はてなキーワード: 学問とは
企業から研究費も貰えない、卒業生から寄付しても貰えないから国民の血税を貰って学問させて頂いてるんだろ
自分の給料は少ない少ないと喚き、無給で働くことなんかもっての外のくせに知識は無償で与えられるべき!だもんな
なお悪いわ
デデデ「大臣のパームや貧乏なハニーのパパですら非童貞なのに、大王のこのワシが童貞なのはおかしいゾイ!女とセックスしたいゾイ!」
エスカルゴン「デブでケチで性格の悪い、どこかの独裁国家の三代目みたいな陛下が女に好かれるわけないでゲス、って痛いでゲス!もうすぐに殴らないでほしいでゲス!そんなんだからモテないでゲスよ!」
カスタマーサービス「これはこれはデデデ陛下。ご機嫌麗しゅう」
カスタマーサービス「陛下とあろうお方が一体どうしてそのようなことをお悩みで?」
デデデ「うるさい!さっさと教えるゾイ!」
魔獣ダウンロード
デデデ「こいつは何だゾイ?」
カスタマーサービス「おほほほ!エスカルゴン閣下、彼をみくびってはいけませんよ。彼は銀河中のメスと交尾して回った最強のモテ魔獣『ラブエンジニア』でございます。彼の指導を受け実践すれば陛下もセックスに不自由することはないでしょう」
ラブエンジニア「、、、ショーメイ、、シヨート、、オモウ、、」
デデデ「それは頼もしいゾイ!さっさとセックスする方法を教えるゾイ!」
カスタマーサービス「では後ほど『期間限定!ホーリーナイトメア社&ラブエンジニアの恋愛工学講座』の請求書をお送り致します」
エスカルゴン「全くくだらないことにお金を使って、、、呆れた人でゲス」
・・・その頃
ブン「恋愛工学?ネーチャン、なにそれ?」
カービィ「ぽよ?」
フーム「女性を一方的に恨んだモテない男が復讐のためにセックスすることだけをゴールに考え出した醜くて悲しい学問よ。あなたたちはそんなものに手を出しちゃダメよ」
「人文科学」って言い方に対して異議がある人へ……本当にすいません………
科学を自然科学・社会科学・人文科学と3つの分野に分ける事があるけど
自然科学の分野にいる人が「科学とは何か」について語る程には「自然科学とは何か」について語る姿を見かけない
一方で「社会科学とは何か」「人文学とは何か」について語る人達はもっといるのに
んでそれが結局何故なのか考えると
やっぱり自然科学が「科学全体から社会科学と人文科学に分類される部分を除いたもの」
現代において先に社会科学・人文科学の分野を定義せずに自然科学を定義するのが凄いしんどい
でも上記のような差集合として自然科学を定義しても全く問題で無い気がする
自然科学の定義にはとりあえず科学の大雑把な分類をするための必要性しか無い
一方で社会科学や人文学には特有の方法論があり、それぞれについて語られる事があるんだろう
そして自然科学の分野に入る研究者は差集合として定義される言葉には興味を持たず、科学全体について語るようになり
(続き)たとえは不適切だったけど日常経験の中では確かに仮説の仮説を重ねてるというものはあるわけで…。
そういう可能性がある。それならある人はこうする可能性が高い。そのときあいつは前もそうだったしああするだろう、みたいな…。
もちろんどんな憶測も許されるような井戸端会議じゃなくてテレビの政治の専門家が政治家の今後を発言するみたいなときね。
そうじゃなくて逆に仮説に仮説を重ねていい境界はなんだろうってこと。
どういうときは仮説に仮説を重ねていいのか自律的に判断できるようになりたいというか、周りを見て判断するという今の段階から一歩抜け出したい。
