はてなキーワード: 考察とは
国内の新型コロナウイルスワクチンは足りているのか足りていないのか?
(アストラゼネカ社のワクチンは今のところ使われそうにないので除外する)
■ファイザー社
6月末 6,000万回
9月末 5,000万回
12月末 8,400万回
■モデルナ社
6月末 2,000万回
残り 500万回(納入期限不明)
二社を合わせると
6月末 8,000万回(4000万人分)
9月末 5.000万回(2500万人分)累計6,500万人分
12月末 8,400万回(4200万人分)累計1億700万人分
少なくとも、6月末までに8000万回分のワクチンが日本に到着する契約となっている。
この契約が履行されていれば、8000万回分のワクチンはあるはずだ。
ちなみに、先行医療従事者は480万人、65歳以上の高齢対象者は3549万人となっている。あわせると4029万人で、8058万回分のワクチンが必要となる。(あれ?微妙に足りない、、けどまあ誤差の範囲としよう)
政府が7月末までに65歳以上高齢者への接種完了を目指すと言っているからには、7月末までに全国に約8000万回分は供給されるはずだ。
(一瞬脱線するが、この計算でいくと64歳以下への接種を早く始めちゃうと、肝心の高齢者向けの供給が滞ったりしないのかしら? まあ随時供給されるのであれば問題なさそうな気はする)
さて、一方の接種実績。
7月2日時点での接種実績は3024万9911回(ヤフーに出てた)。8000万回分が契約通りに日本に納品されているのであれば、入荷した量の約38%が使われた計算になる。
残りは5000万回分弱。廃棄されたものもあるだろうから75万回分ほど割り引くとして(ここは勝手に減らしてみた)、4900万回分の在庫が国内にまだあるはず。
でもってここからは完全に仮定の数字遊びの話になるが、4900万回分のワクチンを、一日平均80万回分消費する(直近は一日60万回~100万回で推移している)と仮定すると、61.25日で使い切ることになる。
いまが7月の頭だから、61日後というのは8月末~9月頭。それまでは国内のワクチン在庫は枯渇しない計算になる。
ただしこれは総量の話なので、どこかで在庫を抱え込んでいると、別の場所で不足することは起こりうる。当初、厚労省は恐らくこれを避けるために「V-SYS」なるシステムを使って、需要と供給を把握・コントロールしようとしていたと思われる。
また脱線するけど、仮に毎日80万回くらいのペースで接種が進むとすると、9月頭の時点での接種完了数はのべ8000万回(4000万人)。日本の人口が1億2712万人なので、残りの国民8712万人全員を接種するには1,74億回の接種が必要。もちろん低年齢で対象外だったり、希望しない人もいる。適当だけど3000万人くらいは接種しないと勝手にしてみよう(疲れてきたので11歳未満の人口とか調べるの面倒になってきた)。
8,712万ー3,000万=5,712万(人)
接種回数でいうと倍なので11,424万回の接種が必要となる。これを相変わらずの一日80万回ペースで接種し続けると、
11424万÷80万=142.8(日)となる。
9月頭から142日ということは、約5か月弱とすると2022年1月中旬から下旬。
この仮定条件では、希望者全員への2回接種が完了するのは2022年1月という計算になる。
(繰り返しますが、これは素人が勝手に計算しているもの。独り歩きしないか不安になってきた)
自治体ごと、職域ごとに配送した量と接種報告を突き合わせれば、どこの自治体や企業・大学などにどれくらい未使用在庫があるかは突き止められる(一般企業でいうところの棚卸ですな)。
全国の自治体の数は2000もないので、本気で調査すれば1、2日あれば調査は終わるはず。(数日分の誤差はあれど、概算の調査は可能なはず)
>フィクションの感想や考察だけの小学生レベルのぼろぼろさだったりする
たとえばどんな本なんだろう?
