はてなキーワード: 憂鬱とは
それもあるとは思うよ。
その年齢になるまでそういう振る舞いでゴリ押しできてきたことでの成功体験の影響も有るんだと思うよ。
でもそれ以上に理由があるんだよ。
老人は、メニューとか注意書きとか読む気がサラサラ無えんだよ。
さっき行ってきたすき家で耳にした老人たちの注文を例に出すとこんな感じ。どれも違う客な。
「ビールちっちゃいのをちょうだい! 大瓶でも中瓶じゃないよ、ちっちゃいのだよ!」
「ご飯がいちばん少ない牛丼をおねがい。 わかってる? ご飯が一番すくない牛丼よ。」
ビール瓶のサイズ違いをたくさん揃えてる店がいいならよそに行けや。
ミニサイズってメニューに乗ってんだろ。なんでメニューに書いてある内容で注文できねえんだよ。
答えはシンプルで、メニューなんかろくに目を通しちゃいないんだよ。
視力が足りない、思考がめんどう、軽度の認知症、いろいろあるとは思うが結果として
・注文を整理して
・店員に注文を伝える
この行程を自分勝手に省略して店員に面倒押し付けて平然としてんだ。
だからメニューとか店内にかかれてる注意書きとかも最初から確認しようとする気がそもそも無い。
その気が最初から無いから、店頭や店内でルールや注意書きを提示してあっても確認するわけが無いんだ。
アタイ、アラサー職業プログラマーなんだが、去年の暮れ、米国に出張した際、
職場の同僚とアイリッシュパブで飲みつつ、いろいろ話したときの会話を書く。
同僚は、オートラリア出身の男20代後半、アメリカ某大学のCS専攻。
彼曰く、
パーティーとかで人と知り合うとする。
そうすると自己紹介するよね?
それで、相手が、
「私は医者なんです」
医学を学んできたんだろうなって
間違いなく思うだろ?
アメリカでは、ってことだけど。
ある人が
「私はプログラマーなんです」
っていうと、じゃあどこかでCSを学んできたんだろうなって、
当たり前のようになる。
CSの専攻だとしたら、もしかしたら俺の先輩か後輩かもしれないしね。
えーっと○○(←アタイ)は、、、
アタイ:×××××××××
そうか、Matzの後輩なのか! (←チゲーよ! いや、ツクバも受けたけどさ)
Lispは?Lispもやりなよ!Emacsで始めるのがおすすめ!
日本では、
「私はプログラマーなんです。」といっても
必ずしも、その人のこと、CSの専攻なのかな?とは思わないでしょ?
あれってなんでなの?
だってね、まあ極端な例えかもしれないけど、医学部を出てない医者に
手術させたら危ないでしょう?
たぶんこんな感じだったろう。
正直ね、うるさい奴だなーと思いました。
気分がよくなっていて2杯目のギネスで、もういい気分だったもん
だから、酔いにまかせて、言ってやったんだわ。
そうよ、□□(←ソイツ)の言うとおりよ。
出来たってねつ造したって騒がれてる。その騒がれ方にしてもね、
なんだろう、サイエンティフィックではないわけ。
ファナティックっていうかさ。
そういうね、なんだろうね、国の閉塞性?が嫌になって自殺する人や、
成功したアーティスト(漫画家さんだっけな?)のイベントを中止させて
「人生格差犯罪なんっす」とか言っちゃう、そういうのが流行っていて、
で、そんな中、男はみんな無気力で、セックスしたくなくなっていて、
でも日本にも良いところもあるんだよ?
とかってテキトーに答えたんだけれども。
まあでも、
メスもって人の体切り刻むようなもの
っていう感覚を持っている人といっしょに働くのは、
感じないで済むので、そこは良いなと。
すぐに仕事をホサれるというストレスはある。(これもけっこうキツい)
だが、同じストレスなら、後者のストレスのほうが、アタイには合っていた。
前者のストレスを我慢しながら働かされると、
基地外になっていたと思う。
メスもって人の体切り刻むようなもの
であることを感じない、もしくは感じても感じていないフリをする
のがお約束という慣習にどっぷり浸かった業界や会社や組織にうまく適応しつつ、
ストレスたまったら、それこそ美味い蕎麦を食べたり温泉に行ったり、
職場の 仲間とソフトボールやった後、ビール飲んでウサ晴らししつつ、
いつかオフパコを夢見てはてなで、頭のいいプログラマーっぽいブログ書いたりとか、
フェイスブックやブログに、日本人技術者ばっかりとで群れあって、
(日本の汚い)海にいって、ビーチで男女仲良くバーベキューして、
俺ら私らリア充だぜ!的な画像を載せて、自己マンに浸るっていう、なんか
そういう人生を送って年をとるっていう感じなわけじゃない?
