はてなキーワード: 悪書とは
このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクとフェミニストのラグナロクは永遠につづくかのようにおもえる。
これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれるものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数が不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである。
毎日がソンムの戦いだ。
オタクとフェミニストはそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?
フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタクを宮崎勤と池田小のやつとエド・ゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。
オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニストを権力によって表現の自由を、人間の尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。
彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。
1950年代にPTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。
暴力的な表現、子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画や手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。
これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派のファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。
なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事を記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。
悪書追放のやり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化の立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨な迫害を忘れなかった。
彼らはそのときの体験をエッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガのネタに織り込んだ。
そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和にマンガを享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶を継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガや表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。
悪書追放運動の記憶の継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。
そういうわけで、マンガの守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。
さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカがWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。
だがオタクたちはずっと敵は「既存の道徳にしばりつけられた保守的で道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーであると叫び続けている。
「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性と男性社会そのものを憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態の様相を呈していて、
そうなったときにクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。
しかしオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。
日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアやサブカルチャーにおける性的(エロという意味に限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。
ふた昔前はテレビで女性がおっぱいをエロティックに晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、
そこまで過激なものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。
それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写、ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。
そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。
男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性のメンヘラでは?
少女たちはテレビやマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?
一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?
刃のついた表現が現実に存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。
何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?
私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。
傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。
そういう意味では、オタクが表現規制運動の歴史を語りつぐことと少し似ている。
フェミニストの場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別の問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義の統一がはかれていないことだ。
これは攻める側の弱さでもある。
守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。
だが、フェミニスト側は具体的に個別の問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合、もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的な表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。
そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。
彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。
オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」
フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力を肯定しつづけるレイピストクソ野郎」
ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。
もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。
オタクは自由で放任主義な右翼と親和性が高く、いろいろと口うるさい左翼とは親和性が悪い。
左翼は、その攻撃性でオタクを敵に回した自らの愚かさを悔いるべきと言う言説を最近良く見かける。
その言説について思うところを描いていく。
ヘイトスピーチや所謂「言葉狩り」については、間違いなく左翼と呼ばれる人たちが中心になっている。これらについては、人権の基本である「他人の人権を侵害しない」という原則の問題でもあるが、チャタレイ裁判に関する憲法学界隈からの反論(1)や、大日本帝国時代の児童文学や新聞の規制が言論統制そのものに変化していった前例が示すように、原則、否定するべき物ではない。
また、宇宙の戦士に対して、ファシズム的と言う評価(2)や、さらば宇宙戦艦ヤマトのラストシーンに対しては、それぞれ「軍国主義的」について言及があったことは確からしい(3)。
漫画関係の表現規制で真っ先にやり玉に挙げられる「悪書追放運動」では「軍国主義への回帰」と言う表現が使われてきた(4)。
これらの理由から、オタクが左翼的言説を嫌うことには一定の理由があることがわかる。
チャタレイ婦人事件からずっと、右翼はむしろ表現の規制側に回っていた。猥褻物や公序良俗を使用した最高裁の判決に対しては、保守派を批判する側の法律学者の方からこそ強力な批判が行われていたことを思えば、左翼が表現の自由に不寛容と言うのは、この手の表現の自由に関連する議論の実状からかけ離れているように思える。
悪書追放運動以来漫画の規制では政府与党が応援してきた。悪書追放運動の主体の一つである主婦層の応援をしていたのは、逆コースまっさかりだった当時の政権与党である。
所謂「左」が表に出ていたのは事実だが、思いっきり「右」がそれに乗っかっていることもまた事実なのだ。
84年の衆議院予算委員会で、マンガを規制するための法律の導入を求めたのは自民党の政調副会長だった三塚博氏だし、中曽根総理もそれに大いに賛同していた。
漫画関係でも、保守派の麻生議員とかは、漫画の規制に積極的な人だし、東京都でのマンガの規制が著しく深刻化したのは石原慎太郎が都知事だった期間だ(5)。
漫画に対して公序良俗に関するとして出版禁止のための法整備を実際に行ったのは自民党だ(6)。
つーか、なぜかよく言われる「左翼の側が、オタクの趣味をポルノ呼ばわりして規制している」と言う言説とは裏腹に、実際にオタクの趣味をポルノ扱いして規制しようとしているのは保守政権側のほうが明らかに多い。ってか、実際何度か規制に踏み切っている。
ついでに、戦前でも児童文学の表現に著しい規制が付けられていた。
表現規制の問題を見ていると右も左もオタクとは親和性が悪そう。
それどころか、この10年の間は、マンガの表現規制は保守の側から行われている。
だと言うのに、どう言うわけか保守層が放任主義と誤解している意見が不自然なほど目立つ。
幾度か、マンガの規制の法制化がされるときに反対に回ってきた共産党の立場がない。いや、共産党もちょくちょくマンガの規制するよう求めてはいたから濡れ衣ではないのだが(7)、法制化を阻止するために動いた(8)という一点においては、力が及んでいたかはさておき、むしろ表現の自由については無理解というわけではない。
にもかかわらず、左翼は教条的で何でも規制する頭の固い連中で、保守派は様々な価値観を認めてくれる懐の深い存在という、表現規制の法制化の歴史を紐解くと真逆としか思えない、訳の分からない言説が結構広まっている。
……本当に、どう言うことなの?
