はてなキーワード: 青春とは
世の中の男VS女問題で、実はそう見せかけて、リア充(というかうぇーい系?)VS草食の場合も結構あるんじゃないかとふと思った。あくまで一部の話です。
まず女子側の問題で、セクハラとか容姿いじりとかの話。具体化したほうがわかりやすいけど、「ちゃんと化粧しろよ、地味なんだからw」とか「○○ちゃんとくらべておまえはブスだなあ~」とか「生理?」とかそういうの。こんなからかいを飲み会でする人は実際のところ年代問わず、大学時代にうぇーいなことをしてきた人々が多いように見受けられる。
で、こういうことに対する文句を、女子側が「男は」と主語を大きくして語る。腹が立つのは全然まったくそんなことをしたことのない草食男子だち。「男は」ってなんやねんと。自分はそんなことしたことないし、むしろ女側にからかわれたりしてるんだぞ、と、憤りを感じる。
男子側の問題についても、実のところ女子とほぼ変わらず、セクハラとかいじりの対象になっている人々がいる。こちらも具体化すると、「童貞?」「彼女いないの?」「きもいw」とかいうのをすごくフランクに言われてきた層。男→女に対するセクハラ発言は性的な不快さが大きいのに対し、女→男のほうが単純に「言い方きつすぎ」の一言かなあと思う。そこまで言う?っていうことを本当にフランクに言うんだよね。同性相手にならそこまで言わないだろ、ということを男(地味)相手になら平気で言ったりする。女側でこういうこと言うのも、いじり=コミュニケーションと捉えがちなリア充よりの女子。
で、こういうことに対する男子側の文句を同じく主語を大きくして語ると、腹が立つのはセクハラされるような地味な女子。「そんな女ばっかりじゃないし!!!」「むしろ男のほうがひどいし!!!」ってなるわけでは、と思う。特に性的なからかいが関わってくると、女子側はひどい…。あと、男→女の場合、先輩ないしは上司というパターンが多く、パワハラにも繋がりやすい。
すべてがすべてではないけど、このようなことを相手に言う人は、性別問わず「ノリがいいこと=よいこと」「ノリがいいこと=いじって笑いをとる」というような青春?時代を過ごしたタイプの人であると思う。
ただそうしたタイプのほうが圧倒的に印象が強いため、被害を受けた人にとっての「女」あるいは「男」のステレオタイプになるんじゃないかな、と思ったりした。
もちろんこれがすべてじゃないのはわかってるけど、男VS女問題に見せかけて、ウェーイVS草食の学校カースト引きずった結構このパターン多いのでは?って思う。加害者になったことない被害にあった人同士が罵り合って、加害者同士は「そんなひどいこと言うひといる^^;?」って言ってたり、あるいは「それもコミュニケーションでしょ…」って言ってたりするっていうやつ。
専門学校に入学して、入学式の前のオリエンテーションで同じ部屋になった4人組でずっと一緒にいました。
専門学校に行くぐらいだから趣味も一緒だし、何かと気が合ったので。
全員コミュ障だったけど、はじめまして!と話しかけてどうにかこうにか友だちになれました。
私はこの歳まで引っ込み思案で、小中高と同じクラスの幼馴染がいたこともあって友達が本当に少なくて専門学校に入ったら自分で話しかけて友達作るぞ!と息巻いていたので
だからこそ、偶然同室になり学生時代をずっと共に過ごして卒業してからも遊びに誘ってくれる友達が大好きです。
話は戻り学生時代、そろそろみんなでご飯を食べに行こうかというぐらいの仲になった頃、
突然Aちゃんが私に「あっちのグループで孤立してしまったから、こっちに入れて」と言ってきました
まあ、端から見れば女の子が集まっているからグループなんだけれど、私含め全員が何となくグループという言葉に違和感を感じましたが
もちろん拒否する理由もないので、ちょうどお昼の時間だし一緒に食べようよーと答えました。
Aちゃんは素直で天真爛漫で可愛らしく。そこは長所ではあるのだけど、とにかく自分勝手でお子ちゃまでした。
まだ19歳、私も人のことは言えなかったが自分の思い通りにならねばすぐに拗ねる。
エレベーターが重量オーバーで乗れず、全員一緒に行動できなかっただけで拗ねる。
「何で私を一人で残したの?一緒に降りて、全員一緒に行きたかった」とずっと頬を膨らませるという具合。
物を貸したら返さないし、人が持っているものをすぐ「ちょうだい!」
インフルエンザで寝込んでいて「大丈夫?」とメールをもらったのですが(当時はLINEがまだ主流でなく、メールでした)
熱で朦朧としていた頭では返信もできず。
