はてなキーワード: 同義とは
ああもうダメだ、おれは嫌になったぞ、ってタイミングでさ、バッと立ち上がって、手を頭の後ろにやって、「くらえ!」とか言いながら、腰を前後に振るわけ
そうすると、おれの破壊意思に呼応してチンポが伸長し、スラックスを突き破って職場に破壊を振り撒くんだよなあ!
最初の一振りで、上階まで貫いて建物をほぼ両断!そんで、グルッと回ればそれはもう巨大な竜巻と同義であり、職場どころかその近辺、半径百メートルくらいが、ズタズタの更地ですよ
そんで、そこから生じた上昇気流により、雨が降り始める 雨がチンポを濡らす それははじまりに過ぎないわけ
地元警察をチンポで破壊、県警をチンポで破壊、機動隊をチンポが貫き、自衛隊すらチンポが薙ぎ払う
米軍をチンポがスワイプする頃には、世界ニュースは俺のチンポしか映さなくなっている
そうやって全てを破壊して、チンポに包まって寝たいよ
まず大前提として、自分は某暇の人格は到底褒められるものでは無く支持出来ないという立場。
後結構前からブロックされているので個人的にムカついた私怨もある。(多分山本一郎や東野先生をフォローしてたからだと思う。後に後者はミュートからフォロ解)
よくColabo問題は暇空一派(暇アノン)の暴走であり、第二の余命事件だと指摘されている。ブクマカでも同様のコメントは多い。
そういう事にしたいのだろうし実際「お前がそう思うならそうなんだろうな」という感想で特に主張者に対し異論を挟むつもりは無いのだが
よって余命事件と安易に結びつける人間は基本的に党派性エコチェンバーか対立煽りカスなので一切無視して良い。
ブクマカならブロック推奨。問題を語るにおいてはただのノイズでしか無い。
ざっくり言えば思想的に偏った(と認定された)弁護士に対し余命というネトウヨアルファがネトウヨを扇動し大量の懲戒請求をかけた事件である。
表自風に言うのであれば「キャンセルカルチャー」「表現弾圧」の類である。
末路としては哀れネトウヨは返り討ちに遭い余命一派は訴えられて終了した。哀れっすねマジでw
多分自分達だけで無く、当のネトウヨからも黒歴史中の黒歴史扱いされてんじゃないかな?
弁護士の主張がおかしいのであれば言論で対抗すべきで、キャンセルカルチャーを人海戦術で仕掛けるのは頭のおかしい野蛮人がやる事である。
余談だが、当時の肌感で言うのであれば既に「ネトウヨ」が小馬鹿にされつつあった時代であり、余命にしても一部の極まったエコーチェンバーが騒いでいた程度の印象だったが
あの事件と在特会の体たらくが「ネトウヨは暴走し民主主義を否定する愚かな国粋主義集団」であるというイメージを決定づけた様に思う。
余命事件の場合は所詮はごく一部の弁護士が思想的に偏っているだけであり、その職務を妨害し仕事を奪う事に公益性は皆無である。
弁護士がおかしいと思うのなら、おかしいと思い支持しなければ良いだけだからだ。
それに思想信条の自由がある以上、その弁護士とやらが明らかな犯罪や倫理的にアウトな言動をしない限り、個人の自由である。
余命事件は日本国憲法の理念を踏み躙り凌辱しようとした文化的集団レイプ事件であると言えよう。
そこに正義は無い。ある意味憲法が嫌いなネトウヨらしいけどなw
しかしColabo(等の支援団体、社団法人)の場合は、余命事件とは異なる、しかし重大な違いがある。
Colaboらには多額の公金(税金)が支出されている事である。
公金が入っている以上、団体の活動にはある種の公共性・公益性が求められる為
思想信条の極端な偏り、及びそれに伴う公共性に欠けた事業や活動が行われる事は問題を超えた問題である。
公金の源泉である一般市民の公益性に反する可能性が高いからだ。
自分たちが望む政治的な活動がしたいのであれば、支持者の寄付金等の自前資金で活動するべきであり
故アベ首相のモリカケサクラ問題が未だに糾弾されているのも、政権が一個人・団体に便宜を図ったという事実は
①被支援者を政治活動(辺野古基地反対運動など)に参加させた事
③「リーガルハラスメント」「住民訴訟の濫用」等の造語により民主主義を否定した事
強い公共性が求められる公金事業で、本来であれば最優先で保護すべき被支援者を政治活動に繋げた事は
事業内容、ひいては団体の活動理念自体が一般市民の公共性・公益性に反していると認定されても仕方ない。
この点は他のブクマカや増田でも指摘されていたと思うが、本来政治色を最も薄めねばならぬ筈の支援事業で
事もあろうに被支援者(一般市民に含まれる人達)を政治活動に参加させる事は、最もあってはならぬ事である。
「あくまでも自主的に参加しただけ」という言い訳もあったが、支援者と被支援者という権力勾配の関係下において
団体の人間に「参加しよう!」と言われたら、果たして断れるだろうか?