理由を考えてみると、実際の活動は兎に角、左翼系の攻撃の方がオタクの方に印象に残りやすかったのが問題なのではないだろうか。悪書追放運動の発言や、ウルトラセブン第12話、ジャングル黒べぇの封印や、さらば宇宙戦艦ヤマトや宇宙の戦士への批判(小説の批評・批判自体はまっとうな活動なのだけど)等、人気作品への影響が大きいこと為、実際の活動量以上に目に付く機会が多かった。
特に、ウルトラセブンの「第12話は欠番とする」と言う趣旨の文言は、兎に角目立つ。簡単に閲覧可能な人気シリーズに、「抗議による封印」の痕跡がポツンと残されているのは、イヤでも目立つ。
また、政府肝いりの団体でも、悪書追放運動の折りは基本的に「左翼」に同調する言動をとっていた。
恐らく、「左翼」の認識が悪くなったのは、ここら編が原因だろう。
その上で、90年代後半から2000年代初頭の「サヨク=人権を御旗に自由を侵害しようとしている連中」とか言う、自由主義史観発のいい加減な認識が、雑な認識と化学反応を起こして、いい加減な認識を加速させたと言うのが実状ではないだろうか。
00年代前半からの10年、警察や保守政権の側からによる表現規制が著しく深刻化していた時期に、そちら側からの影響が殆ど省みられていない現状を鑑みるに、自由主義史観発と言うか、小林よしのり発の「人権を美旗に世界の均質を試みている」と言う趣旨の認識の影響は少なくない気がする。
余談だが、戦前の表現規制に対する反省と言うことで使われた「言葉や表現が問題ではなく、実際に差別をなくすことこそが重要だ」と言う考えが、この保守派への契合に対する触媒になっている節があるのは中々興味深い。
実質的に、差別を助長していたり、差別に根ざしている表現を使い続けることによる、現状の肯定や差別の強化自体は問題にされてしかるべきだ。
キチガイと言う言葉が使われなくなったために、統合失調症の人の気持ちが幾分か楽になったと言う証言もある。言葉を狩っただけで問題が解決されるわけではないが、差別に使われるメインウェポンを使用禁止にすること事態を無価値と断定することも、非常に問題がある考えのように思える。
一方で、一片の理が合っても問題があるのは事実。だからこそ、チャタレイ裁判以降、多くの憲法学者は表現規制そのものを問題にしてきたし、前例がある以上、この手の批判は積極的に行われてよい。
兎に角、「表現を規制する要理も、現状の改善の方が重要」と言う言説が「表現は問題ではないのだから、どんな差別的な表現を使い続けたってかまわない」と言う理屈の正当化に使われ、惹いては、差別語を平然と使い続ける側の心強い理論武装になってしまっているのではないか。
いい加減話を終わらせるために、まとめに入る。
「どんな表現にも寛容な保守と、教条的で表現の規制を押し進めようとする左翼」と言う、表現規制の歴史に多少なりとも興味が有れば噴飯ものの理屈がネットの世まかり押し通ってしまうのは
・60年代の悪書追補運動の折りに、法制化を進める活動家よりも、直接行動を行う「左翼」側の活動の方が目立った
・「セブン12話」や「宇宙の戦士」批判など、容易な「左翼の抗議による作品の封印」の戦果に容易にアクセス可能
・00年代前半、個人サイト全盛期に自由主義史観初の雑な政治認識が流行した
・「表現だけではなく、現状を変える事こそ重要」と言う、それ自体はまっとうな言説の悪用
と言った要素が、悪魔融合を果たした結果ではないだろうか。
(1)浦辺法穂「全訂 憲法学教室」161~163ページ、岡田信弘「憲法のエチュード」86~91ページ
(2)ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」483~484ページ
(3)牧村康正・山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」第4章栄光は我にあり、広がりゆく波紋、第10段落
(4)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」100~102ページ
(5)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」177~180、196ページ
