はてなキーワード: 外国人とは
日本人がその外国人と結婚して離婚した場合、姓は結婚時のもままにすることもできる
この2つを組み合わせると、自分の姓を任意とすることが理論上可能である
この仕組みをハックすれば、珍しい名字の人間が急激に増える、みたいな現象を起こすことも可能だし、
姓というシステムそのものを議論の俎上にあげる優先度は上がるんじゃないかと思う
誰かやったらおもしれーんだけどなー
もうちょい追記する。
企業は「外国人、身体障害者、LGBT、フェミニズム」等は、都合の良いアイコンとして使いたがるが、「精神障害、発達障害、知的障害」なんかは使いたがらない。
https://twitter.com/nikejapan/status/1332519583882862595?s=21
このCMは、「被差別の外国人はいじめられてて可哀想だが自分らしく生きていこう」という、まあグローバル企業が好みそうな内容だ。だが、反発したい。
自分がオタクでクソ虐められていた時や精神障害者としてメンヘラってたときに、こんなCMを企業は日本で作らなかったし、現在進行形でヒエラルキーがクソ低い米国のナードを励ますCMは俺は見てない。
しかしそこで語られるのは「性的マイノリティ。外国人。女性」という安全牌ばかりだ。
逆に「精神障害者。オタク」あたりの扱いはクソいい加減で、まず取り扱わない。
こういうグローバル企業が「LGBT、身体障害者、外国人!」と連呼してる間、精神障害者を励ますCMや、キモオタを肯定するCMはまずお目にかかったことがない。
もう飽きた。
もう外国人差別、LGBT、身体障害者はいいよ。いつになったら俺たちの番はくるんだ?
オタクは経済力で世の中に認められて、それでいいかもしれない。しかし精神障害者を讃えるCM、励ますCMはいつできるんだろうね?
そりゃ危険牌だろうよ。「髪や肌の色が違うけれど世界は君の勇気で変わる」みたいなありきたりなストーリーで、「みんな感動しました日本の差別はひどい。グローバルは正しい」とはならないよねえ。
でもいい加減にしてくれねえかな?
そういうのをなんていうんだろうか?
差別問題を語る上で、みんな外国人、身体障害者、LGBT、とか語りたがって精神障害者になると途端に扱いが弱い。
そりゃ泣いてた奴がにっこり笑って円を組んで踊り出すなんて演出は不可能だがあまりにも安易に都合のいい差別だけ取捨選択しすぎじゃねーの?
コロナで窮している日本人が多い中で、外国人に対して余裕なんて持てるわけがない。
言ってみればトランプがアメリカで成功したのと同じメカニズム。
移民がアメリカ人の富を食いつぶしているって脅し続ければ、表向きは差別良くないっていいながら裏ではトランプに投票してしまう。
自分の生活に余裕がない人間に他人を思いやることなんてできないのは日本人も同じだと証明されてしまっただけ。
今までだって日本人が優れているわけではないとずっと言われ続けてきたけど、結局は生活水準がそれだけ高かったということだけであって、コロナで足元が揺らげばあっというまにこのザマですよ。
娯楽でも救われる命があるならそれで結構なことだけど、せめて娯楽でしたって認めてもらえないと今まで苦しんできた在日外国人は救われないよな。
BLMも娯楽だろ?ファッションでやってるんだろ?
