はてなキーワード: コミュニケーション障害とは
いちいち言わなくても99%の人はわかってるだろうから一部の頭悪すぎるバカ向け。
一部の世間からのpokemonGOや、pokmemonGOユーザの行動への批判に対して、一部のオタクが
「お前らポケモンの世界観知らなさすぎ、ポケモンってのはこういうテーマの作品なんだよ。それを知らずに批判してんじゃねえよ」などといったクソリプを返し、そうだそうだと盛り上がってる光景を見た。
話がかみ合ってない。
ポケモンやってない人間からしたらポケモンの世界観なんぞ知ったこっちゃないし今問題になってるのはpokemonGOだし、
pokemonGOについて無知をとがめる暇があったら、糞みたいなマナーでpokemonGOをプレイしてポケモンそのもののイメージを貶めてるバカユーザーを何とかしろよ。
世間に迷惑をかけてるやつらがpokemonGOやってんだから、pokemonGOの印象が悪くなるのは当たり前だろ。
それなのにオタクにしか通じない、世間の人が全く興味のないポケモンの世界観がーって言ってるオタクって本当に空気読めないしコミュニケーション障害者だし、モテなさそう。
最近は意味不明な事を学校側に要求するモンスター親が何かと話題だ。
半数以上、6割ほどの家庭が子供が暴れヒステリーを起こすので学校に理不尽な要求をする。
この様な子供の親は大抵2種類。
一つ目は子供にあまり興味が無く、両親とも仕事に出ており子供の様子を気にかけない、さらに面倒なのか子供の要求を飲んで育てていた家庭。
二つ目は子供に発達、知的障害が有るにも関わらず普通の学校に行かせるのを望んだ結果、制御しきれない怪物に育ててしまった家庭。
ちなみに二つ目の家庭が9割ほど。
暴れて家庭で暴力をふるい、学校でもヒステリーを起こし物や人に八つ当たりをする生徒は高確立でADHDか知的障害である。
これはこちらが断定した物では無く入学時に親から既に伝えられている情報のため勝手な判断では無い。
あうあうあーほどでも無いが、一般的な人間に比べると明らかに学習障害、コミュニケーション障害が有り最早親や学校の指導ではどうにもならない。
どうしたら知的障害や一般人として生きられないレベルの子供を親が養護学校に入れてくれるのだろうか?
誰がどう言い聞かせても理解出来ない人間は外見は人間だが、中身は人間では無い。
昨日もまた問題になったがふたを開けてみれば、生徒が母親暴力を振るっており親が保護された。
狂っているのは親とは限らないのだ。
自分はしがないオタクで絵を描いている者です。俗に言う絵師と呼ばれる人、だが自分では絵師と名乗るのはおこがましいので名乗りませんが。
この度、毎日のように描いてきた絵を描くのを一旦辞めようと思いまして。語る場が無いので、此処で身の上話をしようかと思い書き込みをしております。
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自分が絵が好きだと思ったのは、幼稚園から小学校低学年の頃。本当に好きで好きで堪らなくて、ノートに意味のわからない棒人間が楽しく遊ぶ様を描いたりしたものです。
友達から「何を描いているの?」と言われ、「分からない」が常套句。けれど宛もなく描くのが好きでたまらなかった。
三年生の頃に転機が訪れた。兄が通っていた絵画教室に通うようになる。その絵画の教室は基本的に自由に描き、時には粘土やロウソク作り方など芸術の幅広いことをする夢のような場所だった。勿論、教室なのでちゃんと技術も教えてくれた。絵を描く楽しみが増えた。
名前はいえませんが、夏休みに描いた絵がとあるコンクールで入賞や金賞を取るようになった。学校の先生や皆が拍手する感覚、正直アノ時はよく分からなったが、皆が喜んだり親が褒めたりする事は良いことである事はおおよそ分かった。
以来、絵は個人だけで楽しむだけじゃない事を学んだ。
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同時期、もう1つの転機が訪れた。夢中になる漫画や本との出会いだ。
自分はとあるジャンプの漫画と出会った。幼稚園の頃から好きだったモノを題材に、かっこよくて憧れるような内容で描いていた。キャラクターは皆魅力的で、特にボスキャラは強さとかっこよさを兼ね備え尚且つ絶対的な存在は読んでいて惚れ惚れした。
以後、学校の休み時間など空き時間にそのキャラを思い思いに描いたりした。好きなキャラを、好きな絵で表現する。凄く楽しくてたまらなかった。
結局その漫画はそれから連載が終わったが、今まで兄のお下がりで暇だから読む漫画が、自ら買って楽しむ漫画へと姿が激変した。