SF作家の野尻抱介さんがあるツイートをして話題になりました。
野尻抱介「中学になったらラノベなんか読むな、大人の本を読め。大人の本で本物の教養やセックスや暴力や愛や人生を学べ」「中高生に迎合したラノベなど消えてなくなれ」
https://togetter.com/li/1075475
ライトノベルについて悪し様に言っているかのように捉えられて話題になったのですが、一方で「これは野尻さんの主旨ではない、悪質なまとめだ」という意見も見られました。
SF作家の「中学になったらラノベなんか読むな」が文脈外れて盛り上がる 「俺TUEEE!」ばかり読んでたらダメなのか
https://news.nifty.com/article/economy/business/12117-5589/
ここで野尻さんの一連の発言についてわかりやすく二点に分けると、
・ライトノベルは消えてなくなれ、大人の本を読むべきと個人的には思うが、そう言った個人の好き嫌いの感情で表現規制を論じてはならない。ライトノベルを消すか残すは読者が決めること
・権力がライトノベルを奪いにきたら守らなければならない。そのためにフィクションの沈溺から脱し、ファクトを理解しよう。サブカルを守ろう
ということを言っています。
主旨は「ファクトを理解してすべてのフィクションを守ろう」といったところでしょうか。
上述の記事でも、
もともと野尻さんは、「自分の好き嫌いにかかわらず弾圧には抵抗しなければ」という旨の文脈で発言していたが、結果として、ラノベの是非について喧々諤々の議論が盛り上がることとなってしまった。野尻さん自身「最初のほうだけ読んで噴き上がっちゃいかん」と釘を刺していたのだが……。
と触れられています。
なるほど。
それで合っていると思います。
「ある発言」を踏まえていなければ。
野尻さんがライトノベルについてツイートしたのはこれが初めてではありません。
「この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品?
https://togetter.com/li/931628
トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。— 尻P(野尻抱介) (@nojiri_h) 2016年1月21日
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
これは「個人の感情」ですよね。ここまではいいです。(「アニメ」と書かれていますが、アニメを見た上で原作ライトノベルへの批判をしているようです。くわしくは以後の会話を見てください)
@araki_shin 私が想定している若者とは中高生なんですが、彼らもブラックな仕事して疲弊してるんでしょうか? 中高生に悪書を避けるように言っちゃいけませんか?— 尻P(野尻抱介) (@nojiri_h) 2016年1月28日
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
悪書。辞典を引けば「読者、おもに青少年に悪影響を及ぼす本」と記されています。
ぐぐれば「悪書追放運動」などが最初の方に引っかかるでしょう。コミックは低俗で有害だから売ったり読んだりしてはいけません、といった運動です。つまり表現規制ですね。
なんと。野尻さんは個人的な感情のまま、規制を叫んでいたではありませんか。
そのひとが今度は「サブカルを守る」と「規制反対」を訴えます。
と言ったことを踏まえると、今回の発言の「主旨」はこうなるでしょうか。
要するに、オナニーのあり方の違う。
男性向け同人誌は最悪書き手自身がシコれればあとはどうでもいい。賢者モードで爆睡しておけば満足だ。
しかし女性向け同人誌は前提として(感情としての)「共感」と(行動としての)「共有」が求められる。
女性向け同人誌という戦場には、コミュニケーションの強制がビルドインされている。
リンク先の主が回顧する「古き良き時代」のサークルのあり方についての記述を注意深く読めばそのことがわかっていただけると思う。
ただ昔は共有手段が限定されていた。腐女子同士がコミュニケーションを取れる場はマーケットしかなかった。