被支援者が断って不利益を被る、と考えてしまうとは思わないだろうか?
ましてや生活困難な若年女性が、その生活を支援されている状況で断固として断る事が出来るのだろうか?
これを「全て問題無い」と言い切れる輩は、党派性エコーチェンバーか公共性の意識に極めて欠けた人間だろう。
政治活動自体は個人の自由ではあるが、その活動を支持しない人間にとっては公益性があるとは言えないだろう。
極端な話をすれば政治活動とはその理念に共感する支持者達だけが享受可能な私益であり公益性からは程遠い。
公金の支出元には、その理念を支持しない人間も当然含まれるからである。
私が与党色の強い政治活動を到底支持出来ない様に、政治的活動・思想を支持しない自由は当然尊重されるべきであり
政治色の強い活動に公金の一部が使われている(疑惑がある)事を容認しない姿勢も同様に尊重されるべきだろう。
会計の問題、疑義についても、公金が入っている以上公明正大な明朗会計が本来は為されるべきではあるのだが
残念ながらその理念に欠けている、または人的資源の問題により達成出来ない諸団体が多いのが現状ではある。
不正というよりは不適切・不適格な会計処理が存在した、というだけの話ではあると思うが
主に政治活動に使用された費用についてはそれは公金なので返金するべき、というのが自分のスタンス。
支援活動と政治活動の境目をなあなあにして不可分にしようとしている(様に見える)点については
個人的には「良かれと思って」やっている事だとは思うが、良かれと思って公共性に反した行為をやって良い訳では無いので
今一度公金、つまり一般市民の税金が使われている自覚を持って、後処理にあたるべきである。
私的な政治活動を団体の活動と繋げたいのであれば、自前の資金でやれば良いだけの話なのだから。
③はColabo及び支持者の主張だが、裁判・住民訴訟を起こす権利は、国民全員に等しく付与されているものであり
何がリーガルハラスメントなのか、住民訴訟の濫用であるかは、法の平等の下、法的に認定される必要性がある。
認定されなければあくまでも一方的な主張であり、その一方的な主張をマスコミを使ってさも事実であると喧伝した事は
法の下の平等の否定、基本的人権の否定、ひいては民主主義社会の否定であるとすら考えられる。
例えどんなに暇空が悪質な人間であろうとも、活動に疑念を感じ裁判を起こす権利、住民訴訟を行う権利は
まるで「何がリーガルハラスメントか濫用かは我々が決める」と言わんばかりの強気な態度は
公共性・公益性が求められる公金事業に関わるべきでは無いし、関わってはいけなかったのでは無いか?
という疑念を強くさせられる。
「良い事をしているのだから良い団体なので何も問題は無い」「良き事をする人達に指摘するのは悪である」
という意見を語るブクマカや増田も散見されるが、まさしく思考停止に陥ったエコーチェンバーに他ならない。
「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉の意味を理解出来ないものだと思われるが
善意だから多少のミスは許せ、公共性に反し被保護者含めた一般市民の公益性に反しても「良い事」だから許せ
というのは、自民党やナチスを盲目的に信用する脳みその無い家畜と何が変わらないのだろうか?
