はてなキーワード: 大往生とは
別に誰かを腐したいわけではない。
テキストサイトの頃から活躍しているライターさんの写真がネット上に上がっているのを見続けているうちに、最近は中年どころか初老の人の容貌になってきている。
なるほど、自分も歳を取るわけだと思う。
それで、これはいつまで続くのだろう。
インターネット老人会の私たちが実際に初老に、果ては後期高齢者になるにつれて、ネット上で顔出しをしながら私たちの読むコンテンツを書くライターも70代、80代の人が増えていくのだろうか。
コンテンツも後期高齢者向けに特化し、尿もれ防止パッドを実際に使ってみた、とか徘徊防止タグ入りの靴を実際に履いて保護されてみた(認知症ライター)みたいな体験記事を書くライターに一定の需要が発生したりするのだろうか。
しばらくあのライターさんの記事を読まないけどどうしたのかな、と思っているうちに、老衰で大往生でした、とか孤独死していました、とかいうお知らせが編集部から流れても誰も驚かなくなるのだろうか。
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
私の祖母が亡くなったのは、この春の事だ。
世間は県外移動の自粛を求めており、不要不急の外出を控えるように、と声高に叫ばれてる、そんな頃だった。
彼女は90歳を超えた大往生であり、こればかりは致し方ない、というやつだ。
自宅の布団で昼寝をしたまま二度と起きて来なかった彼女は、穏やかな顔だった、らしい。
東京という土地で住む私は、喪主たる伯父から直々に電話を貰い『申し訳ないが、葬式への出席を遠慮して欲しい』と言われたのが、理由だ。
正直、悔しかった。私は祖母が好きで、最後のお別れをきちんとしたかった。
けれど同時に、伯父が意地悪で言っている訳では無いとも、分かって居た。
田舎の葬式だ。そして祖母の年齢になると、弔問客も、親戚も、高齢者層が増える。
そこに、東京から帰って来た孫が、まかり間違ってウィルスを持ち込みでもすれば。
伯父の苦渋に満ちた声に、私は泣きながら『分かりました』と返事をし、折れるしかなかった。
現地に居る兄が時折寄越すラインの画面を見つめながら、部屋で孤独に過ごす時間は酷く悲しかった。
あれから3か月。
私は、骨になった祖母にすら、まだ会えていない。
致し方ないと思う。
親戚の家だけではない。その近所にも沢山の高齢者が住み、そうして小さな村社会で生きている。
毎日都心で100人とかニュースが出て、そんな私が田舎に帰って発生原になったら、と考える皆の意見は良く分かる。
それでも、祖母の葬式にも出られず、位牌を拝む事も出来ず、骨壺を見て泣くことも許されず、今日まで生きて来た。
私は未だ田舎に帰る事も出来ず、大事な人に手を合わせる事すら許されないのに、観光客は私の田舎に土足でやってくる。
旅行のキャンセル料が勿体ないから、政府が後押ししてくれているから、という理由を盾に取り、ほいほいと流入する。
『観光業はもういっぱいいっぱいなんです。死に体なんです。このキャンペーンが無いと路頭に迷うんです』というが、私の好きだった店で、もう何件も閉店をした所がある。
正直、苦しさであえいでいるのは観光業だけじゃないだろう。
死なば諸共、なんて意見が正しいとは絶対に言わない。誰かが痛い思いをしたなら、他に痛い思いをする人が出て来ない様、手当てをするのは当然だという理由も分かる。
けれど、どうしてあのお店達は助けて貰えなかったのに、観光業だけ助けて貰えるんだ、って思うと、尚憎い。
多分これは『自分は禁止されていたのに、どうしてあの子は良いって言うの!?』っていう悔しさも、加味されているのだろうけれど。
知っている。これは全部八つ当たりであって、別に誰も悪くない。
それでも、不要不急でない、少なくとも帰る理由が過分にしてある私は田舎に足を踏み入れられないのに、観光客は知らん顔でやって来る。
