はてなキーワード: 万葉集とは
ほんの50年ぐらい前まで日本人は本当に救いようがないほど頭が悪くて根性論で生きてきていたって事がたった四文字で理解できる。
たった四文字だよ。
その四文字の中に、この国の人間が如何に頭が悪くて将来を考えてなくて今現在のことすらろくに見えてなくて根性論と生存バイアスと偏見と目先の成功ばかりに包まれて無知無能の渦の中で偉そうに出来もしないことを掲げては見えを張り合っていたことが伝わってくるんだよ。
凄いよ。
何で日本人が戦争に負けたのかの理由すら「日本人は頭が悪かったから」で説明できてしまうことすらこの四文字からは想像できるんだ。
要するに、
「受験ゲームのルールがそうなってるんだからしょうがないでしょ」
という話だな。
俺も、今の古文漢文教育は無駄だと言われても仕方がないと思っている。
ただ実は現代の文法は、古文漢文を知らないと理解できないものがあることを知ってほしい。
「は」と「が」の使い分けの説明や
「浅い」「浅ましい」などの形容詞のいわいる「シ(浅し)」「シク(浅ましく)」は
状況→「シ」と情感→「シク」で分類されていると『万葉集』『源氏物語』などの古典を引用しながら説明している。
是非、一度読んでみてほしい。
俺が、学習指導要領を改定できる立場で、古文漢文教育に対して一言申せるならば
現代文と古文漢文の枠組みを外して、まず国語文法を教育することを提案したい
(正直、現国の読解なんてマークシートなら、出題者の意図読めば、問題文と選択肢を読めば解けるし、良く批判される「筆者の気持ち」は今も問題にされるのか?)。
https://anond.hatelabo.jp/20170731142310
詩経が載せる詩句は、以下のとおりであったとされる(邶風第五《終風》第三章)。しかし、数百年も経てば、その意味は分からなくなってしまう。
終風且曀 不日有曀
寤言不寐 願言則嚏
そこで、後漢の鄭玄(AD 127-200)は、第四句「願言則嚏」の意味を「あなたが私を思ってくれたら、私も嚏をするはずなのに。」という意味であると解釈し、その旨の注釈を加えた。いわゆる「鄭箋」である。元増田のいう「今俗人嚏云人道我、此古之遺語也」は、その「鄭箋」中の語句である。
この鄭玄の解釈が正しいなら、元増田がいうとおり、詩経の時代から「噂をすればくしゃみをする」という考え方があったことになる。
しかし、この第三句、第四句について、単に「あなたのことを思って夜も寝られず(寤言不寐)、体調を崩して風を引いて嚏をした」という身も蓋もない解釈もある。
この解釈が正しいとすると、「くしゃみをしたら…」の迷信の存在は、差しあたって鄭玄の時代にまでしか遡れないということになろう。
もとより、この迷信について、鄭玄の上記解釈を前提とする説明自体は、万葉集の和歌と絡める部分を含め、江戸時代から指摘されていたような話のようであり、その点に関する元増田の理解を間違いと断じるわけではない。
しかし、ソースをググれば、例えば「《箋》今俗人嚏云人道我、此古之遺語也」と一発で出てくるのに、「《箋》」でピンと来るような前提知識がないと、この点に不正確な部分を残したまま、トリビアとして広まってしまう虞もあろう。
しれっと21世紀でも生き残っているが、もともとは『詩経』に出典がある。
今俗人嚏云人道我、此古之遺語也。
嚏がくしゃみ。今俗諺に、ある人がくしゃみをしたら、「誰かが自分のこと噂してるな」という。
これはとんでもねー話で、そもそも『詩経』は成立段階も分からず、周(紀元前1046年ころ~紀元前246年)の時代に成立したともいわれる。
東アジアでもっとも古いテキストの一である『詩経』に、古い言い伝えだ、と書かれてる。
そんなのが21世紀もいまだに俗諺として生きている。
もしかしたら卑弥呼(紀元239年に魏に遣使、周の時代が去って約500年)だってくしゃみして
「てめー難升米、私のこと噂しただろッッ!」
