はてなキーワード: Icuとは
あのぉ、まぁそうっすね〜。まぁちょっと話すか話さないかちょっと迷ってて。まぁ直前までどうしようかなと思ったんですけども。まぁマエケンさんの話なんですけど。あのぉマエケンさんが倒れた日の夕方くらいに、あのぉ病院のICUに、ぼく行きまして。それであのぉマエケンさんのお兄さん、が、そのちょっと面会させてくれるように頼んでくれて。あのぉ、会ったんです。
ほうほうほう
うん。で、そんとき、まぁICUで、まぁね、いろんなこう、なんつうんだろうな管というか、まぁ付いてはいたんですけど。なんか、すぐに起きて、起きそうな、寝てるだけみたいな、すぐ起きそうな気がしてね。それでなんか、手なんかも握ったんですけど、全然暖かくて、顔色も悪くないし。
へー
そうそう。ていう感じで。なんだろうなー、春日さんはようくご存知だと思うけど、マエケンさんてなんつうんだろうな、なんつうんだろ、なんかこう、そういうさ、死の淵から蘇ってきて、なんかこう、ものすごい作品を作ったりとかしそうな、感じ? あるじゃないですか。で、まぁ、なんか、しくじり先生で松村さんの授業とか受けたり。したりしたのもあるのか、あー、なんか、絶対意識もどるだろうな、ってなんかこう、確信みたいな感じがあって。で、まぁICU出て。出たんすけど。でまぁ、ここ何日かはずっと、みんなもそうだとおもうですけど、ずっとマエケンさんのことを思い出してるんですけど。
あのぉ、いろいろ思い出すし。なんだったら、うちの事務所で俺が一番叱られてんじゃないかなと思って。
あー、それはあるかもしれんなー。
ショーパブのね、キサラが一緒だったから。キサラのあとは必ずご飯連れてってくれたりしてて。なんかね、いろいろ思い出してね。初めて会ったときのことを思い出して。ケイダッシュステージになんか、「今月から入ります若林ですよろしくお願いします」って楽屋で言ったんだよシアターDの。そしたらなんかね、他の先輩はね、「おぅ」とか「おぅ、よろしくねー」みたいな感じなんだけど。なんかマエケンさんだけはなんか、胸に手を当てて、「前田健です。よろしくお願いします」すっごい綺麗に頭下げたんだよね。
笑
それがなんか、
独特だな。
すごい後輩にこんなきれいに頭下げる人いるんだなぁ、なんて思って、それからなんか、挨拶は後輩でも敬語でしようかななんてちょっと思ったりしたりして。
なるほど。
で、なんかそのあとに。初対面よ。顔をジーっと見られて。「みんな死んじゃえって顔してるね」って言われたんだよね。
ほう。初対面で。
で、実際なんかその時、二十一歳くらいだけど、俺。実際みんな死んじゃえって思ってたから。
バレたねー
そん時はね。だからそういうことすぐ見抜くみたいな。心眼みたいなのがある人じゃない。
まぁそうだね。
そうそうそう。そういうこととか思い出して。で、なんかそれで何年か経っても、俺初めてお前と会ったときなんて言ったんだっけ。って話しして、みんな死んじゃえって、言われたんすよ、つって(笑)、二人で笑うなんてこともよくあったなとか。でね、なんかね。まぁ怒られたね。春日さんにも訊きたかったんだけどね。いろいろマエケンさんのこと思い出して。ネタ褒められたことあったかね?
ネタ褒められたこと?
テレビ出始めたあとも。
あとも?ネタを?
褒められたことって無いよね、たぶんね。
まぁ面白いとかはあんまないかもね、よかったねとはいわれたりしたよね
世にでることができて良かったねみたいなことはあるけど。あのネタ面白いねとかはないかもね。
ないんだよ。で、俺も思い出せなくて。褒められたことを。でねえ、そういえばよく叱られて、正直に言えば、認められたいっていう気持ちの裏返しなんだけど、見返してやるっていう気持ちのほうが、育んでくれたな、っていう人で。
うんうんうん
でー、あのね、褒められたことあったかなぁと思ってね。ずっと思い出してたんだらね、一個だけあって。
あーそう。
あー、これアリの?