観光客はその土地に住んでいる人間に責任を負わなくて良い。だから彼らが発生原因になっても、別に私の親類縁者は何も困らない。
けれど、そこの出身地であるという私は、発生原因になると責任を負わなくてはならない。私の親類縁者に迷惑が掛かると言われ、それを承服するしかない。
それでも、私はGoToキャンペーンなんて奴が大嫌いで、一刻も早く取りやめて欲しいと願っている。
そうやって歯を食いしばっている人間からすれば、観光客、なんて不要不急の人間のせいで、私の田舎にクラスターが発生する事だけは、止めて欲しいからだ。
そこで発生したコロナで、また私の身内で、知人で、人死にが出たら、と想像するだけで堪らなく苦しくなる。
少なくとも、そういう所にしか、今の私の怒りの拳は、下ろす先が無いのだ。
一日も早く、コロナが収束して、あるいは特効薬が出て、私は祖母に挨拶をしたい。
私は、田舎に帰りたい。
私はひきこもってた時に知り合いに無理に連れてかれたゲーセンで怒首領蜂大往生をやって「なんかクリアしてみたい」って思った。それから毎日、1日50円を落として自分なりの攻略パターンを作る日々が続いた。
反射神経や運動神経がないので2面の中ボスのばらまきがどうしてもうまくよ蹴れないのでハイパーを使うことにした。毎回同じ場所で死なないとパターンを作れないことに気がついて3面ボスでわざとランクを下げボムを増やすために死ぬパターンを組んだ。
1年くらい大往生と向き合ったある日、私は一周クリアした。二周目にもたどり着けた、けど死んだ。そのとき私の大往生が終わったことがわかった。生まれてはじめてシューティングゲームで一周オールした。
うしろを振り替えるとゲーセンの店員が私のプレイを見ていて、さっと目線を逸らして携帯に電話をしているのが見えた。プレイを終えた私がなんとなく惰性で次の日、そのゲーセンにいく大往生はなく、次の弾幕シューティングに変わっていた。
実家で飼ってるから一年近く見てなくて、昨日死んだと両親から連絡があった。
20歳なんでまあ大往生だ。飯を食わなくなって衰弱死ってことで、苦しかったろうがまあ順当な死に方だ。
で、昨日やつが夢に出た。帰省していて、食卓で猫のことが話題になる。そういえば死んだんだった、でも未だにその辺にいるような気がするよ、というような話をしたあと二階に上がると、視界の端を猫がかすめる。おるやんけ!と思って見るといなくて、やはり死んだのだなと思う。そういう夢だった。
起きたら泣いてた…なんてこともなく、ホ〜ン程度の受け止め方だったんだが「死んだ飼い猫がその日に夢に出る」っていうとなんだか突然いい話っぽくなる。
やつは挨拶に来てたのか?しかしそんなに懐いてなかったしな。しかも夢の中でも死んでたし…
たいして仲良くはなかったが、俺はまあ好きだった。冷たかったがいい猫だったと言えるだろう。最後にチョロっと夢に出演してくれたと思うとホッコリするような気もする。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000028599.html
ゼロ葬とは、宗教学者の島田裕巳氏が2014年に出した著書「0葬 あっさり死ぬ」(集英社)の中で提起した葬法。
冠婚葬祭なんてよくわからず年長者の真似をしてそういうものだとなんとなく学び、特に葬式なんて葬儀屋やお寺の言うままアレコレと準備してホイホイお金を支払って終わらせる人が多いと思う。
葬式、お通夜なんてしなくていい、お盆の時期に墓参りも掃除も必要ない。そう言うと年長者は目を剥いて怒鳴り散らすか困惑したまなざしをこちらに向ける。
私事になるが小生の嫁は昨年祖母を見送り、今年祖父が後を追うように亡くなった。両者コロナではなく大往生だった。
身重の妻はコロナへの感染を恐れ葬式に行くことをかなり悩んでいた。
