はてなキーワード: ハイパーリンクとは
サーバーから情報が消えてしまうことが欠点であることは古くから分かっていたので、その欠点を少しだが補うためのサービスである。
https://japan.cnet.com/article/35076968/
だが、全てを記録することは不可能であり、またいわゆるGoogle一般検索ではアーカイブに保存されたページはほとんど検索されない。
wwwはそもそも、ハイパーリンクを持たせることによって情報を他に依存することが出来る仕組みなのだが、そのリンク先が消えてしまうと途端にその利点を失ってしまう。
さらには、技術がどんどん進化するので、古いwebページは「スマホでは読みにくい」という問題が発生していたりする。
あるいは、一般人が利用していたHP作成サービスのサービス毎消えてしまうことが増えていて、有用だったwebページの他のサービスサイトへの移行に莫大な手間がかかる(大抵個人がやっているからである)などの問題も起きている
大抵は、サービス毎消えてしまうとwebアーカイブにでも保管されない限りはそれで消失である
図書なら、どんな下らない本でもそれが一旦国会図書館に入れられる限りは半永久的にその存在を守られる。私も一冊だけ本を出したが、国が何か劇的なことで崩壊でもしない限り私が死んでもずっとその存在を守ってくれるだろう
インターネットにはそれがない。
随分昔になるけれど、いわゆる歴史問題で濃密な議論をしていた掲示板があった。かなり濃密で有用な知見を参加者が有志で自身で調べつつ共同で検証していくようなことをやっていた。
それからほんの一ヶ月で掲示板毎それら濃密な情報は消えてしまったのである。
ネトウヨがデタラメを垂れ流す、しかしそんなデタラメはそこで論破済みでありリンクを示すだけで良かった……としても、消えた情報は参照できない。
そんなことを最近しばしば見る。あのデタラメはあそこで論破されていたのに、自分では情報を持っていないから反論できない、みたいな。
情報をネットから消えないようにする仕組みは作れないのだろうか?
「忘れられる権利」は、インターネットでは重要な権利の一つだとは思うけど、そのために有用な情報まで消えてしまっていいとは思えない。従ってそれとこれとは全く別の問題である。現状は、結局の所、極端な話が政府レベルの機関にまでならないと情報の半永久保存はないと言っても過言ではない。個人的にはP2Pのような仕組みで、半永久的に消えない仕組み自体は作れると思う。ブロックチェーンだって出来たわけだし、あの犯罪の温床とされたWinnyは当にその仕組だった。あれが消えたのはほんとに痛い。どうしてその利点に誰も気づかなかったのだろう?
追記2
誤解する人がいるだろうなと思ったら案の定だった。WinnyはP2Pのその象徴例として出しただけであり、あのWinnyのままでいいなんていうつもりはないよ。だけどWinny2は掲示板を実装しつつあったんだ。これを知らないのか忘れているのかはともかく、その延長線上に消えないWebサービスがあり得るのではないのか、と思ったんだよ。そもそもがサーバーに依存しないという仕組みのことを言っているわけ。
P2Pはノードさえあれば、そのサービスに接続している端末がある限りは、半永久的にデータが消失することはない。まぁ俺には技術がないから夢物語だけどな。
でも、Winny2はいっとき、ひろゆきが2ちゃんねるに使おうと画策してたんだよ。そしたら金子氏が逮捕されたんだ。
でもああいうのの延長線上にある仕組みがあったらなぁと思うんだよね。
その議員の名前に所属政党や党役職を併記して報道するメディアが多いが、そんなことよりも選挙区を併記しろ。都道府県知事や市町村長と違い、国会議員は選挙区が分からなければ誰が投票したのかも分からないからだ。視聴者に対して、いちいち選挙区を調べさせる手間をかけさせるな。
選挙区を併記すればその選挙区の住民は間違った人を選出したと後悔することができて、次回以降の選挙に反映させることができる。近隣の選挙区民も、あいつらはおかしな奴を政治家にしていると注意することができる。
テレビ報道の際には是非とも、その議員が選挙に出馬する際の街頭演説の映像を流してくれ。そうすれば有権者に対して、こんな候補者を祭り上げて当選させてしまったのかと後悔させてやることができる。街頭演説はたいてい駅前や繁華街で行われているので、報道によりその地域と議員とを関連付けさせるのに効果的だ。
紙面やネットメディアなら選挙結果も併記しろ。紙面はスペースの都合上難しいかもしれないが、ネットメディアならハイパーリンクを張ればよい。有権者である私たちはこんな人を当選させてしまったのか、まだ対立候補のほうがましだった、と後悔させることができる。
