はてなキーワード: 信仰心とは
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上の記事は、海外で「あなたはどの宗教を信仰しているの?」という質問に下手に「私はなんの宗教も信仰していません(=無宗教です)」と答えるのはやばいよ、という内容で、無宗教者だというのがNGな理由として、
>宗教は精神を支えるいわば「背骨」のようなもの。このため、何も信じるものがない人のことを、「得体の知れない軟体動物」のように感じてしまうようです。
>また、信仰心の厚い人たちは、その信仰心ゆえに行動が自制され、倫理的・道徳的に問題のある行動を回避するため、「無宗教?この人の自制心や倫理観は大丈夫なのだろうか?」と不安に感じてしまう部分もあるようです。
>宗教に関する話題はセンシティブな面もあるので、「無宗教」と答えるのが無難と思う方もいるかもしれません。しかしながら、単に「無宗教」「神は信じない」と答えたのでは、「信じるものがない空っぽの人」「倫理観が欠如している可能性のある人」と、相手にマイナスの印象を与えてしまう可能性がありますので、注意が必要です。
と書かれていたけど、これだけじゃないと思うんだよね。
昔ちょっと海外に住んでたことがあったんだけど、向こうの“無宗教者”と名乗っている方々(の多く)は本当に徹底してる。
ガチで「神の存在さえ一切信じてません」って感じ。クリスマスをお祝いしない(人もいる)し、宗教的施設でお祈りなんてしない。
でも、日本人には無宗教というわりにクリスマスもお祝いするし(商業的イベントなので笑)、お寺や神社にお参りする人が多いじゃん?
それって結局、積極的信仰者ではないにしろ、消極的信仰者なんだよね。無宗教者とは厳密に違う。だから、下手に無宗教ですと言っちゃうと、クリスマスパーティーに誘ってもらえなかったりするときもある(笑)
同記事内で答え方の例として、
> “I’m not a deeply religious person, but…”
と前置きした上で、次のように答えればよいのです。
“I practice both Shintoism and Buddhism.”
とあったけど、私はいつも「よくわかりません。でも、祖母は仏教徒です」みたいな答え方をしていた。もしくは、「神様の存在は信じています」とか。
夏になると墓参りに連れていかれる。父方の祖父への墓参りを強いられている。
私は祖父が好きではなかった。たばこを好むし、朝から酒を飲むし、人を非難して笑うのが癖だった。後から聞いたけど、不倫もしていたようだ。
父は「父(私の祖父)から愛情を貰った記憶がない、だから子どもの愛し方が分からない」と言っている。
墓参りとは「宗教の様式を通して、亡くなった人を思うこと」だろう。
今回の場合、亡くなった人を思っても嫌な記憶しかない。そもそも顔を会わした回数も少ない。意味があるのだろうか。不愉快だ。
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これとは関係ないが、墓参りをしなくても本当に愛すべき人が亡くなったら「亡くなった人を思う」はずだ。
みかんの薄皮があまりにあっけなく溶けるのを見て、ふと重曹水で頭を洗うことにしてみた。増田、恥ずかしながらややふけ症なのである。
さて、実際にやってみると、理屈はわからないが湯ですすぐよりは汚れの落ちがいいような気がする。尾籠な話で恐縮だが、湯船につかって頭に重曹水を振りまくと、時に米のとぎ汁の如き水がしたたり落ちるのだ。そして、その状態から普通の湯ですすぐと、今度は何かが固まったような感覚があり、それは普通にシャンプーを使って頭を洗うと溶け落ちる。