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それからは激動の時代に入った。漫画だけではなく、小説やゲームにもハマった。中学の休み時間は専らオタク仲間と絵を描いて過ごしつつ、部活は大好きな絵を極めたくて美術部に入った。
ここまで描けば幸せな学生生活だが、中学の頃から少しずつ狂い始めた。小学校の頃にいじめてきた奴が中学の時に再会し、以後3年間イジメを受けた。
美術部は自分の代は1人。友人と喧嘩となり、両親はいつの間にか異常なまでに勉強熱心になった。
それでも、絵は描き続け、何とか無遅刻無欠席で通い通した。
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受験して努力して入った高校、ただ、苦しい気持ちでいっぱいだった。勉強熱心な親と難しくなった内容により授業が苦痛になり、友達の作り方が分からず「仲間意識が強いから友達ができる」と思って入った美術部以外の部活は更に苦痛になり、弁当誘われた人達の話がよく分からず孤独感に苛まれ、遂にはトイレで弁当を食べている方が落ち着いた。
高校通ったのは実質半年。以後不登校になる。中学で疲れきった身体と精神に、高校は地獄でしか無かった。
それでも、絵は描き続けた。苦痛を和らげてくれたから。描いていて落ち着いたから。
この頃、自分は同人誌即売会と個人サイトに出会って更に絵の道を輝かせていた。好きなキャラを好きな絵柄で好きな内容の漫画を描く人達が、その頃の憧れであり希望だった。
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高校通わなくなった頃、絵やオタク関連以外では最悪の時代だ。毎日親と怒鳴り合いし、傷つき傷つけられてわけも分からず。徐々に友人も減り、何時しか独りが普通になる。先の見えない人生が怖く、自身の辛さを分からない周りの人達が嫌で独りが心地よく感じた。
そんなある日、高校を辞めた後も会うスクールカウンセラーから心療内科を勧められた。両親は嫌がっていたが、自分にとってそれは「一か八かの賭け」に思えた。もしかしたら……これで違っていたら本当に終わりだと。
結果、新たな肩書きが出来た。「広汎性発達障害」、所謂「自閉症スペクトラム」や「アスペルガー症候群」だ。
凄く、嬉しかった。
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思えば小学校の頃から思い当たる節があった。チャイムが鳴ってもと図書室で本を読み、じっとしていられなくて足をバタバタしていた。皆の話す言葉が訳の分からない呪文に聞こえ、机の中と部屋は常に汚かった。
そこに名前がつくと言うのは、長年探していた謎の答えが提示された事。嬉しくて涙が溢れた。
それからの人生は少しだけ良くなった。カウンセラーは自分の良き理解者になり、同じ障害仲間も出来た。高校も通い直し、アルバイトも始めた。
何もかもがうまくいく。そう思っていた。
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その頃から、自分も憧れの人達のように絵をネットにアップするようになった。まずはTwitter、pixivにも登録した。絵画のような絵だけではなく、イラストについても学んだ。好きな漫画、好きなアニメ、オリジナル作品も描いたりした。
だが、何故だろう。ネットアップするようになってから少しずつ絵を描く意味が変わってきた。楽しくて、自分が好きだから描いていた絵。次第に、皆も楽しんでくれるような絵を描こうとする。
他の人と比べて下手だと思い始め、技術を研究して上手く描く努力をした。色んなシチュエーションや絵柄、「イイね」と呼べる絵を描くにはどうすればいいかを考えた。
毎日毎日色んな絵を描き、好きなキャラで尚且つ人が喜ぶ絵を目指した。
次第に小さいが反応がつく。僅かな点数と1人以上のお気に入り、そしてちょっとだけ増えるフォロワー。やっとだ、やっと自分にも来た!嬉しくて堪らなかった。
が、それが絵を描く楽しさのピークだと知ったのは後々だった。
絵を見るのも好きで、Twitterやpixivで好きな絵師様をフォローする事はよくあった。彼等はとても上手くて魅力的な絵を描く。そして同時に、お気に入りやフォロワー数が高い。
絵が上手くて魅力的だから、それ相応の反応が来るのは当然だね。そう思っていた。
けれど、フォローして見ていて段々妙な感情が湧き上がる。何故、自分の絵と憧れの人の絵はこんなに反応が違うのか。
