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2023-07-17

俺は庵野として生きるけど君たちはどう生きるか

ちょっと庵野好きすぎんよ~。

ってことでいいんじゃないか?

駿は庵野になりたかったんだよ。で観想を見ると成功した。

駿が庵野好きなのは風立ちぬ周辺から一般人でもそれとなくわかってると思う。

んで今度はさらに、ちゅうか最後庵野みたいな作品も作りたくなったんじゃね。

庵野なんかさーエヴァから始まってリブートまで、ゴジラはよかったけどウルトラマンライダーもすっげー駄作じゃん。

一般人が見たらぽかーんでつまらない作品。でもオタクどもがうぞうぞ集まってアレがコーでコレがアーでオリジナルのあれが~当時のあれが~ってめっちゃ勝手にワイワイしてつまらない自己満足視聴者にわからせるつもりが無い作品のいいとこ探しをそれこそ一生一所懸命にやってくれんの。そしてそのためにはわかんね~って言う見下せる一般視聴者必要なのね。

対して駿はわかられすぎ。一般人にわか作品を出してヒットして徹底的にわかられてやんの。

千と千尋ハウルももののけもみんなエモさを感じてテーマを感じて子供から大人までわかるわかるしてんの。

それこそ振るわなかった過去作品までさかのぼってわかるわかるされてんだよ。駿丸裸。

その成功には鈴木御大の手腕が大なところもあるだろうけど、駿本人はわかられすぎて不満もあったんじゃね。

ミステリアスさとか俗人とかけ離れた理解されないセンスとかさ~。もしかしたら駿は欲しかったのかもしれない。もうちょっとかられたくなかったのかもしれない。

駿は鈴木とわれわれ凡百な人々によって俗物に引き摺り下ろされたんだよ。一般人ウケるヒットメーカー世界の駿。

世界ウケる監督としての評価はあるけど誰も寄せ付けない天才さら天才、誰が彼の作品100%わかるのか?という軸には行かなかった。

庵野はそっち方面に居て、ここ最近さらに先鋭化していってる。

庵野が好きな駿もそっちに行こうとしたのでは。娯楽ヒットメーカーに飽きて、遺作だし好きにやろうって部分も大きいだろうけども。

そもそもそういう庵野化の兆しポニョであった。あったよね?歌のヒットを除けば過去作品ほどわかるわかるされてなかった。一般人にはこれって…?て観想もままあった。

君たちはどう生きるかではついに抑えていたいろいろな何がしかのタガが外れて駿が好きに作った作品になったわけだ。


あとはわかるな?

エヴァやシン仮面ライダーウルトランのときと同じだ。

よくわからない、あまり面白くなかったといった観想を一部のしたり顔「わかるマン」が叩いて回って俺はわかるぞと崇高な考察をあげつらう。一般人はいやでもつまらんし駄作だ。っていって反論はわからいか駄作ってやれやれ…と高みから見下す。いつものアレ。

駿、あん大成功だよ。今頃大爆笑してるよ。俺は庵野のような作品を作れたんだって。いやいや作ろうとして作れるのはやっぱ天才だよ。駿すごい。

駿の庵野化には作品だけではダメでそれを見た視聴者ちゃん庵野作品のような反応をしないとダメだった。そしてはてなだけを見てもそれは成功してる。俺が、俺たちが駿の生きたい方向に駿を押し上げられたんだ。

今まで俺たちは駿にとってシンに嬉しい視聴者じゃなかったかもしれない。でも遺作としてこうやって最後にわからない駄作と論じる視聴者になることで駿が喜ぶ視聴者になれたんだ。おめでとう。おめっとさん。

駿、よかったな。お前の最後映画、クソ駄作だぜ。庵野よろしくな。

何か悩むと、すぐ、生きるべきか死ぬべきか、だから

目の前がすぐ真っ暗になり二者択一

悩んだらまず「生きるモード」に切り替えてからスタートだ!

それから 君たちはどう生きるか を探せばいい!

