はてなキーワード: 信仰心とは
すごい人混みなのに、なんで大勢の人が初詣や十日戎などに行くのだろう。
3日で30万人が訪れる近所の神社は境内に入るのにさえ、1時間ほど並ぶ必要がある。
訪れる人の多くが信仰心が篤いとは思わないし、
行くと楽しいのかな?
毎年この時期はバイト含め故障者リストが凄い事になるもんだが、今年は…まだマシなのかね。
あ、ちなみに神主になるにあたって信仰心の有無とか問われる事は一切ありません。
休むのが当たり前の暮れ正月に皆が遊びほうけてる横で死ぬような思いして正月期間中ぶっ続けで働くってのは高い理想と篤い信仰心のない奴にはとても勤まらなかろ、って判断らしい。
いやいや、別にお金や生活費の為であれば誰でも働けると思うんだが。違うんかね。
まあ人間誰しも、自分が就いている仕事や属してる業界が世界で一番多忙で大変な仕事だと思うもんだ、って事なのかねぇ。
こっちは斯界以外も知ってるしもちろんそれ以上の辛酸も舐めてきたから(でなきゃ斯界になんざ来ねえよ)、お正月の神社が多忙を極めるにしても世界で一番大変な職場だとはとても思えないが。
暖房効いた室内で寒い寒い言いながらあっつい甘酒をふうふう言って啜りつつこなせる仕事を激務と呼んだら、これまでに斃れていった世の大勢の社畜達の英霊が浮かばれぬものよのう。あと誰だよ甘酒にハチミツ入れるってアイデアを思いついた奴は。天才か。
もちろん参拝客にも客単価っつーものがあり、また賽銭単価というものがある。
それこそさっき書いたような俺も毎日買っている甘酒の売上(自腹)のような収益事業の収益、祈祷や神札御守り授与や賽銭などの宗教法人事業の社入、それらをひとまとめにし、
その額を当該時間帯内の推定参拝者数で割ったものが、おおまかな参拝客の客単価となるわけだ。
同様に、賽銭単価は賽銭収入を当該時間帯内の推定参拝者数で割ったものである。
で。賽銭単価というものは当然ながら“財布の中に入っている事の多い貨幣”の価値の比重が大きくなりがちだから、額に多少の変動はあれど比較的安定しており、想定の範囲内に収まるものなのだが。(財布に入っている可能性の高い、あるいは枚数の多い貨幣はどうしても100円10円となりがちなため、賽銭における比重も大きく、賽銭総額も平均額もその二つの硬貨に大きく左右される)
客単価がなあ。
想定していたよりも少ないんだよなあ。
基本どこの神社も、よっぽど変わった事がない限り毎年それほどデカい参拝者の変動はないもんだから、だいたいどのくらいの数の人がくれば、どのくらいの社入がある、ってのはもう見当がついている。
そのデータに従えば、別に細かく計算せずとも例年の客単価は出る。○○○万人きたから今の社入はだいたい○○○億、○○○億を○○○万人で割れば例年の客単価平均額は出てしまう。
ただこれが少ない。想像以上に少ない。
より端的に言うと、みんな神社に来て賽銭は入れるしおみくじは引くんだけど、御守りやお札を買うのは全員ではなく、また縁起物を受けたり祈願を受けるのはごく一部、となる。
賽銭+おみくじ+御守り1ヶ、くらいの客単価を想像してたんだけど
それよりはもう少し安かった。
社入が不十分とはまったく思わないんだが、どうも客単価の低さが気になる。いや斯界においちゃ普通の額なのもしんないが。
うーん、やはり金使わせる仕組みが足りないのかねぇ。
正月の神社はクソ寒いから皆速攻で帰っちまうんだよねえ。当たり前だが。
正月は不便を楽しむもんだから、寒い寒い言いながらえっちらおっちら参拝して鼻水すすりつつゾンビみたいにあーうー言いながら寒い境内うろつくのが醍醐味なんだろうと思ってたが。
やはり高齢者やゆとりに優しい、あたたまりポイントというか採暖所というか人をダメにする焚火みたいのを境内至近に設け、まるで八甲田山死の彷徨のごとくピクリとも火のそばから動かない強固な意志を示す人々が気軽に手に取れるような温かい食べ物飲み物がそばにあったら収益上がんのかねえ。
まあやり過ぎると人の波がそこで止まって境内にまったく人が上がってこなくなるのでその辺は塩梅ですが。
どんど焼き風の庭“火寮”設けといて、炉端焼きっぽく棒に刺したモチとか箱に入れて置いといたら売れそうかねぇ。
