はてなキーワード: 九州とは
吐き出したくて感情のままに書きなぐったのですごく読みづらいうえにずいぶん長いです。ごめんなさい。
暇な人は読んでください。そしてこの感情の正体を教えてください。
マイホームを建てて、引越しだのなんだののバタバタのなかでケンカが絶えず、「離婚届を取りに行こう」という言葉が年末に旦那から出てきた。
建てたばかりで離婚なんかあんまりにも残念だと思ったし、ローンとかお互いの仕事の都合とかのもろもろで、離婚したとしてもたぶん家を出ていくのは旦那のほうになるんだけど、それはともかく、こちらももう実はずっと前から旦那に対する愛情とか愛着みたいなのを感じられなくなっていて、一緒にいても息苦しいばかりで、正直会話をするのも苦痛で、たぶんそれは旦那も同じで、何か月もレスだった。
何度こちらの考えや気持ちを伝えてもなかなか変わることができず、悪い意味で典型的な九州男児で男尊女卑の亭主関白、家の中ではいつも横柄な態度で何もしない、いちいち一言多い旦那に愛想が尽き、わたしから離婚を申し出たことも以前あった。話し合った結果離婚はなくなったのだけど、こんなふうに何度か別れ話まで行きつきながらも結局別れずに今まで来ている。ふたりとも優柔不断だからだと思う。どちらかが決断力のあるはっきりした性格だったらとっくに別れていると思う。
わたし自身も、横柄な父親とそれに不満を持ちつつ黙って従う母親のもとで育ったし、旦那の実家も見ているとだいたい似たようなものなので、まあ育ってきた環境がそうなら本人もそう簡単には変われないだろうし、わたし自身も結局、手本となる母親がそうだったのでなんだかんだ言っても知らないうちに旦那の横暴を誘発しているところがあるのはわかっているし、まだまだ日本も過渡期だよな特に九州は、なんて勝手に主語を大きくしたりしてもやもやした気持ちを無理やり押し込めながら生活してきた。
ただ、今回の年末の大ケンカの直後にわたしはインフルエンザにかかってしまって数日間寝込んでいて、そんなときも以前は「自分の食事は自分で用意するから気にしなくていいよ(ドヤァ)」というアレを素で言ってしまう、嫁の食事およびその他の掃除洗濯についてはまったく考えを巡らせることができないほんとにテンプレ通りの困った旦那さんだったのだが、何度か話をするうちに、少しずつ面倒を見ようとするようになってきているのは感じていた。
今回は、それに加えて掃除をしてくれた。
掃除機をかけ、風呂を洗っている音が、熱でぼんやり寝込んでいるところに聞こえてきた。
ああ、ちゃんと考えてくれているんだなあ、と思った。
何度話してもわかってくれない、変わろうとしない、と思うときも多いが、そんなこともないよな、と思った。
だいたいこれもケンカの直後だけで、数日すると、すぐにもとの横柄な人に戻っちゃうんだけどね。それでまた不満が溜まっちゃうんだけど。
でもそのたびに、やれることが増えているのを感じている。それは本当にありがたいし嬉しい。
そういうことも、ケンカしたあとの話し合いのときにはその都度全部伝えている。
わたしもだから変わりたいな、と思って、不満とか違和感を角が立たない言い方で小出しにすることを日ごろから心がけていて、それでもやっぱり期待値が上がってしまうのかイライラが募ってしまうので、まだまだ精進が足りないなとは常々思っている。期待するから腹が立つのであって過剰な期待をはなからしてはいけない。これは完全に自分の精神的な問題なので旦那がどうこうという話ではない。
あとはそもそもの話だがベースの部分の愛情がずいぶん少なくなっているから沸点も下がっているのだろうと思う。
そんなふうにベースの愛情がなくなりつつあるので、話すのが苦痛、一緒にいても息苦しい、という気持ちをなかなか切り替えることができずにいたんだけど、こないだの3連休の真ん中の日に、夢を見た。
旦那が、キャバ嬢みたいな派手な身なりの女の子を3人、連日家に連れて帰ってきて泊めてやっている。
キャバ嬢と言っても平野ノラみたいな昭和な感じの人たちなのだけど、まあとにかく女の子がうちに泊まるようになった。
寝るときだけは、彼女たちの姿がなぜか幼稚園児ぐらいの幼い女の子になる。
なんか、ひよこみたいだな、となんでかわからないけれど思った。
たくさんのひよこが一匹の大型犬にくっついたり乗っかったりしてて、大型犬も静かにそれを受け入れているという写真をネットで見たことがあるが、なんかそんな感じだった。旦那は大柄だから。
何日目かの朝、彼女たちを送りだしてからわたしは旦那に問いただした。
