はてなキーワード: その男とは
物心ついた時から周りより頭ひとつ分以上背が高く、小学6年生で170センチを超えていた。
小さな頃は年相応にセーラームーンやキティちゃんなど可愛いものが好きで、よく身につけていた。
だが、自分が可愛いものが似合わないのではないか、と気づき始めたのは幼稚園の時。
発表会で笠地蔵をやることになったのだが、その中に狐の役があった。
黄色いふりふりの衣装がとても可愛らしく見え、私はその役に立候補した。
だが、他にも複数候補者がおり、1人狐役を諦めなければいけない。
本来ならジャンケンなどで決めるのだが、そのとき私にはそれすら選択にはなかった。
なぜなら当時の担任直々に「狐役は諦めて欲しい」と言われたからだ。
衣装のサイズの問題や、おばあさん役の方がぴったりだからと言われた。
そのとき、ふと目の端に見えた狐役の子たちは皆平均身長でとても可愛らしく見えた。
そのとき私は「背が高いと可愛いものは選べないんだな」と思うようになった。
幼稚園児が考えることなのであまりにも極端だと今は思うが、己の顔立ちやそもそもの体型なども、幼いながら人より劣っていると気づいていたのだと思う。
それから少しずつ可愛いものに興味を示さなくなった。だって、似合わないものを身につけてもダサいだけだし、と。
気付いたら女らしさ皆無な子供に育っていた。
うぜぇ、だまれ、カスなど口走るなんとも可愛げのないクソでかい女の子が誕生していた。
また、中学でスポーツ系の部活に入ったことにより、髪の毛もベリーショートに切り、服のサイズもメンズ物しかなかったため、見た目はどこからどう見ても男にしか見えなくなった。
デパートなどの女子トイレに入ればすれ違うひとに驚かれトイレマークを確認されることは毎回のことなので慣れた。
最初は気のせいだと思っても、それは気のせいではなかった。
友達から「今あの人あなたなのとみてたよ、すごくびっくりしてた」と毎回報告されていたからだ。
(中途半端な田舎だからっていうのも1つの理由だったのかなと思う)
恋愛対象で見られることは皆無だったが友人としては仲良くやれていたので特に気にはしなかった。
少女漫画も少年漫画と同じくらい読んでいたし、こっそりと片思いもしていた。
けど、振り向かれることはないとわかっていたので告白も何もしなかったけれど。
そんなこんなで大学生になったある日。
見た目さえわからなければみんな私を1人の女の子として接してくれることにとても感動した。
それからは毎晩寝る前にいろんな人と話をした。
みんな優しくしてくれたし、声を少し高めに話すと可愛いと褒めてくれた。
今まで体験できなかったことが沢山体験でき、自尊心が満たされた。
今まで相手には身長のことすら言えなかったのにその人には話せた。
それでも引かれることはなく、魅力の1つと言ってくれた。
大学生になっても、私の服装は相変わらずでダボっとしたパンツにTシャツやパーカーばかり着ていた。
そのことを話すと、彼は
「なんで女に生まれたのに女を捨ててるの?」
と質問してきた。
「好きでその格好ならいいけど、女らしい服装をしたって良いんだよ」
「似合う似合わないじゃなくて、似合わせようとするんだよ」
と。
あ、と思った。
本当にあ、と。
可愛い格好してもいいんだ。
面長で重たい一重。
鼻も高くない。
その身長があるならモデルになりなよとみんな言うけど、頭身もないし腕も足も短い。
だから、女の子らしいは似合わないから、みんな変に思うから、楽なメンズ服に逃げていた。
そうなんだ、別にいいんだ。
それから少しずつ女らしさを取り戻していった。
といっても、完全に女として生きていけるようになったのは社会人になってからなんだけど。
田舎町から都会へ引っ越して、人の視線を感じることが少なくなったのも1つの要因だった。
ヒールの靴も痛いからあまり履かないけど、6センチのヒールを履いて出掛けたこともある。
少しずつ、少しずつ。
気付いたら前よりも女の子扱いされることが多くなった。
性の対象にすらみられてなかったのにそういう目で見られるようになる。
可愛いと言ってくれる。
髪の毛長い方が似合うよと言ってくれる。
もちろん、モテているわけではなくて基本的には友人としてしかみられないこともあるし、この身長にドン引きされることも多々ある。
