はてなキーワード: 遷都とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220119/k10013437951000.html
ブコメから適当にピックアップ、ネタっぽいものは除外しました。
id:BigHopeClasic 積雪を妥協すると旭川マジおすすめ
軍都に選ばれた経緯もあり良さそう。
ただ、観光に行った真冬の夜にホテルの外に出て、本当に生命の危機を感じた記憶が…。
id:mitimasu 復興になる。
1000年の実績あるから良さそうだけど、歴史的建造物含めて土地がなさそう。
id:casa1908 象徴である富士山もあるということで
id:otoya_kyo 象徴である富士山があるのは山梨だが?
id:kumonoko 災害が少ない場所
id:edechang 日本の首都移転先は富士山より西側かつ内海で、新幹線と空港の両方がありつつも人口密度が高くないところが良いと思う。…岡山?
id:triciax 災害が少なく、新幹線の止まる
しかし、歴史を見ても選ばれることが少ないような。なにか理由があるのだろうか?
災害だけ考えるなら立川が現実的だけど、首都移転とは別の話か。
id:sds-page 首都機能だけ長野あたりに移せばいいんじゃね
実は、「日本の首都は東京である」という内容を直接的に定めた法律は現在ありません。ですから、たとえば「名古屋を日本の首都とする」という法律を定めても、矛盾はないわけです。
もともと、明治時代になって京都から江戸へ遷都したときは、天皇の詔勅(しょうちょく)によって東京が都であると決まりました。近代的な法律制度は後になって整備されましたが、戦前は詔勅が優先であったので、法律で首都を定める必要がなかったのです。
1868年、天皇が江戸を「東京」とする詔勅を発し、翌年に皇居を移した。
天皇が主権を失った戦後、1950年に定められた首都建設法には以下の文言がありました。
第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
しかし、この首都建設法は1956年に廃止されています。後を受けて成立した首都圏整備法の文言は、あたかも東京都=首都が自明であるかのようです。
明治政府は、東京遷都ということを公式には表明していない。宮中の公家や京都の町衆の強い反対を避けるため、政府は公式な位置づ
けをわざとしないまま、なし崩し的に東京遷都を実施したと言える。なお、明治維新の正史とも言える文部省維新史料編纂事務局編『維
実際の東京遷都は以下の三つの出来事を経て実施されたと考えられる。一つは、1868年(明治元年)7月17日の江戸を東京と称する
詔書の発表である。この詔書で「江戸ハ東國第一ノ大鎮」であり、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」とされている(写真1.参照)。二つ目
は天皇の東京行幸で、同年9月に行われた。この行幸はきわめて華やかに行われ、京都から東京までの道中では、沿道の民衆へ金品を下
賜するなど、新たな時代の天皇としての一大デモンストレーションとも言えるものであった。その様子は錦絵にも残されている(写真2.
3.参照)。天皇は同年12月に一旦京都へと戻るが、翌1869年(明治2年)3月28日再び東京へと行幸する。この時政府は、「東京城西
ノ丸ヘ御駐簾、依テ、皇城ト称ス」と発令した。『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』の著者である佐々木克氏はこれをもって
東京遷都としている。なお、この東京再幸の際には、新政府の中枢機関であった太政官も東京城内へ移されている。
https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/pdf/77/i_02_77_2.pdf
大正時代末期のことだが、九州の資産家であった港町の「太田家」が、高原町の旧家である「川瀬家」に2代続けて婿を送り込み、代わりに、太田家の根岸町の土地を川瀬家に与えたということがあった。太田家の婿は川瀬家の先代の婿が起こした養父殺し事件を隠してやったりもしている。
