はてなキーワード: 経済的とは
いや著作権侵害は経済的損害に関係なく法廷闘争する価値があるって思う人もいるかもしれないが、たとえば漫画の描写について聞きたいことがあって電子書籍サイトで誰で見試し読みできる範囲にあるページをスクショして知恵袋とかでそれ添付して質問する分には権利者が訴えた例ないでしょ。世の中には試し読みできない範囲のコラ画像すら放置されてるんだからさ。
まだ問題視できる要素があるとしたらライオンの脱走画像みたいに騙される人が出てくるってところだけど、やはりこれもロゴの使用に無関係に付帯してくる問題に過ぎず日テレが怒ることじゃない。
岸田に対する侮辱はひしひしと感じるので岸田怒るならわかるが日テレをバカにする要素はないだろ。そしてバカにする要素があったとしても経済的損害に結びつかないかぎり「馬鹿にされた」という感情的な理由で企業が怒るのは違和感なわけ。日テレが怒る理由がわからん。
某部署が新システム入れたがってて、ワイは調査検討する部署やからその会議に参加しとったんやけど
月間の削減額とプラスアルファが初期費用+月額に到底及ばんから「いらん」って言ってたら
「いらんいらんばっかりで話が進まん。検討する部署だったら代案出せ!」って言われて会議に呼ばれなくなった。
現状を検討したうえでお前らの規模だったら今のままやるのが一番経済的だから新システムはいらん
っていう結論を俺は出したんやん。代案ってなんなんさ。
やっていて苦痛なことはそりゃどんな好条件でもやめた方がいいが(単純に心身を壊す)
まず、増田は何者病(人から称賛さたい)を直した方がいいと思う
次に、『A:経済的に需要があることに才能がある』は、宝くじの高額当選と同じレベルの話という自覚するといいと思う
その次に、『B:経済的に需要は無いが才能がある』ことに出会えるすらも、まぁまぁ高額当選の部類だ
さらには、『C:才能があるわけでは無いが、苦なくこなせること。才能があるわけではないが、楽しいと思えること』に出会えるかも、100万円当選とかそういうレベルのラッキーだ
もちろん、ABを引き当てられたらおめでとう🎉なのだが、増田が目指すべきは『C』なんだな
たとえばITで年間240日8時間を5年間続けて言うほどプロになるか?って言ったらならない
ワイくん、歌うのがまぁまぁ好きでの親がミュージシャンで割と日常に音楽があった
しかし、カラオケで余裕で2000時間(たぶん10000時間は超えてる)以上歌ってるワイくんよりも
掛けた時間よりも『何をするか』と『目的意識&改善』が重要だよな
『gdgd言ってないでさっさとやれ』とは思いつつも、効率厨が生まれるのも致しかたなしって思うわ
だって、2000時間以上(たぶん10000時間は超えてる)歌っても、実際上手くならねーもん
ただ殆ど無駄なことしていても、1つも能力が上がらないってことは無いみたい
友達も似たような感じだったので気にしたことなかったけど(学生時代からずっとフリータイム利用)
ワイくん筋力ぜんぜんないけど数時間余裕でぶっ通しで歩けるのと同じ理屈かもしれない(たぶん力を抜いて楽に歩く方法を無自覚に習得している)
でもまぁ喉強くしたかったのではなくて歌を上手くしたかったので、やっぱ目的意識をもって改善を続けていくって大事だわ
なおワイくんどちらも欠けている模様
町長により参加者が町内外より200名を超えると報じられたが、横瀬町全体の住民数が7,749名であることを考えると、参加率はわずか2.5%に過ぎません。
この比率は、フォーラムが町民の広範な関心や意見を代表しているとは言い難く、少数派の意見が過度に強調される【エコーチェンバー現象】に陥る可能性があることを示唆しています。