「明らかに頭いいし実際に頭良くないと関門を通り抜けられないような職種の人」「論文等の文章はバッチリ読める」
っていうんだから、まあ、試験とか論文で必要とされる「論理」に長けてる人ってことよね。
彼らが得意としてきただろう、試験や教科書に出てくるような文章は、フィクションとはいえ“適当に”書かれたものは出てこないんよね。
心情描写や気持ちの流れの描写も、必ず「記号」がある。こういう表現だから、こういう気持ちであると解釈できるみたいな。
国語の試験や学習は「独自の鑑賞眼」みたいな、独創性を問うてるわけじゃないから。
「小学生レベル」っていうけど、文章だけ読んだら確かにそういう解釈になるってことはないかな。
どんな本かわからんけど、雑なこといえば「その文章の方が悪い」みたいなことないのかな。
原作そのままだったら単なるコピーであって二次創作じゃないからね?
一部共通点はあるが絵柄含めて別物であると独自性が認められる(ひとめ見て原作と別物とわかる)から二次創作なんだ
絵柄が原作と酷似しているため「藤子・F・不二雄の真作」であると勘違いし小学館に問い合わせる者が出るなど、あまりに広まりすぎたために、著作権者である小学館および藤子プロ側も「想像していた以上に深刻な事態」[6]と受け止め、2006年に同人誌作者に著作権侵害を通告。
漫画の「キャラクター」は,一般的には,漫画の具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であって,具体的表現そのものではなく,それ自体が思想又は感情を創作的に表現したものとはいえないから,著作物に当たらない
(最高裁判所 平成4年(オ)第1443号,同9年7月17日第一小法廷判決)
仮に原著作物のシーンが特定されたとしても、本件各漫 画につき著作権侵害が問題となり得るのは、主人公等の容姿や 服装など基本的設定に関わる部分(複製権侵害)に限られるもの であり、本件各漫画の内容に照らしてみれば、主人公等の容姿 や服装など基本的設定に関わる部分以外の部分については、 本件各漫画に二次的著作権が成立し得るものというべきである。
(知的財産高等裁判所東京地方裁判所 令和2年(ネ)第10018号,令和2年10月6日知的財産高等裁判所第3部判決)
anond:20210629070253 anond:20210630072150
b:Id:hilda_i 私原作の解釈はめちゃめちゃする方だけどフェチとかエロとか以外の部分を書くためにしてるわ。台詞ひとつとってもキャラの性格なら言う言わないあるし。エロ場面はほぼ決ま()きってるから他の場面で凝るというか。
b:Id:hilda_i 勘違いされてるけど、「その二人が付き合ってると見なせる理由」とかの為に考察してないから。
b:Id:hilda_i BLにはポルノ同等の性表現のあるものもあるのは確かで、しかしそれをおかず利用しない腐女子もいるというのも確か。私も性欲がない訳じゃないのにBLをおかず利用はしないわねぇ。
10年ほど前にTwitterで知り合い、リアルでも遊びに行っていた、昨日まで身内アカで繋がっていたオタク友達。
ハマっているジャンルの考察や萌え語りツイートが面白い人だった。
他にもニュースやバズった物事、炎上案件に対して自分の意見を述べるツイートをしていた。
その意見が私の考えと違うことはもちろんあった。でもひとつひとつの物事に対してきちんと考え、意見を持って明確に言葉にすることは私にはできないことだ。芯の通った考えを持つ聡明な人だと思っていた。
そんな彼女は読み手側のオタクだったが最近ハマったジャンルで書き手になった。
炎上案件にいろいろ意見を言っていただけあって、思うところもあったのだろう。活動の仕方には斬新な手法を取り入れたようで、それが作品とともに好評であるらしい。ジャンルアカウントでは界隈の人気作家になっているそうだ。
今まで通りいろいろな物事に対して自分の意見を述べるツイートをするのだが、意見は基本的に否定から入る。自分の意見が正しく、述べられる先は愚かであり間違っているという趣旨になった。
「私はこれについてこう思う」というツイートが「これ私ならこんなことにならないのにコイツ世界一ヤバいでしょ」となる。