それで基地外にならないで、シアワセになれるんだったら
憂鬱を今年はどうにか解決したい。
以上、年頭所感にかえて
■本文。
今年上半期の美少女ゲーム業界を見渡すと、市場の拡大に伴う、保守化の流れに向かいつつある感がある。これは、おたく業界全体が内包している問題ではあるのだが、正直な所、拡大する市場を追いかけるのは既に辛くなっている。個人的にも、久々に行った秋葉原で、ギャル絵の洪水に立ち眩みがしたのも確かだ。
さて、コンシューマ市場は肥大したが故に、一般性の高さが必然となっていった。例えば、ドリームキャストの失敗は、古くからのセガファンが放つ、マニアックな重力から作り手の側が脱する事ができなかったが故の悲劇とも言えるのだが、一般性ばかりを追い求める状況は、作り手の側にも不満が蓄積されていく。
その、取り残された創作性を実現させる場所として、美少女ゲーム業界が成立したという背景がある。実際、筆者が一番面白かったのはDOSからWINDOWSへ移行する過渡期で、けったいな野心作が多く出た時期だったのだが、その後、市場として、成長・拡大すると、やはり、メディアミックスなど、資本主義的な視線が入り込んできた。
そして、今の美少女ゲーム業界は、昨年来からのレーベル数の増加と、タイトル数の増加と反比例するように、ゲームのジャンルの多様性が失われる傾向が生まれている。タイトル数の増加の背景に、発売サイクルの短期化があり、制作期間の短縮に伴い、システムやシナリオの練り込みが薄れている作品も多い。バグなどの不具合の発生が日常茶飯事になっていて、インターネット上での差分ファイルの配布が流行している現状に至っては、もはや何をいわんかや、という感じでもある。
不幸中の幸い、筆者はそういうゲームにあまり遭遇したことはないのだが、シナリオの練り込みが足りない上に、一時間程度で終わるゲームの為に一万近い金を出すのは、効率が悪いよなあ、という心境は間違いなくあるだろうと思われる。また、メイドものや恋愛ゲームがタイトル数の半分以上を占めるという状況では、やる気そのものが起きなくなってくるのは事実だ。
まあ、メディアミックスを基盤とした企業複合体のシステムに組み込まれた大手では、実験的な企画はほとんど通らないという話もあるし、一獲千金を狙う中小メーカーも、安全パイの企画しか通さない所が増えた。市場が拡大すればするほど、ジャンルが逆に淘汰されていくというのは、当然と見るか、皮肉と思うべきなのだろうか……。
このような、メーカー側の風潮と相互作用しているであろう、ユーザー側の意識についても、前回、「オブジェクト嗜好」と指摘したように、非常に即物的な傾向を示している。キャラクターの消費サイクルが非常に早くなっているため、自己の内面においての批評的な掘り下げが生まれなくなったのだ。
既に、ゲーム誌の編集者すら、全体を把握しきれない程、美少女キャラクターが氾濫している現在の市場状況では、その心性に惚れ込むのではなく、快楽的な記号の組み合わせだけで、売れ線のキャラクターが成り立ってしまう。あまりにも多い選択肢に対峙した時、人間というのは表層的で直接的な視覚イメージを優先してしまうからだ。
ところが、快楽的な記号を積み重ねれば積み重ねるほど、どんどんキャラクターはフリークス化していくし、リアルな少女像から離れれば離れるほど、逆説的にキャラクターがイノセンスを獲得して、ユーザーはヒーリングされる……といった構図になっているのだろう。多分。
何故、おたくのセックス観がリアルな肉体から遠く離れなければならないのかを考えると、それだけでこのコラムの3回分になってしまう位に深くて浅い問題なのだが、やはり、日本の特殊なフェミニズム環境が背景に存在しているような気がしてならない。これほどまでに、二次元の美少女を消費しなければならない、内的な問題とはいったい何なのかについては、また改めて書くとしても、これらの背景に、戦後日本の構築した、過剰な消費社会のターゲットが若者のみに向けられ、若さの素晴らしさや、青春の幻想をメディアが強調しつづけた蓄積の結果であると思われる。その副作用として、「オブジェクト嗜好」も含めた、おたくの奇妙な性嗜好が構成されているようにも思う。
