はてなキーワード: 学問とは
昨日か一昨日、『文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞって初めから言え』のエントリを書いた人間です。
でもめっちゃ風評被害をまき散らしてしまったので、ちょっとだけ冷えた頭で過去を捉えなおした記事を書きたいと思いました。
あれを読んで嫌な気持ちになった人に謝れるわけではないし限りなく自己満足ですが、ネットの海に放流しておきたかったので。
就活で心が折れてしまった上に、俺の性格が極端で未熟だったことによるところが大きい。
確かに、客観的に見れば貴重なことを文学部で学んだのかもしれない。
文学部の人や人文学に触れたことがある人は知っていると思うが、文学部は感想文を書き散らすところでは断じてない。
まずは対象となる作品に触れて、自分で疑問を発見したり、隠されたものがあるのでは?と気づく。
そしたら、その疑問や発見を足掛かりにさらに深くテクストを読み込み、適切な研究書・論文を探して読んで根拠を集める。
必要な場合は、過去の理論を適用して新たな気づきがないか探したり、自分の立場を明らかにする。
そうして根拠を十分集めて、最初の疑問や発見に対する結論を導きだす。これが俺の学んだ手法。
思い出してみれば、自分は一年生の時から成績がよかったわけではなかった。
なぜなら入学当初、課題発見力が限りなくゼロに近かったから。お得意の受験勉強では全く何もできなくて、最初に書いたレポートは散々でした。
で、レポートを書けるようになりてえと思った。正直言うとその動機はお子様なもので、アカデミックな論文が冷徹に真理を追究してるみたいでかっこよく見えたから。
まあ悔しかったのか文学が好きだったのか、今ではよく分からんがとにかく少しでも大学の学問に触れたいと思って、そこから色々やった。
教授に質問したり、レポート上手い友達にどうすればいいか助けを求めたり、『レポートの書き方』とかロジカルシンキングの本を読んだり。
それで成績が上がったんでした。
コメントでも指摘があるように俺は自分の評価を限りなく外部に依存する悪癖があり、成績を自分の判断基準にしすぎというのは真っ当な指摘です。
でも、その外部からの評価を得るために自分でいろいろやったなあ、ということをガン無視していたので、それはちょっと認めてもいいのかもしれないと思った。
ということで、もらったコメントを受けて考えてみれば、文学部に行ったから俺の未来がどうこうなんじゃなかったということです。
それどころか、文学部で勉強して知った「テクストを客観的に読んで課題を発見し、資料を参考にしながら結論を出す」という手法はどこにでも通用する教訓なのかもしれない。
いや、そうじゃないかもしれない。俺は社会に出てもいないし、就活にしても本選考が始まったわけではないし、本当に社会に通用するのかは今知りようがない。
とにかく考え直してみた結果、俺は価値ある学びを身につけられたのかもなあ、と思った。
文学部の人、文学部に行きたいと思ってた人、すみませんでした。グチャグチャメンタルで軽率に貶したりして、本当に馬鹿でした。
この謝罪は読んだ人への媚び売りではなく、もらったコメントを読んで自分の学んだものの価値を思い出した結果だと思っている。多分。
これが万人に通用する真理かどうかも知らない。今のところの自分の結論というだけ。まだ未熟な部分が腐るほどあるんだろう。
・ただ文学部は関係ないけど、俺がやらかしたことに変わりはない
そうは言ったところで、俺が人付き合いから目をそらしてきた事実は変わらない。
なので、自分がゼロ地点にいることを自覚したんだから、今度こそ自分でなんかやろうと思った。
今の時点ではまず進路をどうにか決めるのが先だが、その先はバイトかボランティアがグループ立ち上げか、とにかく人と会わなきゃと思う。
がむしゃらにただ会うんじゃなくて、自分と相手の対流みたいなもんを作ればいいのだろうか、よくわからないけども。
