はてなキーワード: トリアージとは
札刷りすぎってのは、未来を売って現在の延命治療してるだけとも言える。トリアージとしては正しいが、前借しているだけでもある。
実体経済の回復、特に中小企業への影響は大きい。GDPや各種経済統計の調査内容が変わって中小企業の業況は去年あたりからか反映されてないんだよね…
足元経済や景気ウォッチャーを見ても、実体経済の回復というには不安定すぎる。
子がいる人や、将来の蓄えに不安がありそうな一般人がもろ手をあげて評価してるのは、正直解せないところはある。
前回、就職氷河期について書いたとき、安楽死についての意見をいただき、これについてしばらく考えていました。
その折りに、衝撃的なニュースが飛び込んできたので、これも併せて考えて見ようと思います。
そのニュースはこちらです。
2017/4/27 1:33日本経済新聞 電子版(http://www.nikkei.com/article/DGXLZO15800570X20C17A4MM8000/)
他にも関連記事がありますが、これらの記事からは「75才以上の高齢者は治療効果がないので、原則として抗がん剤を使わないことにする、と厚労省が決めた」ということが読み取れます。
「そんなことまで書いてないじゃないか」と突っ込まれそうですが、たいてい厚労省がこういうことを発表し、日経新聞が記事を掲載する時は、もう決定事項になっていることを経験上知っています。
それはそうでしょうね。
もしかしたら抗がん剤治療で助かるかも知れないところを、年齢で一律に区切って治療をせず、痛みを和らげる治療だけにする、と言い出しているのですから。
では、なぜ急に厚労省はこんなことを言い出したのでしょうか?
筆者は、それだけ今、国にお金がないことが原因だと思っています。
日本に1,000兆円を超える借金があることは皆さん知っての通りですが、それだけではなく、医療保険制度を支える保険料収入が全く足りていないようなのです。
八代尚宏著・シルバー民主主義(中公新書2016)のp72によると、長期間のデフレによって、医療・介護費を賄うための社会保険料はほとんど伸びていないのだそうです。
本来であれば、働き盛りで一番収入も、払う税金も、保険料も多いはずの30代後半~40代前半の団塊ジュニア世代。しかし、彼らの多くが就職氷河期の影響を引きずったまま、未だに非正規や低賃金の人が多いのが現実です。
一方、高齢者の数は団塊世代が後期高齢者に差し掛かる中、急増しています。
その数といったらハンパなくて、団塊ジュニアよりも遥かに多いのです。
私は「団塊ジュニアがバブル世代より上の世代と同じか、それ以上に稼げているならまだしも、こんな状況じゃ、どう考えてもつじつまが合わないよなあ」と思っていましたが、やっぱりそうだったみたいです。
八代先生によると、足りない分は税金や国債で補てんしているようですが、さすがにこれ以上、同じことはできない…。
ということで、医療費を削ろう、より年をとって助かる見込みのない人から削ろう、せめて痛みで苦しまないようにしよう、という方針になったんだと思われます。
ところで、安楽死の話に立ち戻りますが、現実に安楽死をどうやって実現するか?と考えると、いくつも壁が立ちはだかります。
誰を対象にするか?
どういう方法で死に至らしめるか?
誰がそれらを行うのか…?
これらを国民全員が納得できるよう調整するだけでも頭が痛くなります。
そもそも「誰が対象?」「基準は?」というところだけでも難しい問題です。
就職氷河期世代は経済活動に貢献できていないし、今後も見込みがないから対象?
じゃあ、他の世代で同じように経済活動に貢献できておらず、見込みのない人はどうするの?