うん。ちょっとなんつーの。ゆとり世代っていうの?サイコパスっていうか、あれはお前だよね、ってすごい言ってくれて。褒められたことないもんだから。あーマエケンさんそれすごい、褒めてくれたなーって
あー。
なんか、あの、どっちかっていうと、お芝居が好きだから。
うんうんうん
漫才がし、好きっていうのはあんまりなかったよね。話しててね。
コントが好きだよね。でね、すごい怒られて。なんかまぁ生意気言うんだよねきっと俺も。でね、いろんなとこ連れてってもらって。ご飯、食えないから、お金がないから。腹を凹ませて写メを撮るのよ。で、『限界です』って送ると、あのぉ、店の住所と名前だけ送り返してきて、ご飯おごってもらうっていうの、俺もう何食やったか。
あー、あるなぁ。
あるでしょ
飯はだいぶ食わしてもらったなー。
で、すっごいおしゃれなところ連れてってくれんのよ。青梅街道沿いの知る人ぞ知るステーキ屋とか。ビーフシチューが美味しい家族でやってるとことか。あとなんか、四谷だったかなぁ、なんか、熱帯魚が水槽泳いでるような。おっしゃれーな、長細いグラスで出てくるみたいな、ジンジャエールがみたいなとこに深夜連れてってくれて。「お前、こういうとこ知っといたほうがいいんだよ。こういうのが世の中にあるってことを」なんて言って。で、熱帯魚が泳いでて。なんか、なんだろう、和三盆の、を使ったプリンみたいの二人で食べてさ。ほかもうカップルだらけなのにさ、俺二十五くらいだったかな。マエケンさんが三十……六くらいだったのかなぁ? 三十三とかか。周りカップルだらけのとこでそんなの食べたり。なんか代官山の民族音楽がずーっと流れてるみたいな、カフェみたいなとこで、チャイ飲んだり。「チャイっていうもんがあるんだぞ」なんつって。とかね。そういうの思い出してね。でまぁ怒られたね。もっと謙虚になれと。人にもっと。それもでも関係ないっすよとか。よく言ってたりして。あん時よく言い返してた。あとなんか、まぁ愚痴? ライブのこういうとこが気に食わないとか。先輩の誰がとか。よーく聞いてもらって。でなんか言われんだよね。謙虚さが足りないみたいな。でなんか言い返すんだよ俺がきっと。生意気だから。
うん
で、なんか、下向いてね。自分ではロジカルなつもりでね、こうこうこうじゃないですか、みたいなこと言ってて、パッと目線上げるとねマエケンさんがね帽子を取ってね、あの、俺のことをジーっと見てんすよ。あの、で、俺が、「めちゃくちゃ禿げてるじゃないすか!」つって。「いや、違うんすよ俺真剣に話してんすよ」みたいな。なんかその俺の机上の空論? みたいな屁理屈をなんかね、禿一発で吹き飛ばすようなね。
ということがあってね。夜中行くと、なんか電気消してろうそくに火を灯しだすんすよ。マエケンさんが。部屋で。
ほう。
で、いっつもバスローブなんですよ。
で、屋上を、改造したから、見に行こうって見に行ったら、屋上マエケンさんが自分でDIY? して。なんかウッドデッキみたいになってて、なんか、リノベーションていうの? なんかわかんないけど。全部ちょっと朽ちた木で打ちっぱなしてあって。
工夫すんなよ、何だよそれ。はははは
真冬の1月なのに、二人でダウン着てさ。マフラー巻いてろうそくに火を灯してコーヒー飲んで俺もう寒くて。寒くて寒くて。話が北風で入ってこねえし。
わはははは
で、わざとでかい声でしゃべって、近所に迷惑になるから中入ろうって言ってもらうために、わざとでかい声でしゃべったりね。
うーん
で、原付き、あーそうね。あのだから、それで、原付き、電車賃でお金がなくなるつって、ライブに行けないんです、つったら、「おぉ原付きあげるよ」つって、いきなり原付きもらったりして。あれもう5年位乗ってたんじゃないかなぁ。
あったね。
それで、でね。原付きもらって。原付き乗ってたんだよ。でね、三日後くらいにね、マエケンさんがクイズ番組かなんかの懸賞でね、原付き当てたのよ。
あ、なんかあったね。
そう、そしたらなんかね、得意気にね、「人にね、プレゼントすると自分に返ってくるんだよ、こうやって」つってねってね、言うんですよ。それで、原付きが、商品が届いて。夜中二人で外で乗ってみようつって。で、エンジンかけて、で、走りだしたら、ブーン、ドガガガがガガーン!ってそれから一切エンジンかかんなくなって。二人でね一キロくらいね深夜開いてるガソリンスタンドまで押してったらね。ガソリンスタンドの人に見てもらったらね。届けられたでしょ。プレゼントで。エンジンオイルが入ってなくて。
ほう
エンジンかけちゃったから、エンジンが焼け焦げちゃって。それでオシャカになったんですよ。
新しい方が? ケン姉の方のやつが?
そうそう笑
しょうがねえな笑
で、俺の原付きジー、ずーっと見てんすよ。「いや、マエケンさん、もしあれだったら、あの、全然返しますけど」つったら「いや、いい」みたいな。
そりゃもう受け取れないわな
そうそうそう。そんなことあったりね。あと、ナプキンにね、ファミレスで、俺もちろん彼女なんかできないときにね。自分のね、好きなタイプとかバーっていって言ってみろってなんか言ったらね。それはね、ファミレスのナプキンにね。絵うまかったじゃん。すごい。すっごい絵上手で。マエケンさん。俺の理想の彼女を描いたんですよ。マエケンさん。したらね、ビッ、ドンピシャでタイプだったの。
ホー、すごいね。
だからね、俺ね、それずーっと財布に入れてね、それを彼女として過ごしてた時期あったんだよね。
気持ちわりいな。何だそりゃ。
ははははは
そんくらい、ドンピシャの彼女だったんだよね。それなんか、具現化してくれてさ。もしかしたら、実家行ったらとってあるかもしれない。
あーなるほどね。
よくね、何が一番怒られたかなっていうとね。俺ね。あの、マエケンさんが言ったことに対してね、「でも、」って話し始めるの。「お前『でも』って言うな」ってすごい怒られて。「人の意見はちゃんと入れてから、自分の意見を。『でも』ってすぐ突っぱねるな。」みたいな。ということをよく、ほんとに言われてて。「『でも』って言うな。」って人に。あのたまに俺このラジオ、たまにっていうか毎回このラジオ聞くんすけど、車の中で。ぜんぜん『でも』って言ってるよね。
(笑)あー、まだ治らず。
うん。ぜんぜん治んないんですよ。
まぁ簡単に治るもんでもないんだろうね。
そうそうそう。だから、なんか、治さなきゃなぁとか思ってて。それで、たまに三ヶ月に一回くらい『今幸せ?』っていうメールがよく来てたんすよ
ほう
うん。もうほんと毎回だから。なんか、うるせーな、とかって返しちゃってたんだけど。で、なんかあったね。『楽しいですけど、それだけじゃないすね。』みたいな。『お前の性格だったらそうだろうね』みたいなことを、言ったりして。このラジオでも散々メールでもトークでもイジってるけど、全然それは、なんか、なんつーんだろうな、許してくれたっていうか。笑ってくれてたけどね。
あー
「Twitterに来るよ。お前んとこのリスナーから」つって。
そうか、それがあんのか。
そういうのでそうか、ばれんだな。
「でも、そういういじるのも良いっすよね」って言ったら、「『でも』って言うな」みたいな、めちゃくちゃ怒られたり。
その「でも」もだめなんだね。厳しいな「でも」に。
そのくらい「でも」って言ってきましたから。まぁただ、映画、マエケンさん撮ったじゃない。それをね、ちょっとね、見直したんすけどね。あれほど、あーやって観ると前田健が詰まってる作品はないね。小説もそうだけど。
あー、そう。
うん。改めて、すごい、そう思ったね。なんね、よく言われてたよ。「なんで俺が芸名じゃないかわかる?」みたいな。前田健て本名じゃない。
なんかその、やっぱり、自分の名前を残したい、みたいなことを言ってて。一番印象に残ってるのがね、いつもね、深夜話してて最後の方にね、足の裏を撫でるんですよね。
ん? 誰が?