これは、日本独自のフェミニズム的なものに対する、無意識下での抵抗と位置づける事もできるし、その中で形成された美少女概念と現実のズレが生み出した現象ともいえる。現に、美少女ゲームにおけるヒロイン像の大半が、十代中盤の保守的な少女に設定されているのは、当たり前と言えば当たり前だが、不自然といえば不自然でもある。だが、少なくとも、筆者はこの状況を全面肯定できるほど、気楽にはっちゃけられないのだ。
しかし、同じおたくの枠に括られているとはいえ、メタ的なものやフェミニズム的な表現を賛美するサブカル好きなおたくと、ひたすら癒しを求めて空想世界に依存し続ける昔気質なおたくは、明らかに正反対の方向を向いているし、それ故に、前号の本誌「オタク定点観測」にもあったが、双方の感情的な対立も表面化している。だが、前者には普遍化させようという意志が欠けているし、後者には相対化する視点が欠けているので、おそらく、どこまで行っても歩み寄ることはないだろう。
まあ、自分のことは棚に上げるが、本誌のコラム陣もまた、サブカル否定・おたく保守の傾向が強すぎるようにも思うし、最近はあらゆる所で極端な対立が起きるので、さすがにどちらかに与して云々という気持ちも無くなってしまったのだが、おたくという言葉が生まれて、15年の歳月が経ち、その括りだけでは収まりきれない時代になっているのだろう。美少女まんがはそれぞれのニーズに応えようとして、遂に80誌を超えようかという所まで肥大してしまったが、ならば、美少女ゲームはどうなっていくのだろうか?
加えるならば、前回の原稿を書いている時にインターネット上でぶつかった、萌え派と泣き派の思想的対立というのも、拡大する市場と、それに伴う価値観の拡散に伴う混乱、そして、批評軸の喪失といった状況が、結果、ユーザーの思想を脆弱にしてしまったという意味では、分かりやすい例だと思う。
快楽記号が多くてキャラクターに萌えられるから良いゲームだ、とか、心の琴線に触れて泣けるから、良いゲームだ、というのは、はっきり言って、どちらも同じ穴のムジナだし、良いゲームかどうかを決めるのを、一元的な価値観のみに拠って決めること自体が、ゲームの本質を歪めているようにも思うのだ。そして、作り手の側も、「時代がそれを求めている」とかいう言葉で、その表層的な状況をそのまま受け入れているようでは……なんだか、ヒヨコが先か、タマゴが先か、といった話になってきたのだが、もう、この世界は良い方向へ向かうことは絶対にない、と言わざるを得ない。これは、鬱のせいばかりじゃないと思うし、美少女ゲームに限った話でもないのだ。
批評軸の無い世界は自由に限りなく拡散していくのだろう。だけども、空洞化した世界には秩序は生まれないし、結局、内面の闇から逃げる為に、無意味な祭りを繰り返すのだろう。そして、絶望と祭りを行ったり来たりする筆者の心は、まるで墓場と酒場を行ったり来たりする沢田研二のような気分なのだ。ダバダバダバダ(意味不明)。
■暑くて憂鬱な夏の総括。
なんか、またゲームの話をしなかったなあ、このコラム。最初は普通にゲーム評をやるつもりだったんだけど、すっかり別物になりつつあります。ごめん。しかし、ゲームのことを書くと、褒めても褒め方が気に食わないと文句付けられるらしいので、いっそ全く書かない方がいいのかも知れない。まあ、これは某メーカーの広報誌と化した、とあるコンシューマ系ゲーム雑誌で書いている友達の台詞なので、美少女ゲーム誌では、そんな事はないと僕は信じているけどねっ☆
繁華街に住んでいるせいか、よく猫が捨てられる事がある。
捨てられてすぐはニャーニャーないているが、そのうち泣き声が聞こえなくなる。そして通勤時に
道路をみると、車に引かれた肉塊が落ちていて悲惨な気分になる。
私も処置したことがあるが、まず直に触れない。
血がついてるのもあるが、穢れみたいなのを感じてビニール袋ごしにしか対処できなかった。
綺麗な姿のままなら、経過時間により硬いか、柔らかいかの違いでしかないので対処できる。
