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2024-08-17

anond:20240625093025

まともなオナホール

追記あり 23:55

夜中にふとシコりたくなったときに「そういえばオナホは裂けて捨てているんだったな」と思い出してドラッグストアコンビニに言ってもTENGAしか売ってない。

TENGA、なぜあんものがこんなに高い知名度を持っているのかが理解できない。

台所スポンジを空の2Lペットボトルに挟み込んだような小学生自作オナホールレベルクオリティ

使い心地もVINNYやカタクリXと大差がなく、何よりも使い捨てというのが良くない。

オナホールの最大の楽しみは使う度に変化することだ。

最初の1回は感動的に気持ちよかったものが段々と退屈になることもあれば、何度も使いこんだある日突然に吸い付きが昨日までと全く変わる瞬間もある。

その変化もまたオナホールの楽しみだ。

使った後の洗う時間も俺は大切にしている。

賢者タイムのどこか陰鬱とした気分の中、自分チンコや玉袋だけをシャワーで流していると明日へ向かう活力まで排水溝へ吸い込まれていくように錯覚しないか

だがオナホを洗うという動作が加わるとそれが大いに紛れるのだ。

オナホを作ってくれた人や目の前のオナホ、このようなジョークグッズがいつの間にか人間社会に生まれ落ちたことへの感謝を胸に優しく石鹸で汚れを落としてやる。

精液というものは下手に残れば強烈な臭いを発するものだし、何よりそこで繁殖した雑菌が次に挿入した時チンコに何をしでかすか分かったものじゃない。

からオナホは丁寧に洗うのだ。

ひっくり返してしっかりとヒダヒダの隙間に入った汁を取り除いてやり、優しくタオルで水気を切ったのを確認してから、もう一度ひっくり返して食器乾燥機にでも置いてやる。

大事なのはひっくり返したままで放置しないこと。挿入する方をしっかり乾燥できるから衛生的ではあるのだが、オナホが裂けやすくなる。しっかり水気を取ったら本来の向きに戻してやるのが肝要だ。

世間オナホを穢らわしいものとして軽んじている。

そのイメージを逆手に取るかのように社会に滑り込んでいったTENGA商業的展開能力は素晴らしい。

だがTENGA自体クオリティは、オナホの中では下の下に属する。

どこの馬の骨とも知れんエロ漫画コラボしたよく分からんオナホの方がよっぽど気持ちがいい。

アニメキャラクター無許可パロディパッケージに書かれた裏社会シノギではないかと思わせるような粗製乱造オナホでさえTENGAに劣るものほとんどない。

だが街にはTENGAばかりが溢れている。

秋葉原にあるような本格的アダルトグッズショップを除けば、古本屋ドン・キホーテ18禁コーナーの暖簾の奥にほんのわずかにまともなオナホールがあるだけ。

日本で消費されるオナホールの9割はネットショップでの購入だろう。

ネットポチれば明日の昼には届いているかも知れない。

だが、草木眠る丑三つ時にふらりと燃え上がった性欲をぶつけるのに次の次の日の出を待つのでは遅すぎる。

コンビニにまともなオナホールがあればどれほどいいだろう。

性教育にもいいだろうな。

手で乱暴に擦っているのかやたらと黒ずんだ陰茎をぶら下げているもの、右や左に大きく曲がったものTENGAしか知らない身体風俗に行き本物の女体に溺れ人生を持ち崩すもの

若いうちからちゃんとしたオナホールを使ってオナニーをする習慣をつけていれば防げた悲しみがこの世界には多すぎる




追記

「じゃあお前のおすすめオナホールはなんなんだ」というコメントがいくつかついていたので蛇足ながら答えさせてもらう。

その前にまずはオススメオナホの使い方を紹介させてくれ。

ドーナツ型クッションの穴にオナホール差し込んで使うと、小型のオナホでも半尻型のオナホールのように使えて捗るぞ」だ。

具体的にどのクッションがいいのかは、アマゾングーグルで「穴あきクッション オナホール」とでも入れて検索すれば分かるだろう。

テーブルなんかに固定して腰を打ち付けられるようになるだけでなく、ドーナツクッションの穴がオナホの締め付けを増やしてくれるというメリットもあるので、オナホ体験が大きく変わる。