結果、かなり配慮してもらった様なので参加してた。
妻とよく話すのは「葬式は亡くなった人への生者の配慮」であり、感情の問題とよく伝えていた。
だから妻には交際中から、高齢の祖父母とはよく話し相手の生きざまを聞くようにと言い聞かせていた。「彼らの価値観や選択の仕方を今のうちに聞いておけ。そうして何か問題が起きた時に彼らならどういう答えを出すか、それが分かるまで話した方がいい」と。
妻はのちに「あの時はそんなもんかなと思って話してきてたけど、いざ居なくなった時にも寂しいけど心がだいぶ楽になった」と言っていた。
葬式というのは、精神的にお別れさせるための大掛かりなセレモニーなのだ。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」とある。
本当にその通りだ。
そこには厳しい言い方だが愛する方の残骸しかないのだ。
場所によっては遺骨の引き取りも断れる。遠方で、もう高齢で、など様々な理由で墓に行けないことで罪悪感を感じずに済む。亡くなった人に今後の人生を拘束されなくて済む。
もちろん選択するか否かは一族の考え方もあるし価値観もある。小生は永代供養より墓そのもの、葬式という儀式そのものからの脱却をしてもいいんだという知識が広まればと思い書いている。
僧職なんですが、ね。
志村けん、俺の中でわりと大往生のシンボルみたいなところがあったんだよな
別にファンじゃないしたいして知らないんだけど、なんつうか大往生しそうな顔してるじゃん 優しげな爺さんで、人気も地位もあるときたらそりゃあ人に囲まれて穏やかに死ぬだろうと思う
そういう意味で、いい死に様みたいなことを考えるときに湧き出るイメージで死んでる爺さんはけっこう志村けんみたいな顔をしてることが多かった
でも実際はどうだ まともに最期の言葉みたいなものを遺すこともなく、家族さえ死に顔を見られないまま焼却ときた
なんだかなあ
死後の存在とか信じてないし、である以上は本人が死ぬときに満足できるかが一番大切!と思ってんだけど、あんだけ成功した人がこうも呆気なく死ぬものか
おっすオラネズミ!
絶対に行かないワニ!
会いに行きたくないワニ!
絶対に会いに行かないワニ!
物語になるような美しい平凡を生きていたワニ!
妾の子として生まれ、母を失い天涯孤独、死のうと思って軍隊に入ったけれど、馬を丁寧に手入れしてたら、気がついたら終戦してて、それで最近まで生きてたワニ!
イケメン、というか、旅の一座の女形が、夜中に夜這いに来るような、今で言うユニセックスな、そんなエキゾチックと言うかエロティックな人間だったらしいワニ!
なんか分かるワニ!
ばあちゃんは裕福な農家の末の娘かなんかで、どこで見知ったか知らないけど、そんなじいちゃんのエロさに射抜かれて、メンヘラになって、二人で駆け落ちして、自由恋愛の末に結婚したワニ!
じいちゃんは、そんなこんなでメンヘラばあちゃんと、ばあちゃんとの間にできた二人の子供と、家族になって、長い間生きてきたワニ!
つまりそれがもう終わるよって、
強烈に惹かれるワニ!
絶対に行かないワニ!
人間が死ぬという時、その人間に会いたくなる、その気持ちは分かるけど、じいちゃんに限っては、会いになんか行きたくないワニ!
そんなのポルノワニ!
もう少しで死ぬという人間を見に行きたいだなんて、そんな本能遡及的なイベントなんて、ポルノハブワニ!
じいちゃんはいつも遠い目をしていて、会話のテンポもゆっくり、というか、最初に頭に浮かんだこと、本当に言いたいことはそっと横において、それから、優しい言葉をじっくり選んで、ようやく返答する、そんな人間だったワニ!
そうやって、考えてるあいだ、視線は下の方に落ちていて、ワニはいつもその視線を追って、一緒に下の方を見ていたワニ!
でも下の方には何にもなかったワニ!