ミクシィ?グリー?よく覚えてないけど、何が嫌いだったかと言うと、インターネットに自分の行けないところが作られるような感覚を覚えたからだ。
もちろん他にも会員制のように絶対にアクセス不能な場所はいくらでもあるのだけど、SNSは繋がりたい人同士を繋ぐ装置として機能し、繋がりたくない人を排除する役目も果たす。
私はどちらも嫌だった、繋がりたくもなければ排除もされたくない、その自由さが好きだった。自分の意志で決められるのがインターネットじゃないのか、と。
だから、SNSサービスは私にとってはいつも不自由さを感じさせた。
ミクシィは特に嫌だった。招待されなければ入れない、これが正直むかついた。私は自分の意志で決めたいのに、誰かから入れてもらわないといけない、この感覚がたまらなく嫌だったから、実際には簡単に入れるのにミクシィには頑として入らなかった。
グリーには入った。そうは言ってもSNSはインターネットサービスの大動脈になることは分かっていたし、いつまでも嫌ってもいられないと思ったから。
勧誘制ではなく、自分の意志で選択できるのが選んだ理由の一つだけど、でも実は気に食わなかった。
SNSをやっていると、自分の行けないところがあることに気がつく。
ウェブサービスの基本は、ハイパーリンクで好きなところに行けることだ。リンクさえあればひとっ飛び。それが好きだった。
これがSNSでは出来ない。説明しにくいが、検索でも分からず、見えない部分がある。仲間に入っていないとわからないのである。
全部繋がっているはずのインターネットなのに、その中に、システム的ではない、リンクされていない別のネットがある、そんな感覚。
見えている部分が人で全然違う。それは私が見てきたインターネットとは全く違うものだ。
インターネットは世界中の人と人を繋ぎ、これまで分断されていた社会のその壁を取っ払っていくものだと言われていたこともあった。
でもSNSはそれに反するものだとしか思えなかった。むしろ分断を生み、加速させ、衝突を生み出す、絶対そうなると私は思っていた。
フェイスブックは、考えるまでもないだろう。人それぞれで見えているタイムラインが全く違う。そこにあるのは仲間内だけの世界だ。シェアが繋いでいるように思うかも知れないが、実際にはそのシェアは分断を増長すらさせている。
極端な話が、あるクラスターは疑似科学だらけデマだらけ嘘ばっかりのようになっていたりする。そうした情報しかシェアされない世界がそこにある。フェイスブックは極端な閉鎖性を持つ。繋がっているはずなのに全然わからない別の世界が無尽蔵に存在する。
Twitterはそれとは全く異なるように思うかも知れないが、Twitterだって酷い。ここで見られるのは、日々繰り返される炎上騒動であり、激しい戦争だ。住処の違うものどおしが見えてしまうので、気に入らないとそれらを叩き始めて、言論攻撃で排除しようとする。
インターネットは人と人を繋ぐなんて全くのデタラメにしてしまったのがSNSなのである。
そもそもインターネットはハードウェアネットワークであり、ソーシャルネットワークではない。
それでも、あまりにも膨大な情報の宇宙から必要な情報を得るにはSNSを利用しなきゃならない。
ググって情報を得るなんて最早太古の昔の話であり、タイムラインに自動に流れてくる情報をまるでブロイラーが与えられた餌を食うようにして享受していかないと時代や社会についていけない。
でもやめたくてもやめられない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/mangakato/status/1220141797382348800
「漫画を描くときは1コマ1コマの情報量を高めて、1ページあたりのコマ数を減らすとスッキリ読みやすくなります」のツイートに対するブコメ欄なんだが、頭悪すぎでしょ。
(ツイートには例として、右にコマが整理されていない漫画、左にコマが整理された漫画、をのせた画像がある)
本当に、「スピーチするときは、言いたいことを整理しましょう」の漫画版ってだけの内容。それを、
「いや、同じ言葉を何度も繰り返すと効果的だって聞いたぞ」とか、
「煙に巻くような話のほうが面白いけどな」とか、
そういうこと言い出したら馬鹿じゃん。
議論になってない。カレーの話してるのにウンコの話されてる気分。
俳句は五七五で構成されてますよって話してるのに、「字余りはどうなんですか~?」みたいな、