しかも、あれだけ叱責のコメントをもらってすら未だに周りの人間を恨んでいる節がある。
ただ、これもコメントにあったことだが、実際には「コミュニケーションをとれ」というアドバイスをもらいながら目を背けていただけの気がする。
自分には合わないから!机に向かってれば楽だから!そういう自分本位の理由でアドバイスを無駄にしてたんだろうな。
それで俺に愛想をつかした人、多分たくさんいるだろうと思います。
あと根本的な問題点として何かに失敗するのがどうしても嫌というプライドと不安があるのも分かった。
なので失敗したら引きこもるのではなく、どこがダメだったか考えて再試行するのを人付き合いで繰り返そうと思う。怖いですが。
「勉強を頑張れるのは一つの長所」という励ましのコメントをくれた人が数人いました。今はまだ大事なものを取りこぼしたしくじり感が強いけど、将来「勉強したことが血肉になってるんだな」と思える日がくればいいと思う。
その一方、「ガクチカでそれを書けばいいじゃないか」というコメントにはあまり同意しない。
なぜなら、就活本に書いてあったガクチカについての説明がとても筋の通ったものだったからです。
就活始まってたくさん読んだマニュアルの大半には、「ガクチカに大学内でのことを書くと視野が狭いと思われる」という指南が書いてあった。
そして具体的なアドバイスとして、「社会人としての素養=コミュ力、社会性をアピールするため大学外部のことを書け」という対策が書いてある。
だからみんなサークル・ゼミのことをアピールするのは極力避け、アルバイトやボランティアのことを書こうとするんです。
これは筋が通っていると俺は思う。なら、上に書いた文学部での学業はガクチカとして不十分だ。特に俺はほとんど一人で動いてしまったから、社会性とコミュ力のアピールにはならない。
で、その上でガクチカをどう書くかはまだ決められてません。とりあえずキャリセンと外部の講座に頼ります。
・自分語り(コミュニケーションが苦手、人格が幼いことについて)
これを治せないのかは分からない。
ただずっとコミュニケーションが嫌いだったかというとそういうわけではなくて、その方法を限りなく間違え続けたあげく人間関係で病んだのがきっかけだった。
小学生の時にいじめを受けていて、それで辛い人の気持ちが分かったつもりになった。
で、自分は優しい人でありたいと思ったので、それ以来誰彼かまわず相手に尽くしまくった。
ただ人格形成が遅かったのか、はたまたその時から他責性格で自分の成長を怠ったのか、自他の区別がつけられず優しさと甘やかしの違いが分からなかった。
その結果メンヘラ製造機になり、それを抱えきれなくて自分がメンヘラになった。
横になって壁見ることしかできねえ何もできねえ何も食えねえみたいな時期が続き、高校で教室に行けなくなった。
精神科には行かずにスクールカウンセリングを一年ぐらい受けたけど、結局克服には至らず。
で、大学に行ったらぼっちを謳歌するぞ、友達なんかいらないぞと思って、それを実行した。
ここで周りの「他人と向き合え」というアドバイスが実際あったのに無視したとすれば、それがさらに人格形成をサボる分岐点だったんでしょう。
上で「友人にレポートのアドバイスを聞き…」と書いたように、確かに数人は大学の友人がいる。しかし自分から全く外部に行かなかったので成長できてないんだと思う。
根本的な原因としては「甘やかすことと優しくすることの違いが分かってない」=「自分がない」なんでしょうか。
ただしばらく考えてもこれを解決する方法が分からない。でも今まで頭でっかちで失敗してきたのは確か。なので今までの沈考から趣向を変え、トライアンドエラーを繰り返す方式で他人と関わろうと思う。
大学生になる人、俺みたいに「人間関係しんどいから一人でいるぞ!」って逃げずに自分から人を見つけに行け、めちゃくちゃ遠回りすることになるから。
・で、将来どうするのか