ワニがそうしていることを、じいちゃんは知っていたワニ!じいちゃんが知っていることを、ワニは知ってたワニ!じいちゃんが知っていることをワニが知っていることをじいちゃんも知ってたワニ!
だから、ワニと話すときのじいちゃんは、いつもより深く下の方を見て、いつもよりゆっくり時間を掛けて、でも、いつもより短い言葉で返答したワニ!
それが遺言ならありがたく頂戴するワニ!
お前には絶対に会いに行かないワニ!
新幹線に乗るまではしたけど、降りたワニ!
ママンには、なぜワニは最期のお見舞いに行かないかを滔々と説いた長文をメッセージしたけど、多分あれは世界一の駄文だったワニ!
ばあちゃんがキレようが、じいちゃんがもう少しで死ぬからじいちゃんを見物しに行くなんて、絶対にしないワニ!
ワニはじいちゃんが、死ぬからってよく喋ったり、死ぬからって何かを変えたりする動物ではないことを、絶対に知ってるワニ!
いままでそうやって生きてきたんだから!
まるで自分によく似た、哀れな動物が生まれてしまったかのように!
ワニは会いに行かなかったワニ!
癌細胞にむしゃむしゃされて、骨と皮だけになって、まるで原型を留めていないじいちゃんの写真を、姉ちゃんからラインでもらったワニ!
そして気がついたら死んでたワニ!
午前四時くらい、自力でトイレに這ってって、ズボンを下ろして、座って、力んだくらいのところで事切れたらしいワニ!
しっこより先にうんこが出るんだぞ
って言ってたの思い出したワニ!
葬式では、無言でぶらぶら、たまに棺の中を覗いたり、綺麗に整えられた死体を触ってみたり、ラムネのような冷ややかさに驚いたり、セレモニアルな悲しみにノッていけない、そんな感じを、じっくり味わっていたワニ!
じいちゃんの方の親戚が誰も来てないけど、本当だったワニね!
生物学上の父親が、お金を出してやるから大学に行きなさいってオファーしたのに、それを断って軍隊なんか入って、飛行機に乗れなかったから馬の手入れして、虚無に等しい玉音放送を聴き、気がついたらメンヘラの生命力に流されて、最近まで生きていたって、本当だったワニね!
わーお終わらないワニ!
全然終わらないワニ!
それでもう死ぬんですね
逃した!
自らの意思によって逃したワニ!
そんな目をするなよじいちゃん!
よく生きてたじゃないか!
大雪の日にノーマルタイヤで大丈夫って思う神経が理解できないんだけど、テレビ局のヤラセと思うくらい必ずと言っていいほどノーマルタイヤで大往生しましたってニュースが流れる。
テレビのインタビューを見ると「参っちゃいましたねぇ」みたいな反応。
一歩間違えば殺人兵器なんだよなあ。
「ノーマルタイヤだけどまあいっか」っていう精神はどこから生まれてくるのか。
どうしても移動しないといけない事情があるとしても、車を置いていくかレッカー車でも呼ぶべき。
チェーンくらい積んでおけばいいのに、とも。
スタッドレスタイヤを履いてる人からしたら、そんな人に道を塞がれたら邪魔でしかないだろう。
仕事終わりにはもう尻穴ほじくる余裕ないし、週末もつかれててもういいかなってなる。だから、連休のアナルオナニーこそが救いなんだよ。