という命題にまで行き着くのです。
(この命題に1つの答えを出したのが、相模原の大量殺戮事件でしょう)
「こういうことを制度として議論し始めたら、国連の人権委員会から調査団寄越されて、国際社会から“人権意識の低い国”ってレッテル張られるんだろうなあ…」と筆者は思っています。
(かつて日本は国際人権委員会の調査団に調査されたことがあります)
こう考えると、安楽死ってとても難しいやり方なんだと思います。
やっぱり、生きてる人間の命を奪うのはいろいろ意味で難しいんだと思います。
それに比べると、寿命が長くなく、助かる見込みのない人の治療をやめるのは難しくないのかも知れません…。
つまり、この社会は就職氷河期世代を安楽死させるよりも、団塊世代を始めとした高齢者をトリアージすることを選んだのかもしれない、とも思うのです。
よく、「就職氷河期世代は人口が多いにも関わらず、バブルがはじけちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という言われ方をされます。
しかし、今は「団塊世代は人口が多いにも関わらず、国が貧乏になっちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という時代に変わっているのかも知れません…。
先日、下記のブログ記事とその反応を見て、強い危機感を持ったので、ここに覚え書きを残しておきます。
(参照ブログ:俺ら就職氷河期世代ってもう忘れ去られたのかな (追記あり
http://anond.hatelabo.jp/20170422041028#tb)
就職氷河期世代当事者の悲鳴、落胆、それに対する多世代の反応、どれもが納得できました。
また、この記事に関して、『「トリアージ」される就職氷河期世代 参照:http://blogos.com/article/219419/』などの関連記事も興味深く読ませてもらいました。
何に危機感を覚えたのかというと、この就職氷河期世代の取り扱いと、日本経済の展望についての考察が抜け落ちているところです。
先のブログの筆者も、それに対する同世代、多世代の反応も、そして、関連記事を書かれた方も、いずれも「就職氷河期をこのまま社会から排除しても日本経済に影響しない」ことを前提にして考えていると思うのです。
確かに、たくさんの非正規雇用や低所得のままでいる就職氷河期世代を全て救うのは至難の業です。40代という転職などには難しい年齢になってしまっていることも承知しています。しかし、彼らを「助けられないものは仕方がない」として、このままにしておけば、それこそ日本経済が危機に瀕すると筆者は思っています。
何故か?
筆者は最近、医療予算が日に日に縮小していくのを、働きながら感じています。
恐らく国は、莫大な国の借金や減少する税収、保険料などとのバランスを取るために、医療予算も切り詰めるだけ切り詰めようとしているのだと思われます。
以前は社会的入院が問題になっていましたが、今はリハビリすらも削られるようになっており、これから検査、その他、諸々のものが削られていくのではないかと思います。
実は私は、その前振りのような話を、とあるセミナーで聞いたことがあります。
曰く、「日本の借金は遠くない将来、日本人の預貯金の総額を上回る。その時、日本の国債の信用が下がり、ギリシャと同じく破たんする。今から毎年増える医療費を抑える必要がある」と…。
これを聞いた時、私は「そうか、ずいぶん大変なことになっているんだな」くらいにしか思いませんでした。
しかし、最近、職場で思いがけないものがどんんどん削られていくのを見て、この話が現実のものになりつつあることを実感しています。
翻って、就職氷河期世代には将来の“生活保護予備軍”が多数いると考えられています。
これは、9年前、既に次の報告書で指摘されているいます。(参照:NIRA研究報告書 就職氷河期世代のきわどさhttp://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwjI492Rvs7TAhWKwLwKHUrSCg4QFggiMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.nira.or.jp%2Fpdf%2F0801report.pdf&usg=AFQjCNHu6efnz9XIN2tD0Errx4MSnaNs-A)
この報告書によると、就職氷河期世代の多くが、このまま低所得のまま年齢を重ねた場合、200万人超の人々が生活保護を受給することになり、その額は年間17兆円を超える可能性があります。
私は経済は全くの門外漢ですが、日経新聞によると日本の2015年度の税収が約56兆円だったそうです。また、年間予算が90~100兆円だと思われます。
この税収、年間予算の中から毎年、毎年、17兆円超が低収入のまま生活保護を受給せざるを得なくなった就職氷河期世代に支出されることになるかもしれないのです。
さらに、どこで見たか覚えていませんが、その金額は20兆円になるのではないか、との試算もあるようです。
先に述べた通り、そして、多くの方がご存知の通り、日本の財政はひっ迫しています。