けれども私は女になった。
ずっと女になりたかった。
ここまで拗らせるには他にもいろんな要因があって、自分に自信をなくして、自分を男に見立てることに逃げていたけど、もうそんな自分にはならないだろう。
「最初の思い出がどうでもいい男性となんて嫌だろうし忘れないだろうな」というのがあって、
婚活パーティーで会った男と5〜6回食事に行った。鎌倉とかイルミネーションも見に行った。でもなんか、違うなと思った。いい人だし友達として付き合うのはいいけど、男女交際となるとピンとこない。
でもその人とズルズル会い続けてるのは、次の人を見つけるのがめんどくさいからで、一から関係を構築するのがめんどくさいからで、お察しの通りコミュ障だからなんですけど。
私は妹気質のめんどくさがりだけど、ええかっこしいで宝塚の男役に憧れがあって、なんかその人といると「エスコートしなきゃ」という気分になって頑張ってしまう。鎌倉に行った時も、本当は一緒に地図を見て回りたかったけれど、とうとうその男は一度も地図を出さなかった。鎌倉行きたいっつったのお前だろ。イルミネーションも、お前が行きたいって言ったくせに地図を出そうともせず、「姉御肌なんですね」と年下の私に向かって笑っていた。「しっかり者っぽい」とも。お前人を見る目なさすぎだろ、と思いつつ、「そんなことないですよ〜」と笑って自分を誤魔化すのもそろそろしんどくなってきた。
極めつけに、「僕、〇〇ちゃん(下の名前)(別に呼んでいいって言ってないのに勝手に呼ばれてる)(きもちわるいから呼ばないでほしい)といると緊張する」と言われて以来ずっとLINEも既読スルーしてる。こっちだって人と会う時はいつも緊張して、私と一緒にいてつまんなくないかな、ちゃんとスマートにエスコートしなきゃ、って気を張ってるのに、相手も気を張ってるって最悪じゃん。お互いに緊張しながら会ってて何が楽しいわけ。どえむかよ。
と、ここまで書いて、私のそういう強迫観念みたいなものが相手を緊張させているんだろうなと気付けたので、書くことはなかなかいい自己分析になる。そしてその男とはもう会わない。
余興は女子が制服で縄跳び…大学サークルの理不尽な慣習:朝日新聞デジタル
https://digital.asahi.com/articles/ASMCX4218MCXOIPE00M.html
俺の大学時代って、もう20年以上前だけど、未だにこんなのあるのね。
なるべくおとなしめの文化系の女子が多いサークルに入ったから、
ただ、新入生は、新歓で一発芸をやるっていうしきたりで、
どうしても入りたいサークルだったので、
やるしかなかったな… 苦い思い出。。
少し高めのお店に飲みに行ったとき、
のが見えた。
思って、就職したくなくなった。特に大手企業はそんなイメージだった。
酒の肴にするだろうけど、
つらいよね。
もちろん、男子の場合、下着が見えても面白くもなんともないので、
前を手で隠してて往生際が悪かったとか
その男子は、ノリが体育会系だったからかすぐパンツを脱いだのだが、
したと後悔している。
結束を固めるっていうことだと思うので、
お上手な芸よりも、恥ずかしい、エグいほうがいいと
いうことになるんだと思う。
そういう傾向にあるのかもしれない。
まぁ、俺にはついて行けなかったなと思う。
(さすがに女子の全裸はないようだが、その場合は男子が身代わりに全裸になるようで)
それから思い出したけど、
ホテルニューオータニに用事があって行ったときに
厳粛な行事で、こういう下品な芸ってどうなのって思ってしまった。
なかなか難しいことで、
それだったら脱いだり、一気飲みをしたりするほうが
楽なのは確かだよね。
まぁ、今ぐらいの年齢になれば、
脱ぐだけで、仕事がどうにかなるんであれば、
嫌ならやめろっていうブコメがあったように思ったけど、
それぞれウエイトのかけ方は違っても、
その大学に入学した面もあったので、やめるなんて考えられなかったな。
社畜も一緒ですな。損得だけで行動してるわけではないし、視野も狭いからね。
決めることができる立場なので、やっていません。
会社の飲み会って、みんなが共通の話題をもっているわけでもなし、
