はてなキーワード: 排泄物とは
「何が特殊か」は実に興味深くて、一般的とされているセックスだって、ちんぽこにゴムを装着するのである。それがマナーなのである。
じゃあセックスしなきゃいいじゃん!と突っ込むのが、本来「普通」ではないだろうか。
個人的に特殊性癖と呼ばれるものはいくつかに分類できそうだなと考えている。
まだ詳しく考えたわけではないが、それが以下の四つである。
幼児プレイや緊縛・目隠し、放置プレイなどの割と一般的なものも含まれると思う。
露出やのぞきやスカトロなどの「羞恥」にかかわる性癖も、「見る/見られる」という力関係がこの無力感と強く結びついていると思う。
例の「蕎麦うちAV」はあまりのインパクトに呆然としてしまったが、似たような動画で、「縛られた女性の周りを、おしゃぶりと涎掛けをつけたロリ系の女優が三輪車に乗ってぐるぐる回る」というものを見たとき、ものすごく興奮したことがある。縛られている女性のあまりの無力感に劣情を催したのだが、蕎麦うちAVもそういうことなのかと少し納得できた気がする。
脳の部位的に「恐怖」と「快感」を感じる場所が近いという話を聞いたことがある(真偽はわからない)が、これも関係しているのかもしれない。
いわゆるスカトロや直腸野菜栽培もこのカテゴリで合っていると思う。
キスや口淫もこの系統で、実はグラデーションの問題であり、一般的な性癖に思える。
後述する「におい」もこれと関連していると思う。
先ほどあげた緊縛や露出、のぞき、スカトロなどはこの要素も強いと思う。
マトリョーシ姦もこの系統っぽい。
一般的なもので言えば青姦や、3Pなどの複数プレイもここに入るのかも。
また「ドラゴンカーセックス」も近代文明を獣性が犯す構図だとかキリスト教的にはドラゴンも冒涜的だとかなんとか、西洋の文脈ではここに類するという説明を読んだが、本当かどうかはわからない。
「におい系」も、不潔がタブーとされている現代では一応このカテゴリに。
ただ本来人間の体で「毛が生えている部分」というのは腋や股間など、体液や排泄の多い箇所だ。毛が雑菌を繁殖させるのはよく知られていることで、本来なら避けるべきことのはずである。
忌避されがちな臭いというのは、実は原始的には性的要素が強いものなのだ。
尿が異性を誘惑するフェロモンとして使われるのは動物界ではよくあることである。
レザー、ラテックス、髪、毛皮などのいわゆる「フェチ」はこれが大多数かなと。
「幼児期の体験」という話が出たが、その時期に触ったものの快感も大きそうだ。
体の一部なので正確にはフェチではないが、男女ともにおっぱい好きが多いのもこれに含まれるんじゃないだろうか。
触感系のフェチは単品ではあまり特殊ではないが、例えば状態異常と組み合わさった「石化」などになると、途端にすごいインパクトを放つ。
真空パックも無力感の他に、あのビニール的な素材感もいいのではないだろうか。
などと、とりとめもなく分類を書いてみたが、
何が言いたいかというと特殊と呼ばれる性癖も、カテゴリごとの要素を見て行けば実は一般的な性癖にも当てはまると言うことだ。
世の中、特殊な性癖なんてない、もしくはすべてが特殊なのだと思う。
偉い人が言っていた。
最近趣味でプログラミングを勉強し始めた排泄物人間なんだけど、
最初だからまだ自力コードを書くのが全然できないから写経が学習の中心になっている。
書籍やブクマ記事とかで「GitHubを(作って)持っておいたほうが良い」みたいなことがよく言われているけれどさ
これって俺のような排泄物のような初心者は、アカウントを作ったとして何をアップしたらよいのかわからない。
単純に考えると「写経したコードを上げる」なんだろうけど、これってさ著作権違反になりそうで怖い。
かといってゼロからコードを書くような力はまだないし(おそらく本当にHello world!ぐらいしか書けない)、アカウントを作るのがまだ早いってことかな
実際に意識して表紙を確認した時期があったけど、誤認させる表現はあっても直接表現は本当になかった。個人の体験で言うなら100%。
汁って言うけど白濁はだめで透明な汗じゃないといけなかったり、よだれや精液は恐らく「排泄物」って扱いでかなり厳しかったはず。
あと、こういうのは出版社が言い訳のためにやってるんじゃなくて、コンビニ本部側と協議して調整して(コンビニのほうが立場が上で好きに返本できるから出版社の方が自主規制してた)、さらに自治体もチェックしてて「問題なし」となってるからね。
でもどうせろくに表紙を確認しない人たちが「精液に見えた」「未成年やレイプを喚起させる」とか印象で批判するだけだったから、まったく何の意味もなかったけどね。
某献血ポスターの件でまたあちこちが燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。
これは「ポルノグラフィの法規制」に対してのフェミニズム的観点がテーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。
字数が切れていたので分割。
以下本文
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1. 問題設定
本レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定の地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。
最初に検討されるべきは、規制の対象たりうるポルノグラフィがいかなるものと定義されるかということである。もちろん、いかなる性的な描写もポルノグラフィであって規制の対象たりうる、という立場自体は不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制の対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。
まず、一般的なポルノグラフィの定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ三要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ三要件(通常人の羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。
判例の立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的な対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり、本来は性的表現であっても、直接他者に危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的に規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。
一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィをいかに定義したか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず、写実的に描写され、性的にあからさまな形で女性を従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性が人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性が苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性がレイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性が性的服従の姿勢で提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態で提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態を性的なものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記の基準と比べるとこれは、はるかに明快である。
ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制を日本において考える際にも重大な差異であると考える。
最高裁におけるわいせつ概念の定義は、三要件を用いたその定義から明らかに、社会的性道徳、善良な性風俗といったものを保護の対象としている。つまり、過度に扇情的なポルノ作品が市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件の控訴審における判決理由中の「かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念がわいせつ文書を規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。
ミネアポリス市ほかいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィを規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。
ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的に対象化objectificationするものである、とラディカルフェミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性の従属においては、不平等そのものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等をセクシーなものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配と服従をセクシュアルなものにする』」 。
ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまり、ポルノが消費されたときに、社会が倫理的、道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳的観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性が女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である。
Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者の観点の方が規制の根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害は存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者のアプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いかに表現の自由の価値を絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。
ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由も保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィが一般的な危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィが定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。
もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり、女性が傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例や法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である。
危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的な基準の定立が可能である一方で、主観的な不快およびその深刻性については、客観的な判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。
ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析を必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性が従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィの撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギやネズミやナイフやピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的なテーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性の女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的なテーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィは女性憎悪の純粋蒸留物であり、女性の経験の中でレイプ、女性殴打、近親姦、強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィを擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。
実際にこれらが物理的危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害そのものであり、規制はされてしかるべきものである。しかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会がポルノグラフィを公認していると見做される旨主張する。
McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダン・フェミズムの立場のもと、一定の距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィの生産に対してとられるべき法的行為=措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為=措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニストの目的に根本的に寄与すると主張する。この産業の女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的な尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春やポルノグラフィに従事させられるのである。ポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィが存在している社会は、女性が経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判の対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由から、ポルノグラフィの規制を法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である。第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプな女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノンの仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護を要求するような、文化的にコード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。
うんち ・ 屎 ・ 糞 ・ 汚穢 ・ ばば ・ クソ ・ 大便 ・ 便 ・ 大きい方 ・ ウンコ ・ 大 ・ 大の方 ・ 実 ・ 排泄物 ・ 落とし物 ・ ビチグソ ・ 人糞 ・ 糞便
日常生活における癖はなかなか他人から指摘されることがないから、
SNSとかでつぶやく何気ない一言から暴露してしまうことがある。
先日、ある方が「トイレで水を流した後に個室からなかなか出てこない奴ナニやってんだwww」
みたいなことを書いていて、多くの方が同調していた。
私からすると、水を流した後にすぐ出てくる方って、
個室から出る準備が終わるまで排泄物、及びトイレットペーパーを
延々水に浮かべてるのか?っていう疑問がある
ずっとそうやって生活してきたからそれが当たり前だと思っているかもしれないが、
臭いが立ち込めたり、排泄物とトイレットペーパーをまとめて流すことで
あと本人は気付いてないかもしれないが、臭いは結構服に付着している。
この辺り、落ち着いて考えると理屈はわかるはずなのに、
うんうん、君もまた排泄物だね
一体何なのだろうか?内容に関わらずうんちというコメントの意味がわからない。
言葉の意味は「糞とは、動物の消化管から排出される固体状の排泄物」
つまりその日記はその人から排泄される糞みたいなものだろうか。だとしたら著名人のブログや論文もうんちなのだろうか。
うんちとコメントする側は批評家気分で何でも監視してジャッチする裁判官なのだろうか。
火の粉が掛からないところから批判するだけ批判する人たちは卑怯物だ。
ワイドショーのコメンテーター気取りで、SNS上で皆が盛り上がっている話題に便乗してコメントするような人。彼らの言動は、ただ他人に石を投げてスッキリしたいだけで、世界の見方を代替え案をだすわけでもなんでもない。
というか此処にたどり着くまでに1時間かかった UIとはなんぞや
さて遅まきながら天気の子を見に行って感情が高ぶったので吐き出す場所を
探し、増田にぶちまけることにした
なぜなら
君の名は。のヒットから天気の子はデートムービー化してしまい男同士でいくのに
抵抗があり結果、ヒトリでいくことになり近くに聞いてくれる人がいないためだ
一方的に排泄物をまき散らすには増田ほど優れたコンテンツはない
新海作品の十八番である映像美と音楽のシンクロはもちろん、見せ所とそうでないところで
緩急をつけて物語に入り込ませるテクニックは前作より磨きがかかっている
またところどころで笑わせてきたり監督の癖(へき)がでているところも新海ファンには堪らないだろう
いい加減大人になれよと諭す小栗旬が藤原さんに聞こえてしまう不思議
何だかRADWIMPSの音楽もIllionがテクノサウンドでダンスミュージックにしてしまえば虹になりそう
「オッス!おらレントン・サーストンいっちょ探してみっか」と7つに分かれたエウレカを探す旅にでる
幻の51話をこの映画観終わったら見れるんではないかと思わすそんな映画
・・・かと思いきやラストでその印象は覆る(ここからはネタバレあり)
そのときエウレカは吹き飛び私の頭の中は秒速5センチメートルのアカリで埋め尽くされる
ここで説明すると私は高校のとき秒速を見て途轍もなく衝撃をうけた私の人生観を変えるほどに
それから歳を経るたびに秒速をみて新たな気づきを得るのが好きな秒速厨である
その秒速厨には大丈夫といえばアカリがタカキと別れるときに「タカキ君はこの先も大丈夫だと思うきっと」と言うシーンだ
別れた電車の中でお互い両想いでありながら好きと言う環境に立たされない子供としての無力感と
この想いをずっと未来まで忘れないという子供っぽい決意をこの大丈夫に乗せてタカキは成長していく
しかし現実は非情で半ば強迫観念めいた未来像と摩耗して擦り切れた想いがタカキを孤立させるのだ
くそ!やってくれたな
天気の子これはアカリの大丈夫になれなかったタカキの裏トゥルーエンドやったんや!
