はてなキーワード: ニーチェとは
「人間は生きてるだけで素晴らしい。」
2020年の現代は、天変地異、疫病、少子高齢化、予測不可能な社会の変化に晒されていて、
多くの人間が幸せになる道筋を見失っている、そもそも、どうなれば幸せなのか分からないまま生きている。
では2020年の現代においてニーチェのなにが刺さるのか教えてください ><
なんJネタ(深淵を〜)以外で2020年の現代においてなにか刺さる要素ある?敬虔なクリスチャンでも無いのに?
もちろん、子どもの頃ハマったものに深い思い入れがあるのはわかる
ワイもチョコカステラが好きだしきな粉棒が好きだし長編ドラえもんが好きだしムーミン好きだ
それっぽいものをあげるなら子どもの頃に読んだサルトルとアドラーは好きと言えば好きだ
古いマンガ(たとえば奥瀬サキとか)だけでなく最近のマンガ(ニーチェ先生 など。なお未読)やエンタメや個人創作でも
未だにニーチェ推す人々を見るのですが
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
「ニーチェは『善悪の彼岸』の中で、〈怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである〉という言葉を記しています。自戒を込めて言えば、犯罪に接する機会の多い仕事は、内なる攻撃衝動が刺激されて一線を越えることが当たり前のように感じてしまう。自らが怪物になる危険を孕むことを、肝に銘じる必要があります」
誰もが触れずにはいられない一節。笑。
ただねぇ。滅多に怒ったりしない温厚な人間というのは、
怒る時は相手との関係を訣別する時であって、それは謝れば許してもらえるような状況には既に無く、
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の日本語訳を読む。
流石にニーチェの翻訳家が手掛けただけあって、日本語は実にこなれていて詩的だ
(ウィトゲンシュタインは「詩的」な哲学を好んだ。ニーチェの哲学も従って高く評価していたという)。
悪く言えば情緒的で、こちらを刺激させるゴツゴツしたところのない滑らか過ぎる訳でもある。
ドイツ語が出来ないのにこんな生意気なことを言ってしまって申し訳ないが、好みとしては『論理哲学論考』の方が好き。
でも、「分かる」「伝える」「考える」ということがどういうことなのか再確認させる凄味はある。
脳科学の世界で聞けば瞬殺されそうな考え方ではあるが、仮に科学で解明されたとしてもではその科学がどうして正しいのか、という疑問は残る。
確かウィトゲンシュタインはそういう事態を指して「語りえぬもの」と呼び、黙れ、世界はそのようなものだからだ、と語っていたのではないかと思う。
まあそもそもセレクトがこの前批判されてたやつと違うだろって思ったけど、悪役令嬢がアレをアレする話(あからさまにぼかす)を読んでみたのね。
なろう小説、他の読んだことないんだけど。アニメでほんの片手くらいだけ見たことはある。
えっとまあなんだ、1部は順当にファーストアイデアかなって思いました。
そんで2部からは少女革命ウテナとかネバーエンディングストーリーとか北欧神話とかギリシャ神話とか父親(母親)殺しとかまあその他色々ひと通り盛り込んだ感じで、わかりやすいライトノベルだったんだけど…
面白かったです。
巨乳出てこなかったよ!少女漫画的男性の経済的搾取表現出てきたよ!っていうかかなりそればっかりだったよ!がっつりイケメン搾取もしたよ!ヘテロ恋愛のみで同性愛表現は冗談として扱われるのでポリコレ的にも問題なくはないよ!(でも多分よくわかんないのにLGBT出してもきっとドラクエ11のシルビアみたいに悪いトランスヴェスタイト表現みたいな感じになっちゃうんでしょう…?)あと暴力と知力のバランスが結構現代的というか女性向けだからかもしれないけど意味がわかるっていうか、よかったよ!
まあ…女性向けになろう小説書いてもそんなもんだよな…って思いました。
でも面白かったです。
まあ確かになろう小説に問題が全くないかっていうと全然あって、それしか小説を読まなくてそれが全てだって思いこんだとしたら、その人の人生や社会に悪影響はあるとは思う。
運営が終了してしばらくたったアニメの円盤やグッズや、それとはまた別のジャンプ漫画や、そのほかにも親に内緒でこっそり貯めてた薄い本をまとめて明日売りに行く。年を越す前の断捨離である。
ただ、今回の断捨離は私にとって完全にオタクを退くための儀式のようなものだ。
私は高校生の頃からアニメや漫画が好きで、大学1〜2年の間まではバイト代の多くを注ぎ込むほどオタク活動に勤しんでいた。
しかし、私はオタク活動にハマりきれておらず、当時から熱狂する別のオタクを見て若干引き気味だった。今にして思えば、そうした緩やかなスタンスで好きなジャンルを見つめてればよかったのかもしれないのに、私はなぜか熱中できないことが恥ずかしくて、そのことの埋め合わせをするかのように円盤を買ったりイベントに行っている節があった。
そうこうするうちにオタク向けのコンテンツ全般に飽きてしまって、別の物事に興味関心が移って、別の趣味を確立させてる今があるんだけど、こないだ部屋の片付けをしてたときにオタク時代に集めまくった円盤やグッズを見つけて、押入れに放置されたままの軽く総額20万円は超えてるそれらに対する罪悪感に耐えられなくなって、価値がこれ以上下がらないうちに売りに出すことに決めたのだ。
