はてなキーワード: 有用とは
きっと私の体験はどこかの誰かを救えると思うのでもし有用だと思ったら広めて欲しい。
どこかの誰かの役に立てるのならと、私は恥を晒している。
汚い話で申し訳ない。
ちなみに漏らしたのは昨日の話である。
朝からお腹の調子が良くなくて、でもどうにか出勤して、午前中の仕事を間もなく終えようとしていたときである。
尻の穴がおならを出したそうにしていたので、音を立てなければセーフではないかと私は尻穴を緩めた。緩めたらじゅわっと何かが出た。音を立てておならをするよりもアウトな事態が起きていた。
今日の服装はスキニーパンツ。慌てて尻に手をやるとじわりと湿り気を帯びていて。
とにかく、すぐに席を立たなければ椅子がやばい。私はすぐに立ち上がり、0.00003秒の内に自分にできる最善の策を考えた。
そして生理用品のポーチと財布とハンドタオルを引っ掴むと、事務所を飛び出しトイレに向かった。
トイレに入る前、私はペットボトルの水を二本買った。財布まで持って出たのはそのためである。ちなみにこの水は、多目的トイレなど、個室内に洗面台があるトイレであれば不要だろう。
トイレに駆け込むと、まずはトップスと靴下を脱いだ。このふたつを汚してはならない。特にトップス(運よく丈の長いものを着ていた)は尻を隠す生命線である。守り抜くのは勝利への絶対条件だ。
次に、慎重にスキニーを脱ぐ。できる限り被害を広げないように慎重にだ。そしてパンツ姿になったらまずそのまま便器に腰かける。
スキニーを確認すると、被害範囲は掌に収まる程度であった。迅速な行動のたまものである。
苦渋の決断だが、私はパンツの下痢をトイレットペーパーで拭うと、パンツをペーパーにつつみゴミ箱に捨てた。彼女を救うには、もう手遅れだった。
亡きパンツのためにも、スキニーは救わなくてはならない。スキニーはパンツが身を挺して下痢を受け止めたので、茶色い汁で濡れているだけでまだ救えそうだ。私はトイレットペーパーでできる限りの汁を拭うと、ペットボトルの水とハンドタオルを使い、可能な限り汚れを拭い、洗い流した。
幸運なことに黒のスキニーだったので濡れていることはわかりにくい。しかしそのままノーパンではくのははばかられる。
できる限りスキニーから水分を絞ったあと、私は生理用ナプキンを二枚取り出し、粘着面を貼り合わせ、それを股にあて、その上からスキニーをはいた。両面吸水面にしてあるから、スキニーの水分を吸ってくれるに違いない。
勿論まだスキニーは濡れているが、自分の椅子に他人が座ることはない。濡れたとしても明日までには乾くだろうし。
そのパンツの両面にまたナプキンを貼り付けて午後の仕事を片付けているうちに、スキニーはナプキンの吸水力と私の体温のおかげで退勤までには乾いた。
・生理用品は常に四枚以上持とう
・おならと思って油断するな
以上です。
俺は多分HDMI
俺の脳みその中をそのまま垂れ流して見ようと思う。
現在20代後半、天職に巡り合って7年位続いてるけど、それまではバイトも派遣も1月続いたことが無いくらい無能だった。
今もまあまあ無能だけど、向いてるらしくて続いてる。
タスクは忘れるし、指示うけてすぐに携帯で漫画読んじゃう、集中力も続かないから会議中ぼーっとしてたりして怒られることも多い。
今の環境に不満があったりなかったりするけど、漠然と今の仕事が無くなったらどうなるんだろうかと思う、やっぱADHDというか集中力の無さがあって、基本的な連絡のマメさとかレスポンスの良さが足りない、数字の関わる正確な仕事もストレスがデカイし、仕事ができる人にはなれないんだろうと思う。
テーブルの上にゲータレードとコーラの空容器があったり、食べかけのお菓子が置いてある、片付け本当に出来ない、引っ越しも彼女にケツ叩かれながらなんとか出来たくらいのもんで、デスクの汚さなんかは上司も諦めてる。
話戻ると、漠然とした不安でなにかをしたいとは思うが、座学がとにかく出来ない、