瀧の前前前作がタカキである君の名は。は表トゥルーエンドでこっちは裏ルートやったんや
世界よりもヒナを選んだ帆高の君の大丈夫になるていうんが正解やったんや
なんでアカリはあんなこと言うんやと思ってたけどあれは優しさでもあり、期待やったんや
うぉおおおーーー
そんなんほれてまうやんお互い大事にしてるのわかるやん
なんなん?新海誠はアラサーの童貞心をこじらせにかかってるん?
「君も幸せになりなよ」て長澤ボイスでいって諭して
障害者福祉の理念はすばらしい。あってしかるべきだ。しかし障害児のきょうだいは障害児福祉という名の新興宗教に強制入信させられることでハンディキャップを背負うことになるのではないかと思う。自分はそうだったのではないかと思っている。
母親が障害者福祉、障害児のママという絶対善、絶対正義の立場に立ってしまい、絶対に逆らえないこと。
学校やご近所や親戚やテレビをはじめとした差別主義的な社会や世間との板ばさみにされてしまうこと。
世間の偏見が!社会の無理解が!と聞かされながら、ご近所さんにはペコペコし、学校に馴染める子になれと言われるという、矛盾したメッセージにさらされること。
母親が障害児福祉活動の世界に入り浸っていつも知らない人たちといっしょにいるので、分離不安、寂しさを感じること。
障害児が生まれたのはママのせいじゃない、ママはわるくない、障害児タンはみんな天使、では、だれがわるいのか?そうだ長女がわるい!と、母親にとって一番叩きやすい者に矛先が向かうこと。正義や善は悪の存在なしでは成り立たないこと。
長女、上の子が大変なママを支える役割と決め付けられてしまうこと。障害児を抱えるけなげなママが主役の舞台の脇役を演じさせられること。
障害児福祉という、子どもにとって義務感しか与えられないコミュニティに引っ張り込まれること。
きれいなものをきれい、きたないものをきたないと思うこと、障害児の顔や排泄物や言動に不快感や嫌悪感や恐怖心を持つことに罪悪感を持ってしまうこと。
性に対するタブーの意識。障害児タンは天使であって性的な存在ではない。お前も性的な存在であってはならない。年頃の娘を見知らぬ障害者男性と同じ大浴場に入らせる、障害男児が健常女児の風呂をのぞくと、お姉ちゃんはお年頃だからねえ~といって茶化す、知的障害者に痴漢されても誰にも言えないことなど。
恋愛、結婚、出産に対する禁忌の意識。将来おかあさんと同じようになりたいとは思えなくなること。
いくらママのせいじゃない、ママはわるくないといわれても、やっぱり子どものせいでママが悪い母と思われてしまう!という見栄や被害妄想があるので、きょうだいには世間様に恥ずかしくない子であることを過剰に求めること。
上記の虐待行為のためにきょうだいの発達に遅れが生じ、ますます親の見栄や恥の意識のための懲罰を受けてしまうこと。
きょうだいが精神的に困っていても、障害児ちゃんと違って健常児なんだからちゃんとできるはず、ちゃんとしろと叱責を受けてしまい専門機関を受診できないこと。また虫歯が多くなり足の指が変形するなど。
母の障害児のママ仲間が障害児と踏み切りで心中したとき、母は電話で障害児のママ仲間と、かわいそうよ~と言いながらおんおん泣いていました。私はそれを見て、障害児を持つけなげなママドラマがクライマックスに達したんだ、よかったねと思いました。
もし私がもっといい子に生まれていたら、親がいい親だったら、私はやさしい心を持って成長し、親の望み通りに福祉関係の仕事に就いていただろうか。あるいはもしも私がもっと悪い子だったら、結婚出産して幸せになっていただろうか。私は何も選べないまま、どっちにも付けないまま腐っている。選んだのは自分だ。