いや、だぶん、おそらく、きっと、ブクマカはとんでもない勘違いをしているんだと思う。
1コマの情報量を整理していった結果、実は内容がダブっていたんだなーってコマ、それを無駄ゴマとツイートで読んでるわけだが、
これを存在しちゃいけないコマと取り違えているんだろう。まあ馬鹿な話だが。
ツイートの無駄ゴマっていうのは、それがあるから悪って話をしているわけじゃないんだよ。
無駄ゴマのない漫画も、無駄ゴマのある漫画も、別に悪いんじゃないの、つまらないじゃないの、スッキリしてるかどうかなんだよ。
これは画像にも“ハッキリ”書いてある通り、無駄ゴマがなければ『スッキリして読みやすくなる。』のだ。
逆に言えば、上のブコメやツイッターのリプライで出ているような、無駄ゴマを使用することで、情感を出したり、キャラクターの性格を出したりすることは、当然、ツイート主も想定している。
福満しげゆきの『生活』の前半部みたいに、過剰に説明することで生まれるディテールの面白さ。
あるいはとり・みきの『遠くへ行きたい』だとかで行われたなにか。
ツイート主は、当然、想定しているに、決まってんだろうが。
情報をダブらせるなんて、そりゃ普通にやるぜ、この文章だってやってる。でもそれは、当然表現として“あえて”やってるのよ。
例えば「だぶん、おそらく、きっと、」なんてそうでしょ。本当は「おそらく」でいいのを、わざと重複させることで、馬鹿に譲歩している様子を表現してるんだよ。
これ、わざわざ書かなきゃいけないようなこと?
正直な話、無駄っていうのがネガティブに感じる、ってブコメ、発言者も聞き手も大衆も馬鹿にしてる本当にくだらない観点だと思うし
ああ、本当に今井絵理子みたいな奴がいっぱいいてしかもそれが結構いい歳なんだろうなと思うと、暗い気持ちになる。
大手報道7社の申し入れによりNAVERまとめからマスコミ記事のリンクが一斉に消えた。転載された報道写真や文章が消えたまではいいが、記事のリンクまでも一斉に消えた。NAVERまとめに報道7社の記事URLを載せることもできなくなった。
まあ、海賊版リーチサイトが問題視される中で、ハイパーリンクは自由だ!なんて理想論を大手を振って語ることはできないのだが、非常に残念。
これだと次は5ch系の掲示板ニュースサイトやFacebookやTwitterなんかのSNS、社会派ブログのニュース転載やURL掲載なんかも、プラットフォームが中心になって削除していくことになるんだろう。
最近のマスコミ系ニュースサイトは、記事を転載させないことに熱心だ。これは著作権侵害という話の他にも、転載サイトに利益を横取りさせないため、や、忘れられる権利の問題とか、いろいろ理由はあるだろうが、今は、アーカイブサイトに保存させないようにサイト側でブロックしたりもしていて、これはWebアーカイブを多用している自分としては、かなりムカつく。読売新聞なんかは、さらにはてなブックマークで過去記事を検索できないようにもしているのだから、よっぽど過去記事を掘られることがマスコミは嫌なんだなぁと思う次第。
マスコミ側としては、そんなに過去記事が読みたければ、図書館行くか、デジタル有料会員になれ、と言いたいのだろうが、デジタルで読める過去記事は校生が終わった最終版の記事だけでしょう? Web版の記事は、初報の内容と、初報から数十分後の報道の内容とで、内容が変わっていることがよくある。ちょっとした修正や加筆のみならず、初報がかなりの誤報で、ごっそり内容が入れ替わっていることもある。さらに記事タイトル、見出しはよく改変される。しかし、マスコミのデジタルアーカイブに、こういった修正、訂正、加筆の経過が全て保存されているわけではない。
流れの早いネットの動きを後から調べる時、いつどんなタイミングでどんな内容が報じられていたかは重要で、それは訂正前の生の記事配信の動きを追わなければ、理解は不可能。そんな時、Webアーカイブに保存された記事が非常に役立つことになるのだが、最近の著作権にうるさい方々は、このWebアーカイブを非常に目の敵にしている。マスコミだけでなく、単なるブロガーからも「Webアーカイブから消したい」という意見を聞く。自分らで歴史を作っているという認識はないのか…
ちょっと思うところあって個人の目から見た腐女子ルールの移り変わりとそこにいた私の変化について書いてく。諸説あるから私の渡り歩いてきたコミュニティはこんな感じだったという話で
ヤフー検索で個人サイトとかゴロゴロ出てきてた時代。最初はそんなに検索避けうんたらガーガーうるさくなかった気がするけど、だんだん検索避けはマナーって話になっていったような。