9割を超える住民がフォーラムの存在自体を知らず、または無関心である可能性があります。
フォーラムの参加者の中には、町役場の職員、議員、地区長などの公務員が多数を占めていたと報告されています。
これは、イベントが【内輪の交流に終始】し、外部からの新鮮な意見が不足していることを示唆しています。
実際、多くの非参加者たちが、このイベントを閉鎖的なものと認知しています。
よこらぼにおいて、過去に提案された225件のアイデアのうち、135件が採用されましたが、それについての具体的なフォローアップや成果の共有が圧倒的に不足しています。
公式ウェブサイトでは、これらのプロジェクトの進行状況や成果に関する情報が見られず、イノベーションの実現に向けた実質的な進捗が確認できません。
これは、よこらぼが成果を適切に評価し、サポートする機会を逃していることを意味します。
フォーラムの登壇者は採択者135名の内15名だけであり、その選定理由は明かされていません。
横瀬町は多様性を尊重するコミュニティを目指しているカラフルタウンと公言していますが、このフォーラムの実施状況は、その理念とは異なる結果を示しています。
批判的な意見や異なる視点は、コミュニティの成長に不可欠ですが、このイベントはそれらを十分に取り入れていません。
結論として、横瀬町よこらぼ大会議2024は、町の多様性とイノベーションを促進するための重要な機会であるにも関わらず、その潜在能力を活かせていないようです。
税収の多くを占める石灰産業など、地域経済を支える主な要素への支援が不足している点です。
イノベーションに投資することは重要ですが、既存の産業やインフラの強化も重要であるべきです。
兎沢町有地の開発といった高額なプロジェクトが積立金を切り崩し実施される予定ですが、その投資が長期的で確実性の高い利益をもたらすかどうか検討も町民への説明も十分ではありません。
横瀬町は、外見だけでなく、実質的な成長と自立を目指すべきであり、このようなアプローチは、持続可能な発展と住民の幸福に貢献します。
経済的安定のために男と結婚して子供産んだだけで、旦那に隠れて女の愛人つくってるヤリマン主婦ばっかだよ
「女は年を食っても同性の友達と仲がいい」ってよくいうじゃん
勘ぐれ
旦那が仕事に子供が学校に行っている間、ママ友を家に招いて女二人が何をやっているか
勘ぐれ
言葉が足りなかったと思うので下記を補足する
https://anond.hatelabo.jp/20240204160828
真に受けて深刻な状態にある人、例えば精神科医の助けがいる人、極めて厳しい経済状況・家庭環境にある人が、死んだり・足踏み外すの見てられない
ビリー・アイリッシュ(鬱・ダウナー系アピしてたが、本当は西海岸のパリピのお嬢様)や
日本のアーティストだとCocco(重要無形文化財保持者の祖父、成城のお嬢様とまではいないがフツーにある程度お金に余裕がある親)のリスカ公開
他にも類似するアーティストの活躍時に散々言われたが、自分の影響力については考えて欲しいところ
ほんで、本当に自分が嫌いなわけじゃない、本当は経済的に精神的に頼るところがあったり、能力的にお金を稼ぐことが出来る彼・彼女らが、
あと最近巷を賑わせている脚本家の話でとんでもリプライしたのもその類の人
文業の人
はじめまして。毎週楽しみにしてました。
わったので不思議でした💦そして、えっ、
ここでふんわり終わり?と。
でも訳がわかりました。
そして、私も物書きの1人として尊厳を傷つ
↓
まぁ、どんな人も幸せになれる・幸せになって欲しいと思っているので、本当に自分が嫌いなわけでも頼るところが無いわけでなくてよかったねって思うけど、
これって増田の言うところの、『優しい人』、『心のきれいな部分を持っている人』なんですかね?