明確には決められていない。決めたことは、
2.キャリセンなりガクチカ講座なり行って、相変わらず涙目になりながら自己PRの文章を助けを得つつ書く。
(3.橋にも棒にもひっかからなくて全滅したら、大学に推薦があるか聞きにいったり、お金ためて来年の公務員試験を狙ったりする。)
これで全部。
コメント読んでて確かにそうだなと思ったのは、そもそも文学部選んだのだって、恵まれた環境があって自分で決めたんだろうということ。
もうこれは客観的に見てそうなんだろうけど主観的にはまだ周りを恨む他責思考が抜けきってない。改心するのは時間がかかる。
本好きだなあ、もっと知りたいなあ、文学部行きたいなあ、って思った高校生を周りが尊重してくれた、というのが事実なんだろう。
今「尊重」と書いてて思ったけど、周囲の人たちは「文学部は通用しないと知りながら黙ってた」ではなくて、「周りの忠告も聞こえないぐらいなら尊重してあげよう」と思ったのだろうか。
入学して学業の難しさ、つまり「本好き」だけでは文学研究は成り立たないことを知ったわけだが、学業の入り口の入り口ぐらいには立てたと思うので、本懐を遂げたと言っていいのだろう。
・まとめ
一言で言うと、「恵まれた環境にあぐらをかいている+おそらく価値あることを学んだのだろうが、価値を自分で認めきれない+学んだことの活かし方が分からない+今まで逃げてきたことのしっぺ返しを食らってパニクっている」ですかね。
座学じゃない勉強が足りねえんだわ。
これからどうするかは決められてません。大学三年間ずっと他人との向き合い方を学びませんでしたから、未だに絶望感はあります。
ここからは周りに甘えた上に責任転嫁するのはやめて(そもそも周りの責任じゃなかったような気がしてきたので)、自分の人生ここからは自分で何とかするって気持ちでいたい。
なるほど専門板という名称にはなんらかの特別な意味は無いのだろう
雑談板に対しての話題を限定された板という意味合いしか無かったはずなのだろう
ここにも単なる娯楽として書きたいことを書いてるだけという自覚を持って書き込んでいる人はいることだろう
しかし学問を話題にしているとどうしてもくだらないプライドがついてまわってくるんじゃないか
最初は純粋に楽しいから勉強していたつもりでもある日名著に誤った記述があることに気付いたとしてそのことを書いても住民から認められなくても反発しない自信がある人間がどれだけいるのか
どうしても究めると社会の為になるというか学問の発展に寄与する可能性がある分野に関わっていると欲が出て来るのが人間なんじゃないか
実力がある人間ならいいがあそこに書き込む人間なんて全員バッタモンに決まってるからなあ
所詮娯楽以上の書き込みが出来る人間などいないのに少なくとも「専門板」のようないかにも高尚なことが行われているような名称で存在する資格はないと思う
駅弁大学文学部卒で地方公務員になった者だけど、公務員受けてみればと思った。
元増田は学問を究めるよりも問題を正確に解く方が向いてる人なんだと思う。
「今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない」
通用するよ。公務員試験はたくさん勉強する。高校時代の勉強内容はもろ教養科目にあたる。
私立大学文学部を文系3科目使って入学した人よりも既に有利だよ。
法律や経済科目も勉強しなきゃいけないけど、元増田の偏差値的に大丈夫だと思う。予備校だってあるし、宮廷にあるかは分からないけど大学生協が提供する公務員講座もあったりする。(安い)
自分もコミュニケーション苦手すぎて、集団討論がボロボロで民間だったら絶対落ちてたんだろうなと思うんだけど、筆記試験がそれなりに良かったために合格してしまった。
(入庁してみてコミュニケーションから逃れられないことは分かったのでそれは申し添えしておきます。でも、人柄の良い上司に下につけるとめっちゃ楽しいよ〜!)