しかし、そのひっ迫した財政状況下で「助けられないものは仕方がない」として就職氷河期世代をこのままにしておけば、毎年17~20兆円のお金を税金から出さざるを得なくなる可能性が非常に高いのです。
そして、それは少なからず、日本が借金を返せなくなる日を早めることになるのではないかと思われるのです。
もし、そういう時が来たら、就職氷河期世代だけではなく、全ての世代が貧しい時代に突入するのではないかと思っています。
最近、このような問題にReutersなどの海外のメディアも関心を寄せて、記事にしているのがなんとも不気味に感じます。
(参照:ロイター日本『焦点:「パラサイト世帯」の高年齢化、日本社会のリスク要因に』http://jp.reuters.com/article/japan-parasite-idJPKBN17L06L、英語版『Life's illusions catching up with Japan's middle-aged 'parasite singles'』http://in.reuters.com/article/japan-ageing-singles-idINKBN17K2OQ)
つまり、現役世代が上の世代の年金を出している、ということです。
みなさんご存知の通り、現在は高齢者が多くなり、1人のお年寄りを3人くらいの現役世代でさせなければならなくなっています。
さらに、これからどんどん、支えなければならない高齢者の数が増えていきます。
数が多いと言われている団塊ジュニア(=就職氷河期世代でもあるのですが)ですら、その上の団塊世代の数には遠く及びません。
そして、就職氷河期に被ったが故に、本来であれば高齢者の年金の大きな支え手になるはずだった団塊ジュニアの所得は低いままです。
このような状況で、高齢者の社会保障を維持することができるのでしょうか…。
こう書くと、「じゃあ、なんで就職氷河期世代は働かないんだ?ちゃんと稼がないんだ?」とのお叱りを受けるかもしれません。
でも、今の社会制度や慣習の下では働けないんです。
先に指摘してくださった方がいるように、日本には厳しい年齢制限があるために、働こうとしても、40歳も過ぎると会社や組織などで新たに雇用してくれません。
いくら勉強しても、訓練しても、それらを生かすチャンスは与えられません。
運よく正社員になれても、「正社員歴が短い」ことを理由に、賃金は低いままです。
このような状況では、就職氷河期世代が上の世代に十分な年金を“送金”することはできません。
無い袖は振れないのです。
また、就職氷河期真っただ中の時には、フルタイムと同じように働いても厚生年金に加入させてくれない会社がたくさんありました。
厚生年金に入っていると見せかけて、実は会社が加入させてなかったケースもありました。
多くの非正規雇用者は国民年金に加入せざるを得ませんでしたが、賃金が低いために保険料を払えない人も少なくありませんでした。
そもそも、“送金”式の年金制度に入らせてもらえない人も多かったのです。
他の世代の人の中には「この世代は助けられない」と言う人がいます。
就職氷河期世代の人の中にも「我々はもう助からないから、下の世代にお金を使ってほしい」と言う人もいます。
他の世代がバブルのしわ寄せを就職氷河期世代が一身に背負うことを希望し、就職氷河期世代もそれで仕方ないと思っている節もあります。
もし、そんな制度を作って就職氷河期世代の人口を減らそうとしたら、国際社会から厳しい批判を浴びて、日本は先進国の仲間から脱落するでしょう。
すると、就職氷河期世代は寿命がくるまで生きることになりますが、低賃金のままでは生きていけないので、生活保護を頼ることになり、財政への負担が大きくなることは避けられません。
就職氷河期世代の当事者も、その他の世代の人も、「今は貧しいかもしれないけれど、いずれ彼らも正社員になり、たくさんの収入を得られるようになるだろう」と思ったでしょう。
でも、そうならなかった今、そしてどういう形であれ、寿命まで生き続けなければならない就職氷河期世代がたくさんある以上、あらゆる手段を使って彼らを“税金や年金をもらう側”から“税金や年金を払う側”にしていかないと、日本経済自体が立ち行かなくなるのではないかと思われるのです。
それはある意味、本当の意味でのバブルの清算とも言えるのではないかと筆者は思っています。
そして、このような文脈で『正社員化でも報われない氷河期世代の無間地獄
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/120200081/
』という記事に賛成する次第です。
そうだとしたら、元増田の言う
と言う疑問は一時保育についてももっともである、って事になるんだけども。
必要もないのに預ける人のせいで、本当に必要な人が預けられないんだから。
実際はトリアージなされてる気がするけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20170215221311
http://b.hatena.ne.jp/entry/324953633/comment/irodori_kotori:embed]
一時保育って普通いわゆる「保育に欠ける」状態でなくても利用出来る様な気がしていたのだけど違うのか?