無論、何らかの理論があるわけでもないし(アルカリが何かと反応して鹸化するのではないかといういい加減な仮説はあるが)あくまで体感に過ぎぬ。そして肝心なことは、数値化された改善度というものもないのである。ある意味ですべては気のせいだ。ただし、善悪なり全くの無害なりはわからないせよ、何かが起きている実感はある。
この状態は我流で辿り着いて理屈も効果も不明である、という事は一点の疑念もない。
しかし、これが何らかのインチキ療法の類で、藁にも縋る思いで始めた儀式だったらどうだろう。
効き目は不明だが、始めれば確かに多少の実感がある。その先改善が待っているのだ、快癒は近い、悪化していると見えるのは好転反応でやがて反転してよくなるのだ、と吹き込まれてしまえば、信じてしまうこともあり得べし、と得心が行った。なにせ変わった実感だけはしっかりとあるのである。それを上手く型をはめてしまえば、信仰心を獲得することはたやすそうだ。成程、この手の商売が尽きぬわけである。
まあしかし、とりあえずは1袋買ってしまった(900グラム入りらしい)重曹尽きるまで、この意味がないかもしれない、下手をすれば逆効果かもしれない儀式を繰り返さなければならないのである。
ラジオって、番組の合間に交通情報が入るんだけど、ちょっと気になったんだよ。
っていうアナウンスが入って、一瞬何のことか分からなかったんだけど、「あー、PLの花火大会ね」って気付いた訳なんだ。だけどそこで考えちゃったんだよね。
PLの花火大会は、大阪の者にしてみれば夏の恒例イベントで、良い意味では花火を見れる、悪い意味では交通渋滞や電車の混雑が起こるっていう程度のことは考えるけど、別に宗教行事とは思ってないんだよ。もちろん、PL教団からしてみれば、大事な宗教行事なんだろうけど。
でもニュースではわざわざ、PLっていう言葉を使わず、地名だけで伝えるってどういうことなんだろう?
なんで天神祭りは「天神」とか「大阪天満宮」とかの固有名詞がニュースでもバンバン使われてTV中継までされるのに、PLの花火大会は、中継が無いのはまだしも、交通情報のニュースですらも誰もが知ってる固有名詞を避けて、逆に解りにくくしちゃうの?
PL教団が宗教団体であるのと同じように、大阪天満宮だって宗教団体だってこと、無視してない?
天神祭りは伝統行事だから良くて、PLの花火は伝統行事とは言えないから?
別にPL教団の者でも無いし、教義も何にも知らないけど、PLって百年くらい続いてるんでしょ?
そりゃあ、昨日今日にできたような団体ならいざ知らず、百年続いてる教団の恒例行事で名前を伏せるメリットが全く分からない。地名と日程だけで言われたら、よく知ってる人でも考えこんじゃう。
日本の報道に、「宗教団体」ってものを同列に扱うっていう意識は無いのかな?
PLも宗教団体なら、大阪天満宮も宗教団体だし、全国どこのお寺も神社も全部、一つ一つが宗教法人格を持ってる。
そこに差ってある?
あるとしたら、年数程度しか考えられないんだけど、じゃあ、何年続けば良い訳?
誰もが自由な信仰心を持っていいはずなのに、それを否定する土壌を作ってない?
個人的には、神社やお寺は観光がてらに参拝するのは好きな方だし、良いなぁって素直に思うんだ。
けど、こういう差別してるから、神社本庁とか日本会議とかが調子に乗っちゃうんじゃないかとも、そんなことまで考えてしまった。
統計学って凶悪犯罪と死刑の関係を明らかにできる学問なの?統計学上では関連性がないとわかったってことではなくて?凶悪犯罪を起こす人が、死刑をどう認識しているのかそれが犯罪行動にどう影響を与えるのかみたいな犯罪心理学的な証明がなくても統計学で完結できるもの?
