2016-11-14

うちのじーさまの話とじーさまのいとこの話

昭和の一桁頃

九州の山奥へ駆け落ちした夫婦がいた。

さな山間集落自転車屋を営み、一男三女をもうけ

ささやかながら幸せ暮らしていた。

一番上の長男小学校の高学年になった頃

父親事故あい、帰らぬ人となってしまった。

元々病弱であった妻もその二年後

後を追うように亡くなってしまった。

残された子供達は一番上で中学にあがって間もない長男姉妹達。

若く働き手として期待できる長男養子先として引く手はいくつかあった。

知り合いの子供のない薬局屋さんから養子に来ないかと誘いがあった。

長男は断った。

当時別の集落でそれなりに権力があった家に

嫁いでいた長男の母方の叔母がこう言ったのである

妹たちの養子先をきちんと用意してやる。

お前の親父の名字も残してやる。

その代わり、うちに丁稚に来い。

長男はその取引に応じた。

自分より年下の従兄弟のおもりをし

学校へ行きながら、一人畑仕事をすることにしたのだ。

かけおちした罰があたったの嫌味を言われながら

少年は働いた。妹たちの養子先を教えてももらえず

頑張ればいつか教えてくれると言われながら。

少年は背は小さかったが

バカにされまいと努力したせいか喧嘩も強く

勉学にもまた真面目に励んでいた。

やがてそのバカ真面目な姿勢評価され

学校では級長となった。

その時の副級長と結婚することになるとは

この時は少しも考えつかなかったそうだ。

少年丁稚先、とはいほとんど自分の妹たちと

そう変わらない年の従兄弟達の面倒をみていた。

親戚といえども丁稚とその家の大事子供

多感な頃であり、色々な気持ちが渦巻いていたことは

想像に難くない。

だが少年文句も言わず、よく従兄弟の面倒をみたそうだ。

とくに一番下の子には兄さん、兄さんと呼ばれ実の兄よりも

懐かれていたそうだ。

やがて少年が成人、就職し、先の副級長と結婚し所帯をもったが

仕事先へ叔母が給料を受取りに来て

拾ってやった恩だと言って少年給料ピンハネしていたそうだ。

まだ妹の行方も全ては教えてもらえぬため

文句も言わずそのまま働き続けるその姿に

親方最後には見てられなくなり、地元で働く限り

あの家には逆らえない。

ここをやめて紹介してやるから隣の県に就職しろと言った。

生活も苦しかった夫婦はその提案に乗り

隣の県へ引っ越した。

やがて夫婦は二男一女をもうけ、ついに妹の行方も分かり

やっと幸せ暮らした。

その後、年をとり、少年が老人となり、ついに亡くなったその日

飛行機で一番初めにかけつけたのはその丁稚先の従兄弟の一番下の子だった。

その時、僕らはその従兄弟の人や葬儀に来た人たちから

亡くなった少年、僕らのじーさまの上のような色々な話を聞けた。

そのじーさまのいとこが亡くなったとの知らせを聞いた。

いろんなしがらみの中で、それでも仲の良かった二人。

きっと今頃世話焼き大好きなじーさまが迎えに来てくれてると

そんな予感がする。

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