君たちはどう生きるか考察を見て本当に考察って無意味だなと思った

みんな言ってること違うしこれ検討はずれだなと思うと非常に恥ずかしい

俺は実際に見て衒学的だなと思ったから分からない物は分からないで留めた

物語わたしたちの中にある(君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか、をみた。

自分ジブリファンではないので、物語の先にある「モデル」や「元ネタ」までは考えが及ばないのだが、

「こんなお話だと解釈したぞ〜」ってのを書きたい!(ネタバレあり)



大まかなストーリー

ライフステージ転換期の、戸惑いと受容を描いたお話」だと思った。

・眞人:少年から青年期への変化(ヒミ=ヒサコも同年代

・ナツコ:青年から母親への変化

転換期の渦中、心や体の変化に戸惑いを抱える者たちが神隠しにあった〜みたいな。

キリコに関しては、次のステージに引き上げてくれるキャラに感じた。

ちょっと悪知恵をくれる先輩だったり、手助けしてくれる産婆さんみたいな(実際物語では船頭や見守り役に徹するし)。





以下、私の解釈をつらつら書く



1.変わりたくない眞人とナツコ

戦時中だが暮らしには困ってなさそうな眞人。

だけど眞人はこの先の人生に興味がなさそうで、疎開先の学校も嫌、新しいお母さんも嫌、

気持ちはこれから先の「生」よりも、死んでしまったお母さん、つまり過去」に向いている。

しかし体や心は先へ先へと成長していて、ナツコや父親の「性」に触れて戸惑い、怒りを感じている。

塔への侵入が失敗に終わった後の眞人の声の低さに驚いた。

「塔への侵入を試みる=精通メタファー?」なのかな。

2次成長の強調を感じて、眞人は少年青年になりかけている状態なんだなと思った。

初期、アオサギヘ異常な攻撃性を持って接しているのも思春期のあまりあるパワーを感じたw

自傷行為は、クラスメイトへの嫌がらせではなく「こんな環境に送り込んだ父親」を責めたい面もありそう。

自分拒否しているんじゃない、周りが自分拒否しているんだ」という状態を作り出したい、

社会への拒絶を相手のせいにしたい…という受け身な心の表現のように思えた。

アオサギはそんな「社会的死を望む眞人の心の表れ、葛藤」なのかなと。

成長なんかしないでずっと自分の中にいたい!ずっと子供でいたい!みたいな願い。

眞人はずっとお母さんの子供でいたかった。

異世界に行ったのもの「ナツコを取り返しにいくぞ〜!」みたいなモチベがあったわけではなく、

ただただお母さんに会うために、流されるままにいった印象。

なんなら「お母さん=過去」に向かって、成長したくない〜〜みたいな思いも抱えながら向かっている感じ。

門をあけるのもペリカンの力だし、船をこぐのもキリコの力。

まだまだ与えられる存在の「キッズ」なんだよね。

同様に、ナツコもつわりに苦しみ、出産が怖かった。いきなりできた息子(眞人)が怖かった。

言われなきゃ妊娠中なんてわからない、母親感のない妖艶なお姉さんビジュ。

そんな、変化が怖い!変わりたくない!状態の眞人とナツコが、同じく殻に閉じこもった大叔父に導かれて異世界へ行ったのかな〜というのが物語の始まりの捉え方。


2.大人のヒミツを知ってしまう眞人

ヒミとの出会いは、「自分の中の母親像に別の面を見つける」という体験だったんじゃないかなあ。

母親元少女だったことを知る、そして少女母親になるということのヒミツを知るというか。

産屋に入る=禁忌を犯す…というのは、「性行為」を知る?とかなんじゃないかなと。

(ナツコとヤったとか、ナツコで抜いたとかじゃなく、どうやったら子供ができるか知っちゃう…みたいな)

ヒミ/ヒサコ、ナツコ、眞人は性行為を知っているか楽園から追い出される…みたいな見方もできるのかなあ。大叔父はそれを知ることを拒んだからずっと楽園にいる。

血の表現の多さや、おどろおどろしいジャムパン処女性の喪失のようにも思えたし、ジャムパンキリスト教で言うワイン(血)とパン(肉)にも思えた。

(あの食事シーンでキリストとの契約人類繁栄させ続けることを約束させられたのかな?とも思ったり。)