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
エンパワメントとかシスターフッドという言葉が好まれるのもその一環と考えらえるし、そんな前向きな所まで至らない、まず苦しみや怒りを吐き出させてくれという層もいるだろう。
弱者にとって慰め合う場があるのは良いことなのだが、セラピーとしてのフェミニズムと、学問や言論としてのフェミニズムが分離されていないために、言論としての信頼度は弱まってしまう。
それが、フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていること自体を批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
冷静な研究者と、傷ついている当事者は、兼任しようとすると問題が生まれやすいのでどちらか片方だけの立場に立つべきなのだ。
〇 冷静なフェミニズム研究者が、「困った女性のための駆け込み寺やセラピーの場や、肯定しあえる関係は必要だよね」という学問的理論を組み立てるのはOK
〇 セラピーに集まる傷ついた人たちが、フェミニズムの用語で理論武装することも、武装しつつ過激な主張をするのもOK。(セラピー的な場の発言は、過激なことや邪悪なことも原則許されるべきである。その反面、そのまま社会への要求として世の中に伝えるべきではない)
× 自分に傷が深く残っていて冷静な振る舞いができない人間が、研究者としての発言力を得て、セラピーで患者としてするべきな過激主張を研究者の立場でしたり、他のセラピー患者の内面吐露をちゃんと検討せず世の中にぶつけたり、学者同士でも肯定しあう関係じゃないと耐えられなかったり、そういうのはNG
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、患者がセラピストもやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
全てのフェミニストが病んでいると言っているわけではない。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や臨床心理士といった専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者や研究分野の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が過激化するエコーチェンバーも防げる。外部の一般人が当事者の無茶な話を直に聞かされて、振り回されて悪感情を持つこともない。
これらの全てが完全に徹底されてはいないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、様々な弊害の抑制はできている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者、全てが一体になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、セラピー的な場と議論の場がごちゃまぜになっているせいだ。
私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシングするな、というなら真っ当である。
言い方や内容にしっかり気を使うから議論として発言を真面目に聞いてくれ、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやらせてくれ、自分はセラピー的にぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれというのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーになりたがる若者はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はないが実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛後派の過激な主張の角を取って一般社会的に妥当で持続性のある動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた患者や当事者と近かったり同一人物だったりして、監督者のいないまま野良セラピー的な語り合いをし続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるが社会的妥当性の薄い発言みたいなものが研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われるのはそのせいだ。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その発言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の発言として生暖かく見られている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ発言をそのまま重用したり、著名な研究者が自分の当事者性を切り離して冷静さを保つ努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
私がフェミニズムやジェンダー学のセラピー的機能と、学問・言論的機能の混在の弊害をわかりやすく感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けているサイトだ。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割に回数は少ない気がする。特にはてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の方に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のスラックか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そう言う人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
編集長の伊藤あかりさんのツイッターbioには"「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じ。"と書かれているのだから。
