はてなキーワード: トロッコとは
たぶん、小学生の頃だと思う。
ただ乗せられてるだけの遊園地と違って、操縦する楽しさをゲームは与えてくれた。
コントローラーを使いこなせるようになる自分の成長のスピードと、ゲームそのもののテクノロジーの進化が同じスピードで、それは偶然だったけれど、今考えると幸せだった。
本当に不思議なのだけれど、世の中の人はそんなに遊園地に行くのか?
乗り物系の筐体は、ゲームセンターにおいても減りつつある。
レースゲームは風前の灯、トロッコガンアクションも滅多に新作が出ない。
しかし、それだとしても、電車を乗り継いで、あるいは車を運転して、何千円も払って、Gを味わいのだろうか?
なぜ増田で投稿したかというと、実はオリエンタルランドの株を持っている。行ってないが入場券も毎年貰ってる。
どんなに値上げしても通うのをやめない信者たちを理解できない。
信者は混雑が酷いからもっと値上げして欲しいというくらいにマゾい。
私は前方列。席の後ろが通路。
トロッコが通った。私の方を向かない。私、ここにいるよ。私のことオキニならこっち見るはずだよね?あ、オキニじゃなかったんだ私。
十分顔が見える位置。
なんでこっち見ないの?あ、干されてるからか。
100%ではない。でも、3年ほどイベントに通い詰め、最前〜5列目に入ったのが30〜40回。接近も全部行った(それでも2回だけど)。
さすがに顔は覚えられたはず。むしろこれで覚えられてなかったら驚きなレベル。
ここ最近目を合わせようとしてくれない。
お手振りが、私の前の人で終わる。
今日のライブは前から3列目、ほぼドセン。センターのお客さん一人一人をにこにこ笑顔でなぞるように見ながら、他のメンバーを推してるお客さんまでにも丁寧にお手振り。
別のタイミングで、同じく1〜3列目のセンターの人の顔を眺めるシーンがあった。
私の隣の人で終わった。
私の姿を見つけてちょっと驚いた顔をした後にUターンして行った。
こんなことが続く。これはたぶん干されてるんだろうなあ
推しに凝ったメッセージカードを毎回作って渡していたから重いって思われた?
それなら前の接近の時にテンパっていつもありがとう、大好きですって言ったのが悪かったの?
他は何も悪いことをした記憶はないのだけど
美少女ではないけどブスではないしおしゃれしてるし服も可愛いのを着てる。イベントでは大人しくしとやかに応援しているし同担の間でも私の話が出たことはないくらいまともな応援をしている。
何がいけなかったの。なんで私を無視するの。
今私が離れたところで推しはなんとも思わないだろうね。
だったら確実に認知されてるって思えるまで追いかけてやろうか。手紙をしつこく送りつけてやろうか。
こんなメンタルで行けない。しにたい。
9月までイベントが決まっててチケットも取ってる。どうしよう。
周りがファンサもらったって話ししてるのを聞いて「私は前から3列目なのに目すら合わなかった」って落ち込むのはもはや爆笑。
これを書いてたら確実に干されてるなって確信持ててきたよ。
せめて理由を教えてよ
増田で人生の悩みを打ち明けても、ブクマやトラバに助けられる人ばかりではない。
多くの場合は無視か、正論で殴りつけて日々の憂さ晴らしに使われるだけだ。
匿名で面識のない人を親切にも救おうとする人は少ない。
それでも救いたくなるとすれば、その悲鳴に聞き覚えがあったからだと思う。
きっと、たまたま過去の自分や大切な人の叫び声に似た周波数だったのだ。
私も自分に合う悲鳴を耳にした時は、わざわざ長文で応えてしまったりもする。
他人様にアドバイスできるほど自分の人生はうまくいっていないくせに。
このあいだ、増田で悲鳴を上げた。
もう生きていられないと思って、
どうせ死ぬのなら最後に何か書き残そうと思いついて、
自分の状況や何がどう苦しいのかを書き殴った。
もう消してしまったけれど、吐瀉物のようで見るに堪えなかっただろう。
結果、数行のトラバで2発殴られた。
「甘え」「自己責任」「さっさと死ね」
よくある内容だ。自分でもそう思う。
ブクマはなく、プリントアウトを勧められ、ログの深くに沈んでいった。
それ以上の声をあげることはできなかった。
しばらく前に精神科に行った時も同じだった。
対面で話すと匿名の文章みたいに心の内を明かしきることができないから、
ずっとヘラヘラと笑いながら、他人事のように語ったと思う。
「こうなっちゃうんですよ、あはは、
こうしなきゃいけないのはわかってます、でもだめなんですよ、