とか言っていたかもしれないのだ。
万葉集の時代には、くしゃみで噂、は確実に日本に知られていた。
眉根掻き 鼻ひ紐解け 待てりやも
返歌
今日なれば 鼻ひ鼻ひし 眉痒み
思ひしことは 君にしありけり(巻11-2809)
「鼻ひ」がくしゃみ。くしゃみをするというのは、相手に想われている、という俗信があった。
眉を掻いたり紐が解けたりってのも、相手に想われたり、相手に会えるという予兆なのだそうだ。
ここでは、相手の女の子が眉を掻いたりくしゃみしたり、紐が解けているんだろうな。そんで私がいつ来るか来るかと待ってるんだろうな。
なんか今日はくしゃみはでるし眉はかゆいしで、あなたが想っていたからこんなことになっていたんですね。
ということで万葉集の時代には、ほぼ確実にくしゃみで噂は日本に来ていた。
で、21世紀の私たちもなんとなくこれを受け継いでいる。これってかなりすごいことだと思う。
最後になるけど、『詩経』に載る情報がなんらかの手段で日本にもたらされてから、連綿とこの俗諺が息づいてきたか、はわからない。
今はくしゃみで噂、は多くの人が知っているけれど、たとえば、江戸時代のある時期はそうじゃなかったかもしれない。あるいは、足利尊氏はしらなかったかもしれない。
『詩経』のテキストはずっと古典としてあるから、くしゃみで噂、は一旦絶えても、古典を読む人がいる限り復活する可能性がある。
だから、連綿と、卑弥呼の時代からずっと私たちがくしゃみで噂を知っていたかは疑問だ。
これと関連して、私たちはくしゃみで噂、をあるていどみんな知っているけど、なぜこうなったのか。これは調べなくてはならない。
なにかみんなが見るような教科書や雑誌や、あるいはテレビドラマやコメディがあって、それでみんな知るにいたったのだろう。
「〜〜もへったくれもない」の「へったくれ」って何なんだと思って調べてみたら、
リンクがたくさんあると投稿できないのでhttp抜きにするがあしからず。
★「へったくれ」の語源は不明。「妙なことを言う」という意味の「剽軽(ひょうきん)」→「剽(ひょう)げる」からの成立とされる「へうたくれ(ひょうたくれ)」の転訛か?・・・根拠なし。
確かに音的には近い気がする。
//kotobank.jp/word/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%82%8C-613424
「だってもへちまもない」にも繋がっていてなかなか説得力がある。
いまでも関西では「だってもへちまくれもない」と言うことがあるそうだ。
★『野乃舎随筆』には「今下ざまの人の悪言に、ヘウタクレといふは、ヘタクレといふ辞の転言なるべし。ヘタクレは、クソタクレといふ辞の転言ならん。もとはクナタブレを訛れるなるべし。クナタフレを、屎タフレと訛(あやま)りて、其対言に屁タクレといひしを、それを又、ヘウタクレと、音便にいへるならん」とある。
なんだか詳しい。
★茨城方言に「へったくれる」が残る。もしかすると、これが関わっているか。「へたった」「へこたれた」と同義…参った、挫(くじ)けた、くたびれたなどの意。
「ヘタクレ」「クソタクレ」が挙がっているが、「ヘタレ」「クソッタレ」は関係があるのだろうか。
そういえば「糞垂れ」や「洟垂れ」なら分かるが「バカタレ」などは何が垂れているのだろうか。
糞便の「くそ」に、軽侮を強意する接尾辞「たれ」(用例;「ばかたれ」「あほたれ」、「だら」の変化したものか?)を付したもの。
//ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%8C
この場合の「たれ」は垂らす(=もらす)というより、「アホたれ、バカたれ」に見られる目前の人を罵る際に付ける接尾語というニュアンスが強い。
//zokugo-dict.com/03u/unkotare.htm
どうも物理的に何かを垂らしているというわけではないようだ。