さて、1代目の「太田ナヘイ」は高原町に水力発電所を建て、戦争中には国策に従って国に譲渡して、戦後に早世した。2代目の「太田カクオ」は東京で陸軍士官学校の化学教授となったが戦後九州に戻って2年目に没し、元太田家の土地もおおむね没収されている。死因諸説あり、戦犯処刑だった可能性もある。もちろん2人とも苗字は「川瀬」姓になっている。おそらく太田家が、太田の名を使いたくなかったのだ。
3代目の「川瀬マツオ」は、カクオが没したあと家財を売りながら兄弟姉妹とともに東京に戻って大学を卒業し、国の研究所に勤めた。ところが、留学研修の前に牟田サエと出会ってしまう。サエは九州のある杜家の縁戚の娘で、戦争推進に励んでいたある大手キリスト教会の会員であり、かつ国営通信会社社員で、マツオが出入りする将棋クラブにいた(サエの父親は外務省の諜報員だった)。マスオは、奸計家で暴君のサエと結婚してしまったのちは振り回され、子の世話をさせられたり、おかしな弁護士を紹介され散財させられたりした。しかし研究所もきちんと務めたという。
そのマツオの息子は防衛族家系の娘と結婚したが、娘のほうはIT企業にいたところ不審な事故に遭って婚約者を亡くしたうえ、サエを介してトラブルに巻き込まれているようだ。
この話にはもちろんフェイクを入れたが、元日本ナチスの軍閥系家系に取りつかれた家の話ということになろうか。
なぜ川瀬家に取りついたのか不明だが、川瀬家は九州の家であり、近畿に遷都した皇族家系とは違うほうの旧家らしい。
しかし、何よりマツオとその娘が可哀そうだ。
邪馬台国には7万の家があったとされているから、その場所には諸説ある
ひとまず邪馬台国亡きあとに、大分・宮崎の範囲にあった豊日別(トヨヒワケ)は、十分な広さがあるので、ここだと仮定する
トヨヒワケ南部は日向(ヒムカイ、ヒムカ)だが、ヒミコの名に似ている
北部大分(オオワケ)は貿易港が発達しており海神の貴船神社や住吉神社が多い
つまり邪馬台国のヒミコは、ヒムカイの祖母山(天皇の祖母の山)あたりを本貫として、オオワケの海で貿易や漁業をしていたと思われる(玄界灘の伊都国も栄えていたが)
魏人は、伊都国からオオワケの別府(別の府)に着いて、おそらく温泉や船を試していたために、ヒムカイに至るまで「水行10日陸行1月」になってしまったので、距離ではなく日数だけ書いたんだ
1.神武天皇
2.綏靖天皇
3.安寧天皇
4.懿徳天皇
5.孝昭天皇
6.孝安天皇
7.孝元天皇
8.孝元天皇
実在する可能性のある初めての天皇。大物主神を祭り、疫病を治めた。武埴安彦の乱を鎮圧し、各地に四道将軍を派遣。戸口を調査し課役を課した。
愛妻が兄狭穂彦王の乱に連座し焼死する憂き目に遭った。伊勢神宮を建立した。彼の代に相撲や埴輪が誕生したとされる。
13.成務天皇
国郡県邑を定めた。
14.仲哀天皇
熊襲より先に新羅を討つべしと言う神託を無視したため、病没した
15.応神天皇
神功皇后の三韓征伐中に誕生。彼の治世に大和政権は国力を伸ばし、倭の五王讃と同一視される。八幡神として祭られる。
16.仁徳天皇
民の貧しさを嘆き3年間一切の税を廃した。好色であったため木崎の嫉妬に悩まされた。倭の五王讃と同一視される。
帝位を狙う住吉仲皇子に暗殺されかけるも、端歯別王(後の反正天皇)にこれを殺させ即位。国内情勢調査のため国史を設置した。倭の五王讃と同一視される。
18.反正天皇
身長3mで綺麗な歯並びの美男子であったとされる。倭の五王珍と同一視される。
刑部を定め、死傷の混乱を避けるため盟神探湯を行った。倭の五王斉と同一視される。
允恭天皇の皇子を暗殺して即位。大草香王を殺して妻を娶るが、その息子の眉輪王に殺された。倭の五王興と同一視される。
21.雄略天皇
眉輪王と履中天皇の子を殺して即位。渡来人を重用して王権を強化した。倭の五王武と同一視される。
22.清寧天皇
履中天皇の孫。父を雄略天皇に殺されたため、播磨に逃れたが、清寧天皇に迎えられ即位した。
25.武烈天皇
妊婦の腹を裂く、人を木に登らせて殺す等の暴君であったとされる。
慈悲深い君主であったが、朝鮮での日本の勢力が弱体化し、磐井の乱が起るなどその治世は乱れた。
30.敏達天皇(572~585)
任那復興を目指して新羅と交渉、国内では物部氏と組んで排仏運動を進めた。