ワイくん的には、未成年なら<厨二病>、成人してるなら<極めて軽薄な人>、それ以外に思うとこ無いよ
ただ、自分が好きじゃないのに (本当に嫌いなのは、↑ 上に書いた通り自分ではなく、自分の価値を認めなかったり、傷つける世間だが)、
無理にでも自分を好きと言え!!!!!!!無理にでも自分を好きと言え!!!!!無理にでも自分を好きと言え!!!!!と言ってるわけじゃないよ
『優しい人』、『心のきれいな部分を持っている人』では、正直まったくないと思うけど、
(どちらかというとその真逆。心のきれいな部分を『子どもの心』(ピュア)と置き換えれば納得感はあるが、子ども悪意なく虫の羽とかむしりますけどね😒)
怒りや悲しみのエネルギーを創作に昇華すると結構すごいことになるよね
割とそう言うの好きで、本来のパリピに転身する前のビリー・アイリッシュも、Coccoも、Adoちゃんも(ゆうてAdoちゃんは昭和歌謡やジャズも普通に良い感じ)好きよ
まぁ別に創作に昇華しなくてもいいですけど、こういう人ら常に怒ってる(だからこそ死んでない)ので、基本的に優しくはない認識あっていいと思います
優しさとは強さ
弱いヤツはせめて他人に優しくあって欲しいけれど、自分の行動すらいつでも誰かのせいなのだから返報性は微塵も期待出来ないのが実際のところだよ
坂本龍一も癌で痛みに苦しんで死んだように
常勝してきたのに最後の最後で負けて苦痛に塗れながら自分の身体に殺されるか
人生の過程で負けながらも健康に床の間で老衰で死ねるか、ピンピンコロリで逝けるか
ただまあXやはてなを見てると志と好奇心を失うと人生が貧相になるのは確実で
経済的に成功しても最期に残るのは趣味と知的好奇心だけなんだろうなってのは感じてる
まあ負け組の遠吠えだけどナ┐(´д`)┌
第三者委員会設置しろとかなんとか言われてるけど、最大の被害者であり真実を知る原作者がいなくなってしまった以上、
もう真相を知ることはできないだろうからテレビ側も出版社側もやりたがらないだろう。
そもそも第三者委員会を設置すること自体、非を認めるようなもんだしな。
どれだけ関係者に話を聞いたところで、実際に原作者がどう発言したのかを検証できない
(メールやチャットの履歴が残っていれば別だろうが)以上、言った言わないの水掛け論にしかならないし、
真実がどうであれ、原作者に非があるとするような調査結果にしようものならそれこそ大炎上となることは誰もが想像できる。
原作者が最大の被害者といったけど、じゃあ誰が加害者かっていうとこの事件のそもそもの原因が
「原作者の意向が正しく伝わらなかった」ということにあるのであれば、
コミュニケーションの問題となるし、原作者の意向を正しく伝えることができなかった関係者、
つまり原作者以外の全員が加害者となりうるわけで、そうなるともう責任の所在とか言う話以前にこの件に関して誰も責任を感じてない、
下手したら関係者全員が自分が被害者とすら思ってるかもしれない(おれは自分の仕事をしたと思ってるだろうからね)。
真相を明らかにするという意味ではもう詰んでいて出来ることはない。
出来るとしたらそれぞれの組織の代表者が表に出てきて釈明して「責任」をとるしかない。
互いの組織が経済的損失を主張するなり契約不履行なり認識の相違を裁判で訴えて白黒つけるということもあるかもしれないが、まぁしないでしょう。
昨月の電気代がエアコンの消費により膨れ上がり、贅沢は排し、こたつの温もりに身を寄せる中で、寒風に抱かれる孤独感が深遠な情緒となって心に滲んでいた。
冬の訪れと共に、私の日常は厳しい節約の中に変容していった。エアコンの暖房に身を委ねる余裕もなく、ただひたすら本に耽ることが、たった一つの慰めとなっている。
温かな空間に身を包み込まれることは幸福であるかもしれないが、時折、静寂に包まれた中で孤独な思いが私を襲う。この静寂の中で、自分と向き合う時間を手に入れることができる。
しかし、その孤独感にも独自の美しさが潜んでいる。熱いコーヒーを啜りながら、心の奥深くに沈む感情に触れることができる。
人は孤独な瞬間に、自己と向き合い、新たな気づきを得ることができるのかもしれない。寒さのなかにある孤独も、時には私にとっての貴重な経験となっているかもしれない。
話は変わり、仕事の進捗は素晴らしいが、給与は低調だ。フルリモートであることが唯一の救いではあるが、生産性向上が報われる給料の増加には至っていない。