とにかく否定から入るので、つい数日前に述べた意見とは矛盾した意見になることも多い。発言の軸はブレブレである。
加えてジャンルアカウントでは言えないことを身内アカで言っているらしい。
いわゆる雑食タイプの彼女は固定派から疎まれることもあるらしい。煽ったり挑発するような発言を繰り返す。
それをジャンルアカウントではなく身内アカで言う。知りもしないジャンルの知らない固定の人間を攻撃する言葉を見せられるのは、他ジャンルで固定で活動している私だ。
神からフォロバされた、作品が褒められた、自身の手法が認められたなど。それ自体はよかったねと言えることなのに、殊更に強い言葉を使い、自虐風に見せかけて自慢を繰り返すのも見るに絶えない。
挙句の果てに界隈の他の人を完全に見下して女王様のように振る舞っていることを自慢し始めた。
もう我慢できない。理由も告げずに連絡手段を全てブロックした。コロナ禍で距離もあったのでしばらく会っていなかったのが良かった気すらする。
この人は特に変化が極端だった例だけど、この手の発言をする人そのものはよく見かける。いい気持ちはしない。
なので目につくこういった発言のオタク友達も全部ブロックした。ミュートでも良かったけどもうこの手のものと縁を切りたかった。TLは平和になった。
すっきりした。と言いたいところだけど何故かすっきりしきれていないので吐き出しておくことにした。すっきりできることを願う。
五輪の観客1万人とか2万人とかで騒いでる連中がいるが、既にこの週末だけでこんなに沢山の「1万人以上イベント」が行われている。(★:まん防などによる「5000人制限」要請中の地域で開催)
6/26 ヤクルト vs. 巨人/★神宮球場/14,410人、 阪神 vs. DeNA/★甲子園/16,306人、 広島 vs. 中日/★マツダ/15,878人、 楽天 vs. ソフトバンク/宮城楽天生命パーク/12,428人、 オリックス vs. 西武/★京セラD大阪/10,758人
6/27 ヤクルト vs. 巨人/★神宮球場/13,688人、 阪神 vs. DeNA/★甲子園/17,032人、 広島 vs. 中日/★マツダ/16,231人、 オリックス vs. 西武/★京セラD大阪/10,631人
6/26 J2第20節 新潟vs水戸/デンカビッグスワン/13,413人
特にプロ野球はまん防による5000人制限を思いっきり突き破っているところが多い。「野球やサッカーは観客のマナーが良いから五輪とは違う」とほざいてる奴が多いが、昨日の甲子園なんか罵声野次が飛びまくっていたし、1席空けるというルールを無視して席詰めて座ってるグループ客ばっかりだし、とてもマナーが良いとは言えない。一見さんかつ観戦対象にそんなに思い入れがない客が殆どの五輪観客の方がよっぽどマナーは良いだろう。
そんな連中が17000人も集まっているのだから医学的にはクラスター起きまくるだろう。政治的にはクラスターと認定されないだろうが。
だから、五輪の観客に2万人入れても今の野球よりひどくなることは絶対にない。ちなみに昨日の甲子園の収容率を新国立に適用したら、3万人までは入れられる計算になる。だから2万と言わず、3万人まで拡大しても問題ないはずだ。
あるよね。最近の読者や視聴者はバカだから説明してやらないと分からないって
だから最近の作品は質が落ちたとか、低俗なやつには俺の作品が理解できないとか、分かりやすさを求めて面白さが減っているとか言われてるよね
いやいやいや!分かりにくくても面白ければ長い間愛される作品になるじゃん!?
意味わかんない謎とか投げっぱなしの伏線とかただただ分かりにくい作品いいっておかしいでしょ
で何が言いたいかって
プロを目指すアマチュアで高尚な作品を作ろうとしているやつ、いいからまず相手に伝える技術を身につけろ!
そういう人大体怖いから逆らうの怖いんだよ。だからすごいですねって言うしかない。しかもそういう人には他人が理解できない物をわかる俺みたいなファンが付くからますます頑固になる
先にデビューした仲間を読者に媚びたとか嘲笑う前に歩み寄れよ!出版社を紹介しろとか言ってくんなよ!まず自分をかんがみろよ!
