はてなキーワード: 欲求不満とは
独白がソーシャルメディアでしにくくなってきたので、この辺りにつらつらと書き綴ることにする。
twitterやブログで自分の家族の気持ちを知ったり、今晩帰ってこないけどどこにいるかを知るなんていうのはおかしな世の中になったと思う。
というか、自分の家の家族関係が微妙におかしなことになっているのだと気付かされる。
直接話しても解決していないことは案外多い。
昔は妻の年収が自分よりも150万くらい多い、とかそういうのも微妙にひっかかって将来が見えない自分に苛立ってた時期もあったけど、幸運にも今は年収が倍に増えたことでそういうことはいつの間にか解決されていたし、そんなこと気にしてたのがウソのようになっている。
経済的に、社会的に地位は安定してきたけれど、圧倒的に欲求不満が満たされていないままだった自分の状況は未だ放置されたままだ。
セックスレスはもう長年の域に入ってきた。1〜2年前は気持ちのギャップが大きすぎてもう張り裂けそうな気持ちだったと思うが、皮肉なもので人は年を取ると急に性欲も無くなってしまうのだと最近実感している。
いわゆる男性更年期の一種なのだろうが、これでまた人に説明しようのない悩みがひとつできてしまった。
妻は家庭を大事にさえしてくれたら浮気はしてもいいのよと言うが、浮気する前に言われてもそれは必ず裏切られる約束に違いないと感じている。浮気するほどモテないのでそんなことはきっと起こらないという余裕で言えるだけなのだろう。
40代に入り妻は趣味で家を空けて外を忙しそうに飛び回るようになったが、親の介護の問題もあり、あらためて夫との関係をメンテナンスする必要など感じる余裕もないのだろう。
何年か前に見た「最近恋してないなぁ」という妻のmixiの日記を思い出す。
40を過ぎて最近悟ったことは人間も所詮生き物であり、恋とか何とかいうのも最終的には子孫を残すために必要な感情の変化であり、性欲が落ちてきたというのは生殖の面では生き物としての役割を終えようという反応にほかならない。
最近恋してないなぁ、はそろそろ他のオスとも関係を持って子供を作ってもいいかなぁという意味になる。
そのころから夫の優先順位は相当堕ちていたことは間違いない。経済環境の変化もあり、自信がついたことで家族の関係は行く分か持ち直したように思うが、オスとしての立場は地に堕ちたまま拾われる気配は今後もない。
その方面の展開をとりあえず、忘れるか諦めるとして50歳になったら、自由人になろうと心に宣言している。
いまのところ、そんなに自由人になりたいわけでもないが、50になった時に体も心も健康を保っていて、経済的自立を果たして、何者にも縛られない自由な生き方ができる身分になっていたいと思うことにしている。
カネのことは気にせず、時間のことも気にせず、ただ自由に生きる。家族にも縛られず、寂しさは友達をつくって紛らわせながら、自由に生きる。パートナーはそのときにつくればいい。
その頃にはいまの気分は忘れ去られているだろう。
早く自由になりたいが、10年後にそれが得られると信じて今を生きることにする。10年後、人生の後半は自由に自分のことだけに集中して生きる。
新婚だけどセックスレスだ。
もっというと結婚して1年半、そのまえの同棲期間4年、まる5年セックスレスだ。
そのまえの2年くらいは、いちゃいちゃしていた時期もあったように記憶している。
ずいぶん前から、まったく、相手してくれなくなった。
キスやハグは、こっちからすると相手してくれる。冬は寒いからわりとくっついてる。
でも夏はだめだ。特に今年みたいに暑い夏はぜんぜんだめだ。絶対くっついてくれない。キスも、ほとんどしない。
つきあって同棲してる間は、気にならないっていったら嘘だけど、べつに仲良くすごせればいいや、と思ってた。
女友達もまだ独身だから、遊びづらくなって、これまで友達と夜遊びしてた時間、家にいるようになって。
ひとりの時間が増えて。あれ、もしや寂しいのか?この状況は、みたいな。
ふと、なんかこれ夫婦っていうより、単なる同居だな、
男女っていうより男友達みたいだな、そして片思いっぽいな、って思いついて、BL読んだら、はまった。
失敗した。
いまではエロ本みたいなのにも手を出してる。止まらない。でも、虚しい。
こんなもの読んでるの他人に言えないし、夫にばれたら軽蔑されるだろうってわかってるのに、やめられない。
