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2017-07-11

オタクフェミニストは誰と戦っているのか。

 このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクフェミニストラグナロク永遠につづくかのようにおもえる。


 これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである


 わたしたちは第一次世界大戦を生きている。

 毎日がソンムの戦いだ。



 オタクフェミニストそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?

 フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタク宮崎勤池田小のやつとエドゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。

 オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニスト権力によって表現の自由を、人間尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。


 彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。

 彼らがそれぞれ想像する「敵」とは誰なのだろうか。


 オタクにはトラウマがある。

 悪書追放運動である

 1950年代PTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。

 暴力的表現子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。

 これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派ファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。


 なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。

 悪書追放やり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨迫害を忘れなかった。

 彼らはそのとき体験エッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガネタに織り込んだ。

 そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和マンガ享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガ表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。

 悪書追放運動記憶継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。

 そういうわけで、マンガ守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。


 さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。

 だがオタクたちはずっと敵は「既存道徳にしばりつけられた保守的道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーである叫び続けている。



 フェミニストたちを一言でくくるのは難しい。

 「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性男性社会のもの憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態様相を呈していて、

 そうなったときクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。


 しかオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。

 「こどもたちを傷つける」表現をこそ問題だと言っている。

 教育ではなく、トラウマの話だ。


 フェミニストたちにもトラウマがある。

 日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアサブカルチャーにおける性的エロという意味限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。

 ふた昔前はテレビ女性おっぱいエロティック晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、

 そこまで過激ものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。

 それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。

 そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。


 男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性メンヘラでは?


 少女たちはテレビマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?


 一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?

 刃のついた表現現実存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。

 問題とはむしろそこだ。

 何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?

 私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。


 傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。

 こうしてアイデンティティポリティクス生まれる。

 彼女たちの目的は次の世代トラウマを残さないこと。

 そういう意味では、オタク表現規制運動歴史を語りつぐことと少し似ている。


 そして、オタク同様、「敵」を認識しそこねている。


 フェミニスト場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義統一がはかれていないことだ。

 これは攻める側の弱さでもある。

 守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。

 だが、フェミニスト側は具体的に個別問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。



 そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。



 彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。

 オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」

 フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力肯定しつづけるレイピストクソ野郎


 オタクはただ表現進歩性を守りたかっただけなのに。

 フェミニストはただ表現進歩を与えたかっただけなのに。


 ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。

 もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。

 自分以外のすべてを虐殺しつづける戦場

 それがインターネットであり、インターネット表現規制論争だ。

2017-04-26

オタク表現規制

 オタク自由放任主義右翼親和性が高く、いろいろと口うるさい左翼とは親和性が悪い。

 左翼は、その攻撃性でオタクを敵に回した自らの愚かさを悔いるべきと言う言説を最近良く見かける。

 その言説について思うところを描いていく。

 左翼による攻撃があった事は事実である

 ヘイトスピーチ所謂言葉狩り」については、間違いなく左翼と呼ばれる人たちが中心になっている。これらについては、人権の基本である他人人権侵害しない」という原則問題でもあるが、チャタレイ裁判に関する憲法学界隈から反論(1)や、大日本帝国時代児童文学新聞規制言論統制のものに変化していった前例が示すように、原則否定するべき物ではない。

 また、宇宙の戦士に対して、ファシズム的と言う評価(2)や、さらば宇宙戦艦ヤマトラストシーンに対しては、それぞれ「軍国主義的」について言及があったことは確からしい(3)。

 漫画関係表現規制で真っ先にやり玉に挙げられる「悪書追放運動」では「軍国主義への回帰」と言う表現が使われてきた(4)。

 これらの理由からオタク左翼的言説を嫌うことには一定理由があることがわかる。

 その上で、右翼放任主義という主張は疑わしい。

 チャタレイ婦人事件からずっと、右翼はむしろ表現規制側に回っていた。猥褻物公序良俗使用した最高裁判決に対しては、保守派批判する側の法律学者の方からこそ強力な批判が行われていたことを思えば、左翼表現の自由不寛容と言うのは、この手の表現の自由に関連する議論の実状からかけ離れているように思える。