確かに「嫌いと言ってるけど本当は好き」とか「好意的な言葉をくれるけど内心見下している」みたいな描写が分からない人はいるよ
いわゆる「サリーはAの箱からボールを出してBの箱に入れました。後からマイクが来てボールを探しました。さてどこを探しますか?」っていう問題を間違えるみたいなもんでしょ?んなやつ昔からいっぱいいたわ
本当に「この作品意味わかんねーかわおもしろくねーわ」って言われる作品って普通につまんないだけじゃないの?
分かりやすくて面白い作品もあれば、分からなくても楽しめる作品もあるし、予定調和で何もかもが主人公の都合よく進むだけの作品もあるし、作者の描写力不足で何を伝えたいのかわかない作品もあるし、マジで意味が分かんないし面白さの欠片もないし時間をドブに捨てるだけの作品もある
普通に謎が伏線回収されていく場合とか読者それぞれの答えを探してもらいたいからあえて隠しておくとかはいいよ。それで面白いなら
考察しようとか読み解こうって気が起きない作品はだと悲惨。魅力もないから真剣に見る気も起きないし、頑張って考察しようと思っても作者が下手くそだからなんっもわかんないし大抵謎はないのに意味深に言ってるだけかあってもしょーもねーの
しかもそういう作者は自分が選ばれし者にしかわからない作品を作れる天才だと思ってるから「低俗な凡人共には俺の高尚な作品が分からない。読者の質が低いと苦労する」「私の作品は難しいのでみなさんは理解できなかったかな?でもあの程度のギミックもわからないなんて逆に笑っちゃう」なんて言ってんの
せめて読者は敵に回すなよ!高尚な作風を変えたくないならせめて解説とかしてみろよ!それで新規の読者もつくから!
やったらやったで無駄に長文で意味わかんない古語とか四字熟語とか使う必要もない難読漢字を入れまくって「つまり何が言いたいの?」な解説になっちゃうんだけどな!
「エイリアンズ」は、キリンジが2000年にリリースした6thシングル。郊外の静かな深夜を舞台にし、ありきたりな世界観でありながら不思議で魅力的な雰囲気に満ちているこの曲は、自他ともに認める名曲であると言えるだろう。
さて、エイリアンズの1つ目のサビ開けのAメロで、以下のような歌詞がある。
どこかで不揃いな 遠吠え
火を吐いた
静かな深夜のバイパスを、スポーツカーがけたたましい音を立てながら走り去っていく情景を表現したこの歌詞。ここに出てくる「仮面のようなスポーツカー」の車種とは、一体何なのだろうか。それを独断と偏見をもとに考察していきたい。
エイリアンズの歌詞では「仮面のようなスポーツカー」としか書かれておらず、この特徴に当てはまる車は数多く存在する。
しかし、歌詞に登場してくる以上、その車は曲の世界観にふさわしいものでなければならない。そこで私は、エイリアンズで描かれる世界観にふさわしく、情景をより引き立てるような車種を考察することで、「仮面のようなスポーツカー」の車種を絞ることができるのではないかと考えた。
エイリアンズの世界観と魅力、そして「仮面のようなスポーツカー」が登場するシーンをもう一度おさらいしておこう。
遥か空に旅客機 音もなく
誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ
エイリアンズで描かれるのは、ありきたりな郊外の深夜の景色だ。深夜の静かで寂しい雰囲気をメロディが引き立て、さらに歌詞の所々に見られるアブナイ雰囲気を匂わせる表現が、エイリアンズの魅力を作り出している。
そして、歌詞からスポーツカーが走るのは地方のバイパスであると考えることができる。地方のバイパスに似合い、ありきたりで寂しくもどことなく危険な雰囲気を演出する車とは、一体何なのか。
