はてなキーワード: 未来とは
もともと待遇が低かった弊社、人手不足の煽りを受けて人材確保のためだとか言って若手や初任給に重点的な賃上げを行い、
普通の就活市場では他社と見劣りはしない初任給になったけれど、それでも人材確保はままならず、
毎年数人しか新卒が入ってない(本当は10人ぐらい欲しいし以前はそのぐらいいた)し、
その新入社員も他社では相手にされなかったであろうような奴とか、発達障害グレーゾーンみたいな奴とか、やる気ゼロで高いものと言えば有休消化率の高さだけの奴とかが混じるようになって、明らかにレベルが低くなっているのに、
そんな奴らと勤続10年の俺で給料はたった2万円しか変わらなくて(毎年昇給が2,000円だけとでも言うのか???)、
しかも俺らが入社した頃とは違って配属希望ヒアリングを行って概ね本人の希望通りに配属されるようになったりして、アホみたいな「高待遇」を受けてるを見たら、
このことを話すと「若者は社会の未来だから」みたいなこと言ってくる奴いるけど、会社の給料は税金とかじゃねーんだから国家レベルの将来世代のツケ云々とは全くちげー話だよクソが。
本家が40巻かけても描ききれなかった「憧れと現実、師弟愛と守破離、変わる決意と変わらぬ決意」の要素を半分以下の15巻で綺麗に描ききってしまった。
本家が下地を整えてくれた上にジャンプ+という打ち切りプレッシャーの少ない場所でのびのびとやれたおかげもあるのでしょうが、それにしたって物凄いことです。
日本中を飛び回るスーパーヒーローとしての決め台詞「私が来た」に対しての、地域密着型ヒーローとしての決め台詞「俺がいる」。この2つのヒーロー像が一人の少年の中で渦巻くことにより、世界を救う戦いと最愛を守る戦いに同時に挑ませることになっているのも面白いですね。
憧れの人に近づきたいというキラキラした雲を掴むような願いではなく、すぐ側にいる誰かを助けたいという気持ちの小さな積み重ねが光り輝く未来へつながるというストーリーも実に少年漫画として気持ちが良かった。
なにより私が評価しているのは、「俺がいる」がただの狂人の言葉で終わらないことです。
最初こそ迷惑なオッサンの決め台詞だった「俺がいる」は、次第に頼もしいヒーローの言葉となり、素朴なる祈りともなり、そして何よりも熱い誓いともなっていく、この過程の中で航一と読者の中でヒーローのあり方に対するステレオタイプな憧れが姿を変え、「何を守りたくて力を振るうのか」というかより本質的な問へと変わっていく構成が本当に巧みだ。
ヒーローとはなにか、どういったヒーローになりたいのか、なぜヒーローになりたいのか、なぜヒーローが必要なのか、ヒーロー社会の根源に流れる問が一人の少年の背中越しに一つの道として描かれる。
「個性社会におけるヒーローのあり方とはなにか」という難問に、ヴィジランテ(非合法ヒーロー)というタイトルを冠するにふさわしいだけの完璧な解答をしてみせたとても素晴らしい作品でした。
物凄い売れている。
そもそもヒロアカが売れていたからヴィジランテが生まれたわけですから。
ですが、一つの漫画として、少なくとも「ヒーローとはなにかへの回答」としては、ヴィジランテの方が一枚上手だったと私は思います。
女性に能力と責任を求めるな!!!女性に地位と金を寄こせ!!!
↑これで日本の未来が悪化しないと思ってるならもうなんか日本を信頼しすぎだろ。お前らにとって日本はスーパーマンかなんかか?
