりますよ」と言った。「反対の人は手を挙げて」と言うので手を挙げた。手を挙げたのは自分だけだったので理由を聞かれた。「今月のお小遣いがもう残っていないので買えません」というと、「自分で買えなんて言ってないわよ、みんな親御さんに買ってもらいなさい」と笑った。帰宅し、母親とバラを買いに行った。田舎だったので町に花屋さんは1つしかなく、バラはもう売り切れていて買えなかった。
M先生が結婚した。相手は他校の教師らしい。結婚式準備や新婚旅行で何日か学校を休んだ後、生徒の家にハガキが送られてきた。二人が肩を組んでいる幸せそうな写真入りで、「私たち結婚しました」と書いてあった。母親が苦笑していた。
ある日、M先生の発案で、授業間の10分の休み時間がおしゃべり禁止になった。最初の何回かはみんな守らず、ひそひそとおしゃべりをしていたが、M先生がついに本気で怒った。その次の休み時間、本当に誰一人声を発しない、静まり返った教室となった。するとM先生は「なんか誰もしゃべらないのって気持ち悪いわねぇ!やめましょやめましょ!!」と笑い、そのルールは一日でなくなった。
やんちゃな男子3人組がいた。何か物が壊れていたりすると「あの3人がやったに違いない!!!」と騒ぎ、3人を呼びつけ怒っていた。3人は反論せず呆気に取られていた。
やんちゃな男子3人組のひとりが何か悪いことをしたらしく、M先生に怒られていた。M先生は、「先生の言うことは絶対なんです!先生が死になさいと言ったら死ななくてはならないんです!今すぐあのベランダから飛び降りなさい!」と言っていた。※ちなみにその男子は先生の話を全く聞いておらず、いつものようにケロっとしていた。その後落ち込んだりとかはしていなかったと思う。
M先生の親族が亡くなった次のお正月、父親が「M先生は喪中だから、年賀状ではなく寒中見舞いを出しなさい」と言ったので、その通りにした。学校が始まると、M先生に年賀状を出してしまった生徒が集められ、「あなたたちはとても失礼なことをしたのよ」という旨のことを怒られた。寒中見舞いを出した自分も一緒に怒られた。親に報告すると、母親が「だから寒中見舞いも出す必要なかったのよ、余計なことはしなくていいのよ!」と父親と喧嘩していた。
2年間、平日は毎日顔を合わせていたから、他にもたくさんあるはずだけど、これしか思い出せなかった。もう20年くらい前の話なので、印象に残ったことしか覚えていないし、詳細も確かではない。ただ、もうすぐクラス替えというタイミングで、「来年も先生が担任がいい人~?」と自ら生徒に聞き、誰も手を挙げなかったときのことは、今でも鮮明に思い出せる。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 95 | 12788 | 134.6 | 50 |
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私はかれこれ小学生くらいからずっとディズニーが嫌いだった。関東圏に住みながら中高6年間ディズニーに行かなかったし、ディズニーのグッズもほぼ持っていなかった。
最近になって結構知り合いからディズニー行こうと誘われることが多くなったのでディズニー嫌いの呪縛から解き放たれるためにここに吐き出されてもらう。
幼稚園から小学校5年生まで、私はディズニーが嫌いということは無かった。むしろどちらかといえば好きだった。ディズニーランドにも年1くらいで行ったしトイストーリーとか好きだったし、平均的にディズニーを摂取する家庭だったと思う。
それが嫌いに変わったのは小学校6年生の時、一人の女のせいで私はディズニーが嫌いになった。
私が通っていた小学校では2年に一回クラス替えがあり、その女とは5年生の時に同じクラスになった。そいつはディズニーの年パスを持っていて、持ち物全てがディズニーグッズという完全なDガチ勢だった。(このレベルじゃ全然ガチ勢じゃないかもしれないけど、当時の私はD界隈は良く知らないのでガチ勢だと感じた。)仮にそいつの名前をMとする。