試しに自分ではなく皆が好きなものを描いてみた。いつもの反応、同じ評価だった。なら自分を好きになる人を探してみよう。タグでフォロワーを稼ごう。あまり反応がない。
もっと技術を上げて研究を重ねよう。きっと技術力不足だから皆「下手な奴に興味無い」と思っていた。
毎日毎日、いろんな絵、いろんなキャラを描いた。pixivの講座も見て参考にした。アンケートで描いて欲しいものを聞いたりした。
毎日の努力は報われる。絵を描くのが好きでやっている。好きなキャラがこうやって動く様を描きたくて描いている。全員とは言わないが、少しでも多くの同志が出来たらなー少しでも自分の絵を喜ぶ人が増えたら。その思いで描き続けた。
だがそれは、間違いだと知る。結果的に、状況は変わらなかった。誰も見向きもせず、ただただ流れゆく自分の絵。
一方で、自分が本気で描いた絵より何気ない落書きレベルの絵が百を超える反応をもらう。この差はなんだ?アレ……なんか訳が分からない。
自問自答を繰り返し、また研究と宣伝を重ねる日々。段々、好きで描いていた絵に無駄な着色が増えてゆく。何か違う。何が違う?これ描いて載せて喜ぶかな?きっと喜ぶ人居るはずだ、気づいていないだけ……。
何故絵を描くのか分からなくなってきた。
そんなある日、試しに友人にその事を相談してみた。
「pixivもTwitterも身内が盛上げてくれるから沢山の反応が来る。結局、魅力的な絵や上手い絵が反応を貰うのではなく、友達や仲間がいかに多いかなんだ」
自分はお世辞にもコミュニケーションが上手くない。いや、それどころか人と話す自体や感想を述べたり空気を読むといった基本的なものが出来ない。アスペルガー症候群だからもあるが、中学の頃を境に話すことが苦痛になっていた。故に、※友達の作り方が分からなかった。
ネットは顔見ないから話すことぐらいできるのでは?と言うかもしれないが、自分にとってネットもリアルも同じ人間との会話と思っていて変わらない。
※今いる友人は、カウンセラーの紹介により集まった障害仲間と小学校の同級生だけである。数え切れる数しかいない。
ハハハ、なんだ。リア充もオタクも変わらないのか。何がオタクはコミュ障だ!!結局魅力的な絵でも上手い絵でもなく、描いている人が魅力的だから人気なんだ。所詮、人望や人脈が全てなんだ。考えてみれば、オフ会や同人誌即売会出来る人はコミュニケーションが出来る人だ。
本当にコミュニケーション障害の人は、絵を描いて載せても無意味なんだ。そう考えた途端に、今まで描いてきた絵や握ってきたペンタブや画材、そもそも絵を描く行為が嫌なものに変わった。
好きで描いていたなら何故嫌いになる?そう思うならネットにアップするな?そうだね……その通りだね。やってきたこと全て間違いだったんだ。ほんと、後悔が込み上げてきた。なんで……もうあんなに熱心に描いていたのか分からないよ。
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今も漫画もアニメもゲームも好きだが、これから先ファンアートや好きな絵を見る目が変わるのだろう。自分は別に絵を仕事にしたかったわけではなく、趣味として好きなものとして最大限に楽しみたかった。ただそれだけ。
コミュニケーション障害の人に配慮して欲しいとかはいりませんし、絶対に言わない思わない。何故なら、コミュニケーション障害を公表している有名人は多々いるから。自分がコミュニケーション努力を怠った為に痛い目を見たのですから。
ただ、人望や人と楽しむ事に全力なリア充を叩くオタクも所詮リア充なわけで。
それに早く気づいたのは不幸中の幸いです。
最後に一言、絵の技術だけは努力しただけ伸びる。それだけは確かです。
では、失礼しました。
何かしらコミュニケーション障害かかえてそうだしな。大抵挙動不審だし。
基本的に普通の人間は発信する立場よりも受動的な立場のほうが圧倒的に楽なため、楽な方楽な方に流れる。
インターネットの普及によりブログをはじめとした発信が容易になっているとはいえ、ブログで情報を発信し続けている人は、圧倒的に少数派である。
そういう前提を理解せずにこのようなエントリを書き、悦に浸っている時点で普通の人間に対する理解が足りてない、コミュニケーション障害者なのである。
「遊びレベル」でものを作るとはいえ、それなりのプログラミング知識が必要だし、一般人はそんな知識は無い。
HTMLにおけるBRタグすら知らない。むしろHTMLという単語を知らない。
ネット上だとそういう知識に長けた人物が多いので勘違いしがちだが、それは立派なネット脳からくる発想である。
そういう前提を理解せずにこのようなエントリを書き、悦に浸っている時点で普通の人間に対する理解が足りてない、コミュニケーション障害者なのである。