座学が苦手で、多分そこまで馬鹿じゃないと思うんだけど、とにかく学が無い、高卒、でもネットサーフィンやらなんやらで無駄な知識だったりはめちゃくちゃある、この知識がそのまま別の有用な知識だったらと思う、グランドピアノの黒が漆の黒だとかの知識って人生で使いみちなさすぎ
もう長文飽きてきたのでこれで終わりにする
女性アイドルと一言で言っても音楽ジャンルもコンセプトも多様である。
音楽ジャンルで言うならば、王道のアイドルポップもあればパンクもメタルもニューウェーブもテクノもヒップホップもEDMもプログレもアイリッシュもジャズもアキバ系もあって、大衆音楽の主要なジャンルはまあまあけっこうな割合で網羅されている。この界隈も本気で掘ればあなたの好みにあうアイドルはかなりの確率で見つかるはずなのである。なので、アイドルに関心が持てるかどうか、という話であれば、基本的には「掘りが足りない」という話になる。
ただ、問題は、めっちゃ掘ってお気入りのアイドルを見つけたところで、それで元増田の「好きな人」と会話が成立するかどうかである。前述の通りこの界隈もけっこう多様な世界なので、アイドルヲタ同士でも全然話が通じない、っていうことはそれなりにあるのである。自分個人の話をすれば、日本語の歌に関しては99%アイドルしか聴かないが48・坂道・ハロプロにはほとんど興味ない(坂道系では欅坂はちょっと聴く。今のハロプロではこぶしファクトリーはちょっといいかなとおもうけどライブに行くほどじゃない)みたいなことがあるのである。アイドルあんまり知らない人からすれば、48・坂道・ハロプロ以外にアイドルなんているの?てなるかもしれないが。
元増田の「好きな人」が具体的にどういったアイドルのヲタなのか、元増田が普段どういう音楽を好むのか、どういうアイドルを聴いてみてダメだったのか、などなど重要な情報が足りていないため、ドルヲタとしても有用な情報を提供できないのである。
PS4のDQ11はしばりプレイも含めてプレイ済みで、DQ11Sの体験版を最後までやりました。
しばりプレイ設定は、「防具なし」以外全部にしました。防具なししばりは、防具装備が必要なクエストがクリアできなくなるため、やりこみスタイルと反するので最初から外してます。
はずかしい呪いしばりにくわえての、レベル上限しばりと敵が強いしばりは、ゲームの性質が少し変わりました
体験版で出会ったバグは、ホムスビ山地でジャンプしながら先制アタックしてたら、先制アタックのカーソルが一切出なくなったこと。一度冒険の書に戻っても同じままで、一度ゲームを終了させたらもとに戻った。
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
職場の同僚に、前職が大規模SIの末端プログラマだった人がいる。
つまり、仕事の相手は常駐先の元請けSEというのが、職歴の殆どを占めるという。
今は客と直接取引する仕事をしているのだが、客と頻繁にトラブルを起こしている。
「今こういう状態なんですー」
と、ほぼそのまま客に伝えてしまう。
ちなみに怒った客が言ってくる内容はとてもシンプルかつ、ごく当たり前のこと。
すなわち
「未解決な部分をどうやって、いつまでに、どこまで解決するのか」
という話なんだが、この問い合わせの主旨をガン無視して、答えられるところだけ、しかも自分が言いやすい形(≠客が理解しやすい形)で話すもんだから、火に油の展開に。
そもそもそういう交渉で武器になる「エビデンス的な諸々の記録」も取っていないとか、かなりダメダメ。
どうしてこんなことになってるか推測するに、どうも今まで開発の現場で元請けのSEに対し、悪い意味でざっくばらんに話してきたノリの延長で客に話していて、それの何が問題なのかを理解していないっぽい。
そりゃ元請けSEはどんなに使えない末端プログラマからでも、とにかく可能な限り問題解決に有用な情報がほしいから、相手の話す内容がどれだけクソでも親身になって話を聞き出そうとするだろう。
だから下請けに対して同じ釜の飯を食ってるようにも振る舞うし、そういう身内感を醸してナンボでしょ。
でも客は違う。何をどこまで、どんな風に話し、逆に何に触れないでおくか、それを考えるのも当たり前に仕事の一部になる。