恐らくこういった趣旨の意見を書く増田やブクマカは多いだろう。
「陰謀論だ!」と断定するのは、時期尚早と言わざるを得ない。
そもそも公共性のある問題に対しての疑義を「陰謀論」として片付けるのは
ナチスがユダヤ人の主張を「ユダヤの陰謀」として弾圧したのと同義に思えてならない。
統一教会問題が、山上が最終的事件を起こすまで陰謀論として語られていた事を知らないのだろうか?
北朝鮮拉致事件が「差別主義者の陰謀論」として、有識者や議員までもが堂々と主張していた事実を知らないのだろうか?
ある事象に対する疑義が余程の荒唐無稽では無い限り、真か否かが証明されるのは裁判の判決であったり
少なくとも私には現時点ではかの暇らの疑義が全て陰謀論だと否定する根拠を持たない。(と同時に、全てが真実だと信用たる根拠も持たない)
アノンとカテゴライズし陰謀論者の烙印を押せば全ての疑念が封殺されるのは民主主義の否定に繋がる。
先人達がその血を持って築き上げた市民社会の理を否定する道理があるとするならば、陰謀論を語るものこそその道理を証明すべきだろう。
不可能だと逃げるであれば、それはただの陰謀論を語る陰謀論者でしか無く、余命事件に群がった脳みその無い家畜の群れと同等である。
ネトウヨ版キャンセルカルチャーと言える余命事件には公共性が全く無い一方
公金が支出された事業に対し「公共性(公益性)に反しているのでは無いか?」
例え発端がひょんなきっかけ(笑)であったとしても、実際の行動に公共性・公益性がある以上
それを否定するという事は即ち民主主義の否定に繋がってしまう。
勿論単なる誹謗中傷などは裁判で争って下さい敗訴したら当然の報いを受けろカスとしか言い様が無いが
(そして裁判の結果が確定するまでは 推定有罪で冤罪を発生させた草津事件の再来になってしまう)
その誹謗中傷の中に、「公共性・公益性が求められる団体への疑義」を含めるのは間違っていると考えられる。
公共性・公益性を否定されたのならば、我々の活動には公共性も公益性もあるという事を法的に証明すれば良いだけなのだ。
それをせず、前段階で御用マスコミやしばき隊という左翼版在特会みたいな連中を使って騒ぎレッテルを貼り
あるいは訴訟を匂わせ時には個人情報まで使って威圧し異論を封殺する行為は、権力・権威による一般市民への弾圧そのものであり
これこそまさに、集団による威力業務妨害で弁護士の職務を妨害し、圧力によって黙らせようとした余命事件と同じでは無いか。
マスコミや党派性エコーチェンバー集団を使い大合唱で正当性を主張した所で、単なる迷惑なノイズでしか無く
今まで同様のやり方で正当性を獲得してきたオールド左翼のやり方は極めて公共性が無く公益性に欠ける愚行であるので
悔しいながらも住民訴訟については最後までやり切る事を支持せざるを得ないし
その途上で間違ったレッテルを貼り妨害する愚行も、同様に否定していかなけれなならないのが、リベラリストの苦悩であるとも言える。
党派性エコーチェンバーの下らない反応は予想していたが、概ねテンプレート通りで何より。
右のアホも左のクズも同じなのだが、根拠もまともに示さずにジャーゴンのレッテル貼りを繰り返すばかりでは
サイレントマジョリティからの共感など到底得られそうに無いが、そもそも議論をする気も、議論をしようと試みる理性も無いのだろう。
知性はさておき品性に欠けるのは最近の自称左派の主流になって久しく、リベラリストを自認する者としては甚だ残念である。
過去のネトウヨと同レベルに陥り、失敗したネトウヨが外面を整える事を身につけた結果、相対的に自称左派はネトウヨ以下に成り下がった。
党派性に囚われたエコーチェンバーは知性と品性を貶める証左と言えよう。
アニメ漫画を叩かれてという動機が私怨だから公共性・公益性は無いというブクマカもいたが、これもまた程度の低い人治主義でしか無い。