数分後「どうして返事返してくれないの!!私の事、嫌いなの!?」とお怒りのメールが来たときは、
正直、私は疲れ果てていてあの時、一緒にお昼食べようと返事しなければよかったとさえ思ってしまいました。
Aちゃんはとにかくグループ行動を好み、遊びに行く際自分がドタキャンしても「私がムリだから、今日の予定はなしね」と言います。
Aちゃん抜きで遊びに行ったことがバレると、次の日学校で号泣し私達が宥めるはめになるのが心底面倒で
どこでばったり会うかわからないので、その子の都合で私たちは遊ばねばならなかったのです。
いま就職して思うことは、毎日学校に行くだけで友達に会えるのって奇跡だということ。
もっと学校帰りの買い食いや、友達とのおしゃべりをしたいときに、自由に楽しみたかったなぁということ。
多分一生後悔すると思います。
就職してからも友達には会えますがやはり機会は減りますし、どうしても仕事の話になりがち。
箸が落ちただけで笑えるような年頃に、周りの人が聞いたら首を傾げるようなくだらない話で盛り上がることができるというのはとても尊いことだと思います。
その子は正義感が強く、クラスで孤立している(ように見えるだけで、一人のほうが気楽だと言っていたけど)女の子Bさんを連れてきて
今日からこの子、うちらのグループに入るから!!と鼻息を荒くしました。
正直、何でも打ち明けられる友達の輪に全く話したことの無い子が入ってきて、とても戸惑った。
連れてこられたBさんは「いや別に、グループとか入りたくねえし」という感じで戸惑っているし、
別に友達なんていらないという考えだったのかただたんに私達が嫌いだったのか私達が話しかけてもつん、と無視をしていました。
挨拶をしても返ってきません。
ただ、BさんはAちゃんには気を許しているのかAちゃんとだけは喋っていました。
挨拶をしても無視するような、そんな相手と仲良くなろうと思えるでしょうか?少なくとも、私は全く思えませんでした。
無視をする子なんて私は死ぬほど嫌いです。悲しいことに私は今でもBさんのことが嫌いです。
前述のように、Aちゃんは遊ぶときに自分がいなければ発狂するのですがそこにBさんが加わりました。
6人もいると、さすがになかなか予定が合いません。
もう、予定合わない人がいれば、とりあえず予定が合うメンバーで遊べばよくないか?と話し合いをもちかけましたが
私は全員一緒がいいのっ!!と机を拳で叩いていたので、話し合うことも諦めました。
そのおかげで、学生時代最後の1年間はほとんど友達と遊びに行けませんでした。
ひっそり合流して遊ぼうにも、私は県外から通っていましたし、
皆バラバラのところから通学しているのでなかなか隠れて会うこともかないませんでした。
どうしてそんな子と卒業まで一緒にいたのか?と疑問におもう方もたくさんいらっしゃるかと思います。
グループを抜けるだとか、何人で行動するのか?ということが一番大事だという空気が流れていたのです。
どうして、よそのグループの子と話すの?とか、そっちのグループに行くの?だとか、そんなことで騒ぎになるような雰囲気だったのです。
私たちは皆気が弱かったのか、誰もAちゃんの行動を咎められなかった。
いや、咎めたのですがAちゃんはどこ吹く風、何も改善されなかったのです。
話し合いの途中で泣いてしまえば、私達が折れて宥めるのがわかっているから。
結局、卒業してから皆四国や、関西、関東へと散り散りになりましたが
卒業して2年ほどで全員がAちゃんと大喧嘩し絶縁してしまったとのこと。
ある人は仕事中にLINEが来て、返せなかった所「どうして返事くれないの」と電話がかかってきて怒っただとか
ある人は会いたいから今すぐ私のいるところまで来てと言われ、
県外なので「二人の中間地点で会わない?」と提案すると「いや、私の定期券そこまでないから」と言われキレただとか。
学生時代、誰かが今のようにキレてAちゃんといい加減にしなさいよ!!と大喧嘩でもすれば状況は変わったのかもしれない。
だけど、誰もそれができなかったし、多分今の精神状態であの頃に戻ったとしてもAちゃんにはかなわないと思います。
そんなくだらないことだけれど、私はAちゃんを許せない。
ネットで見る恋愛関係の記事がどれもこれも脈あり脈なしがどうの、これは脈ありサインだ脈なしサインだとかそういうものばかりでびっくりした。
会った事もない相手からネットで相談を受けて「それは脈なしだよ!」「脈ありだよ!」とか言い合ってる。なんだこの変な光景。
え、告白するのは事前に脈がありかなしかを吟味して、脈ありな相手じゃないとしちゃいけないの…?