やっぱ自分は発達障害か何かなんですかねえ?あははは。」
精神科として助けられることはない、と伝えられた。
武道でもやって心身を鍛え直してみては、と諭された。
渡された薬は特に効かず、3ヶ月でやめてしまった。
そういえば診察の席で、
過呼吸でおかしくなって通勤電車から逃げ出したのを言いそびれてた。
自責の念に襲われて職場のトイレでシャープペンシルを腕に突き刺していたことも。
こんなことを繰り返すうち、自分には助けを求める才能がないのだと悟った。
本当に助けが必要なとき、なりふり構っていられない状態では、
他人のことを考えないめちゃくちゃな文章になってしまうはずだ。
そんな状態でも誰かの心を射抜けてしまう、鋭い周波数の文章が出せるということ。
悲鳴を上げる才能ってそういうことだ。
私にはそんな才能がないから、こういう取り繕った文章を作ってしまう。
自分の増田で運良くブクマが伸びたケースは
自分語りをせずに最後まで取り繕えた文章ばかりだ。
悲鳴なんて伝わらないものだ、そう考えている。
結局プライドが高いのが悪い。
ネットでもなりふり構わず全てぶちまければいいのに、
下手にバズって過去の知人に知られたらだとか、
どうせ笑い物になるだけだとか、そうやってうやむやにしてしまう。
5chで相談できなくなったのも、増田で具体的な話ができないのも、
頭が悪い上に臆病なせいだろう。
いくら悲鳴でも、読みやすい文章、伝わりやすい話し方でないと人は動かない。
構成をきれいにまとめて、小粋なレトリックを添えて、
読む人の共感を誘うように書かなければ助けは来ない。
でも、そんな風に整理できる状態なら、そもそも苦しんではいないはずだ。
だから悲鳴を口の中で噛み潰してしまう。
噛み潰して飲み込むことに慣れてしまう。
そうしていずれ死んでいく未来がいつも網膜に小さく張り付いていて、
どれだけ顔を洗っても剥がせない。
崖へと続くトロッコに乗っていて、降りることができない。
いずれ落ちていく。
でも今日はまだ死なずにいられる。
今のうちに、悲鳴を上げるのが下手な人について残しておこうと思った。
いつか自分が他の誰かの悲鳴を聞き逃してしまわないように。
皆さん、聞いてくれて本当にありがとうございます。
返信+αを作っていたのですが、
長くなりそうなので後ほど別記事にて失礼いたします。
まずお伝えしたいのは、今の私は大丈夫で、
この増田自体は悲鳴ではないということです。
境遇自体はそれほど変わりないですが、気の持ちようとして堪えられる範囲です。
これは悲鳴ではなくどうにか取り繕いきれた方の文章です。
ご心配をかけてしまった皆さん、本当にごめんなさい。
また、主に時系列でいくつかフェイクを入れていました。
件の精神科には当時のつらさを箇条書きで書き殴ったメモを印刷して持ち込みました。
その上で「あなたが何をうちに求めているのか分からない」との回答を頂いております。
(次の増田で後述しますが、メモの時点で不十分だったはずです)
医者に甘えられる問題ではない、自力でなんとかするしかない。
そう痛感して、今のところ平均して当時よりはマシな状態になっています。
また、処方されたのはサインバルタでしたが
「しいていえばこの新薬だが、
あなたの状態が劇的によくなる薬などない」
と伝えられて、私自身もそうだろうなと感じております。
喉が弱い体質のせいか飲む度に軽い吐き気があり、
その副作用の割に当時の症状の改善は見られなかったので、
自分の気の持ちようで生まれ変わるしかないと考えて、
通院をやめて現在に至っております。
元増田は、伝わってほしくて、でも伝わらないだろうなと諦めてて、
それでもせめて未来の自分を救えるようにと書き残したものだったので、
望外なほど通じてくれたことが純粋にありがたいです。
まずはこの感謝を伝えさせてください。
元増田は差別かどうかに言及しているのであって、差別が実際に行われているかどうか、差別が問題なのかどうか、痴漢が問題なのかどうか、ましてや痴漢が男女比どのくらいで被害者がどれくらいいて……みたいな話はすべて、関連する話ではあるけど別の話でしかない。
身を犠牲にしてトロッコに飛び込んでも暴走したトロッコを止めることはできない。
レバーを引くのは正しいことかどうか? ということだ。
もしかしたら、作業員がトロッコを避けられるかもしれないという人がいるのなら、
ではもし分岐の先はつながっていて、作業員が避けることができたらもう片方の分岐に戻ってきてそちらにいる作業員は轢かれてしまうとしたらどうだろう?