というか参拝者が持ってくる古い神札類を燃やすお焚き上げの火によって参拝者自身が温まれるシステムになっていれば一番いいんだが。
火種も大量に確保、参拝者も採暖でき、神社側が費やすお焚き上げにかかる労力も大幅に軽減される。
東北あたりのどんど焼きが確かまさにそういうシステムだったが、あれって実はよく考えられたシステムだったんだな。皆がめいめい持ち寄った古神札類をまとめて燃やして暖を取りつつモチ焼いて食う。
実に無駄がない。
オランダ人のふりして日本に立ち寄ったガリバーが「踏み絵は勘弁な」と言って「お前ほんとにオランダ人?」と疑われる場面があった。
で、次のお話「馬の国」を読む前に考えた。
殉教するより踏んで生き延びて信仰を広めた方がいいと思うけど違うのかな。
異教徒に強制されて十字架を汚したとしても、信仰心が本物であれば構わないと思うのは甘いだろうか。
ちょっと検索したら二十六聖人のルドビコ茨木は「信仰を捨てたら命は助けてやる」と言われて、
「この世の一瞬の命と天国の永遠の命を取り替えることはできない」って返したみたい。
昔読んでびっくりした遠藤周作「沈黙」ももう一度読んでみるか。
というかあれ、もっと早く主人公の前に出て来いよキリストさんよ。
マグロ食べに行くか。
これはネガティブな苦しさが勝ってしまってる人のために書いています。
キャラから与えられる喜びと苦しみを差分したとき、「喜び」が多いとはっきり言える人はどうかそのままお幸せに。
自分は今まさに二次元のキャラに恋をして苦しいのですが、目に見えて不健康になったのでこれはいけないと思い
感情の整理がてらこれを書いているところです。
以下は私が二次元のキャラに恋をして苦しいという状態を脱するためにあれこれと試した備忘録です。
恋を止めるのではない、というところがポイント。
推しは変えるものではなく増やすもの、と指原莉乃が言っていたがまさにそんな感じで恋する対象を増やす。
執着心を分散するのだ。
今あなたが好きなキャラほど深く恋しなくても良い、おっぱい大きいな、とかイケメンだとか、そういう感じで気軽に好意を持っていこう
人間の脳というのは二つのことを「同時に」は考えられないらしいので、恋をしている時間はそのまま、対象をすり変えてしまう作戦である
同じ作品よりは別の作品、二次元なら三次元などガラリと変えてしまうとより克服しやすいが
こればかりはその人の哲学もあると思うので調整してほしい
・恋心を信仰心に変えてみる
恋と信仰はすごく近いところにある、というのが私の二次元への恋愛遍歴で知った事実である
そして信仰心というのはすごくポジティブなものである。生きる力をくれるのである
「あ~○○がかわいいこの世界は美しい、この美しい世界に生きてる私は幸福だ」
となってくれる
ただしこれは、シンプルに好きな気持ちをこじらせてしんどい人にはたやすいし、オススメだけど
劇中でキャラに恋人が出てきてしんどいというタイプは、その恋人ごと神聖化しないとたどり着けない場所である
・筋トレをする
筋トレによって快感物質が放出されるので気分が良くなり、軽度ならば「なんでこんなことで悩んでたんだ」となれる
重症でも「筋肉だけは、自分を裏切らない」という錨を心にもつことで、立ち直るための最初の一歩を踏み出せる
あと、恋に苦しんで重症ってのは原因が「考えすぎ」なので、筋トレに集中して物理的に考える時間を減らすことで緩和する効果もある
・現実に目を向けてみる
話題の映画や洋服を買ってみる、美容室でヘッドスパを申し込んでリラックスする
英語の勉強をする、絵の練習をする、ダイエットする、などなど、自分の価値をあげるのも効果的だ
とにかく手をつけてみることで、すいすい時間がたって、恋のことを考えている時間が減っていることはよくある
ここまで書いてなんだけど、私はやっぱりまだだいぶ重症なことわかった
キャラに好きな人がいるような感じで、置いていかれると怯えてるんだよね
置いていかれるってなんだよそれ頭大丈夫かって感じだけど、心の状態を性格にあらわすとそうなる
おいおい、途中から僕のカキコに対する話じゃなくて自分語りになってるぞ?
