はてなキーワード: より子とは
それを見て「あーこの人は親に踏みにじられたことがないんだろうな」と思った。
毒親に人生を踏みにじられた子供はいつまでたっても毒親に怒ってしまう。
それが他人の親であってもだ。
なのでいくら毒親から離れてくらそうが、いくつになろうが毒親にちゃんと育ててもらえなかったという呪いが付きまとう。
普段は押し込めていてもネットで子供を大切にせずに、自分を優先してばかりいる親をみるとそれはもうとんでもない怒りに駆られるのだ。
例え毒親が50歳になっても60歳になってもそれはかわらない。
親は親。子は子。もういい歳なんだからと言われても呪いだから解けないのだ。
毒親は素知らぬ顔であなたたちもいい歳になったのだから私たちは自由に生きるわと言う。
そんなんじゃ子供たちはどうすればいいのだ。
勝手に産んで、勝手に自分のエゴを押し付けて、勝手に子離れして自分より子供めいた言い訳で恋愛にうつつを抜かしだす。
もうんざりだ。
数年前、歯医者の待合室でぼーっと順番を待っていてふと気がついたら、先に治療をしていたっぽいちっちゃい子を連れたお母さんがお会計をしていた。
子供が泣いていたのかどうかも思い出せないから多分そこまで強烈にぐずってた訳じゃなかった…ような気がするけど、私が記憶してないだけで相当ギャン泣きしてたのかもしれない。
治療が出来なかった?みたいで、お母さんが縮こまってしまってるというか憔悴してるというか何で親なのに…って自分を責めてそうっていうか、まあそんな感じだった。
お金払った後次回の予約の話してたんだけど、受付の人が別に何ともなしな感じで「大丈夫ですよ~よくありますよ~」的な事そのお母さんに言ったらお母さんそこで泣き出しちゃった。
受付の人は別に驚いた風でもなく泣かないでという訳でもなく優しく「大丈夫よ~」って言ってた。
そこそこの大きさの駅の近くのショッピングモールの中の歯医者でいつも結構混んでるし実際ギャン泣きしてる子も違う日に見た事あるし、実際子供泣いちゃって治療をうまく出来ないって事はすごい頻繁にある訳じゃないけど別にそこまで驚く程少ない訳でもないんだろう。
けど歯医者に来たのに治療受けさせられなかったってのはやっぱり思い詰めちゃう人はすごく思い詰めちゃうんだろう。
今考えるともしかしたら虫歯にさせちゃった?のも気にしてたのかも…
受付の人は多分お母さんより少し年上なんだろうなってくらいの人だったしその辺わかるからああやって声かけたのかもなと思った。
子供が泣いちゃったのも治療がうまく出来なかったのもお母さんが泣き出しちゃったのも全部「大丈夫」だって事かな。
実際お母さん頑張ってそうだったもんな…お母さん頑張ったって子供は怖いもんは怖いもんなあ…
あの場面でお母さん十分頑張ってるよともそんなに頑張らなくてもいいよとも言わずに「大丈夫」ってのはすごく適切な言葉掛けだったんだろうなと後で思った。
しかしあの歯医者、いつも混んでて評判も良さげだからか時々変な人というか図々しい人?おかしい人?もいる。
何か一週間後位に入院するからそれまでに全部治療してほしいらしく、でもそれを自分からは言わず何とか先生の方からOKと言い出させようとしてるオッサンとか(先生はのらりくらり)、他の歯医者でやったレジン硬化の光がいかに痛かったか(ジェルネイルとかと一緒でUVライトの硬化時に熱が出たのが痛かった…?)いかに対応が最悪だったかを本当ずーーーっと語ってる人とか(歯科衛生士のお姉さんがずっと話聞いてた…)、おそらくそんな人たちかわいい方なんだろうけど歯医者さんも大変だな…と思った。
個人的にそういうのより子供が怖くて大泣きの方が予約時間が押しちゃっても理解出来るし納得出来るんで、変に横柄にならなければまあだいたいの人はすごく機嫌よくかは別としてきっと本当に「大丈夫」です
ほんと、スケーリング終わっても絡んでるオッサンより本当に大丈夫だから…
治療初日とかむしろ心の中でギャン泣きしてる子供に同意しまくりで心臓バクバクだから…
何度行っても最近の治療痛くないとわかっていても怖いもんは怖い。
笑気ガスって使ってくれるのかな?使ってる人見た事ないけど。
将来への不安、死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分の場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。
自分も自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的な経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。
そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。
原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。
ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。
でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事に対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較的ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。
自分の「つらいきもち」の正体は自分の歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。
一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃんと表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)
今認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。
「毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間がいるから面倒だし、言葉が暴力的にストレートだから別の表現が必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。
幼い頃から刷り込みで自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的に自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。
虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定をデフォルトとしてしまうことが挙げられる。
この自己否定はポジション的には超自我とかにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分の人生の課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。
それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。
思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。
休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると
とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。
うちの場合は問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプの人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間は問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち。
兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。
去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的に問題の改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう。
少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。
去年あたりから「自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分が経験させられた事を「親からの虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。
昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。
そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。
自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。
初めの方で書いた「その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解をちょっと整理したいと思う。
大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。
自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。
自分の欲求をちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分の場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的な刷り込みの存在が強いと思う。
親から虐待や人格否定を受けることで幼い子供の自己認識は「自分は無力な人間、ダメな人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。
それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待、人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的な刷り込み」の実態であり、毒親が子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。
この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身の無力感や精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身の問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。
以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ちも進歩だと思う。
つまり、自分に対する自分の認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分が自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。
内面化した親のニーズで自分を見ていたのだ!(強調したい部分)
「毒親を内面化してしまっている」という表現は書籍やブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。
親からしたら本来親自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズ)から見て未達なので、子供は無限に自己否定し続けることになる。
自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分を否定し続ける。
こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代の呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。
2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。
ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分の感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。
これによって狙っていた事は、自分の意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列の記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去の出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分の解釈を現在の自分の解釈で認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。
精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもので現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。
結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。
自分で自分の感情を無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。
無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分はストレス発散の手段を親に奪われた挙句に愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。
自分の意思を表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味も生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。
病院には行っていたけど、治癒のスピードよりもストレスによる身体の破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。
これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動を自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。
この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとワクワクした。
「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。
この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識はおかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。
「しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。
でもこれは創作活動に転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定の改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないかと自分には期待をしてる。
つまり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情が無意識に自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。
最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。
「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい。
一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認は可能らしいけど。
ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。
母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金は父親の独断だからその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。
みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃんも脱出がんば。応援してる。
早く人間になりた〜い
やめろ。
それで高給が見込める業種ならまだしも、ウェブデザイナーになりたい!って夢見心地で応募してくるな。
未経験でその程度の技術力だったら、月15万だぞ。勘弁してくれ。
二人も子供がいる時点でもっと現実を見ろよ。ひと月いくら生活費かかるんだ?毎月赤字だろ。
奥さんも働く?パートで?
おまえどんだけ奥さん働かせるんだよ。
つーか、家族が増える時点で自分がどんな立場にあるか考えろよ。
夢見て初任給の低い仕事に応募するなボケが。自分の夢より子供たちのことを優先しろ。
教えるのも手間かかるんだよ。覚える気満々やる気満々ですぐ覚えるって、
お前そんなんで月いくら出せる思ってるんだ。覚えるまでおまえの生活、生きてるだけで赤字だぞ?
ほかの会社30社落ちたって?