凶悪犯罪を起こさないようにっていうのが啓蒙として効果があるんならそれでも全然良し。けど、宗教なんかでもそうだけど、死や地獄に落ちるっていうのが信仰心や人の行動に大きな影響与えてるじゃない。それと一緒で、死を有効に使った方が断然効果がありそうだと思えて仕方ないんだよなぁ。
昨今「批判」の是非について諸々話題になっているようだけれど、
正直、「批判」や「議論」という大義名分に驕って、単なる攻撃を正当化している「エセ批判」が蔓延しているイメージはある。
それが顕著なのが(これらを同列に扱って良いものか正直悩むけど)政治やゲハ(ゲームハード)の話題。
「自分は論理的正当性に立脚しているが、相手は盲目的な信仰心に立脚しているだけ」
と互いに互いを認識しており、自分と意見が異なる相手を「信者」「キ○ガイ」などと平然と罵っている光景を目にすることが多い。
二言目には「いや、だってあっちの方が酷いから(自分の罵倒はそう問題じゃない)」。
「政治に無関心な人が多い」なんて言葉は政治に熱心な人からしばしば耳にするけれど、
私の周囲には「政治に無関心」というより「政治に熱心な人と関わりたくない」という人の方が多かったんじゃないかと思う。
というのも、政治に熱心な人は「その人の信仰する思想以外には攻撃的な“信者”」である“確率”が高いから。
勿論それらは単なるノイジーマイノリティーだとは思うのだけれど、表に露出するのはそういう人ばかりだから尚更そういう心象が強くなってしまう。
それ故に、「政治離れ」の原因は「政治に熱心な人」にドン引きしているから…ってケースは割とあると思う。
それが神であれ思想であれ、信じる(疑わない)のが宗教で疑うのが哲学。
理屈と膏薬はどこへでもつくけれど、それは信仰も例外ではなく、理屈が伴うことはなんら自身の思想の正当性を保障しない。
アメリカの大統領選挙での応酬を見てても思ったけれど、これが現代版の、当事者達には宗教の自覚が伴わない宗教戦争なのかなと思う光景は結構多い。
そして他者への攻撃を「聖戦」と正当化するように、他者への単なる罵倒が「議論」や「批判」と自己正当化されているケースも多いと思う。
孝明天皇のころと天皇に持たせる意味あいが違うからそれは解決になってないような
孝明天皇のころの天皇はシンボル・新政府の旗印でそれ以上の意味はなかった
日本に日々信仰する宗教がないせいで他のイスラム教・キリスト教が流行って他国の影響が色濃く出ると困る
だから神道である天皇教を無意識に植え付けるために「正統な血筋である天皇」えー、つまり元・神の子ですと暗に言っている
これをもってしてカリスマの源泉としたいというのが本音でしょう
祭事を執り行うだけならもう坊さんと大して変わらないでしょう
坊さんにカリスマは出ないよ
ローマ法王くらい選出するプロセスがあるならまだしも直系でなくともいいよってアピールするには
宗教色が強い活動をして母体としての神聖さを演出しておく必要がある
でも今の天皇家にそれができるとは思えないし内部自体がそれに一致団結してない以上不可能だと思う
信仰心じゃなくて血をもってして生まれながらにして神聖なのが天皇だから
ちょっと前までは到底受け入れられない趣味の1つとして数えられていた気がするんだが、最近は無駄に市民権を得ている気がして戸惑っている。
ただ好きなキャラクターがコスプレで冒涜される感じがきつい。そのキャラを敬愛しているほど吐き気を催すし、キャラが好きだからコスプレするという論調には矛盾しか感じない。
ウシジマくんみたいなリアル系を除けば、どんなに容姿が優れてても2次元の劣化版にしかならないのに、それを正当化してコスプレするとき自分達が作品汚してるって意識はないんだろうか?
コスプレする人、見るのを好む人、オカズにする人、商売にする人。みんな揃いも揃って信仰心が足りないか、色んな欲求を持て余し過ぎてはいないか。
『サピエンス全史』を読み進めており、もうそろそろ上下巻読破間近というところにいる。
本書の発端となるのは
「生物としての個体能力の低いわたしたち(ホモ・)サピエンスが生き延びた理由には、
サピエンスには虚構=物語を想像し、その物語を信頼、共有する能力があることにある」
というものだ。
本書の文脈においてこの「虚構」「物語」は「秩序」「神話」と名を変えていく(大まかにはしょって言っている)。
たとえば
宗教が誕生し共有されると、その神の名のもとに人類は冒険、侵略、残虐行為を犯した。
資本主義が誕生すると「消費は善=個人主義」というロマン主義的思想が返り咲くとともに、
それらを後押しするかのごとく神話伝導役として「マスコミ」が発達していった。
などなど(実際には本誌において「帝国主義」および「科学への投資」なども含まれるがはしょる)。
これらは「サピエンスの信じる力」により生まれ発展してきたと筆者は言う。
命を捧げるべき神も、死後の幸福世界が約束されているとする信仰心もなければ、
荒れ狂う未知なる大海原を越えていこうなどとは誰も思わなかっただろう。
少なくとも個々人の生存時間の中で属する社会に浸透している「約束されているであろう物語=神話」が、
カウンターカルチャーを含め支配していることになる。
未知なる明日を考えもしないが故に
「『神話』に約束されているであろう明日」を(如何に情熱狂気的であろうとも)ただ漫然と過ごすのだ。
ここで疑問がひとつ頭をもたげる。
「神話」(だけでなく「虚構」「物語」「秩序」含め)について先述したんだけど、
「神話」すべてが生き残っているわけではないとも考える。
それでは滅び語り継がれなかった「神話」は間違っていたのか?