ちなみに「へたれ」の語源についてもやはり諸説あるらしいがここでは措く。
この「罵倒に使われる接尾語『たれ』」というのは何だろうか。
「たれ」と「たくれ」が同根だったら話が早いのだが…
上記には「『だら』の変化したものか?」とあるのでそれを調べてみよう。
考えてみれば「あほんだら」の「だら」だろうし、北陸の方言にも「馬鹿」という意味で「だら」というのがあった気がする。
「あほんだら」の語源については「阿呆太郎」であるとの説もあるが、近隣地域で見られる同様の罵倒語である「だら」「たくら」が阿呆と結びついたものである可能性がある。
「あほんだら」から「だら」が出来たのかと思ったが、「だら」が先にあって「あほ」と結びついた可能性があるのか。
阿呆太郎→あほんだら→だら、という順番の可能性はあるのだろうか。
あんぽんたんは、「阿呆」と愚か者の意味の「だらすけ」が複合された、「あほだら」「あほんだら」が、転じた言葉である。
「阿呆」は「あっぽ」とも言われ、「陀羅助(だらすけ)」という薬(「陀羅尼助」の略)もあったため、「反魂丹(はんごんたん)」や「萬金丹(まんきんたん)」という薬の名から、「安本丹」ともじられた。
ええー…愚か者の意味の「だらすけ」って何よ、検索しても薬の「陀羅助」しか出てこないけど。
と思ったら、関東の方言で「でれすけ」というのがあるらしく、これは明らかに「だらすけ」の転訛なんだよな。
罵倒語「だら」を薬の「陀羅助」に引っ掛けて「だらすけ」と言っていたとか?
それだったらやっぱり「だら」が先にあったということになるのか。謎である。
「ばかたれ」について、別のところの説明にはこうある。
「たれ(垂れ)」は「はなたれ小僧」「小便たれ」「ばかたれ」など、名詞について人を軽蔑する意を表わす語としても用いられる、これは、小便や鼻水などきたないものを「垂れている(ぶら下げている)」ことを表わしたとする説、重みでだらりと「垂れ下がる」姿がだらしなく見えるところからとする説などがある。
一周して、やっぱり物理的に垂れているところから出発してるんじゃないか。
ちなみに「へこたれる」は「凹む+垂れる」が語源だそうなので、前述の「へったくれる」説が正しいなら、この「垂れる」が由来だと言えるかもしれない。
ここで驚愕の新説が登場する。
これについては,実際に何かを「垂れて」いない罵倒語の「たれ」は,平安時代にはやった「たくらだ」という言葉の末裔だといわれています。
中国の古典に「田蔵田」という間抜けな動物が登場するのですが,これが日本人の笑いのツボにはまったらしく,後々までバカ=たくらだとい図式が成立します。
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321653228
「へったくれ」,「ばかたれ」,「ごんたくれ」,「あかんたれ」など,何かを垂れているわけではないにもかかわらず「たくれ」「たれ」という語尾をもっている場合は,ほとんど「たくらだ」の訛りである「たくれ」「たれ」と解釈して差し支えないといわれています。
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321653228
これまでとぜんぜん違う説明じゃん!
いやでも実際に「たくらだ」という言葉はあるらしい。
たくらだ【田蔵田】 の意味
ジャコウジカに似た獣で、ジャコウジカを狩るとき、飛び出してきて殺されるという。転じて、自分に無関係なことで死んだり傷ついたりするもの。愚かもの。まぬけ。
一人の文殊より三人のたくらだ
東北の方言の「たくら者」「たくらんけ」なども「たくらだ」に由来しているそうな。
これが正しいなら「へったくれ」も合わせてこれが語源ということになる。
ん、そういえば「あほんだら」のところでも罵倒語「たくら」というのがあったな。
それが「たくらだ」由来なんだとしたら、「だら」の語源も「たくらだ」なの?