うちには本棚がないから、こっそり(絶対夫が立ち入らない)台所に隠してるけど、いつかばれそうでこわい。常に、処分して入れ替えてるけど、100冊ちかくあるし。
でも欲求不満すぎて、こうやって発散してないと、浮気とかしちゃいそうでこわい。
もともと、夫とつきあう前の相手はだいたいセックスが大好きで、
そういうのが自分もきらいじゃなくて、溺れる自分がいやになって別れるパターンだった。
いまの夫は、じぶんを女としてじゃなく、人間として大切に、接してくれる。
でもあまりに拒絶されるから、「じゃあ他の人としても平気なの?」ときいてみたら、
それは一応、いやだって言われた。(そんなに本気で嫌そうでもなかった気もする。でもそんなことできないだろうと思われてるフシもある。)
このまま、BLで発散するしかないのか。(でも、けっこう、有名どころは読み尽くしちゃったし。)
ちなみに、BLじゃない普通のエロとか少女まんがとかドラマとかは、萌えるどころか、
女の人が男の人に求められてるってだけで、
自分はこの中の誰よりも不幸じゃねーか、って、どん底まで落ち込むから、無理だった。
おなじ理由で、恋愛小説とかも、独身のころは読んでたけど、ぜんぜん読めなくなった。
改めてみると、世の中のきれいな物語のほとんどが男女のセックスで成り立ってる。
そういうのぜんぶブチ壊してやりたい。
…とまでは思わないけど、なんだか遠い世界の話みたいに思える。
BLだって別に、いまは同性でも結婚できる国もいっぱいあるし、特別じゃないのかもしれないけど。
いっそ30すぎて40すぎて50すぎて60すぎて、性欲とかぜんぶなくなっちゃえば楽なのに。
もしこういう気持ちを抱えてるのが自分だけじゃないなら、みんながどうやって乗り越えてるのか、知りたいので書いてみた。
うまくまとまってなくて、ごめんなさい。
■■
<追記>
女として終わってるよ、て罵倒のお答え覚悟してぶちまけたら、そうでもなかった。はてなの人、優しい。
簡単に解決できるとは思ってないけど、いろんな人が声かけてくれるだけでも、見放されてない気がしてくる。ネット、すごい。
そんで共感はてブしてくれたひとのつぶやきちょっと遡って見てみたりして(キモくてすみません)、
やっぱり自分がさみしくて誰かにかまわれたかったんだって改めて思い知らされた。
男性らしきご意見は「話し合いを」とか「別の相手を」とか「地獄だな」とかもちらほらな中
女性らしきトラバなどによると「みんな言わないだけでよくある事例」?らしいとわかった。ので、
このへんの男女の認識の差異が気になりつつ、あんまり自分を貶めずBLを楽しみたいとおもう。
■夫について
観念の世界で生きてるタイプか、というコメントがあって、たぶん当たってる。
あとすごく真面目で、決して要領よくないから、いつも仕事で忙しそうで、朝方帰ってきて、超つかれてる。
でも夫の仕事を尊敬してるので、家ではゆっくり休んでほしい、も本音。
この不景気に家族養うぶん稼げる仕事を真面目にこなして人柄よくてさらに家では絶倫とか、
それこそBLやエロの世界にしか存在しないファンタジーだってわかってる。
(俺は仕事もセックスも完璧だぜ!って人が読んでらしたらごめんなさい。来世ではそういう人と一緒になれるよう努力したい。)
(いそがしい男の人も家に帰ったら奥さんにちゅーとハグはしてあげてほしい。それだけでも、ほっとするから。)
あとクーラー苦手だけどそれくらい我慢してがんがん部屋冷やして甘えるというのに挑戦したいとおもいます!
おかず+1品とおかえりハグも。最近は帰りが遅すぎて先に寝てた。アドバイス多謝です。はっとしました。
■指輪を外して働きに出れば、ギラギラ分を補給できる?欲しいのは「求められる」感で、セックスでない?
これも納得した。子供がいないなら。ってかどうせできないなら。働くのは好きだし。フルタイムは夫の仕事的に今は難しいけど、
昼間のコンビニとかスーパーとか弁当屋とか、なんか接客して笑顔で体動かしたい。あ、指輪は外さないです。
■台所に保管について
うちは現在専業なので台所は俺の聖地。電子書籍というアドバイスをいただいたので、検討したい。が、PCの調子が悪いと夫にみてもらったりするので、こっちのほうが不安かも?電子のひとはスマホでみているのだろうか?それともタブレットとか?