脈なしな相手に告白するのは凄いルール違反みたいに書かれてる…そうなの?
そりゃあ脈なしな相手に告白して振られるのは気まずいだろうが、でも脈ありだと思い込んでてそれは勘違い、って事もある訳で。
告白する以上そういうリスクを負うのは仕方ないんじゃないの…?そもそもお互い好き同士だという確信が持てているなら改めて告白する必要性もないような。
はっきり言われた訳でもないのに相手の態度から勝手に判断して決めちゃうのって問題なんじゃないの?
「脈あり」だと決め付ける事でストーカー化するとか、逆に本当は両想いなのに「脈なし」だと思い込んで諦めてしまうとか、そういう可能性はないのか?
・告白した結果…
1.振られて終わり、
2.両想いだったのでめでたく付き合う事に(その後別れる事もあるが)、
3.何とも思っていなかったがとりあえず付き合ってみる(その後別れるパターンもあれば本気で好きになるパターンもある)、
この、1や2だけでなく3や4で上手くいくパターンも漫画では結構見掛けるので、脈なしだという理由で告白を諦めてしまうのは勿体ないと思った。
大人の恋愛では脈ありな相手にしか告白できないのか?そして一旦脈なしだと決まってしまったらそこからの挽回は不可能なのか?
いや待てよ、子供の頃見たトレンディドラマとかでは大人であっても脈のあるなしがどうのと言わずストレートに告白していたような…
じゃあ別に大人と学生の恋愛の違いという訳でもなく単に現実とフィクションの違いなのか?
だとしたら、「社会人になったので中高生の頃のようなキラキラした恋愛ができない」って言ってる人達は
ヒマなので、忘れられない恋人にメッセージとか送ってしまってホントばかみたいです。
30代子なし、かつ、出国するまでそれなりに働いていたひとは、本当にヒマさにびっくりすると思う。
もちろん、現地になじんでブイブイしてる人もいらっしゃるとは思いますが、なんだろう、自分が働いてきた分、結局働いててエライのは夫、と思うと、慎ましやかに暮らす発想にしかならないのですよ。その結果、昔の恋人に連絡したら世話ないですけど。(別に情熱的な内容じゃないから許して、っていう言い訳)
こちらへ来てから、夫との絆とか関係性は向上してると思う一方で、家事に全力をつぎ込んでもありあまる時間にちょっと引き始めているのも事実。長期的視点に立てば、1年程度で帰国してしまって何かしら仕事したほうが良いのでは?と思ったりもします。
クラウドソーシングも覗いたけれど、まあまあの会社で総合職としてゼネラリストとして働いてきた自分には縁遠さしかなかったしなー。
読書と音楽鑑賞だけじゃなかなか身が持たんです。通信制の講座とかも検討したけど、いまいちピンとこない。
そういう意味では、結局人生って壮大なヒマつぶしで、会社に属してればありがたいことに解決してねって課題を与えてもらってて(自分で探しに行ってるつもりになってたけどさ、今は、あー与えてくれてたんだなとしか思わんw)、それをバリバリ解決し(た気になっ)て、承認欲求満たしてもらって、カネまでもらえて、なんて素晴らしい仕組みなんだー!とか思います。社会学者とかフェミとかが、日本社会なんて男のおもちゃ、って言うのを、醒めた感じじゃなく、よーこんな仕組み考えたな!やるやん!という感じで手放しでほめたたえたい気分です。そらリタイアしたおっさんら、病むわ。
あと、こんな感じのことを考えている割に、まったく病める気配のない自分にもある意味腹が立ちます。繊細さを失いすぎ。若さとは心の若さである。繊細さは詩人の心である。
あー、さよなら青春。とりあえず、日本で会った夫の会社の先輩のヨメ(元帯同家族)みたいに、太ってデリカシーのないクソババアにはならないよう、多種多様な価値観を認められる人間でいられるよう、頑張ります。
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
実直(じっちょく)なんぞと、心得(こころえ)まして。
私の青春全部つぎ込んだ結末がこれなんて嫌だ。
『宮崎駿に人生を壊された女』を読んだ時にも思ったけど、趣味に何を求めてるんだ。