と思ってちょっとググってみた。
私が住んでいる市とその周辺の市町村のホームページを見た限りでは、一時保育の利用は何らかの事情で「保育に欠ける」以外に「育児を忘れてリフレッシュしたい」というのもOKだと殆どの自治体で明記していた。
調べた中で某市だけがそれを明記していないが、そもそも一時保育を市の事業として行っておらず完全に市内の各保育園に丸投げしているらしい。
で、うちの市では一時保育への申込みはどの様にするのかというと、基本的に早いもの勝ちだ。
事前登録をするには保護者が自分で園に電話を掛けて面接の予約を取る。(役場の窓口や保健所や児童館などに問い合わせても良いが、すると実施保育園の電話番号を教えてくれて自分で電話するように言われる)そして後日、園に子供を連れていき親子で面接を受け、それで問題が無さそうなら登録が出来る。
大抵の場合受からないという事は無い。ただ、母乳以外の飲食物を摂取出来る子供である事は必要な条件であるらしい。
実際一時保育を利用する時は、事前登録済みである事と、それから利用したい日の半月前に園に電話で予約する必要がある。
当日利用は定員に空きがある時のみだ。
という風に、予約順でのみ利用出来るか否かが決まる。
すごく混んでいたとしても、利用理由の緊急性や必然性でトリアージがなされる事はない。
この一時保育のシステムについては、出生届を市役所に出した時に窓口で貰える大量の書類の中の一枚に書かれているのだが、案外目を通さない人が多いのか、あまり広くは知られていない印象だ。
私自身は一時保育を利用した事はなく、保育園併設の子育て支援センターで、職員さんや実際利用している保護者の人達から話を聞いただけなのだが、多くの一時保育利用者が常連さんの様だ。
前述の様に利用手続きがちょっと面倒臭いのと制度自体があまり知られていないからそうなるのかもしれない。
私の知っている限りでは、一時保育の利用理由は、週に3日以内のパートをしている、上の子の学校行事、本当にただの息抜きの他、祖父母と同居の為に保育園に落ちたが祖父母が体力的に育児するのが難しいとか、一時保育が子供の教育に良い影響を与えると信じているとか、そんな感じ。
ともかく、普通の保育園とは違って利用するのに審査はないので、子供を預けてみたい人は、自分なんかが申し込んで良いのか?なんて悩む必要はないと思う。
その違和感をずっと考えてたんだけど「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」って前提であるんだと気が付いた。
「いやいや、自分の子供の幸せ願うのは当たり前でしょ?」っていうのは、まあ、感情としては理解できる。でもしかし、その天秤の反対側に「じゃ産まない」ってのが乗っかるのはどうなんだ?
っていうのは、個人の能力や努力とは無関係に、国家が下降潮流にはいるってことはあるでしょう? そういう時代の中にあって、もちろん子どもの才能や運不運や相続の影響はあるけれど、全体のトレンドとして「子供時代の生活は今より厳しくならざるを得ない」という時代。その時代になったら、みんなが同時に子供なしなしやめ! って判断になるの? そしたら本当に国滅んじゃうよね。少子化による消費人口低下云々じゃなく、本当に人種絶滅的にいなくなっちゃうでしょ。
もちろん、自由な個人の家庭の運営判断をないがしろにするわけじゃない。子供産むよりも自分の生活優先っていう、トリアージが行われるのも理解できる。子供の幸福と国の浮沈という二者択一は個人の判断の手に余る(それに自分一人が子供産んだ程度で景気良くなるとは限らんわけだし)。
しかし一方で、その判断ってなんだか非常に気持ち悪い部分を内包しているのも事実だ。そもそもなんで「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」なんて前提が置かれているんだ? 子どもに幸せになってほしいという感情は肯定するが、しかし、多少歴史を学べば景気の上昇も下降もあるし、日本にいるとリアリティはないけれど、ある世代では隣国と戦争になったとか、領土が減ったり増えたりとか、そういうのすらあり得るのが「時間の流れ」なんじゃないのか? この世界はそういう世界だと考えるのが当たり前じゃないか? 「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」ってのに対して「そりゃ変だろ、歴史の立場に立てばいい時も悪い時もあるよ」っていう人が大半だと思うけれど、なぜその同じ人が子育てに関しては急に「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」って目を三角にするんだ? 「子供(に限らず個人の)の裕福さ」なんてのは時代の景気の従属変数に過ぎないというのに。