この世に、傷ついた若い女性のための当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で文章が発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者も、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
いただいたコメントを受けて過去を冷静に振り返るエントリも書いたんで気になる人は見ていってください。
https://anond.hatelabo.jp/20220116181308
23卒の文学部。マジで日本のキャリア教育も私の周りの人間もとことんなじって泣きたい気分だ。
まず受験を経て中学に入学してから、大学受験は恐ろしいものだという周りの言葉にしたがって、青春を勉強にささげた。
高校生の私は、文学や映画といった芸術が好きで、それを勉強してみたいと思った。
その結果、オープン模試では浪人も含めた受験生で一位になるなど、自分でも本当かよと思う成績を常にとっていた。
そして大学受験。過去最高の点数をたたき出し、狙い通りに宮廷大の文学部に晴れて入学。
入ってからは、サークルに所属することもなく(人と関わるのが面倒くさかった)、変わらず勉強に打ち込む日々。
文学理論の本をあさり、文学作品を読み、レポートを必死に書いた。
アルバイトはしたのだが(ノンバイサーはさすがにやばいかもと思ったので)、結局勉強する時間がなくなったし人と関わるのがしんどかったので半年でやめた。
そして今、就活を始めてやっと気づいた。今の私を求める企業なんかない。
ESに書けることがない。ガクチカで、今まで勉強を一人でしてきました!とは書けない。自己PRで、成績めっちゃいいです!とは言えない。
そこまで頭がいいなら研究者になれば?と思うかもしれない。しかし、私が得意なのは勉強であって、真理を追究しようという強い意志も、狭き門を狙って親の穀潰しを10年以上続けるほどの度胸もない。
もし仮に十年以上穀潰しをやって、博士課程を出たとして、そしてどのポストにもつけなかったら死に向かって一直線だ。
親は私が文学部に進むのをまったく止めず、「せっかくその頭があるんだから好きなことを研究しなさい」と言って送り出してくれた。
小学生の時から中学受験のために塾に入れ、バカ高い私立進学校の学費を払い、ここまで育ててくれた。
ごめんね、ありがとう、でもあなたたちはマジで教育を間違えたよ。私のこの先の人生のことはまったく考えずに、勉強だけさせたらいいと思ってたんだね。
勉強だけしてきただけあって、私の大学での成績はGPA3.6。宮廷でこれなら、かなり上位のはず。
そしてそれを見た親は、ここまで来ても「そんなに頭がいいんだから、人生一度なんだし院に行ったらいいんじゃない」「研究者になったりして!」と言う。
親は分かってないのだ、何にも。文学研究者になって食っていくことの困難なんて。もうすでにその一度の人生を棒に振りかけてんだよ。
仮に文学修士で卒業するとしても、そんなやつどこの誰が雇いたいと思うのか。6年間文学の研究してた人間を雇いたいと思うか?誰でもいやだろ。
これなら、「お前の人生はお前で歩け。後はしらん」と放り投げて知らん顔する親の方がまだよかった。
親の言葉を信じて、親も私の成績の良さが誇らしくて、共依存になっているうちにここまで来てしまった。本当にばかだった。
もう今では、自分は学ぶのが好きだったのかどうかすら自信がない。
勉強する才能は間違いなくあるのだろうが、学問が好きなのかというと分からない。というか、正直多分そこまで好きじゃないし向いてない。
高校までは、勉強さえしていれば褒められる。私は三教科で偏差値80越えの生徒だったから、周りの先生や生徒に、そして親にちやほやされていた。
その実、性格的にはややコミュニケーションに難があり(HSPなのかメンヘラなのか知らんが、常に不安でいっぱいな感じ)、高校生活でも最後は保健室登校みたいになっていたが、それでも注意されることはなかった。
甘えてないで人と接しろと、それがお前の将来のためだからと、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
分かっている、悪いのは私だ。一人でできる勉強にばかり逃げて、人と関わろう、向き合おうとしてこなかった。
自分の価値決定を他人に任せてきて、褒められたから自分は生きていていいんだと、そんな風に他人任せで真面目に自分の人生を顧みなかった。
でもさ、でもよ、大学入学までの18年間、ずうっと勉強しては褒められる環境にいた結果、「勉強をしてれば報われるんだ」と考えてしまったのは私だけの責任じゃないはずだ。
思ってしまうのだ、そんな私をつくったのは、親であり教師でありこの社会のシステムのせいでもあるんじゃないのかと。
高校では「勉強していい大学に入れ!」と尻を叩かれつづけ、大学に入ったら「好きにしろ(あと数年で就職だけどね)」と放っておかれる。
最初から言ってくれよ、文学なんか勉強しても社会で何も必要とされないって。
国語が特にできるね、読書が好きなんだね、マイナー映画も好きなの?なら君は文学部で好きなことを勉強しなよ。
いい加減にしろ!そうやって私の将来なんか何も考えることなくおもちゃみたいにして!誰も私の人生のことなんか考えてねえじゃねえか!
私が優れてるのは小手先の成績であって、持っているのは記憶力と心配性であって、研究を続けられるずば抜けた力なんかねえよ。それぐらい見たら分かるだろうが。
初めから言えよ、今までと同じように勉強だけしてても、お前はゴミにしかならなくて生きていけないよって!研究者になれる人なんか一握りだから勉強はもうやめろって!
だれか途中でせめて軌道修正してほしかった、叱ってほしかった、もっと真面目に将来のことを考えろって。今のままじゃ、社会は誰も今のお前を必要としないよって。
今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない。
もっと人と関わればよかったんだ。いくらそういうのが苦手でも、コミュニケーションで疲れてしまっても、無理してでも普通の大学生活を送ればよかった。
もう涙しか出ませんよ本当に。どこにも行くあてはないよ。キャリセン行っても面接講座行っても涙目で、電車で泣いて変な目で見られたさ。
みんな、親や教師のことなんか信じずに自分の力で歩いてたんだよな。大学の勉強だけやるなんて馬鹿なことはせず、、社会勉強をちゃんとしてたんだよな。偉いわ。
それに比べてなんて私は馬鹿だったんだろう。将来のことを本気で考える頭もなかったんだから、これじゃFラン以下の脳みそだ。
誇れるのは成績だけだった!!てへ!!