増田は芸人を心の底から応援し、ついでに金も払った。芸人サイドは、増田にお笑いを与え、ともに頑張る楽しさを提供した。
芸人の界隈では、
・もう全く何をしても売れない芸人
・顔だとか愛嬌で若い子にキャーキャー言われる地下芸人(売れてない)
・何らかのチャンスを得、売れた芸人
この種類の芸人がいる。私が好きな芸人は殆ど真ん中の項目になる。
もうお笑いを卒業してしまったお姉さま方、LLR、エリートヤンキー、犬の心、ブロードキャスト、ライス、サカイスト、カナリア、アームストロング、まだまだいるけどここら辺を応援していた人たちはその当時の「あいたたたた…」感を思い出してくれると嬉しい。
でも知らない人たちのほうが多いだろう。そんな人種の芸人を応援しているのである。
上にあげた人たちは、特に若い子たちにキャーキャー言われる存在だった芸人だ。
別に顔なんて格好良くない。でも「芸人としては」整っているほう。もしくはぶさ可愛い。そんな感じで慕われていた。
今ではパンツ一丁で全裸じゃないよとギャグをしているあのピン芸人だって、6~7年前は格好いいと言われていた時代があった。
私は本当はこの芸人の顔が好きで、ネタなんて顔がいいから笑ってるだけなんじゃないの?
顔がいいだけで簡単にファンを変える人(繰り返して言うが別にイケメンじゃない)、
一つのコンビ・トリオしか好きになっちゃいけない、あんたは複数掛け持ちしてバカだ!とののしる人、
目当ての芸人の出演が終われば、ライブの途中でも抜け出して出待ち準備をする人、
もう本当に多い。こんな人がいくらでもいる。
今もこんな人たちが存在しているのかは知らないけど、この人たちと同類に思われることが心底嫌だった。
時は過ぎ、あの頃の友人は皆別のジャンルに興味が移ったようだったが
私の好きな芸人たちは若手から中堅になり、しかし売れる兆しもなく、さりとて今やめても今以上に稼げるかといえば微妙。
キャーキャー言われる顔だった筈が老化ではっきりとおじさんになり、新規のライトなファンを獲得できるかも怪しい。
私の青春全部つぎ込んだ結末がこれなんて嫌だ。
要するに既存のラノベレーベルの読者こそがラノベの中心だって言いたいんだろ。
異論はあるけど、その前提で進めると、先ほど書いたように、
2009年頃はファンタジーというと魔王勇者系が多かったんだけど、今は戦記もののイメージだと思う(異世界転生系を除いた場合)。
萌えラブコメは据え置きで人気がありつつ、青春寄りの作風が増えている。
あとは、最初から気合い入れてプッシュされる作品が増えた印象はある。
その時、たまに「クスッ」と笑われる。
低身長不細工汚い肌で痒みや痛みに耐えている苦渋に満ちた表情をしていたから笑ったのだろう。
他人からキモイと思われているんじゃないかといつもビクビクしているアトピーゾンビには、小学生の嘲笑は堪える。
親の優秀な遺伝子と恵まれた家庭環境という最強カードを持って生まれてきた勝ち組人生確定小学生たちだ。
そしてどこか勝ち誇った顔をしていた。
「自分たちは選ばれた人間なんだ。そこらの馬鹿な凡人とは違う。生まれつき頭がいいし容姿もそこそこ。親も温厚で優秀で金持ちだ。もちろんアトピーゾンビウイルスとかいうキモイ病気は持ってない。おらおら!どけどけ!エリート小学生様のお通りだぞ!」という表情をしていた。
虐待や体罰は、脳にダメージを与え、精神疾患にかかりやすくなったり、攻撃的な性格になったり、無気力になったりするという研究データがある。
アトピーゾンビと違って、虐待されず虐められることもなくアトピーゾンビウイルスの痒みや醜さに苦しむこともなく人生を楽しむんだろうな。
脳が委縮してないから、コミュニケーションも容易に取れるし、記憶力もいいし、精神疾患にもかかりにくい。
親が優秀だから、質の高い様々な経験や先取り学習をして人生を有利に進められる。
自己肯定感もたっぷり、親に散々甘えてきたから安全基地がしっかりあって精神が安定してる。
虐められてないから、対人不安はないし、鬱にもなりにくい。脳が委縮していない。
持病に苦しんで灰色の青春を味わうようなことはないんだろうな。
楽しい思い出を沢山心にしまって自信と親から与えられた教育で作られた脳をたっぷりもって成人するんだろうな。