もちろん理解をいただくために必要な記録や資料はきちんと提示するし。
ちなみに自分はその人と正反対に、元請けSEなんて利害関係の最たる相手と緊密にやり取りするのが超苦手で、むしろ他人行儀な方が良いと思っているので、客を身内か何かと勘違いするノリには頭を抱えてしまう。
ともかく、今は上司がその人を一生懸命指導しているけど、一向に改善する気配がない。
どうしたものか…。
業界に入る前にインターンとかでこの辺を知ると、その後のキャリア選択に有用です。
プロジェクト全体を回す人として、スクラムマスターとか、プロジェクトマネージャー、が設置されているケースもあります。
たまにバズると反応があるが、はてブ、トラバでいろんなタイプがいるので、感想と上から目線で論評したい。
自分の記憶を言う:文書を書いた人間と向き合わず、自分と向き合ったり、集まってくるブクマカの方を見て、話を自分の方向に誘導しようとしている感があるが、あまり嫌な気持ちにならない。こちらも記憶を共有しているし、他人の記憶の風景というのも思わぬ発見がある。共感合戦である。
歴史的な文豪や映像作家との類似性を指摘する:自分の教養に注目を集めたいスノッブ感はあるが、褒められれば嬉しい。それに、名前を検索すれば勉強になる。
感情を表明する:嬉しい。特にポジティブな感情や切ない感情、日常の笑っちゃう瞬間の感情など、そここそ共有したいので、素直な感情が感想として一番刺さる。
自分自身の行動を変えようとする:嬉しい。自分が見つけた日常の豊かさなどささやかなものだが、それにより他の人が小さな豊かさや美しさを世界に発見するかもしれないと思うとちょっと気分がいい。
誤字や文章の無意味な繰り返しなど、未熟を指摘する:ムッとくるがありがたい。もっと精進せねばと思う。
好みに合わない、読むのをすぐやめたと表明する:ブクマ数が伸び出すと出現する。合理性がない行為だなと思う。政治的立場や日常の権力問題などで自分と違う意見が蔓延することを警戒し、一言、反対表明をするならまだわかるが、モノローグ系は毒にも薬にもならず、別に読まなきゃいいだけのはず。
文章への反省と改善を求める為に最大限ネガティブなアラームとして「読まない」という態度を表明する戦術を採用したという可能性も考えられるが、前述の様にバズり出す、つまりよく読まれた状態で出現することが多いと言う状況から判断すると、「読まない」と言う選択をしたごく少数の人の意見を参考にして文章の方向性を変えることにどうも合理性を見出せない。
「多数意見に半旗を翻せちゃう独立心旺盛な自分」を他のブクマカにアピールするのが目的か、目立つものを見た時にネガティブな意見を言うことに自分を見つけてしまっている状態だと思われる。
ダジャレ、大喜利:はてブ伝統の知的スポーツ。自分の知的技能、回転の速さに酔いしれている感があるが、嫌いじゃない。時々一本取られる。
自分ならもっといい解決方法を知っている、もしくはすでにとったと言う表明:マウンティングも甚だしいが嫌いじゃない。それは多く、日常の豊かさや嬉しさの表明だから。それに時々本当に知識が広がって勉強になる。
上から目線で褒める:行動というより態度やスタンス。「よくよく考えたら上から目線である」ということに気づかないことが多く、その瞬間素直に嬉しがってしまう。でもその上からの態度も猫に褒められてると思うとなんとなく可愛いし、あまりムカつかない。嬉しい。
トラバ:あんまり本気で読まない。議論が広がる様な指摘は少なく、大概の場合はネガティブな感想を書くのみ。時々、有用な情報や感情の共有を試みる「ちゃんとした人」がいるが、トラバがエスカレートすると、最初のような「新顔が来たから現実的なワシが世界の厳しさを思いしらせてやろう」とうんこを投げつけに駆けつけるはぐれボスゴリラといった風合いのトラバ(もちろん無視する)との扱いの差に対して妙な不公平感を感じてしまい、ちゃんとしたトラバには心の中でそっと「ありがとう」とだけ言う。
高校までは話が合えばいいぐらいの気楽さだけど