なんというか、「こんな日本じゃ子供産みたくならない!!」って言ってる人たちには一生そのままでいてもらったほうが、長期的な目線では今後の地球全体にメリットあるのかなって思わないでもない。
働く熱意を持ってている人たちはこの問いを無気力でネガティブなものだって言う気もする、確認はできないけど。わたしにとっては、働く熱意があって前に進むことばっかり言うのはある種の逃避で、今ある労働が求めているものという合理化が進んだ状態、エーリッヒフロムに言わせれば自動機械みたいな、そういう状態だなと思ってる。
評価面談のたびに、なぜ働くのか、なぜやりがいを書き出すことを求められるのかと思う。わたしにとって今ある労働が自分で選び取った目的なのか、それを断言する人はそう多くないと思う。会社や社会が求めるこの行為は、自発的な合理化を求めているってそう感じる。強制ではない緩やかな矯正だと思う。
もし、わたしのベストな道があるとすれば今あるわたしの好奇心を満たす楽しいことができる生活を保つ程度に働いて、その労働がわたしの楽しみを邪魔しない。そんなバランスで働けたらベストだなと思ってる。これも合理化かもしれないけど。
上司にそういう話をすると向上心があった方がいいとか、そうは言っても一生今の給料のまま行くのかとか(今後家族が増えればおのずとそうではうまくいくまい)という答えが返ってくる。
わたしもそれは辿っている思考で、そして上司は乗り越えてきたのだなと思う。つまり彼も自動機械に生まれ変わったって冷笑することもできるけど、わたしの未来だとしたらそういうこともできない。
じゃあ仕事を頑張ろうってそういう方向で向かうと嫌なことがたくさんある。苦手な人、苦手な仕事、残業そういった何かをするのに、自分そのままで立ち向かって、否定でもされたら、わたしは自分を抑圧してまでなぜかくなるうえは否定されなければとも思う。
だから、仕事で生きる社会上のわたしとプライベートで生きるほんとのわたしそれを分離してみる。分離してわかりやすくファッションなんかも変えて、ほんとは柄シャツばっかり着てるけど、ユニクロの無地シャツなんて着てみる。仕事上の否定もそれはわたしが信じてるほんとの私じゃないから、仕事をすること自体は気にならなくなってくる。
それでも嫌な人はいる。でも、嫌な人が家でも嫌なやつかってそうじゃないと思う。ほんとは優しいかもしれない。嫌なやつの原因は、会社という構造の中にいるからであって、その個人という要素自体は構造との関係でやな奴になるんだって思ってみる。そうするとまだ気持ちが落ち着くから。
ここまで思ってみて、やっとわたしは必要以上に残業をしないで済む。
それでもみんな残業を進んでしないわたしをよく思ってくれるってことはない。それは普通だと思う。わたしは人間主義主張の善悪っていうのは、集団の中の関係性に過ぎないと思ってる。東條英機やヒトラーが英雄の世界線もガンジーが異常者として評価される世界線もありえたと思う。飛び抜けて働く正方向(世間一般の言説から見て)の逸脱者を許すなら、働かない逸脱者を許すのが道理なのではとも思う。
誰かが誰かを否定した時、わたしに求められるのは共感だ。わたしがどんなに個人という要素を嫌悪しないという意思を持っていても、唯一の肯定は共感になってる。これもおかしな話だと思う、わたしは誰かの否定を考えたことがある、だからあなたの意見もわかるけど、会社っていう環境なんじゃないかって思うって返せば、わたしが共感ができない否定的な人間とみなされる。社会規範が全ての原因帰属を個人という要素に求めてくれらなら、わたしたちはそれを持たなくてもいいと思う。
わたしはここに書いてなにを求めているのかよくわかってない。わたしにとってインターネットの一方通行のコメントは、個人主義の押し付けであって、道徳や良心にはならないから。それでも何か教えてもらいたいのかな。わたしが先日の飲み会で感じたわだかまりをただ灯篭みたいに流して成仏させたいのかな。