あれ、昨日はもうちょっと言いたいことに肉薄していた気の利いた文が思い浮かんでたはずなんだけど…今書いてることを読み返してもほとんどしっくり来ないわ。
だめもとで吐き出してるという感じだけどまあ仕方がない。
一回の判断につき数分の猶予しかないようなリアルタイムに環境が変化するサバイバルの状況ではむしろ「仮説に仮説を重ねる」よりはもうちょっと蓋然性の高い意思決定法を無意識のうちのとってるような気はする。
熊が迫っているからと4mの崖から飛び降りても「骨折で済み死ななくても『不思議ではない』」ということで崖と飛び降りてしまうことは軽率であり、あまりとられない選択だろう
もうちょっと証明されているような熊の生態を利用した危機回避行動を咄嗟にとるんじゃないか?(正面向きながら後ろは崖なのでかにさん歩きするみたいな)
(続き)まあ「~の可能性がある」と「~であっても不思議ではない」とは微妙に異なってるから同列にできるものではないとも思うわ。
おれはこの違いも分からん高卒だが、そもそも高卒は学問に干渉しない方がいいのかもしれないな。
学問と高卒の双方にとって関わり合ってもお互いのためにならないというか、学問的なコミュニティとの交わりは一切断った方がいいというか、下手の考え休むに似たりという感じかする。
例えばニュースに絡んで地政学が話題になるが、学問っぽい字面のくせに希望的思考を排除出来てない。
本もネットも調べれば、それっぽい理由が並べられる、複数人が言い出せば正解になる。
数日だったらいいが数年単位でグーグルでもYouTubeで同じ事しか出てこない状況だと、普通の人は正解だと信じるだろう。
ネットでわからないことがあっても質問して解決することはない。
わからないから調べた上げく、それっぽくわかりやすく説明するのに納得することになる。
わかりやすい疑似科学だとネタと判断できる人がまだ多数派だろうが、グラフをいくつか説明すると信じる人が多いだろう。
需要と供給のバランスと言われればそれまでなんだが、そうだとしても
今や紙の出版・流通にこだわらなければ電子書籍で大幅にコスト削減
販売も見込めない紙の本のコストにひっぱられた価格設定な場合が多い。
研究者なら自分の研究をできるだけ多くの人間に知って役立ててもらおうという
場合が大半だと思うしその為に研究成果を載せた媒体の入手コストは低ければ
低いほどいいんじゃないの?
学術書が売れない領域で研究してるんなら多分カネもうけでやっているわけじゃ
ないだろうし、仮にカネもうけでやってたとしても研究者の場合所属する機関から
給料をもらってやってる場合がほとんどで、学術書の値段が高くてメリットになること
無いんじゃないかと思うんだが。
(追記)
いやさー、頭の体操がてらに軽いレスバを嗜んでたところ「そんな知識もないん?w〇〇の本に載ってる」みたいな煽られ方をしたのが発端なんよ。
んでとりあえずネットで検索したら売ってたけどバチクソ高ぇでやんの。
レスバ発端とはいえその学問に興味が出てきたワイちゃんのような一般市民を初手で突き放すかのような価格設定はどうなのよってね。
編集者や印刷・流通にカネがかかるのはじゅうじゅう承知なんだけど、
せっかく大金つかって税金まで注入して研究を盛り上げても一般人の手に届く範囲にその成果が見えないのは惜しくないか?
「学問を志すなら高い金払う覚悟ぐらいしろ」みたいなのは、いいかげんもう古くないか?
軽~~い気持ちで知識に触れ始めて、そこからドップリハマるパターンだってある。趣味とか大抵そんなもんやろ?
編集とかにも税金つかってでも国民が無料で研究成果にアクセスできるような知識のベースを築いていくべきやろ?