ところが、インターネットの普及で状況は一変する。
SNSというサービスはまさに共感エネルギーを最大限効率的に生み出すための原発のようなものだった。
ところが、核施設の運用は核燃料廃棄物を伴う。腐女子にとっての核廃棄物に当たるのが、リンク先のブログで列挙されていたコミュニケーション地獄である。
他人を褒めるために生み出されたはずのSNSの評価機能は戦場では武器となる。
インターネットの人口の増加にともない、頭のおかしい人や悪意を持った人間も増えた。
男性向け同人作家にとっては「点数=俺TUEEEの値」でしかないが、腐女子にとっては「誰かの意思表示」、つまりコミュニケーションの道具だ。
善良なもの同士であれば良い互助会の肴だが、テロリストが用いるとなると凶悪な兵器と化す。
ブログ主も、その「汚い兵器」に打ちのめされた一人なのだろう。
我々のインターネットは今や20世紀の頃とは違う戦争を戦っている。
にこやかに握手を求める手を差し出してきた人間が自爆テロ犯なのかもしれない。
もはや我々に安眠は訪れない。
なんだか最近図書館関連で選書についてよくわからない言説を見かけるようになったので,自分の理解をまとめておく。
簡単に言うと,やばい本は避けて購入するけれど,それは選書によるものであり検閲では断じてないという論理。
まず,全ての図書館は(少なくとも建前として)「検閲」を嫌う。
図書館における憲法として「図書館の自由に関する宣言」があり,
その第4では「図書館はすべての検閲に反対する」と明記されている。
「適切」「不適切」「良書」「悪書」などは図書館員は基本的に使わない(はず)。
ちなみに図書館の自由に関する宣言はまるで反戦スローガンかよと思うほどに
理想としてはこの建前に基づいて,右の本も左の本も中の本も全部置き,
選書とは自館の役割や目的を考慮しつつ,実際に購入するものを選ぶ作業のことである。
ただし,どの図書館もガッツがあるというわけではないし,連日のクレームは避けたい。
従って例えリクエストがあろうと,特定思想ギンギンの本やエロ本は入れない。
しかし,それはあくまでも予算とスペース等の都合という建前で行う。
ついでに小ネタ3つ。
実際問題として,選書が単独で仕事になることは予算の都合上まずない。
よって,他の業務をつつがなく行いつつ,新刊情報やリクエスト,同都道府県内にある
従って取り次ぎから「お勧め本セット」などを購入することは多い。
図書館職員はこの選書という作業にものすごいプライドを持っていて,
業務依託とかの話になったとき真っ先に反対材料としてレファレンスとセットで出てくる。
図書館員を黙らせるためにはこの2点をしっかりやっていると見せかけることは非常に重要。
何かの思想を流行らせたいとき,図書館に本をばらまくのは宣伝としてアリだと思う。
ただし単にリクエストをしても予算等を理由により却下されることは多い。
そこで使うべき方法が寄贈。しかし,コストや所蔵の問題であっさり廃棄されることは非常に多い。
とりあえず最低限の条件はクリアしておきたい。是非試して欲しい。
・新品である
・当該館未所蔵である
この言葉が出てくるっと昔からモヤモヤするんですよね。私を含めて素人さんが「表現の自由」という言葉について考慮すること無くオレオレ定義でいきなり使い出したら、読者はそっ閉じしちゃうと思います。「ネットでこの言葉使う人に関わってはいけないそっ閉じランキング」やったらトップ10には間違いなく入るやつだと思います。
私含めて普通の人にとって、「自由」という言葉ってなかなか捉えがたい概念じゃないですか? だから言葉に対する解釈がバラバラになり過ぎて同じ言葉を使っても議論にならない、という印象が強く有ります。
とにかくこの言葉を使って議論を進めるためには、最低限「なぜ表現の自由の自由が大事なのか?」が共有できている状態、つまり「表現の自由とはなにか」ということと「表現の自由の重要性」が理解されていることが必要だと思うのですが、出来てます?聞き手どころか「表現の自由」を主張している人ですら、それが理解できているように思えないんですよね。よく理解できてないけど「表現の自由」をただ絶対正義のスローガンのように唱えてるだけじゃないですか?