そうではないだろう。
ただ対抗勢力との兼ね合い(つまりは文化的なものを含めての「侵略」)から朽ちていき、結果語り継がれなかっただけだ。
サピエンスは「生まれた神話を信じ強化すること」ができる能力を持つだけで、
「その神話を最強として遍く伝導すること」をできるわけではない。そんなものは時と場合だ。
するとなんだ、「神話」とは。
まったくただの結果論ではなかろうか。そう結論づけていいのではないか。
ああ『ドグラ・マグラ』は、夢野久作は全く間違っていなかった。
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
先に言っておくと、擁護でも批判でもありません。ずっと昔から考えてきたことが、まとまりそうな気がしたので書いています。
両親は創価大学で出会って結婚した。二人とも朝晩の勤行を欠かさず、会合にも積極的に参加している。聖教新聞と大白蓮華を取っていて、隅から隅まで読む。
私は正式に抜けたわけではないが、勤行はしない。会合の案内のラインが来ればそれなりに対応するが、行くことはない。公明党には入れるときもあれば入れないときもある。仏壇に手をあわせることが年に2、3回はあるが、自分からすることはない。しかし、御本尊を破れと言われたらかなりためらうだろう。お地蔵様を壊せないのと同じだ。
勤行をしない私、会合に行かない私に、両親はとくになにも言わない。選挙の時だけお願いねと言われる。ありがたい、と思っている。
小学生くらいまでは会合にもそれなりに出ていたし、朝晩に三唱くらいはしていた。中学生のころ、御書の説教臭さがいやになったり、ネットの書き込みを見たりして、だんだんと会合に足を向けなくなった。反抗期を利用して三便もしなくなった。今では、抜けた理由を聞かれたら、「方針が合わないので」「公明党と意見が違うので」と言うだろう。
そういう私だ。
頭がパーンとか、そういうたぐいの書き込みを見ると腹がたつ。強引で失礼な勧誘に合ったと聞いたら、申し訳なくて胸がふさぐ。友人が何気なく言い放った「私宗教ぜんぶ嫌いだから!」という言葉に傷つく。両親のことを愛している。学会がなければ私は生まれなかったと思う。新年勤行会のばんざい三唱はクソ食らえだ。「知ってる?誰それさん創価だって」と言われて苦笑いする。同じ創価二世の友達とため息をつく。池田先生がなにをしてくれたって言うんだよ。会合に参加しているのはいい人たちばっかりだ。いったいいつまで、こういう板挟みに苦しまなければならないのだろう。
東日本大震災のとき、その夜、「宮城沖で数百と推定される遺体発見」というニュースを見て、怖くて眠れなくなった。どうしたらいいのかわからなかった。津波の映像がなんども頭をよぎった。数百人、数え切れない量の人が海で死んだ。その一人一人に人生があった、その恐ろしさに震えた。その人たちを悼みたい、その人たちが死んだことを悲しみたいと思った時、布団の中で丸まって「南無妙法蓮華経」と何度も唱えた。それしか悼む方法がなかった。そしてそういう自分にショックを受けた。私は死者を悼む方法をこれしか知らないのだ。信仰心はなくても、方法だけが自分の中に残っている。
いいとこどりをするんだ、と決めた。信仰心はなくてもいい。都合のいいところだけ使えばいい。オリジナルの祈りの言葉、オリジナルの生きることへの姿勢が見つかるまで、意味なんてなくても唱えていい。熱心な信者だった祖母を、これ以外の方法で弔うことができただろうか。両親が死ぬ時、友人葬以外でやりたくない。でも、公明党に投票しなくったっていい。義理なんて感じなくていい。両親を愛していい。でも信仰を拒否していい。勤行はしない。
わたしはもうすぐ大学を卒業して、親元を出る。大丈夫だと思う。
同じようにしている人に大丈夫だよって言ってもらいたくて書いた。早く大丈夫になって、同じようにしたいと思ってる人たちに、大丈夫だよって言いたい。
でも大丈夫じゃないかもしれない。10年後くらいに信者に戻ってるかもしれない。いやだな。大丈夫だって言ってください。
あとこれだけ言いたかったんですけど、池田大作、短歌下手すぎじゃないですか?誰も何も言わないの?
