はてなキーワード: 銀の弾丸とは
「あらゆる物事は単純化できる」という考えの人は驚くほど多い.各種コメント等を眺めるとそう思う.
宗教や人種等に全てを帰着させる陰謀論はその最たるものだが,「一言で説明して」といった要求等の根底にはおそらくこのような考えが存在する.
もちろん,単純化できる事象は数多く存在する.そして,短くて済むのであれば短い方が良いのは道理だ.
で,このことを学問的に理解するのに,計算量の概念を持ち出すといいのではと思いついた.
クラスP≠NPの場合,NP困難に属する問題であることを証明すれば,その問題は最悪の場合効率的には解けないことが保障される.
これはある種嫉妬ではあるが「暗黙のルール」を破ってPVをかせぐのはいかがなものかというもの。
「暗黙のルール」が正しいとは言えないが。
特にブックマークをするより見るほうに重きを置いている人の不満。
さらに言うと新着エントリーをRSS登録してしまうようなはてぶジャンキーだ。
新着エントリをRSS登録するとガンガン互助会ブログが流れてくる。
人気エントリだけ見るようなライトな利用者やお気に入りとかその他のツールを使ってカスタマイズする人とは比にならないほど互助会の影響を受けることとなる。
たくさん流れてくるブログが毎度同じメンツで同じような肯定的なブクマされているとそれはストレスがたまる。
ブックマークを見るというよりはブログの延長線上で使っているはてなブロガーはいまいちこの感覚がわからないのかもしれない。
はてなブログがはてなブログ以外よりも新着エントリに上がりやすい状況というのははてなからすれば必要なことではあるだろう。
だがはてなブログをはてなブックマークにより集客しやすくし、はてなブログ人気を高めるということは、ある種はてなブックユーザーにしわ寄せが行くことを許容しているとも言えないだろうか。
はてなブックマークを見ることに重きを置いている人は別にはてなブログに限定せずに面白い記事を見たいはずだ。
はてなのサービスにハテブがつきやすいのは今に始まったことではない。
しかしその度合いが強くなってきたら反発は強くなる。
特定のサイトを非表示にできる機能が銀の弾丸といえそうだが難しいのだろうか。
その方面に明るくないのでわからないが技術的というよりリソース的な問題なのだろうか。
ユーザーごとに異なるページを生成するのはなんだか負荷がかかりそうだし。
互助会をしていてもそのうち効果が弱くなるとか、実は新着エントリにのってもPVはあまり増えないとかアフィリエイトも儲からない、だから放っておいてもよいのではという意見もたまに見かけるが、それはブロガーとして互助会を見ている意見だなと思う。
はてなブックマーク閲覧者の立場から見るとそのブログが新着入りの恩恵を受けていなくてもはてなブックマークのRSSには毎日流れてくるという状況が問題なのだ。
【ネトウヨって、まさか大日本帝国が勝てばよかったと思ってる?】
ネトウヨA「もちろん!天皇陛下万歳!俺たちは皇民だ!!!チョンを殺せ!!!」(狂信カルトデムパ系)
日本人「は?お前みたいな無職ニート、帝国で生きられるわけないだろwww。いびられて掘られて終わり!はい論破!」
ネトウヨB「負けてよかった戦争なんてない、だってチョンが・・・チョンが・・・・(蚊の鳴くような小声」(嫌韓系)
日本人「勝ってたら今でも北朝鮮並みの途上国だが?学生は毎日教育勅語。教師からはビンタ。もちろん精神論至上主義」
ネトウヨB「だって、チョンが・・・慰安婦が・・・タカリが・・・在日が・・・犯罪レイプ・・・トンスル・・・犬食いが・・・(半泣き」
ネトウヨC「仕方なかったんだ!だって無礼なハルノートが・・・あれは自衛・・・アジア開放・・・共栄圏・・・」(言い訳系)
戦争法案だ!という批判がアホくさいのは、戦争=悪という前提で発言しているからだ。
しかし、戦争はそもそも悪なのか?戦争が悪でなければ戦争法案というレッテル張りは批判足りえない。
ここで思い出されるのはピケティの資本主義の歪みが外的要因=戦争で解消されるという論である。
現代日本において格差はもはや行き着くところまで来ており、この社会は崩壊寸前だ。
格差によって未来を奪われた底辺層が日々絶望し、憎しみを募らせて暮らしている。
底辺層を救い、日本にかつてのような活力を取り戻させるには格差の解消=戦争しかない。
つまり戦争は悪どころか、日本を救うための銀の弾丸でり、善である。
もし、安倍ちゃんがやろうとしていることが憲法違反であり、戦争法案の作成であるなら、