非常に迷惑している、一体何のつもりなのだと彼女たちに対する文句を言うと、旦那は腹を立ててわたしを蹴ってきた(一応書いておくけど現実に暴力を振るわれたことはありません)。
実家に帰るとか、他の友達のところに泊めてもらうとかできないのかと問うと
と、悲しそうに旦那は言った。
そこで目が覚めた。
わたしは親と不仲で、ここ数年連絡を取っていない。向こうからメールや電話は来るがすべて無視している(以前は着信拒否していたのだけど、そうすると母親が義母に電話をしはじめたらしく、義母から「困っている」と言われたので慌てて着拒を解除し、とりあえず義母への電話攻撃はやめさせた)。
家を建てるときも、うちの親に知られると無為に引っかき回して話をめちゃくちゃにするのは明白だったので、黙って建てた。
ただ、旦那の親にもわたしの気持ちを話したのだけどやはり親の立場としては納得がいかないということで、旦那の親はうちの親と今も連絡を取り合っている。
旦那と旦那の親に、うちの親子事情のせいでこれ以上負担をかけられないと思い、先日、夫婦でわたしの実家に行って「家を建てた」という話をしたところだった。
うちの親はいわゆる毒親気味でこういうときに隙を見せると喜々として人格攻撃を始めるので、あえて最後まで儀礼的な態度を崩さなかった。
1時間ほどで話すことを話して、きりのいいところで引き上げた。
自分に子どもができればまた変わるのかもしれないが、思春期を過ぎても両親を「気持ち悪い」と思う感情が消えてくれない。母親の卑屈な作り笑顔も気持ち悪いし、父親の理不尽な人格攻撃や横暴も心底軽蔑している。大人になった今は、親としてというより人としてそれぞれどうにも苦手で、単純に接点を持ちたくない。
その直後にこういう夢を見た。
たぶん、3人の女の子はわたしなんだろうと思った。屈託なく甘える一方で、わたしは本来そこにいるべきでない存在だと思っている。わたしは旦那に不満を持っているが、旦那もわたしと結婚して幸せになったようにはとても見えない。わたしは旦那からいろいろなものを搾取している。わたしは、本当はこの人と結婚してはいけなかった。旦那に苛立ち、息苦しさを感じるたびに、同時にそんなふうにしか思えない自分を責める気持ちと、旦那への罪悪感も増していった。
あんなにも疎ましく思っていたのに、目が覚めると涙がぼろぼろ出て、旦那のことをどうしようもなく愛おしく思う気持ちがぼんやりと湧いてきた。
横で寝ている旦那にくっつくと、旦那は少し驚いたようなそぶりを見せて、また寝た。
本当に、自分に起きたこの変化はなんなのだろう、よくわからない。
彼は煙草を吸うので、ときどき匂いに耐えられなくなることがあった。正直、近くにいたくなかった。寝言もうるさいし、夜中に目が覚めるたびにイライラしていた。
でも今は、旦那の匂いも愛おしい。すごくいい匂いだとなんか知らんけど思う。寝言も愛おしい。
ただ、それと一緒に罪悪感と自責の念もどんどん増えていく。
だから、この気持ちの変化を無邪気に旦那に伝えることができないでいる。
旦那のほうは、もう無理なのかもしれない。
それはもう、仕方がないと思っている。離婚することになるのなら、仕方がない。そう思っている。
でも自分の気持ちは、あのへんな夢を見てから突然変わった。理由はよくわからない。けれどとにかく変わった。
それだけは、まあとにかく伝えなきゃなあ、とは思っている。
どうすれば伝えられるのだろうか。そのまま話してわかってもらえる自信がないし、そもそも罪悪感がもうほんとに半端なくて、やっぱり好きだとかこれからがんばるとかそういうことを口にするのもはばかられるぐらいの罪悪感に押しつぶされそうになっている。それでうまく言えない。
そもそもこういう感情の振れ幅が大きすぎる女性というのが、自分が男だったらめんどくさすぎてもう駄目だろうと思う。
話がしたい。話さなきゃな。
http://anond.hatelabo.jp/20170101194020
料理に関しては女性がするのは日頃やってるだろうから得意っていうので分かるんだけど、お皿を下げたりコップを用意したり出来た料理をテーブルに持っていったり、そういう誰でもできることすら手伝おうとする気持ちがない!そして感謝もない。
うちの場合は兄がいる。母親が何でもしてあげるからただただ享受してる。兄が仕事から帰ってきたら母は「ご飯は◯◯よ〜 △△は美味しいから温めとくね」とかって優しい言葉をかけてあげながら飲み物(お水)を用意してあげる。ご飯もついであげて、兄は食べ終わった後は片付けずに部屋に戻る。兄から母への感謝の言葉は一度も聞いたことはない。