健常者小学生は順調に人生の駒を進めて成人したとき、おっさんアトピーゾンビを見て、「きっもw努力不足!死ね!」と罵詈雑言を吐くのだろうな。最悪だ。
なんで生まれてきたんだろ。
観終わった最初の感想は、漫画『聲の形』が映像化されないことを確信したショックだ。
まず先に断わっておくが私が言いたいことは原作を崇めて原作未読者や映画を馬鹿にするといった内容ではない。
映画製作に携わる人間が『聲の形』をどういったつもりで再構成したのか、
そのせいで映画『聲の形』(以下、映画)しか漫画『聲の形』(以下、漫画)に触れていない多くの人に誤解させてしまったということ、
そしてこの世で漫画『聲の形』が漫画『聲の形』という作品でしか伝えられなかった、他のラブストーリーや青春物語ではできなかったこと…映画からは外されてしまったことについて触れる。
この日記を読んで少しでも漫画に興味を抱いたのなら、漫画にて『聲の形』というコンテンツを全て消化すべきであり、
本当の答えを噛みしめ、確認しなければ作品『聲の形』には全く触れないで人生を終えるといっても過言ではないと言っておこう。
これはステマではない。
なお漫画のネタバレになりかねないよう、これから漫画を読む人間にとって害にならない程度に極力抑えるつもりだ。
これはステマではない(繰り返し)。
そしてあくまでも日記なので読みづらさや誤字脱字などは勘弁してもらいたい。
単純に2時間半に収めるには物理的な無理があったため、大幅にカット、再構成されている。
その点だけでも漫画と映画は全くの別物と言っても差し支えない。
しかしこれは映画1本に収めるという制約上仕方のないことで、これに関しては特に言及するつもりはない。
要は、漫画が伝えたかった要素をコンパクトにして映画で伝えられたらいいだけだからだ。
つまり、私が問題にしているということはその再構成で漫画が伝えなければいけなかったことを大部分が外されているからだ。
制作スタッフは映画を見に来た観客にできるだけ「負の感情」を強く抱かせないように気を使って再構成している。
分かりやすく言うと「なんだよこのクソ鬱映画!!」みたいな感想にならないよう、できるだけイライラ不愉快になるような要素や、
生々しい要素をオミットしている…その商業的にも負になりかねない要素たちだけ、
この映画への梯子が外されて下に蹴落とされている…といったイメージだ。
漫画では読者の心をえぐってくるような要素が宝石箱のように詰め込まれている。
主人公・石田にともすれば殺意を抱かせるだけの強いクズの描写がされており、
小学生時代の石田を無条件に悪だと読者は強く確信でき、そこに同情の余地もなければクラスの手のひら返しにも憤慨するだろう。
映画ではかなりあっさりと流されていて、このせいで不快な思いをだいぶ軽減されているが、
石田の「俺は清算して死ぬべきだ」という気持ちが映画視聴者に軽く受け取られやすくなってしまった、薄っぺらく見られやすくなってしまっている。
漫画の特色として、読者の暗い感情をこういった不快ないじめや生々しい描写で刺激しつつ、
当事者である石田がどうやってそれを乗り越え、まともに生きることはできない、けれど死ぬこともできなくなったところを出発点に歩き出した、
というのが最初の石田と西宮の出会いで、だからこそいじめた本人である自分が友達になろうとするという不条理を進まなければならなくなったという経緯がある。
つまり、最初の死への渇望とその道を閉ざされた石田の心理描写を読者に刷り込ませるためには、
石田の所業が到底擁護できないくらい行き過ぎた描写であることが『聲の形』という作品には不可欠なのだ。
それを見た読者の底にドロドロと横たわりだした感情を燃料にして、出会いが種火となり燃えながら、時には火が消えかけながら、それでも何とか大きくなろうとする炎の様子が、本当の『聲の形』の姿だ。
作品として、「読者(視聴者)の負の感情」が必要なのだが、これは前述したとおり耐性のある人間を選んでしまうため商業的に足かせともなりかねない、
と判断され軽減・外した、というのが制作スタッフが再構成で行ったことだ。