または、あまり政治的な問題を扱うのはふさわしくないかもしれないが、アメリカが原爆を投下したことで二次大戦が早く終わったということがもし事実だとして、それを認めることができるだろうか。一定の人数を犠牲にして多数の人間を救うことは正しいことか?
こういう質問を繰り返していって、自分の考え方をより厳密に確認していく(もしくは矛盾点を指摘する)ことがこの手の思考実験の目的の一つだ。
話を戻そう。
血液型性格診断なんてまさに差別そのものだし、あいうえお順にクラスの子供達をならべるのも差別と言えるかもしれない。名前は一般的に自分で選べない。
LBGTという言葉だって、その他の性的マイノリティを無視した差別的な表現なのかもしれない。
自分で選択していない国籍について日本人らしくとか言われるのも十分に差別たりうる。
あらゆる差別を語義通りに撤廃するのであれば、少なくとも今の社会生活は全く成り立たない。
(それと実際に不利益を被っている人がいることも関係がない。)
なぜならば、差別という概念自体が善悪とは別に存在しうるからだ。
現実的な問題として、様々な差別に苦しんだり具体的な不利益を被る人がいて、それをなくしたいというのは筋が通っている。
しかしその問題があまりに広範で捉え方にも差がありすぎるせいで、いつも恣意的なルールと各個人で異なるバックグラウンドを前提としてしまう。
元増田としては、そのあたりを整理するために問題提起したのだと認識している。
これを共通認識としない限り話を先に進めることができないからだ。
逆に言うと、これについて善悪論や感情論で反論する限り、女性専用車と差別の問題は少なくとも解決を目指すことは難しいだろう。
古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界の存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。
一般向けの論理学入門でありながら理屈がハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクス」シリーズは好評
のようだが、増田の好みではないので買ってない。
「サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリのタイムパラドクスもの「雷のような音」を
「虚構世界の存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。
三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント。
可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか
プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。
そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界は仮定の存在や記述上の論理ではなくってな
全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。
その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという
真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間が
存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。
人間が宇宙を観察する時には、人間が存在できるような宇宙でなければならない。
こういう理屈は判るんだが理由を説明しきれない自己撞着的な話が人間原理。
宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論、物理学の話。
それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込み、フィクションをも真面目に哲学的に語る。