例えばモリカケサクラ問題を追求した人間の中には安倍首相・安倍夫人に憎悪・敵意を抱いている人間は少なくなかったが
安倍を憎んでいるから不正を追求する事は即ち私怨である、とはならないだろう。
発端がどうであれ実際の行動が公共性・公益性に反する動きを追求する行為から大幅に逸脱していなければ
嫌がらせや妨害では無く(少なくとも法的には)「正しい行為」となる。
正しく無いかどうかは、議論であったり法治主義による判断の結果によって定められるべきである。
アイドリッシュセブン(アイナナ)を知って今日でちょうど100日経った。
我ながらもの凄いハマりようなので、心が荒んだおっさんにこそアイナナを薦めたい。
アイナナは女の子向けのコンテンツとして男が疎外してしまうのは、非常にもったいない。
だから、主にこの文章はおっさん、そして特に子持ちのおっさんに向けて書くものになる。
何を書けばよいのか全然まとまらないうちに書きはじめたし、そこそこ酔っていることもあり収拾が付かない可能性が高い。先に謝っておく。
まずは簡単に自己紹介をしておこう。私は30代の2男1女の子どもを持つマネージャー(アイナナファンの通称)だ。
アイナナの存在を知り、メインストーリを6部まですべて読んだ後、アニメを3期(53話)最後までみて、ムビナナ(先日千秋楽を迎えたアイナナの映画『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』)に8回通った。アイナナを知ってから全部一ヵ月以内のことである。
もちろん仕事はフルタイムだし、土日は家族サービスDayである。なにか狂気的なもの感じるかもしれないが気のせいだ。大したことはない。ムビナナに関してはもっと行っておくべきだったと反省すらしている。
仕事関係者も見ているTwitterで一ヵ月アイナナのことしかツイートしないなど大事故を起こしたのも懐かしい。(今はアカウントわけたよ)
そんな私がなぜアイナナになぜハマったのかを説明する前に、何故アイナナを知ったのか。まずはそこから説明させていただきたい。
今まで私は重課金されるようなゲームを触ったこともなく、重課金税の気持ちがわからないでいた。いわゆる落とし切りのゲームしか知らなかったのである。
このままだとなんだかビジネス的にもエンタメ的にも機会損失しているような気がしていたので、何かしらやってみたいとは前々から思っていた。
「ウマ娘は競馬のことよくわらかんし、とりあえずアイマスは聞いたことがあるからアイマスやってみるか」とアイマスをAppStoreで調べはしたが、アプリが複数出てき、そこで挫折した。まさにおっさん。
若いころはOSのアップデートなんて嬉々としてやっていたが、年を取った今、OSのアップデートなんて恐怖の対象になってしまうようなお年頃なのだから仕方がない。
身近にアイマスのことを聞けば教えてくれる知人は数人思いつくものの、そこまでする必要はないと思い続けてきたからこそ、今まで手を付けられなかったともいえる。
ちょうどそのタイミングで知人同士(この先輩マネの存在がものすごく大きかった)がアイナナの話で盛り上がっていた。「じゃあアイナナにしてみるか」とアイナナを調べたらアプリが一つしか出てこなかった。
さあこれで第一の難関である「インストール」をクリアしたわけだ。
インストールしたはよい。何をやればよいのか。やたらとメニューがあるぞ!これは冷静に考えれば当たり前で、当時は知らなかったがアイナナは8年前にリリースされたアプリだ。
そこで先輩マネージャ達が「とりあえずストーリーをやれ。ただし〇部の前にこのサイドストーリを読め」と初心者が陥りがちな罠をあらかじめ封じてくださったのである。(アイナナはストーリー+音ゲーで構成されているゲーム)
もうここまでお膳立てされたなら走るしかない、見つけ出したチャンス絶対逃せない!