精子っぽい表現の多用、「命を奪う、頂く」「命が死ぬ、命をつくる」みたいなモチーフも多くて、全体的に「命の受け継ぎ」が描かれてる感じがした。

ワラワラ邪魔をする老ペリカンたちは、戦争によって死んでしまった人や今で言う氷河期世代なんかの

「そう生きざるをえなかった人々=命を繋げなかった人々」なのかなあとも思えて、

その選択や悲しみを否定する気にはならず、敵キャラだとは思わなかった。

このへんは私が出産適齢期を過ぎつつある未婚女性からそう感じ取ったのかも。

そしてこれだけ性的な印象を感じておきながら、物語全体を通して「子を産め」というメッセージだとは思わなかった。

というか、大叔父世界で作り出されるワラワラたち=精子たち?は…なんか受精しなさそうな感じがするw

殺生もせず、無垢もの加害意識を持たざるもの)の精子放出は、オナニーなんでないかい…?と。。

ナツコが「あんたなんて大嫌い」みたいに言うのは、眞人だけに向けられた言葉じゃなくて

子供を産み育てることへの恐怖、与えられる存在から「与える・守る存在」に変わらなければならない、母になることへの恐怖の表現なんじゃないかなと。

眞人が「お母さん」と呼びかけることでやや柔和な表情に変わるのは、眞人への好意ではなくて覚悟が決まったような、我を取り戻したような感じがした。

あのシーンでナツコは母になる覚悟、眞人は大人になる覚悟母親の死を受け入れ新しい母親を受け入れる、実社会と向き合う覚悟)が決まった感じ。

そういう意味ではこの物語神隠しではなくて、「ナツコの出産」の寓意でもあるのかな?


3.世界への責任に気付く眞人

13個の石の積み木が駿の作品数を意味しているとは思いもしなかった〜!(というかそんな知識なかった!)

英語12まではeleven…twelve…て数えるけど、13からはteenで数え始めるので、そういうキッズティーンの境目に留まる…みたいな意味なのかなと思って見てた。

叔父キッズにしがみついて、1から13まで積み続けるが13を超えられない(13個詰むとバランスが崩れてしまう)

知識自分想像の中だけで楽園を作り上げ、維持している。

眞人にとってのアオサギは、大叔父にとってのインコ大王なんじゃないかな。大叔父は、インコ大王と共に自分楽園に閉じこもることを決めた。

眞人はアオサギを説得し、社会と向き合うことを決めた。13よりその先の世界を作っていくことを決めた。

(この異世界聖書楽園だとしたら、キリコは蛇の側面もあるのかな…)

