『サピエンス全史』を読み進めており、もうそろそろ上下巻読破間近というところにいる。
本書の発端となるのは
「生物としての個体能力の低いわたしたち(ホモ・)サピエンスが生き延びた理由には、
サピエンスには虚構=物語を想像し、その物語を信頼、共有する能力があることにある」
というものだ。
本書の文脈においてこの「虚構」「物語」は「秩序」「神話」と名を変えていく(大まかにはしょって言っている)。
たとえば
宗教が誕生し共有されると、その神の名のもとに人類は冒険、侵略、残虐行為を犯した。
資本主義が誕生すると「消費は善=個人主義」というロマン主義的思想が返り咲くとともに、
それらを後押しするかのごとく神話伝導役として「マスコミ」が発達していった。
などなど(実際には本誌において「帝国主義」および「科学への投資」なども含まれるがはしょる)。
これらは「サピエンスの信じる力」により生まれ発展してきたと筆者は言う。
命を捧げるべき神も、死後の幸福世界が約束されているとする信仰心もなければ、
荒れ狂う未知なる大海原を越えていこうなどとは誰も思わなかっただろう。
少なくとも個々人の生存時間の中で属する社会に浸透している「約束されているであろう物語=神話」が、
カウンターカルチャーを含め支配していることになる。
未知なる明日を考えもしないが故に
「『神話』に約束されているであろう明日」を(如何に情熱狂気的であろうとも)ただ漫然と過ごすのだ。
ここで疑問がひとつ頭をもたげる。
「神話」(だけでなく「虚構」「物語」「秩序」含め)について先述したんだけど、
「神話」すべてが生き残っているわけではないとも考える。
それでは滅び語り継がれなかった「神話」は間違っていたのか?
そうではないだろう。
ただ対抗勢力との兼ね合い(つまりは文化的なものを含めての「侵略」)から朽ちていき、結果語り継がれなかっただけだ。
サピエンスは「生まれた神話を信じ強化すること」ができる能力を持つだけで、
「その神話を最強として遍く伝導すること」をできるわけではない。そんなものは時と場合だ。
するとなんだ、「神話」とは。
まったくただの結果論ではなかろうか。そう結論づけていいのではないか。
ああ『ドグラ・マグラ』は、夢野久作は全く間違っていなかった。
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