 悪書追放運動以来漫画規制では政府与党応援してきた。悪書追放運動主体の一つである主婦層の応援をしていたのは、逆コースまっさかりだった当時の政権与党である

 所謂「左」が表に出ていたのは事実だが、思いっきり「右」がそれに乗っかっていることもまた事実なのだ

 84年の衆議院予算委員会で、マンガ規制するための法律の導入を求めたのは自民党の政調副会長だった三塚博氏だし、中曽根総理もそれに大いに賛同していた。

 漫画関係でも、保守派麻生議員とかは、漫画規制積極的な人だし、東京都でのマンガ規制が著しく深刻化したのは石原慎太郎都知事だった期間だ(5)。

 漫画に対して公序良俗に関するとして出版禁止のための法整備を実際に行ったのは自民党だ(6)。

 つーか、なぜかよく言われる「左翼の側が、オタク趣味ポルノ呼ばわりして規制している」と言う言説とは裏腹に、実際にオタク趣味ポルノ扱いして規制しようとしているのは保守政権側のほうが明らかに多い。ってか、実際何度か規制に踏み切っている。

 ついでに、戦前でも児童文学表現に著しい規制が付けられていた。

 表現規制問題を見ていると右も左もオタクとは親和性が悪そう。

 それどころか、この10年の間は、マンガ表現規制保守の側から行われている。

 だと言うのに、どう言うわけか保守層放任主義と誤解している意見が不自然なほど目立つ。

 幾度か、マンガ規制法制化がされるときに反対に回ってきた共産党立場がない。いや、共産党もちょくちょくマンガ規制するよう求めてはいたか濡れ衣ではないのだが(7)、法制化を阻止するために動いた(8)という一点においては、力が及んでいたかはさておき、むしろ表現の自由については無理解というわけではない。

 にもかかわらず、左翼教条的で何でも規制する頭の固い連中で、保守派は様々な価値観を認めてくれる懐の深い存在という、表現規制法制化の歴史を紐解くと真逆しか思えない、訳の分からない言説が結構広まっている。

 ……本当に、どう言うことなの?

 理由を考えてみると、実際の活動兎に角左翼系の攻撃の方がオタクの方に印象に残りやすかったのが問題なのではないだろうか。悪書追放運動発言や、ウルトラセブン12話、ジャングル黒べぇの封印や、さらば宇宙戦艦ヤマト宇宙の戦士への批判小説批評批判自体はまっとうな活動なのだけど)等、人気作品への影響が大きいこと為、実際の活動量以上に目に付く機会が多かった。

 特にウルトラセブンの「第12話は欠番とする」と言う趣旨文言は、兎に角目立つ。簡単に閲覧可能な人気シリーズに、「抗議による封印」の痕跡がポツンと残されているのは、イヤでも目立つ。

 また、政府肝いり団体でも、悪書追放運動の折りは基本的に「左翼」に同調する言動をとっていた。

 恐らく、「左翼」の認識が悪くなったのは、ここら編が原因だろう。

 で、そこから反対の陣営自分たちに寛容と勘違いした。

 その上で、90年代後半から2000年代初頭の「サヨク人権を御旗に自由侵害しようとしている連中」とか言う、自由主義史観発のいい加減な認識が、雑な認識化学反応を起こして、いい加減な認識を加速させたと言うのが実状ではないだろうか。

 00年代前半から10年、警察保守政権の側からによる表現規制が著しく深刻化していた時期に、そちら側からの影響が殆ど省みられていない現状を鑑みるに、自由主義史観発と言うか、小林よしのり発の「人権を美旗に世界の均質を試みている」と言う趣旨認識の影響は少なくない気がする。

 余談だが、戦前表現規制に対する反省と言うことで使われた「言葉表現問題ではなく、実際に差別をなくすことこそが重要だ」と言う考えが、この保守派への契合に対する触媒になっている節があるのは中々興味深い。