なろうもカクヨムも在るんだよ。
昨日、嵐のライブツアーが終わった。
終わってから1日以上経った今でもなんだか気持ちがふわふわしていて、言葉にもうまくまとめられないんだけど、とにかく心にあることをここに書こうと思う。支離滅裂な文を読むのが嫌な人は、できればここで読むのをやめてほしい。それほど、ちゃんとした文章を書く自信がない。そもそも文章力なんて皆無なのに、その上感情がまとまっていないので、よりひどいことになっていると思う。それでもいいと思った人は、よかったら私の独り言に付き合ってほしい。
今回私は3公演コンサートに行った。今まで1年に1回しか行ったことがなかったんだけど、運良く周りの人や自分が当選したので、幸運にも3公演も入ることができた。
最初は12月末。東京公演の最終日だった。私は大阪に住んでおり、遠征は初めてだった。一年ぶりのコンサート。半年ぶりの生の嵐(ワクワク学校というイベントに6月に行ったため)。沸かないわけがなく、結果喉を使いすぎて風邪をひきさらにはインフルエンザももらってきた。席はスタンド下段の真ん中あたりで、いわゆる天井席(スタンド上段の、ほぼ天井といった席)ではないがファンサは望めない席だった。けれど、トロッコが来れば騒いだしペンライトも振った。
次は1月13日。スタンド下段の1列目(アルファベット列というやつが前にあったため、最前列という訳では無い)だった。前は上から見ていたステージをほぼ横から見ていた。近いし、肉眼で顔が分かるし、とにかく幸福感が半端なかった。一緒に入った友人が騒ぐタイプの子でなく、それに影響を受けて私もあまり騒げなかったが(こんなときも恥を捨てられないのかと少し後悔している。今後は隣に構わず声を出すところは出そうと思った)、それでも終わった後意識はぼんやりしていた。
最後は昨日、最終日だった。いわゆる「オーラス」というやつで、過去数年間を見ているとこの公演だけアンコールが多かったりするので、ファンの間では正直特別視されている公演である(もちろんオーラスの他にも誕生日だとか特別視されている公演はあるけれど)。オーラスに入るのは初めてだったのでとにかく緊張していた。今年は挨拶が定型文だったので、自分達の言葉での挨拶も聞けるんじゃないかと期待していた(実際聞けた)。席はスタンド上段、しかも横で、ファンサはおろか演出もすべて楽しめないんじゃないか?という席だった。結論から言うと今までと違う視点で見られたので新たな気付きが山ほどあったし、伝わらない演出もあったけどそんなの気にならないくらい楽しかった。嵐を好きでいてよかったと思った。そして、これからもずっと好きでいたいと思った。
そして翌日である今日。ふとした瞬間にコンサートのことを思い出して、何度も泣きそうになった。というかこれを書きながら今大泣きしている。
あれで、嵐が「untitled」というアルバムを引っさげて行うコンサートは最後なのである。もうあのセットリストでコンサートを行うことは二度とない。何なら、一生行われない曲だってあの中にはあるのではないかと思う。自分が見られる最後の公演だ、と思ったわけでなく、嵐が行う最後の公演だ、と思うと泣けて仕方なかった。
特にそれを感じてしまい涙が止まらなかった曲がある。UBという曲である。二宮和也と相葉雅紀のユニット曲だ。そもそも私はこの二人のコンビが死ぬほど好きなのである。ユニット曲のメンバーが発表されたときは2週間くらい信じられなかった。それゆえこの曲は私にとってはいっとう大事でいっとう好きな曲だ。そんなこの曲、間奏で行われるダンスが「コンタクト」というもので、簡単に言うと組んず解れつ、知恵の輪みたいに手と足を絡ませ合うものである。
MC中、思い出深いことは何か?という質問に、二宮和也が「最終日のこのダンス」と答えた。「やりながらいっこいっこなくなってく。もうやらないから。これおわりこれおわりこれおわり…って」と言っていた。その言葉を聞いて涙が止まらなかった。ああ、もうこのダンスはしないんだ。二人が引くくらい近い距離で高難易度かつ密着度の高いダンスをすることも、相手のパートを口パクで歌いながら近付くことも、曲が終わってスタンド・バイ・ミーの振り(20年前に二人が出た舞台で行われていたハンドサインで、手を突き出してからサムズアップ、というものである)をすることも、もうないのである。そう思うと悲しくて悲しくて仕方がない。