結論から言うと、最も適しているのは走り屋が好むような国産スポーツカーであると考えた。それも、アフターファイヤーを引き起こすほど手がかけられた改造車である。峠のような走りのスポットに行くために、走り屋が深夜のバイパスで愛車を走らせるシチュエーションは、ありきたりなものでありながら危険な雰囲気を感じさせるし、深夜のバイパスともマッチしている。
フェラーリやランボルギーニのような高級スーパーカーや大排気量アメ車、欧州系スポーツカーも悪くはないと思う。しかし、外車が似合うのは地方のバイパスというよりどちらかというと大黒ふ頭であり、最も適しているとは言えないのではないかと考えた。
「仮面のようなスポーツカー」が国産スポーツカーであると絞ることができた所で、年代を設定しさらに車種を絞っていきたい。
エイリアンズがリリースされた2000年を舞台として仮定してみよう。舞台となる2000年は国産スポーツカーが冬の時代へと突入していく直前、90年代の国産スポーツカーブーム最後期である。
よって、「仮面のようなスポーツカー」は、90〜00年の間に生産された車であると考えられる。
ぶっちゃけ、グリルがガバッと空いてて眼力を感じさせるようなライトの形をしてるような車であれば、どれもこれも仮面のようなデザインに見えてしまう。
そこで、「仮面のようなデザイン」については、グリルの大きさやライトの眼力の強さ等を尺度とし、筆者が独断で判定していくものとする。
以上を踏まえると「仮面のようなスポーツカー」とは、90年〜00年の間に生産された国産車、走り屋に人気があり、なおかつ仮面のようなデザインをしたスポーツカーである。
これに該当する車種をいくつか挙げてみようと思う。
仮面のような車といえばまずこの車が挙げられるだろう。ラジエーターグリルの無いスタイリングから、鉄仮面の愛称で親しまれた。90年に生産終了した車なので、エイリアンズに登場していたとすると、生産終了から10年以上経過していることになる。
ものすごく仮面のようなデザインをしているけれど、極端にカクカクしたスタイリングはあまりスポーツカーっぽくない。
《ホンダ シビック(EF型)》、《ホンダ CR-X(EF型)》
2つの車種はフロントのデザインが似ているので、同じ項目にまとめた。
4代目シビックは環状族に人気があった車種である。鉄仮面スカイラインのようなグリルレスのデザインは、仮面に見えなくもない。しかし、シビックに関しては一般的なスポーツカーのイメージからほど遠い車種である。
スカイラインGT-Rの中では最も仮面っぽいデザインの車。エイリアンズのリリースの昨年に販売された車なので、時期的にドンピシャ。上下にガッツリと空いたグリルはとても仮面っぽい。
《三菱 ランサーエボリューションⅣ,Ⅴ》
いかついデザインがいかにも仮面っぽく、こちらもエイリアンズ発表当時に販売されていた車。グリルの大きさもさることながら、ライトの眼力がめちゃくちゃ強いデザインをしている。
しかし、4ドアセダンのランエボに対し、2ドアクーペのGT-Rの方がよりスポーツカーっぽい気がする。
以上を踏まえ、結論は...
結論:キリンジ-エイリアンズに出てくる「仮面のようなスポーツカー」は、チューニングされた日産スカイラインGT-R(R34) である。
単純に人がいない更地ジャンルにハマってたら後から人が増えたってだけなんだけど。
「〇〇さんの作品を見て二次創作しようと思いました!」って人が結構いて、でもそれって私がいなかったらその作品にハマらなかったってこと?