なんとなく繋がってきたような…。
またはじめに戻って「クナタフレ」説について調べてみよう。
【史料1】では「多夫礼」のみであるが、下って戊午(12日)条の宣命によれば「久奈多夫礼(クナタブレ)」とある。上記では「改名多夫礼」とあるから、久奈が氏(ウジ)で多夫礼が名と思われる。クナは「頑な」のクナ、タブレは万葉集に「多夫礼多流之許都於吉奈(多夫礼たる醜つ翁)」(巻17、4011)を確認でき、狂っている意と思われる。よって、ここでは「頑なで狂っている者」という姓名に改められたことになる。
たぶ・る 【狂る】
気が狂う。
「たぶらかす」なんかも「たぶる」が語源らしい。
最初の『野乃舎随筆』では、「クナタブレ」が「クソタブレ」と勘違いされて「クソタクレ」と訛ってさらに「糞」の対として「屁」を用いて「ヘッタクレ」になった、というような説明がされているが、「たぶれ」が色々なものにくっついて「〜〜狂い」「〜〜馬鹿」みたいな感じで使われているのなら、「糞馬鹿」みたいな感じで「クソタブレ」と言われるのは自然なことのように思う。
この『飲んだくれ』の”だくれ”とはどういった意味なのでしょうか?
実はコレ、、、
だくれは、タクレということばと同義で『愚か(おろか)になる』という意味なのです。
//www.buddhism-j.com/6-27nondakure
でもそうか、最初に挙げられている「剽たくれ」の「たくれ」もこの「たくれ」か。
ということは「剽たくれ」説と「クナタフレ」説は、「剽」と「屁」という字の違いこそあれ、ほとんど同じことを言っているわけだな。
追記:いや「剽たくれ」が「たくらだ」由来の可能性も普通にあるのでここは結論を出すべきではないか。
脇道に逸れるけど、「塗りたくる」とかの「たくる」ってのは何なんだろう。
これか。
「荒々しい」というのは「狂う」に通じる気もするし、「飲んだくる=盛んに飲む」と解釈するとめちゃくちゃそれっぽいけど、でも「ひったくる=むりやり奪い取る」から「荒々しく」が派生したんだとしたら、「ひったくる」は「引っ手繰る」だし、別語源なのかな。
というわけで「へったくれ」の語源はこんな感じに整理できるのではないか。
1. 「たぶれ(狂う)」に由来する罵倒語「たくれ」(剽たくれ・屁たくれ)
2. 「田蔵田」に由来する罵倒語「たくれ」(剽たくれ・屁たくれ)
3. 「垂れる」に由来する罵倒語「たれ」(凹垂れ)
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
人類(ちょっと主語大きいかな、少なくとも日本人)が急速に技術的な進歩をしているように感じる。
私は今年30歳になる。こういう技術的革新のど真ん中に生きている。
顔はアジアンビューティーの超失敗したような顔だよ。顔が残念だからだと思うけど、脚はすらっとしてるねってよく褒められる(脚フェチの人、触りたい? ふふ)。自分でも脚のきれいさにはちょっと自信ある。背結構高いしね。
でもきっと、多分だけど、大化の改新のころもすごかったと思う。
大和言葉を外来の漢字にどう当てはめるか。すごく議論があって、そしてああいう結論になった。今に繋がる音読みと訓読みの二本立てにした。