UBに限らず、どのパフォーマンスも、これからしないのが寂しくてたまらない、素敵なコンサートだった。
さて、ここまで支離滅裂ながら思ったことを簡単に書き出してきた。しかしとにかく読みにくく、本当に言いたいことが伝わらない文だったと思う。というか本当に言いたいことはここまで言っていない。ここからが本題である。
私は相葉担である。自担である相葉雅紀には昨年末、熱愛報道が出た。昔から女ネタに耐性がない(恋愛ドラマも苦手なレベルである)私は大きなダメージを受けた。そんな矢先のコンサートだった。
女がいると分かっているアイドル(もちろん彼女がいないと思っているわけではないが、週刊誌によってその存在が証明されたり結婚発表によって公式に認められたりするのと、勝手にファンが「彼女いるんだろうなあ」と想像するのには、私たちの心持ちには大きな違いがある)を歓声をあげて応援するなんてできやしないと思っている私は、前から「嵐誰か結婚したら担降りする」と言っていたし、正直今回のコンサートも女の影がちらついてしまい全力では楽しめないんじゃないかと思っていた。
しかし先述の通り、死ぬほど楽しかったのだ。これからもずっと応援していたいと思えるコンサートだった。確かにコンサート中女の影がちらついた時は山ほどあったが、それでもそんなの気にならないくらい彼らは魅力的だった。
だからこそ悔しいのである。女の存在が明らかになることで、ファンが離れ、少しずつでも彼らの人気が落ちていくのが悔しい。彼らはこんなに魅力的なのに。女絡みだけでなく、褒められたところではない点もあるけど、それ以上に彼らは魅力的だ。それでもファンは離れていく。ましてやこのまま結婚なんてしてしまったら、彼らの人気はどうなるかわからない。少なくとも、今より上がるようなことはないだろう。
私が言いたいのは、「嵐、頼むから結婚なんてしないでくれ」、ただそれだけだ。こんなところで言ったところで本人達に届くわけがないのは分かっている。けど、こんなところで吐き出さないとやっていられない。
もし結婚してしまったら、素直な気持ちで応援できなくなるのではないかと思う。私たちがいま大好きだと歓声をかける相手には、家に帰れば最愛の妻がいるのだ。そんなの耐えられない。
中にはアイドルが結婚するのを嫌がる心理がわからない人もいると思う。納得しなくていい。その気持ちを理解しなくていい。けど、私たちにとって女の存在は大きなものであるということだけは知っていてほしい。
アイドルだって人間だと思うかもしれないけど、人間であるけれどアイドルなのである。疑似恋愛を商売にしているアイドルなのである。結婚してしまった時点でファンの夢は覚める(覚めないファンもいるし、そこまでの夢を見ていないファンもいると思う)。その時点で彼らはアイドルではなくタレントである。
人気が落ちるのを見るのが寂しい。まだトップでいてほしい。そして何より、まだアイドルである彼らを応援していたい。だからどうか、嵐の皆さんは、もう少しだけ結婚しないでいてください。
(本当はもう少しと言わず一生結婚しないでほしいし、嵐に限らず全"アイドル"はそうであってほしいと思うけど。おわり)
結果最初から最後まで支離滅裂、取り留めのない文章でした。ここまで読んでいただいた方に深く御礼申し上げます。
もちろんすべてのファンがこのように思っているということはありませんが、中には私と同じようなことを思っている方もいらっしゃると思いますし、逆に一切わからないという方もいらっしゃると思います。こちらで話したものは一ファンの意見に過ぎません。嵐ファンの総意であると勘違いなされることはないよう、お願いいたします。
聡明でかわいらしい、素敵な彼女だった。
酔狂にも俺というオッサンを選ぶくらい、独特の価値観を持つ女性だった。
おまけに脳内存在ではなく、実在しているときた。二次元相手にすら恋愛という感情を覚えることができないままぶくぶくと肥ったオッサンには過ぎた幸福であった。