自分語りしたいなら別で書こうや。文才無さそうだけどw
結婚してて子持ちでさえあれば底辺ではないという認識をされているようですが、その認識は田舎的、あるいは昭和的価値観だと言わざるをえません。
どこをどう読んだらそのような認識になるのか教えてほしいですね。
子供は9割方諦める、万が一出来てもダブルワークなら1人は何とかなると書いています。
結婚してても底辺は底辺ですが、健常者が結婚してダブルワーク前提なら、日本では底辺にはなりようが有りませんという話です。
貧しい女性が生活保護で暮らせなくなる確率と、今から焦って結婚してクソ男を捕まえてしまい、結果的に離婚する確率、どっちが高いかなというと後者ではないかと。
何かご自身と重ねていらっしゃるご様子ですが、焦れとも書いていませんし、低収入男とは書いてもクソ男とは書いていません(むしろクソ男は避けるべきと書いている)
何か男関係で酷い目にあった事でも有りそうな書きっぷりですね。
そして生活保護は間違いなく削減されますよ。まぁ配給制フードチケットあたりに落ち着くかと思われますが、住居の自由は無くなると考えた方が良いでしょうね。
築50年以上の市営住宅や、廃校になった校舎で集団生活したいならお好きにどうぞ。
はてなの貧乏人って、日本は良くない、アベ政治を許さない的な言説が多いけど、日本の福祉に対しては絶対に切り下げが無いと宗教的な信仰心を持ってるよね。
良くない国の独裁的(と自分で言ってる)政権が、福祉を切り下げないと信じられるなら、相当おめでたいですね。
向こう10~20年で間違いなく福祉は切り下げられて、多数の老人が死にますよ。財政が持たないので、これは確定事項です。
観た人はわかると思うけど女性人気が爆発してるわりには「君の名は。」は結構エロい。パンチラ、乳揉み、口噛み酒…
しかしそれが結果的には作品の爽やかさに繋がってる というのが素晴らしいと思う。
入れ替わりという題材だからエロスを描かない訳にいかなかったんだろうけど、正面から描いたことによって笑いにも繋がっているし
エロの上位にロマンチックラブが自然と配置される構造にもなっている。
これはおそらく今までのポストジブリアニメ映画にはできなかった事だ。
アニメのエロというのは基本的にキモいし、一般向けを狙うなら禁忌の対象だからだ。
それでも正面から扱ったのは新海の中に逆にロマンチックラブへの強い信仰心があったからできた事だろうし、その方が健全だという確信なんだろう。
アニメが若い世代に受け入れられる土壌が出来たからやっと大衆性の壁を越えたのだと言ってもいいかもしれない。
君の名はと比較されやすいのは細田守作の青春を描いた出世作の時をかける少女だと思うけど、あのアニメは
高校生の男女を描きつつも「セックスするかもしれないししないかもしれませんが、何か?」みたいなスカした部分があって個人的に少し不満だった。
(まぁ題材が違うし当時はあれくらいが良いバランスだったのかもしれないが)
この映画は若者に受けてるみたいだけど、個人的には田舎だったり郊外の男子高校生なんかにいっぱい見てほしい。
日本でフランスやトルコやアメリカのようなテロがまだ起こっていない理由は何か。
少なくとも外交の成果ではあり得ない。
海外では普通に被害に遭っているから、日本人だから狙われないわけでもない。
公安や警察は他国よりはマシなのかもしれないが、それでも警備が手薄なとこを狙われれば厳しい。
そうではない。テロを抑止しているのは日本の空気そのものである。
受け入れたのに疎外するから絶望してテロに走るのだ。最初から受け入れなければ全て解決!
