はてなキーワード: 王朝とは
そうはいっても世界で(たぶん)唯一有史以前から単一の王朝を維持(象徴的にだけど)してて、その上日本人社会はある種法律や社会システム以前に社会の規範があるというか、独自な社会文化が根付いてて、これはこれでけっこう貴重なことなんだと思うんだよね。民主主義や社会主義っていっても、せいぜいここ100-150年くらいのものだし、現実にアメリカやヨーロッパや中国、ロシアの社会を見ても壮大な社会実験みたいで、どれも目指したい理想の完成形には見えない。日本の町の平和感は世界のどこの国とも比較にならないダントツトップなわけで。それらは国の形と無関係ではないと思うんだよね。
インド | シヴァージー(1627-1680) | マラーター王国の建国者。ヒンドゥー教徒を糾合し、周囲の各イスラム王朝と対決した。特にムガル帝国に対しては、大々的にゲリラ戦を展開して、当時のムガル皇帝アウラングゼーブを苦しめた。敬虔なヒンドゥー教徒であり、イスラム勢力と戦って独立を勝ちとったために、ヒンドゥー教国のインドでの人気が高い。 |
パキスタン | アウラングゼーブ(1618-1707) | ムガル帝国の皇帝。兄弟同士の後継争いを制し、父親を幽閉して即位した。数十年にわたって帝国を栄えさせたが、晩年は長引くヒンドゥー勢力との戦いで財政の悪化・国土の荒廃を招き、己の統治の失敗を嘆きながら亡くなった。厳格なムスリムとして、ヒンドゥー教徒を激しく弾圧したため、イスラム教国であるパキスタンでの人気が高い。 |
ネパール | アマル・シンハ・タパ(1751-1816) | ゴルカ朝の名将。ゴルカ朝がネパールを統一したあと、アマル・シンハはさらに西へ進軍して領土を拡大した。その後、グルカ戦争において主力を率いて奮戦するもイギリス軍の前に敗れ去り、失意の彼は聖地ゴサインクンドへ行きそこで亡くなった。グルカ戦争における彼らの戦いぶりが今も恐れられるグルカ傭兵の誕生につながるのだが、それはまた別のお話。え、「ネパールは釈迦だろ」? うん、そうね。 |
バングラデシュ | カン・ジャハン・アリ | もとはインド・トゥグルク朝の貴族で、ティムールがトゥグルク朝を破ったあと、ベンガル地方にやってきて森林を切り開き、いくつかの街を建設して、その地を支配した。イスラムの聖者ともされて、彼が建設したモスク群は世界遺産に登録されている。 |
スリランカ | ドゥッタガーマニー(前161-137) | タミル人を打ち破り、初めてセイロン島を統一したシンハラ人の伝説的な王。実在はしたらしい。現在でも、タミル人との民族問題となると、シンハラ人がドゥッタガーマニーを持ち出すらしい。 |
ブータン | ガワン・ナムゲル(1594-1651) | ブータンの高僧にして初代シャブドゥン。チベット仏教ドゥク派の後継争いに敗れてブータンへ逃れてきたあと、たちまち国内を統一すると、各地に城砦を建設し、たびたび侵入してくるチベット軍やモンゴル軍をことごとく打ち破った。 |
モルディブ | モハメド・タクルファーヌ(?-1585) | モルディブを植民地とし、キリスト教への改宗を迫るポルトガルからの独立のため、島から島へと移ってゲリラ戦を展開し、八年の戦いの末にポルトガル人を追放し、ウティーム朝を建てた。 |
カザフスタン | アブライ・ハン(1711-1781) | 「大いなる災厄」と呼ばれたジュンガルの侵攻のなかで勇敢に戦ったため「英雄」と呼ばれ、やがて大きく三つに分かれていたカザフの部族連合の上に立ち、清とロシアの双方から「ハン」と認められるようになった。彼の死後、カザフはロシアに対抗できなくなり、その統治に組み込まれていく。 |
ウズベキスタン | ティムール(1336-1405) | モンゴル帝国の後継を名乗り、中央アジアに大帝国を作り上げた世界史上屈指の軍事的天才。オスマン帝国との戦争でその皇帝を捕虜にしたアンカラの戦いは特に名高い。明との決戦へと向かう途上で死去した。 |