確かに二次創作する人が増えるといいな〜と思って投稿したり布教っぽいことはしてたけど、自分みたいに自主的に「もう描かず/書かずにはいられん!」みたいな熱量の人を求めてたのかもしんない。向こうは褒めてくれたんだろうけど、前に人がいないと二次創作ってできないもんなの?って正直微妙な気持ちになった。
他の人より長く二次創作してて作品の背景とか調べてただけなのに、いざ作品についての小ネタ話とかすると「流石〇〇さん……!」とか妙に持ち上げられるし……疲れる……何かその「界隈」みたいな空気に。
そもそも作品ファンのコミュニティを作ろうとしたわけでもないのに開祖みたいな扱いされるのも心外っていうか、なまじ人が増えてファン同士の交流も活発化して、それはいいんだけど作品の話をしたくて繋がったのに全然関係ない話で盛り上がったりとかしてて、そういう身内感に全然ついていけなくなってしまった。
なんでほとぼり覚めるまでそのジャンル用のアカウント消して、いろいろ距離を取ることにした。
最初は自分一人で作品の考察とか壁打ち二次創作してたし、その頃に戻ったと思うとちょっとスッキリした。Twitterは疲れる、楽しいんだけどさ。
薄い本に釣られて、もう一度見てきた。
誰かのコメントの受け売りだけど、卒業式に何度も行かないよな、という気分で正直行くのに気が重かったんだけど、結果的に大分楽しめた。
わかりやすく言うなら、金曜ロードショーでやる度に見ちゃうだろうな、という感じ。
初回は、「俺のエヴァ(青春)があと数十分で終わってしまうのに、こんな映像見させられてていいのか!?」という気持ちで、鑑賞中にそわそわしてたんだけど、今回は落ち着いて見れた。
村シーンも良い。大変に良い。
ホクホクするとか、初回は狙いすぎだろと思ったけど、何故か2回目のほうがしっくりきた。
Qも衝撃的過ぎて、最初はなんであんなもん作ったん。。。?っていうトラウマ気味だったけど金曜ロードショーでやると見ちゃうもんな。
何なんこのエヴァとの親和性。毎回エンディングだけだし、何なら序の前には「なぜ宇多田?」と思ってたんだが。
相変わらずメインシナリオの理解はできてないんだけど、エヴァの終わりは感じた。
何が終わったって、謎が謎を呼んで、きっとその答えはエヴァの中にあるはず、という構造が終わったんだよね。
意図的にメタ的な部分を見せたり、明確な答えが示されたり(カップリング含む)。逆に難しい専門用語みたいなのは、これまでの「自分の理解力が足りないから意味が分からないのかな」、と思わせる演出から、明らかに無理だろwwwってレベルの用語オンパレードになってるから、「別にこれ以上深堀りしなくていいよ」っていうメッセージを感じた。槍もその場の工夫で新しく作れちゃうし。無限考察の沼から、引き上げられた気がする。一方で、相変わらず伏線・小ネタは埋まりまくってるから、何度見ても新しい発見があるっていうね。
敵味方問わず、キャラや兵器デザインには何か意味がありそうだったけど、今回はただの庵野さんの趣味だろうなっていうのを隠してない。
あと、群れが集まるの好きよね。シンゴジラでもあったけど。
重要:勝手に勘違いしてたけど、薄い本って加持さんとカヲル君が活躍する話じゃないのね!!
空白の14年間とかの話かと思ってたわ!!
以下、上記以外に今回気になった点
下半身の震えからエネルギーが集まって、脈動とともに射精される陽電子砲
かつての陰謀論は、自分で調べないと知ることはほとんど無かった。あくまで仮説であると理解した上で、それを考察することを楽しむ一部の人達のモノ、それが陰謀論だったような気がする。自分も昔、アングラな本屋に並んでいる、少し不気味な陰謀論や都市伝説が載った本を見るのが好きだった。
しかし、求めていなくても情報が嫌でも耳に入ってくる現在、陰謀論のような真偽が不明なモノももちろんネット上に溢れている。あくまで噂だという前提を知らない人達にも、そのような情報が広まる土壌が出来てしまったことが、現在の反ワクチンを唱える人が大量に出てきている事態を招いているのではと個人的に考えている。反ワクチン論者には中高年が多いらしく、これもデジタル、スマホネイティブではない事が関係してるのではないかと思う。
でも人間関係を構築するときはコミュニケーションとって、発話内容や態度や他者への認識を少しずつ微調整・軌道修正していく必要があるのでは?