仕事の話をするのも疲れるしで、
それを聞いたとき俺はびっくりしたけど、
それからは、年に1回程度、昼間に、なるべく高級なお店で食事会を
するだけにしている。
でも、そういう時代の流れかな。これからは転職も副職も当たり前になってくるし、
─原文─
「罰ゲームは、10メートルほど先にある袋に向かってハイハイして進み、
以上です。疲れた。
負の性欲という話題があった。初見ではかなり本質を突いた考え方だと思ったが、文脈を離れるとこの4文字は強度がない。「草食系男子」が女に不自由しないヤリチンがガツガツしてない様を元々は表現していたのに、今では頼りない男のクズを表現してしまっているように。
そこでなにか良い表現がないか考える。考えるにあたって、そもそもの性欲について考えてみようかな。
いきものとしての男性も女性も子孫を残したいという肉体のメッセージを受け取っている。それを本人の思考に元づいて処理する。処理に成功すると注目されなかったり称賛されたりする。処理に失敗すると社会的地位を落としたり犯罪者となったりする。
さて、男性の肉体は自分の子孫を残せ、なるべくたくさん残せ、と訴える。この欲望にもとづいて、極端な状況を考えてみる。リソースが無限にある神の力を手に入れたら、その男性はどうなるか。(なお財力でも食糧でもエネルギーでも全部ひっくるめてリソースとする。)
まず、現存する全ての妊娠可能な女を支配し、妊娠させるであろう。次に、全ての女から自分以外の男性を遠ざける。子が生まれたら、子に対して同じことを繰り返す。(近親相姦の禁忌というものは社会的、文化的なものであるからしてこの状態では無視されるであろう。そもそも重婚の時点で大問題だ。)
男性の諸問題はおおむね、これのリソース少ない版として現れる。強姦などの性犯罪はリソースなしで子を得ようとするわけでわかりやすい。自分以外の男性を蹴落とす、殺す、経済力を奪う、上に立とうとする、これは優位に立てば女を手に入れやすいからだ。女性の経済力を奪う、自分だけが経済力を持っていて全女性がまったく経済力を持たないなら、女は全て自分のものだから当然。自分の女と他人との交流を断って支配する、自分としか交流のない女は当然自分の子しか妊娠しない。
男性の性欲の発露は女性にリソースを捧げて許可を得ようとする恋愛の側面と、その邪魔になるものを消そうとする支配闘争の側面の両面があるようであるが、これは同じ性欲からきているわけである。彼女の前で良いかっこしようとモヤシ男にオラつくチンピラはまさに発情しているのだ。
さて、女性の肉体は自分の子孫を残せ、なるべくたくさん残せ、と訴える。この欲望にもとづいて、極端な状況を考えてみる。リソースが無限にある神の力を手に入れたら、その女性はどうなるか。
男神であれば百人同時に妊娠させれば子が1年で百人増えるが、女神は原則年に一人ちょいである。ということは質の良い子を産む方向に行くので、男を闘争させ1位になったものの子を産む。子のうち、男児は闘争へ、女児は自分に充分に近しいものには産ませて実質自分として扱い、そうでないと判断したものには産ませないよう排除するであろう。
女性の諸問題はおおむねこれのリソース少ない版として現れる。男の競争をあおり、リソースを競わせ、自分を報酬に求めさせ、1位の決定権を握る、まあわかりやすいいつものやつだが1位じゃないものをすげなくふりたいっていう欲望もある。闘争に参加しない男を叩き参加させようとする、これはオタク叩き。群れて均質でないものを排除する、よくやる腐女子学級会とかご近所ギスギス問題とかこれ、仲間内の子は実質自分の子、自分の子を産めない仲間はいらない。できる女のオールドミス問題なんかは、下位男性の子を産むより自分の能力によって男の闘争水準が上昇し群れの女性がよりよい子を産むことになるという形で一応解釈は可能だ。
女性の性欲の発露は完全な闘争の結果残った最高の男性に求められたいという恋愛の側面と、順位決定権限でふりまわしたい、同一性のある集団を保ちたい、という何と名付けていいかわからん側面がある。
ふむふむ。これで負の性欲より良い用語を考えようと思ったのだが、めちゃくちゃ難しいな。男は「性欲」「支配欲」女は「性欲」「ワルキューレ欲」でどうだ?