私がTwitter(現在はX)をはじめたのは、2009年の11月ごろであった記憶がある。いわゆる「オタクの雑多垢」であり、その時好きなアニメやゲーム、ファッションやメイクや音楽など雑多にいろいろなものに興味を示して、毎日が楽しかった記憶がある。昔からのフォロワーが成人したり、結婚したりとライフステージが変わったり、私自身もまた結婚をしたりと年数を経るにつれて変わりゆくものを楽しんでいた。
私は興味があまりにもうつろいやすく、その時ちょうどあるブラウザゲームにはまっていた。オタクである私は当然それの二次創作をも愛していた。自分で作品を書いて合同誌に寄稿させてもらうこともあった。
その、ある年の話である。そのブラウザゲームの二次創作の作家が、ちょっと炎上したのだ。彼女が推していたキャラクター(カップリングだったので二人)は私も好きだったので、どうか界隈に迷惑をかけるようなことはやめてくれという思いでその話題を追っていた。
しかしながら炎上は止まらず、火元である彼女が火に油を注ぎ、結果同人作家としての悪名というのか、名前を出せば「ああ、あの人ね」となるような印象づけまでもされるほど有名になってしまった。
私は彼女を追っていくにつれ、いつのまにかヲチ垢になっていた。
彼女のよくないところを公開ツイートで言及し、批判しているアカウントに同調したり、彼女のツイートをリアルタイムで追ったり。
そのうちに、多くのヲチ垢には「質問箱」や「マシュマロ」があることに気づいた。それは匿名で、ユーザーに質問ができる外部サービスであり、それをご意見箱として利用しているヲチ垢というのが当時多かった。
「なんて便利なものがあるのだろう」と私もそのまま設置する運びとなり、質問箱には連日彼女の話題や、彼女の友人のこと、それから何気ない日常のことなどが投稿されるようになった。それに答えるのが楽しく、また他者にそういうはけ口、あるいは相談されることがなんとも誇らしいようになってきたのだ。もちろんこころないことを言われることもあった。すると、私の意見に同調する人が代わりに箱に批判の意を入れてくれるようになった。
今思うと完全に場外乱闘で、クソ恥ずかしいし痛いのだけど、当時は自分がご意見番のようで楽しかったのだ。
公開で箱を置きヲチ垢をしていると、ヲチ垢のフォロワーも増えていく。TLはそういったことで埋まり、いつしかかつて楽しかった、好きだった作品のことや、おいしそうなパンのことは見えなくなってしまった。それでも当時私はそれが気持ちよくて、誇らしくて、たまらなかったのだ。
終わりは案外あっけなくやってきた。飽きたのだ。飽きたというより辟易した。ある時昔からのフォロワーたちに食事に誘われ、新宿の焼き鳥やさんで串もりとうすい割もの酒をたしなみながら話す機会があった。フォロワーといえど住所も名前も知りえる、もはや腐れ縁のような人たちだった。
するとどうだろう、私だけその会話についていけないのだ。他人につきまとってああだこうだと口角泡を飛ばし合っていた自分は、いつしか自分が一番好きなジャンルの、新作が出るという会話にすらついていけなくなるほどのめりこんでいたのだ。
私は愕然とした。思えば彼女たちのツイートすら目に入ってはいなかった。ヲチに一辺倒で、質問箱に信者とアンチを集めて、それで自分の言葉はさも特別であるというように胡坐をかいていたのだ。
帰宅してTLを眺めた。いつもの通り質問箱にはたくさんのメッセージがある。TLにはやらかしたコスプレイヤーや、不潔で話題の作家などのヲチ情報であふれかえっていた。
昨日までなら「今日は何か収穫あるかな」とか、「この箱主さんの続報まってたんだ!」って思えたことが、なんだかすごくくだらなくて、無意味なことに思えてならなかった。そんなことより今すぐに、推しジャンルの新作の話のことが知りたくて仕方がなかった。