大学時代に何度かデートに誘われて遊びに行った人がいるんだけど、頭の中に「理想的な私(今これ書いている私のこと)」像みたいなのがずっとあるみたいで、
実態と乖離しているところがあるし、そのうち私も相手のことを知ったりだとか知ることで新しい認識が得られたりみたいな、他者を知っていく面白さみたいな気持ちが相手に起こらなくなっちゃったんだよね。
相手が自分の頭でしか考えてないんだもん。思想が強固にあって、それを押し付けられている感じがしたわけなんだ。そうじゃないようしてほしいと伝えたけどうまくいかなかった。
「あなたが安寧に過ごせるならそれでいいです、それだけを願っています」みたいなことを言われたことがある。
一般にはこれはいいことだろうけど、なんていうか、これ押し付けですよね。本人がそれを言われてどう思うかは、本人次第ですよね。もちろんこれ言われて嬉しい人もいると思いますけど私はこれ言われても響きません。けれど私に言っているんですよね。私は言い返して、「一般論としては安寧に過ごすことはいいことだが、安寧に過ごすことを人生の要件とは必ずしもしていないし今その話してなかったですよね」みたいなことを返した記憶がある。
この作品の作者は基本的にはタイムリープと人の人生を変える、救うという組み立てを使いたがります。この起源を求めると際限がなくなりますが、とりあえずのところ『シュタインズ・ゲート』に求めることができると思います。多くのタイムリープものが変えることによって世界を悪化させるのではなく、変えることによって人々を救うという物語になりがちです。そして、この究極的な選択がすべての人間を救う、という選択肢でした。この前例として宮崎駿の『風の谷のナウシカ』などが思い浮かびますが、宮崎駿自身が悩んで重苦しくなったテーマをそうそう扱えるはずもありません。聖女が一人で世界を背負う、その行く末に待ち受けるのは、聖女の自己犠牲にほかならないからです。実際作品はVivyの犠牲によって世界が救われています。ちなみに宮崎駿はこの悲劇的な終末を原作、映画ともに避けています(ナウシカは戦う女であると同時に、正常な自尊感情と他者尊重の感情が成長によって獲得された人物であるという立場からだとは思います)。
世界のすべてを救うというテーマの割に、Vivy自身が「心を込めて歌う」ことに最後まで躊躇があった、あるいは無理解があったという点で感情移入のファクター一つが阻害されました。彼女はあくまでも人間に近いなにかであったという点で突き放されてしまったのです。第二に、視聴者に伝えるべき人物がダイジェスト扱いだった点が挙げられます。早々と空港で爆死してしまうモモカ、長い人生の経過を博物館とのやり取りで済ませてしまうVivyとマツモト博士(以下、オサム)。特にオサムに至ってはうディーヴァとして保管されていたVivyに恋愛感情を懐き、やがて悩みの時期に入ると母代わりになり、そして自身も伴侶を得ると良き人生の相談相手となる非常に重要な役割を持った人物でした。しかし肝心のオサム登場回は二~三話程度です。実際のところ作者がどう泣いてほしかったのかといえば、このもっともVivyを愛している人物に事実上の自死を強要し、またオサムのなすべき全AIの停止を命じなければならなかったところです。二者択一の苦しみの中にオサムはあったということですね。しかしこれはあまり上手に伝わっていません。個人的に別所で24話構成にすれば解決しただろうと書きましたが、おそらく根本的にそういう問題ではありません。
この内メインとなっているのはエステラやオフィーリアといったAI対AIのあり方に関するものです。これはいわゆるSF的な考察ではなく、人物相関として見るべきものです。AIとAIが関わるシーンが多いにも関わらず、Vivyはその他の人間も救おうとしています。こうなるとどうなるかといえば、人間と同類のAIに感情の殆どが持ってゆかれ、かつ最重要人物のオサムのエピソードが不十分になるばかりか、トァクの背後も語りきれなくなる、ということです。しかし作者的にはAIがインフラ以上になってしまった世界を描きたかった節も感じられます。でなければAIとAIの関係性をメインにもってきません。そればかりかAIを狂わせ、利用しておかしな世界にしているのは人間であるという業も人間側に押し付けています。これはつまり、AIという善悪を取り払った像から人間という醜くも美しい存在を浮彫にしたかった、という心象が背景にあると見てよいと思います。