トランプを非難しながら、実質同じことをやっているのがこの国の強みだ。
ついでに言うとはみ出し者にも厳しく、凶悪犯への同情も全くと言っていいほどない。
信仰心も薄いので、殉教者と持ち上げたところで英雄どころかただのキチガイ扱いだ。
礼儀正しく、控えめで、誰も、特に事実として何か悪さをされたこともないのだけど、村の中では突出して頭がよかった。博識で何でも知っていて知恵をくれた。
しかし、周囲からは恐れられ妬まれ「あいつには近づくな」とか、「村の全員から嫌われている奴だ」とか、根も葉もない噂が広まっていた。村人は全員その噂に飲まれ、全員でいじめた。いじめはひどいものだった。家に泥を巻き、どなり散らし、みんなの前でからかって、笑ったりもした。
しかし、ある時、村で、特殊な流行り病が広がった。これまでに見たことのないような特殊な症状で、突然、狂ってゾンビになり、他の村人に噛みついて仲間にする、という伝染病だった。
村人は、多くの医者を訪ね回ったが、誰一人として直すことができなかった。そんな時、実は、長年、村で村八分にして、いじめてきた
人間が、その病気の直し方を知っているらしい、という噂が広がりだ
した。村人みんなも、「あいつなら、頭がよすぎるので、知っているかもしれない」と納得するぐらい説得力のある噂だった。
実際に、その人は直し方を知っていた。それは、その人が苦労の末に、発見した特殊な治療薬を飲むことだった。
いつも、いじめてきた人間だったが、村の人は、困ったことが起きると、その人のもとに、助けてもらいにいかないといけなかった。
そして、村人は薬をもらい、病気を直し、いつもどおりの平和を取り戻した。そしてまた村八分が再開した。
なぜなら、病気を直してもらったかもしれないが、その病気を作り出したのもそいつのしわざじゃないか、という噂も広がったから。
もちろん、まったくの濡れ衣だった。
しかし、なぜそんなことが起きるかというと、
自分は恨まれているんじゃないかという恐怖感を、膨らませることになったから。そのため、何か良くない事が起きれば、村八分されるさんのせいだと思うようになっていったのだ。
物語の捕捉
村八分されるさんは、勤勉で博識で親切だった。実は信仰心を持っていたからなのだが、村の人間は信仰心がなく無知なので、村八分されるさんの勤勉さや博識さが、何をモチベーションとしているのか謎で、恐怖だった。
たぶん。
選挙あると学会員が候補者つれて家にくるから、そうなんだろう。
自分で記名とかした覚えないから、親がなにかしたのかもしれない。
子供の頃は親のつながりのせいで、学会員の子供はこっちを仲間と思いなれなれしくよってきたりもした。
今まで口きいたこともないのに。
小学生のとき、たまたま仲良くなった子が信者だったこともある。
市議会議員選で公明党が投票数一位になるような土地だけあるね。
それはそれ。これはこれ。
その子(A子とする)も創価のつながりから、私を同志と思ってるふしがあった。
私は創価に信仰心なかったけど、そこは空気読んであえて否定はしなかった。
そこにB子が加わった。
家庭環境フクザツ系からのメンタル不安定さがうかがえる子だった。
A子は私を仲間と思っていたから、私らが創価であるということは自然とB子につたわった。
B子はこの頃キリスト教にも興味があって、宗教とか信仰することに惹かれていたんだと思う。
家でやすらぎを感じられないようだったから、すがれるものがほしかったのかもしれない。
友人が信仰している創価の話を日常的にきくことで、親しみをかんじてしまったのかもしれない。
内心私は焦った。
私は創価に否定的であることを、B子だけにでも伝えておくべきだったと。
私にとって宗教(創価)とは、親につきあっているだけの不本意なものだった。
なのに、フリーでいられるB子がわざわざ不自由な世界へ足を踏み入れようとしている。
なんでも話はのっかるタイプだったから、私とA子の話に混ざりたくてそんな風に言っただけなのかもしれなかった。
でも、そんな風にノリで宗教の集会に参加し信者となる人も少なくないのかもしれない。
身近な人達が信仰してるということは、新しく信者になる人にとっては大きなきっかけになるんだろうから。
公式の展開が薄かったから、その渇望感で同人がドバっと盛り上がったのではないかと思える。
今は公式でかなり供給されてきてる? から、そっちで満足してしまって同人は全体がシュリンクしているとは言えそう。
つまり、艦これを創作を楽しむための事前知識ぐらいにしか思っていない人にとっては、ピークを過ぎたと言えると思う。
同人は最初だけ初期衝動・新規性で面白い話が書けるけど、それ以降は焼き直しでグダグダな人も多い。合うものを選別する手間が省けそうで何より。
公式の伸びに関しては、コミュニティの信仰心が高く、出した分だけ伸びるのかなという感。そのうち疲弊してこないか心配。
角川……
そのイメージはどこで培ったんだ?