私は化け物になっていたのだ。承認欲求を満たし、よくない行いをしたものを叩き支持を集めることで、まるで自分が「オタク界隈に一家言ある人間」のように思えていたのだ。
そう気づいたとき、ひどく恥ずかしく、人生に何の関与もしない、言動と化粧がキモいレイヤーなんかに入れあげてることがしょうもなさすぎるとおもったのだ。
私は質問箱をやめた。ついでに昔からのアカウントを削除した。そこにはヲチ垢さんのFFがたくさんいたので、ブロックするのも忍びなかったのだ。
私の新しいアカウントには、昔から仲良くしてくれるフォロワーと、新規で仲良くしてくれる方ができ、楽しくやっている。
それでもオタクアカウントなので、そういったヲチで、箱をもつユーザーがRPで流れてくることはあるのだ。もちろんオタクじゃなくても箱を置いているユーザーはいる。
だけどほんとに、箱にぬくぬく虚栄心を育てられて、ご意見番になったつもりの人が多いなととみに思うのだ。私がたまたま辞めてよかったと思うタイプの稀有な人間なのかもしれない。
自国の利益の為であれば近隣諸国を騙すことも、関係悪化することも、
自国の未来ある若者を戦場に送り込むこともためらわない愛国者(笑)であると言う点で、
先鋭的で妄信的なプーチン信奉者程、キチガイじみた反アベだったりする。
君達が何をやりたいのか僕はさっぱりわからないよ。
「絶対よくなる!日本経済 スパッとわかる経済ニュースの大問題」
「完全講義:リフレ戦記――アベノミクスはなぜ勝利できたのか――」
同意。子どもの姓をどう決めればいいかは新しい悩みで、合意形成はおろか何の議論もない。
夫の姓を選ぶケースが多い
多様な個性を認め合う時代になっているものの、依然として結婚においては「夫の姓」を選ぶケースが多く見受けられます。
そのため、周囲では「結婚したら男性側の姓で統一する」ことを当たり前と考える人が多いでしょう。
女性側の姓を選ぶと、家族や知人から思わぬ反応をされるかもしれません。
事実婚という選択肢
何も考えずに未来を迎えると「子どもの姓 どう決める?」の結果が
夫の姓を選ぶケースが多い
DINKsという選択肢
になりかねない。
現時点では、一人ひとりの訴えたい内容や意見を公平に取り上げているメディアはない。
「過激なことをしないとニュースで取り上げてもらえない=内容に関わらず過激なことをするのがメディア戦略として正しい」になっている。
・それと同時に過激なことがどれだけ許容されるか。
N党のポスタージャックとか性的ポスターとかは、一般的な感覚では許されないし私自身も嫌悪感はあるし選挙にふさわしくないと思うが、嫌悪感を抱くような選挙活動でもやる自由はある。
感覚でこれはやっていい、これはやっちゃダメ、と決めてはいけない。ふさわしい・ふさわしくないは個人のお気持ちで決めることじゃない。
お気持ちを優先すると、お前の顔汚いからポスターはがせ、みたいなことに繋がりかねない。
・ひまそらあかね氏がどんだけ票を集められるか。
氏が掲げている『公金チューチューを無くす。』は、(当選しなくても)票を集めれば集めるだけ不正してる人にとっては「あ、こんなに注目されてるならしばらく控えとこ」と行動抑制に繋がるので都にとってはプラスになりそう。
ただ、その公約がどれだけ報道されるかも気になるところ。そんなん陰謀論だと思ってたけど、新聞等のメディアがここまで当該案件だけをカットして報道に乗せないのはちょっと怖い。
ここまでSNSでもメディアでも話題になってる都知事選での若~中年の投票率が低かったら、もう本格的に政治家がその世代のために仕事する理由がなくなるよね。
未来のことを気にしてたら当選できないから、後のことは考えず上の世代が逃げ切れる社会づくりだけ考えるようになる。
「今日の夕食何食べたい?」って聞かれた時に無視したんなら何が出てきても文句言うなよ。
文句言っていいのは「●●を食べたい」って答えたのに別のが出てきた時だけ。