あーあ、死にてえw
アドバイスくれた人ありがとうな、こんな読みにくくてルサンチマン爆発の日記にコメントしてくれて。まだ絶望感がやばくてずっと涙が止まらんが、資格、バイト、公務員、学校の推薦、就活対策など、頭冷やして今からでも動こうと思う。あーでもやっぱり辛いな、曲りなりに頑張ってきたつもりだったんだけどな。
追追記
引き続きコメントありがとうございます。他責しつづける幼さや浅はかさ、指示待ち人間なのがそもそもの問題なんだなっていうのがよく理解できた。みんなちゃんと生きててマジすごい。
これから人の良さやすごさを見つけて尊敬できる人間になるべきだと考えたので、自発的に人と出会いに行くところからでしょうか。
あと人格が未発達すぎるというコメントがちらほらあるけど、専門家に行ってみた方がいいレベルなの?俺の怠惰さが原因なだけで修正可能なのか、先天的に問題がありそうなのかわからん。劣化版チャーリイ・ゴードンは嫌だ。
なお、社会学者は、この社会がなぜこうなってるかを考えるのが仕事と思ってるので、社会的課題に対する解決を探索することには関心がありませんし、訓練も受けていません。社会学者の癖に解決を提示したがる輩は学問的に不誠実であり、かつ、床屋政談以上のものでは決してないので、相手にしてはいけません、
社会学者の簡単な見分け方、一般名詞をカギカッコでくくりだしたら、社会学者。
元増田の「大学」における「経験」とはいったいなにかの…みたいな感じ。
社会学者は現在の仕組みを疑ったり、なぜそうなっているかを考えるという訓練を積んでいるので、前提をそのまま飲み込まず、なにごとも疑い。ので、分野横断の勉強会などの主催側に社会学者がいると、いちいち混ぜ返されて、ぜんぜん進まなくて、とてもイライラさせられる。大会実行委員会に社会学者と人類学者はなるべく入れないようにしましょう。
なお、社会学者は、この社会がなぜこうなってるかを考えるのが仕事と思ってるので、社会的課題に対する解決を探索することには関心がありませんし、訓練も受けていません。社会学者の癖に解決を提示したがる輩は学問的に不誠実であり、かつ、床屋政談以上のものでは決してないので、相手にしてはいけません、
それは「日本大好き外国人」による「他国人が日本の着物を着る行為への批判」みたいなものだ。他文化の人間がそれを指摘する立場にはない。
また、アラビアンナイトに限って言えばイスラム教に侵略される前の時代の地域の物語なのでイスラムとは関係のない場合が多い。
つまりアラビアン~と形容しているからと言ってイスラムと直接関係のある概念だと指摘するのは無理。
日本だって、多くの地域の信仰は最初から「神道」によるものではなかった。
侵略(統一)のために神道として塗りつぶした部分があるわけで。「神道としてタブーな価値観」も、塗りつぶされる前はタブーではなかった可能性もあるんだ。むしろ、塗りつぶされたということは神道には都合が悪かった価値観である可能性が大きい。
宗教の○○主義、的な価値観に染まると、そういった歴史的事実や宗教価値観に反する文化が見えなくなってしまう危険がある。宗教を学問として学ぶ前にはその手の注意を先達から受けると思う。この人は個人の趣味でイスラムを学び始めたのだろうな。一面的な宗教観を振りかざすことに躊躇がない。
数年前からTwitterその他で色々話題になる白饅頭氏が実際問題どういう思想/人格の持ち主なのか、ちゃんと知りたくてしばらく彼のnoteを購読して読んでいた。正直なところ、いわゆる「ツイフェミ」に関する言説などは乱暴過ぎるとはいえ賛同できるところは多々あったものの、どうにも「気持ち悪さ」が拭えない文章が多かった。で、その一番の気持ち悪さを言語化すると「自分は知恵者である」という傲慢さが色々な記事で滲み出ているところなのかなと思った(「表」の記事は多少抑制的だけど)。
1.相手の状況がわかっていないのに相手の人生を変えかねない危険なアドバイスをしたがる
