はてなキーワード: 同窓とは
http://anond.hatelabo.jp/20160107125638
いわゆる「一応旧帝」の部類の大学であり、「どこかしらの旧帝に入りたい」とでも思うのか、
そうなると新歓だとか授業だとかで首都圏出身の人間に出くわしたときに高確率で「どこの高校の出身?」と聞かれる。
「どこ出身?」の延長上の質問なんだろうが、これが本当によく聞かれる。
そしてこの質問をされるたびに「また同じ会話をしなくてはいけないのか・・・」と多少面倒な気分になる。
増田の出身は非進学校、良妻賢母系のかなり偏差値が低い女子校の出身。
そしてこの高校、特に部活に力を入れているわけでもなく知名度もかなり低い。ついでに進学実績もよろしくない。
高校の時でさえ、他校の友達に高校名を言ってもほぼ通じなかった。案の定、大学でも通じず毎回毎回微妙な空気になるのだ。
増田は思う。「首都圏に高校なんてごまんとあるんだから、こうして高校名を聞いて気まずくなるくらいなら聞かない方がよくね?」、と。
だが、大学生活で周囲のやり取りを見ているうちに、他の首都圏出身者は自分と事情が違うことに気付いた。
「どこの高校出身?」「○○です」「ああ、あいつと一緒だ。たしか××にあるんだっけ?」
どうやら、首都圏から地方旧帝に行く人間の出身高校はほぼ固定化されているようなのだ。
「一応旧帝なんだから」と高校教師に勧められ、一人暮らしもしてみたいし行ってみるか、とかそういうノリなのだろう。
そして、東大だとか京大だとかにコンスタントに合格者を送り込むような有名進学校出身の人らは同じような進学校の名前を認識しているらしいことにも気が付いた。
「こいつの高校に落ちた人間がうちの高校にくるんだよなー」とか。「うちの高校では」じゃなくて「○○ではこうだったんだよ」とか。正直訳がわからん。
偏差値60超の高校出身の人間と偏差値40ちょいの高校出身の人間が同じ教室にいるという超ロックなことに気付く。
一応高2で高校の履修内容はほぼ終えていたが、同級生の進学先はよくてMARCH。早慶や首都圏中堅国公立は毎年出るけども人数がかなり少なく別格扱い。
東大なんて数年前に一人出たような気がするなとかそういう感じ。増田が現役でこの大学に受かったのも高校で軽く騒ぎになった。
おそらくあと数年は高校で後輩たちに語り継がれ、教師らの茶飲み話となるだろう。
首都圏の中堅の国公立に進んだ同窓の人間も少し科目を足してうちを受けばそれこそ余裕で受かってたのだろうけど、
そこは女子校ゆえか、推測するにそれを勧めるような高校教師も親も少ないようだった。
そして増田は前述の通り「とりあえず旧帝」の考えだったので今現在に至る。
このことを大学で知り合った人間に話すとまたコメントに困られたり、「増田は努力したんだね」と言われる。
「別に世の中の高校全部が進学校じゃないし。」と言いたいのをぐっと堪えて、
(向こうは自分らの方がトクベツだってことに気付いていないんだ)と適当に流している。
こうした話題になると高校でも大学でも身の置き場がないな、と内心苦笑しつつ、
増田はなんとなく落ち着かない気分になる。
高校の受験のときに頑張らなかったせいだ、と自省するべきなのか、
どっちが正しいのか、どういう態度を取ればいいのかがわからず毎回困惑して挙動不審な対応をしている自分だが、
その裏では自分は誰とも違うトクベツなんだとうぬぼれているのではないだろうか。
そんなことを考えながら食事を突きつつも、早くこの流れが終わらないかなと会話を聞いている。
エセ経営者なんだろうが
(そうじゃないならこんな奴の下で働いてる奴かわいそすぎる。。。)
それ、最低限だろ。
それにお前いくつだよ!?
少なくとも40とかだよな?30とかの長若社長で20代の社長を「若い」って呼んでるのか?
おやじになっても他に何もないの?
必要十分条件、っていうのを、「言葉としての意味で」というのであればそりゃ正しいだろ。
「成功するまで続ける」ってのはそのまま「成功する」を意味するんだから。
そこを間違ってる。
そしてそこが一番重要なのを隠してる。
これがよくある最低最悪の詭弁。
バカなのか?そんなのが在るならいくらでも起業していくらでも簡単に儲けられるわ。
そしてもう1つが、「独占・寡占が可能な事業をやる」こと。
これも。
バカなのか?