自分の足の裏を。マエケンさんが。でね、何でかっていうとね、足の裏を愛おしそうに見るんすよマエケンさんが。自分の。
うん。
なんかね。自分のね、身体の中でね、好きな部分がね、足の裏だけなんだって。
それどういうこと? (笑)どういうこと?
どういうことなんすか? って訊いたらね、「自分の身体の中でね、足の裏だけが、美しい」んだって。
だいぶ少ないね。
いつ、どの時間帯のレッスンで、どんな状況で溺れ、どうやって発見されたか、今後の対策、などを簡単に記したA4の紙が一枚、人知れずひっそり掲示されていた。
事故から10日後の日付のそれは、事故から2ヶ月経った今日、ようやく私の目に止まった。
近所でも同じスイミングスクールに通う子たちは多いが、どこの親御さんもこの事故を知らなかった。
そのくらい、ひっそりと掲示されていた。
個別にプリント配布されるでも、説明会があるでもなく、未だ事故を知らない保護者も多い状態で、スクールは通常営業している。
溺れた子は心肺停止し、ICUで数日過ごし、どうにか一命を取り留め、ようやく最近学校へも行きはじめた。
合コンなんてちゃらいもんうちの大学にはねーよみたいな感じで、
そもそもそんな母数も多くもないはずOB・OGたちがネット上で荒れ狂っているのを見て、
なんだか懐かしい気持ちになりました。
人数が少ないので目立ちませんが、
私自身も含めてですが。
めちゃめちゃ勉強した人が多いので、
元々絶対数が少なく、
こういう母校に関するネタでは、
どこからともなくわらわらと寄ってきて
いきなり謎の盛り上がり方をする、
それがICU生。
それを、外野にやいのやいの合コンなんじゃねーかだのなんだと言われて、
ざけんなと、あたかも自分が小馬鹿にされたような気になっていきり立つ、
そんな人が多いのではないでしょうか。
ともあれ、OB・OGのあいだではこうした学内固有の文化への愛着が、
とにかく強烈なのは間違いない。
インクリ、セクコン、セクメ、バカ山、ガッキ、カラダサイコウ、ランダムファイブ、ハイアガり…
ここらへんの用語を駆使するだけで、
しながない中小企業の管理職として、毎日満員電車に揺られながら灰色の毎日を送る
母校の話となると思わず血が騒いではてダに書き込んでしまうめんどくさい人々の集まりなのです。
なので、「意見交換会って合コンじゃね?ww」みたいな事を言っている皆様、
もう勘弁してください。m(_ _)m
http://anond.hatelabo.jp/20170518121859
単に「留学に関する意見交換会」=「出会いの機会を設けるための場」じゃなくね?って意味でしょ
お前…酷いぞ…最初は眞子様の事なんて1ミリも書いてない上に割とお前の話ばっかで…
挙句合コンした事無いだとか社会人で初なのも珍しくも何ともないぞ。ICUの校風がそうだとしてもICU以外でも所属クラスタ次第では普通の話だぞ。
意見交換会を合コンと言い換える冗談の気持ちと皇室への真面目な敬意は時にせよ場合にせよ分けてる人は多いからな。手前勝手に菊の御紋で他人様を殴る様な真似は控えなよ。
ごめんね、ICUが他と比べて客観的に特別っていうんじゃなくて、単に学生数の少なさとか学生の気質・雰囲気的に合コンで出会ったっていうのは考えにくいということを言いたかっただけなんだ。皇室では合コンを「意見交換会」って言いかえてる、と言う主張を面白おかしい表現にした書き込みをネットでみかけると、単に彼らに対する敬意を欠く考え方だなあという気持ちだけでなく、事実としても違うだろうなあという気持ちが沸いてしまってさあ。もし合コンだったらゴメン、だけど、合コンじゃないだろうと元ICU生としては強く思っただけなんだ。彼女と特に仲良しだったわけではないけど、高貴で品があって聡明で意志が強くて、でも優しくて素敵な人だなあという印象があって好きだったから、、、
ICU以外の大学生も自分の入りたい大学に何か特別なものを見出したからこそだと思うよ。もちろん全員とは言わないけどね。
しょせんICUの学生として過ごした人生のパターンしか知らないのだから、あまり特別だと思わないほうが良いんじゃない?実際全然珍しい内容書いてないんだから。
だが君自身自覚しているかもしれないが、君やICUが特別なものであるかどうかとは別問題だ。
加えて言うと私が知り合ったICUのOBの言動に比べて君の文章は読み応えに欠けICUの特有性を読み取ることは出来かねる。
君の述べるところの所謂通俗性に対して批判的であることが無条件により良い訳でも崇高な訳でもない。
勘違いして欲しくないのは既存の価値基準が良いものだと言っているのではなく、姿勢の説明だけでは全くもって口だけだと言うことだ。
まあ意識高い系? ちょっと前から増えてる国際なんたら学部系の元祖? みたいなイメージしかない
例えば女子大の学生にしたって、そう顔の広くない学生だと全く接点なんかなくて、
かろうじて見聞きする存在がインカレのテニサーイベサー運動部のマネージャーぐらいなものだから、
私も2013年卒のICU出身者だけど、周りで合コンしてる学生なんて一人もいなかった。ましてやICU生同士で合コンやる必要性なんて本当にゼロ。同じ学年だったらなおさら、飲み会とか授業とか何かしらの集まりで会おうと思えば会える。「留学に関する意見交換会」って報道されたときに私は本当にそういうのがあると思ったし実際あった。