「同じ仕事をするならば同じ給料と待遇が欲しい」というのは理解が得られると思う。
しかし、近年、
「そもそも女性は男性に比べてあんまり出世欲がないから仕事を頑張って無理して働きたくない」ということがわかってきた。
確かに人生を、くだらない権力闘争や出世のためにすり減らすのは愚かなことだろう。
しかし、当然社会的にトップは男性が多くなる。これは男性の愚かさともいえる。
そもそも、政治家志望は男性のほうが圧倒的に多く、女性はまったくやりたがらない。
しかし、
「男性の政治家と女性の政治家を同数にしろ」と、主張する人は後を絶たない。
そもそも女性がやりたがらない仕事を同数にすることに意味があるのか?
「看護師」というのは女性には人気がある仕事だし(待遇面でかなり良い)、需要もあるが、「しかし男性は圧倒的に少ない」のだ。
やりたいという人はいるが、しかしなかなか踏ん切りをつけない。
もし看護師を女性と男性同数にするべきかと言われたら、それは誰も幸福にならないからよせというと思う。
こういうだろう。
「仕事はやりたい人がやる、志望者の少ない性別に無理やりやらせる必要はない」と。
正論だと思う。
こういう仕事は、それでもやるというのは大概男性だ。女性はほぼいない。
しかし、政治家となると、圧倒的に志望者が男性のほうが多いにもかかわらず、女性に同数譲れと言う暴論がまかり通ってしまう。
そもそもが、あんな汚物処理みたいな仕事を権力欲に駆られてやるのは男性の愚かさだということを忘れて、この話をするのは、いったいなぜなのか?
というのも、「あんな職業をやるのは馬鹿」な時代に入っているからだ。
『生理ちゃん』の作者である小山健氏は、女性への性加害をギャグマンガにしたり、それどころか「時効」と題して「【侵入した女子トイレ】で【使用済みの生理用ナプキン】を手に取る」過去の行為をマンガで自ら明らかにしたりしていた。
https://twitter.com/Haruka_5748/status/1198263872802541568
https://twitter.com/tachimimi_makio/status/1197920591384154112
https://togetter.com/li/1434909
女店員の月経をバッジにて明示するというこの大胆な試みには賛否両論あり、概観する限りでは「便利でいい」と支持される一方で、「セクハラ」や「変態へのご褒美」との批判が根強く多数派を占めている(特にTwitterでは)。
「生理バッジ」は、漫画作品『生理ちゃん』とのコラボ企画で、オモコロに掲載された「ツキイチ!生理ちゃん」の第19話に初登場。ネット上の各所で話題になった。
https://omocoro.jp/kiji/199147/
作中では、「生理バッジ」に否定的な人たちはあたかも保守的であるかのように描かれていて、女性が社会の中で前進するには「生理バッジ」が重要なんですと言わんばかりだ。
年配の女性を否定派、西洋人を賛成派、との描き分けをするあたりがいかにも恣意的で、作者の意図があからさまに反映されている。
しかし生理バッジは、果たして本当に「女性のため」になりうるのだろうか。
実際には、「生理バッジ」で女店員が下半身の個人情報を公共に明け渡すことで、女性の身体への社会管理や消費を強化しているにすぎないのではないか。
上半身裸になる欧米のフェミニストと同様、文脈が共有されないために、かえって女性の物象化を促しているだけなのではないか。
本当に必要なのは、バッジなどではなく、月経困難症などへの社会からの理解なのではないか?