八月に入ってからAVを見ることを自粛し、どうしてもオナニーしたいときは目をつぶって妄想だけをたよりに致すという苦行を課している。つまり、今回アナニーしたときも動画等は一切見ずにした。いやまあ、アナルを責められてアンアン鳴いてる女装コスプレ男優に感情移入するのは普通にまずいでしょ。
ちなみに、AVを見ずに半月ほど過ごすと心は平穏になる。けれども夏の服からチラリと見える女性の体にすごく敏感になり、猫が腹を上に向けてぐしゃぐしゃとなでられている動画をみて「なんてセクシーなんだ!」と感じるようになるという変化が感じられるぞ。
さて、アナルの記録に戻ろう。いつも通りアナルに指を出し入れしながら、ちんちんをしごいていたら普段は感じない繊細なアナルの感触に興奮した。アナルの出入り口付近に神経が密集しているのを感じる。これがお尻がキュンキュンして気持ちいって感覚なんか。30分近くベットに横たわりいじっていた。絶頂が近付くとちんちんと尻が一体となって快感が感じられ、突然に初めての感情に襲われた。「愛おしい」とはこういうことなのか。それはたとえるならば、この快楽の現場に誰かが立ち会っていたならば、たとえ誰でも「好きです♥」と言ってしまいそうだ。もっと極端に、「連帯保証人になって♥」って囁かれたら、うなずいてしまいそうだ。たとえ誰であっても。これまで知っている快楽とも違う不思議な感覚だった。
アナルをいじってるのに結局絶頂は射精で迎えてしまうのだが、それでも普通のオナニーとは全然違う快感を感じらるから楽しい。体感的には射精の快感が60秒くらい続き、全身が痙攣している気がした。すべてが終わった後はどうすることができなくて、10分くらい放心状態になり、やっと起きだして片付けを始めた。
大宮駅。
ここに務めていると様々な人がいる。
私の胸をガン見するおじさん。
言われたことを淡々とやり、マックでテリヤキバーガー買って帰る張りのない生活。
たまに連絡くると嬉しいんだけどね。
32歳の微妙なお年頃をわかっているのかね?
いろいろと諦めがついてくるんだけど、首の皮一枚つながってる生活に望みもあって、自分を捨てることに躊躇している。
時間とお金があれば北海道あたりに行ってみたいけど、私には田舎への出入り口大宮が性に合ってるのかな。
「こないだ事務所の社長が亡くなって家族葬に行ってきたよ。87歳じゃ大往生だよね。大先輩から後輩までいろいろと集まって、同窓会のようだった。みんなで集合写真撮った。」
すげー、150人の集合写真。
偉大な社長だったのね。。。。。
俺のZENSTONEが逝っちまったああああああ
まあでも2000円で2GBっつー当時の破格で10年もってくれたら大往生だよなあ・・・
すんげー使いやすかったんだよなー
液晶なしだけど触り心地で操作できるから見る必要なくてむしろ便利だったし
俺はほとんどつかわなかったけどイヤホンはずしたらスピーカー状態になるのも地味によかった
これはシを考えてる俺へのなんらかのメッセージっぽくてちょっとぞわっときたわwww
ちょうど身辺整理今週頑張ろうとしはじめたときにこれだからなー・・・
偶然とはいえ恐ろし屋
緑ランプ点滅状態のまま死ーんって感じだったけど今みたら点滅とまってて試しにボタン押したら再生できた
復活してた!
まだPCにつないで曲入れたりができるかは確認してないけど・・・
これは「やっぱ死ぬのやめたわ、お前もやめとこうぜ」みたいなことなの・・・?