そもそも、子育てに関して、20年でン千万必要です、とか語ったとして、教育制度や教育費、そして貯金の価値が不変だとなんで信じられるんだ? たかがこの10年で年金の支払額やその可能性が取りざたされているこの現在、なんでそんなに「2016のたまたまの今の常識」を無謬だと信じられるんだ? たとえば、その学資保険はある日紙くずになる可能性だってあるし、大学の学費が大幅に値上がりする可能性もある(未来は不確定という意味では同様に大学無償化の可能性もあるけれど、値上がりのほうが蓋然性は高そうだ)。
30歳から40歳の人間は携帯連絡手段のない時代、ポケベルの時代、PHSやガラケーの時代、スマホの時代と目まぐるしい移り変わりを目にしたと思うけれど、にもかかわらず「2016年の常識がずっと続く幻想」があるんじゃないか? 正確に言うと2016年じゃなく「今この瞬間が過去も未来も延長されているという歴史認識」に近いと思うんだけど。べつに、だから「貧しくとも子供を産め」みたいな話じゃなくて、その(どうにも奇妙に思える)常識感覚を神格化してる部分が気持ち悪いと思う。
結局、子供を産まない、あるいは生活に余裕がないと感じているその感覚の正体は「日常的に下流たたきをしている自分のエンタテイメントスタイル」が逆照射して「下流だと叩かれる恐怖におびえる、あるいは恐怖から目をそらすために必死になる」みたいなものなのじゃないかと感じる。
ただもう、時代は昭和じゃないわけで、多様化するライフスタイルの中で、ある部分の豊かさを守るために、どこか別の部分は切り詰めるというような時代になってるんじゃないのか? そして今この国の文化の中では「家族と一緒に過ごす、子供に囲まれた生活を送るために、子供の豊かさはある程度あきらめる」というのが許されないようになっていると思う。その種の選択は「子供を不幸にする重罪人」としてすくなくともはてブではフルボッコだ。
しかし「富裕層であろうとそうでなかろうと、子供を作り囲まれて過ごすのは幸福の中心である」という判断は国や文化によっては当たり前だ。「多少裕福とは言えなくても子供を産んで育てるのは当たり前だ」という国のほうが世界では多数派だろう。世界の多くの国において「貧困層が子供産むなよ迷惑だ」とか「貧困層に生まれた子供はかわいそう」なんて糾弾は、まったく常識的ではない。
少子化の背景は、国の支援不足のはるか以前に、「子供は自分たちと同じ程度に裕福な生涯を過ごせなければならない」っていう無意識の変な前提と、「一定以上の金額を投資してもらえない子供はそれだけで不幸だ」「投資できないのに産んだ親は子供に対する愛情がない」と断罪する、ある種の下流たたきエンタテイメントなのではないのかな? そういう意味でこの国の少子化は、経済的な問題では全くなくて(だって日本より不景気な国いくらでもあるでしょ)、先進国共通の社会構造の変化部分を除けば、国民の国民たたきの結果に思えて仕方がない。
ニュースリーダーで長谷川豊をNGWordにして以来、めったに目にしなくて済むようにしてたのに、他でも結構目にするようになってきてたので、読んでみた。
イギリスのEU離脱派のバカどもやトランプ候補の「俺達の金がヤツラに使い込まれている」っていう話を、日本の人工透析に持ち込んで、燃え上がっているらしい。しっかり叩かれているということは、日本はまだあのレベルまで落ちてなくて良かったと思う。
たぶん、ナチスに反対した牧師のコピペが貼られたりしはじめて、トリアージに絡めた意見とかも書かれたりする流れから、トリアージはかわいそう、トリアージは人権侵害、トリアージはホロコーストというところへ進んでいくんだろうと思う。日常の人工透析をトリアージと結びつける例え話も、トリアージをホロコーストと結びつける例え話も、もうズレまくってて、だから例え話はいかんのですよとしか言い様がないんだが、この増田のタイトルみたいなのもそのうち書かれるんだろうか。
生きてる人間捕まえて、もう詰んでる、その程度では詰んでない、
やっぱ詰んでる、いやまだ生きてるからそれは詰んでない、とか言っててもしょうがなくね?
どっちが重症かとか関係なく、みんな何かしらケアが必要なんじゃねーのそれ。って思ってしまう。
今世の中にあるケアとやらで実際何ができるのかは正直疑問だけど。
全部どうにかするリソースはないから自発的にトリアージしてる的なことなの?