それは悪いことではないので、そうだと認めた上でやってください。
民族至上主義は別に悪くないけど、安っぽいプライドが傷ついたからとすぐに他者を排除しようとするのは差別主義と変わりないです。
コロナで露呈される自らの醜さと向き合って下さい。
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
自己紹介から始まりますと、東南アジア系の国出身で、大学から日本に来ました。
その後、大学院いって卒業して、日本のウェブ企業に就職しました。
その後、とんとんと何社かをすて、今はシリコンバレー系の外資の会社で働いています。
日本に大学から来たとはいえ、友達がアメリカで働いた友達だとか、自分の出身国で働いている友達と話して、日本って不思議の点が多いなといつも思っています。
不思議その1:理系出身の優秀の友達がほとんどエンジニアになっていないこと
周りの友達が富士通とか、NECとかで「安定の仕事」を選ぶ人が多いことが一番驚きました。彼らめっちゃくちゃあたまいいのに、SIで選んで、日々でExcelを書いて、どっかのゴミアウトソーシング会社のチームの主任になったりするのが当然のような選択肢がとても不思議でした。
不思議その2:優秀のエンジニアなのに低い給料で満足していること。
自分は最初の会社で新卒の給料が400万ぐらいでした。そのときにすごい優秀の先輩でもそんなかわらない給料をもらっていたことを知って驚きました。その後転職により給料もかなり増えました、いろいろ優秀の友達と出会って、彼らが自分よりめっちゃくちゃ頭よくて、技術レベルと、一般の知識も自分より全然上なのに、自分の半分ぐらいの給料でうれしく仕事している姿をみて、とても不思議でした。
不思議その3:インターネットの有名、そしてエンジニアの優秀人の基準がよくわかりません。
海外だと「優秀のエンジニア」==「インターネットの有名」のが多い。例えばグーグルの神エンジニアのJeffDeanとか、オープンソースの有名の開発者とか。日本だと、「1000万を儲ける自称エンジニア」はともかく、ただ海外のブログを読んで日本に知識普及する人ほど有名になることが多く見えます。とある会社と話して、「うちは業界のトップエンジニアが在籍すると聞いて」、調べたらとある言語のエバンジェリストみたいな人だった。エバンジェリストは多少普通の人よりその分野では知識もっているのはわかりますが、それが「トップ」とは違いますよね?例がぐっちゃぐっちゃになってしまいますが、言いたいことは日本の「優秀」という基準がよくわかりませんので、とても不思議でした。
もっともっと不思議のこともいっぱいありますが、とにかく思いついたことをさらっと書きました。下手の日本語で申し訳ないが、このブログを目を通した人はその不思議の答えがもし知っていればコメントを書いていただけるとうれしいです。
たとえば 日本人のむらに
外国人がひとり
受け入れて
子供を作って
このこどもがコミュ障
100人の村だとしてよめ1人 99人がコミュニケーション障害の村に 子供を作ってしまったのではなく
1人のほうが障害者?
障害者か?
ではとれないと障害者か?
療法ではなく なぜ 数が少ないほうがコミュニケーション障害の元凶なのですか?
99人が英語で 1人が日本語だと コミュニケーション障害だとおもいますが 日本語は悪ですか?
こういう状況のとき ぼくは まず 自分が精神病院にいきました。
そして 若干おかしいところがあるかもしれないが うたがいであり 原則 コミュニケーションに問題はない かるく
という方向でした
あなたはどうすか? 短い通院で 完膚なきまでに完璧に徹底的に 問題なしでしたか?3回ぐらいの通院で 完璧にですか?