わたしがいる時は「それくらい片付けたら?」って言う。言わないとしない。
ちなみに兄は40歳超え・独身・たぶん童貞・100kg超え・ハゲ・部屋が汚い&臭い。仕事場でもたぶん臭いやつみたいに思われてる。雑巾臭みたいなんするやつ。最悪やんね。
良いところもあるけどね、平和的で優しいところ。(わたしは喧嘩っ早いので尊敬する)でもそれだけじゃ彼女はできん。
こんなどうしようもない兄が何で家で堂々と母親をメイドにしてふんぞり返ってるんだ?身の程を知ったらいいのに・・・
もう二年になる。
LINEで俺に謝ったまま。
気まぐれなところがあるのが玉にキズだったが基本的にいろんな人に可愛がられてた。
子どもの頃は俺もそれを妬んだりとかしてた。
俺たちの父親は昔から機械に強くて、周囲よりも早い時期からパソコンに触れていたせいもあって俺たち二人は簡単にオタクになった。
高校生になり、妹は地元でも有名な公立高校に進学して、腐女子仲間ができたと喜んでたのを覚えている。
成績はよかったが、手に職をつけたかったのと自分の趣味で仕事をしたかった妹はゲーム系の専門学校に進学し、
その、はずだった。
専門学校でも先生に可愛がられていて、資格の勉強も順調と聞いていた。
だから、あの冬の日に妹からたった一言「ごめん」と送られてきた時、
妹がその時置かれていた状況が理解できなかった。
それを見た妹は黙っていられなかった。
なんでそんなことをするんですか?やめなさい、とリプライしてしまった。
相手は逆上した。
バカなことに、妹は絵が得意でフェイスブックとかにもその絵を載せてたんだよ。
それで、相手は妹の本名やどの専門学校にいるかを知ったらしい。
某掲示板に本名つきで根も葉もない誹謗中傷が書き込まれるようになった。
妹の性格や人となりを知ってる俺からすると「ないわー」と思える内容だが、
第三者として見ると妹の名前のやつはすげぇ悪いやつなんだろうなぁと思えるような内容だった。
twitterで炎上したアカウントとかの話をにちゃんねるで見てるのにかなり近い感じで、
こいつはこんなに悪いやつで、社会的制裁が必要だ!と思わせる書き方だった、
ゲーム系の専門学校では人脈が大事で、就職のために色んな勉強会に参加したり
インターンに参加するらしい。
だから名前も大事で、検索したら一発でそういうのが出てくる人は採用されない。
妹が自殺した後、
俺だけが知ってる場所から出てきた紙に書いてあったブログの内容は概ねそんな感じだった。
そのブログは本人だけに見えるように非公開で作られていて、
途中から、某掲示板の妹への誹謗中傷が書かれたURLを保存したりするのに使われていて、
「何度も何度も削除してるのにまた増えていた」
「いつまで続ければいいのか」
とか、そういうのが書かれていた。
死んでごめん、ならなんで生きててくれなかったのか。
自社開発で稼ぐ会社ではないので、自社の生産部門要員=余り者を回すための仕組み
金を稼いではいるため、卑屈さは少ない
運用とは言うがきちんと切り分けられておらず、実質は生産部署のオコボレ仕事的なものも多い
3b.新事業部署
立ち位置としては2・3の部署に近い気がするが、生産性としては2・3の下
固定メンバー化している
専門スタッフ+時短・病んだ人・顧客トラブルを起こした人・その他行き場のない人
金を稼がない立場になる
1・2・3の部署間は人の流動がある
1→2・3の異動をしても1に戻ることも少なくはない
2・3間は異動というほどの区切りもなく、かなり流動的
4のみ人の流動は著しく低い
1→2・3→4と異動した後、4以外の場所に戻った人間というのがほとんどいない
右への異動は容易だが逆は難しい
社外勤務→→→→→社内勤務(生産)→→→→→→→→→→→→→→→社内勤務(非生産)
これくらいには差がある
落ちる方は楽で逆は難しい、なら自社勤務さらには非生産部門の社員人数は増えるばかりのはずだ
また近年は経営側もそうそう簡単に非生産部門への異動を許可しなくなった
そのため自社の非生産部門は決まった人員がずっと担当している、彼らはもうどこにも行き場はないだろう
生産部門で勝ち抜いてマネジメントの立場に就いた役職者がいる場所でもある
しかし彼らは自社に席を持ちながら週の半分は客先や他社との打合せその他で外出している
定時後は客との食事会ということも多く、忙しそうにしている
色々いろいろあって、夫が転職することになった。
うつ…にはまだなってないが、このままいくとそうなってもおかしくなかった。
なにする…
なにしよう?