ちなみにこの頃は家にインターネットなんてなかったので学校のPCとかで同人サイトあさってた。多分言うところで言えば殺されると思う。でもそこに別に特に疑問は思ってなかった。たぶん最初はBLがなくNL中心に、年齢制限のない可愛らしいファンアートを漁ってたというのもある。
(このへんの二次創作ユーザーにおけるNLだから問題ないという高慢な考え方は今思うとどうなんって思うけど)
それに先生と仲良くなって放課後とかに許可もらって本当に「遊ばせて」もらってた(授業中に変なサイトいってたわけじゃない)から別に趣味でネサフして何が悪いのって思ってた。
今思うと先生に同人サイトネサフさせてもらえるまで仲良しになってたコミュ力すげぇな当時の私、って思う。今同じこと絶対できない。
・2000年代前半
うっかりBLに染まってしまった。そしてBLのサイトを漁るようになった。そのあたりから検索避けはマナーだと「みんながいいだした」。見るサイトでマナーサイトのバナーを見るようになった。無断リンク禁止という言葉を見るようになった。とても素直で純粋だった(今は見る影もない)当時の私は素直にそういうものなんだと思い、検索避けはマナーだし無断リンクはとても悪い事なんだと考えるようになった。
BLは隠れないといけないんだ!作者の目に触れてはいけないんだ!!って思ってたし、検索避けしてないサイトをなんて非常識なんだろう!って思ってた。インターネットの原則とかそういうものは全く知らなかったしハイパーリンクのなんたるかなんて存じ上げませんでした。
・2000年代中盤
ある一つのサイトと出会う。知ってる人もいると思う。「ガラマニ」さんである。
そこで受けた衝撃はもう本当にものすごかった。こんな世界があるのか、こんな考え方があるのかと正に雷に打たれたような衝撃と言っても過言ではなかった。
確かに言われてみればその通り、と思わされることはいくつもあった。
そこからそもそも検索避けって何だろうとあっちこっち調べて回って、検索避けというものに対してとても色々な考え方があるんだ、とようやく知る事ができた。
恥ずかしい、隠れたい、という気持ちはとても分かるけど、だからっていたずらにマナーだマナーだと隠れるだけじゃなくて、何のために隠れるのか、原作者の方にお目こぼしを貰って二次創作を楽しむ立場の人間として何をするといいのか、色々と考えるようになった。
けどやっぱり世の中の流れは検索避けはマナーで無断リンクは禁止に傾いていた、と思う。
・2000年代後半
オンラインブックマーク禁止とかそういう話が出てきた。この頃はもうそれがインターネットという広い世界からしてみればおかしな話だと分かっていた。
無断リンク禁止がとても我侭な発言だと理解していた。けれど他に都合のいい場所なんてないこともとてもよく分かっていた。
現実ではこんなに仲間と繋がることなんてできない。ネットの世界くらいでしか趣味について話せない。今ネットを経たれてしまったら精神的に死んでしまうかもしれない、というくらい、ネットのコミュニティに異存していた。
だからこそおかしなことはおかしなことである上で、それでも他に代替手段のないこの世界でどうやったら折りあいをつけていけるのかいつも考えていた。
だからネット上のルールを理解した上で、検索避けであったりを使いながら、禁止ではなくて誠心誠意お願いをしながら、どうにかこうにかそれなりにBLを楽しんでいた。
この頃は検索避けしすぎるのどうなの、と言い出す腐女子は増えだしていた。検索避けは必ずしもマナーではないという考え方は、だんだんと珍しいものではなくなっていった。
Pixivが有名になった頃。検索避け的にどうなの、という話はあったけど結局のところ今ではこの通り、超大型サービスになっている。
そう、当時Pixivは私の周囲の検索避け大好きな人達にとっては敵だった。あんなBLが誰にでも見られてしまうようなもの、というくらいの扱いだった。
でも結局個人サイトはどんどんなくなって、二次創作が見たければPixivに行け、という時代になった。結局なんだかんだ言って「たくさんの人と触れ合える」ことは魅力だったんだろう。
けれどやっぱり隠れたい、マナーが、と言う人はいて、Pixiv内にどんどん腐女子の独自ルールが作られていった、みたいだ。というのも、私はそのころPixivはやっていなかった。
その頃はまだ時間も元気もあったので、サイトという自分の城を更新していたし、活動の主体は文章だったから。
それにやっぱり、まだBLが大多数に晒されるのは怖かった、というのもある。あんなところに行っては誰に見られるか分かったもんじゃない、とビクビクしていた。