普段はそのままクッションとして使えば痔の予防にもなるし、持っていて損はないだろう。

欠点があるとすれば、オナホールを入れて使う目的で購入されていないであろうドーナツクッションを見た時にさえオナホの影がちらつくことぐらいかな。

職場で使われていたりすると「なぜこの人は職場オナホ用クッションを持ってきているんだろう?」なんて考えてしまうことさえあるが、まあ口にさえ出さなければ何の問題もなかろう。

さて、オススメオナホールの紹介になるが。

謝らせて欲しい。俺は人に特定オナホールを薦めようという気にはならない。

いろんな会社オナホールを試して自分にあうのを探して欲しい。

何故こんなことを言うかと言えば、俺の体には一本のチンコしか生えていないからだ。

チンコが一本以上生えている人間割合には詳しくないのだが、世の中の男性の大部分は一本しか生えていないなはずだ。

俺が自分の体に生えたたった一本のチンコとの相性を持って、「このオナホこそ至高なり!」と語って見せた所で、それが自分以外の男性に生えたたった一本のチンコとも相性がいいのかという不安が勝るのだ。

ただ、個人的体験から言わせてもらえば、オナホというものは何度か使ってチンコに馴染んでから(いわゆる覚醒してから)が本番だと考えている。

まり、何度も使うことを想定しないタイプオナホはよほどの特殊性(たとえば処女膜を再現してるみたいなもの)がない限りは、洗って繰り返し使うことを前提にしたオナホに劣っているというのが俺の考えだ。

あえてオススメをいうなら、「繰り返し使えるオナホを使おう」となるのだろうか。

実用性の話ではなく単に俺の個人的オナホ体験談か聞きたくて「今までで一番感動したオナホールはなにか」が聞かれているのだとすれば、「初めて使ったVINNY」がその答えだ。

(今更になるが、VINNYとはビニール製の自作オナホールだ。作り方は「VINNY オナホール」でググッて欲しい)

手淫しか知らなかった俺にとって、それが初めてのオナホだった。

当時はまだオナホもそれほど世の中の主流ではなく、わざわざそんなものを買うという行為に対する抵抗が強かったが、それでもなおオナホに対する興味は日に日に増していった。

自分の家でコッソリ作ればいいだけのVINNYならば購入履歴が残るわけでもないから恥ずかしくもないと思って、俺はVINNYを作ったわけだ。

挿入直後のゾクゾクと来る未知の体験は今でも忘れられない。

そもそもVINNY自体ビニール製のジョリジョリボディと強い圧迫力を持つハード系なわけだからして、初めてのオナホールにするには刺激が強すぎたのではと今は思う。

まさに電気が走ったよ。

あれを超える体験をくれたオナホールは未だにない。

数万円した電動オナホールに手を出したこともあったが、値段の割にはどうってことはなかったよ。

結局、オナホール感想個体差だけでなく使う人間のコンディションや経験値にも左右されるってことだ。

まりだ。初めてのオナホールであれば、きっとそれがTENGAであっても使用者に強烈なインパクトを与えうるということだ。

そんな美味しいゲートウェイオナホールとしての立ち位置を独占するかのようなあの売り方、本当に上手いと思うよ。商売としては本当にな。

anond:20240812214246

ぶっちゃけ働きたくないもんね

育児理由にして家にいて、乳児幼児のうちだけ会話通じねえけど頑張って耐えればあと小学校あがるともうちょい指示通るレベルになるし、そしたら自分時間もうちょい確保できる

やっと自分時間を確保できたのに働きたくねえわ

旦那の金だけで生きてたいし、ありがたいことに旦那の金だけでいま生活できてるし(子ども一人だし)、積極的に私が働く理由ないし〜って思ってるけど

働いてる独身の友人とか会話するときめちゃ気使ってるの感じる。

ご飯しろ遊びに行くにしろ旦那の金だろうからあんま高いとこ提案できないよなぁ、急に誘っても日帝融通させるの難しいだろうなあって気を使ってるのとか、部下や後輩との関係とか言っても無駄だろうなみたいな……一瞬仕事愚痴吐いても、あ、増田ちゃん無職からあん仕事の話すると悪いか、言ってもわからんか、みたいな空気感じる。

(ごめんね〜自分の話ばっかしちゃって…って言われる、謝られる…)