疲れた頭と体を休ませようかと。
図書館にでも通ってみる?ははは なんて
でも
始まってすぐに思い立って
理由は
まるまる自由な1か月なんて、もう65歳過ぎるころまでもう無いだろう。
いやそれどころか家族が無理してでも一緒にいられる1か月休みだなんて、もう二度とないだろう。
なんとか、なる、する。
1週間くらいは北海道にいた。
1週間くらいは沖縄にいた。
この2か所は長期利用レンタカーがとにかく安かったので
その日その日でひたすらドライブしながらiphoneで行ってみたいところを検索しながら旅した。
その他の期間は、
近畿に数日
九州に1週間
服なんて下着の替えを少し持ってる程度で最小限に抑えた。(気候もいい時期だったのが幸いした)
日本なんだから必要なものはそのたび現地スーパー等で調達できる。
なんて便利なんだ!!!と感動した。
まさに地図いらず…
いまやスマホは当たり前になっているけど、放浪の旅にこんな便利なものはないと思った。
日に日に日本地図のいたるところにチェックが入っていく。
充実感や達成感を感じたし、またそれを見ては何度も懐かしんだ。
食費・車移動費・宿泊費で
4人で1日2万くらい使った記憶がある。
日によってもっとかかった日もあれば
もっと少ない日もある。
食べることは本当に楽しかった。
ご当地グルメばかり楽しんでいたが、
まだ低年齢だったため
旅行開始前、きっと仕事や将来の不安が気になって頭から離れないだろうなぁと話していた夫も
終わってみて「全く思い出しもしなかった」と。
私も毎日が楽しすぎて日常の事なんてこれっぽっちも思い出さなかった。
とてもよかった。
こんな家族もいるってことで。
今朝の地震と津波警報に関して、煽りすぎだ。煽っても人が死ぬよりいいというはてなーがコメントを寄せていた。
どっちだろうと興味ないけれども、中には煽っても人が死ぬよりいいというはてな民が「もう震災を忘れたのか!」となかなか強いコメントを寄せる人が結構な人数いて、驚いた。
というのもなぜ津波であんなに犠牲者が増えたのかという当時の検証番組やインターネットの記事では津波警報を過大に報道しすぎて信用されなくなった経緯があるということが原因だろうと結果が出ていたからだ。
津波の記憶だけを覚えていて、過剰に煽り、津波警報が信用されなくなる。
教訓までは覚えていなかったか。はたまた知らなかったか。それを知っても煽ってもいいというのだろうか。
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恐ろしい数字がある。津波の避難勧告が出たのに、実際に避難した人は6%しかいなかったことだ。2011年3月11日、東日本大震災の日の大津波警報。静岡県焼津市での数字だ。和歌山県でも4600人に避難指示が出たのに、ある避難所には6人しか来なかった。
このように東日本大震災のときには、全国的に津波警報が信用されなくなっていた。
これには長い歴史がある。1998年5月4日、津波警報が出た。沖縄、九州、四国、そして本州の南岸に最大2~3メートルという警報だった。
港につないでいる船や港の関係者、沿岸の人々などに緊張が走った。ちょうどゴールデンウイークの最中だった。行楽を打ち切って港や家に駆け戻った人も多かったに違いない。
だが拍子抜けだった。実際に来た津波は、わずか数センチのものだったからだ。