日本人はそのことを歓迎し喜ぶべきだ。戦争だけが日本を救うのだから。
いやしかし、これを書いてて思ったけど、
http://anond.hatelabo.jp/20141130202457
増田アドベントカレンダー2014の19日目です。執筆者はクソアニラジオタことid:cider_kondoです。
「アニメーターの給料が低い」というのはよく言われるけれども、実態や原因をきちんと分かっているオタクは少ない。
むしろ「手塚治虫が全部悪い」とか「テレビ局や広告代理店の中抜きガー」とかなんとか、何の根拠もない間違った話がはびこっていたりする。
そういうわけでこの場を借りて、ちょっとした構図の説明と、それからタイトル通りのちょっとした「応援」の話を書いてみる。
一番広い意味では、アニメの絵を描く人の総称だけど、じゃあ例えば総作画監督とかキャラクターデザイナーやるような人まで含めて話してもややこしいだけだよね。
まあ、監督含めて、そのあたりの偉い人が技術の割に低給って問題もあることはあるけど、そこまで話を広げても風呂敷に収まらないので省略。
神山健治監督が言ってたように、「みんなの懐に入るべき金を抜いてる悪い奴なんていなかった」のであって、すぐに解決できる話ではない。
というわけで実際に画面に出て来る絵、動画を描く人たちの手取りが一番少ないのが大変、ということで話を進める。
を読んでもらうといいんだけど、長いし前提となる知識がそこそこ必要なので数字だけ書くと、
アニメ会社の大半は西東京に集中しているわけで、こんな収入で一人暮らしできるかというと、普通は無理ですよね。新人を採るときに
が重要なチェック項目になっている話もあったりしてさもありなん。
なんでこんなに低いのかというと、アニメーターのキャリアパスと関係あります。
専門学校なり独学なりである程度の基礎持ってる人がアニメ会社(映像というか絵を作る会社)と契約して業界に足を踏み入れたときに最初に振られる職種は「動画」と呼ばれる、人物が動くところを描く役職です。
ここの値段は1枚150円とか200円とかの世界です。ですが、動画経験2年とか3年とかある人でも、月に500枚ぐらいしか描けません。
さらに本当のド新人の時期だと、もう「最初の月は100枚しか描けなかった」的な武勇伝を語る人とかいて、本当かどうかは怖くて確認してませんが、まあそれがフカシで本当は200枚とか300枚だったとしても、まるで食っていけない収入にしかならないのはおわかりいただけると思います。
昔は月産1000枚、2000枚といった嘘みたいな数字が可能だったとは聞きますが、40年前のアニメと今のアニメを見比べると誰でも分かるように、絵が遙かに遙かに緻密になりすぎてそんなの無理ゲーです。
ある程度の枚数こなしたらさっさと原画に引き上げて少しでも手持ちの収入を増やす機会を与えるようにしてしまいます。
これは無理矢理の促成栽培みたいなもんで、問題視している人も多いのですが、食ってけないポジションに長期間若者を留めておくよりはマシってのは事実です。
ここの単純な解決策はすぐに思いつきます。たとえば「見習い期間は固定給として最低限食っていける給料を保証する」とかです。
ですが、上手く行きません。アニメーターの契約はほぼ全員がフリーランスで、極端な人材流動性の高さが特徴です。
今の狂った製作本数が続く限り、一定以上の腕前の人は(人格に少々問題があっても)まず間違いなく新しい職場はいくらでも見付かります。
ですので、見習い期間が終わると、さっさと好きな人・憧れの人のいる職場に移る、なんてのは当たり前です。会社がコストを負担して育ててさあこれから! って時期に逃げられて丸損って話ですね。
また、某社の偉い人が某大学で語っていたところによれば「固定給にしたら絵がまったく上達しなくなった」人もいる、なんて話もあるみたいです。これまた怖いですね。
また、もともと動画に関しては海外との競争という面もあり、そこまで単価を上げられるわけでもない、という根本的な問題があります。
さりとて、動画を実際に描くというのがアニメーターの最良の訓練だというのは事実であり、誰がどうにかコストを負担していかないと、新しい世代が育たなくなってアニメ産業が滅んでしまいます。
NPO法人アニメーター支援機構、という組織があります。そこがやっているプロジェクトがこちら
本当はアニメ産業の構造を変える方法があればいいんですが、そんな青い鳥というか銀の弾丸は今のところ発見されてません。