実際わからん28結婚したとき、みんな社会人としてのレベル同じくらいだった気がするのに、午後休取ったかランチ行けるよ〜って午前仕事してそのまま着た友人の身なり?とか、雰囲気とか、なんか、あ〜あの頃の社会人ではないんだな…とか感じた…

具体的に何がどうとは上手くいえないけど…

自分仕事してないのは働きたくねえからなのに、コンプレックス持ってしまってんだろうな

独身の友人、あんまインスタとかSNS更新しないけど、月1くらいで最近行った場所〜みたいな感じで写真だけアップしてんの見るとさ、いろいろ感じることあるわけ。

人生選択なんて人それぞれだって頭で理解してるけど、私の人生選択が昔で言ういわゆる『勝ち組』というか、社会に受け入れられる選択をしてて、間違いのない選択であって、独身貫いてるあの子たちは表立って揶揄されることは減っても後ろめたさがあるから自分たちの選択が正しいと必死アピールしてるんだ!とか、私は友人たちと同程度、もしくはそれ以上に幸福なんだということをアピールしないと!的ななんかこう必死になるメンタルがガーーーーッてやってきていかれそうになる。

フワちゃんみたいな過ちは犯したくないな……


独身や働く女性に対するコンプレックスと自信のなさなんだよな、完全に

うそれ受け入れるしかねえのよな…

anond:20240817113650

日本人あんだけ英語やってるのに

全然やってない

超やってるやつで最低限の1/3、普通のやつで1/10くらい

とはいえこれは頭おかし

anond:20230105112804

弱者というかどんなちっぽけな人間にもプライド尊厳があって、そこを傷つけられると屈辱に感じて怒るものだよ。

中途半端に傷つけるくらいなら、強弱関係、格の違いをはっきり見せつけてプライドへし折ってやる方が嫌われない。

で、30万ポッチでそんなに年の離れない姉の夫(と姉)に数年分教育してやる感、感謝しろ感出したら嫌われるわな。

さらに、義妹氏からすれば、義兄に30万円で恩を着せられ支配されてる感に、男女間の性的ニュアンスが被りそうになって拒絶したくもなるだろう。

もうちょっとドライ業者的に貸すか、いっそ引き換えに一発やらせろの方が良かったかもね(生活保護ケースワーカー役人にペコペコして暮らすより、風俗で自立する方を選ぶ人もいる)

まあ一発は冗談だけど、教育でやったことなら、別に義妹に嫌われてもいいんじゃないの?

教育者は、生徒が学び成長するのが報酬。生徒に好かれようが嫌われようがどうでもいいだろ。

もし時間を巻き戻して、もう一度同じ局面になった時、義妹が一生に一度の卒業旅行に行けるように30万円もう一度貸すべきだと思えるなら、それは正しいことだったよ。

男がなすべきだと信じたことをやったなら、それでいいじゃないか

ワイは、あんたはベストの巧妙さではないとしても、ちゃんとやるべきことをやったと思うよ。

30万円にしかるべき感謝するかどうかは義妹の側の器、人徳問題だ。

この発音馬鹿にするってのが日本人あんだけ英語やってるのに英語弱い一番の理由だと思ってるわ

中高あたりでよくあるあざけわらう系のアレやったやつの評定下げたほうがいいぐらい

都会だと確実に電動キックボードは浸透してるよね

そしてヤバイ運転するやつも確実に増えてる。

片側4車線の真ん中を走るやつとか。

そして突然一番左端へと車線変更を始めて大クラクションを鳴らされるやつ。

もー、あんなのに絡んでしまったら災難だよ、ほんと。

anond:20240817110512

いいや違う

セックスなんてナメクジでもやってんだって

生命の真理」だってんならまあそれはそうかもしれねえけど、その心理はガとかイタチなんかともシェアーされているもので、レベルが低い

進歩進歩

人間オリジナルの真理は進歩あんだって

セックス以外のことをやるか、セックス進歩させろ

セックス原始的すぎる

どっかの洞窟壁画で、二人の人間が後背位でセックスしている姿を描いたものがあるらしく、レディットですこし盛り上がっていた 世界最古のセックスビデオリークだとか、stonelyfansだ、とか言って

そんで思ったんだけど、セックスってマジでサルでもできるじゃん

簡単とか頭を使わないとかってことじゃなくてさ、洗練されてないってことなんですよ

洞窟壁画時代セックス現代セックスって絶対そんなに変わらねえじゃん

厳密にいうとエアコンが効いてるとかベッドにサスペンションが入ってるとかあんのかもしれねえけど、現代だってクソあっつい野外で、地べたでセックスしているような輩はいるし、そのセックス体験はたぶん屋内でシビルにやるセックスとそう大きく異なってはいない