それで金になるなら誰でも簡単に金持ちだわ。
そういう事業ですら散々失敗した人間が居ることも理解できないのか?アホなのか?
これは大学の同級生とかでもそうなんだけど、大学卒業後1年目はだいたいどこの組織に就職したやつもペーペーなのが、卒業10年後・20年後・30年後と時間が経てばたつほど皆偉くなって、極端な例だと大企業のトップと官公庁のトップと○○大臣が大学からの知り合い、とかなるわけですよ。
あのさ?例えば東大の同窓生ならトップになる可能性あるわな?アホか?
んで、偉い物同士、知り合い、とか言ってるのが学生時代一度も話したことのない様なただの同窓生、ってこともいくらでもあんだわ。
地方公立学校からの知り合い、とかなら別だが、それ以外はただのエリートコースに親の力で入れてもらってそこでコネも作ってるってか?
クソだな。
なので、1つ1つの「偉くない人」「自分とタメor目下の人」との取引/人間関係で、横柄な態度を取らない、裏切る/嘘をつくような行動をとらない、ということの積み重ねが長いタイムスパンで見たときに本当に重要。
お前が「目下でも」とか「偉くなくても」とか言ってるのは、
それ以外は「将来性がないから早く切るべき人間」とか言って切り捨ててるだろ?
あほか。
両足を180°開き、胸板をペタリと床につけられるのだ。
思春期。当然仲間うちでは、
と囁かれていた。
しかし誰も彼に「お前セルフフェラできるよな?」とは尋ねられない。若気が至っていても、精子脳でも、女子にパンツの色を聞く助兵衛でも聞けない。
180°床ぺたセルフフェラ君は、超がつくほどの真面目青年だったからだ。
高校受験時は渋幕のA推薦と開成に合格し、のちに東大へ進学する。あぁ、これ特定されるかも分からん。
そんな新体操セルフフェラ君は下ネタなど言わない。周りも変な気を遣って、エッチな話は避けていた。
本当にセルフフェラができるのか、できるとしたらどんな気持ちなのか、中坊の頃に聞いておくべきであった。
もし尋ねていたら、人間関係に多少の軋轢は生まれたかもしれない。
しかし大人になった今、「ねぇねぇセルフフェラできるのぉ?」と聞くよりかは数段マシというか、そんな質問できねぇよ。
どうせ刺すなら、高収入高待遇の仕事に就いている、家庭を持って幸せそうな男性なのでは?
この本では「社会的流動性は低い」と書かれているが、それを私も肌身に感じている。
社会に対する影響力を持っている人間は、学生時代から高学歴者のネットワークを持っており、
社会人になっても紹介によってネットワークを広げ、快適に暮らしている。
そのコミュニティから「家庭も仕事も無い孤独で貧しい男性」の存在は見えていないため、
社会保障によって救わねばという発想も出てこない。
そうした男性が動かない限り世の中は変わらず、弱者男性は孤独で貧しいままだ。
「家庭を持って幸せそうな女性」のような社会的影響力・実権を持たない人を刺しても、どうしようもないと思う。
友達だとか同窓生くらいの繋がりがある男性が「弱者男性からのねたみ」を理由に刺されたのであれば、
ガラッと風潮は変わると思う。世の中そんなものじゃないかな。
32歳女です。
結婚披露宴も人によってはそうだけど、「平日夕方以降から始める」というスケジュールについていけない。
土日だとなおさらついていけない。
現実、保育園は20時でおしまいで日曜はやってないし、土曜日は家事で忙しいし、
クラス会に出席している人は未婚がほとんどで、他の既婚同窓生もやはり出席していない模様。
詳細は書かないけど、トラブルメーカーが毎回出席している。
関わりたくない。
出身地が遠いため、一番最初に書いたような無理のある予定で「よろしく!」とか言われると断るという選択肢しかない。
みんなバラバラの国や地域、国内でもバラバラに住んでいることがわかっていて、誰もやろうとしない。
以上。
岡山県倉敷市の女児(11)が監禁され、5日後に保護された事件で、逮捕された岡山市北区の無職藤原武容疑者(49)は、大学院で哲学を学び、研究者を志した寡黙な青年だった。監禁容疑での逮捕から26日で1週間。県警は未成年者略取容疑での立件に向けて、事件の全容解明を進める。
「カントを愛している」