新人の本当に食えない時期を抜けてある程度の技術さえ手に入れれば、今のところアニメで食っていくのは不可能ではありません。
そういうわけで、
「会社が育成コストを負担するのが難しいなら、かわりに『みんな』に応援してもらってそれを実現しよう」というのがこのプロジェクトです。
昨年、寮を開設する時は少々ファンディングに応じたんですが、今期は青い円形の板の入った箱を買う予定が割とカツカツなんで、まだ支援してません、はい。
かなりの走り書きになりました。本当は自分の書いた下手な文章をよむぐらいなら、
URLを貼ったBIZ誠の記事とか、そのもととなったJaniCA( 日本アニメーター・演出協会)の実態調査報告、
http://www.janica.jp/survey/survey2008_rquest.html
の概要報告書とか読んでもらった方がいいんですが、今まで現実世界で薦めた人は2人ぐらいしか読んでなかったので、そこはあまり期待しないことにしてます。
本当はアニメ産業の構造の話(海外発注の意味とか、SHIROBAKOに絡めた制作進行という役職の意義とか)をした方が、逆に構図がわかって理解しやすいかなと思ったんですが、「応援」という初期ワードを生かすのと、執筆時間の関係でこんな形になりました。
恐ろしく子だくさんも家庭も居れば、主義として子供を作らない家庭もある。
それぞれの時代に、勿論色んな主義の人はいるが、社会的に「1つの正解」がプレッシャーとなると、大抵の場合それに従う。
つまりだ。特殊な人が10%いて、うまくいかない人が10%いて、残りの80%の人間が、「社会的な正解」に従うとすると、
例えば、「父が働き母が家事をし、子供は3〜5人で、男子一生の仕事として滅多なことでは職を変えず土地を離れず」とすれば、
本来そうしたくはなかった人達をも巻き込んで、それが世の中の主流になる。
女性が働いても良いし、子供は貧困には晒したくはないし、個人の自由は尊重されるし、社会的な「押しつけ」はますます減る。
先進国が人権を尊重し、個人個人の価値観を尊重するのだから当然だが、「XXまでに結婚しなければ」と言う押しつけは減る。
つまりだ。特殊な人が10%いて、うまくいかない人が10%いて、残りの80%の人間が、それぞれの人生を生きはじめる。
当然だ。元々そうしたくなかった人達に、自由が与えられたんだから。
効能だと言っても良い。「子供を産む義務がある」と強要されない権利だからだ。
65歳で強制的に安楽死させて、次世代にその分のリソース(資金や労働力)を回しても、
「65歳で死ぬなら、自由に生きよう」と思う人が増えるだけだ。
本気でどうにかしたいなら、3人兄弟や5人兄弟を普通にするしかないが、
親が子に尽くし、子が親を支える社会は、もうやってこない。
「虫垂だの農家の四男坊なんてのはやたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」とブラックジャックは勘当息子の回で言っていたが、
この時点で、息子達は田舎を出てひとりは東京、ひとりは大阪、ひとりは福岡と、還暦の祝いにも姿を見せない。
農家の4人の兄弟達は、同じく4人ずつ兄弟を家庭に迎え入れただろうか。東京や大阪や福岡で、できるだろうか。
たぶん、地方税たる固定資産税を全て国が召し上げて、土地の買い取りと都市への移住推進、
新規建築マンションの、父母兄弟4人の6人家族以上向け物件のみの建築許可のような、
人権を触らない形で、国民に事実上強要する政策が無ければ、無理ではないだろうか。
そしてそれすらきっとライフスタイルの強制として非難の的になり、先進国でその批判は正しい。
たぶん、あと30年もすれば自然に(限界集落が消滅集落となったように)都市は集積化し、地方は老人と趣味人だけになる。
このデッキはそのゲームの環境に応じて柔軟に姿を変えるデッキで、
使いやすいメタカードを多種多様な色から選んでくみ上げるデッキです。
「フェアリーバレット」の「フェアリー」は主軸となる色であるフェアリータイプから、
「バレット」はTCG用語の「シルバーバレット」から来ています。
詳しくはこちら http://mtgwiki.com/wiki/シルバーバレット を参照してください。
簡単に言うと、グーに対してのパー、チョキに対してのグー、パーに対してのチョキだと思ってください。
不安障害、パニック障害、うつ病、うつ状態、統合失調、色々な病名が付けられては、とられを繰り返しはや数年が立ちます。
これらをまとめて心の病と呼んだときに、これらへの銀の弾丸、シルバーバレットはあるのでしょうか?