ピンと来ないなら激辛だと食べれないから中辛にした、ということだと思って欲しい。
そのおかげで結果として極力不快要素を外し京アニの作画力とキャラの可愛さで万人が食べれる作品へと変化し、
映画『聲の形』は売れることに邪魔になる重りを捨て去り新品のランニングシューズを履いて走り抜けた。
でもそれは漫画が這いつくばってたどり着いたところとは違うゴールであり、
その漫画がたどったコースとゴールは今後二度と映像化され現実化されないということを確信し、制作の手腕の勝利も同時に確信し、私はショックを受けた。
帰ってレビューに目を通すと、やはり石田の心理描写が把握しきれていなかったり、
障碍者としての西宮の葛藤や苦悩もかなりあっさりされているので重いテーマだったという感想はありつつも、
そこから広がりを感じるような形としての感想が出てこず、実は何も考えさせられてないというのが観察できた。
西宮がなぜ笑い続けなければいけなかったのか、西宮がなぜ思い詰めてしまったのか、
石田も同様になぜ最初に思い詰めて、それでも西宮と違い諦めなかったのかということに説得感を出すためには、
やはり前述した「読者の中に生まれたドロドロとした暗いもの」を燃料にするための不快要素がオミットされたことが原因である。
聾唖の人たちからの意見も、この不快要素オミットのために発生した説明不足、その他ところどころに出てきてしまった脈絡のないように見える行動もこのオミット行為の副作用となっている。
ただ、それは商業的な成功には必要なかったし、事実それで勝利を収めてしまった。
これは作品の特色であってもビジネス上で不利益とみなされたものは無かったことにしていいという資本主義思想に対する芸術・創作の完全敗北と言い換えてもいい。
とにかく大多数に対して理解されやすければ、消化しやすいコンテンツであるならばいくらでも特色を消してしまっていいという姿勢だ。
それに深く静かな絶望を覚えたのは、漫画既読組には少なからずいただろう。
家に帰ったあとそれは視聴した沢山の人のレビューを読んで感じているかもしれない、私みたいに。
一体、映画を見た人の何割が石田と自分を重ねることができたのだろうか。
嫌な汗はかくことができただろうか。
漫画の『聲の形』は、一度死を望んだ石田が自分が行ったことを思い知らされ、なおかつ死ぬという逃げ道すら断たれたことで、
前を向いて、半ば仕方なく、半ばやけくそで行動する・西宮の友達になるというスタートで物語が始まる。
石田のやったことがどれだけ許されないことなのか、また当時の登場人物たちが流され、無力で、愚かで、間違えてきたことが心をえぐられる程度に描かれている。
この最初の導入でしつこいまでに鬱要素をぶっこむことで読者は自分が過去やってしまった罪の意識を思い出し、無意識に石田に重ねる、石田は読者の暗い過去だ。
今風にいうと黒歴史を人物化したキャラクターとしてこれで形作られる。
過去が黒ければ黒いと形をはっきりしてくるキャラクターだ、それは視聴者の闇の色と同じ色をしているからだ。
それをやらなかった映画が石田に対する感情移入がバラバラなのは、つまりは、その黒歴史へのアクセスが不十分になってしまったからだ。
普通、そこまで思い返すほどのトラウマや黒歴史を持つ人間は少ないので、
その場合は石田に代行させて罪の意識を増幅させるためにも石田のやったことは大きく描写されていた方が感情移入のためのパイプを築ける。
そして、死ぬことを閉ざされた石田が、つまりは黒歴史から目を背けずに、常に意識して生きなければいけなくなった「あなた」は、
どうやって生きていけばいいのか、どう周りと接していけばいいのか、取り返しがつかない過去と石田・あなたはどう向き合っていけばいいのか。
石田が黒歴史を貼りつけながら歩き続けるプレイヤーとなり、読者は過去が脅かすことに石田と共にドキドキしながら、辛さを共有しながら、
最初は不快感を感じていたはずの石田・自分に、いつしか何とかしようと奔走する石田を応援しだす。
けれどこれからの西宮・未来は泣かせないように行動することができる。
過去の追跡がどれだけ辛く暗いものなのかが、このテーマを重く受け止めるために必要な手順だ。