Mはとにかくいけ好かない女だった。心が通っていて真っ直ぐで、真面目だった。悪くいえば頑固者で融通が聞かないタイプだった。今Mのような人が身近にいたらかっこいいなあと思うが、やんちゃを極めた小学生の私はMのことが苦手だった。
私は表に出して言わなかったもののMのことを敵対視していたし、いつか蹴落としてやろうと憎悪に似た執着を抱いていた。
Mのいけ好かないエピソードは沢山あるが、本題と逸れるので紹介は一つだけにしておく。
Mは結構多趣味で、本を沢山読む女だった。私も本は読むほうだったがMとはジャンルが違った。私はらくだい魔女とか黒魔女さんとか小学生向けの娯楽本を読むのが好きだが、Mは純文学が好きだった。それだけなら方向性の違いってことで割り切れるのだが、Mは純文学以外の本のことを小馬鹿にしてきたのだ。「そんな本、なにが面白いのか分かんない。読むわけないじゃん」って具合に。さらに、私を含めそういった本を読む女子たちも同じように馬鹿にした。今思えばお互いクソほど幼稚だったな〜ってなるが、当時は(私はMより馬鹿じゃなかったのに)Mに馬鹿にされるのが嫌だったし読んでる本で人格を決めつけられるのが嫌だったのでMは人間のクズだと思っていた。(要するにお前の趣味こっちに押し付けるな、人の趣味バカにするなってこと)
まあ、そんなこんなで5年生で1年間接し6年生になる頃には完全なるMアンチbot私が完成していた。このまま卒業したらただのM大嫌い人間で終われたのだが、この後のMの行動ひとつで私はMアンチbotからディズニーアンチbotに転向する。
私の通っていた小学校のある地区ではほとんどの生徒が中学受験をする。Mや私ももちろん受験する側だった(ちなみに私はMと校舎は違うが同じ塾だったので自分がMより頭がいいことを知っていた)。
私のクラスではクラス皆がほぼ受験するという暗黙の了解があったので、受験が終わるまで遊びに行った話はしない・遊びに誘わないというルールのようなものが存在した。それをMが破った。
きっかけはMのランドセルに入っていた去年までの年パスの亡骸(?)だった。
「わぁ〜、Mちゃん毎年ディズニーの年パス買ってるんだね〜」とMと仲のいい子。
「そうなの、今年も買ったんだけど受験だからあんまり行けてなくて……。でも今度の日曜日、お父さんが連れて行ってくれるんだって!」
たぶんMにとっては他愛ない会話の一部だったんだろう。会話に参加してた子も「へえ、いいな〜」くらいで終わったし。
でもM嫌いの私にはMが自慢をしているようにしか聞こえなかった。あなた達は受験に一生懸命だけれど私はディズニーに行く余裕もあるのよ、と言われているような気持ちだった。
すげぇ嫌だった。死ねばいいと思った。
私だってディズニーに行きたかった。乗り物に乗りたかった。ファストパス取れるようなやつしか乗ったこと無かったからもっと他のも乗りたかった。ハニーハント乗りたかった。パレードだってずっと止まって見た事なかったから見たかった。ディズニーのホテル泊まりたかった。ディズニーに行って沢山楽しみたかった。でも受験だからって我慢してたのに。なんでお前だけ、ってお門違いな恨みぶつけて。
Mに対抗心を抱いた私はディズニーなんかなくても生きていけるしなんて馬鹿な趣味を持った女なんだとMのことをバカにすることで嫉妬を抑えることに成功した。そしてディズニー嫌いになり、Mにこれ以上妬みを抱かないようにして生きることにした。
これが私がディズニーが嫌いになったいきさつだ。
振り返ってみると過去の自分ぶん殴りてえ。だって心底軽蔑してたMの「趣味で人を判断する」って行いとほぼおなじ「人で趣味を判断する」って行いをしてしまったから。
Mが嫌いをMが好きなディズニーが嫌いにすり替えて生きていたのだ。敵の味方は敵みたいな??