官僚制がようやく大和朝廷でも進展して、文字で日本語を記録する必要があった。そして二本立ての和文がうまれた。その後ほどなく『万葉集』や『古事記』『日本書紀』ができた。
多分カタカナの発明も驚くべきことだっただろう。おいおい短縮しちゃうの? すげーな! って当時の人も思ったはずだ。特に僧侶。
書き言葉と話し言葉、微妙な距離感を保ちつつ鎌倉室町を経て、江戸の出版文化。これもインターネット並みに革命的だったはずだ。
明治維新以降の西洋の文化の流入もインターネット並みに革命的だったはず。高度経済成長も驚くべきものだ。
そして、今。今私たちはインターネットに驚いているが、多分100年後もの100年後並みの革新があり、日本人はそれを享受し驚いていることだろう。
私は150歳くらいまで生きたいなーと思う。こういうパラダイムシフトを感じることができるだろうから。今起点で考えると150年前はまだ江戸時代だ。150歳まで生きたら大きな「構造」の変化を見ることができるだろう。早くUSBに全人格をコピーできるようにして、アイボなりペッパーなりファービーなりに刺して無限の生を生きたいです。
昔からキャラ萌えが魅力的な物語を作るための基本だったのだけど。
ホメロスではペネロペイアたんprprなわけだし、シェイクスピアではコーデリアたんprprだし、ゲーテではロッテたんprprだし、トルストイではカチューシャたんprprだし、ドストエフスキーではドゥーニャたんprprだし。
ドラマや映画だってヒロインは美人ばっかり。オードリー・へプバーンとかいま見てもほんとにきれいだよね。
硬派なアニメが好きな人には申し訳ないけど、キャラ萌えがすべての基本なんだよね。これ現実。アニメだけの問題じゃない。えるたそ~してるのはキモオタのぼくらだけじゃないってこと。
なんできみらが美少女のことをそんなに嫌がるのかぼくにはわけがわからないよ。
硬派で内容があるといわれているエヴァだってコードギアスだってまどマギだって美少女ばっかりだよね?(とくに亡国のアキトのレイラ・マルカルってやばくない?)ファンの大半はストーリー考察して楽しんでるのではなくて、単純にほむほむしてるわけ。宇宙戦艦ヤマト2199の森雪とかも魅力的すぎてやばいよね。
昔のアニメだってそう。ハイジだったらクララが勃ったのクララさんは美少女だし、ロミオの青い空ではアンジェレッタたんとか超美少女天使だったし。
万葉集にだって恋の歌がたくさん載ってる。日本の神話ではたとえば木花之佐久夜毘売たんprprなわけだし。ニーベルンゲンの歌ではクリームヒルトたんprprだし。北欧神話ではフレイヤたんprprでしょ?
ぼくらキモオタは間違っていない。きわめて正常だ。世界中の人間が美人や美少女を見てはprprしているのだから。
美少女を見てすぐに豚向けだとか言ってるやつらがおかしいんだよ。たとえばけいおんにだってちゃんとストーリーはあるしドラマもある。
日常描写に意味を感じられないなら、それは純文学や詩を楽しめないのと同じだし、それって要するに感度が低いだけっていうか、物事の繊細さ、風雅を理解しないがさつな人間ってことなんじゃないの?
人が死んだり戦争したりっていう極端な描写、刺激の強いものしか理解できない人間ってことなんじゃないの?
曖昧な共感だとかを理解しないコミュニケーション能力不足な人間ってことなんじゃないの?