叔父もけして悪役とは思えなかった。

本をたくさん読んで知識理想社会への願いはたくさんあったんだろう。だけど実社会で石を積むことを選ばず、自分楽園を"理想世界"にすることを選んだ。

叔父は眞人を楽園に閉じ込めようなんて思ってなくて、世界へ送り出すことを心から喜び、希望を託しているように思えた。

このシーン、これが駿からメッセージなんだろうなと思って見ていた。

自分理想知識教養を大切に、でも自分の中だけでもなく、血縁でもなく、半径5mでもない、外の世界と折り合いつけて"よく生きてくれ"みたいな。

いつまでも誰かの作品や誰かに庇護される世界に留まっているなよ〜みたいな。

私たちはみんな14個目のブロックを渡されていて、この世界をよくするためにそれを投じる責任がある。そんなことを思った。


4.じきに忘れていく

神隠しのような、蘇りのような、胎内回りのような鑑賞体験を通して自分が感じたのは「やだ〜〜思春期追体験みたい〜〜〜」という感想

アオサギが言ったように、私たちはじきにこの感情を忘れてしまう。

だけど異世界は石のカケラと、キリコ人形を残してくれた。

成長と共に、私たち世界への意志理想希望や野望)はどんどん弱まってしまう。だけどカケラぐらいはみんな持っている。

自分が忘れても、キリコ私たち思春期を見守っていてくれた少し上の先輩)はうっすらとその青い時代を覚えていてくれる。

私たちはいつかの眞人でありナツコでありキリコなんだろうな。

この社会の暖かさと、この社会大人として生きていく自分責任…みたいなものを感じらせられて、鑑賞後はなんだかじんわりと涙目になってしまったのだった。


感想おわり

アッ…そういえばこの映画には「おわり」がなかった。たぶん。

監督から後世を生きるわたしたちに対して「社会と関わること」「命を紡ぐこと」「ものをつくること」のバトンを受け渡されてるような気がして、

この世界はおわらない、つづいてく…さぁ、君たちはどう生きるか?みたいなメッセージを感じた。(タイトルのまんまァ!!)




さいごに

この映画難しいなって思ったのは、小さな感情の動きやメタファーっぽいものバラ撒かれていて、

それらが調理されて最終的にハンバーグやらカレーになって出されるでもなく、そのまま終わるところ。

見る人は、物語カケラ自分なりに取捨選択して、頭のなかでそれぞれのストーリー調理しなければいけない。

それゆえ、ジブリや駿ファンはそれを彼らの社史や人生だと捉えるし、そうでない人は何か別のものに捉えるのかも。

(当然"カケラ"だけ渡されるわけなので「なんのストーリーもなかった…なにこれ?」となるのも当たり前。)

私は出産適齢期を過ぎつつある未婚女性なので、どうしてもカケラの拾い方や積み方にクセがあると思う。

でもそういう、「見る人によって様々なミスリードが生まれる=見る人の中にいろんなストーリーが生まれ作品」って本当に面白いと思うんだよね。

結局この映画が見せているのは映画ではなく、自分自身のような気がする。

私の勝手解釈を読んでイラだった人もいるかもだけど、もしよかったら他の方が感じたストーリーも教えてほしい!

▼楽しかった解説メモ

先人の皆さんたちの解説も楽しく読みました〜!!(ジブリいろいろ未視聴なのでほ〜そう読み取ると確かにおもろ〜と勉強になった…

https://anond.hatelabo.jp/20230714205336

https://anond.hatelabo.jp/20230716093137

https://anond.hatelabo.jp/20230715212033

もう誰もりゅうちぇるの話してないじゃん

君たちはどう生きるかじゃないんだよ

人が死んでんねんで!?

はてなリベラルたちは宮崎駿批判しなくて良いの?

君たちはどう生きるかでも戦中を舞台にしてるのに日本の罪に触れず嫌儲で猛批判に晒されてるけど

韓国系評論家宮崎駿の「風立ちぬ」を痛烈批判=「非常に不道徳」「真の目的を覆い隠している」―米国

https://www.recordchina.co.jp/b80372-s0-c10-d0052.html

宮崎駿作品を見た欧米人「なんで戦時中舞台なのに、日本戦争犯罪が描かれてないの?自分戦争犯罪の加担者だと認めたくないの? [257926174]

https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1689583516/

宮崎駿君たちはどう生きるか」の検証にもならない独り言/ジブリ映画感想レビュー

大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋普通に並んでる様な文化人解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。

さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。

ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨投稿をしている人は何人もいた。

果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。

特にメモをとってわけでもないので、ディテール齟齬がある部分は勘弁いただきたい。

1、話の骨子

真人空襲(?)で母親を失くす

その後、母親の妹が新しい母親となり、母親実家疎開(?)をする

亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親真人は心を開けない

金持ち仕草抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMA能力があったため圧倒する

帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う

亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2

その後成長した少年は新しく生まれた弟と家族と共に東京に戻る

ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。

2、おしいれのぼうけんなのか否か

いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。

今回は後者の説をとらせて貰いたい。

真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。

この原著小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので

あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤かに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙である

うっすら覚えている内容も、格差によるキャズム父親金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。

聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由言論活動抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学見出したようだ。

吉野源三郎ニーチェの対比については東洋哲学視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。

そういった意味では吉野源三郎日本ニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。

なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。

3、これは大事ものから

庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事ものから」と新しい建築物で囲った。

ここで思い出すのは聖書の一節である

「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。

健全なる精神健全なる身体に宿れかし」

と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。

さておき。この大叔父の言っている「これは大事ものから」は絶対的価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したもの戦前、戦中に世に溢れていた「常識なのだろう。

この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観真人少年に届けることに成功する。

✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合はいくつかの齟齬生まれる。

4、アオサギの指すもの

本作でトリックスターとして描かれるアオサギ古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。

混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。

全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!