長くなりました。いろいろな意見をいただいて嬉しかったです。ありがとうございました。
つくづく思ったのは、BLかつエロだからうしろめたいんだということ。
これがインテリアとか、おしゃれとか、映画とか、手芸とか、アートとか、琥珀に夢中、とかだったら、堂々としていられるのに。ほんとエロって難儀だ。
児童が犯されているポルノでしか興奮できない人間がおり、児童ポルノの規制に反対している。
彼らは成人女性では射精できず、児童ポルノを奪われると永久に続く欲求不満状態になってしまう。
そうなると、彼らは身近な児童に手を出すだろう。射精は必ずしたいし、するには児童が必要なわけだから。
彼らは逮捕されずに射精する自由を保障しろと主張しているわけだ。
たとえば猫を力いっぱい床に叩きつけ、猫がゲロを吐いたりするさまを見ると興奮し、いつの間にか射精してしまうような人間だ。
彼らの好みは、圧倒的に小さくて弱くて可愛い生き物をいびり殺すことなので、通常の性行為では満足することが難しい。
「いじめ」をすることでも快感は得られる。人を支配し、みじめな状況に追いやることが快感になる。
人をいじめることで心が充たされる人間は、いじめを禁じられると欲求不満に苦しむことになるだろう。
いっそのこと、こういう動画コンテンツも出してみたらどうだろうか。
犬猫やハムスター等をいじめぬいて殺す動画。これが出回ることで、実際に殺されるペットの数は減るかもしれない。
レス気味で辛い。
一緒に暮らすようになって三年。
暮らし始めた頃は、家に帰ってくるなり襲われるなんてこともあったけど、いまやそんな気配はない。
行ってきます、ただいま、おやすみのチューもするし、決っして不仲ではない。
月に一回、あれば良いほう。
もう女としての価値が無いのか、魅力がないのかと打ちひしがれる思い。
一方で、まだ二十代なのに、とも思う。
身なりに気を遣え、
ムードを作れ、
押し付けるな、
否定するな
世のレス対策をみるにつけ、自分がいけないのだ、努力が足りないのだと言われているようで辛い。
愛されていないわけではない、浮気もない、それはわかっている。
眠る前に、ふざけあって胸をもまれたりすることはある。
私だけが悩んでいるようで、それもまたみじめだし辛い。
誰でもいいわけじゃない。
はぁ。
まあ、とにかく、まずは。
寝室を綺麗にすること、
リビングを片付けること、
下着の新調、
さり気ない誘い、
あたりなんだろーか…
割食ってる気がする、というのはワガママか。
なんでこんなことを私がやんなきゃならないんだ、と思っているからいけないんだろうな。
求めてるなら、求めるやつがそれなりに労を割けっていう、分かっているのに、残る不満。
欲求不満?
そんなに性欲強い方では無いと思うが。
私 「モノノフ(ももクロオタ)ってどういう人たちなんでしょうか?」
教授「彼らは社会的立場が低く抑えられているという抑圧感と欲求不満が強く、その憂さを晴らすために
「本人は何の努力もせずに、他者に対する自己優越感を得られる」
私 「なるほど。モノノフというのは、因果応報な人生の補償行為なんですね」
教授「そういうことだね。彼らは公共心や正義心から動いているわけではなく、単に自分の嫉妬心・憎悪心・
虚栄心を増幅させたいだけなんじゃ。本当のファンとは程遠いところにいる人たちと言える」
私 「人間的にはかなり未熟な人々とも言えますね。よく分かりました。ありがとうございます。教授」
私 「ネトウヨってどういう人たちなんでしょうか?」
教授「うむ。ナチスを研究したフランクフルト学派によると、統計的には低学歴・低収入の若者たちが多い」
教授「彼らは社会的立場が低く抑えられているという抑圧感と欲求不満が強く、その憂さを晴らすために
彼らの欲求不満のはけ口となる破壊的な思想や過激な宗教などに強く共感するのじゃ」
私 「たとえば皇国史観に憧れたり、ナショナリズムに目覚めたとか言うやつですね?」
教授「そうだね。ファシズム台頭こそが、彼等の復讐であり愛国心の発露なわけじゃな。
その偏狭なナショナリズムを煽りたて政治利用する扇動家が登場してナチスが出来たわけじゃ」
私 「でも、わからないんです。欲求不満の塊であるネトウヨが、なぜ民族差別に走るのでしょう?」
「社会への欲求不満やナショナリズムと排外主義・差別主義は、実のところ表裏一体なのじゃよ」
「まず、人間には上昇志向が本能的に備わっている。それは本来、自分自身を磨いて達成すべきなのだが、
社会から不当に低く扱われていると思い込むと、自分の努力では抜け出せないという心理的抑圧感が
高まってきて自分の社会的信用を築く努力を放棄してしまう。これは集団心理としても作用する。
代わりに自分よりも価値の無い人間や国を作り出すことで充足感を得ようとする。