知らんけど。
性欲の説明
両性の性器をめぐる機能とその活動の中で生じる快感を指すと考えられる
・両性の性器をめぐる機能で生じる快感+両性の性器をめぐる機能の活動の中で生じる快感(快感と快感、二種の快感)
・両性の性器をめぐる機能+両性の性器をめぐる機能の活動の中で生じる快感(機能と快感)
「~快感を指す」ではなく「~快感『と』を指す」と書いてあれば後者に定まるのに、固い言い回しとして毛嫌いしたいか、余計に悪文になっていると思う
あと、某気象学の教科書では飽和水蒸気圧は水面に対するものより水滴に対するものの方が表面張力の影響で高いと言っているのだが、そのすぐ後で水滴が平衡であるときの水滴の大きさと過飽和度の関係というグラフが出て来るんだけど、その過飽和度の算出の基準にしてる飽和水蒸気圧は水面と水滴どっちのものなんだっていうね。
拡散過程の式にも過飽和度が出て来るがこれについてもどっちのものを使ってるのか書いてない。
そんな感じのあいまいな表現って学問界隈でも無自覚にそこらじゅうで使われてると思うんだ。
なかにはあいまいな表現をあいまいだと気づきもせず、しかも著者の言わんとすることと反する解釈で理解してしまったり、その理解に基づく論文も前提の誤りに気づかれずに受容されたりとか…。
伝言ゲームのように曲解が曲解を生むわけよ。もしかすると曲解に基づく理論が現在正しいとされる理論のなかに既に潜んでるかも…。
そうはいっても見かけ上は学問って成り立ってるよね。そうじゃなかったら今頃工業や化学の世界で事故が頻発してるだろうし。どうして伝達のあいまいさに関することがインシデントとして顕在化しないのか気になるわ。
どれくらい受験勉強に未練があるかというと、仕事の移動時間に速読英単語を開いたり帰宅途中に簿記の勉強をしたり、いつか勉強に専念するために死ぬほどお金を切り詰めたり(貯金は2〜3年分の生活費くらいはあると思う。知らんけど。)休みの日に遊ぶことにはめちゃくちゃ罪悪感がある。
学生時代の頃から、うすうすまた受験勉強をしたいという思いを持ち続けていたが、そんなことは社会のレールから外れることだし、それよりも他に何か意味のあることをしなくてはと思い、大学の講義を死ぬほど詰め込んだりなんなら単位にならない講義まで通ったりした。
だが、私は学問が好きなのではなく、兎に角受験勉強がしたいのだ。現に卒論とかはめちゃくちゃ苦戦した。
私は中学受験をした頃から、受験という事象が好きなのだ。毎週の成績で入れ替わる順位表、合格の快感や不合格の悲哀、戦略を立てて成績向上のために1人で戦う時間。その全てを愛しているし、それ以外の生きがいを持ったことがない。大学受験が終わってしまった時は生きがいをなくしたことが悲しすぎてこの先のことが何も考えられなくなったくらいだ。わかっている。異常だと。
受験勉強といっても、もう大学に通おうとはあまり思っていない。学費が勿体無いし、そもそも学問には興味がない。だから公務員を目指したい。私のこの気が狂いそうになる欲望を満たしてくれるものは、公務員試験しかない気がする。
市役所とかのレベルでは退職するまで専念するのはおかしいと思われそうだから、国家を狙う事にする。
なんか他にいい方法があったら教えてほしい。
https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/XLJ547N44X/
こちらを見て、正直いって、25%ぐらいはいいこといっていたが75%が酷すぎたと思う。
【前提となる自分の背景】
===(Nスペ目次)=====
===(Nスペ目次)=====
もう、10年何をしてきたのかという諦めの気分。いま目次を書いてみると、たしかに1時間で
まとめるとこうなるのもやむ無しという気がしてきたが。結局 so whatが無いんよ。
自分が思うso whatは個人単位の戦争をすればいいので「日本で勝負するのは辞めよう」
未だに海外に行かない日本人研究者層が歯石のように積もり積もって自分の首を締めていると思う。
特にドン引きしたのが、ネパールの人材の青田買い。何をしているかというと、「早めに内定を出して日本語教育をしている」
ということ。インド人エンジニアには見向きもされないから、更に安い国としてネパールを選択し、その安物エンジニアを供給
しようとしているようだが、はっきりってその見向きをされていないインド人にどれだけお金を払うかの方が大事。