 左翼表現規制……所謂言葉狩りにも一片の理がある。

 実質的に、差別助長していたり、差別に根ざしている表現を使い続けることによる、現状の肯定差別の強化自体問題にされてしかるべきだ。

 キチガイと言う言葉が使われなくなったために、統合失調症の人の気持ちが幾分か楽になったと言う証言もある。言葉を狩っただけで問題解決されるわけではないが、差別に使われるメインウェポンを使用禁止にすること事態を無価値と断定することも、非常に問題がある考えのように思える。

 一方で、一片の理が合っても問題があるのは事実。だからこそ、チャタレイ裁判以降、多くの憲法学者表現規制のもの問題にしてきたし、前例がある以上、この手の批判積極的に行われてよい。

 兎に角、「表現規制する要理も、現状の改善の方が重要」と言う言説が「表現問題ではないのだから、どんな差別的表現を使い続けたってかまわない」と言う理屈正当化に使われ、惹いては、差別語を平然と使い続ける側の心強い理論武装になってしまっているのではないか

 いい加減話を終わらせるために、まとめに入る。

 「どんな表現にも寛容な保守と、教条的表現規制を押し進めようとする左翼」と言う、表現規制歴史に多少なりとも興味が有れば噴飯もの理屈ネットの世まかり押し通ってしまうのは

60年代悪書追補運動の折りに、法制化を進める活動家よりも、直接行動を行う「左翼」側の活動の方が目立った

・「セブン12話」や「宇宙の戦士批判など、容易な「左翼の抗議による作品封印」の戦果に容易にアクセス可能

00年代前半、個人サイト全盛期に自由主義史観初の雑な政治認識流行した

・「表現だけではなく、現状を変える事こそ重要」と言う、それ自体はまっとうな言説の悪用

 と言った要素が、悪魔融合を果たした結果ではないだろうか。

(1)浦辺法穂「全訂 憲法学教室」161~163ページ、岡田信弘「憲法エチュード86~91ページ

(2)ロバート・A・ハインライン宇宙の戦士」483~484ページ

(3)牧村康正・山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展狂気」第4章栄光は我にあり、広がりゆく波紋、第10段落

(4)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」100~102ページ

(5)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」177~180、196ページ

(6)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」143~144ページ

(7)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」139ページ

(8)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」129~130、143~144ページ

2017-02-10

野尻抱介さんの考える表現規制のありかた、そしてライトノベル

SF作家野尻抱介さんがあるツイートをして話題になりました。

野尻抱介中学になったらラノベなんか読むな、大人の本を読め。大人の本で本物の教養セックス暴力や愛や人生を学べ」「中高生迎合したラノベなど消えてなくなれ」

https://togetter.com/li/1075475

ライトノベルについて悪し様に言っているかのように捉えられて話題になったのですが、一方で「これは野尻さんの主旨ではない、悪質なまとめだ」という意見も見られました。

後者意見賛同する記事も出来ました。

SF作家の「中学になったらラノベなんか読むな」が文脈外れて盛り上がる 「俺TUEEE!」ばかり読んでたらダメなのか

https://news.nifty.com/article/economy/business/12117-5589/

ここで野尻さんの一連の発言についてわかりやすく二点に分けると、

ライトノベルは消えてなくなれ、大人の本を読むべきと個人的には思うが、そう言った個人好き嫌い感情表現規制を論じてはならない。ライトノベルを消すか残すは読者が決めること

権力ライトノベルを奪いにきたら守らなければならない。そのためにフィクションの沈溺から脱し、ファクト理解しよう。サブカルを守ろう

ということを言っています

主旨は「ファクト理解してすべてのフィクションを守ろう」といったところでしょうか。

上述の記事でも、

もともと野尻さんは、「自分好き嫌いにかかわらず弾圧には抵抗しなければ」という旨の文脈発言していたが、結果として、ラノベの是非について喧々諤々の議論が盛り上がることとなってしまった。野尻さん自身最初のほうだけ読んで噴き上がっちゃいかん」と釘を刺していたのだが……。