検索避けや独自ルールはそれでも根強く残っていたけど、もうなんだか最初の主張から比べるとなぜ検索避けするのかの大義名文すらどこかに行ってしまっていたように思えた。
・それ以降~最近
SNSだの何だの発展が早過ぎてむしろ流れをはっきりと思い出せない。
Twitterは最初周りでは「オタクの集まりでどんなヘンタイ発言も許容してくれる」みたいな扱いだったのに今やマナーがどうだとかやっぱり腐女子ルールができた。
腐は鍵垢に篭れとさんざん言われたし、オープンでBLの話をするとマナー違反だと言われた。
時代が「二次創作って黙認だよね」とか「公式で二次創作OKな作品も増えてきたよね」って中でそれでもBLはなんだかケガレみたいに扱われているところがある。
サイトはどんどん閉鎖していき、結果二次創作サイト向けのマナーも語られることはなくなっていった。
かわりにツイッターでのマナー、ピクシブでのマナーが語られるようになった。でもマナーは結局のところわたしたちのかんがえたさいきょうのマナーでしかなかった。
名作駄作問題作など問わず、なんとなくみんなに見てほしいものを挙げていく。
この映画の話で盛り上がりたいって感じのノリで。
TVシリーズの劇場版とかもあるので単体で見て面白いかとかもあまり気にしてないので御承知を。
寝たきり老人・高沢喜十郎はある日突然最新型介護ロボット「Z-001号機」のモニターに選ばれ、ボランティアで介護を行っていた看護学校生の晴子はお役御免となるが、介護ロボットに全てを世話される喜十郎をかわいそうに思い、彼の救出を決意する。ところが介護ロボットが暴走をし始めて……。
という高齢化社会を痛烈に批判したSF作品……かと思いきや、作品自体は完全なるコメディで、見ていて超楽しい。
大友克洋がメカニックデザイン、江口寿史がキャラクターデザインという豪華なコンビで、作画的にも沖浦啓之、今敏、黄瀬和哉、井上俊之、鶴巻和哉、本田雄、森本晃司、大友克洋、中澤一登、松本憲生……と挙げきれないほど有名なアニメーターが参加していて、クレジットだけで作画オタクはご飯3杯は余裕である。
江口寿史によるキャラクターがとてもよく、まず主人公の晴子がめちゃくちゃかわいい。そして元気な老人たちの存在感、さらには晴子の友達の絶妙なブサイクさ。
80分という時間も絶妙で、気軽に見てほしい。社会問題を扱いながらも妙に心が温まる不思議な作品。
いわずと知れた夭折の天才・今敏監督作品。彼の監督したアニメ映画は4つしかなく、1日あれば容易くファンを名乗れるのですぐツタヤで借りてファンになりましょう。
彼の映画はどれもが90分前後という上映時間でありながら、非常に濃い。
その中でも東京ゴッドファーザーズは視聴後の多幸感にかけてはピカイチで、一番エンターテインメントとしてわかりやすい作品と言えるかもしれない。
次々と転がり込む御都合主義のような幸運。これが気持ちいいのだ。
メインキャストを務める江守徹、梅垣義明、岡本綾といったメンツも、非常にいい仕事をしている。
近年では四畳半神話大系やピンポンなどの監督で有名な湯浅政明の初監督作品。初監督でありながら、文化庁メディア芸術祭でハウルの動く城、イノセンス、スチームボーイをおさえて大賞を手にした。
何よりすごいのは映像で、イマジネーションに溢れたその映像はどんな言葉よりも説得力がある。
後に著作・四畳半神話大系が湯浅監督によってアニメ化されることになる森見登美彦氏も、「迫力でちょっと怖がった」そうである。
最初はその独特な世界に戸惑うかもしれないが、終盤の脱出シーンを見ればもはや何も文句は言えまい。
説明不要のうる星やつら劇場版。押井守監督の最高傑作として名前が挙がることも多い。
映画としての評価は大変に高いが、これがうる星やつらなのかといわれると、別の何かなのかもしれないという感じがしてくる。
お祭りのわちゃわちゃの中に、不意に違和感を感じさせるものが入ってきて異世界に入り込んでしまったようになる。そういう描写がたまらなく好きである。
意味がなさそうでありそうな、哲学的な長セリフも本作の特徴で、言葉にできない不思議な魅力が詰まっている。
宮崎吾朗の才能を信じてもいいかもしれない、と感じさせてくれた一作。ジブリファンも本人もどうしても宮崎駿の影を追ってしまわざるを得ない環境の中、よくこれを作った。
そもそも脚本に宮崎駿が参加しているし、プロデューサーも鈴木敏夫だし、どう考えても往年のジブリ作品の系統として作られたのは間違いない。
おそらくは宮崎吾朗が制作を完全に仕切っていたわけではないのだろう。しかし、映画の端々には宮崎吾朗の味が感じ取れる気がするのでこの映画は何かすごい好きである。