初めて仏教を受け入れた天皇。その治世は物部氏と蘇我氏の対立が激しく、天皇の崩御直後に物部氏が滅んだ。
32.崇峻天皇(587~592)
34.舒明天皇(629~641)
35.皇極天皇(642~645)
女帝。在位中に乙巳の変が起きる。弟の孝德天皇に日本初の譲位を行った。
36.孝德天皇(645~654)
37.斉明天皇(655~661)
皇極天皇の重祚。阿倍比羅夫に蝦夷を討たせた。百済救済のため軍を派遣し、自ら九州に赴き現地で死去した。
38.天智天皇(668~671)
40.天武天皇(673~686)
甥の弘文天皇を倒して即位。八色の姓を創始、律令の制定、国史の編纂など律令国家の確立に尽力した。
41.持統天皇(690~697)
女帝。天武天皇の妃。夫の制作を引き継ぎ、飛鳥洗御原令を制定し、藤原京を造営した。
42.文武天皇(697~707)
大宝律令を制定した。
43.元明天皇(707~715)
女帝。平城京に遷都し、風土記・古事記を編纂、和同開珎を鋳造した。
46.孝謙天皇(749~758)
女帝。その治世に奈良の大仏が完成し、鑑真が来日した。藤原仲麻呂を重用したため、橘奈良麻呂の変が起きた。
47.淳仁天皇(758~764)
孝謙上皇が道鏡を寵愛すると、藤原仲麻呂と結託して乱を起こすが敗れ淡路島に流された。
48.称徳天皇(764~770)
孝謙天皇の重祚。在位中は道鏡の専横が激しく、宇佐八幡神託事件が起きた。
50.桓武天皇(781~806)
平安京に遷都。空海・最澄を登用した。勘解由使の設置、兵役の廃止など農民の負担軽減に努めたが、蝦夷討伐には財力を惜しまなかった。
ある日の暮方の事である。一人の少年が、原宿駅の跡地で雨やみを待っていた。朽ちた柱に蔦の絡みついた、いまにも崩れ落ちそうな原宿駅跡地は、その昔、若人が大勢集う、たいそう賑やかな駅であったという。かつてこの地は「原宿」と呼ばれており、商いで栄えていたそうな。今は広大な荒れ地が広がり、かつての栄華は見る影もない。少年は荒野の真ん中でただ一人きりであった。ただ、所々地面から、かつてのビル群の瓦礫が顔を出している。少年は雨が止むまで、その瓦礫を見詰めて暇を潰すことにした。あれは、セシルマクビー、ピンクラテ、そして…Q-pot CAFE。少年は歴史がたいそう得意であった。
何故原宿がここまで荒れ果てたかと云うと、七十年ほど前、東京には、疫病とか五輪とか不況とか云う災がつづいて起った。そこで人々は住まいをこぞって京都に移し、それに続いて都も移された。およそ二百五十年ぶりの遷都であった。人の消えた東京のさびれ方は一通りではない。荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。半グレがでかい顔をする。バニラの業者が日夜騒ぎ立てる。とうとうしまいには、行く当てのないジャニオタたちが夜ごとに集って、オフ会をしているという噂さえ立った。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。そうして七十年の時が経ち、いつしか「原宿」というと、平成・令和時代の亡霊が往来する呪われた場所としてひろく知られるようになったのだ。
少年も、ほかの大ぜいの若人と同じように、危ないので原宿には決して近づかぬよう、両親に硬く命じられていた。しかし、少年には原宿に来なければならぬ断固とした理由があった。病床に付している、かつて量産型女子であった少年の祖母が、「冥途の土産にAnk Rougeが着たい」と所望したのである。少年は、祖母が好きであった。特に、祖母のつけるジルスチュアートの香水の香りにつつまれて眠ることが大好きであった。その祖母が、いまはシンプルなアースカラーの入院着に身を包み、力なく微笑んでいる。入院着は、無印良品であった。少年は大好きな祖母のため、アンクルージュの服を見つけてくることを決意し、家をそっと抜け出してきたのだ。しかし、七十年も前の服を探し出すことは、とてつもなく困難であった。旧東京二十三区内を隅々まで探しても見当たらない。それもそのはず、量産型女子はとうの昔に、国の絶滅危惧種に指定されていたのだ。少年の祖母は、その数少ない生き残りであった。