と触れられています

なるほど。

それで合っていると思います

「ある発言」を踏まえていなければ。

野尻さんがライトノベルについてツイートしたのはこれが初めてではありません。

この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品

https://togetter.com/li/931628

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

これは「個人感情」ですよね。ここまではいいです。(「アニメ」と書かれていますが、アニメを見た上で原作ライトノベルへの批判をしているようです。くわしくは以後の会話を見てください)

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

悪書辞典を引けば「読者、おもに青少年に悪影響を及ぼす本」と記されています

ぐぐれば「悪書追放運動」などが最初の方に引っかかるでしょう。コミック低俗有害から売ったり読んだりしてはいけません、といった運動です。つまり表現規制ですね。

なんと。野尻さんは個人的感情のまま、規制を叫んでいたではありませんか。

そのひとが今度は「サブカルを守る」と「規制反対」を訴えます

と言ったことを踏まえると、今回の発言の「主旨」はこうなるでしょうか。

ファクト理解してフィクションを守ろう、ただし私が悪書指定した本はのぞく

2016-05-15

なぜ女性向け同人誌男性向け同人誌では圧力負荷が異なるのか

同人やめました - おとなになりたくなかった


要するに、オナニーのあり方の違う。


男性向け同人誌は最悪書き手自身がシコれればあとはどうでもいい。賢者モード爆睡しておけば満足だ。

しか女性向け同人誌は前提として(感情としての)「共感」と(行動としての)「共有」が求められる。

女性向け同人誌という戦場には、コミュニケーション強制ビルドインされている。

そしてコミュニケーション強制は太古の昔から存在した。

リンク先の主が回顧する「古き良き時代」のサークルのあり方についての記述を注意深く読めばそのことがわかっていただけると思う。


ただ昔は共有手段限定されていた。腐女子同士がコミュニケーションを取れる場はマーケットしかなかった。

あらゆる情報オープンだった。

ところが、インターネットの普及で状況は一変する。

マーケットや紙媒体以外で「共有」の場が無数に開拓された。


腐女子の行動原理は「共感」の最大化だ。

共感」を増やすためには「共有」の場を増やすに限る。

SNSというサービスはまさに共感エネルギーを最大限効率的に生み出すための原発のようなものだった。

腐女子インターネットの各所に共感原発を立てまくった。

ところが、核施設運用は核燃料廃棄物を伴う。腐女子にとっての核廃棄物に当たるのが、リンク先のブログで列挙されていたコミュニケーション地獄である


そもそもSNS共感や共有を増殖させる方向で発達してきた。

それがインターネットのあらゆる場所戦場に変えた。

他人を褒めるために生み出されたはずのSNS評価機能戦場では武器となる。

インターネット人口の増加にともない、頭のおかしい人や悪意を持った人間も増えた。

そうしたゲリラが各地で評価機能悪用してテロを起こす。

その代表pixivの点数制だ。

男性向け同人作家にとっては「点数=俺TUEEEの値」でしかないが、腐女子にとっては「誰かの意思表示」、つまりコミュニケーションの道具だ。

善良なもの同士であれば良い互助会の肴だが、テロリストが用いるとなると凶悪兵器と化す。

ブログ主も、その「汚い兵器」に打ちのめされた一人なのだろう。


我々のインターネットは今や20世紀の頃とは違う戦争を戦っている。

どこに敵がいるのかわからない。誰が味方なのかわからない。

にこやかに握手を求める手を差し出してきた人間自爆テロ犯なのかもしれない。

もはや我々に安眠は訪れない。

共有と共感の交換あるところすべて戦場なのであり、そして今やインターネット共感や共有のない場所など存在しないのだから

2015-09-25

選書検閲

なんだか最近図書館関連で選書についてよくわからない言説を見かけるようになったので,自分理解をまとめておく。

簡単に言うと,やばい本は避けて購入するけれど,それは選書によるものであり検閲では断じてないという論理


まず,全ての図書館は(少なくとも建前として)「検閲」を嫌う。

図書館における憲法として「図書館の自由に関する宣言」があり,