2003年9月にはM8・0の「2003年十勝沖地震」が起きた。この地震とほとんど同じ規模だった「1952年十勝沖地震」で6メートルを超える津波で甚大な損害を被った北海道東部の厚岸町でも、勧告に応じて避難した人はわずか8%にとどまった。実際の津波は警報よりもずっと小さくて被害を起こすようなものではなかったから、人々の判断は間違っていなかったことになる。
10年以上も過大な津波警報がくり返されたので人々は警報を信用しなくなってしまった。
それには理由がある。同じ大きさの地震が同じ場所で起きても、海底での地震断層の動きかたが違えば津波の高さは大変に違う。
震源からP波とS波という地震波が出る。P波が先に進み、S波はどんどん遅れていく。雷から音と光が同時に出るのに、音のほうが遅れていくのと同じである。
津波警報の仕組みではP波だけを使って計算している。S波は、震源で地震断層がどう動いたかという大事な情報を運んでくるのだが、S波を待ってからでは間に合わないからだ。
それゆえ、地震の震源と地震の規模だけが分かった段階で「考えられる最大」の津波を想定して警報を出す。だが地震断層の動きかたによっては実際の津波の大きさが最大を想定したときの何百分の1にもなってしまうのだ。
「最大」の警報と、実際にはずっと小さい津波の繰り返し。人々が信用しなくなったときに襲ってきたのが東日本大震災だった。2万人近い人命を奪った被害が出てしまった要因のひとつは「信用」だった。
行政は住民の防災意識の低さを嘆く。しかし、夜中の警報で財布や預金通帳やはんこを探し、おばあちゃんを背負って逃げたのに予報された津波が来なかったことをくり返した人々のことを考えてほしい。行政は津波警報を信用されるものにすることこそを心がけるべきなのである。
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http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140227/dms1402271802029-n1.htm
12万年に10回ってことは、1万年に1回あるかどうかってことでしょ。
人間、長生きしたところで、100年ちょいなんだから、自分が生きている間に起こる確率は非常に低いと思ったら良いのだ。
前回が7300年前だから、まだあと3000年ちょいは大丈夫かもだし。
鬼界カルデラは約7300年前に噴火を起こし、九州南部の縄文文化を滅ぼしたとされる。巽教授によると、こうした超巨大噴火は日本では過去12万年で10回発生。実際に起これば国内で死者が最悪約1億人と想定している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161119-00000001-kobenext-sctch
このニュースを見てからもやもや、というか漠然とした不安が止まらない。
この日本壊滅の危機は、何時だか分からないけど確実に来るんだよね?
「死者一億人」が最悪の数だとしても、国内だけで数百万~数千万人の人が死ぬんじゃないの?
たとえ爆発の予知ができたとして、どう対策するの? 国単位で国外に逃げていく??
まだまだやりたいことがたくさんあるんだよね。自分が生きている間に起きるのは嫌だけど、
将来的に発生したときに日本の文化が破壊し尽くされて途絶えてしまうのも、とても悲しいな。
でもこのニュース、自分の回りでも使っているSNSでもほとんど話題になっていない。
実はそんなに恐れるイベントではないのか?
もうどうしようもないので諦めるしかないのか?
現時点ではなんとも言えないだけなのか?
いや、そもそも深刻に考えなくてよいものなのか?