日本は和歌の文化だったけど、ときにはなんでもない自然を取り上げてこざっぱりと歌い上げたりしてきたわけだよ。アニメの美少女描写はそういう自然を歌ったときの感動に近いものがあると思う。未確認で進行形の真白たんはかわいさがやばかったけど、あのかわいさはひとつの芸術だよ。おしつけがましい演出ではなく、あくまで真白たんにとっての当たり前の動作として表現しているところがすごい。ここに静かな、だが奥深い感動があるわけだ。
美少女アニメはこれからも続いていくよ。ラブライブが馬鹿売れしたみたいだしね。結局ぼくらが求めてるものってそういうのなんだよ。
硬派なオタクはアニメがくだらなくなったとか嘆くけど、だったらきみがいいと思うアニメにちゃんとお金を出しなよ。ネットで俺わかってるみたいに気取ってないでさ、ちゃんといいと思った作品を買い支えなきゃ。オタクがみんな美少女いらねってなればそういう硬派なアニメが増えるんじゃないでしょうか。しかしそんなことになるかな。ぼくらは美少女が見たいのでね。
「音楽に限らず、すべてのエンタテインメントは子どもの為に企画設計されている。大人が対象では無い」
レコード会社でプロデューサーなんかやっているとこんなひねた考え方になるのかと驚く。中学時代はもう少し素直なやつだったと思っていたのだが。
それとも、近所の居酒屋で突発開催される30代のプチ同窓会みたいなやつは、仕事の話になるとだいたいこんな空気になるものなのだろうか。
今では三児の母(双子の出産を含む)のにぎやかなタイプだった女子が、「ちょっとー、最近日本の音楽って元気がないんじゃないの?」と言った。それが彼にとっては逆鱗らしかった。
彼女もずいぶん攻撃的だ。酔っているんだ。
「意見は別に良いだろ。ただ、エンタテインメント業界の人間が建設的と判断する意見は、子どもの為になるかどうかだと主張しているんだ。日本の音楽の良い曲がないというのが子どもの為の意見なら建設的だと思う」
「でも、子どもにエンタテインメントコンテンツを与えるのは親でしょう。間接的なものも含めたら大多数がそうじゃない。その親の主観を軽視するってのはーどうなの? だいたいあんた子ども子どもって子どもいないじゃない」
「別に軽視なんかしてないよ。子どもの為になるなら聞くもの。あと、子どもいないやつは子どものことを考えるなって言ってるならいろいろ言い過ぎじゃないかと思うが」
「私だってそんなことは言ってない。ただ、子どもを持つ親からすれば、大人の意見を聞き入れるのが建設的じゃないという主張はナンセンスに感じられるし、そんなナンセンスな主張をしている人が多いのがエンタテインメント業界なら、そりゃ廃れるわってなっちゃうわけ」
「大人の意見だって聞くって言ってんだろ。あと、子どもの中でも主に10代な。少なくとも多くの日本の音楽は10代を対象にしているんだよ」
「10代だって一緒よ。反抗期に買う音楽なんて、親の主張の単なる真逆じゃない。それも含めて間接的って言ったわけ。あのね、あんた親になるといいよ早く」
「それな、お前の子どもがもう10代ならリアリティがある意見なんだけどな」
「ムカつく!」
30代にもなるとみんな正確にエンタテインメントって言えるんだな。そうだよな、ニルヴァーナ世代だもんな。とか思いながら、トイレに向かい、いろいろ考えてみた。
レコード会社の人間からみて、対象が子どもだと言い切る理由は分かる。その対象相手に儲け続けた経緯なのだろう。
しかし、今は、下記のようなめっちゃニッチな音楽を作り続けている人たちと、ネットを通じて出会うことが出来る時代だ。
Bitplane - 恋は、Sensation (feat. Hatsune Miku)
https://www.youtube.com/watch?v=IelOdS6GmtI
https://www.youtube.com/watch?v=DbMT7kyf4NY
https://www.youtube.com/watch?v=DC07uizKL00
こうした音楽がアップされ続けるネット音楽事情に触れて、日本の音楽が元気がないとは思えない。むしろ元気になっていると言っていいだろう。
なぜならば、音楽産業ではなく、音楽という土台から考えるなら、売上規模を音楽の元気性の指標に入れるべき正当な理由がない。音楽の元気性を示す指標は純粋に創造頻度と発表頻度と視聴回数で捉えるのが自然だからだ。