彼のnoteではよくマシュマロ経由で人生を相談をしてきた若者、中年男性、婚活女性などにアドバイスをしている。そのこと自体はいい。ただ、問題なのは相談内容から「白饅頭氏が想像した人物像」をまるで事実かのように話を進めて、ああしましょうこうしましょうとアドバイスしているところ。傍から見てて、なんで情報が不足しているなかで相手の苦悩の原因を断言できるのだろう?と気持ち悪くて仕方なかった。かれは発達障害など弱者の支援をする業種にもいるらしいので、ある程度想像がつくというのはあるかもしれないけど、それにしても「やり過ぎ」なアドバイスが目につく。相談者は白饅頭氏を神のように慕っているだろうし、それを忠実に実行するだろうけど、新興宗教の教祖様ぽい不気味さを感じる。これはマジな意味で。
2.学問的素養がないわりに、進化心理学などについて浅い理解のまま、都合よく曲解して持論の補強に使う
典型的には上方婚などの女性に関わる問題で顕著にみられるのだけど、これははっきり言ってまともに学問やってる人からする目を疑う内容。もちろん、現在の社会的性差の一部は生物学的性差の一部に基づくのはほぼ間違いないけど、男と女のすれ違いをすべてそういう生物学的なもので説明しようとするのは行き過ぎもいいところ。
もう見事なまでに。その時々で色々理屈はつけるけど、大体においてその話題で少数派である側を擁護する言説を展開する傾向がある。彼があえてやってるのか気づいていないのかは定かじゃないけど。
彼のnoteを見ると、まっとうな「他者との議論」が展開されているケースは非常に少ない。まあ、これは彼をやたら嘲笑する側も似たような態度をとることがあるのでどっちもどっちかもだけど、noteの中で批判されない持論をひたすら展開しているうちに、「自分が正しいんだ」と思いこんじゃったタイプじゃないだろうかとすら思える。
5.専門家嫌い
たとえば、コロナ禍で奮闘している専門家について、薄っすら嫌われているだの、アドバイスをするなら相応の品格を見せるべきだのなんだの(この辺りは雑要約)。多くの専門家はそもそも研究者であって、別に政治にしゃしゃり出る必要ないにも関わらず善意でボランティアやってるのに、とにかく見下しているだのなんだの、彼の思い込みに基づいて態度を問題にしたがる。一方で「学問的」な成果は自分の都合のいいように誤用したがる(統計にしろ進化心理学だの)。
他にも色々あるのだけど、白饅頭氏の言説はしばしば部分的には「公には言えないけどそうなんだよなー」というある種同意できるところがあるだけに性質が悪いように感じる。他のところで間違いだらけなんだけど、気づけない人が「俺たちに言えないことを言ってくれた!」とばかりに支持してる感じが。彼の言論を掣肘するつもりは毛頭ないけど、noteを購読して感じた彼の危険性、特に一面の真理を突いているが故に取り込まれやすいそうな面については書き残しておこうと思った。
あと、これは推測に過ぎないけどnoteで有料マガジン始める前の氏はそこまでやばくなかったのかもしれない。批判されない安全地帯でひたすら言論を繰り出す内にどうも変質したんじゃなかろうかとも考えている。これはサロンやってる教祖様にも言えることかもしれないけど、安全地帯で誰にも批判されずに言論を展開できるのが本質的に危険な気がしている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ueno_wan/status/1474175084256718848
上野千鶴子 on Twitter: "オミクロン株、尾身苦労株と読めてしまう。この人の2年間、4人の独断・無能な宰相に仕えて、どんなにストレスフルだっただろう。どうする年末年始、尾身氏は3つの「お願い」 強い行動制限は求めず:朝日新聞デジタル… https://t.co/4pJnxJU74b"
驚いてる人が多いみたいだけど。