自分の過失や身の不遇を常に他人のせいにしたがる人間ほど、この傾向が強いようじゃ。
かくして血による差別が出来るんだね。日本人であるというだけで自分が優秀であるってことにすれば、
私 「なるほど。ネトウヨというのは、因果応報な人生の補償行為なんですね」
教授「そういうことだね。彼らは公共心や正義心から動いているわけではなく、単に自分の嫉妬心・憎悪心・
虚栄心を増幅させたいだけなんじゃ。本当の愛国心とは程遠いところにいる人たちと言える」
私 「人間的にはかなり未熟な人々とも言えますね。よく分かりました。ありがとうございます。教授」
でも、非モテ、ブサメンは美容院に行ったり、ファッション誌を見たり、メル友を探したりしても、相手が見つからないから地獄。
しかも、その上、はてサフェミや腐女子から性欲を向けるなと文句言われる
非モテやブサメン、はてサフェミ・腐女子にとっては性欲なんてない方がいいんじゃねえか
いっそのこと、12歳になったら、クラスの投票でイケメンランク5位以内に入らなかった奴は全員去勢するようにした方がいいと思う
正解。そういうこと。
見た目に分かりやすいせいもあるし、突き詰めて考える人なんていないから誤解が広まってるけど、
厳密には、男性の射精≠絶頂ですよ。たとえば女性だって潮吹き≠絶頂でしょ。潮吹ける女性そもそも少ないけど。
ドライオーガズムとか上手く工夫すれば男性にだって女性の絶頂級の快感を味わえるんだけど、
ほとんどいつもその絶頂を登り始めるくらいのところで射精に至ってしまって快感も性的興奮もそこで冷めるんで、快感が少ないわけ。
しかも、ほとんどいつも射精して快感も性的興奮も冷ましてる経験しかないから、当の男性本人も射精=絶頂だとみんな勘違いしてたりする。
増田が納得いかないと書く「『その程度』のもののために男を振り回す性衝動」だけどさあ、イキそうでぜんぜんイケないを日常的に繰り返されてると思ってごらんよ。
絶頂を味わえそうになったとたん射精に至って味わえずに冷める、を繰り返していて常に欲求不満だと思ってみ。
その程度で猿になるのか、じゃなくて、その程度だから猿になるんだ。
仕事上関わっているひとりの男がいる。
正確には、関わりたくもないが関わらなきゃいけない男、だ。
49歳、独身。
もったいぶって話し出した内容は、わたしに「M男を調教するときのアシスタント」にならないかというものだった。
調教されている姿を女性に見られるという新たな興奮を味わわせてやりたいとのことだった。
男は何度かこの台詞を言った。
「こんなことなかなか人に言えないのだけど
なぜ君に言ったかというとね、男の子たちの悶える顔がとてもいいので常々一人で見るにはもったいないと思っていたんだョ。
きっと君の勉強にもなるとおもうんだよネー。」
「それに中には調教が進むとフェラをしたがる子もいてね、そういうときはフェラさせるんだけど。
はめてほしいって子もいるけど僕はホモにはなれないのでね。(とはいいつつはめたことはあるらしいが)
イケメンが多いし、モノもいいから、セックスはいいとおもうよ。
私は男の子の喘ぐ顔は参考に見たいので、まず1回その場に同席させてもらい、
アシスタントをするかどうかはそのあと決めるとの返事をした。
(はめることについては、
男の言うイケメンやらモノの良さなどあてにならないと思っているし、
M男とセックスすることに興味がないし、今好きな人がいるからほかの人とセックスすることは考えられないのだが、
とにかく男に気持ちよくしゃべらせることが大事であると判断した。)
それから男は、自らの恋愛事情について話し出した。通話時間は1時間強に及ぶ。
電話をかけてきたのは深夜12時を過ぎたころ。
聞いてもいない男の恋愛事情であるが、驚くべきことはその内容が
以前聞かされたときの内容とまったく順序も言い回しも同じであることだった。
ボケであろうか。
いや、さらに細かく説明は加えられていたのでボケではないのか。
自分は女性にマメなタイプで土曜日は彼女たちと毎週会っている。
さて男が男性を調教するようになった原因(要素?)のひとつに、
(彼女が僕に惚れちゃってサーと言っていたが、下心は男の側にあったのはほかの人からの話で間違いない)
さらなるキャリアアップの為に彼女は専門学校に通うことになっていたそうだが、
男は彼女のフォローをするつもりであったらしい。
それは金銭面、生活面、仕事面で。(同じ業界で男が大先輩という立場なのだ)
彼女は産みたいといったそうだが、大きなお腹をさせて学校にいかせるわけにはいかないし
この業界で本気でやっていくには(そのための学校入学であるわけだ)、
堕ろせ、と ”言ってやった” らしい。
彼女は悩んだ末、堕ろしたそうだ。
その後男に別れ話を切り出し、二人は別れた。