だって、シェイクスピアや万葉集の頃の音楽が元気ではないと言えるか?という議論に誘導したら俺の完勝だろう。彼は資本主義前提の時点で視野狭窄に陥っているんだ。
また、こんな音楽、対象が子どもな訳がない。親の影響なんてあんまりない。だってこれ聴いて喜ぶやつの口元には必ずヒゲがはえている。
ヒゲにも親の影響とか言い出したら、全ての人間は死ぬまで少年法の庇護の範疇である。暴論だ。
従って、二人ともまったく違う。
争い事の原因が誤解だと分かれば楽しいプチ同窓会に戻るはずだ。そう結論付け、論駁してやろうと決意を固めた。ダメだダメだ。お前らはぜんぜん分かっていない。と。この素敵な動画をお見せしながら論駁してやろう。と。
もともと今の和歌山市に「わかのうら」という地名(つーか海の名前)があったんだよ。万葉集に出てくるよ。字は「若浦」になってるけど、音をあてただけなのでなぜ「わかのうら」と呼ばれていたかは不明。なお、その時代に、漢詩に対する「和歌」という概念は(多分)まだないので、「和歌の海」という意味ではないと思われるよ。万葉にも歌われたので、「わかのうら」は歌枕として有名になったよ。
戦国時代に、ここに城を構えた秀吉が、城の名前を付けるときに、あの有名な歌枕「わかの浦」を見下ろす山の上の城だから「わか(の)やま」だな。ハッハッハッ、ということで「わかやまじょう」と名付けたよ。そのせいで、「わかやま」という名前が出来たよ。
だから、「わかやま」の「わか」は、「わかのうら」の「わか」に由来するのは確実だけど、「わかのうら」の「わか」が何を意味したかは、今となっては分からないよ。ただ、今で言うところの「和歌」というハッキリした区分意識ができたのは万葉集よりもう少しあとだと思われるので、(たぶん、平安時代、紀貫之の頃だよ)「和歌の浦」という意味ではなかったと思われるよ。
S+ 常紋トンネル
S 旧旧吹上トンネル 旧善波トンネル しとどの巌 新三郷のトンネル(名称不明)
A 畑トンネル 八柱霊園(第、7、13区画、芝生霊園) 幽霊ペンション 八王子城址
B 千駄ヶ谷トンネル 伊勢神トンネル 旧野木病院 新吹上トンネル 小美玉小川脳病院
行ってはならない。入ると呪われる殺される、自殺、謎の事故死、らしい、という、話がある、耳にする・・・等。
殆どは都市伝説の域を出ないデマ。恐山や東尋坊のように元々神聖化された空間ならいざ知らず。
例えばトンネルは笹子トンネル事故でも有名な、単なる老朽化による崩落事故とか暴走族・ヤクザの住処といったありきたりな事に尾びれを付けたものが殆ど。
そもそも“出る”というのも口コミ程度でソースがはっきりしない。そんなにすごい名所なら十中八九新聞に載るものだけど、当時のニュースソースを取り上げての話がないし
あくまで噂レベルの話だったりする。
次に多い病院やホテルなどの施設類に至っては、殺人や医療ミスによる二次被害で経営破たん後耕作放棄地の如く捨てられただけ、または明治大正期の洋物ブーム~戦後の高級団地ブームなど時代ごとの流行が年月を経て廃れて廃墟化したという今でもよくある倒産事情によるもの。
島や穴は万葉集にも載ってる大陸や半島から渡ってきた技術者や伝道師が移り住んだ土地であったり、ポットホールなど地理学術的に証明された自然や人工による産物が殆ど。
それに尾びれが付いたのが、かの有名な桃太郎だったりする。
駅については、飛び降り自殺や酔っ払うなどして誤って落ちて死んだ事故や事件に尾びれが付いただけ。実際事故や事件の記事が出ても心霊スポットになってるというのは噂程度にしかない。
慰霊の森や霊園は戦没者を埋葬してるのでむやみに騒ぎ立ててはいけない。樹海も同様。なぜならあそこには生身のおくりびとがいるから。
冷やかしで入って行方不明になったり死んだりするのはそこを守っている守人、つまり狂信的な団体・組織の人に殺されただけ。何も不思議はない。
心霊スポットっていうのは人間の思い込みが原因で作り出された虚構。幽霊がいない事はマスコミが心霊現象に懐疑的になってきた事も証明してる。何を隠そう心霊スポットの出所は全部マスコミなのだから。嘘を嘘で塗り固めると傍目に見ても通常は嘘と見抜けないように、誰かが付いた嘘に別の誰かが賛同したらあたかも事実であるように誤認する。
人間の悲しい性よ。