ところが、何度もいうがこれをオブラートに包むか削除してしまったため、このテーマが盛大にぼやけてしまった。
漫画では西宮の家庭環境や小学校の教師との再会や映画作り、いてもいなくても一緒だった真柴のちゃんとした存在意義など、
この暗さと前向きにもがく様を描くための要素が何度も繰り返されている。
その最後の結末が、読者のこれからの背中を押す形で終わっている。
生き続ける石田と現実に生きる私たちへの、エールへと繋げられている。
そしてそれが他のラブストーリーにできなかったことで、『聲の形』だけができたことだった。
他のラブストーリーに、何とかしようとして上手くいかずに古傷をえぐらせるような真似をして、
それでも読まざるを得ないという状況にもっていけるだけの能力がない。
「これはどうなってしまうのか?(他人事とは思えない感想)」と思わせるのがこの作品の面白さでもある。
◆
『聲の形』にとって障碍者という要素はいじめの歴史を作るためのただの道具の1つに過ぎず、それが本質ではない。
本質は、変えられない過去と変えられる未来、そして過去を受け入れるというこの3つの要素だ。
消極的に変わらざるを得なかった石田が変えられない西宮を救い、
一緒に変わっていこう、と2人とも前向きになるという完全に内面の話なのだ。
そして変わりたいけど変われなかったという気持ちの重さ、辛さ、ドロドロした暗い時間の積み重ねを描き切ったのが漫画だ。
読んでいる人間が石田の状況に嫌な汗をかき、そして小さくホッとする作品なのだ。
大ヒットをしている。
そう、思った。
映画館で聲の形から心をえぐられることに2時間半耐えられるか悩んだからだった。
ところが実際は、別のことでえぐられるとはそのとき私は思いもしなかった…
映画は観てないが、
シン・ゴジラ。あれは、特撮だ。誰が何を言っても、どこまで行っても平成のゴジラなのだ。特撮好きがニヤニヤしながら観る映画だ。
君の名は。あれは、ただの青春映画だ。イケメンとちょっと間抜けでカワイイ女の子の物語なのだ。恋人同士で観る映画だ。
聲の形。あれは、人生を切り取った映画だ。ドキュメンタリーではないが。だから心が痛い映画だ。一人でじっとり観る映画だ。
どれも名作であり、凡作である。それは観る人によって変わるのだ。
きんモザはよ。
それまでにモテることが大事なんだろ?学生恋愛は社会に出たら楽しめない。
アトピーゾンビウイルスのせいで人生で最も楽しいと言われている社会人になるまでの時間が苦痛しかない。かゆいし痛いし容姿はきもくなるし、おまけに不細工だし。
おまけに虐待といじめの暗い記憶しか学生生活の思い出がない。最悪だ。fdjさ㎏じゃdsf;lkgjdさ:@pgvbかjdsfン「:p語気seadjngmp;fvodskalhnfg;sawdolkfjs;dalfkvjwadrs@ogbiwrhjnsd@BOL+kjewrfn;yghpoiewardhjfgv@sadpifgads¥fsdfvdshgpouewarhfsdfvasdhuzakennasine
さて、君の名はという映画を見に行った。内容はCMで思っていたよりもハードな展開かつ壮大で、それでも男女の青春部分も大事に書かれていて面白かった。最後も読後感爽やかな終わりで、なんというか良い夢を見た気分になった。
しかしその見た直後に、夢は夢で現実はそう簡単に壮大にもドラマにもならないと言ったことを実感する出来事があった。
実は地元の映画館で見たのだが、自分はその後一緒に行った兄弟と、映画館と同じ建物のゲーセンにふらっと行った。
そして家族がゲーセン店員さんにクレーンの景品移動させに頼んだのだが、その店員が小学校以来の同級生だった。
最初見た時ビックリした。うわあ。流石地元。昔の知り合いに思わぬところで会う。
しかも自分は中学は地元の方に行っておらず地元の同級生とは疎遠状態で、なんとなく小学校の同級生には特別な思いがあったので見かけた時は妙に懐かしい気分になった。
そして、その刹那「おっこの知ってるけど疎遠になってけれども数年後再会って状況ちょっと君の名はっぽい!」とか思ってしまった。
