はてなキーワード: 教養とは
眞子氏が小室氏と出会ったICUという大学では、入学式で新入生みんなが「学校生活において世界人権宣言を遵守すること」を誓う学生宣誓に署名する。
https://www.icu.ac.jp/globalicu/pledge/
みなさんは、その世界人権宣言の中身ってどんなものか知ってますか。
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。
第四条
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。
第六条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。
第七条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
第八条
すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。
すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。
第十一条
1 犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。
第十二条
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
第十三条
これで全部。眞子氏の境遇に照らしてみれば、皇籍離脱前の彼女の人権がどれだけ制約されていたかが改めてわかる。民主主義国家を標榜する日本で、大半の日本国籍の人々が当然のように享受している人権の多くが制約された、とても特殊な立場の人が、自らこの大学への編入を選び、4年間の教養教育で人間中心主義(humanism)の理念と気風を涵養され、立派に「人間」になった。というか、人間としての自覚を得た。そういうことなのだ。
ちなみに天皇は敗戦後に「人間宣言」したと言われているけど、実は「ぼかぁ人間なんです、すまんかった」などとは言ってない。原文の官報詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』(1946/1/1)、別名『新日本建設に関する詔書』に書かれている該当箇所は
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
となっている。「天皇は現御神で、日本国民は優越民族で、世界を支配する運命にある」という戦前に言ってたことは「架空なる観念」でした、としか言っていないのだ。じゃあ現御神ではなくなった天皇が戦後どうなったかといえば、「日本国及び日本国民統合の象徴」になった。それはもはや神ではないし、といってただの人間=日本国民でもない。それは「日本は一体である」という(敗戦後にギリギリの交渉の結果残すことができた)国民国家のファンタジーをまるごと引き受ける、人間ではない何かだ。天皇と皇族は「平和憲法を遵守する新国家」を象徴する「何か」として、常に国民をいたわり思いやる理知的で心優しいファミリーの役回りを多世代にわたって演じ続けることになった。それって、ありていに言えば「人形」でしょ。
かつてのように神聖不可侵でもなく、かといって市民・国民としての人権を与えられてもいない「人形」は、やがては人々のおもちゃにされてしまう。今はみんながそれを使って「人形遊び」という娯楽に興じている。政治家や宮内庁職員や皇室ジャーナリストや評論家らが「本人が言った言葉」とその解釈のあいだにいくらでも恣意的な読み替えを挟み込むのも、メディアが皇居というドールハウスの内情について真偽不明のゴシップを書き立てるのも、辛酸なめ子や倉田真由美が赤の他人同士の結婚について大仰に憂いたり消耗したり絶望したりしてみせるのも、本質は人形遊びだからだ。相手が人間ではないから、そういう非人間的な扱いをしても許されるし、人形のほうが「与えられた役柄」を勝手に逸脱し始めたら嘆いたり憤ったりしてもいいのだ。
本件をイプセンの『人形の家』をひいて論じていたのは、意外なことに山口真由ぐらいだったけど、今回の騒動を見ていて、天皇家が「人形の家」ではないと言い切れる人はだいぶ減ったんじゃないか。人形の家には人間は住めない。だから、人間になった眞子氏は人形の家を出た。
窮屈な人形の家を、人間が住めるような間取りと風通しにしてやらない限り、そのうちまた同じことが起こるだろう(直近では、同じ大学で同じように「人間」に目覚めてしまった佳子氏にも同じことが起きるかもしれない)。風通しを良くするには、これまで75年にわたって「人形遊び」をしてきた我々自身がこの遊びを卒業して、その他の「市井のなんでもない人々」に接する時と同じような儀礼的無関心を貫くことなんじゃないかと思う。ことさらの敬愛も嫌悪もいらない。ただの人間として扱い、他のただの人間に抱くような尊重の念を持って接しよう。