大事なこと 長期経過観察
Aってだめ?Bってだめ? どちらもお医者の先生の 問題なし つまり 両方大丈夫という問題がまちがっているパターン
ただしくは 問題があるもの AまたはB ABとかき問題がない場合はなし とかくこと
という設問がただしいので
あえていうなら出題者がコミュニケーション障害 だが よくある 引っ掛け問題なのでむしろあるほう なので 結果論 問題なし → 自分自身も 検査に入れて 問題なしという必要性クリア > よりベターな回答はこうだが、出題のためにあえてこうかいたと 一言書いておきました
リモートワークが増えたので据え置きゲーが売れている、とか
リモートワークが増えたので、UberEatsが増えた、とか
そういうリモートワークが増えたのでXXが流行った、or廃れたってのが実感がない
弊社では東京や大阪はリモートワークもやっているのだが、大都市以外の支店は通常出勤だ
地元でも感染者はいるのだが、件で10人、20人/dayなので、リモートワークまでは行かない
それどころか、大阪や東京がリモートワークになったことで、会社でないと出来なかった作業が他の支店に降りてきて、こっちは残業が増えた
コロナで生産アップして、工場は残業だらけで、ヒイヒイ言っている
しかし、東京本社の大企業の店は、一律閉店を早めているので、必要な物も買えない
ヤマダ電機とか全部閉店19時にしやがって、間に合わないよ
看護婦の友人と先日ラインをしたが、テレビを見るだけで腹が立つので、もうテレビも見ないし、ネットも見てないと言っていた
観光地や店に人が増える=自分たちの休みと給料と体力気力が減る、になる
会社の通勤のみで感染した人は仕方がないと思うが、感染者isだいたい県外で遊んでたり会食してたりする、だそうで
てめーらは好き放題遊んでイイデチュネーはいそのせいで私の休み消えましたねー病院又貧乏になりマチュねー私の賞与あんたが払ってくれよ、って気分になりもう耐えられない看護婦辞めようかと言っていた
まあ言うてもさ
コロナで職を失った人とかからすれば仕事あるならいいだろ!ってなるだろう。他山の石だ
俺はリモートワークなんてことをさせて貰って、普通に働いて給料が貰えて、感染対策も出来て、GOTO使って遊びまくって食事しまくってる「普通」のやつらなんて、幸せだと思う
だからこういう選ばれし立場の奴らが、コロナ辛い辛い言ってるのみると、は?????とか思う
こういう人たちの方が、絶対泣きたいしつらいわ。
国民にはテレワークしろと言ってんのに外国人の自称ビジネスマンはテレワークもできないらしい。
日本人の仕事がない状況で感染リスクをおかしてまで入国させるんだから、日本人には絶対無理な仕事をその外国人はやってのけるんでしょ?
父、かなり理性的な感じがあり、なんなら共産党とか支持してそうで、むしろ左翼っぽいんだが、歳とってネトウヨっぽくなった部分もある
ユーは何しに日本へとかメッチャ見とる
ジャパンガイドとかいう外国人向け日本観光サイトでボランティアのツアーガイドめいたこともやっとるらしい
謎なんだよな
日本の○○はすごい!世界に誇れる!みたいなことはあんまり言わないんだが、一方で「外国人観光客が日本を楽しんでいる」というのはすごい好きっぽい
まあそら自分に近しい文化が喜ばれてるの見て悪い気はしないわな、と思いつつ、でもこうたまに帰省してユーは何しに…がついてるとうっすらイヤな感じもし、複雑な気分
入国制限緩和と感染拡大はGo To以上に関連性があるんじゃないのか
国民にはテレワークしろと言ってんのに外国人ビジネスマンがテレワークできない理由は?
そもそもちゃんと入国制限すれば台湾のように普通の生活が出来るんじゃないのか?