歩き疲れた少年は、とうとう、禁じられていた原宿に足を踏み入れた。暗く、恐ろしい場所であった。荒野の真ん中にぽつねんと佇む原宿駅跡地には、多くの人の怨念が染みついているかのように思えた。少年は時計のある屋根の下に腰掛け、雨が止むのをぼんやりと待っていた。頭上には、どこからか集まってきた鴉が輪を描いて飛んでいた。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば、大好きな祖母は悲しみのうちに死んでしまうばかりである。尤も、痴呆の入っている祖母は、たとい思い通りの恰好ができたとしても、何もわからず粗相をして汚すだけかもしれない。しかし、心持の優しい少年は、祖母のエンディングノートに書かれていたことはなるべく叶えてあげたいと思っていた。手段を選ばないとすれば―少年は、そのあとに来るべき言葉の余りの恐ろしさに小さく震えた。「盗人になるよりほかに仕方がない」などというおぞましい考えが一瞬でも頭をよぎったことが、信じられなかった。しかし、一度心に生まれたその思想は、少年の心にずっしりと居座り、どうにも振り払うことが出来ずにいた。
それから、何分かの後である。マツモトキヨシ原宿駅表参道口店跡の辺りをうろつく人影が見えた。少年は、こんな場所にも人がいたのかと大そう驚いた。夕闇によく目を凝らしてみると、どうやらひとりの老婆が何かを探しているようなのである。この雨の夕方に原宿をうろついている人間は、ただ者ではない。少年は両親の忠告を思い出し、身震いをした。しかし、老婆が何かてがかりを知っているかもしれぬ。少年は立ち上がると、小雨の降りしきる中、恐る恐る、老婆に声をかけに行った。
「おばあさん、すみません」
老婆はゆっくりと振り向いた。少年は、振り返った老婆の姿を見て、その余りの恐ろしさに、顔をしかめた。桑色のシャツを着た、背の低い、痩せた、白髪頭の老婆である。右の手に黄色のビニール袋を持ち、左の手に、大きな紙袋を持っていた。紙袋には、けばけばしい装飾が施されている。見るとそれは、山田涼介のイッピ袋であった。
ジャニオタだ。少年は歴史の資料集で良く学んでおり、ジャニオタを知っていた。日本史の安藤先生がいうところによると、ジャニオタは四十年ほど前に最後の一人が観測されて以来、日本から姿を消したという。まさかジャニオタに、生き残りがいたとは。少年は、大そう驚いた。
「なんだい…」
老婆は唸るように呟いた。地の底から響くような、恐ろしい声であった。少年は勇気を振り絞り、老婆に尋ねた。
「お忙しいところすみません、すこしお聞きしたいことがあるのですが。」
「他を当たっとくれ。私は急いでいるんだ。」
「違います。探し物をしておりまして。
ところでお婆さん、そんなに急いでどこに行かれるのです。」
「ライブ参戦前にジャニショに行くのさ…ケンティーのオフショを買いにね…」
そういうと老婆は、うつろな瞳で前方をじっと見た。そこには荒野が広がるばかりであった。それを見た少年は、腹の底から寒気が上がってくるのを感じた。ジャニショ。それはかつてこの地にあった多神教の神殿であったと聞く。かつては多くの信者が通い詰めたその神殿は、しかし、原宿から渋谷へと拠点を移し、遷都とともに東京からもなくなってしまったと聞いている。全て七十年前の出来事だ。今となっては跡形もない。この老婆は、いまでもジャニショの存在を信じ、この場所をうろついている。うわさに聞くジャニオタの亡霊だろうか。少年の身体は恐怖に震えた。
「おや…お前は」
何かに気が付いた老婆は、少年の顔をじつと見詰めた。その濁ったうつろな瞳には、真っ黒なカラコンが不自然に張り付いていた。少年は後ずさりをした。
ええ、もっとよく顔をみせておくれ」
そう叫び声をあげると老婆は、少年の顔をつかもうとした。少年はきゃあと叫び、踵を返して逃げようとした。しかし恐怖からか足がもつれ、少年の体は地面に叩きつけられた。何とかもんどりうって逃げようとする少年に、老婆が覆いかぶさる。
老婆はうわ言のように呟きながら、少年の腕や顔をベタベタと触った。少年の恐怖心は、次第に、老婆に対するはげしい憎悪に変わっていった。二人は荒野の中で、しばらく、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。少年はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。老婆は細い体を大きく震わせ、肩で息を切りながら、ぴえんと泣き叫んだ。