約20年前、大阪大学大学院の博士課程で倫理学を専攻していた藤原容疑者は、研究室の宴席で同窓生にこう打ち明けた。寡黙で勉強熱心。青春時代の藤原容疑者を知る人たちの印象は似通う。交友関係は少なく、存在感は薄かった。
地元の私立高校を出て、一浪して法政大学に進学。その後、ドイツの哲学者カントに心酔し、大学院の研究室で研究者を志した。
だが、学問の壁に突き当たる。学友が順調に助手や教職に就き始める中、1人だけ就職先が見つからなかった。ある同窓生は「進路が決まらず焦っていた。気まずかったのか、周りに気づかれないように単位取得退学した」と話す。1995年ごろのことだ。
大学院を退学した後は、家庭教師などの職を転々としていたようだ。96年~99年ごろは、大阪府内の公立中学校で夜間に校内を見回る宿直員として働き、宿直室で寝泊まりしていた。
同じ時期に勤務した男性教諭は「岩波書店の難しそうな本を黙々と読んでいた。無口だが愛想がよく、先生や生徒とあいさつを交わしていた」と話す。休日の電話番を引き受け、部活動の早朝練習に来る生徒のために、早起きして校門を開けていたという。
親族らによると、藤原容疑者は30歳のころに結婚したが、すぐに離婚した。今年初めごろまでの約10年間は、兵庫県西宮市に住んでいたという。築32年の4階建てアパート。家賃3万円の1階6畳一間。コインランドリーで洗濯する藤原容疑者を、複数の住民が見ていた。ある住民は「平日の昼過ぎで、仕事をしていない人だと思った」と話す。
暮らしぶりには不明な点が多く、岡山市の実家に戻ってからも人付き合いはほとんどなかった。ただ、洋室のリフォーム代や母親の介護費用などは工面できていたようだ。逮捕後に名乗った職業はイラストレーター。小学生くらいの女の子を描いたA4サイズの絵を見せられた人もいる。
自慢に読めたんならすまんかったわ。
「この子は素質がある!塾とか進学校に通わせて勉強させましょう!」って考えなくても、環境整えておくと勝手に学んで行くようになるかもよ、ってことを自分を例にして言いたかったんだ。
もちろん、他の増田が言ってるように、遺伝的な幸運というのはあるだろう。同じ環境に置いても個体差は大きいだろうからね。だが素質の方は後からどうにかできるもんじゃないし。環境整えても勝手に勉強するようにならなかったら、向いてなかったってことで。
塾や進学校に行かせることを否定してるわけでもないよ。それが向いてる人だっているだろうし。塾や進学校も環境の一部と考えることもできるし。東大同窓生でも多くはそういうパスで、でもそんな履歴の差異なんて本郷進学する頃には意味なくなってるし。
ただ、個人的に、親からも期待されてすげーがんばって、入ってからなんか目標見失ったみたいになっちゃって大学来なくなった同期もいたからさ。そういうふうになってほしくないなって思ったのさ。
比較的みんな仲がよく出席率も高かったのだが
ある回の時普段出席しない同窓生のAくんが珍しく出席するとい言い出した。
基本誰でもウエルカムなのでみんなで喜んで迎え入れたのだが
なぜ急に出席したいと言いだしたかというと
ただ自分たちのクラスメンバーは人の職業とか全く興味が無い上に
手に職つけて金持ちになるとか言い出して専門へ行ったするようなチョット変わった人間が多く
Aくんが一生懸命自慢話をするのに誰も相手にせず
むしろAくんの学生時代のアルバイトの話や恋愛の話にばっか食いついてしまい
今思うともっと自慢に付きやってやればよかったのかなあとふと思い出した。
そりゃあ、戦う場所を間違えてるからだろ。東大卒だろうがハーバード卒だろうが、どんなゲームでも勝てる万能属性なんてないんだから、その属性を使いたけりゃ、そういうゲームを自力で選ばないと。そういうゲームを選べなかったなら、潔く使えない属性は無いものとして諦めろ。
同窓のよしみで先輩面させてもらうと、「東大行った」属性で有利に戦える場所ってかなり限られてるぞ。専門能力系の業界はそういうのゴロゴロしてて実力勝負だし、一般系だと逆に珍獣扱いだ。早いうちに出身大学属性を使わなくてもいいような、自分ならではの属性を身につけろ。俺は東大行って良かったと思ってるが、それは大学の名前じゃなく、そこでやった中身が確かに役に立ってるからだ。(うわ、なんか意識高い系のアドバイスみたいになっちゃった。でも東大生ならその看板を厄介と思ったことはあるだろう。早いとこそれを脱却した方が楽になるぞ。)