安いエンジニアは誰も要らない。
わざわざ日本語を勉強してこようみたいなモチベーションのネパール人が使えるわけがない。SIerの下請けにしかこない。
私はカンボジア人のエンジニアと仕事をしていたが、当然英語だし、たしかにコストは安いし、その割に国のトップみたいな
人材だが、その人がわざわざ日本語しかできない人と働くとは思えない。
そういう楽をした内向きの戦い方が全ての元凶だろう。
自分さえどうとでもなればよいという考え方の方が実は日本を救うと思う。いま一時帰国して、この番組を見て
理系人材の扱いが自分の卒業した12年前時点と1bitも変化していないことにショック。
日本の若者がむしろ自分の内向き志向をコロナ等で深めている気がしていることを憂慮する。
松尾豊さんが言っていた「兵站がない」っていう言葉、日本人はとても好きなんだけど、兵站って無限にないんすよ。
僕は国力を上げるにはもう中国化するしか無いと思う。権力への批判機構みたいなのが多少弱まろうが、兵站がない以上
ただし、理系においてはITのような【今トレンドである】ようなものやAIのようなチャラチャラした学問ではなく
、生命科学、物性、宇宙、ITのすべての学問に戦力的集中を行う。
その代わり文系人材、F欄大学などは廃止する。申し訳ないが、これをやらない限り、日本全体が沈下する。
しかし、そしておそらくみんなそれでいいと思っている。なので、そりゃ無理よ。
阪大生命科学の人がオートファジーみたいな研究は芽が出ないから選択と集中を行われては困るというような
言い方をしていた、それは本当にそのとおり。しかし、選択と集中を行わないために選択と集中を行う必要がある。
シャープが選択と集中を進めた結果潰れたのではなくて、選択と集中をしても潰れる流れをせき止めれなかった。
文系の教授のウクライナ情勢での解析の体たらくを見ていてもドン引きする。置きにいったコメント。自分は専門外だからと
小泉特任講師のように画像解析など普通にするべき理系的アプローチも解析もできず、歴史というわかりにくい概念でけむにまくだけで、
この千載一遇の研究結果を元にissueを提言するべきところで何もできていない。
はっきりいって文系という学問がそういう性質があるのはやむをえないがそういう置きに行くことをしていると、当然
なりふり構わない、中国などに勝てるわけがない。日本人全体が苦手なので、玉虫色にしたがって、その結果兵站が
尽きる。当たり前のことである。
正社員の男女で書く。
なんでかっていうとコミュニティの中でいっちゃんつえーやつになるようランクを上げないといい思い(勝利)ができねえからな。
かけっこで1番が勝ちだし人気のある部活で活躍するのが勝ちだしいい大学入って収入高くなりそうな学問したり負けない武器磨くのが勝ちなの。
もちろん喋りとお洒落って装備も揃える。
そっから大学卒業するころにだいたい戦士:Lv60〜70とかになんの。
対して女の場合って男ほど競争と勝ち負けが近くないというか重要じゃねーと思ってんの。
その代わり和を乱さないコミュニケーションの取り方とか対人の感情観察力はめっちゃすごい。
職場で問題起きた時に女性陣がまとまっていくの見るとレギオン感あるもんな。
ただこれらの環境が経験値を得にくくしてると思ってんのね。ずっと序盤の町で狩ってる感じな。
そんで大学卒業するころにだいたいLv30〜40とかになるじゃん。
ここで諸々の枠とか会社の体裁とか親父のスケベ心で魔法を覚える(覚えさせられる)状態になると思ってんのね。
ただ魔法は使えるけど素のLvが30〜40とかだから、実際入社してもLv80とかのオッサンたちが集団でシノギを削っている闘技場には刺さらないわけ。
オッサンたちも必死だから手抜けねえよな。戦士が戦わなくなったら死んだも同義だし。
んで更にタチが悪いのが魔法使いから村人(主婦・パート)に転職するのが多いことだと思ってんのね。
春はあのぼけ、夏は夜、秋は夕暮れ、
冬は?冬は?
うーん、
思い出せないわ。
かつての紫式部、清少納言、十返舎一九、伊能忠敬と言えば今で言う日本の三大ブロガー。
だから私、
今はまだ読んでないけど意気込みだけはあるの。
トミーフェブラリー6の川瀬智子ちゃんが可愛い赤ブチのメガネかけてるようで、
それだとなんだか私も同じお利口さんに見えるでしょ?