だがしかし現実はそんなにドラマチックではない。相手はこちらに全く気付かず、自分もそもそもその同級生とは小学校時代から仲が良くなかったため、そのままあえなく何も起こらず、(と言うか恐らく話しかけられても困った)ゲーセンを後にした。
もしこれが虚構だったら自分は超美少女で、相手もcv神木隆之介で、何かしらの運命やら因縁があってここから始まる壮大な青春ストーリー…!となったことだろう。
しかし現実はそうそうそんなドラマチックストーリーは起こらないんだなあと、君の名はで良い夢を見た後だったので少し現実がしょっぱく思えたのでした。
いまこれ読んでて
http://time-space.kddi.com/digicul-column/suguyaru/20151221/index.html?sid=co_prts_ttw
ふと当時家にあったPCで夜な夜な見ていたグラビアアイドルのCD-ROMなんだっけって調べること小一時間
まず確実な記憶としてエプソンのなんかだかってことは覚えてたから
http://ameblo.jp/yamayamayamayama/entry-10024864415.html
したけど、まったくこの人や!って名前がでてこない
なんで逆に、当時活躍していたグラビアアイドルを見たほうが早いってことになり
あった!ってなって、新山千春だったことを思い出す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%8D%83%E6%98%A5
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w33741768
まさに俺が見ていたCD-ROMや!ってなって感動した
それだけ読解力がないと日常生活にも支障をきたすレベルかと思うが一応解説するぞ。
まず「書いてた」のが、超越的な三人称書き手による語りなのか、それとも登場人物に擬した一人称語りなのか、それによって違う。
おそらく後者と判断するが、前者の場合「事前定義」という言い方でもいいが、小説で多く用いられる後者の場合、一見定義に見える地の文は実は一人称語り手自身の心情描写だ。
芝居のト書きで「この人物は主人公の単なる同級生である」と書いてあるなら「事前定義」だが、お前の友達が会話中に特定の同級生のことを話題にして「まあ、ただの同級生なんだけどね」と言ったならそれは「事前定義」ではなく彼個人の心情の表現だ。分かるか?
さらにそれが「散々書いてた」という。この時点でもう気付きたい。
「ただの一同級生に過ぎない」というのが真なら、その同級生のことばかり何度も言及するのは不自然であり、明らかに矛盾する。ゆえに「ただの同級生」という発言は偽。
だが、一人称語り手が積極的に偽の情報を語るモチベーションがない(示されていない)。よって「自分で自分の感情に気付いていない」ことを表現していると推察できる。
自分で自分の感情を押し隠す理由としては、恐怖、嫌悪や羞恥など自分が負と感じる状態に陥ることから自分を守ろうとしてあえて正視するのを避けている感情があると推測できるだろ。
「同級生を見て」「急に動悸が」と書いてあるんだから、「走ってきたせいやろ」という理解がいかに不自然で読解力に欠けた読みか気付こう。走ってきたなら
・走った→動悸がした→見た
だろうが。だが、
・走った→見た→動悸がした
とわざわざ書いてあるんだから、間の可能性をすっ飛ばして「走った」と「動悸」を結びつけるのが無理ありすぎるだろ。先の言及状況と併せて考えてみても、素直に「同級生」が理由と考えるべきだろ。
なんというか、増田個人が青春恋愛状態と距離を置くのは勝手だが、「そうあってほしい」という自分勝手な願望で周囲のさまざまなフラグを片っ端からへし折って読むべき文脈を全部無視してるだけだろ? 一般に存在する青春やら恋愛やらの感情からいくら目を背けようとしても、一般に理解できて当然な文脈とか行動が読めない人間扱いされて、この先社会との距離が開く一方だぞ。もう少し他人の感情や行動原理に興味をもち寛容になった方がいい。つーかそれ自分が非コミュであることから発生する問題が現代文の問題によって露呈しただけだろ。それを現代文の問題にすり替えたところで問題は何一つ解決してないからな?