「ファンに、ファンにそんなことをしていいと思っているのか。」
少年は老婆を見下ろし、吐き捨てるように言った。心のうちで、老婆に対する憎悪と侮蔑が、大きく燃え上がっていた。そうして、あることに気が付いた。老婆の纏っている布切れである。すっかり薄汚れていて気が付かなかったが、これはいつか歴史の資料集で見た、アンクルージュのフリルカラーチェックワンピースではないか。チェックの模様に、けばけばしいフリル。そうに違いない。それを見ると、少年の心にあるひとつの勇気が生まれた。それは、老婆に出会う前は決して存在しえなかった勇気であった。
「ファンにこんなことをして、貴様、アイドルとしての自覚が足りぬわ。」
「言いたいことは、それだけか」
老婆の話が終わると、少年は嘲るような声で念を押した。そうして、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「こんなことをする者は、ファンではない」
老婆はそれを聞くと、目をかっと見開き、呻き始めた。少年は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く瓦礫の上へ蹴倒した。かわいそうな老婆の周りには、胸元に大事に仕舞われていたしわくちゃの青い振込用紙がはらはらと散らばった。少年はそれを一瞥すると、薄汚れたワンピースをわきにかかえ、またたく間に原宿の闇に駆けていった。
しかし、嗚呼、何と残酷なことだろう。老婆からはぎ取ったワンピがアンクルージュではなくミオレミューだということを、少年は知る由もない。
その後、原宿にうろつく亡霊の噂は、はたと途絶えたという。
大河ドラマをきっかけにWikipediaを見ていて、室町時代・足利幕府の混沌ぶりと、その後始末をつけた戦国3英傑は日本を変えたと思った。本能寺の変は、その3英傑が生まれたきっかけだが、主たる動機・要因が分からない。明らかな後継政権による証拠隠滅が感じられる。真相が知りたくて仕方ない。
何とかこの原因を解明しないと、なぜ「東京一極集中」が肯定されるか分からず、少子化による人口減少を食い止める手段はない。東京は、徳川家康の街づくりの影響をまだ引きずっている。徳川家康を関東に追いやったのは秀吉で、秀吉の天下統一は、独裁の織田信長とその家臣が築いた基盤があったから。本能寺の変がなければ、ずっと信長の独裁政権が続いていたはず。
「地方創生」を掲げる地方出身政治家は、政治が小さな国単位だった織田信長以前に戻すのか、大きな国を維持しつつ、大阪・京都・滋賀(近江安土)・名古屋(尾張)・岐阜(美濃)のいずれかに遷都するか、諦めて関東(首都圏)・関西圏・中京圏に日本の全人口を集中させるか、どれがビジョンを示すべき。日本が一応統一され「大きな国」となったのは天正年間で、その時から残る天皇家と元号は何としても守らなければならない。
今後、確実に地震被害が発生するであろう関東にこだわり続けると経済的に終わるし、少子化改善しないと天皇家も終わるし、新型コロナを機に(たとえなかったとしても)、急激な人口減少によって日本人は消えゆく。滅びの美学だからいいのか。今こそ戦国時代の天下統一の影響下から抜ける機会。地方自治を目指すなら道州制(広域エリア制)に切り替え、目指さないなら完全にルール・条件は全国統一して欲しい。現時点で、Uber Eats未導入で、今後2年間に拡大予定のないエリアは、もう人が住むべき街ではない。地方は観光産業だけ残して解体してもいいでしょう。ただし、歴史のある神社仏閣・城その他の名所は残さなければならない。
皆さん騙されてはいけません。
私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事は歴史修正主義者が書いた悪質なプロバガンダ増田です。
順を追って訂正していきます。
後述しますが、冒頭から近世日本の歴史観の中で最も悪質なミスリードです。
大名は「定着せず」ではなく「定着させなかった」が正確ですし、「関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎」は極めて恣意的な表現になります。
戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。