こういうのって、「ほら、羨ましいだろ?」というカウンターとして書いてるんだろうけど、これが羨ましいと全く思えない。
日々低収入のしょうもない仕事と家族のこと以外何もしてなくて、どんどんどんどん頭が悪くなっていきそう。
それで幸せなのか?家族の代わりになんの進歩も無いどころか退化しきった自分が残って。
なんの進歩もない自分を抱えて旅行とかしても何も楽しいと思えない。
「子育てを通じて親も成長するんだ!」とかいう話ではない。それは単にあるものだけで幸福を感じるように価値観がチューニングされるだけだろう。
田舎に就職して家族を持った同窓生にたまに会うと、その進歩の無さに背筋が凍るんだ。
俺が本当に羨ましいと思うようなケースを見せてくれマジで。
あることがきっかけでこいつが大学時代の知人であることがわかった。
上手く隠してやってるつもりなのだろうけど、綻びが出たのだろう。
やたらと上から目線のツイートが目立つので、こいつが今何やってるのか共通の知り合いに聞いてみた。
驚いたことに、卒業後オーストラリアに留学、帰国後は就職もせず、医学部を目指して受験勉強をしているというのだ。
ICUを卒業して、30半ばにもなろうというのに一度も就職もせず親のスネをかじり続けて医学部受験。
本人がうるさいので知り合いも表面上は応援していることにしているみたい。
リアルの自分に向きあうのがつらいのか、ツイッターでは無職やアニオタを馬鹿にしたり、
英語教育や医学について語り、ブラック企業や日本社会を偉そうに批判する。
なんか哀れでしょうがない。
https://twitter.com/riverwood23/status/435451990584221696
ツイッターやってる暇があるなら働けばいいのに。英語力だけはあるみたいなんだから。
同窓生として恥ずかしいよ。
あることがきっかけでこいつが大学時代の知人であることがわかった。
上手く隠してやってるつもりなのだろうけど、綻びが出たのだろう。
やたらと上から目線のツイートが目立つので、こいつが今何やってるのか共通の知り合いに聞いてみた。
驚いたことに、卒業後オーストラリアに留学、帰国後は就職もせず、医学部を目指して受験勉強をしているというのだ。
ICUを卒業して、30半ばにもなろうというのに一度も就職もせず親のスネをかじり続けて医学部受験。
本人がうるさいので知り合いも表面上は応援していることにしているみたい。
リアルの自分に向きあうのがつらいのか、ツイッターでは無職やアニオタを馬鹿にしたり、
英語教育や医学について語り、ブラック企業や日本社会を偉そうに批判する。
なんか哀れでしょうがない。
https://twitter.com/riverwood23/status/435451990584221696
ツイッターやってる暇があるなら働けばいいのに。英語力だけはあるみたいなんだから。
同窓生として恥ずかしいよ。
全くその通りで『芸術業界』って本当にヒドくてどうしようもないんだぜ。
今頃奴らは、芸術関連の役所仕事がバラ巻かれる東京五輪特需をいかにして身内で分配するかとワクワクしてるよ。
同窓業界人同士互助会みたいにして、お互いに推薦しあって奨学金貰って留学したり、税金使う仕事融通したり、専門学校(学校自体は厳しいしいい学校なんだけど)レベルでもこんななんだから、芸大とかどんだけ大掛かりにやってんだろう?と思うと、怒りを通り越して笑っちゃうね。
昔、技術が低いって意味じゃなくて内容が幼稚で有名になった動画の作者とかも、奨学金で留学してるらしいよ。もう年寄りなんだから、若い子に行かせりゃいいじゃん。『芸術業界』ってこんな話ばっかりよ。
米Apple社が消費者に3250万ドルを返金するという( http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA0E07U20140115 )。
このカネは「App Storeで子供が親の承認を得ずに購入し」た分のものらしい。
Appleにとっては痛くも痒くもない返金額だが、ここまでする必要があるのだろうか?
子供はそこまで未熟だろうか? 少しばかり子供を馬鹿にしすぎではないか?