別れにより男が多少傷心した矢先、通っていた会員制SMクラブで男性の調教を頼まれ一皮剥け(精神的な意味で)、
ハイ、ハイ、ナルホド、ナルホド、と相槌をうっていると、男の電話は続く。
「でも本当に堕ろしたかどうか、ボクはわからないんだよネー。だって病院についていっていないカラ。」
この話も以前聞かされたとおりである。
以前聞いたときは「じゃあ産んでいるかもしれないんですね?そういうことですね?」と聞いたのだが、
「いやいや、多分おろしていると思うよ」
「・・・・はぁ。」
と会話は終わった。
もともと偉そうな態度の人物であったらしいが輪をかけて偉そうになっている。
あの人は幼稚なんだよ。悪い人ではないんだよ。
自分の器をでかくして、ああいうのも可愛いと思えるようになるのがいいよ。
上司は私が男について批判するたびに言う。
それに、報いはちゃんとうけているんだよ、と上司は言う。
いま進めている大きな仕事に関して、
人脈のなさ、本業での仕事のできなさ、才能のなさ、が露呈している。(本人は気づいていないが)
たしかに報いはちゃんと受けている。
金銭面は二人の恋人に援助してもらっているとのことだ。
ちなみにこの二人は二股かけられていることは知らない。
この前風邪を引いたとき、二人ともお見舞いに来るので大変でしたよ。
片方の恋人が部屋を片付けて出て行ったあと
病身を起こして部屋を散らかし直したのですよオホホ、と笑っていた。
上司には黙っておいてくれと言われ先日までは黙っていたのだが
メールには「自分が変態であることに驚いたかもしれないが、いつかは君に言うつもりであった、
いま君と共にできることとしたらこういうことかと思って云々」と言い訳のような長文のメールが届いたのだった。
「君をアシスタントとして使いたいなら俺を通すべきだよな」
黙っておいてあとからわかるとなると、私の筋も通らないことになっていたとも言われた。
こういうことについては相談していいとも言われ、どうでもいい他人にうやうやしくおしつけられた秘密を持つという緊張の期間は終えた。
さて残る困ったこととしては、3番目の彼女の名前を聞かされていることである。
どんな仕事をしているかなども聞かされている。(とても優秀で将来有望な女性だったそうだ)
彼女が妊娠し、産みたいといったものの恋人(男)に堕ろせといわれたことも聞かされている。
男の恋人にも、一人には先日会った。かわいらしい方だった。
どちらの女性の連絡先もフルネームも知らないが、本気で探せば見つけられそうな気がしているのだが、
男が「おもしろい映画」を作れるようになるには
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
「ワンピースはドラゴンボールを超えた」という人もいるけど、ちゃんちゃらおかしい。
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もちろん今のところ、ワンピースの人気は高いけど、それはただ流行っているというだけ。
どうせ連載が終わったら、「ワンピース?ああ、そんな漫画もあったな」という感じになってしまうよ。
連載終了後も根強いファンがいて、ゲームやグッズが発売され続けるドラゴンボールにはぜったいなれないと思う。
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ある漫画がロングセラーになれるかどうか、これを決めるのはみんながその漫画を何度も読み返すかどうかにかかってる。
もし読み返されなかったら、すぐに忘れ去られてしまうだろう。
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アニメ「イカ娘」は2期が製作されたのに、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」はされてない。
まあ、作ってもよかったんだろうけど、もし俺妹2期が放送されたとして、イカ娘2期の場合と同じ高さのテンションでそれを迎えられる人って多くないと思う。
「ああ、そういえば俺妹とか、あったなあ」という感じだろう。
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俺妹の1期放送中は各話を何度も繰り返し観た人も、いざ最終回を迎えた後では、俺妹に対する興味が失せてしまった、という人は結構多いはず。
たまに観返しても、「あれ?こんなアニメだったっけ?もっと面白かった気がしたが・・・。」といった違和感を覚える。
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この原因は、そもそも俺妹というアニメが「最終回が気になる」タイプのアニメだったからだ。