「ジャンク屋で中古バイクかってきて塗装だけしっかりしてヤフオクで転売する」ということも
そのうえ「塗装」なんて愚の骨頂である。
「ヤフオクで転売」すら、お前のいうリア充には不可能な話なのだ。
そういう前提を理解せずにこのようなエントリを書き、悦に浸っている時点で普通の人間に対する理解が足りてない、コミュニケーション障害者なのである。
ほぼ初めての仕事。
苦手な仕事だが頑張ろうと思った。
だが頑張っているつもりでも上手くいかない。
周りも「真面目は真面目なんだけど……」という感じ。
そもそも要領が悪く頭が堅いが、
そのうちできるようになるかと思っていた。
三ヶ月経っても注意されてばかり。
申し訳無さでどんどん表情が暗くなる。
会社側も「このくらいできるだろう」と思ったことが
まるでできるようにならない。
色々対策も考えてくれているようだが、
すべて逆効果。
どうしてこんな惨状なのかおそらく周りも気づいてきているが、
コミュニケーション障害が原因。
どういう組織でもコミュニケーション能力は必須だが、
自分が和を乱していた。
ここまで悪影響を与えるものだとは知らなかった。
今までは周りが良かったのだ。
実を言うと、コミュ障を克服したくて、
接客要素のあるこの仕事を選んだ。
やっているうちに慣れると思った。
慣れなかった。というかお客様の応対もそうだが、
社内での応対も上手くいかない。
これからも慣れる気がしない。
慣れとかそういう問題じゃなく、
自分のせいで、
実際業務に支障をきたしているみたいなので
我慢してやってみようとも思った。
せめて一年くらいは頑張ろうと。
でもこのままじゃいつか大損害を出す。
というか今の段階でまともに会話できないので
仕事にならないんだよなあ。
少しでもコミュ力ある人が本当に羨ましい。
みんな努力してるんだろうけど。
ときどきなんで生きてるんだろうって思う。
なんで「普通」にできないんだろう。
すごいな。
普通の人になりたい。
こんなこと書くと
「みんな頑張ってるんだから!」と言われそうだけど、
やっぱり違いはあるよ。
早く辞めて就活しないと。
辞めるまで気まずいなあ……
なんで難聴なんだろう。
「コミュニケーション障害」という言葉がある。普段は「うまく会話が出来ない人」という意味で使われることが多いが、聴覚障害者は本当にコミュニケーションをする上で障害がある為シャレにならない。
人の会話を聞いてもうまく聞き取れない。その上相手の顔色を伺ってえ?と聞き返せず聞こえたふりをしてしまう。聞き返さねば聞き返さねばと心の準備をしようとしても、会話はどんどん流れていって会話の全てがわからなくなり、聞き返す気力も次第に失っていく。筆談も考えた。だが健聴者のペースで流れる会話の中で、ポンと筆記具を出してこれに書いて!なんて言えるものだろうか?自分のペースでしか会話ができないことが辛すぎる。そして次第にコミュニケーションを取らなくなって、一人でいることが多くなってしまう。一人でいる方がむしろ楽なのだ。だがそれが辛くて悲しくて、家に帰ると毎日のように家で泣いている。
ここ数年打ち解けた友達というものがいない。だがそれは難聴の所為ではなく、コンプレックスに塗れた性格のせいなのだと思う。難聴をコンプレックスに思うからダメなのだ。難聴を劣等性だと思わず、自ら積極的に筆談なり聞き返すなりすればいいのだ…とわかっていても、過剰な自意識が邪魔をする。
正直に言うと健聴者が怖い。私の理解できない言葉が目の前で飛び交うのが怖い。だが怖い怖いばかり言っていられない。結局解決できるのは自分自身なのだ。よく聴覚障害者のサイトで健聴者に理解を求める内容のものがあるが、理解を求める前に自分でまず行動できることがあるだろう。。。自分を変えられるのは自分自身しかいないのだ。
近いうちに小中等度難聴の集まりを探して行ってみようと思う。仲間が見つかるはずだ。共感できる人を見つけることで、少しでも楽になりたい。
気がつけばお前は死んだほうがいい、俺は死にたいということばかり考えている。
交差点を見ると轢いてくれないかなと思うし、階段を見ると滑って頭を打たないかなと空想する。でも最近は線路を見ても吸い込まれそうにはならなくなった。進歩かもしれない。
人と喋っていても(俺は会話できないから一方的に話される)ほとんど頭に入ってこない。言語能力の問題以前にコミュニケーションする気力が無い。人の話にそんなに興味が無いのが原因である気がする。俺は自分が最低なゴミだと認識しており口を開くと良くない言葉を発してしまうのでなるべく口を閉じるようにしている。能動的に発話する機会があるとあとで非常に後悔してもう二度と話さないぞという気分になる。