しかし、お店に並んでいる商品をお金を払わずに持ち帰ってはいけないことくらいは理解していた。
通販カタログのマークシート式注文書を塗りつぶして商品を勝手に注文したり、クレジットカード番号を盗み見て何か買うようなこともなかった。
高校時代、「オヤジ名義で口座を作って馬券を買っていた」とんでもない同窓がいたが、カネにまつわる子の不始末と言えば自他含めてこの程度である。
カネの正しい使い方を教えれば済む問題である。
というより、カネの使い方が分からなければ、ネットだろうがリアルだろうが手酷い目に遭う。
ペアレンタルコントロールのように、いくらシステム上で保護しても、オツムがアレならカネは翼を生やして飛んで行く。
ちなみに、前述の馬券同輩は今、銀行マンとして真面目に働いている。
台湾人女性の「甜美味」をあなたは知る機会があったら、もう一度同じ記事をあなたは書くだろうと予言してみる。
キティちゃんで部屋を埋め尽くすし、
もちろん同窓の披露宴パーティにロリロリ系ピンクピンクのドレスにアクセサリー、バッグで揃える。
え、何人見たかって?
驚くべきことに20人くらいそうだったんだよ…
そして、そうでないタイプの女性は薄め赤色のドレス、エナメル白×ピンクのアクセサリーにバッグが多かった。
(中華圏では結婚式披露宴にお客として行く時、白と黒の組み合わせは禁忌!葬式スタイルと言われてしまう)
強烈な人はどこにでもいる。
http://anond.hatelabo.jp/20130923225019
昨晩の年賀状子供写真時期論争だが、自分の記憶では、80年代じゃなく90年代にようやっと普及した気がする。
これは私見だが、80年代に写真入り年賀状が普及しなかったのは、「ハガキ写真印刷が高価だった」という費用面の制約もあるが、
それ以上に、80年代には「年賀状で子供自慢するのは、ハシタない」という保守的な文化が、まだ世間に残ってたからではないか?
当時はまだ、自分の子供を「愚息」とか「豚児」とへりくだるのが通常だった。
そういう「謙譲の美徳」を日本人が忘れた頃と、年賀状に子供写真掲載時期はシンクロしてる気がする。
さらにいえば、「年賀状を作るのが、旦那か?奥さんか?」という点も重要。
80年代は、まだまだ亭主の方が年賀状作りの主導権を握っていて、「会社の上司や同僚に子供写真送るなんて、こっ恥ずかしい」的感覚があったと思う。
それが90年代に入り、奥さんの権力が強まり、「そんなハシタナイ真似は止めろ」のダンナの声を無視して、
子供写真年賀状の大量印刷が始まる・・・てな仮説は、考えられないか?
そもそも、70年代80年代だと、専業主婦が多かったり、奥さんの学歴も高卒や短大止まりが多かったりして、
それが90年代になると、奥さんも共働きになったり、奥さんが大卒になって同窓人脈が増えたりして、
「年賀状の半分は、奥さん人脈」となっていく。
学生時代、一緒に切磋琢磨するサークルの友人、先輩後輩はいたが、自分は誰かにとっていなくてはならない存在ではないことに気がついた。
最後の飲み会でも、自分も参加はしていたし、酒を呑み交わして語らいあってもいたが、この場に自分はいなかったとしても同窓や後輩たちは少し心配するだけで、きっと同じように楽しめていたのだろうと、一歩引いて考えてしまった。
逆に自分がいないと盛り上がらないとか、自分がいないことで場が成り立たなくなってしまうほどの存在だったらと考えると、それも迷惑を掛けてしまうので、不要でよかったと思う。
社会人になって、学生時代から付き合っていた彼女と仕事の関係で遠距離になり、段々と付き合う意味が消えていき苦しんでいく彼女を見ているのに耐えられなくなって、仕事を捨てて彼女を取るというドラマのようなかっこいいことも出来ず、別れを切り出した。彼女は彼女を選ばなかったことに対する落胆か、遠距離の孤独に理解を示したことに対する安堵か、どちらが強かったかあるいは等しかったのかは分からないけれど、ごめんなさい、ありがとうと言って別れを受け入れた。
彼女にとってお互いに最も必要な存在にはなれなかったけれど、そうなってくれる別の相手を見つけてくれたら、悔しくはあるが、嬉しくもある。大事な存在には幸せになっていてほしい。自分が幸せにしてあげられなかった代わりに、そう願う。
更に月日は経って、別の相手と付き合うことになり、結婚して子供もできた。この新しい家族のために頑張ろうと思っていたが、ちょっとした不信からお互いを尊重して認め合いながら生活を共にするという環境が保てなくなり、子供の生活を考えて我慢することも考慮したが、笑顔の無い家庭に育つ子供も不幸であろうと思い、離婚に至った。(笑顔を作る仮面夫婦になるという選択肢もあったろうが、僕はそこまで器用でも心が強くもなかった。)