一方でよ、食事なんかについて考えると、昔はその辺でぶっ殺した謎の野獣をロクに調味料なんかもつけないで食ってたわけじゃないですか

それを今やれって言われたら、お断りでしょう

今後一生野外でセックスしろ、はまだ受け入れられる

石器時代のメシを食えとか、石器時代の住環境で暮らせとか石器時代の娯楽で過ごせ、というのははかなりキツい

まりセックス進歩してねえ 石器時代の水準から大きく変化していないから、石器時代に戻ったって受け入れられる

原始的なんだよマジで

何が言いたいかって、そんな娯楽にのめり込むなってこと

プロジェクトヘイルメアリーを読み、鬼滅の刃を視聴し、レッドデッドリデンプション2をやれってこと

日常的にセックスしてる人間より、日常的にレッドデッドリデンプション2をプレイしている人間のほうが知的に高度…とは言えないが、すくなくとも人間文明をより享受してる

石器時代レッドデッドリデンプション2をやることは絶対にできないが、セックスをやることはできていた

2万年前の、基礎教育のキの字もない、サル同然の雑魚でもやってたような娯楽に人生の貴重な時間を捨てるな

現代でなければできないことをやれ

先人の偉大な努力無駄にするな

セックスをやめろ

レッドデッドリデンプション2をやれ

火星で水が見つかったってすごいニュースだと思うんだけど

火星で液体の水を発見、地下10キロの深さに存在と 米研究チーム

https://www.bbc.com/japanese/articles/c624zgpjj28o

あんまり話題にならんよね。

金メダルとかフワちゃんより全然やばいと思うんだけど

ヒツジの毛ってなんであんなモコモコなん?

刈り取られるために生えてるの?

いろんなモノが絡まりそうだし虫とか湧きそうだし重そうだし

普通に不便で仕方ないのでは?

って考えると

ヒツジは人間が毛を刈り取るために人工的に生み出した動物なんじゃないかって思うんだよな

紀元前万年前くらいの人類

当時はそんなに毛が生えていなかったヒツジをどうにかこうにか毛がモコモコに生えさせるように育てあげた

その結果今に至り意味わからんほどモコモコなメリノ種みてぇな生物繁殖したんだ

世界はどうか知らないが僕はそう思っている

ガンダムってアニメとかCGとか様々な手法映像化されている。

ただあんまりたことがないな、って手法は未だある。

大昔のスターウォーズとかってCGがなくてミニチュアだけで映像を作っていた。

その頃のテイストを出すためや、

CGよりミニチュアを作ったほうが迫力がある映像が作れるという理由で、

海外SF映画などではあえてミニチュア感を出したり、

ミニチュアCGを上手くミックスして映像を作ったりしている。

そういうミニチュアで作ったっぽいガンダムってあんまりたことがない。

というかガンダムプラモデルを売るための作品でもあるんだからさ、

ガンダムプラモデル撮影しているかのような映像表現をつくらないなんて、なんでなの!?

実際にミニチュアで作ってもいいし、そういうふうに見えるCGでもいい。

ミニチュア表現ガンダム、そういう映像を作ってみるのは面白いと思う。

anond:20240817014920

皮肉も嫌味も全く通じてないところを見ると、あんた生成AIか何か?

2024-08-16

anond:20240816231316

日本なんやかんや復興しそう。

地震ライフライン潰れてもあん治安悪くなんなかったっぽいし、

20%位じゃないかな。しいて言えばニートは死にそう。

Kindle Unlimited契約しようか悩んでるやつ

おすすめだぞ。軽くジャンル別に紹介しとくが詳しいことは自分で調べてみてほしい

議論で突然「どうせモテたことないんでしょ?」と返すフェミ多すぎ問題ニュースで取り上げられてしま

あんモテないでしょ!」「彼女いないくせに!」…と言い出す女性は“ヤバい”? キレると突然《人格攻撃》する理由

https://news.yahoo.co.jp/articles/a72f8f6dc31c87575e0b0702686e04bc72980239

戦争責任者の問題伊丹万作) 2/2

戦争責任者の問題伊丹万作) 1/2 より

https://anond.hatelabo.jp/20240816213820

 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義であるしかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分自分家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。