その第4では「図書館はすべての検閲に反対する」と明記されている。

従って検閲連想させるような言葉,例えば

「適切」「不適切」「良書」「悪書」などは図書館員基本的に使わない(はず)。

ちなみに図書館の自由に関する宣言はまるで反戦スローガンかよと思うほどに

臭い自由を切望する文なので未読の方は是非読んで欲しい。


理想としてはこの建前に基づいて,右の本も左の本も中の本も全部置き,

利用者がその内容を判断する,ということをやりたい。

しかし今のご時世,どこの図書館金も場所もない。

しかも図書は毎日2桁以上刊行されている。

そこで出てくるキーワードが「選書」。


選書とは自館の役割目的考慮しつつ,実際に購入するものを選ぶ作業のことである

ただし,どの図書館ガッツがあるというわけではないし,連日のクレームは避けたい。

従って例えリクエストがあろうと,特定思想ギンギンの本やエロ本は入れない。

しかし,それはあくまでも予算とスペース等の都合という建前で行う。


ついでに小ネタ3つ。

実際問題として,選書単独仕事になることは予算の都合上まずない。

よって,他の業務をつつがなく行いつつ,新刊情報リクエスト,同都道府県内にある

他館の所蔵等々を考えながら選書するのは難しい。

従って取り次ぎからお勧め本セット」などを購入することは多い。


図書館職員はこの選書という作業にものすごいプライドを持っていて,

業務依託とかの話になったとき真っ先に反対材料としてレファレンスとセットで出てくる。

図書館員を黙らせるためにはこの2点をしっかりやっていると見せかけることは非常に重要


何かの思想流行らせたいとき図書館に本をばらまくのは宣伝としてアリだと思う。

ただし単にリクエストをしても予算等を理由により却下されることは多い。

そこで使うべき方法が寄贈。しかし,コストや所蔵の問題であっさり廃棄されることは非常に多い。

とりあえず最低限の条件はクリアしておきたい。是非試して欲しい。

・新品である

・当該館未所蔵である

カバーフィルムがすでにかかっている

目録データ付き

2015-08-30

表現の自由」という主張が共有できないのは、主張する人がちゃんと理解できてないからじゃないの?

この言葉が出てくるっと昔からモヤモヤするんですよね。私を含めて素人さんが「表現の自由」という言葉について考慮すること無くオレオレ定義でいきなり使い出したら、読者はそっ閉じちゃうと思います。「ネットでこの言葉使う人に関わってはいけないそっ閉じランキング」やったらトップ10には間違いなく入るやつだと思います

私含めて普通の人にとって、「自由」という言葉ってなかなか捉えがたい概念じゃないですか? だから言葉に対する解釈がバラバラになり過ぎて同じ言葉を使っても議論にならない、という印象が強く有ります。 

とにかくこの言葉を使って議論を進めるためには、最低限「なぜ表現の自由自由大事なのか?」が共有できている状態、つまり表現の自由とはなにか」ということと「表現の自由重要性」が理解されていることが必要だと思うのですが、出来てます聞き手どころか「表現の自由」を主張している人ですら、それが理解できているように思えないんですよね。よく理解できてないけど「表現の自由」をただ絶対正義スローガンのように唱えてるだけじゃないですか?

自由」というただでさえフワフワした言葉を、フワフワした状態で使って、それで何かしらの主張をしました、って。それただの自己満足ですよね。まぁ私もネット自己満足のために使うべきだと思うのでそれでいいと思うのですが、少なくとも議論どころか主張にすらなってないもので、反対する人を説得できるとは思わない方がいいですよね。

主張すらしてないのに「僕達にとっては自明ことなのにそれがわからない反対派はバカだ」みたいなしょうもないことを言ってる人を見ると、さすがげんなりさせられます







表現の自由」は民主主義の要石の一つ

第12回 <「表現の自由」はなぜ大事?>

民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由ものを言えなければ成り立たないのです。

国や政治家特定の考え方をメディアに押しつけることも、メディア自由報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。国や政治家などの権力を持つ者は、国民思想言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。