タジキスタン | イスマーイール・サーマーニー(?-907) | サーマーン朝最盛期の君主。サーマーン朝はタジク人最後の独立王朝でもある。サーマーン朝が滅びた後、この地域はトルコ系、ウズベク系、そしてロシアの影響下に置かれ続けることになる。タジキスタンの通貨「ソモニ」はサーマーニーに由来する。 |
トルクメニスタン | アルプ・アルスラーン(1029-1072) | セルジューク朝のスルタン。名高き宰相ニザームルムルクを重用して国力を高め、東ローマ帝国と戦ってその皇帝を捕虜とした。セルジューク朝は「トゥルクマーン」という遊牧民が建国したのだが、トルクメン人と「トゥルクマーン」の関係は明らかになっていないらしい。にもかかわらず、トゥルクマーンが建国したセルジューク朝のスルタンや、伝説上のトゥルクマーンの祖とされるオグズ・ハンを、トルクメニスタンが英雄視しているのは、そこに民族のルーツを求めているからなのだろうか。 |
キルギス | マナス(?-?) | 世界最長と言われるキルギスの英雄叙事詩に謳われる王。オイラト人の支配下にあったキルギスに生まれ、オイラト人やキタイ人と戦って勝利し、キルギスの王となり、北京への大遠征を成功させた帰りに、敵の斧を頭に受けて死んだという。実在したかはよくわからない。実在が確実なクルマンジャン・ダトカのほうがいいかもしれない。 |
アフガニスタン | アフマド・シャー・マスード(1953-2001) | アフガンに侵攻したソ連軍を幾度も撃退して「パンジシールの獅子」と呼ばれた。タリバン政権に対抗する北部同盟の中心人物として活躍したが、9.11の二日前に暗殺された。あんまり最近の人は入れないつもりだったけど他にいないのでは。 |
ベルリンの壁が崩壊したとき、直前まで、そんなことが起こるなんて誰も予想しなかったことを覚えてるだろうか。
北朝鮮が崩壊するなんて、いま、だれも思ってない。そりゃ、ちょっとでも長いスパンでいえば、「あれはもたない」「王朝は崩壊する」と思ってる人も少なくない。けれど、1ヶ月後とか、そんな短期でバタバタ急変するとは思ってない。私も思ってなかった。けど、ふと、思った。こんどのオリンピックから一気に崩れるって可能性は?
ベルリンのときだって、大きく蓄積した不満が、小さなデマで一気に噴き出した。北朝鮮国内に溜まってる不満は容易に想像できる。それが小さなことで噴き出すかもしれない。そして、オリンピックで少なからぬ数の北朝鮮の人々が南を訪れる。そんななかから、何か小さな思い違い、小さなきっかけ、小さなデマが生まれないとも限らない。そして、それが大きな流れになったら、ひょっとして、止められない勢いになるかもしれない。
後のために書いておこう。私は何か、そんなにおいを感じた。
雑食なサブカル寄りライトオタアラサーメンズ増田の独断と偏見で書く。
5分アニメや朝アニメ、続きモノ以外はたぶん全部観た。今期結構豊作っぽいので選ぶ参考になれば。
1話だけでいいから観たほうがいい。京アニありがとう。京アニの監督は山田尚子だけじゃなく石立太一も推せる。
一番ノーマークっぽい?演出が95点くらいでヤバイ。いしづかあつこ監督は最高。
設定はわりかし普通の現実女子高生ものなんだけど、観てるとすぐ終わるくらいテンポがいい。
人間ドラマが好きなんだよ。原作の雰囲気をより強調しててもくどくなくていい。主人公の声優が良い感じ。
設定バッキバキSFで水島精二の時点で。kzの音楽が良い。小説作者が設定をオープンソースにしてるので要チェックな。
アナログハック・オープンリソース:https://www63.atwiki.jp/analoghack/
ボーイミーツガールでSFだったらBEATLESSよりこっちのがよさげ。でもセカイ系っぽい。
湯浅監督の作品が観れるかつ題材がデビルマンの時点で、ある方面では優勝してるでしょ。
1話面白くなかったけど2話はそこそこ。AC部観たいのと、ネットの教養として。
1話からヤバイ飛ばし方をしてるが大丈夫か?国立アンニュイ学園のためか?
思ってたより良かった。癒される。
これも思ってたより良かった。デュラララ的な感じ?