猫に近い何かになっている時は、目を背けてやっていても猫の顔の辺りが目に入ると、精神に来た。
埋める所もないから、寄生獣じゃないが、可燃ごみに捨てていたが、死体の処理を、
本気の恋だったので、ふられた時のショックは今までで最も大きいものでした。
かつてない悲しみを忘れるため、ストレス解消になりそうなことを色々試しました。
しかし、どれも大して慰めにはなりませんでした。
そんな時、普段は聞かない音楽を聞こうと思いました。
私の一番のお気に入りは「Komm, susser Tod 甘き死よ、来たれ」という曲です。
元々のお気に入りとは言え、この曲には不思議と私を落ち着かせる効果がありました。
その流れで、私は久々に旧劇場版エヴァンゲリオンを見たいと思いました。
その曲が流れる所から繰り返し観ました。(正確にはシンジの心の中のブランコのシーンから)
このアニメは、シンジの持っている絶望的な考えから、徐々に希望を持つことができる考えに、シンジが至る過程をゆっくりと魅せつけてくれます。
私はしばし、自分の悲しみを忘れてアニメに集中することが出来ました。
結果、すっかりとは言えませんが、それでも悲しみのあまり混乱しまくっていた時よりは大分落ち着くことが出来ました。
ニコニコ動画の「元気になる動画」みたいなのを巡っていても癒えなかった心の痛みが、なぜエヴァンゲリオンで癒やされたのか。
それは、エヴァンゲリオンが、きちんと悲しい状態から同調して、そこから丁寧にすくい上げてくれたからだと思います。
元気になる動画は、元気で明るい雰囲気を押し付けているだけの荒療治のようなものだったのです。
もちろん、それが有効になる時はありますが、今回の私には合わなかったのです。
悲しい時は、きちんと悲しい気持ちを味わいながら、それでもゆっくりと希望を持つことが大事なのだと思います。
またTV版の最終話も観ましたが、やはり希望を持つにふさわしいメッセージを受け取れました。
「そして、真実は心の中にある」
「そして、新たなイメージがその人の心も形も変えていくわ」
「イメージが、想像する力が、自分たちの未来を、時の流れを、作り出しているもの」
「だから、見失った自分は自分の力で取り戻すのよ。たとえ、自分の言葉を失っても。他人の言葉に取り込まれても」
「自らの心で自分自身をイメージ出来れば、誰もが人の形に戻れるわ」
「心配ないわよ。全ての生命には、復元しようとする力がある。生きていこうとする心がある。生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの。幸せになるチャンスは、どこにでもあるわ」
「現実を悪く嫌だと捉えているのは君の心だ」
「現実を見る角度、置き換える場所。これらが少し違うだけで、心の中は大きく変わるわ」
「だが、君の真実は一つだ。狭量な世界観で作られ、自分を守るために変更された情報。歪められた真実さ」
「人一人が持てる世界観なんてちっぽけなもんや」
「晴れの日は気分よく」
「雨の日は憂鬱」
「と、教えられたら、そう思い込んでしまう」
「受け取り方一つでまるで別物になってしまう脆弱なものだ。人の中の真実とはな」
まだ心の傷が消えたわけではありません。
でも、いつか真実が変わるまで、望んでいた幸せ以外の形の幸せを望めるようになるまで、とりあえず前を向いていようと思えるようになりました。
全くお前らときたら、クリスマスもそっちのけでかまぼこかまぼこと。
さて、そんなかまぼこの話題も一巡したが、俺の中で疑問は残った。
「高いかまぼこは美味いのか?」
比較的下流に近い家庭で育った俺は、幼少の砌、高いかまぼこなど食う機会は無かった。
母が頑張って作ってくれる正月料理の中にあって、燦然と輝く唐揚げの影に隠れたかまぼこは、いわば消化試合の様相を呈するロートルピッチャーのような存在だった。
ボンヤリした味わいの、醤油を染み込ませるだけに存在するがごときものだった。
そこに期せずして起こったかまぼこ論争。
「んなわけあるか。便乗値上げだ」そうなのか?