おまえを諦めさせるのに気を遣うこっちの身にもなれ。
下手に言って、あそこはひどい会社だとか言われても困るしな。
日本の労働環境が異常で、それが様々な社会問題の原因だと思うのに、それでも正社員という奴隷を好む人が多いのは、なぜ…
終身雇用の正社員という奴隷的な働き方で会社に依存させられ、そういった不自由な人間が、自分が支配できる人間、専業主婦の妻だとかを求める。
自分が会社無しでは生きられないことを忘れるためなのか、自分なしでは生きられない、経済的に依存させられる専業主婦の妻を持ち、支配し。
そういった夫の支配にストレスを溜めた妻は、子供に歪んだ愛情を注ぎ(あからさまな虐待や、虐待と無自覚の過干渉や)それでストレスを溜めた子供は、学校でいじめをする、と…
支配と被支配の連鎖、暴力の連鎖の社会で、その根源は、パワハラ的な働き方が当たり前になっている労働環境と、会社に依存させられる終身雇用というシステムのせいなのに、なぜ、いじめや性暴力や虐待をなくそうと訴える人は、労働環境の改善に目を向けないのか…
ここが変わらないと、多くの社会問題は変わらない、反対に、ここが変わると、多くの問題はマシになる、と思うのに。
終身雇用の正社員も専業主婦も、他者の存在なくして自らが生きられない、自立できない存在にされていて、そういった、他者や組織に依存しないと生きられないシステムが社会病理の原因、と、なぜわからないのかなぁ…
終身雇用ではない、資格職で辞めても正社員での就職が可能な人たちは、終身雇用の正社員より思いつめていない、それほど、終身雇用が異常だって、なぜわからないのだろうか…
他者や環境に依存しないと生きられないシステム以外にも、異常なことが多くて、あるブログで、機能不全家族で育った場合の認知の歪みとしてあげられていた
・同一視
・完璧主義
・感情凍結
・思考停止
全てが日本社会に蔓延してることで、前から、機能不全家族に似てるよな…この社会…と思ってたから、腑に落ちた。
日本社会も機能不全家族みたいな環境だから、中身が子供の大人が多くて、だから、子供が主人公の娯楽ばかり蔓延してて、高校生ぐらいの主人公(男)が中高生ぐらいと恋愛するっていうゲームや漫画やアニメばかりの、ロリコン気持ち悪い…と思うような状況なのか、と。
日本人はロリコンというより子供コンプレックスだと思う、ガチのロリコンもいるんだろうけど、日本人全体が、大人の自分自身を受け入れられてなくて、子供に憧れが強くて、子供が主人公の娯楽作品を楽しんで、現実逃避してるっていうのが、現状じゃないか、と…
大人が大人を受け入れられる、大人の置かれた状況がマシなら(機能不全家族みたいな社会や異常な労働環境ではないなら)他の国みたく、大人が主人公のゲームや漫画が増えるんだろうな、と。
他人と自分の境界を理解していない、みんな同じという幻想にとらわれて、他人に干渉してくる、同一視が激しい社会、
完璧主義で減点主義で、うまくやっても褒められず小さなミスは責められる、だから、組織はミスを隠す方向になる、変化や変革というリスクがとれない社会、
個人より肩書き・立場が優先され、あるべき対応や姿を求められ、感情を抑圧してでもあるべき対応や姿を貫くことを美徳とする、社会、
ルールだからマニュアルだからと思考停止して自分の頭で考えることを許さず、学校でも自分で考えることではなく答えがあることの答えを覚えることを教えられる社会、
そして、上に書いたように、他者や組織に依存しないと生きられないようなシステム、自立が難しいシステムとなっている社会(お互い専門職やフリーランスで共働きなら、働いていて結婚しても自立し合った状態でいられる、けど、大多数の働く人や既婚女性は会社や夫に経済的に依存させられている)
こんな、機能不全家族の特徴に当てはまりすぎる病んだ社会だから、自殺率の高さやメンタル不調の多さや閉塞感は当たり前なんだけど、そんな社会に適応してる人も多いのが、不思議…