視聴者は、「主人公と妹が仲良くなれるか??」という緊張感を最終回までずーっと引きずってきた。
しかしいざ妹が素直になったのを観ると、その緊張感は消えてしまう。
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むしろ近年まれに見る傑作だった。
ただこういう種類のアニメは、最終回後に観ると面白さが半減してしまう。
「ペリーヌ物語」なんてのも好い例だ。
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逆にイカ娘は、緊張感がぜんぜんない。
しかも各話独立のため、1期全体を通した一貫性というのも無い。
だからみんな、純粋に1話1話が面白いという理由だけでイカ娘を観ていたはずだ。
こういうタイプのアニメというのは、放送が終わっても何度観ても面白さは変わらない。
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基本的に、俺妹のような「最終回が気になる」タイプのアニメは、最終回が終わった後は忘れら去られることが多い。
ただし例外的に、最終回が視聴者に欲求不満を残すような終わり方をするアニメは、何度も観返される。
たとえば「あしたのジョー」。
あるいは「エヴァンゲリオン」。
こういうアニメは最終回を迎えた後も「いつも心のどこかに引っかかっている」ということになる。
だからみんなふたたび観る。
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2つ目の例外として、「まだ続きがありそうな終わり方」をした漫画は、何度も読み返される。
たとえば「スラムダンク」。
もしこれが「桜木が全国優勝して終わり」とかだったら、読者はみんな心から満足して、その漫画のことをきれいさっぱり忘れたはずだ。
あるいは「ドラゴンボール」。
悟空より強い敵はまだまだたくさん出てくるんじゃないかと思わせる。
鳥山明さまの終わらせ方は本当に上手いと思う。
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さて問題のワンピース。
読者は「いったいワンピースとは何だろう?」と気になりながら読んでいる。
そしてシャンクスとの再会も気になるところ。
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こういうありったけの伏線を張っておいて、いざ最終回を迎えてすべての伏線が回収されるとき、その満足感は計り知れないが、逆にその分だけ、えらく気の抜けたことになってしまう。
だからふたたび読み返そうにも、「ああ、ひとつなぎの大秘宝ってのはつまり4つの〇のことなんだよね。」などとわかっていたら、面白さ半減もいいとこだ。
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みんなの中にはこういう反論があるかもしれない。
「私はアラバスタ編は何度読んでも泣けるよ」という人が。
しかしそれはワンピースという漫画がまだ「終わっていない」からだ。
しかしいざ終わってしまえば、「過去の漫画」になってしまうだろう。
それがワンピース。
http://anond.hatelabo.jp/20111219204543
クズでゲスで、3万で、ギャクエン、やりほーだい、なんてスパムメールに引っ掛かるような人間、そういう人っているのか、知らないけど。
クリスマス前に、こういうこともなんだけど、如何にしてセックスよりも気持ちのいい事を見つけるか?って大切だと思う。
お酒やパチンコとか、一日で、ぱぁっとお金使って憂さを晴らすなんてことがあるけれど。
ストレスのため過ぎも良くないんだけど。
我慢出来るな、なんてことに出会えるかどうかって、大切かもしれない。
10代20代の男の子の頃なんて、そいうことしか、考えてなかったし、男友達と仲良くなるには、下ネタが手っ取り早かった。
アラブとかイスラムが、戦争やりたがるのは、禁欲が厳しすぎるから、欲求不満で、戦争するんだろうね、なんてことを言い合っていたなぁ。
とは、言え。
趣味ならば。
スポーツとか、何か陶芸のようなものを作るとか、美食、料理作りに励む、ひたすら何かを作るようなことに夢中になれる何かを、見つけられるか、どうか。
考えよう。
ゲーテは大作『ファウスト』において人生の意味をテーマとして扱っている。そこでは、今ある空虚を満たそうと欲望をどれほど追い求めてもその空虚は埋まらない、それどころか、欲望の充足を追求すればするほど、かえってその空虚が際立ってくる、ということを示している。金が欲しい、地位や名誉が欲しい、異性が欲しいなどの欲望は、欲望を満たしたとたんに次の新たな欲望が生じ、どこまでいっても満たされない、という「永遠の欲求不満」の状態に置かれてしまう[28]。
