気がつけばお前は死んだほうがいい、俺は死にたいということばかり考えている。
交差点を見ると轢いてくれないかなと思うし、階段を見ると滑って頭を打たないかなと空想する。でも最近は線路を見ても吸い込まれそうにはならなくなった。進歩かもしれない。
人と喋っていても(俺は会話できないから一方的に話される)ほとんど頭に入ってこない。言語能力の問題以前にコミュニケーションする気力が無い。人の話にそんなに興味が無いのが原因である気がする。俺は自分が最低なゴミだと認識しており口を開くと良くない言葉を発してしまうのでなるべく口を閉じるようにしている。能動的に発話する機会があるとあとで非常に後悔してもう二度と話さないぞという気分になる。
自称友達のいない人間や自称コミュニケーション障害の人間がツイッターの俺のタイムラインで仲良く会話している。非常にエモい気分になる。俺のツイッターは自分でもなんだかよく分からない独り言をつらつらと書いているだけなので読んでも気持ち悪くなる作用しかない。
いつから死にたいと考えていたか、遡ると小学校の頃からだったような気がする。その頃から俺はどうしようもないクズで人間の底辺だと日々自分に言い聞かせていたような気がする。楽しかったはずの記憶は直近のも含めて大体忘れてしまったり、俺が体験したのだという感触を失ってしまった。
大学に入学した直後、本当に死にたくなってさすがに不味いと思って適当な施設に駆け込んだ。尋問によって強迫性神経症?と診断されて薬を渡されて飲んでいた。飲んでいる間は確かに死にたい気分は失せていた。その代わりに何も考えていない自分が残った。半年程で通院を辞めた。死にたさは薬を飲み始めた前後で別の質感を持つようになった。薬は余っているけど今は飲んでいない。蓋しあそこは俺みたいな中途半端な人間が行ってはならない場所なのだろう。医者も快方に向かっていると言っていた。良いことだと思う。たまにDMが来て電話しろと言われるが電話が怖いのでしていない。
趣味はあったけど興味がだんだんなくなってきた。中学生や高校生の頃はプログラミングに傾倒してゴミみたいな能力しかないのに承認を貰うなどしていた。音楽とかも好きだった。今も気が向いたときに続けてはいるけど最近は何が楽しいんだか分からなくなってきた。技量もそんなに伸びなかった。新しく何かを始めてももう何にも熱中できないんだろうなと考えると絶望的な気分になる。これからの人生で楽しいことや運命的な出会いをすべて素通りして生きていくのだと思うとどうしようもなさしか感じない。
死ぬ方法はおおよそ考えている。どっかのYouTubeの自殺阻止を喧伝する動画で、コンセントに電線を指して胸に当てて死んだというのが大変参考になった。今は死にたさのラインが苦痛のラインを超えてないから当分は死なないだろう。でも将来も何も考えていないので早いうちに死んだほうがいいと思う。
本当はもっと書く予定だったけど書いたら安定してきた。プレビューを押すと全然行数が無いので驚いた。俺は普段から何も考えていないんだなと思った。
てめえの空虚で鬱々とした長ったらしい文読んでたら眠くなっただろ コーヒー代くらいはくれや