カルチェラタンの描写には明らかに押井守の影響が感じ取れるしね。
『ローニャ』国際エミー賞子どもアニメーション部門受賞おめでとうございます。
眉村卓の小説『ねらわれた学園』を原作としたほぼオリジナルのアニメ。
原作のSFっぽい感じは薄まっているが、逆に薄めたことでSF的な部分がわかりにくくなった。
『あいうら』『灰と幻想のグリムガル』でおなじみの監督:中村亮介、キャラデザ:細居美恵子のコンビと言えば映像目的だけで見たくなる人もいるだろう。
ふとももに注目せよ。まずはそれだけでいい。
健康的なフェティシズムに溢れたキャラクターと美麗な映像を堪能あれ。
ポニーキャニオンが開催したアニメ化大賞という賞で大賞を受賞した『D.backup』を原案にしたオリジナルアニメ。
原案の拡張性ある世界観と、(おそらくは)予算的にギリギリだった1時間という枠と、とにかくキャラクターのかわいさを押し出したいポニーキャニオンと、映像の美しさを追求したい石浜真史監督とが相乗効果を生んだような生んでいないような作品。
序盤はありがちな魔法少女的なSF作品かと思うかもしれないが、終盤には急展開が続き、頭が追いつかない。
それもそのはず、脚本の志茂文彦によれば、映画の後半部分はほとんどコンテ段階で監督が構成したものらしいのだ。
序盤の丁寧な世界観説明と比べて、終盤がややこしいのは、監督がセリフに落とさず映像に込めた部分が多かったからなのである。
さらに、後のトークイベントでは、コンテにすら描かれず、スタッフにしか伝えられていない裏設定が大量にあることが明かされ、「偏差値70のアニメ」との烙印が押された。
監督:舛成孝二、脚本:倉田英之、キャラデザ:石浜真史という『R・O・D』トリオで制作された劇場アニメ。
舛成・倉田は『かみちゅ!』というTVアニメを手掛けていて、劇場公開に合わせてNHKBSでかみちゅ!が再放送されたりBDが発売されたりした。
黒沢ともよの声優デビュー作品でもある。当時はまだ子役であった。
夏休みの子供向け映画といった趣であったが、子供に136分は明らかに長すぎる。ある程度のアニメファンならばこの尺は耐えられるし、楽しめるだろうと思われる。
作画がぶっ飛び過ぎていて、作画的にはスペースダンディ劇場版とでもいうべきレベルである。
そして、主人公の少女の健康的なエロさがなんとなくにじみ出ていて、制作者はロリコンなのか?という疑惑が湧いてこないこともない。
海外の映画祭に出品されたりして、結構アニプレックスが期待していたのが窺えるが、やはりなかなか商業的には上手くいかなかったようだ。
上映時間の長さや、超新星爆発についての描写などの細かい部分を除けば、十分に面白い作品であるといえる。
3時間弱。長い。が、しかし、エンドレスエイトを経験したファンの不安を一掃するほどの高クオリティでアニメ化された作品である。
それまでの京アニの集大成といってもいい。内容については特に言うことはない。
けいおん!で注目された山田尚子監督によるオリジナルTVアニメ『たまこまーけっと』の劇場版。
『たまこまーけっと』ではいまいちヒットせず微妙な評価に留まっていたが、これが公開されるとたちまち好評となり、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では新人賞を受賞した。
TVシリーズは、舞台となる「うさぎ山商店街」の絶妙で温かな空気感を楽しむ作品であったが、本作ではわかりやすくラブストーリーにしたことで、デートムービーとしても見られる非常に間口の広い作品となった。
どちらの方が良かったとかではなく、単なる魅力の伝わりやすさの違いである。
とはいえ『たまこラブストーリー』は卓越した作品であり、山田尚子の代表作として語り継がれるのは間違いないと思われる。
『イヴの時間』などで知られる吉浦康裕監督作品。彼の作品の特徴は何といっても「発想」にあると思う。
独特の間も特徴ではあるが、基本的に彼の作品はある「ギミック」が作品の根本となっていることが多い。
なので、下手に前情報を入れて見に行くよりは、何も知らずに見て新鮮な驚きを感じた方が良い。
この作品もあるギミックが重要なのでそこを面白いと思うかどうか、そこが評価の分かれ目である。
つい先日無期限の休養を発表したヤマカンこと山本寛監督の、いわずと知れたアイドルアニメである。
彼についての悪評やバッシングは絶えないが、個人的には彼の作品は好きである。