まだ子供も小さいので、もし早いうちに新しい父親が現れて、せめて母子ともに幸せになってくれれば、と思う。これについては、たかだか養育費を払っているだけの分際で父親の役目も果たさず何を偉そうに、と自分でも思っている。ただ、幸せを願っていることだけは言いたかった。
また独り身になり、上記のような経験や責任を抱えながらも、未だに心を許せ合えそうな人と友人になろうとしたり、告白をしてより近い存在になることを試みたりしている。しかしこの歳になると最も心を許せる相手となことは容易いことではなく(既にそのような友人が別にいることが殆ど)、告白も失敗する。そのような失敗の経験、あるいは必要とはされていないと気づく瞬間を経る度に、また必要な存在にはなれなかった、または必要とされる期間が終わった、と周りがすうっと一歩遠くなる感覚に襲われる。
これだけを聞くと必要な存在となるべく十分な努力ができなかった男の言い訳にしか聞こえないかもしれない。ただ、自分が必要ではないことが必ずしも悪いことではなく、例えば自分が離れたサークル・コミュニティで後輩たちがめいめい活躍して盛り上げていたり、自分の部署の部下がすっかり成長して自分が不在でもしっかり仕事を回しているのを見ると、少なくとも自分の働きで組織を壊してはいなかった、迷惑を掛けていなかったと、安心する。
かつて家族を作りかけることができたように、必要とされ合える存在をまたいずれ持つことができたらきっと安心するだろう。
ただ、もしもうそのような機会が得られなかったとしても、今まで接した家族、友人、先輩後輩、同僚や部下、全ての人たちが必要な存在と共にいられて、心の安息を得てくれることを願ってやまない。自分が幸せになれない分、皆が幸せになってくれなければ、自分はただ不幸なだけで救われない。
心の安息は得たいが、他人の幸せを願えなくなるような鈍感にはなりたくない。日々揺れながら生きている。今のところは、とりあえず、いなくてもいい存在である自分自身を、こうして自分なりに受け入れてやりたい。
どうか幸せでいてください。私は幸せではなくとも、あなたは幸せでいてください。
蛇足になることを恐れつつも。
批判や肯定や慰めのコメント、ありがとうございます。どなたかが言われていたように、現実世界で言われたらイラっとする系の吐露だったので増田に書きました。
基本的には前を向いて生きています。必要とされるよう努力をし、いろんな感情だったり困難な仕事だったりと付き合う/乗り越えるために友人/恋人を必要とし、自分なりには助け合って生きています。
友人とバカ話をして笑い合うこともあります。ただたまに、時節と心情の揺れの組み合わせが悪く、かつ自分の(きっと主に自分が傷つかないために)自省する性格も災いしてこの文章のような諦めの気持ちが強くなることがあります。苦しかったので、誰かに何かを言ってもらいたく、書いてしまいました。ですので、これだけコメントがあったことがとても嬉しく、どの種のコメントでも正直に気持ちを伝えてくださっているものはとても心に響きました。ありがとうございます。
もし同じように八方が塞がったような心情の人がいたら、自分にも同じ気持ちはあると、励ましてやりたいと思います。皆さんもぜひそうしてあげてください。
上京組が、地元で暮らす中学時代の同窓に奇異の眼差しを向ける話、よく聞く。
食傷気味というか、手垢に塗れたトピックだけど、とりあえず思うところを書いてみる。
地方の進学校卒業して、そこそこの大学出た人間から見たら、底辺校に入ったような同級は異常に見える。
マークⅡ乗って平日日中にふらふらしてるような怪しい人の使い走りしてる奴とか、“おいしい商売"を紹介してくれる奴とか、ナマポでパチンコしてるバツイチとか。
こういう人間たち、本当にクズだと思うけど、彼らが極悪人だとは思わない。
学校の勉強ができなかったとか、親がバカだったとか、地頭が悪いとか、そういうほんの些細な、本人にはどうすることもできない環境依存的なことでゴミクズになってしまったのだと思う。
「怠け者だから途上国の人々は貧困にあえいでいるわけはない」みたいなプロ市民的言説に聞こえるかもしれない。ただ、程度に差はあれ、世界にこういう構造はある。
もし自分がスクールカーストの最底辺だったら、DVを受けて育ったら。誰かの立場になる想像力を働かすことができれば、真性クズが条件付きクズに見えてくるはず。