だからこそ、私は支払われる仕事に必死に取り組み、効果的な利他主義を実践している。経済的な利益を最大限に引き出し、それを適切な慈善機関に寄付することで、社会貢献を果たしているつもりだ。
葛藤もある。つまり、給与が低くても快適な現状に飽き足らず、より高給な場所に転職するかどうかの選択肢が浮かび上がっている。
しかしここに悩みが横たわる。今の仕事が快適すぎて、その楽な状況を選び続けているのかもしれない。両親は「転職はしない方がいい」と言うが、私の日々は物価の高騰による節約との葛藤の中で揺れ動いている。
もうキチガイを相手にする場合、「穏便に」というのは捨て去った方がいいんだろうな
ただ殺すっていう極端な行動に出るのは、あんたまで社会的に死ぬ事になるからやめとけと言わせてもらう
半殺し、これ。
しかも半殺しにも色々やり方はある。
暴力による半殺しもあれば、経済的なやり方もあるだろうし、精神的な物もある。
色々考えてみるべきだと思う。
女が専業主婦が当然だった(あるいは標準モデルとされた)のは、上級国民を除いて昭和の一時期だけだぞ
おっかあは、めかしこみもせず、朝から晩まで炊事洗濯農作業行商炭鉱と内外で働いて、
当たり前のように三従(幼少時は父兄に、結婚したら夫に、夫の死後は子に従うこと)を課せられ、
ようやく、どこのご家庭のおっかあのこともお姫様として母上としてを扱うことが出来る時代になったが(大切なおっかあを想っても極貧故に報えず涙した先人は報われたね)
おつむ弱い子によってまぁなんか微妙なものになっちゃったよな(そもそもおつむ弱い子は歴史を認識できない)
どうなったら日本に安楽死制度が導入されるかなら考えたことがある。
何か事が起こって、それに対応する形で導入されるパターンしかない。
何が起こってどういう状態になったら導入があり得るか、と考えていくと。
将来を悲観したり、金が無くなったり(無くなる見込みになったり)、
福祉に頼ってまで生きたくないと思ったり、体が効かなくなったり、
近親者を看取った経験から自分は早めに終わりにしようと思ったり、
そういう色んな理由で「自らの死」を望む人々が増えて、
制度が無いので、自死や殺人に頼らざるを得なくなって、それが頻発し、
もしかしたら、有名人や注目に値する人物の悲劇的事件で早めに導入もあり得るかも。
数が増えて、二次被害も出て、破綻してから導入するなら、その方がよいかもな
と思ったりする今日この頃。
彼らは自分が救われるには女性に愛される必要があると思っているが、行政等による通常の支援ではそれは対応できない。
彼らは「.女性の下方婚が」とか言い出すが、女性が下方婚したとして、選ばれるのは見た目がよくて若い男か、人柄がよく家事ができる男なので、弱者男性が選ばれることなんてありえない。
「みんなの力で暴力」の立て看板の全文は「「みんなの力で暴力追放」で、実は暴力事件が沢山あった地域だったっていう棘がバズってるけど、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2306458
「暴力はいいぞ、ケンシロウ」のアミバとか「暴力は全てを解決する」のコマとか入れられているが、こういう看板のいう暴力って一般的な暴力じゃないのよ。民暴なのよ。
こういう看板は昔は沢山あったけど今は限られている。今は駅前、寂れた商店街、警察署が多い。
その看板の名義見た事あるだろうか?警察、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、商工会、JC(青年会議所)が多いのだ。
ライオンズクラブ、ロータリークラブは共にフリーメイソンのスピンオフみたいな組織で経営者が多い。地域の実力者や法人が加入しているのでコネが欲しい経営者も加入する。
で、一番多く建てられた時期は平成の初期だ。
この当時、ヤクザ問題が深刻化していて、ハリウッド映画にも凶悪なYakuzaとしてよく登場している。
ヤクザは様々な犯罪を起こすが、国家権力、特に警察が重要視していたのが経済がらみの犯罪や犯罪紛い行為だ。
今では考えられないが、当時は会社の経済活動にヤクザが絡んで来るというのは当たり前の風景だった。総会屋などは商法改正でパージできたが、民事紛争でヤクザが出張ってくる事件屋とか、不動産物件を購入や落札したのにヤクザが居座っている占拠屋とか、会社間の債権がヤクザに売られて取り立てに来るとか、色々とキリがない。他社と揉めたら会社の前に右翼の街宣車が来て「糾弾」が始まったりする。