核廃棄物の最終処分場っすか、それをどうにかしないと核エネルギーの利用なんて話にならないっすね。地球上に処分場を作るなら、地質的に安定している場所を選ばないといけないっすね。例えば、地下深くに埋める方法とかが検討されてるけど、反対意見も多いのが現実っす。それに未来世代に対する影響も考慮しないといけないっす。
少なくとも、今のところ明確な解決策は見つかってないけど、議論だけは進めていかないと、あとで手遅れになりかねないっす。もっとも、わたし個人としては、現実的な選択肢を早く提示して議論を終わらせ、実行に移すべきだと思ってるっすね。問題を先送りにしても何も解決しないっすよ。
東京都知事選が混迷を極めている。
保守のアイドル「小池百合子」と左派のアイドル「蓮舫」の戦いだ。
共産党の闇の力を手にした蓮舫が、絶対王者「小池百合子」に挑む。
民主主義の手によって。
これが今の日本だと、そう思う。
失われた20年が30年になり、40年に迫ろうとしている。
氷河期に陥り、その長い不況の中で自民党や、それに追従する資本家は、
日本を立て直した人々は、もういない。
あの頃は違ったのだろう。
日本には未来があった、ゼロから、マイナスから、立ち上がる未来があった。
確かに自由恋愛や、男女平等も無く、労働者の権利は今以上に弱かった。
黒部ダムの建築の如く、多くの人が見えない所で亡くなった現実も、あるだろう。
それでも、あの頃を生きた人には、
あの頃を生きた人は羨ましく、輝いていたように思う。
何も学ばない、愚息であったのか。
生き残った意味は、なんだったのか。
腐敗と堕落、慢心と楽観の中、
ただ漫然と過ごしたのならば、しらずのうちに選択肢が搾られるのは、
個人がそうであるように企業もまた、自治体も、国も、同様であろう。
もうすでに、この国に選択肢は残されていないのだと、そう思う。
今一度、立ち上がり40年に迫る遅れを取り戻す胆力も、不遇逆境の中、あらゆる汚名と損害を被ってでも尚、手にしたい未来も、
既に無い。
資本家に無いのも、政治家や、その周辺に佇む非民主主義的に滞在する者共も、同じであらう。
都民かあるいは市民の、名も無き人々に残された最後の選択肢なのかもしれない。
今、これを読む人々が、どれほど真に政策による社会変革を信じているだろうか。
それよりも望むのは腐敗した政治家と、その家族の破滅ではないか。
彼の上級国民の如く、衆愚の視線が求めるのは、傲慢と堕落に満ちた醜態を晒し、正義の名の下に捌かれる光景ではないか。
小池都政を私は評価できない身の上だから、彼女の功績の是非については語らない。
蓮舫が勝ち、そうして自民党政権が再び「お灸をすえられる」のだ。
しかし今、国民はあの時ほど、旧民主党系政党や左派連合に夢や希望を抱いている訳ではないだろう。
あの時ほど、夢と現に惚けるほど、愚かではない。
再び混迷の時代に突入して尚も、保守政党の破滅を望んでいるのである。
自民無き後、残された者たちに、国政を担う力は無い。
辛うじて生き残っていた多くの企業が、力を削がれるだろう。
残された世代も、力は無い。
あの戦後のように連帯し、明日へ向かって共生する事など不可能だろう。
辛うじて生き残った企業もまた、人を雇う力が無い。
頼みの綱であった外国人労働者も、
「人を育てる」ノウハウは失われ、同時に次の世代に何かを残す力も残されていない。
もし、それが決定的となる出来事があるとすれば、
2030年~2040年の震災か、2040年~2050年の戦争だと思う。
いずれにしても遅かれ早かれ、この二つは確実に起こる。
期待は出来ない。
そもそも自ら生き残り、私腹を肥やす事をしてきた世代の、その二世・三世だ。
日本というものに発展が見込めないのであれば、それを捨てない理由はない。
辛うじて維持されていた理性の部分が、瓦解する。
その事が否応なしに叩きつけられる。
いずれにしても、
だが、その時の日本に、
馬鹿だったなと、笑いたい。