それは「表現の自由」を侵害し、人間尊厳を傷つけるだけでなく、民主主義本質をつき崩してしまうことになるのです。

というわけで、自由って言葉ミスリーディングな気はする。

何か一つの考えを正しいとして絶対化することを抑制することにこそ本質がありそうだし、これなら共有可能な気がする。



こういう話が前提なのだとしたら、まずここを共有すべく努力したらいいと思うんだけど。ここまで考えてる人がそもそも少ないよねえ。

たださ、少なくとも「表現の自由」を声高に叫ぶだけの人は相手からしたら「わがまま」にしか聞こえないだろうと思うよ。これが良い、これが悪い、と二者択一的に区分けする考え方こそが危険、っていう主張をしていったほうがええと思うんやけどな。 そのルールのもとに私達は平等ですよ、と。

そうしないと、ほんとに規制を唱える側ってのは、自分たち正義を信じてるからね。自分たちは正しいからそうしてるのであって、間違った奴がいうことは聞かないどころか自由を主張するとは何事か、わがままだって思っちゃうんだよね。炎上でよく知らない人を叩いた経験がある人ならわかるでしょ? 普段君らが何も考えてないくせに、炎上してる人見たらとりあえずこいつは安全に叩いていいやつだっていって叩きに行く。あれと一緒だよ。 そんな時に「表現の自由」を主張してるやついたらどう思う? 実態は違っても相手の感情はあれと同じ。

きみら炎上してる人を叩いてる時って、相手が何言っても許さないでしょ?「犯罪者人権はない」くらいの感覚でしょ?その経験があるなら、そういう状況で、君らが普段からちゃんと考えてないから中身がスッカスカのスローガンしか無い「表現の自由」って唱えても無駄ってわかるでしょ。 水戸黄門じゃない人が黄門さまの印籠だけ取り出して掲げても無駄だよ。だって、きみには何の権力もないからね。 そういうことを理解しないといけないよ。

表現の自由」って言葉大事さが共有されてないなら、相手に合わせて伝え方考えないとあかんよね。そうしないと規制しようとしてる人は、感覚として「炎上してる奴は徹底的に叩け」と同じ感情で行動してるだけなんだから炎上してるやつを叩いてるときの君たちと同じくらい知能低下してるんだから。そこで下手に反論しようとすると、相手は「こんなことな自由という考え方自体害悪だな。犯罪者から人権剥奪しよう」くらい過激なことを考えるよ。君たちだって普段そのくらいの感じで見知らぬ人間を叩いてるよね。

そのことをよく踏まえた上でこの言葉使ってほしいよね

2015-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20150611135857

現時点で286users。

コメント数は133。

本屋意思なんか入れずにどんな本でも扱うべき(15)

販売と思想は分けるべきに原則同意した上で。

本屋って文化的思想の善し悪しを決めるところ風な店員や社員がいるけど、ただの店だと思うのだが。

本屋も知識インフラの一種だから気にすることはないと思う。

本屋粛々と売れ、買うか買わないかは客の判断すること

本は思想言論メディアから流通恣意的操作をするのはNG

あなた思想になんてなんの興味もないんで淡々と並べてください。

図書館と同じように全ての本を必要とする人に粛々提供するというのがたぶん書店員として「正しい」態度。

選ぶのはお前じゃない。自惚れ過ぎ。

買う人まかせでいいんじゃね?

良書も、悪書も、分け隔てなく。ISPみたいなもんだ。

書店員思想を売るのではなくて思想材料を売ってるんだと思うので売るべきだと思う。

価値観自由競争」に晒すべきでしょうよ。

思想行為とは大袈裟な。回されてきた本を並べるだけだろ。

店員の思想が入ったラインナップの本屋って考えると怖いね。購入判断は客に任せるのがいいかも。

書店員思想信条表現の自由は別物と考えた方が良いと思う。

本屋意思を込めて本を選ぶべき(15)