自称友達のいない人間や自称コミュニケーション障害の人間がツイッターの俺のタイムラインで仲良く会話している。非常にエモい気分になる。俺のツイッターは自分でもなんだかよく分からない独り言をつらつらと書いているだけなので読んでも気持ち悪くなる作用しかない。
いつから死にたいと考えていたか、遡ると小学校の頃からだったような気がする。その頃から俺はどうしようもないクズで人間の底辺だと日々自分に言い聞かせていたような気がする。楽しかったはずの記憶は直近のも含めて大体忘れてしまったり、俺が体験したのだという感触を失ってしまった。
大学に入学した直後、本当に死にたくなってさすがに不味いと思って適当な施設に駆け込んだ。尋問によって強迫性神経症?と診断されて薬を渡されて飲んでいた。飲んでいる間は確かに死にたい気分は失せていた。その代わりに何も考えていない自分が残った。半年程で通院を辞めた。死にたさは薬を飲み始めた前後で別の質感を持つようになった。薬は余っているけど今は飲んでいない。蓋しあそこは俺みたいな中途半端な人間が行ってはならない場所なのだろう。医者も快方に向かっていると言っていた。良いことだと思う。たまにDMが来て電話しろと言われるが電話が怖いのでしていない。
趣味はあったけど興味がだんだんなくなってきた。中学生や高校生の頃はプログラミングに傾倒してゴミみたいな能力しかないのに承認を貰うなどしていた。音楽とかも好きだった。今も気が向いたときに続けてはいるけど最近は何が楽しいんだか分からなくなってきた。技量もそんなに伸びなかった。新しく何かを始めてももう何にも熱中できないんだろうなと考えると絶望的な気分になる。これからの人生で楽しいことや運命的な出会いをすべて素通りして生きていくのだと思うとどうしようもなさしか感じない。
死ぬ方法はおおよそ考えている。どっかのYouTubeの自殺阻止を喧伝する動画で、コンセントに電線を指して胸に当てて死んだというのが大変参考になった。今は死にたさのラインが苦痛のラインを超えてないから当分は死なないだろう。でも将来も何も考えていないので早いうちに死んだほうがいいと思う。
本当はもっと書く予定だったけど書いたら安定してきた。プレビューを押すと全然行数が無いので驚いた。俺は普段から何も考えていないんだなと思った。
コミュ障にも幾つかバージョンがあるとか、上手く心が開けないとかそんな話 - はてなブログを毎日書いていたら10Kg痩せました!
今でも外に出ていろいろな人と仲が良くなっても、自分が本当にしっかりと信頼関係築けてるかむちゃくちゃ自信がない。そんな状態。
私も時々「私コミュ障なんですよ~」といっても「え~全然話しやすいよ~」などと言われる。
違うんです!タイプBなんですよ!うまく言いづらいなあ。
さて、ここからが本題。
おそらく「コミュニケーション障害」だと思う。
しかし、タイプBはコミュニーションはとれるが、友達等のコミュニティーに入り込むのが苦手であるのではないか
ちなみにyahoo知恵袋等では同じものとして扱う人や、訂正する人すらいた。
自分には「コミュニティ障害」のほうがしっくりきたので、皆さんはどうなんでしょう。
以前より伝わりやすいと思いません?はっきりこういうつもりだよって使いましょう。
それか、新しい略語を作ろう。
「コミュニティー」に「障害」は変なのと、「障害」って言葉がトゲトゲしいので自分で言いたくない。
下のYoutubeの渡邊社長のインタビューを聴いて、納得感があった。
「無理をすることで成長する」
「愛情」として、追い込んであげているようにもみえる。
たしかに、出来ないヤツ、は辞めればいいのであって、こういうトップは居ても良いのじゃないのだろうか。
http://www.youtube.com/watch?v=_CCSXIE82UU
なんだろう、釣りじゃなくて、Youtubeに批判的なコメントばかりが乗っていることが不思議でならない。
夢を持つこと、頑張ること自体を否定してはいけないとおもった。
自分の考えが間違っているのなら教えてほしい。
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ブコメみたけど(魚拓:http://megalodon.jp/2014-0520-0836-20/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140519120512)
2)「ならワタミに転職すればいい」などという、意味のない批判(この人はワタミ以外の会社すべてに転職願望があるのだろうか?)