増田が描いているジェンダーへの敏感さも、良く分かる。私が合コン初めてしたのは社会人になって会社の同期に誘われてからだっし。そしてそういう合コン一回もしたことない、っていうICUの友達は滅茶苦茶多い。
あと、ICUは他と違うから入った、っていうのも分かる。特に沢山勉強したいから。って言う人が多かったと思う。本当に学生生活はすごく地味。みんな沢山勉強していたし、だからこそ合コンなんてちゃらちゃらしたもの…みたいな風潮もあった。
別にだからICU最高なんて思ってないし、今にして思うとなんであんなに恋愛とかにかたくなな姿勢だったのかな、もっと若いうちに遊んだりしておけばよかったかなとか思うこともあるけどね。
ばずふぃーども書いてたけど、ICU卒業生・在学生が一斉に「意見交換会は本物の意見交換会で、合コンなんてなかった」と言っているのに、外野はやたら合コンにしたがってるのが面白い。
国際基督教大学、International Christian University、ICU。
私の母校だ。
2人の卒業生の婚約で日本(の一部)が盛り上がる中、ただただ一卒業生として発信したいことがあるので、筆を取った。
"過剰な一般化"かもしれないし、統計的なデータがあるわけじゃない。
だから、これは私の主観や経験によって構成された文章となっているはずだ。
ーーーーーーーー
結論から言うと、彼らが知り合ったきっかけとされる"意見交換会"が"合コン"だったということは非常に考えがたい。
(学校の規模が小さすぎて、自分の"友達の友達"でほとんど全員にアクセスできるため、学内合コンなどほぼ有り得ない。)
他の大学の方からすれば信じられないかもしれないが、ICU生の大多数は学内にしろインカレにしろ合コン未経験である。
ICU生はだいたい「他の大学と"違う"」という理由で、ICUを選んで入学している。
ICUは、上京を目指す若人が一般的に憧れるような"キラキラ"した大学ではない。
すごい地味な大学だ。
周りに学生街と呼ばれるようなものはないし、キャンパス内にスタバはもちろんない (武蔵境駅前にはあるけど)。
では、みんな何を求めて、ICUに入るのか。
ある人にとってはそれが、英語教育だったり、リベラルアーツ教育だったり、特定のメジャー(専門分野)だったり、学校の雰囲気だったりする。
何を求めて入学したにしても、ICU生は何故か批判的思考を知らぬうちに身につけていく。
そんなICU生の大多数が共通して敏感に反応するのは、"性"が関わるトピックについてだと思う。
それが、ICU卒業生や在校生が、意見交換会=合コンに対して、異論を表明している理由でもあるのではないだろうか。
合コンというのは、良くも悪くも"社会的に押し付けられた性へのイメージ"の結晶と言える。
(男性が〜〜すべきとか、女性は〜〜するとか、そういう類のこと)
ICU生の大多数はぶっちゃけ、この"性へのイメージ"に超批判的である。
くだらないと思ってるし、押し付けられたくないと思ってる。
だから、合コンにも無関心/批判的だし、実際行っても"需要"はないと思う。
だって、相手側から求められる"性へのイメージ"を体現し(て)ないから。
こんな感じで、ICU生は合コン未経験を貫くのではないだろうか。
勉強で忙しいとか色々な主張があると思うけど、私はそう思っている。
てか、書いてて眠くなってきたので寝る。
起きてまた気が進めば編集しよっと。
仕事の都合ですぐには帰省できず、やっとおととい帰省した。その日のうちにお見舞へに行き、その後地元中学の友人ら(少人数)と忘年会があった。
参加者は6人。ちょうど1/2が地元、1/2が都会への就職者だ。
その場で、父が入院したという話をした。
すると、地元組の友人3人が「年末だしね~危ないかもね」とか「うちの会社の人のお父さんもこの前最終営業日に亡くなったわ(笑)」とつなげてきた。
あまりの不謹慎さに言葉を失って、「不謹慎だぞー」とおどけて言うことくらいしかできなかった。
先日話題になっていたらしい
娘が気持ち悪い(http://anond.hatelabo.jp/20161102211759)
と、さっきたまたま見つけた
父を気持ち悪いと思った過去。(http://anond.hatelabo.jp/20161107130534)
を読んで。まだ頭のなかで何も話はまとまっていないけど何となく僕の家のことを書いてみます。
僕の家族は4人構成です。現在23歳で大学4年生の僕(1年間休学)、2歳上で社会人の姉、母親、そして父親。幼い頃は普通に仲の良い家族だったことを記憶しています。僕らがまだ幼い頃には、父親は僕と姉を毎週のようにどこか遊び場に連れ出してくれて、時には家族全員でハワイやスキー旅行に行くような幸せな家庭でした。まだ僕と姉が同じ部屋の二段ベッドで寝ているときには、僕と姉がもうベッドで寝ようとしているのに、リビングで父親と母親がお酒を飲んで談笑しているのがうるさくて、「2人の笑い声がうるさくて寝れない」と叱りにいくこともありました。家族で何処か旅行に行った際に、父親と手を繋いだ姉が「私は大きくなったらパパと結婚する!」と言っている場面はなぜか今でも鮮明に覚えています。僕はそんな我が家が大好きでした。