この場合、AIとAIの物語である、という構造を減らして、人間とAIの関わりを増やすべきでした。なぜならVivyは最後の最後まで歌うことに対して逡巡していましたし、人間とAIの関係のみならAIと敵対する人間、支持する人間、利用しようとする人間という様々な角度がより深く追求できたはずです。さらには人間との関係性や対話が濃密であればあるほど視聴者はVivyの成長も理解できるようになります。
Vivyは物語の中である絶望感に襲われて、具体的には冴木教授の自殺によって一度フリーズします。この現象は上述の項目にかかっています。すなわちVivyはAI対人という構造で人を救いたかったわけではなく、全人類及びAIすら本心では救いたかった、というものです(他所ではモモカの死が重なったされていますが、話の根幹から切り取ると作品の意図としてこうなる、という話です)。Vivyは常々手の届く範囲は全て救おうとする存在でした。したがってVivyは無機質な感情を持つアーカイブのみが理解できない存在であり、その他のシンギュラリティを達成しているAIに関しては人間と同様の扱いに終止していました。これは作者の意図によるところです。作者は最初からVivyを聖女に仕立て上げたかったわけで、大きな風呂敷の中で終盤を終わらせるつもりだったはずです。その中身こそが「全てを救いたい」というリゼロでは成立しにくかったテーマです。もっとも結果として人間を選択してAIを切り捨てていますが、この辺への苦言は終盤にてナビがフォローしています。
前述の人間対AIという構図を増やし、全てを救うのではなく苦渋の決断でAIを停止させるという感情面の描写がより鮮明に描かれるべきでした。これは本来オフィーリアとアントニオの事件のときに行われるべきでしたが、彼らの背後には柿谷が関わっていたため、純粋にAIの悲劇を描きにくかったように思えます。結局AI対AIという構図を減らしてワンクールで収めるべきでした。
実はメッセージ的にはやれることはやっています。例えば先程の人間の業故にAIは悪にもあるし善にもなる。それを処断すべき存在がアーカイブであったという話、オサムが二者択一及び悲劇的な立場にあったという話。AI反対派の柿谷がやがて孫の代になってVivyと協力するという大河ドラマも盛り込んでいます。聖女であるVivyがその使命を最後までブレずにまっとうするという面も全てです。むしろ盛り込み過ぎと言うべきでしょう。しかし逆に言います。12~13話は約5時間ですので、映画一本分と思えばやれないこともないはずです。ではどうすればよいかといえば、感情表現をすべてセリフで済まそうとするのではなく、シーンで伝えきる技術をより先鋭化すべきかと考えます。僅かな感情のやり取りだけ、沈黙だけで意図が理解できるようにすべき、ということです。もっともこれは監督の仕事ですが。
Vivyがあまりにも完全無欠の善人として描かれすぎているように思います。この時代のAIは少なくともシスターズに至っては人間レベルですから、人間のように不義に逆上する場面があり、その過ちを反省する未熟さもあってしかるべきです。こうした人間的深みの一部がVivyから欠落しているがゆえに感情移入の一つを失ったことは、すでに前出で言及しています。
リゼロとローリングガールズだけ知ってますが、たしかに関わったものを見るとサスペンス系が多いように思えます。かみ合わせ的にどうだったんでしょうか。脚本本数が少ないのでこれからなんでしょう。
SFサスペンスとしてSFの屁理屈や言い訳を物語を紐解く推理として捉えられる層と、物語全体の展開を見る層、キャラ萌えする層、旧来のファン層に分かれちゃったからです。わたしは上から二番目です。
いいんですよ。怪獣が四次元から投射されてるとか特異点自体が計算機になる理屈があっても。でもそれメインだと映像では厳しい。そこがすべての人は超楽しかっという。でも楽しんだ観点も間違ってないと思ってます。楽しかった感情までどうこうできる権利もないので。