それは死ぬことです。
前置きのカードゲームでも、フェアリーバレットとあたったら、リアルファイトで殴り殺せばいいのです。
死ぬのが無理なら、オーバードゥースなり、リストカットなりをして嫌なことから目をそらせばいいのです。
そんなわけがありません。
死にたくないから、今こうして辛いのを我慢してるのです。
カードゲームで喩えるなら、負けたくないからメタのメタを考えているのです。
僕は生きて11月発売のポケモンリメイクをプレイしたいし、9月発売のXboxOneを楽しみたいのです。
弾を銃身にこめるまでは、していいわけでもありません。
銀の弾丸とまではいかなくても、ほどほどに相手に聞くアイテムが欲しいです。
それが、今では薬です。
でも我慢してます。
本当はもっと飲みたいんです。
我慢してます。
クリエイティブな仕事に憧れてたけど、絵も描けず、楽器もできず、文章も書けないみたいなワナビーこじらせた人間たちの最後の逃げ場って感じがするよね。
RailsやjQuery作った人間はすごいけど、それを使うあなたは全然すごくないじゃん。ただの消費者じゃん。
でも絵や音楽と違って供給者と消費者の境目が一見曖昧だからなんかすごいように他人も自分も錯覚するんだよね。
それもワナビーを呼び込む理由なんだろうけど。
TDDとかも、それを導入したら現場の効率が上がるとか本当はどうでもよくて「TDDやってる俺かっこいい」なんでしょ?
ワナビーとしての充足願望が満たされるんでしょ?
それで「会社にTDDを導入するにはどうしたらいいか」みたいなブログ書いたらはてぶで「こいつはわかってるヤツ」みたいなコメントもらえて嬉しいんでしょ?
そりゃ教条主義に陥るわな。反原発をTwitterでつぶやいて仮初の賞賛を集めるニートと同じだわ。
まあ「銀の弾丸は無い」って言ってるヤツも「銀の弾丸は無いって言える俺かっこいい」だから本質的には同じなんだけどね。
検索窓にふと tdd is って打って出た候補にワロタwwww
容赦なさすぎやろw
肯定的な文句がまったく出てきませんでした。事実はともかくとして、このように思われているということでしょうね。啓蒙は難しそうですね。大変ですね。
こちらからは以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20140408212848
http://anond.hatelabo.jp/20140210175751
はじめに、本当にid:aukusoeなのかどうかは断言しません。
ただ、僕のことをそうかも知れないと分析してくれる人がいることへの感謝です。
ぶっちゃけ、それがあのビリーブなんちゃらだろうと、青二才であろうと決めつけられていたとしても、この感謝の気持ちは変わりません。
僕のことをそこまで分析してくれたという事実だけがただただ嬉しいのです。
あれから二ヶ月がたった。
もうやることは何もないと思っていた。
もう消えればいい、死ねばいいそう思った。
けれど、薬を飲んでいる間は楽になれたから、それはそれでよかった。
でも僕はやっぱり誰にも見つけてもらえていなかった。
会社はもちろん、両親も、友達も、誰も僕を見つけてくれなかった。
見つけて欲しかった。
Xbox360のオフラインCoopプレイの実績を解除がてら色々遊びたかった。
でも、僕は誰かに見つけてもらう努力をしていなかった。
だって、僕はブログの更新はもうほとんどしていないし、Twitterでもろくに呟かない。
はてブはかろうじてやっているけど、有名アルファブクマカーにはほど遠い。
みんな誰かに好かれる努力をしているんだと、始めて気づいた。
両親が離婚したときも、学校のみんなにいじめられたときも、僕は誰かに好かれる努力を、
僕自身をさらけ出すことを恐怖していた。
だから、誰も僕のことを見つけてくれなかったんだ。
でも今日、誰かが僕のことを見つけてくれました。
誰かが僕のことを興味をもってくれていることがわかりました。
ただ、それでも、僕はこの場所に今こうしていることが幸せだと感じてもいいのだと自覚しました。
pkmさんやmetrogさんと増田の記事をブクマして「案外これは伸びなかったねー」なんて言うかのように無言のコミュニケーションをはかったり、
cider_kondoさんがトピシュさん関連の面白いブコメにスターをくれたり、