ゲームシステムの解説だったり、各種グッズ関連(代行注文してもらったり映画の半券を譲ってもらったり)、過去イベントの解説をしてもらったり、過去の8年間と今をつなぐようなフォローをいまだにして頂いている。
つまり、よき先輩マネがいたことがとても大きかった。これは私の最大の奇跡だったといってよいかもしれない。その二人の存在がなければ私はアイナナを知ることすらなかったし、知っていたとしても挫折していたに違いない。
ストーリーは無料で最後までフルボイスで読めるので、ぜひお時間がある人には読んで頂きたい。最悪、相性が悪くても溶けるのは自分の時間だけである。推し活につながるかもしれない期待値に比べればたかが知れている。
掻い摘んで言ってしまうと、16人のアイドルが自分の過去を乗り越えたり、芸能界の荒波に揉まれながら成長し輝いてく物語である。
ストーリが完璧にできているかというと必ずしもそうとは言えないのだが、16人のアイドルが個性的で実に良いのである。
「16人?多すぎじゃね」と思ったそこのあなた。そう、最初は多く感じる。私もそうだった。名前すら覚えられなかった。しかし、それを乗り越えるための仕掛けが名前や音楽記号(キャラクター毎に音楽記号が割り当てられている)等にちりばめられている。しかも声優の仕事が良いことも相まって自然と覚えることができる。おっさんでも覚えられる。心配しなくてよい。ポケモンに比べれば全然少ない。昭和生まれのおっさんでも151匹程度は覚えただろ?
1/10だ。
メインとなる16人のアイドルは年齢で言えば高校生~20代前半というのも良い。数年後の自分の息子達と重ねてしまうし、新卒で入社してくる子たちと大差ない。
つまりストーリーを読むということは子どもたちや新卒の子たちのプライベートを見守るのと同義で、荒波に揉まれ、過去の自分と対峙している姿をみれば「頑張れ!」と応援してしまうのは必然なのだ。
そして、彼らには我々おっさんが仕事で目にする人間の汚さというものが全くない。清いのである。清すぎて尊いと言っても良い。メンバー同士で喧嘩していても名言が出てきてしまうくらいに相思相愛な彼らだ。自分の子どもにもこんなに思いあえる仲間ができてほしいと思ってしまうくらいだ。
そうなると、もう彼らは自分の子どもと見分けがつかないくらいに愛おしく感じてしまうのは時間の問題で、かくして私には新しく16人の息子ができたのである。きっとあなたにもできる16人の息子。
さぁ、そんな各アイドルのキャラクターも良いのだが、極めつけがムビナナだ。先日千秋楽を迎えたが、まだ上映している劇場はあるらしい。
あの映画の完成度はおかしい。狂気と言ってよい。千秋楽を迎えた後の今いうべきことではないかもしれないが、絶対に大画面で見るべきだし、欲を言えばドルビーシネマで見てほしい。
映画といってもストーリーなんてほとんどない。16人が歌って踊って合間にちょっとMCをはさみながら、ひたすらライブとして彼らがアイドルをしている姿を観る映画だ。後述するが20~30回程度見てからが本番であとは観れば観るほど寿命が延びるようなシステムだ。
子持ちのおっさんなら子どもの授業参観というイベントには参加したことがあるだろう。こんな友達とこんな環境で勉強をしているのかと色々な発見があって楽しいイベントだ。
では、もし自分の子どもが仕事をはじめたとして、仕事参観ができるとしたら?本当にしっかり仕事できてるの?お前の能力は発揮できてる?授業参観とは比にならないくらい色々と見てしまうはずだ。いろいろと思うところもあるだろう。でも現実的ではないんだよなぁ。
しかし!!!それを実現しているのがムビナナだ。おわかりか。子どもたちが目の前で仕事をしているんだよ。それも、とてつもなく素晴らしい仕事を。凄い演出と音楽と舞台とで。そうなると自分の子どもを引き立ててくれるすべての関係者に感謝を覚えるようになり、それが生きとし生けるものすべてに感謝できるだけでなく、それが存在するこの宇宙に感謝。そして、それらを育んできた過去の全ての出来事に感謝できるようになる。つまりムビナナを見るということはアルファからオメガまで感謝できるようになるということだ。