という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。

敵か味方か、友人かわからない存在

見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在相対的価値観象徴としてこの上ない。

ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。

アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者キリストとしても解釈をされている。相対的価値観象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。

嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるものスタンスでその答えが変わるだろうアオサギトリックスターに据えたのは、アオサギ不死鳥火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?

5、ペリカン反戦

わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。

出雲大社をはじめ、神道結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎新婦螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。

この「螺旋」という存在は、永劫回帰もつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのもの平等に無価値で、それぞれが相対的価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。

下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。

ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人であるアウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿フラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルメタファーではないだろうか。

ペリカン第二次世界大戦でも輸送機爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である

6、インコがよくわからない。

インコ軍団の描かれかたは、当時の日本軍部の急進派やポピュリズム扇動された国民イメージとさせる。

ところが、インコアオサギペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。

あえて言えば、ポピュリズム扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。

これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。

1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。

何故、インコなのかは本当にわからない。

まとめ

本作は極めてシンプル構成少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本バックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。

ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやす理解が困難であるところが極めてわかりやすい。

現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカ宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的宮崎駿である

なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念しかないだろう。

よっぽど忙しい人や、ジブリ宮崎駿が嫌いな人も最初10分で良いから見てほしい。

そんな狂気に溢れた作品であった。

おまけ 

昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。

宮崎駿引退するまでに一回で良いか柏葉幸子作品監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。

君たちはどう生きるかネタバレ感想

感想を書く。

面白いけれど、なにがどうなってるのかさっぱりわからない映画

これ以上に感想の書きようがない。

エヴァQよりも訳が分からなかった。

面白いかつまらいかでいったら、面白いんだよ。でも説明がねぇんだよ!! しろよ!! 詳しく!!」

碇シンジの顔でキレたくなる。

庵野秀明「宮さん。これ、もう少し説明したほうがいいんじゃないですか?」

宮崎駿お前が言うな

というやり取りがもしもあったら激しく萌える。そんな映画だった。

オタクメタ的に観ないと辛いかメタ的に観てるだけ

君たちはどう生きるかメタ的に観ないと辛いじゃん

だってメタ抜きだと君たちはどう生きるかってシンエヴァと同じこと言ってるぜ?

現実を受け入れ、そこで清く生きなさい」

今更こいつらがオタク氷河期に対してこれを言うかと

で、そういうオタクを観て「うわ、まだこいつら現実観ようとしてないわ笑」って嘲笑ってるっでしょ、はぁー

君たちはどう生きるかが響かなかった件について

普通にネタバレあるからまだ観てない方はスルー推奨】

結論から言って

犬王(アマプラ)

廻るピングドラム(アマプラ)

君たちはどう生きるか(劇場)

を立て続けに観た自分に、一番刺さったのはピンドラだった。

ジブリの新作がそうでもなかったや…という事実しょんぼりした理由は、自分に響いたのが

持つ者の冒険

よりも

持たざる者の救済譚

だったからだ。

ピンドラについてはいろんな人が言及してると思うから割愛する。

今回は、ジブリの新作がピンと来なかった地味なショックについて書こうと思う。

君たちはどう生きるかの中で印象に残ったのは、黄泉の国という名の生き地獄になっていたペリカンたちが最後あの塔から飛び出して、眞人に「出られたんだ、よかったね」と言われるところ。