たしかにブッダは妻子は投げ出したけど国に戻ってるし、妻子ともども弟子にしてるし、彼の国は(ブッダが生きている間は)滅びてないし、そもそも特定の宗教に傾倒したわけでもない。実際のところ仏教を創始したわけでもない。今の言葉でいえば、哲学者、社会運動家、心理カウンセラーみたいな存在だったんだよ。輪廻とか解脱といった言葉づかいは宗教的だけど、2500年前の世の中だから、そもそも多くの語彙が宗教的な響きがある時代だ。後世の人々が尊崇の念のあまりブッダを神格化して、後に宗教になっていったんだけどな。
日本によくいるよな。宗教=危険みたいな考え方で、「(俺が考える危険な)宗教」らしきものを目の敵にして、実物を全く学ぼうとしない。学んだら信仰心が目覚めてしまうかも、とか怯えてんのかな。
ブッダは死ぬ前にこう言ってんだよ。死後、俺を頼りにするな(=神格化するな)。俺の教えを参考にして自分自身を頼りにして生きていけ、ってな。そもそも自分が宗教団体を主催してるという意識もなかったから、晩年は教団を離れて少数の弟子と放浪の旅に出てる。実際、ブッダの死後に「ブッダも死んだし俺たちの好きなようにやってこうぜ」って考えた一派が後の北伝仏教、つまり日本仏教の祖先にあたる集団だよ。彼らはオリジナルからどんどん離れていった。「菩薩」「般若心経」「空」「禅」「隻手の声」といった仏教的な思想の多くは、北伝仏教が勝手に主張し始めたものだ。
というわけで、世界三大宗教とはいえ、オリジナルの頃からイエスやムハンマドとはだいぶ趣が異なる教えだったんだよ。
ついでに言えば、よく誤解されてることだけど、ブッダは欲望を否定したわけじゃないからな。欲望をなくしたいという考えをやめたんだ。そもそも、欲望をなくしたい、ということ自体が一つの欲望だろ? じゃあ、ブッダは何を語ったのか。もし気になるなら後は自分で調べな。
鎌倉仏教が仏教の日本ローカライズとして成功し今も生き続け影響力があるが、本家インドや中国仏教はもちろん他の国には通用しないものだ。それはいいとしてさらに裏から縛りつけてくる感覚の元凶が神道だと思う。実体は不明。
「外国ではチップを払わなければいけない」こういう強迫観念が日本人独特の追い込まれる感覚であり神道由来の日本人の信仰心の正体だと思う。外人が日本に来て強烈に拒否反応起こすのもこの感覚の押し付けに対してだ。
創価学会やキリスト教に率先して入ってない人は自分を無宗教だという事が多いがそういう人ほど先祖から続く檀家を守り法事は欠かさず、近くに寺があれば氏子もやるし寺の修復代なども寄付したりする。これは宗教的というより常識を守るという意識が強いのだろう。日本の宗教は社会常識と密接に絡んでるんだよね。まあそれが中間共同体を形成して犯罪とかを抑止してたとは言えるけどそういうのがなさそうな都会ではそれを創価学会とか天理教とかパーフェクトリバティとかが担っていたんだと思う。そしてネットへ。レイシスト運動とか国会デモとかあんまよくないのばかり目立つが。
何やら物騒なエントリですまないが、わら人形と五寸釘は使わない。とにかく呪いの話をしよう。
私は今、親友を呪っている。