自分はこの異常に適応できず、終身雇用の正社員や結婚といったシステムから距離をとって生きているけど、異常を異常と認識せず、生きている人も多いのが、不思議でならない…
母猫や兄弟らしき猫は側に見当たらなかったため、叔父がその場でぬこ様を拾った。7月末の朝だった。
幸い我が家と叔父家族は同じ県に住んでいるが、車で直接行ってもそこそこ距離があるし、あの家にはかなり重い知的障害のある従兄弟が居るので(親や支援員なしでは何をしでかすか分からないのに、図体でかくてどうしようもないから“付き添いが居ても”滅多に外に出せない)、お互いが住む市の中間あたりの市で待ち合わせして、その日の昼にぬこ様を引き取った。
当時ぬこ様は生後1ヶ月くらいだった。
ベースはシャム系っぽいのだが、あんまりポインテッド部分が黒くない。
今でもあまりガングロではなく、よく見たら顔の真ん中が若干黒いと分かるくらい。
さらに足としっぽには縞模様があり、先だけ僅かに曲がったかぎしっぽである。あと生後半年くらいから体にとても薄いヒョウ柄が入ってきた。
…と言葉では説明しようのない位のオリジナリティーあふれるこの子だが、
うちに来たのが夏休みシーズンだったのが、運の尽きだった………
夏休みの時期なので、家族みんな暇で、好きなだけぬこ様を構ってあげられる状態だった。
おまけにこのぬこ様は場所慣れが恐ろしく早く、初日からご飯を食べ、二日目にはうんこもバッチリしてくれた。
(普通の猫なら、数日は飲まず食わずトイレせずが当たり前らしい)
そんなもんで三日で慣れて、一週間しないうちからお腹丸出しで寝てた。
慣れが早いもんだし、何より子猫の時期は特別な可愛さがある。破壊力の高さは子猫のうちが一番高いのだ。
そんなもんだからみんなぬこ様に構いきりで、最初の1ヶ月は誰かしらがぬこ様の側に居た。
……のはいいんだが、
やるべきことがあるからだ。
私は比較的ぬこ様を構っていられたのだが、私がぬこ様の居る部屋から出ていくと、
にゃ~ん…
にゃ~ん…
にゃ~お…
にゃ~~~お~~ん…
もうね、こうなったら構うしかないんですよ。しゃーない。
そのうち人間が出かけるタイミングを学習して、出かける時間の前になるとにゃーにゃー鳴いて「行かないで!あたちを置いてどこ行くのよ!?」と言わんばかりにアピールするんですよ。
そしたら人間はぬこ様を黙らせるために、おやつをあげておくんです。
そしたらどうなると思います?
出かける時間の前になると、おやつ頂戴アピールをするんですよ………
恐らく彼女の中では、「おやつ欲しいから早く出ていってよ!ねえねえ!」といった具合になってるのでしょうね。
おやつの袋をガサゴソすれば飛んでくるし、
母がパートから帰ってきたら真っ先にお出迎えしてスリスリするし、
わかり手氏の例のツィートについて非常にモヤモヤしていた者として言及させていただく。
まず、氏の「魔女=毒親」という見方が的外れであることについては元増田と同意見である。ただしそれは、元増田の言うような「魔女集会タグのイラストにストーリーはない」からではない。むしろ魔女集会イラストは深い物語性をはらんでいるが故にあれほどの盛り上がりを見せたのだと考えているが、それについては後述する。
氏の抱いている「毒親」の概念は、「息子を溺愛し、子離れできずに子に害をなす母親」といったものだと思われるが、これは「毒親」の語源となったスーザン・フォワードの「毒になる親」やそこから発展した議論にみられる毒親像とはいささかのずれを感じる。そこで語られているのは、自身の人格からして非常に未熟で、子供への愛情も他者に対するものではなく自己愛に近い、それ故に子供独自の人格や意思を尊重できず抑圧したり無視したりしてしまうという親の姿である。このような毒親にとって子供とは「彼氏」のようなパートナーとしての存在ではなく、自身が社会に受け入れられ、社会で称賛されるための道具であり自分の一部であるとも言える。何より、こうした毒親は子供の成長・成熟を望まないことも多い。子供がいつまでも自分の支配下にあることを望み、その望みに反して成長を遂げようとする子供に対しては敵意をむき出しにして虐待に走ったりもする。