そこで初めて自分が、乙事主よろしく老いペリカンが語った「絶望感」に共感していたのだと気づいた。

扉を開ける直前にお母さんが言い放った「火は得意よ、素敵じゃない!」は普通に泣かせポイントだったからそれはそれとして、

しか家族観をめちゃくちゃ大事にする文化を持つ韓国の人たちが千と千尋を見た時に号泣したのが冒頭の「両親が豚になる」シーンだったと聞いた。

それと同様に、半ば宮崎駿自伝ともいえる今作の通低音が「今を生きる人たちのバックボーン」とは異なりすぎてて、しかも我々のそれが割と地獄めなベクトルへ向いていることを、「自分にピンとこなかった」ことで改めて突きつけられたような気がしたのだ。

冒頭から描かれる「すげえいいとこの家」という事象けがギラギラしちゃって、内容が頭に入ってこない。

金持ちの家の子」という要素だけで、「自分とは違う子」として切り離して捉えちゃって、主人公やその周りの人物の誰にも共感できない。

目の前に展開されているのはフルスロットル宮崎駿なのに、最後までついぞ一緒に冒険できなかったのだ。

金持ち描写一つで足止めを喰らい、あの作品を正面から喜んで受け取れないくらいには、自分が貧しくなっていた。

なんかそれが妙にショックだったというか、悔しかった。

と同時に、かねがね思っていた〝最前線文化教養は「生存不安のない者」たちからしかまれてこねーんだな、そいつらの夢想という名の創作物をありがたがって消費してるのが私なんだな〟という、自分もびっくりするほど狭量な感覚に襲われた。

ってゆー結論なっちゃうのがどうしても悔しいからもう一回観に行きたいなとは思ってるんだけど、Twitterとかで「とりまもっかい見る」つってる人たちの心の中、なんか同じような感覚の人いない?

ねえいない??

コミケ原稿落ち着いたらもっかい見に行く予定ではあるんだが、その時にはすっきり消化できてたらいいなあ…

anond:20230717104235

シンエヴァはなんか酷くて途中で見れなくなったんだよな

アマプラで10回に分けて見たけど最後まで辿りついてない

それまでのエヴァは全部見てるんだけど、無理だった

君たちはどう生きるか映画館で見ると途中で退出してしまいそう

寿司ネタバレが酷い件

見ただけでマグロとかサーモンネタだって分かってしま

これでは驚きが足らないし、先入観を持って食べちゃう

「マグロ」サーモン」という情報を食べてるのに等しいよね

映画君たちはどう生きるかを見習って、食べるまでネタは隠してほしい

君たちはどう生きるか

レビュー賛否が分かれてるらしい。

評価と低評価割れてるとか。

昔はそう言う賛否の分かれてる作品こそが面白そうって思って観たくなったけど、今は見に行く気が起きない。

彼女非オタ)と語った君たちはどう生きるか感想戦

彼女「…全然からなかった笑」

ワイ「まぁ、ストーリーは分からなかったよね笑

でも、生きることへの肯定に満ちていたかな、って思うよ。

主人公はお母さんが戦争で死んだし、学校でも友達できないし新しいお母さんもなんだかって感じだったけど、

アオサギという友人や、人形になってでも守ってくれるばあややキリコさん、自分を助けようと刀を振るお父さん、自分でもわからない義理の母を助けたいという肯定的な気持ち、そして母が自分未来がわかっても自分を産むことで人生肯定できていた姿を観て母を殺す戦争があったりいろいろごちゃごちゃでペリカンが言うように地獄みたいな世界だけど、そんな世界でも自分は友を作り良い人生を送ろうと主人公が思えたのは素敵だなって思ったよ。

最後らへんは本当よくわからなかったけど、世界を変えるチャンスを得ながら、それより現実を受け入れる主人公も良かった気がする笑

なんとなくだけだ僕たちも喧嘩するし、世界も大変だけど、そんな中でもこれからもずっと一緒に良い人生を送れたらな、って思ったよ」

彼女「…はい

なんかこんな流れになって結婚することになりました

最近宮崎駿庵野のことしか考えてないだろ(ネタバレ

君たちはどう生きるか、あれはエヴァQ世界を戻そうと躍起になって破滅したシンジ君と同じように壊れた庵野に「世界なんて作り直さなくて良いんだ!ただそうなってしまった世界でよく生きれば良いんだ!」と伝えるためだけに作った作品でしょ