100 風吹けば名無し 2021/11/04(木) 23:22:53.27 ID:1YcAIiu60
彡(゚)(゚)「小沢一郎?」シュババババ(走り寄ってくる音)
846 風吹けば名無し 2021/10/31(日) 23:26:12.52 ID:GE+4WkII0
小沢一郎というゴミクズ利権ウンコ野郎一人の虚栄心のせいで日本の政治が壊滅したんよ
この大馬鹿者が「俺様が政権交代を実現して歴史に名を残したいから」というクソみたいな理由で小選挙区制度という欠陥ゴミカス制度を作ったところから日本の終わりが始まった
かつての自民党の良いところは党内の派閥が切磋琢磨してどこかの派閥が問題を起こしたら別の派閥が主流派になって党内で政権交代できるというところやった
中選挙区制度では選挙区の単位が広くて一つの選挙区から5人程度が当選する
だから基本的に自民党は総取りを狙って5大派閥から一人ずつで合計5人の候補者を立てる
その結果各候補者は野党だけじゃなくて自民党内の他派閥の候補よりもいい政策を考えるために頭を使うようになるわけ
ところが小選挙区制度は選挙区が細かく分けられていて各選挙区1人しか当選しない
こうなると執行部が誰を公認するかがメインの争いになってしまうんや
「他派閥より国民に支持してもらうためにはどうしたらいいんや」ではなく「執行部に気に入られて公認してもらうためにはどうしたらいいんや」しか考えなくなるわけ
小選挙区制の唯一のメリットは1人しか当選できないので野党第一党以外の野党はノーチャンスということで自然と諦めて野党第一党に合流していき巨大野党が育つので政権交代しやすくなるということや
それは野党がまとまりかけるたびに小沢が権力闘争のために野党内で足引っ張ってぶち壊すから
鳩山政権なんかもそう
鳩山自体は頭はいい人だったが足を引っ張られ板挟みにされ総理大臣なのに何も決められない状態にされてぶっ壊れてしまった
元々はゴリゴリの右派で軍拡を主張していたくせにある日突然左派に転向した日和見野郎
あるのはただただ自分の権力を誇示したいというクソみたいなプライドだけ
ほんまこんなゴミクズは日本の恥として末代まで語り継がなアカンで
今後二度と小沢一郎みたいなゴミクズが出てこないように未来永劫批判し続けなアカン
https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1635688355/846
245 風吹けば名無し 2021/11/04(木) 23:33:44.59 ID:wlv85Hl2d
こいつ鳩山じゃね?
414 風吹けば名無し 2021/11/04(木) 23:48:13.61 ID:EsCViYowd
鳩山由紀夫
・政治にそこそこ詳しい
・野球が大好きで野球に関する論文も発表している(なんJにいてもおかしくない)
これ間違いないわ
「衆院選で自民と維新が勝って立憲民主が負けたの、リベラルが自分たちの意識の高さや教養を鼻にかけて大衆をバカにしてたのが一因なんじゃねえの? 主張が地に足ついてなかったからじゃねえの?」っていう。
なんか、我先に言ってる感じがして気持ち悪いな。
「俺は正しいリベラル。正しいから自分たちに近しい立場の批判も素直に率先してできるんだぜ(党派性に拘泥してできないやつとは違うんだぜ)」っていう感じがするんだよな。
結局、公益とか政治とかどうでもよくて、時勢と潮流がいろいろ変わっていく中で、独自性をひけらかすのとなんか思想っぽいものでバクチ打つのが好きなだけなんじゃない?
そう見える。
潔さや知性を演出したいんだろうけど、選挙結果で価値観の底がいま抜けたもんだから、一塊になって落ちていくのが嫌で、とりあえずちょっと違ったポジションに立っておきたいだけにしか見えないんだよな。
発言におかしな角度つけて自己批判できる自分を演出したがってるのはてめーだろうが、って言われたらそうなんだよ。
だから、なんていうかさ、「清廉な人格。反省もできる。今回の教訓を生かして頑張っていこう」、みたいな人間がさ、俺も含めてこんなにたくさんいるわけねーだろ、って感じになるんだよ。ブコメ見てると。
お前らも俺も、悲壮感に酔ってその場のノリで言ってるだけだろうがよ。
今後、進めていくべき方向性って、色々あるんだろうけど、それには「人権や平等を謳う理念(だけ)ではなく、経済や外交に関する信頼を勝ち取る戦略の提示」「一部のリベラルが抱えてる特権意識を見直す」みたいなことが大事なんだろう?
できるわけねーだろ、そんなこと。俺はできねーと思うよ。「特定のリベラル」にはできねーと思うし、俺にもできねーと思う。
(これは俺の想像だけど、)たぶんお前らも俺も、それほど学校の勉強にも苦労しなくて本読むことにも抵抗がなくて、周りの同級生のいくらかとか成長してからは大人とかに対して、バカにしてるわけじゃねえけどなんでこんなことができないの? なんでこんなもの(人)に入れこんじゃうの? って思って不思議に見てたんだろう?