それだけです。
衣食住、交通費、通信費、レッスン代等々、全部会社持ちで小遣い5万円ってことでしょ?
で「憧れの芸能界」でお仕事して、テレビでしか見れなかった憧れのあの人とすれ違うかもしんないし。
高校生だったら、つまらん学校生活おくるより、そっちの方が楽しそうってなるわ。
ま、なんちゅうか、若者の「あこがれ」や「やりがい」でもって人を搾取する「奴隷的労働」っぽいのは確かなんだけど。
でも、あれだよね。
絶対、幸福の科学は映画だの布教用のビデオだのに酷使しまくって、で、それは「真理への奉仕」みたいなこといって、適切な報酬なんざ支払わないよね。
あと「水着の仕事が嫌だ!」ってごねてたらしくって、気持ちはわからんでもないけど、あの手のオーディション受けるってことは、そもそも自分からそういう商品になりにいくってことだからなあ。。。
いつも謎なのは、勉強の内容自体には理由や文脈まで把握することを求めるのに、形式に関しては最終的には盲目に受容しなければならないという理論でカットアウトしてしまう場合がよく見られること。理性的でもないし、勉強させる効力もない態度で終わってしまう。
たいていこの話は勉強できる人たちと勉強できない人たちが交わる場所で生じる。だが、勉強できる人たちは勉強に苦を感じないので勉強する理由を探索する必要がない。また一方で、勉強できない人たちは勉強する理由を欲しているけれども勉強をできないのでその理由を探索できない。
だから、この手の話で一番納得がいった答えは、なんのために勉強するか分かるようになるために勉強するってことかなと思う。
なんで勉強するのかわからないならば、勉強して分かるようになればいい。それは勉強してみないとわからない、勉強してもわからないかもしれない。けれど分かるようになることがある。勉強をする理由が知りたいならば勉強するしかない。
つまりこれは勉強できない人たちに宗教的決断を促す行いなのだ。
なので、勉強する理由がわからないのに勉強しなければならない人には、勉強を続ければ言葉では表せないけれどなぜ勉強をするのか分かるようになるという宗教的事実(?)と、それまでの間に苦痛なことを耐えるためのテクニックを指示するっていうのがベストであるように感じる。それ以上の理性的ななにかが用意できるのだろうか。ほんとうは信仰心なんてものに頼ることは理性の観点からは望ましくないのかもしれないけれど、まずは宗教者が正しいということを受け入れる心性がなければ理性は手に入らないという仕組みになっているように思う。理性が手に入ってからようやく勉強する理由にたいしてどうこう言うことができたり、それを理解したり実感できたりする。それまでは信仰しなければならない。
はじめの段階でこれを受け入れるにはある程度知的活動による充実感を得たことがあるという宗教体験がすでにあるか、あるいは他の場面において日常的に信仰心をもつという習慣があればよいようで、実際にそういう人たちは勉強する理由を理解していなくても勉強を続けられるみたいにみえる。
宗教を理由にした家庭での過激な締め付けについてのリツイートを見た。
たくさんの人がリツイートしていて、こうして増長される偏見が恐ろしいと思った。
なんのフォローもなくこのつぶやきを拡散させるのは、例を挙げてしまえば「エホバは、創価は、イスラムは、だからよくない」と、偏見を煽ることにしかならない。
もちろんそういった苦しい思いをした人たちは被害者だ。
その人たちがそういう「人」あるいは「人々」に苦しめられたことは事実だ。
本当に、つらかったと思うし、それを強いた人たちの行動は非難されて当然だ。
よくないのは、危険なのは、宗教や信仰を理由に他者に害をなす人だ。
知り合いに、人より信仰心が篤いけれど、とても思いやりにあふれていて、周りを元気にしてくれる人がいる。
信仰をよりどころにしているから、そういう風にふるまえると言っていた。
ちゃんと好かれていた。