「自由」というただでさえフワフワした言葉を、フワフワした状態で使って、それで何かしらの主張をしました、って。それただの自己満足ですよね。まぁ私もネットは自己満足のために使うべきだと思うのでそれでいいと思うのですが、少なくとも議論どころか主張にすらなってないもので、反対する人を説得できるとは思わない方がいいですよね。
主張すらしてないのに「僕達にとっては自明のことなのにそれがわからない反対派はバカだ」みたいなしょうもないことを言ってる人を見ると、さすがげんなりさせられます。
民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。
国や政治家が特定の考え方をメディアに押しつけることも、メディアの自由な報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。国や政治家などの権力を持つ者は、国民の思想や言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。
何か一つの考えを正しいとして絶対化することを抑制することにこそ本質がありそうだし、これなら共有可能な気がする。
悪書追放のなにがいけないかというと、どんなに優秀な人間でもその能力の限界は時代の限界に規定されているからです。現代に生きる僕たちはどうやっても次の時代にの正しさを知ることはできないわけです。この時代の感性で記録を焼くようなことがあってはいけない— 大澤めぐみ (@kinky12x08) 2015, 8月 30
表現の自由の真骨頂っていうのは、吐き気をもよおすような嫌悪感を抱かせる表現に対してもその自由を担保するというところにこそあるのであって、どれだけ創作物のその邪悪さを主張されたところで「なればこそ表現の自由によって守られねばならない」と、こうなる— 大澤めぐみ (@kinky12x08) 2015, 8月 30
こういう話が前提なのだとしたら、まずここを共有すべく努力したらいいと思うんだけど。ここまで考えてる人がそもそも少ないよねえ。
たださ、少なくとも「表現の自由」を声高に叫ぶだけの人は相手からしたら「わがまま」にしか聞こえないだろうと思うよ。これが良い、これが悪い、と二者択一的に区分けする考え方こそが危険、っていう主張をしていったほうがええと思うんやけどな。 そのルールのもとに私達は平等ですよ、と。
そうしないと、ほんとに規制を唱える側ってのは、自分たちの正義を信じてるからね。自分たちは正しいからそうしてるのであって、間違った奴がいうことは聞かないどころか自由を主張するとは何事か、わがままだって思っちゃうんだよね。炎上でよく知らない人を叩いた経験がある人ならわかるでしょ? 普段君らが何も考えてないくせに、炎上してる人見たらとりあえずこいつは安全に叩いていいやつだっていって叩きに行く。あれと一緒だよ。 そんな時に「表現の自由」を主張してるやついたらどう思う? 実態は違っても相手の感情はあれと同じ。
きみら炎上してる人を叩いてる時って、相手が何言っても許さないでしょ?「犯罪者に人権はない」くらいの感覚でしょ?その経験があるなら、そういう状況で、君らが普段からちゃんと考えてないから中身がスッカスカのスローガンでしか無い「表現の自由」って唱えても無駄ってわかるでしょ。 水戸黄門じゃない人が黄門さまの印籠だけ取り出して掲げても無駄だよ。だって、きみには何の権力もないからね。 そういうことを理解しないといけないよ。
「表現の自由」って言葉の大事さが共有されてないなら、相手に合わせて伝え方考えないとあかんよね。そうしないと規制しようとしてる人は、感覚として「炎上してる奴は徹底的に叩け」と同じ感情で行動してるだけなんだから。炎上してるやつを叩いてるときの君たちと同じくらい知能低下してるんだから。そこで下手に反論しようとすると、相手は「こんなことなら自由という考え方自体が害悪だな。犯罪者からは人権を剥奪しよう」くらい過激なことを考えるよ。君たちだって普段そのくらいの感じで見知らぬ人間を叩いてるよね。
そのことをよく踏まえた上でこの言葉使ってほしいよね
先駆者としてのotsuneには敬意を払いつつも、この人のブログを面白いと思った事が無い。はてながまだ「オタクの読む物」「悪書」だと言われていた時代の人だ。当時のブロガーの地位なんて今とは比べ物にならない。競争相手なんて(今と比べると)居ないも同然の時代なら、ちょっと本気で取り組めば何を書いても「斬新」で「一番乗り」が簡単に出来た。やりたい放題がそこそこ許された時代だったはず。(同じ理由でガンダムの監督の人もそうだと思うんだよね。それなりにやりたいようにさせてもらえた時代であれば、今でも成功する人間は沢山居ると思う)
ただ、otsuneというクリエイターに匹敵する人間は存在しないのかといったら、多分、全然そんなことは無いと思う。「神様」と担ぐ理由って、別にotsuneに心酔しているからではなくて、ブロゴスフィアの象徴であってほしいという、もっと利己的な理由じゃないかなと思う。
文化に偉人は付き物だもんね。ブログにも歴史があるれっきとした文化なんだぞと、業界ぐるみでその雰囲気を盛り立てていくために、otsuneを利用してきたところはあると思う。
やさしく書かれた書物の欠点は、「自分が知らない事」の存在に気付けないことなんだよね。
ITに限らず、技術系では致命的で、そういうことを知らずに設計すると、取り返しがつかない(再設計の)場合もある。
前にちょっと増田で話題になった、高級言語なら失敗が減るって勘違いも似てる。
知ってる人間の助けになることは有っても、知らない人間を助けたりはしない。と言うよりも、そこを助けちゃいけない。
「難しいことが正しい」とは言わないし、ただ難解に書いただけの悪書も沢山ある。
その誤魔化しを「誤魔化し」だと説明していない本(判りやすいと賞賛される本)は基本、信用しないことにしてる。