なんかこう、このままいくと生きる気力が失われる事態になってもおかしくないぞ、
ぐらいのもっと浅い段階で、もうちょっとなんとかなんねぇもんかなって思うけど、難しいんだろうな。
傷は浅いうちに治した方が早いのは確かな気がするけど、何をどう何とかすりゃいいのかもよくわかんないし、
元増田が挙げてる「女が男から仕事を奪った!(r」なんて一応意見の体裁をとってるだけかわいいもんだ。
肉便器、家畜、寄生虫、腐れ羊水、中古、残飯、劣化、チェンジ、貴重なま○こ、BBA、ま〜ん(笑)
こんな醜い言葉が乱れ飛ぶのを何度目の当たりにして来た事か。
言い返せば「どっちもどっち()」「同じ穴の狢」「男叩きするな」と、そういう時ばかり良識的な方々の「女に対してのみ」の諌めの言葉がかかる。
「女叩きにうんざり」とひっそり愚痴れば即座に男が飛んで来て、汚い言葉を羅列したコピペでその場を埋め尽くし機能させなくする。
有志の管理人さんが荒らし男のレスを削除してくれるごく一部の場所以外では今ですらこうだ。
かつて「男が酷い目に遭ってるのを見ると内心胸がスッとする」という増田を書いた。
「ほうっておいてくれ、いじめないでくれ」と訴える人々の中に、匿名をいい事に上記のような嫌がらせを繰り返して溜飲を下げていた自称弱者男性のクズがどれほど潜んでいるか自分は知らない。知る手段もない。
しかし彼らがこの10年以上、罵詈雑言を尽くして女を罵り貶めて来た同性を放置して増長させて来た事には変わりない。「お前みたいなキチガイと一緒にされたら迷惑だ」なんて声を上げる男なんかどこにもいやしなかった。
まあだからって責める気はないけどね。フェミの皆さんに自身の潔白を信じてもらえず「お前らもどうせ女を奴隷にしたいクズなんだろ」と決めつけられても自業自得だと思って放っておくだけ。お気の毒なことです。
女を叩いた事などない、酷い目に遭わせた事もない、貧しく力のない男性が、福祉のトリアージで最後尾にまわされて困窮している事は本当に気の毒に感じるし改善されるべきだと思う。
だがそうでない女叩き男どもがどんな酷い目に遭おうが知った事ではない。むしろ内心胸がスッとする。
そいつらが便器だの家畜だの寄生虫だのと罵って来た下等な存在より惨めったらしい境遇に落ちぶれて死んで行くのだと思うと心からの爽快感を覚える。
そういえばこの増田でも過去に何度も見たな。「少子化対策()」「弱者男性の救済()」とかいうおきれいな名目で、若い女から人権を剥奪して金も顔も性格もポンコツな低能ジジイ共の財布兼家政婦兼産む機械にしろという薄汚い主張の数々を。
「お前が性格最悪で働かず家事もしないドブスババアを国策で無理矢理あてがわれたら絶対嫌だろうしお前の親は泣くだろ、同じように女とその家族だって嫌なんだよ」と何度諌めても聞きやしなかったあの連中(「遺伝子プールの多様性()のためにも劣った男の子孫を残す事だって必要なんだ」とか屁理屈こねてたのには心底臍が茶を沸かした)。
今頃(あるいはいずれ)、あいつらが金も女も、それどころか仕事や同性の友達すらまともに得られずに醜く年老いて野たれ死んで行くさまを思うと本当に胸がスッとするわ。
そもそも考えたことがない。
それじゃダメだよね。国が予算出してるんだからさ。独立しようが国から予算もらってる以上は研究意図を明確にし、その研究が将来何の役に立つか(これは可能性でいい)まで主張できるようにならないと。
それがない文系の研究にたいして価値はないよね、予算減らそう、というのは当然の成り行きだと思わない?