こういう教員はたまにいる。
正直、感情的になるのはどうかと思う。
しかしそのA教授がしたことだけは人間として許せない行為だった。
早い話、そいつは自分が受入研究者(Post Researcher)となって招へいした
海外の研究者が訪日中の海外旅行保険に加入していなかったのを隠蔽したのだ。
これだけなら「なんだそんなことか。」を多くの人が思うかもしれない。
問題はその過程と、それが今コロナの真っ最中に行われたという事実だ。
知ってる人もいるかも知れないが、今外国人が日本を訪れるためには外務省等が定めた
手順を踏み、海外旅行保険の加入や専用アプリのインストールをしなくてはならない。
そして受入機関はその機関長や部局長がそういった措置を外国人にさせることを誓約しなくてはならない。
この誓約が守られなかった時には、その機関名が公表され、その機関長の責任が問われることになる。
当然うちの大学もそうしていた。そして誓約に基づいて外国人研究者に保険の加入を依頼していた。
しかし来日寸前になって、その外国人研究者が保険に入っていなかったことが判明した。
ここまでもまだ仕方がない。外国人研究者なら多少そのあたりにだらしなくても驚かないし、
あと誓約内容は日本独特のルールなので、理解しきれていないところもあっただろう。
しかしそのクズ野郎はそれが判明して事務が急いでその外国人研究者に
保険加入を促そうとしたときに事務に怒鳴りちらしてそれを止めさせたのだ。
なぜか。
万が一保険加入が間に合わなくて来日できなかったら自分の研究に支障が出るからだ。
繰り返すが、保険未加入がばれれば機関名が公表されて機関長の責任が問われる。
最悪の場合、機関の外国人受け入れが停止される可能性すらある。
そうすれば学部長のみならず学部全体、あるいは大学全体の研究者が迷惑を被る。
それが分かっているのに、そいつは保険加入を妨害したのだ。自分だけの研究のために。
外国人研究者が万が一病気にかかったときには、高額な医療費を請求される恐れがある。
外国人本人はまだいいだろう。無保険で旅行することのリスクくらいは自覚しているだろうから。
そういうのを説明した上でも加入を妨害したから、そいつはクズなのだ。
こういうクズは全体の極一握りだ。
日々大学という空間で研究者に接する中で、その姿勢に心底敬意を表さずにはいられない、
それくらい、今の研究者は苦境にあえぎつつも頑張っている。
だからこそ、こんなクズが研究者を名乗って他の研究者に紛れて善人面するのが許せないのだ。
今日時点では保険加入チェックは厳重化されたらしい。これは非常にいいことだ。
リベラルとは人間皆平等、人間皆自由、それが無理でも人間の最低値としての人権の保障
でもこれって実行力ないと無理。その実行力は現在警察と自衛隊含む行政が行ってる。要するに国。国の実行力に限界がある以上リベラルには取りこぼしが絶対に出る。
この取りこぼしはまずより人間じゃない人達からになるのが道理。え?人間皆平等、人間皆自由、それが無理でも人間の最低値としての人権の保障はどこ行ったって?そりゃ理想だな。出来ねえもんは出来ねえ。
現状日本では
・日本国の認めた日本人である(日本が日本人の税金と労働で成立している以上、この条件を外せない)
・日本国の認めた外国人である(外国人は日本への貢献をしているとは言い切れないが、国対国の付き合いを考えると他国の国民を人間扱いしないわけにはいかない)
これさえ満たしてれば人間
社会福祉とか年金とか考えると労働すらしなくても日本人と認められるのは甘々と言える。
女の胎から出てきているも地味に重要。出て来ていないのにも認めると中絶が殺人なので禁止になり、不運にも使われなかった卵子精子にも認めると初潮精通来る前に結婚して避妊が殺人なので禁止の世界になる。人間の誕生を決めるのは神の祝福のみ。ヤバ目な原理主義者が言ってるような事が一番人間範囲が広いのは驚き。ちなイスラムは中絶OKらしい。天才が啓示を受けた最新宗教だけある
さて今度はもっともリベラルに必要な人間とは誰なのかという話をする。
国がより多くの人間に人権を保障しているほど、また人権を持つ人がより多いほど人権の総量はより多くなる。
それはより国へ貢献している人間。そして人間を生産している人間となる。
こいつ保守の話してね?って思った方その通り。
リベラルのガソリンは保守。限界を作ってる人間は保守。より保守な人間の活躍でリベラルの限界が決められてる。
ワイは借金玉(ワイは借金玉のファンボである。精神状態ヤバそうなときにミュートするのが楽しむコツだ)のリベラルとはやせ我慢と根性みたいな言葉が大好きだ。
植松にも植松に殺された人たちにも歯を食いしばって人権を主張するのがリベラルというものだ。それが出来るのは保守だ。真にリベラルな人間はリベラルな保守か保守なリベラルの中にいる。