僕が小学生の間ぐらいまではそんな感じの幸せな我が家でしたが、僕が中学生になったぐらいから姉が父親を遠ざけ始めましたような気がします。きっと数多くの思春期の娘と同じ様に父親に対する「気持ち悪い」の感情を抱き始めたのでしょう。確かに父親は面倒な男です。あまり僕ら子供のことに干渉するタイプの父親ではありませんでしたが、何回もこっちが注意してることをわざと直さないようなタイプの男です。それ頃から姉の極端な父親避けはずっと続きました。姉は帰宅して父親がいることが分かるなり、わざと足跡を大きくして不機嫌アピールをはじめたり、家の中ですれ違う際にはまるで化物とすれ違うかのように極端に避けて通り、家族4人でテーブルを囲んでご飯を食べる際にはわざとらしく父親から離れてテーブルの端っこに寄ってご飯を食べたりしていました。僕も父親や母親に不満を感じたことは多々ありますが、この姉の極端な「父親避け」はどこか僕にとっても不愉快でした。そして父親もそれに対してはなんにも言いません。不器用で鈍感な男なので、最初は気づいてないのかとも思いましたが、きっとそうではありません。父親は弱気なタイプの男ではないので「なんで平気なんだよ。一発ぶっ叩けよ。」と思ったこともありますが父親は何もアクションを起こしませんでした。きっとそれが不器用な父なりの愛だったのだと思います。そしてその「父親避け」は段々と母親にまで伝染していったように感じます。姉と娘が結託して父親を嫌って遠ざけ、父親は自分の家庭にも関わらず何も言わない。僕はこのあたりからこの家族全体のことを少しずつ「気持ち悪く」感じるようになっていました。そして僕が高校3年生になった頃だったでしょうか、父親が単身赴任で地方に行くことが決まりました。当然姉は喜んでいました。僕は特に何も思いませんでした。
そうして僕ら家族は2年間ぐらい、父親が関東で仕事の用事があって家に帰ってくる時ぐらいしか父親に会わない生活を続けていました。そんなある時、外で友達とダラダラ遊んでいる時に僕の携帯が鳴りました。母親からのメールでした。文面は「今日は父ちゃんが帰ってきています。大事な話があるので早く帰ってこれますか?」というような内容でした。僕はそれを見た時、あぁついに離婚するんだ、と思いました。僕は特にそれについて何も思いませんでした。そして帰るとリビングに僕以外の家族がもういました。僕が「なに?」と聞くと父親が「父ちゃん、癌になっちゃったんだ。末期の。」と言いました。母親と姉は先にそれを聞いていたようです。僕は特に取り乱しもしませんでしたが、どうしたらいいか分かりませんでした。その日は僕は家にいる気になれず、地元の親友に電話をして2人で居酒屋に行きました。
それから父親は家に戻ってきました。癌患者になった父親には母親も姉も前より優しく当たるようになりました。でも僕にはそれが余計に薄っぺらいものに感じました。父親は末期がんでステージ4b。末期の末期でした。医者の話では手術をして成功したとしても5年生存率は5%以下。父親の手術は成功しました。術後、ICUのベッドで管まみれになって横になっている意識を朦朧とした父を見たときには涙が流れました。姉は覚えていませんが、母親も泣いていたように思います。それから父親は退院し、仕事が続けられなくなったのでずっと家で安静にする日々を過ごしています。手術から3年経った今でも父親は生きています。癌だとわかった直後の父親に対する姉と母親の優しさはとうに消え、姉は父親のことを“あいつ”と呼んでいます。いまだに姉は帰宅して父親がいることが分かるなり、わざと足跡を大きくして不機嫌アピールをはじめ、家の中ですれ違う際にはまるで化物とすれ違うかのように極端に避けて通り、同じテーブルでご飯を食べる際にはわざとらしく父親から離れてテーブルの端っこに寄ってご飯を食べています。
母親は父親が癌だと分かった時、親戚の家で「どうしてこれまでパパに優しくしてあげれなかったんだろう」と泣いたそうです。また今も姉と一緒に父親を邪魔者扱いしているように見える僕からすれば、その涙はなんだったんだろうと思います。
「娘が気持ち悪い」http://anond.hatelabo.jp/20161102211759
を読んで、昔の自分を見ているようでとても懐かしい気持ちになった。ちなみに私は娘さんの立場です。
私の父は私にとても愛情深く接してくれました。小学校の時、クラスメイトの男の子とケンカをしてケガをした時、家に帰って来て母親から話を聞くなり、「うぉぉおお!!俺の娘に、何てことしてくれるんだぁぁああ!!」と突如絶叫して家を飛び出し、暫くして「相手の子の家に怒鳴り込もうと思ったけど、よく考えたら家の場所を知らない」としょぼくれて帰って来るような、私のこととなると見境のなくなってしまう、ちょっとお馬鹿な人でした。私はそんな父が大好きでした。
小学校~中学校くらいはそんな父ととても仲良くしていたのですが、私が高校に上がったころ、ある時を境に何故だか父に対し、「気持ち悪い」という感情を抱くようになりました。父は同世代の男性と比較すると、適度にオシャレにも気を使うし、ハゲでもないし、デブでもないし、清潔感のある男性だったのですが、何故だか父親の匂いが嫌だ、と感じるようになりました。次いで休日にちょっと伸びる無精髭が気持ち悪い、洗面所に置いてある髭剃り、歯ブラシが気持ち悪いと次々に父の所有物、如いては父自体に嫌悪感を感じるようになりました。