たとえば企業が人材を採用するにあたっては、その人材が会社が人件費を払うにふさわしい人材か、というのは重要だよね。
国が予算を出すにあたって、それにふさわしい研究かどうかを選別するのはなんら問題ではない。これが差別だとか言うならトリアージはナチ、だよね。
まず、多くの人が「教師が入学式を欠席するなんて!」と呆れたことの理由を考えてみたい。
そして、自分自身が反感を抱いた理由を考えてみたい。
よく、国民皆教育評論家というけれど、実際には一人一人異なる教育を受けてきていても、同じような教科書を使って決められたカリキュラムで教育を受けたという幻想があるので、報道されない個別、具体的なさまざまの事情をついつい無視して、自分の個人的な体験に置き換えて、善し悪しならぬ悪し悪しを語ってしまうんだろうね。
今回の件で教師を責める理由に、公務員なのに、という理由があったけれど、少し考えればそれは理由になってない。
私立の担任教師なら入学式を欠席してもよいと思っているのだろうか?そうは思えなかった。
呆れた多くの人たちの中には、自分の子供の入学式のために仕事を休んだ経験がある人も多いと思う。
それは、担任教師に抱いている「当然の期待」のハードルが、とてつもなく高いからだと思う。
そして、担任教師への期待のハードルが高すぎる理由は、親から見て学校が、我慢して子供を通わせざるをえないところであるからではないか、と思う。
私が思う「学校が親に課す高いハードル」とは次のようなものだ。
学校はこんな高いハードルを親に求めるのだから、親も担任教師に対して過大な自己犠牲を求めるのではないか。
(この高いハードルを「親は学校/先生に子供を人質にとられている」と感じる人もいるかもしれない)
家族のために計画的な休みを取ることについて、これほど反対が出る職業は、たとえばシーズン中のプロスポーツ選手くらいしか思いつかない(緊急時に出動する公務員はまた別の話だ)。
たとえば医師は患者の死に際して「我々も手をつくした」と言わなければならない。
気をもむ乗客が「予定どおりに到着しますか?」と訊いたら、乗務員は「はい、大丈夫です」と言わなければならない。
実際には、手を尽くしたと言えない場合もあるだろうし、乗り物が定時に着くかどうかはやってみないと分からない。
でも、正直な回答をすると、相手は「ないがしろにされた」と感じる。
「たまたまこの日は、一刻を争う急患の方が多かったので……」
「今のところは定刻ですが、この先で故障が起きないとは言い切れませんので……」
このように「論理的には正しくないことを、言明させる/させられる風潮」が日本特有かどうかは知らない。
担任教師の家族が危篤の場合、急に学校を休んだとしても、我が子をないがしろにされたと憤る親は少ないだろう。突発事項だし、教師だって人間だもの。
でも、自分の子供の入学式に出るために計画的に学校を休まれると、受け持ちの生徒は二の次です、と行動でハッキリ示されたような気持ちになる人もいるだろう。
「誠意がない」と感じるのではないか。
「誠意」を重視する、というと、日本特有のものにも思えてくる。
最優先の仕事が同時にやってきたときに、人間なので、順序を付けないといけない。
でも、あからさまに誰かを後回しにすることはできない。
なので、遅くなった人から苦情が来た時は「今出ました」と言う。本当はまだ出ていなくてもウソをつく。
これまではウソも方便で良かったのだ。医者は患者に優先順位をつけ、優先度:低の患者が死んだら「全力を…」と言い、家族はそれで納得してくれた。
だが、世の中段々厳密になった。世知辛くなった。すべて記録で残すようになった。
そうすると、真面目ぶって「トリアージ」などと、優先順位の付け方を議論しなくてはいけなくなる。
ルールをつくって、あからさまに後回しにする人をつくることになる。
今回の件が、どのようにして報道される程の大事になったのかは知らないが、かつてなら誰かが担任の不在に気づいても、校長が「ちょっと貧血になって休んでいました」とか言えば済んだのかも知れない。
今はもちろんそれはできない。
後回しにされると分かって後回しにされるのと、後回しにされたとは分からないままに後回しにされるのと、どちらがよいのか。
「知らぬが仏」という言葉もある。
さて、では自分自身はどうなのか。
通常、この手の話では労働者側に立つことが多いと自分では思っているのに、この件に関しては自分も担任教師に高いハードルを課していて、我ながら驚いた。
自分の子供の入学式に出たいのは親として当然のことだし、親だって担任教師の子育てを尊重すべきだ、という意見があった。
担任教師が休むことそのものが、子供の教育にとって良いことだ、という意見もあった。