まだ面白くないんだけどOPとEDいいし。梅津泰臣が好きなだけか。
ラーメン店のチョイスが素晴らしい。
記憶がない。
記憶がない。
もうちょい絵がオシャレで百合百合しいのかと思ってたら少女漫画チックなのね。
あんま良くない感じで古いんだよな。1話で惹きつけられないし。
相当暇だったら見るんだけど。可愛いし。
1.5倍速にしたら見やすかった。
畳の上でヒールを履くな。
主人公が「さあ、デスマーチのはじまりだ」と言ったところで動悸が。主人公最強系好きならいいんじゃない。
記憶がない。
記憶がない。
アケメネス朝ペルシャの王のなかで、キュロスとダレイオスは大王と呼ばれ他の王と区別されている。
彼らは、アケメネス朝ペルシャだけじゃなくて、人類史上別格の王だった。
キュロス大王はバビロン捕囚の解放者として有名だけど、ただユダヤ人を開放しただけではない。
あらゆる民に、服従と引き換えに身の安全と財産の保全と信教の自由を保障すると宣言した人だ。
ほとんど気まぐれに開放することもある程度だった。
大っぴらに、王の宣言として、そんなことをした人はそれまでいない。
許すことを覚えた最初の王だった。
服従という新しい選択を与えられたからこそ、近隣国は戦争ではなく服従を選ぶようになり、空前絶後の大帝国をつくることになった。
戦争にあけくれたキュロス大王では、ぼんやりとしたただのポリシーの宣言だったけれど、ダレイオス大王の時代に制度として固定された。
ダレイオス大王はたぶん人類史上もっとも有能な王で、また別の機会に書くかもしれないが、ここでは省略する。
とかく、信教の自由というのは、日本においてはあんまりピンとこないけど、徹底してる。
アレキサンドロスが敵であるダレイオス3世(大王と呼ばれたダレイオス1世とは別人)とその遺族に礼を尽くした。
ローマ皇帝ウァレリアヌスがシャープール1世に敗北し捕虜となった後も、捕虜にも関わらず宮殿が与えられたという。(近年まですぐ処刑されたとされていたが、実際は厚遇されていたらしい)
サダムフセインから民衆を開放した一方で、サダムフセインに対しての敬意が不足しているように思う。
私はリア充が嫌いだ。
爆発しろとはいわないが、半額弁当を漁る寂しい老後を一人で暮らせばいいのにと思う。
ゴミみたいな記事をまき散らすゴミは、AmazonとGoogleからハブられてしまえばいいのにと思う。
爆発すら生ぬるい。
しかし、私は彼らを受け入れられるようになりたい。
幼児ポルノを見たことがある人間は、金属バットでフルスイングされても文句は言えないのはわかってる。
しかし、殴られることで罪を償った人間を、さらに叩くのは正義ではない。
追記
リア充の仲間入りかもしれない。
そのせいで少し、リア充のことも許せるようになった。
別れたい…
「LGBT以外はそのまま!その場に留まってて!動かないで!」とは言えない。
先進国のリベラルも今そこで議論している → http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/943345
「LGBTだけ解放します。ノンケとかロリコンとか動物性愛者だ人形性愛者、ロボット性愛者はそのまま!その場に留まっててください」
ということは言えないんだよ。
そういうことをどうしても言いたいのなら、あなた方は宗教的価値観や、家族文化を大切にしなきゃいけなかった。
ロリコンをぶっ叩けるのは「家族」しかいないんだよ。でもその家族を左派リベラルは嫌ってたじゃないか。
あ、ちょっと話は逸れるけど、まぁ家族に関係した話だけど、「そんな大して優秀でもない男性でも子孫を残せる」から民主主義社会が成立するわけで、
今のように女性のわがままに従って、ハイスペック男性の子しか残したくないだとか、形を変えた一夫多妻制でお茶を濁しますっていうのなら、そのうち王朝社会や貴族社会は復活するだろうね。
話は元に戻るけど、左派リベラルフェミが「家族」を解体したり、あるいはLGBTを認めたことによって、我々はロリ漫画や、これから出てくるであろうロリロボットを規制する手立てが無くなった。
左派リベラルフェミは自分で自分たちの首を絞めてるだけなんだよ。
(文:masudamaster)
https://anond.hatelabo.jp/20170615003042
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北朝鮮で金王朝称えてる人たちと精神的なレベルは変わんないからね。「金王朝の栄光を世界に広げなければならん!」とか目的がネジ曲がって核ミサイル開発とかも止まらなくなっちゃうしね。戦前の日本と良く似てるよ。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。