風立ちぬ庵野使ったのもQ作ってメンタルになった庵野ケアのためとか言われてるし、もう宮崎駿ポニョ以降は庵野のためにしか仕事してない

で、そのメンタルケアが功を奏したのか、シンエヴァも結局君たちはどう生きるかと同じような、世界肯定とそこでよく生きることをシンジは選んだし

普通に風立ちぬメンタルケア成功したんだから君たちはどう生きるか作る必要なかったでしょ

なんで俺たちはまたシンエヴァ観ないといけなくなったんだよって気分

逆に言えば、今の生き生きとした庵野がこれからも続くのであれば、もう宮崎駿は新作を作らないだろうな

それくらい宮崎駿って最近庵野のことしか考えてないなって気がした

君たちはどう生きるかアンチ君さぁ…

黙殺すりゃいいのに騒ぐからボランティア宣伝してるみたいになってんや

駄作駄作言うけどパヤオ謹製駄作とか逆に観たくなるし

今のオタクたちは「君たちはどう生きるか」じゃなくて「君たちはどう生きたか?」「君たちはどう生きていくのか?」が必要

年齢的に

君たちはどう生きるか」のYahoo!映画レビュー、平均2.9点なんだがやっぱり失敗作?

https://movies.yahoo.co.jp/movie/386117/review/?order=helpful_num_desc

やっぱり見に行くのやめた方がいい?

君たちはどう生きるか」は宮崎駿の壮大な壁打ちの可能

仕事アイデアを出せとか自分気持ち整理したいって時、とりあえず頭の中に思い浮かんでることを書き出すことってあるじゃん

そこに他の人も同席してもらって整理してもらったり、意見もらって頭の中整理する。みたいな。

君たちはどう生きるか、本人もよくわかんないって言ってるじゃん。それに対して視聴者批評してる。

まり、これは視聴者に対するアイデアの壁打ちなのでは?とか思い始めた。

映画素人が「あれは〇〇を表してる」「宮崎駿の〇〇の部分が」とか言うのは批評ぶってんな〜って思われてそうだけど、今回は逆にそれを集め、宮崎駿の次の作品映画以外も含む)に生かされるのでは。

例えば、のちに「君たちはどう生きるか-宮崎駿からメッセージ-」みたいな解説自叙伝出版されるみたいな。「あの時はさ、なんだこりゃと自分でも思ってたんだけどさ、言われてみたら〜」みたいなことが書いてありそう。

君たちはどう生きるかを見ていません。

見に行く予定もありません。

金ローを待ちます

君たちはどう生きるかを見て宮崎駿天才だと思った

君たちはどう生きるかを見て宮崎駿天才だと思った。

数十年のキャリアを持つ世界的に評価されている80代の映画監督が作った新作映画がここまで新規要素に溢れていることって普通ありえないんじゃないか

姑息で狡く臆病な主人公や、異世界に漂う濃厚な食人暴力の気配、宇宙からやってきた正体不明物体といった要素は、これまで宮崎が撮ってきた映画にはなかった。

そういった新規の要素を80代になってから作った映画に取り込みしかもそれらをこれまで宮崎が得意としてきた冒険譚、少年少女の成長譚の枠組みの中にきっちりと収めてきている。

宮崎の持つ引き出しの多さ、バランス感覚凄さを見せつけられた。

引退作品かいってるがまだ見せてない引き出しをもっと隠し持ってるだろう。

早く次の作品を見せてくれ。

君たちはどう生きるか父親母親姉妹関係について

父親母親姉妹関係について語られてるのをまだ見てないが、個人的には非常に気になった。

 

父親声優木村拓哉であることからハウルと同じく生まれながら女にモテる色男キャラであることは間違いない。

妻が死んで即妹に乗り換えた自分勝手サイコパス男のように見えるが、

もともと美人姉妹父親を取り合っていて、姉が死んだのをいいことに妹が色男自分のものにしたとも解釈できる。

妹の方から傷心の父親に近づき、誘惑して子供を身籠ったのだ。

嬉しそうに主人公に腹を触らせたのはそういうことだ。

お前の父親はお前の母ではなく私のものになったと自慢したかったのだ。

妹は主人公赤ん坊の頃以来会っていないという。

姉と主人公に対して相当複雑な思いを抱えていたことだろう。

憎しみすら密かに抱えていたことが、産屋のシーンで明らかになる。

好きな男の子供の良き母親でありたいという思いと、男を取られた姉の子に対する憎しみ両方を抱えていた。

そのどちらも本心であることから、あのようにわかりにくい複雑な表現になったのだ。

 