これに対して魔女集会タグにおいては、大前提として子供は「自分を守るほどに強くたくましく成長する」ことを何より望まれている。「母を愛する子の当然の行為として母を守る」のではなく、母から独立した上で、自身の意志として彼女を愛し守ることを選択するよう望まれているのである。この「自身の意志として」という点が魔女集会モチーフの最大のキーポイントである。息子や娘としてでは意味がない。彼らが生みの親を愛するのは当然である(とされている)のだから。それは、養い子がほとんどすべての場合「捨て子」である要因にも通じるだろう。
魔女集会イラストの魔女たちはしばしば、ツンデレ的言動をみせる。彼女が拾い子を養うことにしたのは、中には子を気に入って可愛がるために傍に置くことを望むケースもあるが、多くは「気まぐれ」であったり「ふとらせて食う」ためであったり「下僕としてこき使う」ためであったりと、「愛情が動機ではない」ことが本人の口(モノローグ含む)から語られる。にも拘わらず、長じた子供は「自分の意志で」彼女を愛するようになり、その愛によって恐ろしい魔女もついデレてしまう、というのが基本的な構図になっているのである。ここまででも、魔女集会モチーフに込められたストーリー性の存在は明らかである。
さらに、「魔女」「捨て子」というキャラクターの属性についても考えてみたい。まずは「魔女」についてである。
上記のごとく、魔女たちはツンデレである。子を拾う以前から彼女らは孤独であり、人間社会から(時には同族の社会からも)隔絶された存在である。そうした彼女らが子を拾って育てることを「愛情からではない」と殊更に強調するのは、彼女らが「愛情により子を育てること」を世界からあらかじめ禁じられているからに他ならない。白日の下を歩く人間にとって、魔女からの愛は呪いと同等であり、忌むべきものなのだ。彼女らは人から愛されないと同時に、人を愛することも禁じられた、二重に孤独な存在なのである。
一方、養われる子の側もまた、孤独な存在である。元より天涯孤独であったり、不慮の災難により親を失ったり、何らかの偏見から共同体を放逐されたりして、他者からの物理的な庇護と精神的な愛情の両方を失った状態にある。さらにそれは一時的なものではなく、将来にわたってもそのような状態にあることがあらかじめ定められた存在として描かれる。そのような状態で、彼はこの世でただ一人、自分を愛し守ってくれる可能性のある存在としての魔女に出会うのである。失われた愛護を魔女に求めるよりほかはないのは言うまでもない。魔女が親の仇であったりして表面上は魔女を罵倒するシチュエーションもよく見られるが、彼が魔女の庇護を受けなければ生きられない存在であることが動かせない以上、そのことは二人の関係性にスパイスを添える程度の要素でしかない。
愛を与えることを禁じられた魔女にとって、その禁にもかかわらず自分に対して愛を求める養い子の存在はかけがえのない存在となる。愛護を失った少年にとっても、禁を犯してまで愛を与えてくれる魔女はかけがえのない存在である。こうして互いにオンリーワンである二人が強固に結びつき、愛を与え合うようになる過程をBefore/Afterの2つの描写によって想起させること、それこそが魔女集会タグに込められたストーリー性なのである。
なお、上記の論とは独立した別の要因として、「過程を描く」以上、不老であったり元からある程度の年齢であったり、せいぜい少し老ける程度である魔女を養い子の視点で描写するより、子供から大人へのシフトが発生する養い子を魔女の視点で描写するほうがよりドラマ性を感じさせることになるだろう。そのため、作品群の多くは魔女の視点で描写されており、描写されるストーリーも魔女側にやや傾いたものとなるようである。
「愛を与えることを禁じられた魔女が、その禁にもかかわらず自分に対して愛を求めてくれる存在と出会い、彼の求めに応えて愛を与えることで彼を成長させ、その返礼としてより大きな愛を彼から与えられる」
長文失礼。