『ファウスト』第一部では、大学者のファウストは学問を究めつくしても人生はただむなしいだけと気づく。そこで悪魔メフィストファレスと交渉し、ファウストを満足させられたら死後の魂を差し出してもかまわない、と約束する。ファウストは悪魔の力で若さを得て、マルガレーテと恋をし身ごもらせるが、その結果母と兄を失うことになった彼女は生まれたばかりの赤ん坊を沼に沈めて殺してしまう。ファウストは「ああ、俺は生まれてこなければよかった」と嘆く。第二部では、懲りないファウストは皇帝の家臣となり、ふたたび悪魔を説き伏せ、黄泉の国からギリシャ神話の伝説の美女、完全な美の体現のヘレナの霊を呼びださせ、結果としてふたたび恋におち、子供をつくり平和な家庭を築き、今度こそ満足のゆく生活を手にしたかのように見える。だが愛する子オフィリオンは平和な家庭を否定し、戦いを求めて旅立ち死んでしまう[29]。
では、その後ファウストが、「ここにこそ人生の意味がある」と思え、「時よ止まれ!お前は美しい!」と叫ぶことができるようになったのはどのような時かというと、自分の欲望の満足させようという思いは捨て去り、万人のための自由な国を建設しよう、と人々のための「理想の国」実現に向けて戦いはじめた時であった。つまり、『ファウスト』における「人生の意味」「本当の幸福とは何か」「本物の満足とはどのようなことか」というテーマの答えは、自分の欲望の満足へのこだわりは突き抜けて、それを手放し、自己(小我)を超越し、利他の状態に状態に至ったときにはじめて手に入るものだ、ということである[30]。
なお、ファウストの心の旅があらゆる学問への絶望から始まるように、人生の意味や真の幸福というのは、学問や思索によって得られるものではないのであり、「人生の意味は○○である」とか「真の幸福とは○○」であるということを書物や文章を読んで学んだところで、それで人生の意味や幸福が得られるわけではなく、実際に「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、と表現されているのである[31]。
wikipediaからの引用だけど、「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、というのが
増田に書き慣れない公立高校教員だ。若いつもりだったがもうすぐ退職だ。
高校時代の友人で同じく教員になったやつがいる。たしか教員4年目で自殺した。いわゆる「困難校」に赴任してがんばっていたが最後は出勤できなくなって死んでしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E3%81%88%E5%B0%BD%E3%81%8D%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した報酬が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。慢性的で絶え間ないストレスが持続すると、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまう症状。一種の心因性(反応性)うつ病とも説明される。
極度のストレスがかかる職種や、一定の期間に過度の緊張とストレスの下に置かれた場合に発生する。会社の倒産と残務整理、リストラ、家族の不慮の死と過労などに多いと言われている。
説教くさく聞こえるかもしれないが、これには気をつけろ。
公私の区別がつきにくい仕事だが意識して区別をつけるようにしろ。なるべく休暇中は学校のことや生徒のことは忘れろ。(完全には無理だろうがなるべくだ)
それから生徒はアホで世間知らずに見えるが、俺たち教員がいなくても生きていける。むしろ教員よりも世の中のことをわかっているかも。自分が指導しなければ、なんてあまり思わないことだ。
とにかく生徒からはある程度距離を置け。(歳をとると生徒の方から距離をとるようになるんだけどね。この増田氏は最近は距離を置いているようだ。)
公立高校に長くいると一生懸命やってもやらなくても給料に差が出ないことを強く意識するようになるのではないかな。バカらしくなって段々と手の抜き方を覚えるのかもしれない。俺はそうだった。
とにかく適当に力を抜け。それから自分の専門教科の研修に関してはどんな学校にいても怠らないほうが良い。教科指導は教員のレゾンデートルだから。自分のことを棚にあげて言うのはおこがましいが。
幸運を祈る。