さて。この第19話が閲覧できるウェブページには、「今回の「生理ちゃん」は株式会社大丸松坂屋百貨店への取材をもとにしたフィクションです。」との注意書きがあり、こうして、案の定大丸梅田店にて「生理バッジ」が現実のものとなったのだった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191125-00030892-forbes-soci
記事を読む限り、大丸の立場は、作中に描かれた百貨店(の女店員であるヒロイン)と同じく「生理バッジ」には肯定的で、先進的な取り組みとして前向きのようである。
保守的でなくともその過激さを指摘する声は少なくなく、男女問わず、女店員の「セクハラ」被害では、との意見が中心だ。
そしてTwitterでは女性の意見の方が目立つ。下半身の状態を晒し「変態へのご褒美」を与えてしまう苦行、との見方が大方共通している。
そんな中、「生理バッジ」の生みの親である、『生理ちゃん』の作者小山健氏の過去と過去作に注目が集まった。
(冒頭と同じURL)
https://twitter.com/Haruka_5748/status/1198263872802541568
https://twitter.com/tachimimi_makio/status/1197920591384154112
https://togetter.com/li/1434909
小山健氏は、女性への性加害をギャグマンガにしたり、それどころか「時効」と題して「【侵入した女子トイレ】で【使用済みの生理用ナプキン】を手に取る」過去の行為をマンガで自ら明らかにしたりしていたのだった。
男性の作者が月経について語っているのが気持ち悪い、との声は、極端に受け止められるだろうが、しかしその男性作者が小山健氏となると話は別だ。
気持ち悪いとの声は、今思えば、作品の背景にある欲望を直感した真っ当な感想だったと言えるだろう。
(本論からは多少逸れるが)さらにこの漫画の特徴として、女性の読者に寄り添っているという錯覚を与える技巧に秀でている点が挙げられる。
この漫画は、「ツキイチ」第19話に限らず、生理に関する物事について、とかく二元論的に語りがちである。二元論的に捉えるよう読者を誘導し、その二元論の選択肢からわかりやすい「正答」を選び出し、作者が読者と同じ価値観をもつ味方だと、読者に錯覚させる手法が頻々と用いられている。
結局のところ小山健氏は、性加害さえも戯画化する強烈なギャグ漫画家と、生理をネタに女性読者からの支持を集める「チンポ騎士団員」とのハイブリッドであると匂わせる状況証拠を、とうに出揃わせていたのだった。
その男オタクが現実の女に加害しているっていうソースが不明瞭だから反発食らってんだよね
SNSで気になったことがある。ある男性が若くして妻と死別し、それを大変に悲しんでいる内容を死別してからずっと発信している。
私はその男性の事を全く知らないが、ふと目に留まった時にはなんと気の毒なことだろう、とおもった。そしてその発信をさかのぼって死別の理由を見てみた。
要は病院で処方された睡眠薬や向精神薬といった薬剤の過剰摂取による衰弱が原因であるとの事だった。妻が日常的にこういった薬物の本来の用途と異なる使い方をしていたのを旦那である男性は知っていたようだった。
この理由を知った時、私は違和感を感じた。もちろん、若くして人がなくなる事は悲しいことで、パートナーの事となればドン底まで精神がやられるのはよくわかる。
しかし、だ。私は何ら社会的な規範に不満を感じない凡人であるために、旦那は妻の死の原因を取り除くことができなかったのだろうか・・・と考えてしまう。
妻が薬剤のオーバードースを快楽目的でしていることを知っていて放置していたなら、突然死という結果が生じる可能性を黙認していたことにはならないのだろうか?
私はこの男性が悲しんでいる様子を同情と疑念のいりまじった気持ちで見つめざるを得ない。
危険性を知らずに放置した結果を、この男性は悲しむ事ができる権利(というと言葉が強いかもしれないが、悲しむ妥当性が、)あるのだろうかと考えてしまう。
ウケるか?