三十路半ばに降って湧いたように訪れた初恋は一年と少しで消えていった。
仲違いではないし、ケンカをしようといっていたけれど、それも楽しみにしていたけれど、結局できないまま終わっていった。
わかっていたことだが、未来よりも過去が強く、彼女は聡明でやさしく、俺は弱かった。
「いつか、彼女が俺に愛想を尽かすだろう」と、非モテのオタクらしくビクビクした卑怯で惰弱な予防線をはりめぐらせ、それでも卑屈にならぬようにつとめて一年を過ごした。
それは思い返しても幸福で濃密な一年で、一人で過ごしたこの一年はただネトゲとソシャゲの数値を漫然と増やすのと同じ時間であることがにわかには信じられないほどであった。
我々は遠距離であったから、一年の間にともに過ごしたのは実質3週間かそこらといったところではなかろうか。
俺は身に余る幸福を、軽々に疑うことなく、その一瞬をひとつづつ大切に味わい、決して忘れないようにしようと思ったのだ。いつか失われるものだと予感していたから。
別れを告げられる前の、楽しそうだった最後のデートで時折見せた憂いの表情で確信にかわった。
もちろん決裂を回避すべく、さまざまな方策が取られた。しかし、竹ヤリで飛行機は落ちない。俺にできることはこの先のお互いの平穏を用意することしかなかった。
万全の心の準備があった。
傷付かずにいられると思った。
やせ我慢などではなく、こんな甲斐性も主体性もない男に生まれてきたことを感謝させてくれてありがとうな。なんて思っていた。
愛想をつかされたわけではない、しかし、どうしても避けられぬ別れを。一緒になるには俺が俺であること自体が障壁になる理由を、来るべき三行半をLINEでしぼりだすように送られたとき。
ここからの余生が決定された。
このハッピーにもほどがある一年を思い返し、少しずつキャラメルをなめるように溶かしながら生きていくのだ。
それはそれで悪くないと、口を半開きにして漫然と生きてきた自分には身に余る幸福なのだと本気で思った。
恋をしたことがないオッサンは、恋に免疫はなかった。ぶっちゃけ甘く見ていた、ひどくナメていた。今自分にとりついている無情感、寂寥感、つかれ、首の凝り、残尿感、就寝後喉から込み上げてくる胃液で灼ける喉、そういったものは一時的な症状で、一年もたたないうちに治るのだと。
そうしたら、突然推しが自分ちの台所で白米を炊き始めたのを目撃した女子のごとき切ない声をあげてうずくまるようなこともなくなるだろうと軽く考えていた。
これは失われゆくときに効果を発揮し、一生をかけて宿主を食らう猛毒の類であることに。オッサンはようやく最近気づかされてしまった。
余生のはじまりであったこの一年は短いが、人生を支配するには十分な期間だった。
一年には四季があった、ふたりでいろんな話をしながら、様々なところにでかけた。おそらく、ほかのつがいたちがそうするように。我々もさんざんそうした。行こうと約束したきりの場所が、いくつもあった。
ひょんなところで、どうしても、少しのきっかけで思い出してしまう。
つきあっている間から、ちょっとした瞬間にこねくりまわしていた甘い思い出たちが、刃を剥いてオッサンのやわらけえ心をズッタズタに切り裂いていくのだ。
お揃いで買ったボールペンを筆箱から取り出したとき。町中でてんぷらそばの香りが漂ってきたとき。美しい紅葉を見たとき。バスの中が閑散としていたとき。Twitterにネタ画像を貼ろうとしてカメラロールをたぐったとき。カップル用の写真置き場として導入したアプリに「もう別れた」と告げることもできないままだったから「つきあって2年目ですおめでとう」という通知が臆面もなく画面に現れたとき。テレビにサメがでてきたとき。花火の音を聞いたとき。モネの絵を見たとき。映像の世紀のテーマソングが流れたとき。海。いきつけの居酒屋。空が透き通るように青かったとき。ふたりで行こうと話していたその場所への旅行記。机の引き出し。
容赦なくそれらにまつわる我々のイベント一枚絵がフラッシュバックしていく。
思い出がたのしかったほどに、もはやそれらが二度と訪れないことを突きつけていく。無能で怠惰だった自分を上っ面だけなじって、甘い記憶の反芻にくたびれる。