俺たちはそうやって、自分より勉強できない、意見の言語化も下手な連中に対する理解と想像が不足してるのに、社会における平等の必要性や人道的なそれっぽい話を語ってレポートで評価されたりネットで「いいね」がつくのは気持ちよかったろう?
そんなやつらが、そうやって二十三十、四十年生きてきたやつらが、いまさら世の中の物の見方とか他人への理解を変えられるかよ、って思っちゃう。少なくとも俺には無理だ。自覚がある。
俺は、はてなの一部のリベラルの感じに、とても嫌な感じがした。俺自身の写し鏡だから。
できもしねえこと言って気持ちよくなってんじゃねえ、と思った。
お前らは俺と一緒で、他人への共感が致命的に欠けてるのに、たまたまそこにあった道具が「リベラル」だったために無関心とヒューマニズムっていう矛盾を抱えるハメになった連中だろうが。
選挙の結果がどうこうじゃなく、ずーっと前から隘路だったんだ。自分でもうっすらわかってただろう? そういうやつらが、いけしゃあしゃあと清廉さを演出すんな。なんなら、選挙結果をきっかけに自分たちのハマってた矛盾から一抜けした気になってんじゃねえ、とさえ思った。
自分が応援している(していた)党が選挙で敗れたから、今後期待している方向性を語ると同時に、自分の考え方を見直す。
それ自体は反応としては正しい。俺には無理だけど。他のやつにも無理なはずだと思ってるけど。
でも、何割かは本物がいるのかもしれない。
本当に、本当に誠実なやつ。
言論をファッションに使わないやつ。他人への想像力を持ってるやつ。
そういうやつがブコメの中にいるなら悪かった。ごめんなさい。
俺はお前らの大半は嘘っぱちだと思ってる。マジで思ってる。だから、俺が俺自身にずっと言いたかったことも含めてめちゃくちゃ言ったけど、許してほしい。与党・維新に投票する大衆の気持ちがわかるなら、俺の気持ちもわかったっていいじゃないか?
何を知っていて、何を語ることができれば教養があるといえるのかを考えたとき、
例えば文学、音楽、絵画、物理学、数学、化学、生物学、医学、地球科学、歴史学、言語学、地理学、情報科学、日常生活に関する知識、芸能、スポーツ、時事問題……とかがあって、
流石に「これら全部において平均的な人より大幅に詳しい人」ってほぼいないと思うんだけど、そうすると「教養があると自称すること」とか、ましてや「他人を教養がないと批判すること」なんて出来やしないと思うんだよな
もし「自分は教養がある」と感じている人がいたら、そう感じる理由と自分が詳しいこと、詳しくないことについて聞いてみたい もしかして存在しない?
アメリカみたいなコミュニティカレッジを全国津々浦々に作るというのはありだと思う
ゼミ教員を最寄りの旧帝ポスドクの非常勤バイトで回せば人件費もセーブできる
書き順に限らず、習った知識を一生使わないでも生きられるのは間違いない
適切なタイミングで覚え直せたら極論覚える必要も教える必要もないことが多い
自己流でもなんとでもなる人もいる
小学校なんて幼稚園の延長みたいなので、こどもの「なんで?」に対応してくだけのほうがよい人材が育つぐらいはあると思ってる
まあ、基礎的な教養なかったら、いざというとき(ワクチンのあれとか、水素の水のあれとか)痛い結果を招くから、ある程度満遍なくおしえる必要が生じてしまうのだろうけど。(大人がおかしなことを言ったり広めたり強制しなければよいのだけど無理だから)
書道家とかになると、書き順どおりに書かないと多分上手くいかない
書道段持ちだけど全然実感ないけど、もっと上級になればわかるだろう。筆記体なんか特に
あと書き順は理に適ってることもおおい。書き順通りに書いた方が美しい字になる傾向がある
それで、後から強制しにくいぐらい字は書くので、出来るだけ早期に教え込んだほうが良さそう
だった。昔は。ここ20年、書類とかで名前とか住所とか以外ほとんど字を書いてない
2021年10月25日に先行配信が開始され今日CDが発売される、槇原敬之の復帰作『宜候(ようそろ)』。
(引用という形式ですが、考察として歌詞を書き起こしている都合上、このエントリはすぐ消します。)
こんな素敵な曲なのにネット上でも思ったより反応が薄いのが驚いている。
一方で、仕事中にもかかわらず号泣してしまうほど刺さってる人も居る。俺のことや。
歌詞提供しているのは、尾崎豊・村下孝蔵・玉置浩二・浜田省吾をプロデュースしている音楽プロデューサーの須藤晃。