“普段はどうしても忘れがちになるけど、書物を陳列することはとても思想的な行為だ”この言葉はかなり重く、深いと感じる。

ただ本を置くだけの思想のない街の本屋は遅かれ早かれAmazonに殺されるよ。

いやいや、物を売る人間には売る物の中身、品質責任を持つべきだと思うけどなあ。

週刊実話などに隣に置けば、多少は書店意志を示せると思う。

別に小売業自分の店先にに何を並べるかは好きにすればいいし、そのラインナップで自店のブランドイメージが決まると考えるのも間違いではないし。

図書館ならともかく、本屋で何を並べるかは自由だろう

自分本屋を営む人が自分思想で置くことを選ぶのは当然

書店私立から、「○○の本は置く(置かない)」という主張をしてもいいと思う。

本屋図書館と違ってどの本を売るか選ぶことができるけどね

何を置くかのスタンス一定であって欲しいかな。

別に思想信条で行動してみてもいいんじゃない

個人経営書店であれば思想表現を売り場でするのは構わないと思う

書店は置きたくない本を置かないことでしかその個性を出すことはできないのではないか。

リアル本屋さんは、「自分はこの本を売る」というスタンスをとらないと実質的amazonに勝てない。

取り揃えた本のライン本屋個性なのだから特定の本を並べない選択をしてもいい。

それ以外(103)

無言(153)



本屋意思なんか入れずにどんな本でも扱うべきってコメントが主流みたいだけど

??????????????????????????????

2014-08-26

1920~映画批判

1950~悪書追放

1980~成人漫画

2010~二次規制

漫画など文化への風当たりはだいたい30年周期で強まり一度表面化すると5年は続くようで

2014-06-17

先駆者としてのotsuneには敬意を払いつつも、この人のブログ面白いと思った事が無い。はてながまだ「オタクの読む物」「悪書」だと言われていた時代の人だ。当時のブロガー地位なんて今とは比べ物にならない。競争相手なんて(今と比べると)居ないも同然の時代なら、ちょっと本気で取り組めば何を書いても「斬新」で「一番乗り」が簡単に出来た。やりたい放題がそこそこ許された時代だったはず。(同じ理由でガンダム監督の人もそうだと思うんだよね。それなりにやりたいようにさせてもらえた時代であれば、今でも成功する人間は沢山居ると思う)

ただ、otsuneというクリエイター匹敵する人間存在しないのかといったら、多分、全然そんなことは無いと思う。「神様」と担ぐ理由って、別にotsuneに心酔しているからではなくて、ブロゴスフィア象徴であってほしいという、もっと利己的な理由じゃないかなと思う。

文化偉人は付き物だもんね。ブログにも歴史があるれっきとした文化なんだぞと、業界ぐるみでその雰囲気を盛り立てていくために、otsuneを利用してきたところはあると思う。

2011-08-28

http://anond.hatelabo.jp/20110828185456

まあそこはどこがラインかというのは物議を醸すところだろう。

要は「行為」のどこから刑法の対象になるかということで。「内心」である欲望が裁けないのは同じこと。「表現」も、たしかに「行為」の原因であったことを立証できない限り裁けない、ということです

また、だからといって『資本論』を裁くかというと、今でも見るべきところがある本だから、安易に悪書定義付けられない。

表現規制というのは、それほど重いのさ。

2011-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20110529133918

やさしく書かれた書物の欠点は、「自分が知らない事」の存在に気付けないことなんだよね。

ITに限らず、技術系では致命的で、そういうことを知らずに設計すると、取り返しがつかない(再設計の)場合もある。


前にちょっと増田で話題になった、高級言語なら失敗が減るって勘違いも似てる。

知ってる人間の助けになることは有っても、知らない人間を助けたりはしない。と言うよりも、そこを助けちゃいけない。

「難しいことが正しい」とは言わないし、ただ難解に書いただけの悪書も沢山ある。

だが、物事が簡単に見えるとしたら、どこかに誤魔化しがある。

その誤魔化しを「誤魔化し」だと説明していない本(判りやすいと賞賛される本)は基本、信用しないことにしてる。

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