自分は、不幸男いる自慢・セックス自慢でうーんこのとなり、なんかの約束と性欲ゆえ仕方なくこんなのに付き合う・下手に出てやってる男(普通や女なら、男や人が異性に操を立てないことやクソなことをしたらアウトだし、特に女は男をひどい扱いしたり人間扱いしなくなる)に同情したが
確かに、イケメンでもなくても頑張ったりすればワンチャンヤれる(女なら美女でなくてもだけじゃなく、努力せずともというクソ女尊男卑さがある)というのは良い点だが、中身がこれだしなぁ(まぁ、性欲がある…つまりノーセックスのまま死ぬよりはヤれるだけでもマシだし恩の字、ってのはわかるが、やっぱ見た目第一で中身も"こういうクソ女"じゃないことは大切だよ)
パパつまり男をパパ扱いし、ATMやらと変わらないクソ女さだし(前に、父親が認める認めないとか結婚は父親から彼氏・夫への寄生先の移譲ってのはまんまですね)
それに、その男や日本人男のおかげ・男の性欲の強さのおかげで、女は生存・特に日本人女は安全と特権的自由を得ているんだよなぁ、なかったら今みたいな暴言どころか発言もできないぞ
「はあ……」
両親がこの問題に口を挟みたがらないのも分かる。
つまり、問題だと思っている側と、思っていない側の溝が埋められないんだ。
そして残念ながら、俺も「実際のところ何が問題なのか」を客観的に説明できない。
こじつけることは可能だろうが、そんなやり方で弟を納得させるのは難しいだろう。
問題にならないことを無理やり問題にして、それを解答して喜ぶのは出題者だけだ。
あのセミナーや本で語られていることは大したものじゃないが、咎めるほどの“確かなもの”が俺にあるかは甚だ疑問だった。
結局、放っておくしかないのか。
「はあ……」
俺が何度目かの溜め息を吐いた時、近くでコロッケを食べていた男性が声をかけてきた。
「えっ」
「ちょっと気になりまして。私が知る限り、この肉屋にはいつも弟くんと来ていたでしょう、あなた」
俺は少し身構える。
こちらを知っているようだが、俺はその男性が誰か気づかなかったからだ。
「……ああ、失礼。いつもと違う格好なので分かりませんでしたか」
男性はコロッケを口で挟むと、携えていた鞄から白い羽織を取り出した。
「んん?……あっ!」
思い出す素振りを見せると男性は白い羽織を元に戻して、再びコロッケを食べ始める。
そいつは『生活教』とかいうのを掲げ、このあたりを中心に活動している新興宗教家だった。
信者の数は今や1000にも届く勢いらしいが、実際はそのほとんどが面白半分の輩で構成されている。
「普段は、そんな地味な格好をしてるのかよ」
「布教活動のときは目立つ必要があるから着ているだけですよ。それで……弟くんのことですが、今回いないのは偶然ですか?」
弟は野次馬根性で色々なことに首を突っ込むから、教祖にも顔をよく覚えられている。
そして今、兄の俺が一人で息を漏らしているから気がかりだったのだろう。
「仮に何かあったとして、あんたに言う筋合いはねえよ」
この教祖を面白半分に見ている奴もいるが、俺はその“半分”すらなかったからだ。
「まあ、プライバシーに関わることなら仕方ありませんが。そうでなければ、言うだけ言ってみても損はしませんよ」
「そこまでは分かりませんが、別の視点から物事を見ることで、意外な糸口が露わになるかもしれませんよ」
そう一笑に付そうとした時、俺はふと“引っかかり”を覚えた。
「いや……むしろ」
よくよく考えてみれば、あのセミナーは、この教祖がやっている布教活動と似ている。
ほぼ“信仰”なんだ、あれは。
明らかな違いは、ガワが宗教かどうかくらい。
「はあ……どうしても話したくないってわけでもないしな」
俺は一連の出来事を話した。
変なことを言ってきたら話を即中断できるよう、常に教祖の反応を窺いながら。
「ふーむ、確かに。一つの体系に基づいて教えるという点では、我が『生活教』とその自己啓発は本質的に近いかもしれません」
俺の指摘に不服だろうと思ったが、意外にもすんなり同意してきた。
「俺が言うのもなんだが、そこらへんの自己啓発と同じ扱いとか、お前はそれでいいのか?」
「生活教は他の教えをダメとは言いません。それが誰かにとって、より良い生活になるのなら」
そう教祖は語るが、とどのつまり俺のスタンスと大して変わらない。
他人が良いと思っているのなら、必要以上に意見できないってことだ。
「結局そんな穏当なことしか言えないのか」
「どの体系を支持するか、それ自体に善し悪しはありませんから。私が宗教から生活をアプローチしようとするのも、そういう理念があってのことです」
「理念だけは立派だがなあ……」
「まあ、心配になる気持ちは分かりますよ。体系が人を不幸にする側面も確かにありますから」
「別に、お前に分かって欲しくて話したわけじゃない」
これでは話し損だ。