必ずしも金を要求されるわけじゃないが、どこかに対して経済的な見返りをしないと収まらない。その相手はヤクザの企業舎弟やヤクザに金払った会社だったりする。
一度関係が出来ると延々としゃぶられる。
こういう状態に関して警察が働きかけて「紛争でヤクザを使うな」と呼びかける為にそういう看板を設置させたのよ。「暴力団を使うな」じゃないのは、企業舎弟とか経由するからヤクザと直接の関りとならないから。
今はこの「暴力」追放が使われなくなったのは反社という概念が出来て浸透したから。
平成初期はその概念も無く、ヤクザがあちこちで経済活動に関与しているのは当たり前の状態だった。そこからヤクザを取引や紛争解決の場から排除しようという流れに持って行くための警察の活動が「暴力追放」という看板の設置だったわけ。
新暴対法は1991年に施行されたが、最初はあまり効力を産まなかった。
ところがそこから警察があらゆる手段を取るようになってかなり物騒な事件が続出した。例えばパチンコの三店方式は警察がパチンコ店主を説得して導入させたものだが、この導入初期には営業中の店への銃撃事件やダンプ突っ込み、バキュームカー逆噴射、店主の傷害事件などが起きている。
それらに対して警察は身を守るという約束をして用心棒を兼ねて警察OBの天下りをさせるようになった。パチンコもうけ過ぎの構造はこういう経緯があって出来たもんだ。
当然今までトラブル解決をヤクザに依頼していた会社はマル暴デカに脅されるし、企業舎弟との取引がある会社も切れと警告される。ヤクザは「警察と俺等とどっち取った方が安全か判るよな」と脅す。
そういう中で民暴という概念を啓蒙して流れ作るために警察が経済人の組合抱き込んで設置させてたのがああいう「暴力追放」看板なのよ。だから設置者がPTAとかじゃなくて経済団体ばかりなのだ。
ってー事で「暴力追放」看板は古い(平成初期)のばかりなのだ。21世紀に入ると反社概念が周りはじめて対反社条例などがどこにでも出来、「暴力追放」概念は過去のものになったから。
あと、ヤクザが地場産業企業とくっついていたので、市長がヤクザ関係者とかそういうのも普通にあった。
何しろ高度成長期まで遡れば、労働争議に会社にやとわれたヤクザが突入してストライキしてる側を殺したりとかもあったわけで。
地上げで、ヤクザ金融から金借りた債務者のどっかの経営者が普免しかないのに大型ダンプ運転してハンドル操作ミスって「偶然」地上げ受けてる家に突っ込んだり、放火されて死んじゃったりとか。
そういうの根絶するにはその犯罪取り締まるだけじゃなくて、面制圧して干す必要があり、それには経済活動から排除するっていう機運が必要だったのだ。
「女は(経済的)下方婚をしない」ってブクマで連投してる人がいるが、それに対するカウンターだよね
そういうの気にしないほうがいいよ
とか言ってる記事よく見るけど、
基本的に大航海時代から、インディアンを迫害してアメリカカナダ作って、オーストラリアとニュージーランドはアボリジニとマオリを迫害して入植して…って。言ってることよりやってることだけ見たら、暴かれたも何もずっと一貫してるよね。日本にもさ、空襲で民間人大量虐殺アンド原爆ってそれ、正直人種違うからやりましたよね〜?って思ってるし、グローバリズムってぶっちゃけ経済的な植民地主義じゃん。
日本も中国インドみたいにゴリゴリ人口増やした方がまだよかったんちゃう〜?欧米の押し付けるルールに従ってると少子化で滅んでまう。あ、もう遅いか
予め言っておくが、自分は「安楽死反対派」である。それもかなり強く反対している。
ネット上ではたびたび安楽死に関する法整備を求める意見が見られる。
経済的な理由による安楽死は論外として、病気による耐えがたい苦痛を避けるための安楽死を求める意見は一定の支持があるようだ。
だが、主張は結構なことだが「国家によって安楽死を認める」ことがどれほど重大なことか理解していない意見が多いように見受けられる。
あくまで自分の意見だが、「安楽死を認める要件」として最低限以下のようなものがあってしかるべきだと思う。
安楽死とは、要するに医師などにより生命活動を停止させること、即ち「殺人」に他ならないのは疑いなく事実である。
即ち、「安楽死を法的に認める」ということは「国家によって殺人を承認する」ことに他ならない。