STAP細胞も正拳突きも横に見て、いよいよ盛り上がるかまぼこ界隈。
それを見て俺は思ったんだ。
「高いかまぼこって美味いのか?」
都会で暮らす一匹の男となった俺も、今やかまぼこくらいは買える。
ボンヤリ高い気はすんだけど、そもそも普段のかまぼこの値段がワカンネーんだよなー・・・
まあ、こういうもんなんだろう・・・
さて、会社の忘年会からパクってきたSTORONG ZEROと、ショーユ・ワサビを用意して、
現れるしっとりとしたそれでいて下品にテカテカしていない質感。
切り方はここ数日さんざ聞かされたぜ、11mmだろ?
こんなに厚いかまぼこは見たこと無い。
果たしてその味わいや、如何に。
「うん、美味いよ!」
嫌味ない香り、淡白ながらも旨味と塩気を含んだ味わい、ぷりぷりしながらもザックリきれる気持ちのいい歯応え。
醤油や麺つゆに連敗続きだったかまぼこも、今夜はワサビ醤油に負けてない、いや、勝ち負けとかそういうんじゃない。
お互いが高めあっているようだ。
正直、心がかまぼこ一杯になって、年明け、後輩にいきなりかまぼこ論を打ち、困惑させるほどのインパクトはない。
今日はパクったチューハイだったが、これで相棒が日本酒であれば、消化試合どころか、日本シリーズの第2戦くらいは勤められるくらいの存在感だ。
騒がしい2014年ももうすぐ終わる。
耳の聞こえる音楽家だの、割烹着だの、火山の爆発だの、憂鬱なニュースが振り返られるだろう。
口に出すと何故か泣きたくなる。喋ってる内に絶対涙出てきて、
何故かどこかで本当の気持ちを話すのが恥ずかしい事だと思ってて人に本当に好きなものも、
嫌いなものも言えなくて、そのうち何が好きで嫌いかわからなくなって、本当は苦手なのに何でも楽しい、勉強になるとか息を吸うように嘘をつく自分が本当にうんざりする。
だから人に◯◯好きでしょう?とか言われたり◯◯苦手でしょう?とか
言われるのがすごく恥ずかしい。
人に自分の内面を知られてるのがすごく恥ずかしくて、いつも2番目ぐらいに好きなものと2番目ぐらいに嫌いなものの話をする。
そんな風だから当然周りも私が何を考えてるかわからな当たり触りのない会話だけで、ちゃんと何度も遊ぶ友達が本当に少ない。
話しててもその時は楽しくても後で本当に虚しくなる。
会話はしても遊びに誘ってくれる子なんて全然いないから、そういうことなんだと思う。私もほとんど人と遊ぶのは苦手で、遊びに行く日は憂鬱な気持ちになったりした。
近頃憂鬱が止まらない。憂鬱と名前をつけていいのかも分からない。
例えば、何もしたくない面倒だって気持ちが消えなかったり、死にたいって言葉がふとした時に出てきたりする。
人生ってつまらない、嫌なことばっかりなのに何故生きていかなければならないのかわからない。
楽しいこと、幸せなことだってそりゃあるけど、圧倒的に仕事とか嫌なことの方が多い。
更に憂鬱にさせられることは、嫌なこと辛いことを超えるほど幸せだと思えないってこと。
例えば、就活して就職するのがいやだ。もう内定もらったけど就職したくない。
9時から17時まで、更には残業までして社会に拘束されることが嫌だ。
要するに生きていたくない。から面倒なことは何もしたくない。
鬱とか悲観的なものではなく、普通に考えて面倒なことのために頑張りたくないから死にたい。
でも卒業しないと、就職しないと、その先が更に面倒なことになる。
彼に合わせて散歩好き、街歩き好き、歴史好きとか言わなきゃよかったよ。
本人はタモリみたいに江戸時代にここの坂がうんたらとか、クソつまらない知識を披露して気持ちがいいかもしれないけど、私にとってはただの坂。
神社の木が天然記念物で本人にとっては、さぞ嬉しいことのなのかもしれないけど、私にとってはただの大きい木。