 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。

 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである

 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。

 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画集団との関係を明らかにする必要を感じる。

 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画集団発起人の某氏から連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟目的は「文化運動」という漠然たる言葉説明されていた以外、具体的な記述ほとんど何一つなされていなかつた。

 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである

現在自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」

 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。

 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用容認したことは、某氏手紙示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているかである。この団体仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである

 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである

 しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初ボタンをかけちがえたら最後ボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである

 要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活擁護のための組合は別である)。

 それが自分意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである

 最近、私は次のような手紙連盟某氏にあてて差ししたことを付記しておく。

「前略、小生は先般自由映画集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画連盟目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います

 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体立場いかにあろうとも、個人々々の思考判断余地は、別に認められなければなるまいと思います

 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめことなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります

 しかし、集団仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。

 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。

 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)

(『映画春秋創刊号昭和二十一年八月)

戦争責任者の問題伊丹万作) 1/2

 最近自由映画連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見ときくようになつた。

 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのであるしかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組警防団婦人会といつたような民間組織いかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである

 たとえば、最も手近な服装問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき普通のあり合わせの帽子かぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想表現ではないのであるしかるに我が同胞諸君は、服装もつて唯一の思想表現なりと勘違いたか、そうでなかつたら思想カムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外百姓の顔であり、あるいは区役所郵便局交通機関や配給機関などの小役人や雇員労働者であり、あるいは学校先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君戦争中、ただの一度も自分の子うそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそ意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間範囲思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたもの責任が解消するであろうか。

 だまされたということは、不正者による被害意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つのである」ことを主張したいのである

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである

 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪観念の交叉する余地はないはずであるしかし、有機生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題人間の行動と結びついた瞬間に意志感情コンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象善悪批判が介在し得るゆえんである

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである

 つまりますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実のものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力無自覚、無反省無責任などが悪の本体なのである

 このことは、過去日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実個人基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくそ本質を等しくするものである

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配にゆるした国民奴隷根性とも密接につながるものである

 それは少なくとも個人尊厳冒涜、すなわち自我放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察官僚にの負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣反省しなかつたならば、日本国民というもの永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣自己反省努力がなければ人間進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在日本必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである

 こうして私のような性質のものは、まず自己反省方面思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである

 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。

 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである

 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任問題も、便宜的な一定規準を定め、その線を境として一応形式的区別をして行くより方法があるまい。つまり問題性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位職能によつて判断する方法である現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。

 しかし、それなら映画場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないかしかもこの場合は、いじめものいじめられたもの区別は実にはつきりしているのである

 いうまでもなく、いじめもの監督官庁であり、いじめられたもの業者である。これ以上に明白なるいかなる規準存在しないと私は考える。

 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである

 たとえば、自分場合を例にとると、私は戦争関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。

→ 続: 戦争責任者の問題伊丹万作) 2/2

https://anond.hatelabo.jp/20240816214517

ドラマとかアニメの嫌いなところ

作られた物語あんまりきじゃない理由を考えてみたんだけど

意図的に感動する場所指定されてるようであんまり好きになれないんだよな。

なんかこう制作者の意図を感じてしまうというか感情を見透かされてるのが腹立たしい。

とはいえ本で読む小説は好きだしドキュメンタリー映画も好きでよく観てるから

この二つの間にどんな違いがあるのかは自分ではよくわからない。

女はクソ

主語デカすぎるかもしれないけど今日自分があった女は全員がクソだった。

今日車に轢かれた。それでそのはずみで近くの田んぼに乗ってた自転車ごと落ちた。

ここまではまだいい、問題はこのあと。

家に帰ろうにも自転車で1時間距離だし、知り合いや警察職場に連絡しようにも落ちた拍子にスマホを紛失してしまったので連絡ができない。

仕方がないので誰かにスマホを借りて連絡をしようとした。

時間を知るすべがなかったので正確な時間はわからないけど、だいたい2時間ぐらいぽつぽつと通る通行人に「すみません警察に連絡していただけませんか?」と声をかけ続けた。

時間帯もあったのか通るのは女性だけ。そしてほとんどの人が無視、残りは「すみません、今急いでいるので」で足早に去っていった。

雨降ってるし寒い疲れたし体痛いし泥だらけだし自転車田んぼに刺さってるし、なんかもうすべてが嫌になって座り込んでいると通りかかった男性が声をかけてくれて警察に連絡することが出来た。