3)議員になれば正当化されることはないなどという、コミュニケーション障害のような批判
が、ほとんどですね。
世の中のなんにでもピーピー文句言って自分を甘やかしたいクズ人間なのでしょう。
彼らは夢もって真剣に頑張ったことは一度もないんだろうなと感じました。
他の視点としては、
「少数精鋭組織の原理を大企業となっても維持しようとしたことによる歪み」との意見。
リクルート、楽天、サイバーエージェント、KDDIへの批判者と同じですね。
いわゆるマインドが強い会社が苦手で、キーエンスのようにマインドじゃなくて「金と規律」で支配する会社が善だと思ってる輩ですかね。
そんなの一つの好き嫌いの話ですよね。
「ブラック」というあやふやな定義のなかで、祭り上げられた犠牲者が渡邊美樹だと感じました。
とわいえ、ネットの一部でしか叩かれない小さな話なのでしょうね。
今回投稿してみて、いわれない批判にさらされているのだとわかり、渡邊美樹擁護派に変わりました。
ありがとうございました。
ただ、一部の世間イメージが悪いので堂々と渡邊美樹は正しいなんていえないだけだとわかりました。
「どのような人と友達になるべきか?」と聞かれても、「あなたが友達に求めるものによる」としか答えられないが、
「どのような人と友達になるのを避けるべきか?」と聞かれたら、私は「寂しがり屋」と即答するだろう。
特に「自称寂しがり屋」は100%地雷だと思っていい。彼・彼女らは他人の精神的リソースを無限に吸い取る悪魔だ。
恋人としても、彼らはすぐに浮気するので適さない。ビジネスパートナーとしても、彼らはすぐに保身に走って当初の目的を見失うので適さない。
「世の中カネだよ」なんて言ってるスレた奴の方が、結果としてよっぽど信頼できるのだ。
このような持論は、"ウェーイ系"と揶揄されるようなコミュニティに属していた大学時代の経験から導き出したものだ。
高校までのガリ勉生活から解放され、調子に乗った末のキョロ充化という典型的な話だが、その結果、多くの「寂しがり屋」と接する羽目になった。
忙しかったため体力はついたし、コミュニケーション力も磨かれたし、一応知人の数も激増したが、精神的には悲惨で、学業については無益な日々であった。
ウェーイ系時代の友人も残っていないことは無いが、今でも個人的な付き合いがあるのは大半がガリ勉時代からの友人だ。
「自称寂しがり屋」たちは、他人の精神的リソースを吸い取っている自覚が無い。
自分では自分のことを優しい善人だと思っているし、その自己認識を否定する人は悪だと思っている。
その論拠として「オキシトシン」というホルモンの働きを挙げたい。
スキンシップをすると、した人もされた人も脳内から「オキシトシン」というホルモンが分泌されるそう。このオキシトシンが分泌されることで愛情が育まれ、信頼する気持ちがお互いに強まるという。
スキンシップの秘密!! 脳内ホルモン「オキシトシン」が愛情を深め記憶力を増すとの調査結果
オキシトシンが出ると幸福感を得られるだけでなく、ストレスからくるイライラも軽減される。さらに、お酒を飲んだ時のほっこり安らぐ感じに似たリラックス感も得られるとのこと。とにかく、オキシトシンはさみしがり屋に効く特効薬なのだ。
【さみしがり屋必見】さみしさを一瞬で消せる幸せホルモン「オキシトシン」を簡単に分泌させる3つの方法
東京大学 医学部 附属病院において40名の自閉症スペクトラム障害の成年男性を対象として二重盲検注4)など最も客観性の高い厳密な方法で医師主導臨床試験を行った結果、オキシトシン投与が自閉症スペクトラム障害群において元来低下していた脳活動を有意に上昇させ、それと共に対人コミュニケーションの障害が有意に改善されることを世界で初めて明らかにしました。つまり、オキシトシン点鼻スプレーを1回投与したことで、健常群で観察される、表情や声色を活用して相手の友好性を判断する行動が増え(図1)、内側前頭前野の活動が回復し(図2)、それら行動上の改善度と脳活動上の改善度が関与しあっていました(図3)。これは、オキシトシンによって脳の活動に変化を与えて、同障害を治療できる可能性を支持する結果です。
自閉症の新たな治療につながる可能性~世界初 オキシトシン点鼻剤による対人コミュニケーション障害の改善を実証~
今回の研究で、オキシトシンの影響下では、同じグループに属する仲間への優遇が増えることを確認できた。これは、裏を返せば、自分のグループに属さない人を排除することでもある
嘘偽りとは対極的な感じのする愛情ホルモンだが、イスラエルのBen Gurion大学のShaul Shalvi氏及び、蘭アムステルダム大学のCarsten de Dreu氏が共同で行った調査によると、オキシトシンを投与された人の方が躊躇なく、スラスラと嘘をついていたという。
偽薬を投与した被験者と比較した結果なのだが、チームのためや、他の人の幸せのためなら、人は平気で事実をねじ曲げ、倫理に反する手段に出るのに加え、オキシトシンがこの傾向を助長することがわかった。
愛情ホルモンが多い人は嘘つき?オキシトシンが“良い嘘”を助長することが明らかに