https://www.youtube.com/watch?v=vjyQTWT-Oe8
歌詞が伝わりやすいよう、敢えて伴奏はピアノだけという最小限のスタイル。
まずは何も言わず配信サービスで聴いてくれ。冒頭35秒だけでいい。
話はそれからだ。
私は普段、歌詞考察・歌詞解説といった野暮なことは一切しない。
その作品に出会った際に各々が感じた時のフィーリングや気づきこそが宝物だと思っているからだ。
たとえ善意でも、ネタバレによって公式の意図と違う形で聴き手に伝わってしまうのはファンとして本意ではない。
ましてや、私個人の解釈というフィルターを通すと全く違った風景で見えてしまうだろう。
「説明しよう!」と割り込む人は、その作品に邂逅した時の感動を減らし自論を押し付けてしまうことになるかもしれない。(本稿の私のことである。)
「今のは何が面白かったの?」と解説を求めると白けてしまうだろう。
もしかしたら自分の前では二度とジョークを言ってくれないかもしれない。
ガルパンおじさんが「ガルパンはいいぞ」としか言わないのは、単に語彙力が足りないからだと思っていた。
しかし、実際に観てみるとそういった優しさからだったのだと今なら分かる。ガルパンはいいぞ。
だが、この忙しい現代社会。
また、曲の背景に想いを馳せるためには少しばかり教養も必要となる。
(YOASOBI「夜に駆ける」の原作小説「タナトスの誘惑」を読んで納得して
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「どちら様かは存じませんが
そのサングラスやめなさい
悪い輩(やから)に見えたら損よ
その目を私に見せなさい」
ばあちゃん 俺に微笑みかけて
かすれた声で叱ったよ
出会いと別れを 繰り返し
「もう慣れたわよ」と言ったけど
「やっぱり一人は つらいから
誰かの傍にいなさいね」
ばあちゃん遠くの空を見て
小さな声でつぶやいた
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
ばあちゃんはにかみ謝った
「ごめんなさいね こんな話」
「毛皮も指輪も 押し入れの中
どこに置いたか 忘れたわ
一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて
膝が悪くて 行けなくて」
「先頭に立たないように気を付けて
争いごとは やめなさい
いつまでたっても あいこでしょ」
「今度訪ねてくれるなら
どちら様かは存じませんが
これも何かの縁でしょう
「人生は思うようにはなりません
それでも希望を持ちなさい
神様なんていないけど
変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい
笑う門には福来る
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さて、以降は2回以上聴いた人に読んでもらいたい。
答え合わせをしましょう。(抜け・漏れや解釈違いがたくさんあるはずなので、どうかコメントで補足お願いします。)
歌詞の大部分が、お節介な性分の認知症の「ばあちゃん」が孫(孫と認識されていない)に向けて語りかけるセリフである。
(叙述トリックで多用される「信頼できない語り手」の可能性も考慮せねばならない。なんせ認識が歪んでいるのだから。)
一見すると(前半はともかく)後半は思い出すままに過去を語ったり、
人生の先輩としてアドバイスを始めたり脈絡が無いように思われる。
しかし、言葉のひとつひとつに含蓄や温度感があり何故か聞き流せない。
「出会いと別れを繰り返し」:記憶を失う(別れる)→自己紹介(出会い)のループを指すのだろう。
後半で自分の孫に「どちら様かは存じませんが」とまた語りかけるので、「ばあちゃんまたボケとるわ!」とツッコんでしまう。
「やっぱり一人は つらいから 誰かの傍にいなさいね」と語りかけられても、
「ばあちゃん、いま孫がそばにおるんやで…」とさみしくなってしまう。
ところで、こういった違和感がないだろうか。
・ハワイに行けなかったら妥協点で伊勢神宮が来るのおかしくない?
・というかハワイに連れて行ってもらいたかったら息子より先に夫に頼めよ
・孫のことは何度も忘れてるのに、若い頃に口説かれたことは「忘れられない思い出よ」?
・なぜサングラスをかけるだけで「周囲から悪い輩(ヤカラ)と認定される」と思い込んでいるのか?