うーむ
なあわんこよ、お前が数ヶ月前にぽっくり大往生してしまって、なんだか心がスースーするよ
もっと長生きして欲しいなんて口が裂けても言えないくらい、頑張って頑張って長生きしてくれたし、最後の一瞬まで私の腕の中にいてくれたよな
だから多分、こんなこと思っちゃだめなのかもな
お前のおかげで犬がどんなに素晴らしいか身をもって知ることができたよ
でももう犬は飼えないな
お前が一番私のことを理解してくれてたから、多分犬を飼ったらお前と比べてしまうから、そんなの悲しいもんな
ほんとはすごくすごく寂しくて、なにかで埋めたくてたまらないんだ
でもなんかさ、だめなんだろうな
お前の形で空いちゃった穴が塞がるのも、実はちょっと怖いんだ
いわゆるペットロスみたいに食欲なくなったり体調崩したりしてないからそこは安心して欲しいな
でもほんとに、ありがとうね
進学で早々に家を出てしまったけど、同居の祖母には色々と世話になったので、過去に何度か医者に「いよいよ危ない」といわれた時には慌てて帰省していたけど毎回持ち直していたので「お前の顔が見たくてだ」なんて笑っていた。
最後は自宅で面倒を見ていた祖父と父に看取られて亡くなったそうだ。
人が死ぬってあっけないんだな。
虫の知らせもなかったし、夢枕に立つなんてこともなかった。
このご時世に大往生というには早いけどそれなりの歳だったはずなのに、社交的な祖母を偲んで集まってくれた同年代の祖母の友人たちはまだまだ矍鑠としていたので、ますます祖母が死んでしまったのが不思議に思う。(祖母より先に死んでる祖母の友人もたくさんいるんだろうけど)
家族の誰よりもいい笑顔で写っていたその写真を、藤色の着物を着たように加工してもらった。当時のデジタルデータが残っていたせいもあるのかわからないが1時間せずに出来上がったのにはびっくりした。
写真からいつもの笑い声が伝わってきそうだ、なんて弔問客からも評判が良かった。
祖父含め家族全員が身内で葬式を主宰するのが初めてで、いろんなどたばたがあって、今こうして帰宅するまで全然悲しむ余裕がなかった。
今になってもう会えないのか…と悲しくなってきた。
とはいえそう頻繁に会える距離でもないし、人の望み通りには生きられないし、都度都度悲しむしかないんだろうな。
母方の祖母からは「赤飯を買って食べろ」「これは嫁の実家のつとめだから」と千円札を握らされたのだけど、ちょっとボケ始めているせいもあってどういう謂れのある行為なのかがはっきりしない…
母親は「精進落としの赤飯は聞いたことあるけどそんな決まりは知らない」らしい。
そういう田舎の話ももっと聞けたら楽しかっただろうけど、もう遅いし、人生には限りがあるし、もっと優先したいことがある。
生きてても死んでもいろんなことがあるんだなー
・喘息もちなのに寂しすぎてハムスター(アレルギー源)を飼ってしまって呆れられる。寿命で見送ったので次を飼うのはやめた。若い頃結婚して子供生んだあと離婚しているので子孫はどこかにはいるけど会いにこない。50すぎて再婚し結婚式もあげたがその人が人生を少ししかいっしょにすごしていない女に年金の一部を奪われるのがいやだといいだして結局離婚された。まあそんなもんかって感じ。その後親(90代大往生)の葬式にタクシー代などがないし宅配の受け取りをしてくれる人が他に居ないから出席できないといって断ったことで姉(既婚)に怒られたけど生前見舞いにいけたからいいや。もうこのまま生きていくだけ。(70代)
・出版社勤務。一度鬱になったけどなんとか治った。その後同業他社に転職したので調子がいい。お金をためて終の棲家用のマンションを買った。本が好きだが積みすぎてうっかり二冊目を買ってしまうのでメ○○○マ○カ○がサービス終了したのが悩み。あとパソコンや電気配線が苦手なのが不便。最近は歌舞伎がおもしろいとおもうけど、仕事の都合や健康上の理由でチケットの日に劇場にいけず空き席をつくってしまうのが悩み。まあしょうがないか。(40代)
・頭がいいのにものすごく気が弱い。大学ごろからストレスがマックス(肉食系の大学の肉食系の学部に入った。今でいう、手足切断絵をみせられる美術系大学みたいなとこ)。そこでメンタルの持病を得てしまったが、いい薬がでてきたので年上の職人系の人と30後半に結婚できた。40前半に一人子供を生んだ(初産)。でも気弱なのでしつけがうまくできない。毎回、窓からおしっこを庭にむけてする子。近所から苦情がでると言っていさめているが、止めてくれない(入学前)。育児とは別に同居の舅がちょくちょく嫌がらせを言ってくる(と思っている)。ダメだと思うと実家にもどったこともあった。増田はたぶん今は離婚でお一人さまになってるのかなと思っている。できれば婚姻継続しててほしいけど。(40代)