国家によって認められた殺人と言えば、「死刑」もそれに相当する。死刑の判決を言い渡すのは言うまでもなく裁判所だ。
当然殺人を法的に認める以上、安楽死についても裁判所による手続きがなければならないと考える。
医師によって、患者がもはや死を避けられない状態であることの証明が必要だ。
主治医はもちろんだが、感情的な選択を避けるためには利害関係のない複数の医師による中立的な判断がなければならないと考える。
当然、安楽死を「行う」医師がどれほどいるかという問題もある。
これが難題である。
その意志が、短期的な抑うつ状態や、周囲や「世間」の圧力に左右された一時的なものでないかの証明が非常に難しい。
2019年の透析中止死事件では、透析を続ける苦痛のあまり透析中止を決断したとされるが、終末期に至って透析中止を撤回したいと言いながらも助からなかったとされる。
本人の意志とはこのように揺らぐものであり、かなり長期間の意志確認は必須である。中立の公証人による証明があってもいいかもしれない。
同様に、安楽死を決めたものの直前になって「生きたい」と意志表示したならば即座に安楽死を中止しなければならないだろう。
また、周囲や世間の圧力でないことを証明するためにも、「安楽死」を美談にしないようにマスコミやSNSには厳重な自制と規制が求められるだろう。
特定の病気になったら安楽死するべき、なんて世論が広がることはあってはならない。
なまじハラキリ文化の日本であり、「潔い死」が受け入れられやすい社会的素地があるのはかなり危うい。
「安楽死を法的に認める」ためには、「安易な安楽死は認めない」という国民の意識改革がなければならないという矛盾がある。
これらの議論を進められるだけの十分な社会的な理解が日本にあるかというと、正直言って「ない」と言わざるを得ないのではないかというのが自分の意見である。
特にマスコミやSNSに関しては、現状ではほぼ絶望的なのではないかと思われる。
なお、昨今の安楽死議論の中には「終末期患者を生かし続ける社会的コスト」に言及するものがあるがこれは論外で、
憲法25条の生存権を見れば明らかなように、国民には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」し、
国には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とされている。
国民が生存を望むならば国は生存を保障しなければならない憲法上の義務が存在する。どれほどのコストを支払ってもだ。
つまり、一番手っ取り早い方法は憲法25条の改正と言うことになる。
当然自分はこのような憲法改正には賛成しないし、国際人権A規約にも反する。ハードルは極めて高いと言わざるを得ない。
いくつかコメントが来ていたので補足。
繰り返すが、自分は「安楽死反対」の立場からこれを書いている。
これくらい厳しく要件を掛けなければ、恣意的に運用されかねないという強い懸念があってのことである。
コメントにあるように「経営者が労働者に家族の安楽死を要求する」なんてことが起こりかねない。
裁判所の決定を要するとしているのも、時勢に強く左右されかねない行政ではなく、常に法の番人たるべき裁判所が決定すべきと言う考えからである。
実際、裁判によって決定した死刑囚の署名を時の法務大臣の意志で停止した過去の例もある。
そしてこの程度の要件をクリアできないのであれば、そもそも安楽死を法制化するべきではないというのが主旨だ。
国民の生存を保障するためにある国家が、それに相反する法制を行うことがどれほど困難なことかということについて、頭の片隅にでも残れば幸いである。
個人的には本人の自由意志が確認できなくなった段階で安楽死を認めるべきではないと考えている。
「本人の自由意志がなければ生存権を行使している」と見なすべきであり、当然国家はそれを保障しなければならない。
この時点で「本末転倒だ」と思われる人は多いかもしれないが、安楽死法制化は終末期医療のコスト削減策「ではない」。
あくまでも本人の自由意志によって死を選択する自由を与えるための法制であるべきであり、
医療コスト削減が目的にすり替わるのであればそもそも法制化の目的を見誤っている。
なお、現行法制でも積極的安楽死ではなく、延命治療終了による消極的安楽死は行われており、この手続きで不備があるとは思えない。