日本の三大ブロガーでもある長谷川町子先生の古典のサザエさんも見てみようかしらと思ったの
もしかしたらそこに何かのヒントがあると思ってね。
サザエさん学って学問があるぐらいだから何かの学びにはなるはず。
サザエさんの視聴率に左右されて経済の市場が良くなるとか悪くなると買って話もあるじゃない。
だからそういったのをひっくるめて、
今だスマホすら登場しないサザエさんの世界線世界観なのに街中にある郵便集配ポストの描写は都内の最新型のポストのスタイルで、
視聴者を試すように問いかける引っ掛け問題のようで時代考証がときとして矛盾しているのよ。
パイオーツではないわね。
オーパーツよ。
間違い探し的な楽しみをもって楽しむのかしら?サザエさんって。
ここ何回か見てみたんだけど、
ただただそう言った
内容だって無いのかも知れないわ。
とにかく来週は1時間スペシャルだって事には間違いないみたいだし、
でもさ、
余地はあるけど、
作中のサザエさんの出てくるテレビジョンの厚さのブラウン管との違いは平均値としては叩き出すには
答えを出すには早いようよ。
ああやって、
街中にある郵便集配の赤いポストは最新型のものの最近のポストの描画がされていたりと
あの中には並行してサザエさんの世界線が時代が幾つものサザエさんが流れているってことなのかしら?
やっぱり奥が深いのかしら?
見れば見るほどよく分からなくなるわ。
うふふ。
なんだか今日に限って給湯室が混んでいて
ヒーコーだけしか飲めなかったのがシャクよね。
おやつに頂くわ。
だんだんと暖かくなってきて
ダウン鮭ととまで着込まなくていいぐらいな陽気よね。
このまま春の春眠に突入して欲しいし、
最近お気に入りはグレープフルーツ炭酸ウォーラーが市販されているのを好んで買っているのが、
あのグレープフルーツの
ちょっとした苦味というか
柑橘の中の苦味が甘いだけのとは違うのよね。
なかなかいいわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
まさしく形而上学と形而下学の話だな
理系の学問は形而下、すなわち実生活で実際に使うものなので有用性を実感しやすい
しかし過去を紐解くこと、文学や芸術の効用について考えること、人生の意味について考えることは全くもって不必要で無意味な学問なのだろうか?学問として成立しないのだろうか?
無意味でないと考えている人間は文系を選択しているし、無意味だと考える人間は理系を選択しているはずなのでそもそも交わらない話題ではあるが
文系の人間はそのような否定のされ方をされることに慣れているが、今一度、文章に心を動かされた体験や、趣味とそれを支えているものに関して思いを馳せてみてほしい
わからないならこの話は終わりだ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/masuwo1980/status/1500295051838365706
エビデンス、エビデンスって言う人は、あまり自分の頭で考えず、科学的根拠にすがってるように感じる。
数学に関しては、人が発明した学問なので揺らぎようはないと思うんだけど、数学以外はもっと複雑な感じがするし、物理だと理想気体とか、数学でも近似値とか、あいまいなところはあるよね。
id:zyzy というか数学こそまさにエビデンスが一切ないジャンルなんよね。公理という人間がこれで上手くいくという感情的な思い込みで決めたものが論拠なので。エビデンスを求めるなら数学は一切使えない事になる。
id:RRD エビダンスエビダンス言ってる衆は、砂は固体だというエビダンスがあるから固体の上に楼閣を建てても大丈夫、って言うことが時々あるよね。
今このブコメ欄見てそう思ったんだが。
[B! 科学] ますを@山下幸二 on Twitter: "エビデンス、エビデンスって言う人は、あまり自分の頭で考えず、科学的根拠にすがってるように感じる。 数学に関しては、人が発明した学問なので揺らぎようはないと思うんだけど、数学以外はもっと複雑な感じがするし、物理だと理想気体とか、数学でも近似値とか、あいまいなところはあるよね。"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/masuwo1980/status/1500295051838365706
どうしてブクマカはこのおっさんのツイートを見つけてきてブコメで叩いてるの?
だってさ、何にもならないじゃん。
例えばこのおっさんがいけ好かない有名人とかだったら日頃の鬱憤をぶちまけたりこれを機に表舞台から消えさせたりとメリットはあるんだ。
でもこの山下さんはただの山下さんなわけで、ほぼ全てのブクマカにとっちゃ路傍の石な訳じゃん。
それをこっちまで持ってきて叩いて、あまつさえはてブトップに出るまで人気にしてって、そんな価値全くないんだよ。
なんか適当な単語でツイッター検索してみろよ。山下さんに似たやつなんて山ほど見つかるよ。
あいつら全員叩いてたらキリがねぇ。
気づいてるか?