書くだけでも恐ろしい響きを放っているが、まず私は、私の家系は、ひいばあちゃんから4世代ほど続いている某宗教の信者でいて、4世ともなると私の信仰心は全く無く、それどころかオウムだのイスラム国だののイメージのせいで宗教団体=テロも辞さない超ヤバイ奴らの集まりという認識でいて、母らが熱心に信仰するそれもとてつもなくヤバい何かを内包する凄く不気味で気持ち悪いものとして幼い頃から拒否反応を示しているのだが、そもそも宗教っていうのは心の中の悩んだり嫌な思いを考え方や行いで少しでも軽減するものであって、祈ったり念じたりする事が非常に強い力を持っていて、それで救われたり救われなかったりするんだっていう概念は、宗教キライだけどなんとなく分かって生きてきたつもり。
ま、宗教の話をしたいわけではなくて(私は嫌いだし)呪文を唱えたり、黒魔術の紋様を描いたりするのは全て雰囲気作りでしかなく、強く念じる事がキーだということ。引き寄せの法則とか自己暗示とかもそうで、要するに自分の気持ちが本心からどこに向いているか。呪いも恋のおまじないも紙一重だ。おまじないって変換するとお呪いだし。
Aには息子が大病するように。
Bには持病が悪化し一生不幸でいるように。
どちらが叶ったでしようか。
最初はBが健康診断で引っかかったと騒いでいるから精密検査すすめたら癌だったんだって。めっちゃビックリした。そして恐ろしくなった。
Aも本当に息子が入院してざまあと思ったんだけど、Aも欠勤するので私の仕事も倍になってしまった。
呪いって自分に返ってくるっていうでしょ?スッゴイ怖い。Aは仕事量で済んだかもしれないけどBの分が。。とりあえず恐ろしいから禊をする予定(チキン)
ここで「私、呪い、かけれる!」と思った私は友人にも呪いをかけることにした。
友人には何をされたっていうといろいろ嫌な思いしてるんだけども、とても大事な友人だから死なれちゃ困る。路頭に迷ってボロボロになっても困る。呪いをかけるとしても力加減には注意したい。可愛さ余って憎さ百倍というか…嫉妬だとか愛憎とか一言で表せない複雑な感情の矛先を呪いということで一旦消化したい。と、身勝手に思った。
彼女には一回不幸を味わってほしい。
呪いの内容は書かないでおくが、怖いかな。呪い殺すわけじゃないから地獄には落ちないよね。地獄、信じてないですけど。
呪いをかけつつもきっと私は笑顔で接するでしょう。同僚にしたように。
人間って怖いなあ。腹ん中で親友すら呪ってるんだもんな。ここで私が誰かを恨んでるということは、私もまた誰かから恨みを買い呪われるくらい強く怨まれてるってことだ。くわばらくわばら。
ちなみに親友への呪いが完了したら穢れを落とすつもりで冷水でもかぶる気ではいるんだけど、今度は陽な気持ちで幸せになーれという念でもおくりたいですね。バランスとって。禊のつもりで。
2015年11月24日、ジャニーズグループ・KAT-TUNの田口淳之介が引退を発表した。
2015年12月6日、ウエンツ瑛士と小池徹平の音楽デュオ・WaTが解散を発表した。
泣き崩れるファンの声を聞いた。一気に加速するTLを見た。
そしてその中で、何度も同じ単語を目にした。
許さない。
拒絶しないで。
置いて行かないで。
ゾッとした。
自担や推しグループがアイドルを辞める気持ちは痛いほどにわかる。
けれど、許さないってなんなんだ?拒絶しないでってなんなんだ?置いて行かないでってなんなんだ?