ある日、部活が終わって家に帰ると父が先に帰宅していて、玄関に靴が置いてありました。私は瞬時に「あぁ、この靴と私の靴を近くに置きたくない」と感じ、父の靴を玄関の外に出しました。何の気もなしに、パパッとやってしまったんです。翌朝、父が出勤する際、「あれ?靴がないよ」と言い、母を呼びました。「ないよー?なんで?なんで?」と靴を探す父と母を、私は見て見ぬフリをし、リビングでテレビを見ながら朝食を食べていました。暫くして、父を見送った母が戻ってきて、「あなた、お父さんの靴外に出した?」と私に聞きました。私は「臭かったから。外に出しておいた方がいいと思って。忘れてた」と答えました。母は「そうだったの」と、答えただけでしたが、母はあの時点で私の変化に気が付いていたのだと思います。
その数日後、私は母に「洗濯するときは父の物と分けて欲しい」とお願いしました。母は私に、前述の増田についたブコメのようなことを一つ一つ教えてくれました。人間も動物であり、父に嫌悪感を感じることは正常な働きであること、自分も昔同じ経験をしたから、私の気持ちも十分にわかるということ。最後に「でもお父さんはあなたが大好きだから。それを言うと絶対に傷つくから。なにかこうしたい、ということがあれば、母さんに言ってね」と言ってくれました。その後少しすると父専用の洗濯籠が登場しました。私と母の服はほぼ毎日、もしくは二日に一回洗濯機を回してましたが、父は洗濯籠に1週間分の洗濯物を溜め、週末に自分で洗って干していました。父は特に私に何も言わず、淡々としていました。その時の私はそれを見て(いや、実際臭いし、気持ち悪いし、当然でしょ)という思いしかなかったのですが、その後、父の思いを、辛さを痛感させられることになります。
ある夜、父がシュークリームを買ってきました。私の大好物です。「よかったら食べて」と言いながら、シュークリームを冷蔵庫に入れる父を私は無視しました。シュークリームは何日も冷蔵庫に入っていました。賞味期限がどんどん近づきますが、私は父の買ったものが食べたくないので放置していました。ある日の夜、キッチンに飲み物を取りに行くと、父がリビングでシュークリームを食べてました。チラッと一瞥をした私に、「ゴメン。賞味期限切れてたから」と父は言いました。私は少し胸が痛くなりました。けれど、そこでも父を無視してしまいました。
父はどちらかと言うとインドア派で、休日は家で読書をしたり、レザークラフトをちょこちょこ作ったりする人でした。けれど私は父と同じ空間にいたくなくて、休日に父が家にいれば私は外出、父がいなければ私が家にいる、というような状態になりました。しかしあるタイミングから、休日に父が家にいることがなくなりました。
そんな生活が続き、高校3年に上がる頃、父が事故に巻き込まれました。
土曜日のお昼に家の近くの交差点で、わき見運転をした車に突っ込まれ、頭を打って病院に運ばれました。家に電話が来て、母と大慌てで病院に向かいました。父はICUで呼吸器を付けて寝ていました。お医者さんが頭を強く打っていて、危険な状態であり、意識が戻っても障害が残るかもと言いました。号泣する母を見て、私は「こんなドラマみたいな展開が自分の家族に起こるなんて」と急な展開に放心しながらも、どうして父にあんなに冷たく当たってしまったんだろう」と激しい後悔に見舞われました。父は何とか一命をとりとめ、搬送から三日後に意識を取り戻しました。けれど障害として、右手の親指から人差し指にかけて痺れが残ってしまいました。一方でこの程度の障害で済んで本当に良かったと、車がガードレールにぶつかってから父に突っ込んだため威力が落ちていたが、場合によっては即死でしたとお医者さんが後から教えてくれました。
父が入院している最中、私は母に「お父さんはどうして事故に巻き込まれたの?」と聞きました。母は「自分で聞きなさい」と、それしか言ってくれませんでした。ある日、私だけで父を見舞いに行ったとき、父に前述のことを聞きました。父は「俺が家にいるとお前が休日家で休めないだろう。だから、外でブラブラしてたんだ」と言い、「俺インドア派だから外での過ごし方がイマイチわからなくて、でも最近は水切りにハマってさ、昔よくやったんだけど、河原でこう…石を探すんだよ。できるだけ平べったいヤツを。それをな…」と説明しながら動かす右手が痙攣していて、それを見た私は堰を切ったように号泣してしまいました。相変わらず馬鹿な父にではなく、自分が事故の原因だったと知って、それでも私を責めない父に申し訳がなさ過ぎて、私は子供のように、過呼吸寸前になりながら病室で泣きました。「ごめんなさい!ごめんなさい!」と繰り返す私に、父は「母さんから全部聞いていた。暖かく見守ってやってくれと言われた。父さんはお前が大好きだから、お前が頑張ってるなら、父さんも我慢しようと思って」と言いました。その瞬間、私は今まで何を父にしてきたんだろう、父がどんな思いで過ごしていたんだろうと自分が恥ずかしく、情けなくなりました。これが、私の父に対する嫌悪感の終わりです。