この『Wake Up, Girls!』というシリーズは、まずTVシリーズの前日譚として『七人のアイドル』という中編映画があり、続いてTVシリーズ全12話、そして続劇場版の中編2作といった流れである。
TVシリーズ放映時は緊迫したスケジュールによる作画の乱れで物議を醸したが(BDでは修正された)、続劇場版(特に前篇)では非常によく動く。
このまま彼がアニメ制作の現場に戻らないとすれば本作が彼の遺作となってしまうが、遺作の呼び名に恥じない出来の作品であるということは声高に主張したい。
「ハイパーリンク」と称してキャラクターの中の人のパーソナリティや実際の出来事を反映する手法の効果は、続劇場版で見事に結実した。
アニメの創作性と現実の偶然性が合わさってとても気持ちの良いサクセスストーリーになっているのだ。
後篇の『Beyond the Bottom』は田中秀和による同名の主題歌も相まって、非常に神々しい輝きを放っている。
神前暁も「これを超える曲をこの先作るのは大変」と太鼓判を打った。
アニメ界の王子、イクニこと幾原邦彦が初めて監督を務めた劇場作品である。
この時点から彼の演劇的な作品づくりの手法は発揮されている。
庵野秀明は映画館で本作を3度も観たらしく、緒方恵美が演じた衛の少年時代の声を聴いて『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に抜擢したというのは有名な話である。
TVシリーズの再構成ではなく、全く新しい解釈で制作されたオリジナル作品。
作画的な制約もあったTVシリーズと比べ、かなり大胆に脚色され、より過激となった映像美はまさに唯一無二。
突き抜けすぎて、終盤の車のところでは何が何だか分からなくなってポカンとしてしまう人も少なくないという。
「王子」こと及川光博がゲスト声優として出演しているのもポイント。
『京騒戯画』『血界戦線』などで知られる東映アニメーション出身の気鋭の演出家・松本理恵の監督デビュー作品。当時25歳。
『ハトプリ』はプリキュアシリーズでも人気の高い作品のひとつだが、この劇場版も非常に人気が高い。
パリを舞台にしていて、OPでのスタッフクレジットが背景に溶け込んでいる演出の時点で何かが違うぞと感じさせる。
メインキャラクターのTVシリーズでの成長・感情の変化をきちんと物語に取り入れつつ、本作オリジナルキャラクターであるオリヴィエとサラマンダー伯爵の切ない関係を描き、多くの視聴者の胸を打った。
『劇場版アイカツ!』でなくてなぜこれを挙げるのか、疑問にお思いだろう。
というのも、私は熱心な『アイカツ!』フリークで、アイカツ!を見始めたのなら劇場版アイカツ!を見るのはもはや自然な流れで、あえて挙げることではないという認識でいるからだ。
ということで、あえてアイカツ!を見る入り口として薦めるのであれば、CGステージをかき集めたこれが良いだろうと思い、挙げた次第である。
アイカツ!の楽曲のジャンルの幅広さ、CGステージでの綿密に練られたカメラワーク、そしてアイカツ!という作品世界の持つ空気感を少しでも感じてくれれば後は言うことはない。
少女向けアニメの最高傑作との呼び声も高い『カードキャプターさくら』、その集大成となる第2弾劇場作品。
ラストシーンでは年齢性別問わず多くのお友達をキュン死させ、多くの大きなお友達はそのままゾンビとなった。
ポケモンの映画といえばミュウツーの逆襲だったり水の都の護神を挙げる人が多いが、私はこの作品を挙げる。
70分という短さに詰め込まれた「家族愛」というテーマは、子供よりもむしろ親の方に深く響いたことだろう。
当時劇場で見てリザードンに興奮した子供たちも、今改めてみればまた別の感動を味わうに違いないはず。
テレビアニメ『楽しいムーミン一家』の劇場版であるが、本作はテレビアニメの前日譚となるエピソードの映画化である。
『楽しいムーミン一家』はもっと語られていい傑作アニメであり、本作ももっと多くの人に知られて欲しい。(旧ムーミンのファンには申し訳ないが……)
子安武人演じるスナフキンによるシュールな悪口が聴けるのもこの作品。
いわずと知れた名作『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ1979年に公開されたアニメ映画である。
実はこの年の邦画の配給収入で1位を獲得している。
70年代を生きたアニメファンにとっては有名も有名だが、今では知名度はカリオストロよりも低くなってしまっていて、金曜ロードショー恐るべしといった感じである。
エンディングに流れるゴダイゴのあの有名な主題歌を聴いた時、あなたはきっと涙を流しているはず。
90分弱に詰め込まれた圧倒的な熱量!THE出崎統!