つまり「寂しい」と言ってつるみ、相手のための嘘をスラスラとついて、嘘への罪悪感は無く、
グループのための行為なら平気で倫理違反の真似もし、根本的な問題解決からは逃げ、
「愛されてる感じ」「信頼されてる感じ」「ほっこり安らぐ感じ」を追い求める。それがオキシトシン至上主義者だ。
私は上述したように"ウェーイ系"だった過去のある人間で、現在も営業系の仕事をしているが、
「寂しがり屋」よりは「周囲からアスペ扱いされ煙たがられているコミュ障」と話している方が、よっぽどストレスが無い。
現代はオキシトシンが足りないと思われる自閉傾向の人間が叩かれている。
反面、仲間内でナデナデし合ってるだけの人間が「絆」「心のあたたかさ」やらの言葉で美化されている。
ナデナデし合ってるだけなら良いのだが、他のグループへの敵意・嫉妬や、そのための非倫理的行動までがセットになっているのがタチが悪い。
私はオキシトシン過剰な人間が戦争を招いていると思っている。"仲間とほっこり"するために外人を殺すのだ。
当人らは自分のことを「仲間を大事にするイイ奴」と思っているのだろうし、一面的な見方をすればそれも間違いではないのだろうが。
(書き直した)
最近の発言について、ズレたやりとりしかできていないと指摘されている。
http://anond.hatelabo.jp/20140303113406
http://anond.hatelabo.jp/20140303060133
会話のつながりや意図が伝えられない「連合弛緩」と呼ばれる症状は、
本人は自分のブログのヘッダーにある簡易プロフィールで「コミュ障」を自称している。
http://rlee1984.hatenablog.com/
過去にも、統合失調症を疑われるレベルの、会話の意味や意図のつながらないやりとりがあった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140303113406
不可解なことに、
本人は「そのような診断を受けたことはないですし、受ける予定もありませんし、周囲からすすめられた経験もありません」と応えている。
http://rlee1984.hatenadiary.jp/entry/2014/02/10/053509
いずれにしても、病院、行け。
インターネット上の匿名の場で、限られた情報から、素人考えに個人の体質を推測で議論されるよりも、専門家に白黒つけてもらったほうがいいだろう。
コミュニケーション障害に関連する精神疾患のたぐいには、アスペルガーとか、自閉症とか、他にもある。
は、興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害である。
興味の面では、特定の分野については驚異的なまでの集中力と知識を持ち、会話の面では、聞かれたことに対して素直に答える(「空気を読む」などの行為を苦手とする)、といった特徴を持つ。 日本語ではしばしばアスペルガー, アスペとも略して呼ばれる。
各種の診断基準には明記されていないが、総合的なIQが知的障害域でないことが多く「知的障害がない自閉症」として扱われることも多いが、自閉症と言っても決して他者との会話を避けようとするようなものではない。
は人間に身体的・精神的に不利を強いることとなる欠点が存しており、それを原因として社会などといった対人関係を必要とされる場面で十分なコミュニケーションをとることができなくなるという障害。コミュ障と略されることもある。
人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。承認欲求は、主に子供や何らかのハンデキャップを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。以上の理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。
承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間は自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間や被害妄想に囚われている人間の中には、幻想の他者を造り出してしまうために、自分が他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。
また、承認欲求は、どのように認められたいのかという『認められ方』の違いによっても、おおむね3つのタイプに大別される。ひとつは上位承認で、自分が他人よりも優位な関係で認められたいという欲求である。こうした欲求を抱える人間は、極度のナルシストか、あるいは他者に対して強い猜疑心や被害妄想を抱えているケースが多い。つまり、他人が信用ならないから他人を支配する存在として振る舞いたいか、あるいは自己を過大に評価した帰結として、自分が他人より優れているのは当然であると考えなければ、上位の存在として認められたいとは思わない。