故に全てのストレスから解放される。だから寿命が延びる。ムビナナおよびアイナナは決して沼なんかではなく名湯であるとここに明記しておこう。
話を戻す。
ムビナナは狂気と言った。どこまでこだわればこんな作品ができるのかいまだに理解できない。
「個性的な16人」と前述したが、立ち絵のストーリしか見てないのに、ダンスの動きを見るだけで誰のダンスか見分けることができるほどの個性であることをあなたはまだ知らない。
意味が分からないかもしれない。だがストーリーを読み切った人に「ダンスで一番動きが大きそうなキャラは?」と聞くと多くの人は三月と答えるだろうし「ステージから客席に手を振るときに両手で振ってるのは?」と聞けば環と答えるだろう。
ストーリーにダンスの描写なんてほとんどないにもかかわらず各キャラクターの「らしさ」がストーリーにはふんだんに埋め込まれている。それをとことん回収していくのがムビナナなのである。モーションつくったソリッドキューブの仕事がマジ凄い。
それを16人やってのけている。驚異的なことだ。あなたは思ったかもしれない「だったら16回見れば良いの?」と。全然違う。違うんだよ。素人は黙っとれ。
私のムビナナの初回の感想は「目が足りない」だった。アイナナだけでも独立する眼球が最低でも7つはないと全く追うことができないなと。
彼ら自身も十分に魅力的ではあるのだが、同時に彼らの「関係性」もまた美しく尊いのだ。
つまりムビナナを楽しむためには人類を超越した何かにならないとならない。
しかしそれは叶わない。何かをササゲても叶わない。だから数をこなすしかないのである。
故に20回くらいは普通に超えてしまうものなのである。むしろ20回を超えたあたりから、ようやく2つの眼球で見るスタート地点に立ったといってもよく、そこからが本来のムビナナを楽しめるといっても差し支えない。そこ、脳筋とかいうな。
ムビナナに通っていると、自分の精神状態を大きく二つに分類することができるようになる。「ムビナナを見ている自分」と「ムビナナを見ていない自分」だ。
ムビナナを見ている自分は大体「尊い」の感情に支配されている。そして見ていないときは「ムビナナが見たい」という思いに支配されている。
それに気が付いた私は思った。「あ、自分って単純」と。そう思えると、今の自分の悩みなんて大したことはないんだと、ムビナナのおかげで気が付けるようになる。
だが、寿命が延びるなら治療する必要はあるまい。むしろ大いに歓迎されるべきではないか。公衆衛生の観点から言えば、ムビナナ鑑賞券は国民皆保険制度の適応対象とすべきだろう。厚生労働省は仕事しろ。
言いはぐっていたが、実はアイナナは音楽もよい。すごくよい。ランティスだ。何十回だって、何万回だって聞ける。
楽曲提供は小室哲哉やヒャダインもいるし、先月の新曲はANCHOR、今月は浅倉大介だった。つまりマネージャがお金を落とすサイクルを確立しているコンテンツなので、楽曲にも力が入れられる強者の運用をできるのがアイナナだ。
故にストーリーなしで曲だけ聞いても楽しめる。全方向からのアプローチを受け止めらるアイナナ凄い。あやかりたい。
このように楽曲にも恵まれ、8年という時間も相まって100曲以上の楽曲をリリースしてきたという実績がアイナナなのである。
書きたいことの5%も書いてないし、終始取り留めない文章になってしまったが、時間も時間なのでこのあたりで勘弁してやる。いえ、勘弁してください。
何か思うところがあったらアイドリッシュセブンをぜひインストールしていただきたい。掴み取れば明日は何色にも変わることをおっさん達に知ってほしい。
その後はこちら
埼玉県の虐待禁止条例を期待していたが、断念とのことで残念だ。