あれから10年程経ち、今では周りが不思議がる程、父親とは仲が良いです。父は私に「お前が責任を感じることは一切ない、むしろ、不安にしてしまって申し訳なかった」と言っていますが、やはり当時のことには負い目を感じています。「娘が気持ち悪い」の増田さんも、別エントリで娘さんの行動に理解を示すことができた、と発言されていました。世の全ての娘が父親に対し、嫌悪感を抱くとは限りませんが、ブコメにもあった通り、やはり動物である限りは本能の上でしょうがないことだと思います。一方で、やはり人生の先輩である両親が、こういったことに理解を示し、適切な対応を行うことで乗り越えることができる、しかも乗り越えることで更に親子の愛情が深まる大切な時期(イベント)だとも思います。当該エントリを読んで、自身の過去を思い出し、勝手に書いてみた次第です。自身の過去を正当化するつもりは更々ないですし、我が家の対応が正しいかったともいえないですが、これが少しでも世のお父さん、娘さんのご参考になればと思います。
一晩明けてみたら、とても多くのブコメが付いていて、初めてのことに驚いています。厳しいご意見ありがとうございます。
私が父にしたことを本能だから(議論はあるようですが)と正当化するような書き方をしてしまい、反省しています。私が父にしたことは最低なことで、それはゆるぎない事実です。私が書きたかったのは、そんな馬鹿娘を両親が両親なりにサポートしてくれた、そのことへの感謝でした。今こうして上のようなエントリを書けるのは、両親が「あの時はね」と私に話してくれたおかげでもあります。
冗長になってしまうかと思い割愛したのですが、例えば父が自分で洗濯をしたことに関しては、両親の話合いの結果だったと聞きました。母は洗濯物を分けるのなら、私の分だけを分けて、自分で洗濯をさせると発言したそうですが、父が「自分の理不尽な発言のせいで、父親が自分の洗濯を行う姿を見て、何か感じてくれれば」と諭し、結果的にそうなったようです。
私自身、あんなに好きだった父を、何をされた訳でもないのに嫌悪感を抱くようになった時は戸惑いだらけでした。母は父を大好きでしたので、母に影響を受けた訳ではないですし、周囲の友人の中でも、父親と仲の良い子はたくさんいました。けれど、何故か父を気持ち悪いと感じてしまった。ちょうどあの頃「異性」というものを意識し始めて、一番身近にいた異性が父親で、どう接してよいかわからなくなっていたのかも知れません。今となって後付けで理由を付けることはいくらでもできますが。
父は「親の立場を利用して、なりふり構わず娘にいう事を聞かす真似はしたくない。一つ一つ自分で気が付いてくれれば良いと思った」と母に言っていたそうです。私はこんなにも勝手なことをしていたのに、両親が一生懸命に考えて私を導いてくれた、そのことに感謝してもしきれません。
「父が事故に遭わなければ最後まで気が付かなかったのでは?」というご意見も尤もです。両親は「いや、いずれは気が付いてくれてたよ。少しづつ変わってたよ」と言っていましたが、我が家のケースは結果論でしかありません。
今私は結婚して、男の子が一人います。夫にこの話をしたとき、「もしかしたらこの子もすごい反抗期を迎えるかも知れないけれど、一緒に考えて解決していこう」と言ってくれています。こんな風に思え、考えられるのも両親の教えがあったからだと心から思います。
ご意見をいただきっぱなしなのも悪いなと思い、少しだけ追記させていただきました。たくさんのご意見、ありがとうございました。
直立する赤井の下で斉木が左膝をついてしゃがみ、
「どうも〜赤色青いなあいうえお『信号機』です!」といってから漫才を始めるのがお決まり。
コンビ名は病的に顔色の悪い斉木と赤面症の赤井が並んだ姿を信号機になぞらえて命名されたらしい。
長らく先輩芸人であるチャンチャカチャンス高橋が名付け親だとされていたが高橋はこれを否定。
なお2人とも酒に弱く、飲むと斉木はより青白く、赤井はより赤くなっていくらしい。
語彙に乏しい。「腰巾着」と言いたいところを「ぶら下がり野郎」と言ったり、
「五臓六腑」と言おうとして「十二指腸」と言い、周囲に呆れられることもしばしば。
読書家として知られる又吉とのギャップをネタにすることもある。
そんな彼だが実はICU卒でアタック25に出場したこともある。
テレビ番組の企画などで度々対面しており、互いの連絡先を教えあう程に親交がある。
はじめに、このブログは、産まれたお子さんが心臓病と診断された親御さんに向けて書いている。同じような経験を知りたくて、少しでも安心材料がほしくて検索を繰り返したが、あまり見つからなかった。なので、自分の経験が少しでも、誰かの参考や支えになるといいと思う。
「大動脈狭窄」といって、文字通り大動脈が狭い。そのため血液を送るたびに血管と心臓に圧がかかり、酷いと手術が必要になる。
産まれたあとにわかったもので、最初は産まれた病院で様子を見ていたのだが、詳しく調べたほうがいいと循環器専門の病院を紹介されることになった。大きい病院で、日本でも有名な医師がいる病院だった。
七ヶ月になったある日、そこで受けたカテーテル検査で、検査の最中に心停止を起こした。
結果から言うと、今のところ術後の経過は良好で、子供は元気に育っている。もうすぐ二歳になる。