sys-artsさんがIT系のちょっとした面白いブコメにスターをくれたり、
増田で夜中までくだらないことをダベったり、真面目に議論をしたり。
時には釣り記事をたてて、ブクマ数がどれだけ伸びるのかを観察して反応を楽しんだり。
(ただ、これは前回の自殺云々の件が歴代最高ブクマ数だったのでもう辞めてます)
そういうはてな村の生活が、そういう増田での活動が、僕はたまらなく幸せだと感じています。
増田の11人の一人でしかない自分ですが、この十人は僕の人生の中で始めてできた友達です。
スターフレンドたちや、お気に入りに入れてくれてる人もそうです、僕の友達です。
もちろん、先ほど言ったようにうつ病には銀の弾丸はありません。
ですから、また不安感が募り、どうしようもなくなることがあったり、増田に愚痴を書いたりすることもあると思います。
でも、今までのような「見つけて欲しい」「居場所が無い」という気持ちにだけは絶対になりません。
今日こうして誰かに見つけてもらえたことで、僕は自殺を辞めますし、これからも自殺はしません。
見つけてくれた人、本当にありがとうございました。
本当に、本当に、ありがとうございます。
私は大規模・小規模、それこそものすごい人数でのチームや、自分一人のプロジェクトまで経験してきた。化石のような連邦事務局でもクールなシリコンバレーの会社でも働いたことがある。私は12種類以上のプログラミング言語を学び使っていた。私の時代には ウォーターフォール/BDUF (big design up front), 構造化プログラミング, トップダウン, ボトムアップ, モジュラーデザイン, コンポーネント, アジャイル, スクラム, エクストリーム, TDD, OOP, ラピッドプロトタイピング, RAD, その他思い出せない様々な手法が生まれた。 でもそれらで上手くいってると思えるものは一つもなかった。
( 注:ここで書いてある「ソフトウェア開発手法が上手くかない」の意味について説明させてほしい。それらはソフトウェア開発のプロセスや、ソフトウェア開発そのものについて予測性や再現性を提供していないという意味だ。ほとんどのソフトウェア開発手法はプログラミングに工学風のプロセスを提供してくれる。しかし、上記の理由でそれだけでは不十分だ )
チーム生産性・幸福度・メンバーのつながり・1日あたりのコード量・人月・コードの品質・製造された成果物、、、そういったもの以外でソフトウェア開発手法が上手くいってるか、いってないかを図るものはあるのだろうか?
もちろんどんな手法論だって、それに合わせた正しい指標を使えば上手くいってるか・いってないかが計測できる。しかし一番肝心の問題 ーー予算と期限内で要求を満たす事ーー について定常的に結果を図れる開発手法を見たことがない。
上記は私の経験則だけど、僕の知ってる殆どのプログラマは同じような事を経験している。それらの話から言えるのは「ソフトウェア開発手法について厳密な研究は存在しない。なぜならソフトウェア開発上のすべての要素をコントロール事が出来ないからだ」
こんな思考実験をしてみよう、
2つのプログラマのチームがある。どちらも要求・期間・予算はしっかり確定していて、同じ開発環境・プログラミング言語・開発ツールを使うとする。一つのチームはウォーターフォール/BDUFをつかう。もう一つのチームはアジャイルテクニックを使う。
この思考実験にはもちろん意味がない。メンバー一人ひとりのスキルや性格、お互いにどんなコミュニケーションを取るか、そういったことの方が開発手法よりも大きな影響を与えるのは明らかだ。
アリスター・コッバーンが2003年に"People and methodologies in software development" (http://alistair.cockburn.us/People+and+methodologies+in+software+development) という記事でまとめている。
" 人と人の間で、更には刻々と経過する時間の中で変化するメンバーのキャラクターこそがチームの振る舞い、結果に影響する最初の要因だ。 "
私がプログラミングを始めた1970年当時、開発体制はプロジェクトマネージャー・ビジネスアナリスト・シニアプログラマと言った階層構造でガッチリと管理されていた。開発言語やツールを選ぶことは許されていなかった。私はいくつかの大きく複雑なプロジェクトに関わっていたが大体上記の様な働き方だった。成功したプロジェクトもあれば上手くいかないものもあった。