くそ、死にてぇ……。
この件について、Dオタの皆様には完全に言い逃れできないので思う存分刺してください……。反省してます。
ちなみに今はもう吹っ切れたのでディズニー嫌いじゃないんですけど、吹っ切れたきっかけがMの年賀状だったんですよね。
Mとは卒業後も年賀状のやり取りだけ続いていて、前年度私が喪中で出せなかったのでことしは出しておくかあ(去年貰ったし)ってノリで出した。まあどうせMの年賀状は自分がディズニー行ってきた自慢(ディズニーで撮った写真+ディズニーの年賀状)なので特に期待せず待っていた。そしたら送られてきたのはディズニーじゃなかった。
自分で描いた絵だった。
しかも上手い。それでもう、どうでも良くなった。
無口というわけでもなく寡黙といわけでもなく、ただ、あまり自分から言葉を発しない祖父のことは嫌いではない。けど好きでもない。
基本的に、毎年お正月にしか会わないし、「女の子なんだから」と祖母の料理を手伝うよう叱られたこともある。言われてすぐは「兄弟は何もしなくていいのになんで自分だけ」と腹が立ったが、昔気質なんだな、と思えばなんてことはない。祖母も「おじいちゃんに言われたの?ごめんね、ありがとう」と苦笑していたから、やはりそういう人なんだろう。
これといった思い出があるわけでもなく、会話もあまりない。「元気してたか?」と聞かれ、「うん、元気だったよ」で会話が終わってしまうような関係だ。
一緒にお屠蘇を飲んで、お節を食べて、お雑煮を食べて、こたつでのんびり過ごしている間、「これ食べるか?」「寒くないか?」と聞かれ、「うん」「大丈夫」と答える。
本当に、それぐらいの会話だけだ。もっと小さい頃はどうだったんだろうと記憶を掘り起こしてみたが、多分あまり変わらないかもしれない。
そんな祖父が亡くなった。悲しいとも淋しいともあまり感じなかった。ただ、父は大丈夫だろうかと、伯父は大丈夫だろうかと思っただけだった。
数年前に倒れてから一気に衰弱してしまった祖父は施設にお願いしていた。正月だけは家に帰って、私を含めた孫を出迎える。
衰弱だけでなく痴呆も進んでしまっていたから、忘れられていたかもしれない。
誰かが新年の挨拶に顔を出しに来るとその度に「○○来たよ」「ほら、△△だよ」とみんなで声をかけたが小さく頷くだけで、理解していたのか分からない。
嚥下能力が衰えたからお節を一緒に食べることも出来ず、大好きな日本酒を飲むことも出来ない。それでも、たくさんの料理が並ぶテーブルを一緒に囲んで正月を過ごしていた。
一昨々年が最期になった。
去年、祖父母が喪中だった。今年は行くのが夕方近くになってしまい、会えなかった。
久々に会った祖父は、ひどく痩せこけていて、こんな顔だっただろうか、と違和感しかなかった。
嫌いではないけど、「おじいちゃんのこと好きだよ」と屈託なく言えるような感情もなく、触れ合いもない。
葬儀の最中に涙が滲むこともなく、「おばあちゃんは一人ぼっちになってしまうのか」「伯父や父たちは大丈夫だろうか」と、ただぼんやり考えていた。
一通りのことが終わって一息ついたけれど、やはりこれといった感慨も何もなかった。
いつも通り出社して、いつも通り仕事をして、いつも通り昼食を食べる。いつもと同じだった。それなのに、昼食を食べ終え休憩室でのんびりしていたら、急に涙が溢れ出てきた。
「おじいちゃんは亡くなったんだ」と、何をしていたわけでもないのに、なぜだか唐突に悲しくなった。訳も分からず休憩室でひとり泣きながら、「元気してたか?」と目を細めて笑う祖父や、「これ食べるか?」と私が小さい頃から好きな料理を差し出し、「寒くないか?」とこたつの設定温度を上げる祖父を思い出した。
優しい人だったのだ。
もっとたくさん話せば良かった。