世界はもっと出崎統を評価せよ。
BD・DVDがプレミア化し、配信・レンタルでも見られなかった傑作が、ようやく今年BDの再発売によって見やすくなった。
7月22日発売です。
最初にWUG見た時は妙に悪趣味な演出があるなぁなんて思ったものだけれど、見続けていくととんでもなく真っ直ぐな作品であることがわかって、今ではすっかり好きな作品になっている。
で、その「悪趣味な演出」ってのは、ほとんど序盤だけの話で、不思議なことに話が進んでいくごとにどんどんそういうのが減っていって、続・劇場版にまで来るともはや神々しいまでの輝きを放つ作品になっている。
監督のいう「ハイパーリンク」によるものなのだろうか、WUGという魅力的な人間たちに引っ張られてそういう作品になっていったということか。
ある意味ではWUGに最も救われているのは監督なのかもしれない。あるいは辛矢凡氏か。フラクタルあたりから抱え込んでしまったものがどんどん和らいできているような。
まあそんなことを考えながら、序盤に自分の感じた「悪趣味な演出」についてあれこれ考えていた。
WUGの劇場版第一作だったり、TVシリーズ第2話だったりは、言ってみれば「下品」な演出がところどころにある。
ラブホだとか、処女だとか、パンチラだとか、いかがわしい営業だとか。
でもまあ、完全にWUGファンとなった今になってあれこれ考えてみれば、そういう演出もいろいろ意図があったように感じられるようになるものである。
これはいったいどういう目的でやったんだ、と長いこと疑問に思っていたんだが、最近になって自分なりに納得する答えに辿りつくことができた。
これは「小さな少女の第一歩目の決心」とその裏にある「未熟な少女の愚かな危うさ」を表現したのではないか。
WUGが七人そろって初めてステージに立つまでを描いたのが「七人のアイドル」で、つまりはスタートラインに立つまでの話である。
そんな映画のクライマックスにおいて「初ステージ」が気合の入ったダンス作画で描かれる一方で、なぜかパンチラまでもがきっちり描かれており、見た人の多くは困惑したことだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
「彼女らの初ステージ!素晴らしい!ここから物語が始まっていくんだね!」というシンプルな感動を狙っても良かったのだろうが、この時の監督はそういったシンプルな描き方をしなかった。
その裏にある危うい面を描きたかった。これは第2話の営業にも繋がっていくことで、少女が覚悟を持って前へ進むことをただ美しいものとして描かなかった。
「思い切って飛び込んでみること」や「あきらめずに続けること」は必ずしも良い結果につながるものではないのだと。
初ステージのパンチラライブは、最終的にはWUGというアイドルユニットの伝説的な第一歩目ということになるのだが、その一方でどうしようもないところまで堕ちていってしまうきっかけにもなりえた。
その一つの可能性として現れたのがゴロツキプロデューサーの須藤だったりするわけだ。
彼女たちがそこでもし間違った決心をし続けていったら、最終的にどうなっていただろう。
だからこそ、そこで一歩踏み出すということは称賛されるべきものでもあるし、危険なことでもある。
島田真夢がI-1clubでしてしまったひとつの決心も、そういった2つの側面を持っている。
それを証明したのは、迷いながらも道を歩み続けた彼女たち自身である。