無駄遣いした分のお金はもちろん惜しいし、自分のバイト代といえど無駄遣いした罪悪感は大きい、ただ、何か別の趣味があったとしても私は飽きやすいので何か別のものが溜まって売りに出したり処分しに行ってただろうなと思うから、お金のことはまぁしょうがない。それ以上どうして全力でそのコンテンツを楽しめなかったのか、それなのに意地になって高額なグッズを買い続けたのか、もっと早くコンテンツに見切りをつけてもっと面白い別の文化に触れ合おうとしなかったのかと昔の自分に対して思ってしまう。
きっと、私はオタクでしかなかったから、アイデンティティを失うのが怖かったんだと思う、“オタクであること”を確立させるために私はグッズを買って、イベントに通っていたのだろう。
明日、グッズを売った後、前から気になっていたスポーツジムに見学に行こう。
それから、大学図書館にあったニーチェ哲学の入門本を読んでみよう。
今急に私が死んだら、流石にあの人もあの人も傷ついてしまうというか、
単純に滅茶滅茶迷惑をかけるので旅行計画に頭をすり替えている。
2014年にイエローナイフで行方不明になった日本人女性のことをたまに思い出す。
1人で行って、消えてしまうことができるんだな…。とたまに彼女のことを思い出す。
(あまり人気のない映画だと思うけど、逃避用にディスクで買った)
私だって、あの航空券を取ることができるんだな…と銀行口座の数字を思い出しながら思う。
流石に今、いきなり私が死んだら、あの人やあの人は随分と厄介な感情を、人生の重荷を、ずっと抱え込んだままになってしまうだろう。
何にしても、死ぬよりはマシだ。
友だちの親が首を吊った時期、近くにいたことがある。
あれはとてもきついだろう。
今の私は昔と違って、自分がいない世界の方が綺麗に回るという思想に取り憑かれているわけじゃない。
昔は取り憑かれていた。
母は小学生の私に「このマンションで死ぬなよ、私たちがここに住めなくなるんだから」と言った。
そして「そんな暗い顔をしてるから嫌われるのよ」と言い捨てた。
そうか私はそんなにも鬱陶しいのか、と思い続けていたけれど、
もうなんでもいいやと思い色んな人に投げやりに頼んでいたら、意外となんとかなり続けた。
なんでみんな自分を押し殺す?
春樹読んでニーチェの話して、村上龍の話をしだした男の子の胸に耳を当てて「これは俺の歌だ?」と言うとモテる。
そういう人にさえ好かれたら、200人に1人くらいに好かれたら人生は十分だ。
これは私がものすごく投げやりだった頃の話。
肉体が40歳くらいで、仕事と家事(私の父は家事ができたが)もあり、疲弊していて、
母は自分がどうして欲しいか、私にコミュニケーションを取ることをあまりしなかった。
母は寂しくなっただろうし(父は精神的なケアをするタイプではない、家父長制の毒もないけれど)、
単純に、疲弊をしていたんだと思う。
身体中が痛くて、マッサージも高く感じて、ジムに行くというのがメジャーな時代でもなかった。
母が随分と私を鬱陶しく思っていただろうというのはわかる。
かなり鬱陶しく思っていたんだろう。
今わかるよお母さん、疲れていたんだろうね。
でも言っていいことと悪いことがある、それで一生信頼しないことにした。
わかることと許すことは違う。
私を傷つける人、として認定して、そしてそのまま切り離した。
尊敬には値するけれど、私の精神的な支えには今後ならないだろう。
孫が生まれたことで、母は分かりやすく幸福の証を取ることができて、どうやら落ち着いている。
1ヶ月分丸々残してある睡眠薬、例えばこれを持ってあの人のようにイエローナイフに行ったら、と時折思う。
睡眠薬と100万円。
どう考えても死ぬほど追い詰められた生活じゃないこともわかる、
イエローナイフで行方不明になった彼女のことが気になって、久しぶりに調べたら、白骨死体が発見されていた。
でもふわふわとしている。
ふわっと、台湾に行くみたいにチケットを取って、飛行機に乗ってしまえばぼんやりと進むことができるだろう。
私がニュースで見たのは、普通にダウンジャケットを着て明るい店内の椅子から立ちあがる様子を映した防犯カメラの映像。
睡眠薬を処方されるときに、これは1000錠飲んでもまぁ死にませんから、と話題に出された。
何かを組み合わせなくては。
彼女のドキュメンタリーがあるらしいのだけど、日本からアクセスしても見られなかった。
そっか、そんなにも大変か…と思いながら、彼女の気持ちを勝手にわかった気になっている。
ふらりと消えたくなる、別にこの命で長生きしたいというのでもないし。
だけど流石に迷惑だろう。
でもそんなの、よくわからないんだ。
私が死んで悲しいのは、私じゃないんだもの。
あの人やあの人が死んだら悲しい、そんな世界を生きたくないと感じる。
でも、私が死んでも悲しいのは、私じゃないんだもん。
痛いのも苦しいのも嫌だけど、
ここにある薬とパスポート、やれることはまだあると知っているけれど
中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
色即是空というとニヒリズム的な響きがあるが、ニヒリズムといえばニーチェである。
科学的知性や理性によって神を殺した我々は、もはや神によって与えられた生きる意味や価値を信じることはできない。
そうして無意味になった人生に対して、彼はニヒリズムの打倒を叫び、生の肯定を要求した。
大乗仏教の色即是空から空即是色へという流れはこれに似ているようにも思える。
もしかすると次のようなことが言えるかもしれない。
仏教とは、あらゆる物語を剥ぎ取った上で展開された思想である。
色即是空的な宗教的真理に基づき、初期仏教や上座部仏教は現世からの解脱を志向し、大乗仏教はあえてこの世界で生きようとする。
仏教は物語の喪失の彼岸にある思想であり、神の死を乗り越えて生み出された価値である。