先ほどのリツイートをした人の周りにも、口に出せないだけで、何かしらの信仰を持っている人もいるだろう。
その人たちは、日本には特定の宗教を信仰している人が少ないから、気軽に自分の信仰を口にできない。
だから見つけづらい。
そんな状況だから、リツイートをした人たちにとっては、宗教なんて遠いところの話のように思われるだろう。
そして、簡単に、「こんなことをする人(人たち)がいる、この宗教は危ない」という記事がリツイートされるんだと思う。
リツイートした人たちは、無意識で自分たちで分断を生み出してしまっている。
この会話ログはフィクションであり、実在の人物・地名・団体とは一切関係ありません。
坂木
わろた
坂木
自分が理解できないものを意味がないと思いこみたがるタイプの人だということがよく分かったので原文を読まずに済んだ。ありがたいまとめだ。
安原
NTPsec が,ownership を理解していない開発者たちの声が大きくなるようなコミュニティによって開発されているということが分かって大変有意義でした(こなみかん
宮森
今までCで開発してきたプロジェクトを移すなら極端な話ownershipを理解しなくても良いわけで、悪くないのではと思う。
宮森
……が、理解できないものに対して、理解を試みず~すべきだ~と設計しろ、っちゅう人が作るソフトとはちょっと関わりたくないと思う。
安原
いや,私は C で開発してきたプロジェクトであるならばなおさら ownership を理解していないといけないと思います. ownership に理解を示さないコミュニティが関わってきた一定規模以上の C によるプロジェクト……私の第一感は「こわ…近寄らんとこ…」です.
宮森
いや、Cで開発してきた人たちって、ownershipを自前でコントロールできると思っている(思い込んでいる)人たちですんで……こわちかは同意。
安原
いや,私は C で開発してきた人たちの多くは,そもそも ownership の概念を獲得していないのではないかと危惧しています.元々,私はもっと楽観的で,多くの C プログラマは ownership の概念を獲得していると思っていました.
宮森
安原
OpenSSL の騒動の時,関数の途中で return したことによるリソース漏れを揶揄したことがあります. OpenSSL のようなインターネットの基盤を支えるオープンソースプロジェクトにおいてさえ, ownership の概念を獲得していれば脊髄反射で気づくであろうバグが随所に見られたことには本当に絶望しました.
安原
藤堂
安原
むしろ C++ によって ownership という概念が明確になり,その重要性が認知されるようになったのではないでしょうか? これについては,私は歴史的なことが分からないので真偽のほどは何とも言えませんが.
宮森
シニアな開発者にしかC++/Rustが受けないと思うの、まさにその点だと思っていて、人類を信頼したがために足どころか頭を吹き飛ばす経験を積んでいないからだろうなー、とか。
宮森
OSとかシステム系のプログラマの人々、基本的にリソースは人間が適切に管理するし管理できると考えている人が多い印象([検閲削除]社時経験)。言語側で安全を確保したい、的な話をしても相容れなかった記憶が。
坂木
[検閲削除] のコードには、間違って自分の足どころか頭を撃ち抜いてしまった偉大な先人たちの知恵が詰まっていて、開発していてとても勉強になります。なお [検閲削除] は頭がなくなっていることに気づかずゾンビとして生きている模様。
今井
今井
リソースどうこう以前に、そもそもちゃんと構造化されてるコードが書けるかも怪しい(個人の感想です。見識にバイアスがかかっている可能性があります)
安原
うーん,数値計算系のチームやコミュニティも ownership の概念の獲得,重要性の理解,その管理を自動化することへの理解,これらを期待するのは難しいだろうなあ…….そもそも高度なリソース管理が必要になる場面少ないし…….