ヒミとなっていた当時の姉が父親関係があったのかどうかは示されなかったが、

おそらくその当時は三角関係はなかったのだろう。

から本能的な拒絶感をヒミは受け取っていたが、ヒミから妹への複雑な感情は描かれていなかった。

しかし、なぜ姉がそもそも死の原因となった病院入院していたのかという謎は残る。

宮崎駿母親が病弱だったので、トトロ母親と同じく病弱であることに理由はないかもしれない。

だがヒミに病弱な印象はない。

個人的にはジゴロな父親が、東京田舎姉妹二股をかけ続けており、それを察した姉が精神を病んでいたという説を提唱したい。

君たちはどう生きるか」何がつまらないのかわからない

ストーリーがとっ散らかってるけど破綻してないという意味ではラピュタ原作ナウシカもののけ姫に近いと思うけど

千と千尋よりよっぽど終盤カタルシスあったけど

まあそれら全盛期の作品に比べて老いエネルギーが減衰しているのは確かだがそれはまた別の魅力にもなっていて

ハウルポニョの百倍は面白かったけど

風立ちぬほどの退屈は微塵も感じなかったけど

共感やす主人公じゃないから入り込めないのか?

非合理に大した理由なく自分の頭を石で傷つけてしまうことにむしろ共感してしまうのは

俺が捻くれた子供だったからなのか?

何がわからないのかわからない、何がつまらないのかわからない

なぜ俺にだけこんなに深く刺さってお前らには刺さらないのか

まあこれから肯定的評価は増えてくると思うけど

からなかった勢の否定的な書き散らしを見てもない連中が真に受けてるのが何よりムカつく

君たちはどう作るか

宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。

ネタバレありだからね。

正直、観る前に想像してたより悪くなかった。

テンポも悪くないし、人間関係に緊張感もある。

作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。

火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。

田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。

もちろん、本物はせいぜい田舎豪農レベルなのだろう。

心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである

敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。

なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているかである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。

初対面から一目ぼれレベル主人公は慕っていたのだろう。

でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、

まあ、なんだ、ここから批判が多くなる。

まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。

これは褒めてない。

宮崎駿もののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。

1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。

まり寓話的で哲学的記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。

ハウルとか千と千尋とかでも顕著だったけど。

これの何が悪いって、妄想が爆発してないのである

ムスカラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。

あいう爆発するほど格好いいシーンに意味なんてないのだ。

「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」

という作り手の妄想の大爆発なのだ

妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。

その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。

本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作快感である

ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。

なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。

庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。

そこにはTVエヴァのような溜めに溜めた便秘解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコしかない。

一方、宮崎駿はそれを哲学記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界から、やたらとデジャヴがある。

もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。

でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在説明されてフェードアウトする。

エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズ世界になっても良かったのだ。

そこから進めて、「現代日本主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。

ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である

ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿マイブームである

そういう「意味」だけで構成されたパートからストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである

一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。

人力車描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。

多分、キャノピー実在ナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。

っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。

というのも、この父親ある意味主人公と後妻という二人の問題元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまタイプ

というジブリ作品ちょっと見ないタイプキャラからだ。

こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)

そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである

経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場意図せずに作り上げた鬱屈爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。

主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。

しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作快感を感じたのではないかと思う。

なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、

この父親勝手にやらかすし勝手決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、

前半には明らかに狂言回しだったこキャラけが、後半に「キャラ勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である

そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である

まあ、悪くなかったよ。

でもね、道徳副読本を作りたいんでもなければ、作品作る時はもっと一点の妄想・一点の美意識に全賭けしましょうや監督

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