今は開発言語やツールに合わせて、開発手法・働き方をプログラマが選ぶのが当たり前になっている。アナリストやらがプログラマを監査することは殆どなくなった。プロジェクトマネージャーは"リーダー"・"スクラムマスター"という形で矮小化され、管理職の権限は無力化され「チームの意見をまとめる事」以外は何も出来なくなっている。
ガントチャート・スケジュール・ドキュメントを使った「厳格なマネジメント」は"ユーザー"や"ステークホルダー"の関与を省かせて、"ユーザーストーリー"を要約していた。今や私の周りではまともな大人が監督してるとは思えないプロジェクトばかりだ。プログラマのカウボーイスタイルのコーディングを放っておいてるのに、彼らは自分好きな手法を適用するか作るかさせて、1980年代以上に決め事・儀式だらけだ。
実際、今のプログラマは1970年代のCOBOLの現場以上に手法論について厳格で、盲信している。実際私が最近関わるプロジェクトは、大体の場合何も価値を生み出さないのに一人か二人のメンバーが開発したプロセスや"ベストプラクティス"を背負わされてるものばかりだ。
プログラミングチームが手法論を採用する(多くの場合チームの数名か、一人のいじめっ子が決めるのだが)と、やがて厳格に従うように要求を始め、やがてそれは宗教になる。そうなることではじまる無自覚な攻撃が、手法論やテクノロジーが生産性を高めるより早く、チームの生産性を下げてしまう。
私の経験から言わせると、アリスター・コッバーンの論文やフレデリック・ブロックスの「銀の弾丸はない」http://www.cs.nott.ac.uk/~cah/G51ISS/Documents/NoSilverBullet.html で述べられているように、プロジェクトを成功させるにはチームメンバーが共通のビジョンを共有する事(その本では「コンセプトの統合」と呼ばれている)が必要だ。特に何かの手法論を指しているのではなく、これと言ったプロセスがない場合でも同じだ。私はプロジェクト管理ツールの「完了」ボタンをクリックするだけのチームで働いことがあるが、何故か分からないがBDUFやアナリストの監査の元で働いていた昔よりも気分が悪いものだった。
私はプログラマは様式やツールにこだわるより、同僚の話にもっと耳を傾け、もっと一緒に働くことに注力したほうが良いとおもう。そしてプログラマは手法論やプロセスについてもっと疑って掛かった方が良いと思う。そうすればみんな魔法の様に生産性が上がる、間違いない。多分プログラマが社交的なスキルを高めるのは他の職業より大変な事だと思う。(私は必ずしもそうだと思っていないが。)でもそういったスキルを鍛える事は、手法論を試すより事よりはるかに元が取れる、間違いない。
これの翻訳です。
http://typicalprogrammer.com/why-dont-software-development-methodologies-work/
ソフトを知らない人間には想像できないと思うけど、ソフトはハードに比べて物理的性質という制約がかなり少ない分、格段に自由度が高い上に複雑なので、ぶっちゃけた話、作りながら細部を決めていくんだよ。
言い換えるなら、走りながら考える仕事かな。
なので、システムの要件やそのシステムで業務フローがどう変わるかとか、大まかな画面とかデータの流れとかを考える時点で、既に開発の何割かの作業をしていることになるわけで、それを見積もりの段階で時間をかけて行うというのは、作る方からしたらタダ働きしているも同然。
これは問題を解析しきっていないのに見積もりを出すという、絵に描いたようなどんぶり勘定であり、長年システム開発が炎上しやすい原因の一つになっているんだけど、業界では「銀の弾丸はない」などと揶揄される始末で、即ち根本的な解決策は見つかっていないと。
厄介な問題というのは科学的に存在していて、神話のような狼男が存在しているわけではないから
ということで、魔法じゃ解決できない。解決しているのはいつも人だの意味だと思ってる。
http://anond.hatelabo.jp/20131002150737
「銀の弾などない」って人月の神話で作られた新しい慣用句なんじゃないの?