坂木
コードの品質が強く求められるプロジェクトとそうでもないプロジェクトがあるからなあ。クライアントサイドソフトウェアは割と品質が求められる気がする。
安原
OS 実装とかシステムプログラミングって,クライアントに直接接しないだけで,その上にクライアントサイドソフトウェアが載るわけで,コードの品質が強く求められると思うのですがそれは…….まあ, API とかで切り離されているので,そこだけしっかりしていれば,という話はあるか.
宮森
坂木
今井
あとは、デモが作れればいい、的なのも同じかなぁ。
宮森
宮森
安原
今井
まー、 offline で動くバッチ、的なのはそこまでメモリ管理とか / パフォーマンスとかにもシビアにならなくていいし(最悪オーダーがほどほどならよい、的な)、そいう文化にいると、雰囲気にのまれる人が多い、というのはまぁわかる。
坂木
今井
宮森
いろいろ言っていますがワタクシ、そういう管理が必要なプログラムは全く書けなくなりましたので今書くと死にます(プログラムと顧客の大事なデータが)
安原
しかし,システムプログラミング界隈に「人間はリソースを適切に管理できる」という悪しき信仰がはびこっているの,何か構造的な原因があったりするのかなあ?
宮森
システム系、基本的に生のハードウェアが透けて見える言語を使う必要があって、そのために選択肢がCしかなくて、手段が限られているからこそ信仰が発生した、という認識
宮森
宮森
坂木
Linux カーネル、一体どうやったらあの規模のコードをクオリティコントロール出来るのか本当に不思議
安原
坂木
Linux カーネル、属人性高そうではあるけどそれでも実際に十分スケールしているからなあ…… ヤバい系レビュアーがごろごろしているのかな
宮森
安原
私も [検閲削除] のコミュニティを見てましたから,各々必要なドメインにおける圧倒的なタレント性を持った人たちが1ヶ所に集結して奇跡のアンサンブルを奏でうる場合がありうるのは理解しているんですが,本当にただの奇跡でしかないと思っています.
宮森
つーても機械エンジニアリングで町工場の職人芸を必要であれば使うように、属人性を求めるのも一個の正しい戦略だと思うんですよね。
宮森
なおその対極がみずh(省略されました
安原
Linux カーネルにおけるスケール云々は, Linux カーネルのコミュニティ自体におけるスケーラビリティではなくて,(システム)プログラミングコミュニティ全体(他のプロジェクト)へスケールするかどうかを言ったつもりでした.
坂木
宮森
C系がシステム系で優先されるの、ツールを変えるとツール独特の罠があるので、罠が全て分かっているツールを使う、っつうのもあるな。
安原
> システム系、基本的に生のハードウェアが透けて見える言語を使う必要があって、そのために選択肢がCしかなくて、手段が限られているからこそ信仰が発生した、という認識
これが原因だとすると,やはり Rust だ……Rust しかない…….ツール周りとか,まだまだ未整備な部分たくさんあるけれど……そこをクリアすれば…….
坂木
坂木
イテレータっていうか Java でいう Scanner を作ろうとしたんだっけ。サードパーティライブラリも探してみたけどその頃は I/O 周りの API が unstable でビルドが軒並み壊れていたりしたな……
藤堂
1.0 以前のことは忘れましょう (本当に unstable)
安原
坂木
安原
「Rust 経験者」という条件でプログラマを募集して,それで入ってきた人材に C を書かせればよいのでは!(ピコーン!
藤堂
犯罪ですよそれは
安原
はい.
藤堂
安原
まさにそれをイメージしていました.
宮森
藤堂
うーん、それ以降の話は知らず
今井
Rust そして誰もいなくなった、にならないかが一番心配だったりする
安原
それな
宮森
もしかして、NTPsecの人がRustでミニサーバーを起こすのにすら苦労していたの、普段からバグありのコードを生産しているからなのでは、という気がしてきた……。
(この辺で一同寝落ち)