この部分はある意味で正しいですが、重要な事実が省かれています。確かに日本列島内での大名間の大きな争いは起きませんでしたが、関ヶ原後の豊臣氏はかつて秀吉が行った朝鮮出兵を再開したのです。
石田三成が中心になって行われたこの出兵、いわゆる「元和の唐入り」は簡単に言ってしまえば外敵を作ることによる諸大名の結束を図るものでしたが、結果として成功を収めてしまいます。
朝鮮半島を支配下に置いた豊臣政権は、万暦の三大征で国力を失っていた明との間に戦わずして講和条約を結びます。その後朝鮮半島は現在に至るまで日本の領地となっており、そのため元和の唐入りは対外戦争ではないという風潮(沖縄や北海道みたいな扱い)が強いのは事実ですが、現代人に都合のいい歴史観ではないかという議論は存在します。
こうしてアジア大陸に進出した日本が当時の国際貿易において強い存在感を発揮し商業により発展していくのも事実ですが、ここでも重要な部分の言及が省かれています。キリシタン大名と南蛮豪商の存在です。
当初は秀吉のバテレン追放令を引き継ぐ動きを見せていた豊臣政権ですが、交易の重要性が増すにつれてキリスト教宣教師の活動を制限することに無理が生じていきます。またこの頃、日本での貿易事業で一旗揚げようとポルトガルやスペインから移住してきた事業家、いわゆる南蛮豪商が急増したこともキリスト教信仰の活発化につながっていきます。
政権はなし崩し的にキリスト教を認めていくことになりますが、そうした流れで力を付けていくのがキリシタン大名です。彼らは表立って政権や4大大名と権力争いをすることはありませんでしたが、着実に海外とのコネクションを強めていき、国内キリスト教勢力の強固な後ろ盾となります。
武士がいなくなっていくにつれて神道や儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない
冒頭の部分にも関係して、ここも悪質なミスリードです。たしかに武士の消滅と神道や儒教の衰退は同時期に発生しましたが、そもそもこの2つ事柄に直接の因果関係はありません。
しかしこれらが同時に発生したのには明確な同一の原因があります。それが前述したキリシタン勢力の台頭なのです。
政権の貿易政策とキリスト教の容認に対して、元よりキリスト教と対立していた朝廷はもちろん、元東軍を中心とする従来の武家社会に重きを置く大名勢力は当然反感を高めていました。これは感情的な部分だけではなく、元西軍派が中心となった貿易事業の利益を享受できなかったという側面もあります。
そんな中、細川家、井伊家を中心として天皇を旗印に政権を打倒しようとする動きが見られるようになり、寛文になる頃には挙兵寸前まで緊張感が高まっていたと言われます。しかし、そのタイミングで寛文近江・若狭地震が発生し、天皇の住む京都も大きく被害を受け、挙兵どころではなくなってしまいます。
それに対してすかさず政権が取った対応は、表向き地震被害からの避難を理由にした江戸への遷都(寛文の遷都)でした。遷都といっても移ったのは天皇の住まいと形式上の朝廷の機能だけで、政権の機能は大阪を中心とした関西圏に残ったまま…つまり政権は目の上の単瘤だった朝廷を体よく遠ざけた形になります。元東軍はこれに乗じて江戸に集結・再度の挙兵を試みますが、キリシタン大名による牽制や南蛮豪商による経済的な妨害もあり叶うことはありませんでした。この頃から旧来の武家勢力や神道信仰は急激に衰退していくことになります。
ではこれで豊臣政権やキリシタン勢力の共同支配は盤石のものになったかといえばそういうわけでもありません。形式上の都である江戸やその近辺の関東では都野伏(みやこのぶせり)、隠れ神道といった形で反南蛮の勢力が生き残りつづけます。そして18世紀入ってしばらくした頃、天皇を不可侵の元首とする「大和帝国」として独立を果たします。その後も色々ありましたが、現代において大和帝国はの国際社会にも認められた独立国家となっています。そういう背景がありますので、現代日本の領土として残っている関東地方には「ほとんど人が住んでいないド田舎」という表現が当てはまりますが、関ヶ原当時の関東地方の大部分は現代においては大和帝国の領土となりますので、そこを隠すのは悪質で不誠実な表現であると言わざるを得ません。