発達は少し遅いが、好奇心旺盛で、乗り物が大好き。よく笑い、よく食べ、自分なりに一生懸命しゃべっている。最近はイヤイヤ期なのか、自己主張も激しくなってきた。
話を戻そう。心停止を起こした数日後に血管の緊急手術、肺の状態が落ち着かずさらに数日間、胸を開いた状態で集中治療室(ICU)に入っていた。狭くなった血管と、弁の形成が手術内容だった。その間、人工心肺と輸血で命をつないだ。執刀してくださった医師、輸血をしてくださった全国の皆さんには、感謝してもしきれない。この場で心から御礼申し上げる。
集中治療室を出てからは、小児集中治療室(PICU)にうつった。人工呼吸と麻酔で眠る日が続いたが、徐々に麻酔を減らし、意識が戻った。うっすらと目を開けて、か細い声をあげる子を見て、涙が出た。生きている。生きるために、がんばって生きている。
幸い、術前に説明されていた感染症などはまったくなかった。人工呼吸から酸素管理にきりかえ、すぐにPICUを出たあと、一般病棟にうつる。そこからは一週間の入院で、早かった。
検査だけのはずだった入院から、ひと月ほどたっていた。退院後は在宅の呼吸管理も必要なく、入浴や生活の制限もなかった。
ただ、寝ていた日が長かったせいか、完全にすわっていた首は新生児のようにぐにゃぐにゃになっていた。それもひと月ほどで元に戻ったが、毎日注意して過ごした。
大きな手術を乗り越えて、麻酔で眠っていた時間も長かったので、発達や今後の病状に不安があるのは今でも変わらない。それでも、生きているだけで奇跡のようなものだと思っている。
長くなったが、親御さんには、たとえカテーテル検査であっても病院と医師選びをしっかりなさってほしい。うちの子は検査中に心停止を起こしたから助かったのだ。紹介してもらった病院も大きい病院で、運がよかったのだ。
一人でも多くの子が、病に負けずに元気になるように。一人でも多くの親御さんが、お子さんと穏やかな日を過ごせるように。それを願って毎日、子供と過ごしている。
高校生と会話してる中でふと「インターナショナルにさぁ」と言ったら「インターナショナルって何ですか?」と言われた。びっくりして聞き返すと「グローバル」は知ってるけど、その前身が「インターナショナル」ってのは知らなかったとのこと。「インターナショナル」って言葉自体は聞いたことはあるけど、「グルーバル」とは別物だと思ってたらしい。いやいや、と思ったけど、確かに身の回りを改めて見てみると「インターナショナル」って表記自体がほとんど無いことに気づいた。国際基督教大学も「ICU」だし、今や国際化は「グローバル化」や「ボーダーレス化」だ。社会主義が盛んな頃は「International」という歌の知名度もあったんだろうけど、それもオワコンになってしまった。日常会話でも「インターナショナル」って口に出すことはあまり無い気がする。気づいたら「インターナショナル」が死語になっていたという話。そりゃ俺も白い胸毛が生えてくるわけだわ。
http://world-fusigi.net/archives/7289570.html
高いIQって、130以上なのか。
でもそれって単なる勘違いだと思う。
偏差値65っていうと、大学受験で言えば、だいたいMARCHと早慶上智ICUの中間くらいの偏差値です。
しかも、大学受験の母集団は、同世代のだいたい上から2/3くらいでしょ。ということは、知能偏差値65は、せいぜいMARCHレベルですよ。
これで頭いいとか思う? 少なくとも天才とかではないよね。
なお私は、小学校の5年生のころに、IQ130を出して担任の教師から親が呼び出されました。
「勉強の成績と比べてIQが低すぎです。何か無理して受験勉強とかさせてませんか?」と。
うるせーばーか。IQテストは内容が退屈過ぎて別解を探索しすぎて、推定回答可能数の7割くらいしか回答できなかったんだっつーの。
補足すると、そういうところにいる「無能な高学歴」は大体早慶が多い。旧帝まで行くと、さすがに勉強が出来ないと入れないので無能率も低くなるが、早慶だとアホでも入れる方法がいろいろあったり、学部によっては偏差値もそこまででも無かったりするので、出身大学を聞いて「その大学出てそれなの?」というのが出やすい。慶応SFCや早稲田にAO入試で入った奴は高確率でゴミだ。更にそこから東大院などで学歴ロンダすれば完璧である(例:古市憲寿)。履歴書やプロフィールには出身学部まで書いてあっても、入試方法までは書いていないのでわかりづらい。
こういう連中は、大して頭も良くないくせにやたらとプライドが高かったり、意識高い系(笑)だったり、平気で嘘をついたりずるをしたりする人格破綻者も多いので要注意だ。そういうわけでますます「高学歴な無能」が悪目立ちしてしまうのである。
なんか俺の書き方が不味かったせいで勘違いしている人いるから補足するけど、早慶全体というよりも早慶の特定学部(早稲田なら所沢、慶応なら藤沢)に一般受験以外で入った人(AOとか帰国子女枠)に入ったような人にアホが多いわけですよ。不思議な事にICUとか東京理科とかの人はこういう人はあまり見かけない。東京理科は勉強しないと卒業できないからだろうし、ICUはその性格上ブランドで集まるようなアホはこないからなのかもしれない。