これが女性なりの自衛の仕方なのかもしれないけどあんまりだ。もし女性が困っていても絶対に助けまいと思った。

紙の本も好きだし書店も好きだけど

なくなったら悲しいと思うんだと思うけど

でも無くさないように何かしよう、とはあんまり思わないなあ

電子書籍になって大量のマンガを捨てずに持てるようになったの便利だし

話題書店の話

夏休みに本買って読もうと思ってた、みたいな話

自分だったら確実に電子書籍で買うし…

近々に必要書籍書店で買うという生活スタイルも、今の自分には遠くなってしまった

都会に住んで、自宅最寄りの駅ビルにはそこそこの規模の書店が入っており、帰りにちょっと立ち寄り注文して帰る、みたいなことが今はほぼ無理

郊外の駅から歩いて30分の自宅、最寄駅には何もなく、書店のあるような繁華街のある駅は乗り継いで2駅先が一番近い

加えてテレワークをするようになった 週3日は自宅で仕事をする

こんな環境では通販で買って自宅で受け取る方がずっと手軽で

書店を使う理由がない

例の話題、紙の本を買って休みに読もうってだけで、ずいぶんな本好きさんだなあと思う

好きで昔からそうやって本を買って読んできた人なんだろうなあと

そういう人と比較すると、自分は本好きという括りには入らないなと思う

ひまわり畑を背に佇む麦わら帽子と白いワンピース少女との思い出はないけれど、自分の「夏」くらいは持っておきたい。

山梨田舎帰省したり、部活合宿琵琶湖周辺行って川遊びしてたのも夏っぽくはある。

でもあんまり夏の思い出という感じがしない。

それよりは小学校夏休み友達学校プール行って、ビート板でトンボ叩き落として腹抱えてゲラゲラ笑い転げてた方がなぜか鮮明に覚えてる。

小学生のおれ達にとって、そういう動物虐待は見つかったら叱られる結構な罪だったかもしれない。

水面上をブンブン飛び回るトンボを見て、どちらが始めるともなくビート板で襲い始めた。

高速で動くトンボにはよもや当たらんだろうと思っていたから、クリーンヒットした時には妙におかしくてたまらなかった。監視員目線を気にかけつつ、「不良体験」の喜びにはしゃいでた。

高校の頃、真夏のど真ん中のクソ暑い日に友達本牧釣りに行ったのもよく覚えてる。釣れねえなあとかボヤきながら他愛のない会話をしたりしなかったりして。

休憩スペースにあったカップ麺自販機の物珍しさにはしゃいで、ズルズル啜りながら窓の外に広がる海を見てた。

遠くに浮かぶ客船を見て、あれはクイーンエリザベスか、いやぱしふぃっくびいなすさんふらわあか、とか知ってる名前適当に挙げながらバカ話してた。ググって答え合わせをしようとする間に水平線から見切れてしまった。

大学入試もそう遠くない時期の事だったな。

結局借り物の夏の心象風景を追い求めるよりも、自分意志で動いていたのが大事なのかもしれない。

親の同行を振り切って、非日常へ飛び込む。つまらん事でガタガタ抜かす教員もいなければ、ちょっとした「失態」にも気を払わなければいけない学校空間雰囲気もない。そんな場所友達と一緒に少しハメを外してみたり。

父親に連れて行かれるものだった釣りに、初めて友達を誘って自分らで行ってみたり。くだらない話も尽きて、昼休みにはしないようなマジな話にまで及ぶまで並んで腰を据えてみたり。

まあ夏って冒険したくなるし。

最高の夏、更新していきたいぜ。

そろそろ妻ちゃんの布団をもっておりますか?

小池都知事じゃないけど、剥離骨折して

あんまり歩きたくないんだって・・

昨日まで妻子が実家ゆっくりしていましたが、今日子どもと一緒に戻ってきました。子どもは来週から学校が再開するようです。

妻は実家にまだ滞在する選択肢もありましたが、子どもを一人で旅行させるわけにはいかないので、一緒に帰ってきました。

選手なんであんなに調子悪かったんだろうな

身長が低いから登れないとかはいいんだよ。

選手あんな程度登れないわけないだろ。

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