もうひとつは対等承認で、これは読んで字の如く他人と自分の関係が平等であることを望む欲求である。これは、「人並みに認められたい」と考える劣等感の持ち主にしばしば見られる欲求である。そして、最後のひとつである下位承認は、自分が他人から蔑まれたい、あるいは吹けば飛ぶような存在だと思って欲しいという欲求で、被虐的な性癖のある人物や、社会的・道義的な責任を背負いたくないと考える人間、そして他人に依存したい、保護されたいと思っている人間が抱きがちである。
承認欲求は以上のように分類可能であるが、現実の人間はこれほど単純ではない。たとえば、強い上位承認欲求を持っている人間が、わざとへりくだった態度をとって相手に優越感を持たせ、そのことで他者の感情をコントロールしよう、といった行動をとるケースは非常に多い。これと類似のケースとして、病人や怪我人であること、あるいは不幸な環境に置かれていることを大げさに吹聴することによって、他人からの同情や歓心を買う(承認される)ケースなどが挙げられる。
政治からしてコミュニケーション障害なのですから、さじを投げるという状況であると私には思えますね。
法案を通すのにも話しあいをしない、反対意見やデメリットを出し尽くさずに勝手に決めてしまう。きっと、あとで取り返しのつかないことになったとしたら非難轟々でしょうね。原発爆発とおんなじです。いいふうにばかり聞かされて、勝手に決められて、あとでトラブルが起こったら「聞いてないよ!」っていうことになりますよね。
外国との話しあいの姿勢のなさ、そもそも外国に対する関心の低さ、自己中心的な内向性にもびっくりします。相手国にわかってもらいたければ、ねばりづよく話をするべきです。ところが例えば「靖国参拝」だとかいうように象徴的な行為を一発やらかして、それでもう対話のチャネルが閉じてしまうわけですから。田中角栄が日中友好のチャネルを開いたのと同じ政党がやっていることなのか、不可解です。
話しあいをしないというのはつまりは反民主主義的です。勝手に決めてしまうわけでしょう、権力者が、既得権益者が。情報操作されて、勝手に決められて、利害だけ帰属させられる。だから近代革命があったのに。自国民と話しあいをしないのも反民主主義的ですし、外国と話しあいをする気がないのもまた世界社会において反民主主義的です。
いわゆる「上から目線」の態度しかとれないのでしょうね。対話をするということが、前提には最初からないのでしょう。私の経験上からいって、「上から目線」の尊大な態度をとる人は大概卑屈です。誇りがないから、偉ぶらなければならないのです。自己の尊厳がわからない人は他者の尊厳もわからないでしょうし、また逆もしかりです。いまの日本社会にはそういう人が増えているように思います。
今年も就活の時期はやってきた
私も昨年、今年の就職活動のことを懐かしく感じている
そして、面接に対して「コミュ障だから落ちる」という意見をよく目にする
私はこれに苦言を呈したい
かくいう私もコミュ障だ
※コミュ障
>人とまともに話すことができない、極度の人見知り、どもり、対人恐怖症など。
>長年引きこもり生活が続くと発症しやすい。また、逆説的ではあるが、コミュ障の人は引きこもりになりやすい傾向にある。
(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DF%A5%E5%BE%E3 より引用)
極度の人見知りだ
休日は絶対に家から出ないし、友人も少ない、彼女ももちろんいない
なにより男女問わず、仲良くない人と話すのが嫌いだ
言い淀んでしまったり、気まずくなってしまったりすることも多い
面接が1次~3次とあれば、1次で落ちることはなかった
むしろ面接までいければ最終、もしくは内定をいただけることが多かった
なぜか?
相手が親切にも知りたいことを聞いてくるからだ
メールの返信と同じだ
好きな子とメールを続けるには疑問文を入れるとよい、とはよく言われる
そこまでの熱意がないか、志望理由が曖昧であるか、もしくは頭の回転が悪いか、だろう
質問に対して答えは浮かぶものの文章として口から出せないのは、
単に文章力が乏しいのだろう
「変なことを言うと気まずくなる」
言われたことにただ答えればいいのだから
もちろん面接の中で
「相手にどう話せば自分をアピールできるか」
「どう話せば自分に興味を持ってもらえるか、うまく伝わるか」
などは考えなければならないが、
それは「話す」こととは関係ないと、私は考える
もろもろの聞かれやすい質問には回答を用意しておくのは当然のことだ
話を戻して
趣味も合わない、相手のこともよく知らない、何を話していいかわからない、話したくもない
それでも話しかけられたときなどやむを得ないときは話さなくてはいけない
相手はこんな私と話して楽しいのだろうか?
自分の興味のある職種・企業、相手に自分をアピールする"目的"での対話、自分の将来のために話す
そして内定が頂けたら、自分自身が、自分の話がその企業に認められた証拠だ
こんなに嬉しく楽しいことはない