行動を通じて労働者の権利、ワークライフバランスの大切さを教えることにもなる、というものだ。
とても論理的だ。そして、わたしは割と論理的な話が好きな方だ。
友人とも対話した。
友人「公務員だって平時は私用で有給取得できるだろう。労働基準法を現場で無視してよいのか」
自分「担任教師の職務は特別で、子どもたちにとって唯一無二だ」
友人「家族の不幸とそれ以外の境目は?」
自分「計画的な休みかどうか。他人の子供を預かるという仕事の性質上、計画的に私用を優先することはふさわしくない」
友人「妊娠はどうか?」
自分「妊娠は計画的なものではないと個人的には思っている。不幸や入院と同じ」
友人「教師のなり手が減るぞ」
自分「有能でも信念がないのはだめだ」
このような私の意見は偏っていると思う。それは喜んで認める。
そしてその理由は、高校時代に受けた教育が、親にとっても教師にとっても非常にハードルが高いものだったことによるのだと思う。
昨日はたまたま高校(県立)の同期会だった。そこに集まったメンバーは、自分の出身校に誇りを持っている。
同時に、入学直後に受けた指導が、一種狂気じみたものだったことも認めている。
(このサイトを見つけてメンバー一同大笑い。ヤフー知恵袋 ★過激な校歌指導の現状★ ~埼玉県と福岡県の高校受験生へ~ http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n224682)
受験できる範囲内の県立高校としては一応トップの学校に入学して3日目から、まぁ右翼かヤクザのような指導を受けるわけです。
高校一年生が男女問わず軍歌のような応援歌を大声で歌わされるわけですよ。
「○せ」みたいな内容の。
親の中には子供から学校の模様を聞いて憤った人もいたかもしれない。
課外の補習授業に自主的に参加しなければならず、毎朝6時半には子供を送り出さなくてはいけない。
一方で体育祭ともなれば、放課後に強制的に応援練習に駆り出される。期間中は塾通いもできない。
それでも親としては、子供によい大学に進学して欲しいから、学校の先生が「ウチは文武両道なんです。協力してください」と言えば、なかなか否とは言い難かったと思う。
その代わり先生も、毎朝休まず7時40分から授業をするし、当然ながら行事は全て出席するし、3年生ともなると元旦返上で模試をやる。
公務員としての高校教師の職分をはるかに超えて熱心に生徒指導をしていた。だから親も納得していたのではないか。
こういう環境で育ったから、担任教師が入学式を欠席、と聞いた瞬間に、反射的に自分の受けた教育と結びつけて、否定的な反応を示してしまったのではないか、と思う。
犬や猫の不妊・去勢手術が飼い主に求められていることや、手術に様々なメリットがあることは知ってる。
「人間のエゴ」とか言い出しちゃうとキリがないし、人間が管理しなければ自然界に様々な悪影響を及ぼすだろうことも理解できる。にしても「不妊・去勢手術」ってとびきりエゴエゴしいっていうか。
犬・猫が好きで一緒に暮らしたいがために不妊・去勢手術しなければならないジレンマというか。
「家族の一員」と言いつつその家族の生殖能力を奪っちゃう不条理というか。
にもかかわらず犬・猫を飼っている(そして不妊・去勢手術を施している)ということは、これらのジレンマ・不条理をものともしない「何か」があるからだと思うんだけど、それが何なのか誰か教えて欲しい。
追記
でもそれは飼う・手術する理由じゃない。飼わなければ・手術しなければいいのだから。
犬・猫を飼い、手術を施すことによってそういうエゴや責任と否応なく向き合うことになるにもかかわらず、それでも飼う・手術する理由は「何か」が知りたい。
追記2
野垂れ死にか不妊・去勢かというトリアージ的な状況下ではそれしか無いよねって思う。
でも健康面とか増えすぎるからってのは自分が求める理由とは違う。繰り返すけど飼わなければいいのだから。
なのに何故飼うのか、ということ。
エゴで例えるなら、そこには「人間の」ではなく「貴方自身の」エゴがあるはず。
エゴで例えるとちょっと抵抗ある人いるかもしれないけど、要は人間はとか社会はとかじゃなくて「貴方は」なぜ飼うことにしたのかということ。
それを知りたいの。
追記3
一部消えているトラバもあったけどぜんぶ読んだよ。
自分は何かを主張するために質問したんじゃないよ。理由を知りたかっただけ。
だからすごく参考になったし、質問とズレたところの議論とか、この質問自体に対する反応とかも窺えてすごくうれしい。みんなありがとう。
そういうつもりじゃないんだけど(でもそういう人もいるだろうことは想定はしていたんだけど)、気分を悪くした人ごめんね。