そして文字通りくたびれたオッサンは何度目か忘れた記憶の反芻の果てに、ふと気づいてしまう。
たった一年だ。
たった一年でも、強い記憶でも、そのすべてをわすれないように目に、鼻に、耳に、手がかりをのこして脳の一番とりだしやすい引き出しにこうしてしまいこんだつもりでも。
どうしたって、あせていくのだ。あせていく割に、思い出したときのダメージは軽くなりはしない。ただうすくらがりの割合が増していき重くなっていく。
なんて意味のない自問をして、やめて、また自問して、夜が明ける。
どうすればこの変質を止めることができるのか。
高校生のうちになやんで置くべき事をいまさらやりはじめているから、だれもその無意味な思索を止められない。
俺の印象に沿って変質した思い出を、きっと刻み込んだ瞬間から変質しつづけているその代替品を、いつまで、いつまで舐め続けることができるのか。俺が改竄したのは、いったいどの部分か。彼女の行動か、表情か、懊悩か、それらを突きつけられまいと先手をとって口先で蓋をしていった愚かで卑しい自分の行動か。
傷つけるかもと言おうとして言えなかったうわっつらの言葉か。
いや、それに妥協する自分を、自己愛を自覚していますみたいなメタい達観視点で、別の自分を用意したあげくのいぎたないマウントをキメる惰弱な自分への嫌悪感だ。
こんなものが、二度とこない、見ることのできない美しい追憶の邪魔をする。
しかしこんなものがなければ俺はきっと、こんなこともわかりはしなかった。
冒頭で「フラれたときに、余生を決定した」と言った。
20代のはじめに自分というハードウェアの脆弱性に愕然とした自分は、ここより余生という看板を高々とかがげ、レールにトロッコを設置してゆっくりと坂を下りはじめた。山にぶつかるまでが人生だと割り切ってみると、けっこう空は綺麗だったし、白米は噛むと甘かった。
思い出じゃなくて、君と君と一緒にいる自分自身を。
なんて、ありあわせの後悔を口に出せば、どうしたって、安っぽくなる。
感謝の言葉を書き連ねたいが、それここでやるにはあまりにも浅ましすぎる。
誰の目にもつかず埋もれるか、「貴様の贅沢な懊悩など見る価値ないわ」と吐き捨てるように扱われたいだけなのに。
そうでもされないとやっぱりやってられないくらいにただひたすらに、いまだに、恋しさだけが、こびりついていく。
こんな寒い日に、さびれた地方都市のビジネスホテルで、小さなシュトーレンを分けて食べた。
みんな! 現実には存在しないキモオッサンの気持ちになって書いたキモポエムをここまでよんでくれてありがとうな! 愛してるぜ!
トロッコ作戦を思いついた時点で二手に別れる必要はなくなったんだから、ミスリードっぽく見せただけで、最初から9人で参加する予定だったんじゃねーの?
想ひとは一人欠けただけだからまだいいが、半分いない状態で予選突破してたら他の学校が雑魚すぎてさすがに…。
何にせよ4話は良かったから3話のことは忘れるぜ!
ダイヤさん可愛かったねー。
前回の3話があまりにも話として破綻してて、今回の4話もそーなるんじゃないかと内心怯えながら視聴したオタクです。
けどまさかの良回。よかった・・・。ダイヤちゃんかわいい・・・。贅沢言うとルビィちゃんも絡めてほしかった。
2期3話のはなしになるけど
3話はなんでああなってしまったんだ?あの3話だけで1期の11話とかそのほかの1期の回を否定したような描写があってきつかった。1期もめちゃくちゃだけど好きなのに。
トロッコ(モノレール?)のくだりとかはもうどうでもいい。似たようなことあったじゃん無印で。ファンタジーな部分はあってもいい。
高海千歌ちゃんはみんなにトロッコの説明しろって言うのも、まぁいい。いや、良くはないんだが。百歩譲る。メンバーをびっくりさせたかったんだろで自己解決。
でも、
でもさ、ライブ直前のあのやり取り
9人で4人と5人に別れて全力出し切ろうって決めたのに何で4人組は学校説明会無視して衣装着てライブ前にドヤ顔キメてるんだとか
何でリーダーはそれをみて怒るでもなく安堵の表情を浮かべてしまうんだとか
離れていても思いはひとつだったんじゃなかったのか?想いよよひとつになれとはなんだったんだ?