自分は好き勝手恋愛したり結婚したり転職したり退職したりするくせに、私たちファンは彼らにそれを許さない。
「○○には熱愛発覚なんてして欲しくないし、結婚なんて以ての外」と言っておきながら
自分は旦那を作り、子どもを産み、仕事を変えたり辞めたりする。
その間に彼ら彼女らが諦めてきたものの多さすら見ないふりをして。
例えば自分の好きなグループのメンバーや、自分の好きなアイドルが結婚したり引退した時、ファンは泣くれど。
「辞めないで」「置いて行かないで」「拒絶しないで」と叫ぶけれど。
果たして結婚や引退は、彼らからファンに対しての"拒絶"だろうか?
彼らはいつだって「これからも応援よろしくお願いします」と言うのに、それは果たして"拒絶"だろうか?
例え引退してメディアの前に姿を表すこともなくなって、芸能人ではなく一般人になったとして
果たしてそれは"拒絶"だろうか?
人気絶頂期に『結婚しないで』と言ってたかと思えば、『いい歳なんだからそろそろ結婚したら』と言う。
彼らが髪型を変えれば『前の方が好きだった』と言う。
彼らが自身の新しい可能性を切り開こうとすれば『○○はそんなことしない』と言う。
かつてはファンだった彼らを見れば『まだやってたんだ』『最近テレビ出ないよね』と言う。
彼らは私たちに決して「結婚しないで」「まだファンやってたんだ」なんて言わないのに。
おそらく、本当に推測の領域でしかないのだけれど、いつだって"拒絶"してきたのはファンの方ではないだろうか。
結婚することを、引退することを、髪型を変えることを、新しい可能性を切り開くことを
『なんでそんなことするの』『なんでそんなこと言うの』と自分勝手で自分本位な言葉で
彼らが変わることを"拒絶"してきたのはファンの方ではないだろうか。
きっと彼らは、たくさんの夢や希望や責任を背負うことでスポットライトの下に立つことを許されたけれど。
「アイドル」として、スポットライトの下で輝くことを許されたけれど。
じゃあ私たちファンは、彼らに何を許してきただろうか?
たくさんのことを縛ってきたくせに、たくさんのことを許さずにきたくせに、
彼らが振りまく無償の笑顔と愛にズルズルと甘えて、自分勝手な理想を押し付けて。
そんな彼らが自分の人生のためにした決断を、『なんで』と"拒絶"してきたのはいつだってファンの方だ。
彼らがスポットライトの下に立つための営業スマイルに必要以上に
多くの理想と偶像を押し付けて、塗りたくって、自分の理想と違う言動をすれば"拒絶"と叩く身勝手さ。
自分たちが勝手に好きになって、勝手に応援して、勝手に理想を押し付けて、勝手に拒絶したくせに。
別に誰に頭を下げられたわけでもなく、ジャニーズアイドルになった彼らを勝手に好きになったくせに。
ジャニオタの心底にある、宗教まがいな信仰心は本当に怖いと常々思う。
私たちジャニオタは、「私は○○のファンだから」という身勝手な信仰心で
時として彼らの足を引っ張るどころかその心を折ることすらあるだろう。
けれど私たちジャニオタが彼らから元気をもらうように、私たちの黄色い声や落とすお金が
彼らの背中を押す応援になっていることも間違いではないと思うのだ。
それはある種の需要と供給のような、ビジネスライクな関係にとてもよく似ている。
お金を積めば会いに行ける、いつだって笑顔を見せてくれる、そういうことを生業として
その「偶像」を勝手に「崇拝」しているのが私たちジャニオタだ。
「偶像」は「偶像」だからこそ尊いのであって、かっ開いて中を見て嘆くだなんてナンセンスだ。
結婚することを、引退することを「寂しい」「悲しい」と思うのは当然の心理である。
けれど「許さない」「拒絶された」と思うのはどう考えてもおかしいと思う。
自分は自分の人生を好きなように歩んでいるんだから、彼らに彼らの人生を好きなように歩ませてやれよ。