虐待を禁止できると期待していた。あれこそが正しい安全をもたらしてくれると思っていたのに。
世間では厳しいという声が聞こえるが実際あれはまだまだ不備がある。
もっとちゃんと子育てをしなくちゃならないし、ちゃんとした姿を法律で示さなければならない。
まず、放置禁止はそうなんだが本来であれば、子供を視界から外すことは禁止にしなければならない。
保護者や監督する者が視界の中に必ずとらえておくこと。まばたきをしないのは努力義務で。本来であればすべきではない。伝説ではまばたきをした瞬間に神隠しなどが起きているが、発生確率と保護者の負担を考えればまばたき禁止は努力義務が妥当かなと思う。
また、これらの罰則規定はないとしているが、罰則は設けるべきである
虐待をされたということは、心が死ぬのと同義なので、保護責任者遺棄致死罪と同じく3年以上20年以下の懲役が妥当だ。
1:
”私の主張は、「オタクコンテンツのロリと小児性愛は同義ではないのに、相互理解がないせいで、オタクは自分の好きなものを貶められて悲しいし、非オタクは小児性愛という重大な危険を茶化されて恐怖を感じるし、お互い不幸だから分かり合えたら嬉しいのに」って内容”
2:
”ロリ神があまりにも良すぎてバズった結果、見たくない人の目にも入ってしまい恐怖を抱かせたという構造上の問題があると思ってます。”
そもそも私は先程から1じゃなくて2についての話をしている。2に対して言ったのは次の文章である。
3:”見たくないがどうのと言うならフェミ思想とか見たくないけどネットしてたら勝手に流れ着いてくるし表現規制される恐怖を感じるんやけど。”
加えて、
1は相互不理解により互いが不幸になっているのという相互理解の不十分さを問題の焦点にしており、
2は見たくない情報が勝手に目に入ってきてしまい恐怖を感じてしまう、というネットの性質上仕方がない構造的な問題を焦点にしている。
俺の住んでる世界ではフェミニストだろうがミソジニストだろうがミサンドリストだろうが左翼だろうが右翼だろうが
極めて特殊な体質だったり何かしら偉業なしてたり逆に歴史に残るような重大犯罪してたりするわけでもないそこらへんの凡夫はみんな「一般的な人類」の範疇で
これもホモソの幻想「真面目に生きて真面目に仕事や勉学を頑張っていたら、『努力の褒美』として自動的に努力に見合った女が現れて惚れてくれる」というもの
論理的思考ができる人間なら、女性はそれぞれ自分の人生を歩んでいるだけであり、個人それぞれに意思と思考があるだけであり、そんなことは普通ありえないと分かるはずである。
このように、日本男児は知能指数がクソ低くても評価されてしまうため、普通の人ヅラしてるバケモノが量産されてしまう。
メディアのアンケートなんか、みんないきなり聞かれて数秒で適当に答えてるのでそんなものを「女性の総意だ」と信じているのも、知的障害を疑うレベル。
また、男性のやらかしと言うのは基本的に男性からは見えないものである(1人でも女性の親しい友人がいたら一瞬で分かることなのだが、この人物には女性の友人は1人もいないのだろう)
友人として遊びを共有するだけの関係は誰でも繕える。深く強い感情を伴う継続的で密接な人間関係とは全く別である
ほとんどの男性は男から性的対象にされるわけではないので男性を正しく評価することはできない。(ホモに対する評価を女性が正しくできないのと同じ)
さらに言うと、ほとんどの場合、DQN男性と付き合ってるのはDQN女性。
暴力的男性と付き合ってるのはPTSDや虐待被害者というごくごく一部の超例外的事例。
全男は股間に釘を打ち込まれるのが好きと言ってるのとほぼ同義である(極まったM男性は好きだろう)
つまり、こいつが恨み言を言ってるのはこいつがモテてないからであり、それは自分のレベル感を見誤ってるからで、自分に釣り合った女性よりもランクの高い女性を望んでいるからではないか?
『お前が高望みしすぎなだけ説』が濃厚。