この間だって、どこに行きたいか聞かれたから丸ビルって言ったら、丸ビルに着くまでは丸ビルの歴史とかのうんちく披露してたけど、中に入ると「なんか高そうだね」ってボソボソ言い出すし。(つうか、来たこと無かったのかよ!)結局、下の店で惣菜買って皇居周辺歩きながら、マッカーサーがどうたら、石垣がこうたら・・・結局、1時間以上歩き回った。(あ~寒い~、雨降りそう~、早く建物に入りたい~)って思ってたけど顔に出ちゃってたら嫌だな。
ハーケンクロイツ・アイコンのつぶやきを、子役俳優にしてツイッター炎上芸人のはるかぜちゃん(13歳)がリツイートしたことから始まったプチ騒動。
いかんでしょと諭されたはるかぜちゃんが言葉やマークに罪はないと反論し、さらにはナチスが生み出した発明で救われた人も、明るい歴史だけ学べば幸せにとか、明後日の方向へと議論を進めていくジェットコースター展開。
”過去にどこと戦争したとか、過去にどこの国の人が侵略してきたとか、そんなこと、何のために学ぶの?もしかして誰も知らなかったら、大人が負の歴史を教育しなかったら、『世界中の人間は、みんな同じものだよ』って 世界中の学校が子どもに教え続けたら、いつか世界はひとつになるんじゃないの?”
“過去の人に配慮するために、憂鬱で、暗く愚かな不幸の歴史を学ぶより、これからの子どもたちのためになる、明るい歴史を学びたい。悪いことはみんな忘れて、あの時どこの国が優しかったとか、震災のときどこの国が助けてくれたとか、いいことだけを学びたい。”
はるかぜちゃんはというとなにかと大人びたつぶやきでずっと「中の人は大人なのでは?」疑惑がささやかれてきたわけですが、そんなのはどうでもいい話。重要なのは「子どもであることを武器として持論を展開していること」にほかならないし、その構造は小学4年生サイト「どうして解散するの?」にそっくり。
○昼食:みそにこみうどん(具は豚肉と里芋を筆頭に色々入れた)
○夕食:半額パン色々(ベーコンとチーズの、クリームシチューみたいなの、ソーセージの、さつまいもの)
○調子
ご飯食べまくったら元気になった。
元気になりついでに、今日も出会い系で男を連れ込んで、えっちいことをした。
(と、言いつつ、明日も出会い系で知り合った男とデートである)
自分が持ってるややこしい部分を全部脱ぎ捨てて、気楽に打ち解けられるというかなんと言うか、兎に角楽しい。
とは言え、いつまでもこうして流浪の旅をしているのも治まりが悪いので、ちゃんと本命の彼氏を作りたいと思う。
明日デートする男は、かなりの本命候補なので、しっかりアプローチして、ちゃんとした恋人になりたいなあ、と思っている。
でも、男同士ってのはどういうアプローチをしたらいいのかなあ。
まだ明日で二度目ましてなのに、もう二回セックスしてる(初めましてで夜朝二回やった)って微妙な関係が、もう既に本命になれそうにない感じがして、少し憂鬱だ。
直球で聞くべきなのか、遠回しに聞くべきなのか、うむむ悩ましい。
そもそも、男同士で恋人っていうのはどうなったら恋人なんだろう、いやそれは男女でも女女でも一緒か。
ってことは、やっぱり相手に思い切って聞くのが一番だろうな、というかそれしかないよな。
ううむ、悩ましい。
悩ましすぎて、頭が痛くなってきた。
明日のデートが成功して、かつ上手くいってる場合は、お泊まりデートになるので、やっぱりゲームはしません。
いやいや、こんなのは一瞬のブームにすぎないからなあ、気づけば恋人がいる生活が日常の物になるんじゃないかな?
そんなこともないのかな?
よくわかんないや。
なんか今日は今までに無いぐらい長文だなあ。