なぜ、どっちのライブも9人でやり、なおかつストーリーとキャラの感情をスっと落とし込めるようにはつくれなかったのか?王道な話の展開とかでよかったんだよ。
キャラクターの感情とかこれまでのことを蔑ろにしすぎてて正直MY舞君ここどころではなかった。
そんなことを考えながら1週間を過ごしていた。辛かったし後輩にこのことを話しても「まーラブライブのお話はあってないようなものですしブヒィwww」って言うし。いやまぁそーだけど。あの3話はそれにしたってだよ。
ここに書いておくことで気持ち的に整理できたらいいなぁ位の感覚で書いてるからおかしな部分とかあるかも。
とにかく、もーちょっとがんばれサンシャイン!草葉の陰から応援してるからホントがんばれ!!あとできればルビィちゃん回オナシャス!!!
いきいきと歌って、踊って、パフォーマンスをする彼らを見て目がチカチカするぐらい当てられてドキドキしました。
コンサートツアーが終わった今でも、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない中にいます。
このなかで、とても心温まる出来事がおきました。正直今も思い出すたびに感動で泣きそうです。
コンサート中、V6のメンバーがトロッコや花道でサインボールとサイン色紙を投げる演出があるのですが、今回アリーナ席だった私のほうに井ノ原さんのサイン色紙が飛んできました。
取られたのは前の方で、いわゆる“争奪戦”もなく、ゲットした方を左右前後でおめでとうございます、とぱちぱち拍手を軽くするような状況でした。
勿論私も最初から自分の方に来ただけで嬉しかったのですが、何やらその方は左右を確認し、真後ろの私を見て「あ」と声をあげました。
何だろう。
そう思ったら、手に取っていらっしゃったサイン色紙を私に差し出してくれました。理由は私が井ノ原さんの団扇を持っていたから、井ノ原担だから、ということでした。
皆がほしがるサインボール。サイン色紙。その公演で貰える人は限られています。
いわゆる「自担」じゃなくたって、メンバーのものだったら欲しい。そう思うのは当然だと思います。
「こっちのほう狙ったの、多分担当さんがいることを分かってたからだと思うので」
そういって、差し出してくださった方は微笑んでくれました。本当に本当にありがとうございます。
今回の出来事を経験して、本当に本当に頭が下がりましたし、あの方に少しでもいいことがありますようにと心から念じているばかりです。
岡田担さんということで、もう本当に岡田さんこっち向いて!!!!!はやくこっちきて!!!!!!ってアンコールのときに思ってました。それはもう全身全霊で。正直自分がファンサもらうことより、この人のために岡田さん早く!ってそわそわしていました。
コンサート終わって、「またどこかで」と微笑まれたあの人に良いことが起きますように。
エコパにも行くというお話もされていたので、エコパで岡田さんからファンサもらえてたらいいなあ。
そして、カウコンチケット、岡田担さんに当たりますように!!これから神社いってひたすらお祈りしてきます。
名も知らぬ岡田担さんへ。本当にありがとうございます。
そして、私もあなたのようにいつかそういうことが起きたときに差し出せる人でありたいな、と心から思いました。素敵な素敵な経験をありがとうございました。
いつかまた、どこかでお会い出来たなら改めて御礼の言葉を言わせてくださいね。
元増田だがすまん、べつにトロッコの話はトロッコ問題が記事の中であったから使っただけでブログ内容とは関係ない。
例え話をして論破したように言ってるけどそんなの例える内容によってはどうにでもできるだろっていうのが俺のいいたいこと。
俺みたいに「家畜の話」にするのも悪手。どう考えても話がネジ曲がり解決不能な方へ、そして歪にしかならん。って思ってる。
そんな状況での正解は作者にしかない。
解いてはいけない問題っていうのも、わかるけど、ぶっちゃけ情報がなさすぎる。(元漫画読んでないのでちゃんといろいろかいてあったらすまん)
情報が少ないから後から情報を足していってどうにでもできる。解いてはいけない。それは正解かもしれないが、Twitterという一対多が当たり前のように起こる場でその正解の出し方をするのはどうなんだとおもった。