(グラサンといえばローランの民からすれば陛下の象徴と言っても過言ではないだろう)
こういった違和感や疑問を紐解き、一本の補助線を引けば、
ハマらないと思っていたパズルのピースが繋がり、この歌詞の全体像が視える。
それを前提にもう一度聴いてほしい。
「先頭に立たないように 気を付けて
争いごとは やめなさい」
この歌詞が異様に生々しく感じないだろうか。
まるで親しい人が先頭に立ったせいで亡くなったかのような物言いである。
→軍艦じゃんけんの掛け声「せーんそっ(戦争)」を嫌ったのではないだろうか。
「グー・チョキ・パー」は「軍艦・朝鮮・ハワイ(軍艦・沈没・ハワイの地域もあるらしい)」に置き換えられている。
小学校の時に「不謹慎だ」と先生に叱られた人もいるのではないだろうか。
実際、その後にお土産としてお寿司を細かくリクエストしている割に、「軍艦巻き」は入っていない。
「一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて」
→夫が居ないので息子に頼んでいる。おそらくハワイで亡くなった(と聞かされており、真偽は不明)。
そもそも、「ばあちゃん」は太平洋の地名でハワイぐらいしか知らない可能性も高い。
なぜなら当時のメディアは時の政府の統制下にあり、大本営発表を検証せず偏向報道をするプロパガンダの道具となっていたからだ。
国威発揚のため、日本軍の勝利を事実以上に喧伝し、大敗の事実を隠蔽する構造であった。
真珠湾奇襲の報道は大々的に宣伝したので、その印象が強いのではないか。
さて、ばあちゃんはハワイに夫を弔いに行きたいが、それが無理ならせめて国内で、
ということで日本全国最高位の神社である伊勢神宮にお参りしたいわけだ。
戦後世代にとっては戦没者を祀るのは靖国神社というイメージが強いが、
戦前世代にとっては伊勢信仰が普通であったようだ。現在も神社本庁の本宗は伊勢神宮。
(ちなみに作詞の須藤晃は富山県出身。槇原敬之は大阪府高槻市出身。)
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
→これは解釈が分かれるところか。素直に歌詞通りに受け取っても良い。
膝を悪くしてしまい二度と夫の弔いという夢が望めなくなってしまった悔恨にも解釈できる。
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
→孫(俺)のことは何度も忘れるくせに、「忘れられない思い出よ」。
その理由は、夫と過ごした時間が少なく他に思い出が無いからではないか。
・「毛皮も指輪も 押し入れの中」
GHQ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの印象によるものではないか。
「変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい」
→生きている人より、亡くなった夫への執着を感じないだろうか。
ここの「あなた」は孫(俺)に語っているように見えるが本当にそうだろうか。
夫に似た孫の姿を通して、
過去の思い出の姿の夫に、
ここにきて思い当たる。
「その目を私に見せなさい」と言われサングラスを外し、孫の目を見る描写。
ここでばあちゃんは若き日の夫を思い出す。
それをきっかけにこの歌詞のセリフのような回想が始まったのがこの曲じゃないだろうか。
タイトルが「ばあちゃん」じゃないのは、一人称が「俺(孫)」に固定されてしまい
メインディッシュにもなれず世の中の隅っこで苦い人生を送ってきた「ばあちゃん」の象徴として「わさび」がタイトルとして選ばれたのだろう。
国民の監視の目→ありませーんw自由な学生生活を満喫してましたw
求められる高い教養と気品と人格→いりませーんw外人のちんぽ味比べしてるのを堂々とネットにアップしておりましたw
皇族なんて選べても成りたくないわ…正直…
国民の監視の目、求められる高い教養と気品と人格、存在意義を常に問われ続け、権力は無いが発言力はあって、高貴な方々との交流をしなければならず、何よりも「税金で食ってんだろ」みたいな理解なき下々の声が嫌でも聞こえてくる…
ストレスフルすぎて。
経済学は数学的構造が堅牢なので最初は惹かれると思うけど、自然科学と違って予測とか再現性で評価されないから、結局、経済学コミュニティで共有される思想の表現になってしまう。数学が好きで現実の細かいところにあまり興味がない人とか、細かい話よりは社会全体についての評論をしたい人には向いていると思うが、「経済を知りたい」という人は、経済の中に入った方がいい。
ミクロ経済学とか役に立ってる(といわれている)じゃん、という人もいると思うけど、それらはオペレーションズ・リサーチ(OR)といった方がいい分野なので、であれば、ORを勉強した方が技術的なレベルも高いし、汎用性も高い。計量経済学と統計学の関係も同様。