昭和の一桁頃
元々病弱であった妻もその二年後
後を追うように亡くなってしまった。
残された子供達は一番上で中学にあがって間もない長男と姉妹達。
若く働き手として期待できる長男は養子先として引く手はいくつかあった。
知り合いの子供のない薬局屋さんから養子に来ないかと誘いがあった。
長男は断った。
妹たちの養子先をきちんと用意してやる。
お前の親父の名字も残してやる。
その代わり、うちに丁稚に来い。
かけおちした罰があたったの嫌味を言われながら
頑張ればいつか教えてくれると言われながら。
少年は背は小さかったが
勉学にもまた真面目に励んでいた。
学校では級長となった。
その時の副級長と結婚することになるとは
この時は少しも考えつかなかったそうだ。
そう変わらない年の従兄弟達の面倒をみていた。
想像に難くない。
とくに一番下の子には兄さん、兄さんと呼ばれ実の兄よりも
懐かれていたそうだ。
拾ってやった恩だと言って少年の給料をピンハネしていたそうだ。
まだ妹の行方も全ては教えてもらえぬため
あの家には逆らえない。
隣の県へ引っ越した。
その後、年をとり、少年が老人となり、ついに亡くなったその日
飛行機で一番初めにかけつけたのはその丁稚先の従兄弟の一番下の子だった。
亡くなった少年、僕らのじーさまの上のような色々な話を聞けた。
そのじーさまのいとこが亡くなったとの知らせを聞いた。
いろんなしがらみの中で、それでも仲の良かった二人。
きっと今頃世話焼き大好きなじーさまが迎えに来てくれてると
そんな予感がする。
40歳になったのを記念に、「不惑」からはほど遠いが、自分語りする。
自分のことがよく分かっていなかった。
あとから聞かされたのだが、幼稚園にはじめて行った時、まったくしゃべらなくなったらしかった。
毎晩UFOがうちに来ていると思い込んでいた。
恥ずかしさというものが何なのか分からなくなり、なぜかパンツをずり下ろして登下校していた。
しょっちゅう小便をもらしていた。
身体の動かしかたが分からなかったため、ぎくしゃくとロボットのように身体を動かしていた。
特殊学級があるのを知り、そこに自分がいないのはなぜかといぶかしんだ。
いつも親は、泣いている自分に明日にはいいことがあると言い聞かせていた。
あくる日になったらなったで明日にはいいことがあると繰り返す親の言動に、混乱はさらに加速した。
自分のことを指さして笑う同級生や教師を見て、確信は深まるばかりだった。
人形遊びにはまり、何時間でも独り言をつぶやいているのを見た親から人形をとりあげられ、泣き叫んだことがあった。
転校生だった。
性格が明るくなった。
また性格が明るくなった。
やはり転校生だった。
もし親友に恵まれなかったら、自分の人生はまったく違っていたと断言できる。
自分を受け入れてくれるかもしれない可能性を思うことが、すなわち恋だった。
そのかわり勉強に恋した。
度を過ぎて打ちこめば、やっていることがなんであれ、それを勉強と言ってしまえると思った。
だとすれば勉強することが、あるがままの自分でいることにつながる道だと思いこんでいた。
寝ている時と食事している時、風呂に入っている時以外のすべての時間を勉強に費やした。
母はついに気が狂ったと思ったらしかった。
大学生になって間もなく、猛烈に女の人を好きになった。
自分が好きになったそのひとは、友人のひとりと出会ってすぐに付きあっていた。
今でも理由が分からないのだが、なぜか二人から付きあっていることを隠されていた。
そうとは知らずに告白しつづけ、ふられつづけた。
大学3年生の時、友人にふられたそのひとが自殺未遂を起こした。
血で染まった畳を清掃したあと、睡眠薬で眠りこんでいる女性の様子を見に隣室に入った。
枕元に置かれた手帳が目に入り、いけないと思いつつも手帳を開いた。
その年の夏休み、どうしようもなくなって東京〜九州間を自転車で縦走した。
当時大阪にいた親友のひとりに電話し、大阪で合流して3週間かけて九州の実家に帰った。1500キロの道のりだった。
もうひとりの親友は、大工として上京していたが、たてつづけに失踪した母親と兄を追いかけるように行方知れずになっていた。
なんとか大学卒業してそこそこの会社に入社、企画の仕事にたずさわった。
特許をいくつか取るほどにはがんばった。
が、結局丸3年勤めたところで退職した。
働くことの意味も分からないのに5年、10年先が見通せる会社員生活がうとましくなった。
会社を退職後、大学院に入りなおして修士課程・博士過程と6年間を大学院生として過ごした。
結局また勉強に頼った。
家財を売り払ったお金を学費にあてていたが、実家が困窮してこちらから仕送りする必要が生じ、苦学せざるを得なくなった。
この間に、嫁さんになる人があらわれた。
自分の人生でこのようなことが起こりえたことを思うと今でも驚かされる。
博士号を取得する前後からいくつかの大学で非常勤講師を勤めた。
結婚した翌年に母が死んだ。
誰になんと言われようが面接を受けようと思った。
自分が大学教員にふさわしいかどうか考えると、向いていないと思えることのほうが多い。