今の小中学生は情報の授業やってるからメンデルの法則習う頃にはもうORやANDの意味なんて知ってるってことに。
そもそも、遺伝させる力が優れいていること自体は間違ってないだろうよ。
それでもお前らは「A+A」or「A+B」or「B+A」=「A」、「B+B」=「B」というただそれだけのものに対して優劣があるっぽいことが気に入らないんだろ?
でもよ、言い方を変えるなら前より分かりやすくないと駄目だろ。
つうか言い方変えても今度は「潜性」って言い方がまるでサブマリン特許みたいなトラップに聞こえるじゃないか。
まあ実際そうなのかも知れないけどな。
癌やハゲになりやすい血なんて子供に遺伝させたくないのに、本人達も気づいてなくて隔世遺伝しましたなんてまさにトラップだよな。
でも、お前らはそういった遺伝子に対するイメージを払拭したいんだろ?
じゃあ言い方の変え方が駄目じゃん。
なんでそうしないんだよ。
どうせ「漢字が沢山ならんでないとかっこ悪いよ><」みたいなジジイのつまらんカタカナアレルギーとかなんだろ?
ばっかみてえ。
馬鹿すぎる。
そもそも考えてみれば悪魔の証明とは二値(真偽)命題の特殊な例に過ぎない
たとえば「生きている」は「死んでいない」ともいえる。
「死んでいる」は「生きていない」ともいえる。
ある人間に関して、生きているかどうかという証明は、死んでいるかどうかという証明でもある。
かりに否定文を主張する人が負うべきと考えてみても「死んでいない」と主張する人間が負うべきとも「生きていない」と主張する人間が負うべきともいえてしまう。
翻って「全くないかどうか」という話はそもそも「あるかないか」という話ともいえる。
悪魔の証明はなぜか根本的には真偽命題という構造が同じもののなかで、存在論に関する命題だけを特別視し「あると主張する方が証明せよ」ということにしている。
前の例になぞらえれば、「ある」は「存在しないわけではない」と否定文にもできる
「ない」は、「全く存在しないという認識は事実に反する」「反さない」とこれもまた肯定文と否定文と自由に行き来できる形式に置き換えられる。
悪魔の証明は一見(なぜか存在非存在に関する命題に限って)肯定文を主張する側が証明せよという約束事に見えて、実はそこには一貫性がないのだ。
上のことを踏まえて、なんで悪魔の証明を詭弁とすることが都合のいい弾圧じゃなく合理的なものなのか説明することは可能か。
悪魔の証明っていうのは対立側が存在しないということが証明できなければ自分たちの存在するという主張を真とすること
俺がやってるのは存在しないということが証明できなければ、わからないということにすべきだと言ってるだけのこと。
俺は存在するということが証明できない人間にも、わからないということにすべきだというだけなので、俺の発言の動機に自分にとっての都合のよさとか党派性はない。公正な態度で議論しているに過ぎない。
悪魔の証明を否定する人間には悪魔の証明をしてくる側が正しい証明をできなれば存在しないということを真とするという人が往々にしている点で自分達が嫌悪してる人間と同じ穴の狢なんだよね。
わからないことをわからないということにできない時点で、悪魔の証明を用いる人間も、用いて来た側の主張を無効にするような人間も学問にはそぐわないんじゃないかなって思える。
自分なりに悪魔の証明について考えてみて、やっぱり悪魔の証明を詭弁に組み込むことには合理性がないように思えるのでした。それを詭弁とする方が結局学問の妨げになるんじゃないかという科学哲学的な意見をここに残しておく。
今でこそ確かに悪魔の証明は学問でも唾棄されているようだけどね。
学者自身も別に哲学やってるわけじゃないから悪魔の証明というものについて深く考えてみた人は少ないからこの現状なんじゃないか。
悪魔の証明を悪しきものとする考え方は結局、どちらかといえば誤まった事実を認識を横行させる方向に強く働くのではないのか。これを詭弁としないほうがましになるかもしれない。