はてなキーワード: 自己肯定感とは
むしろ俺が完全にこのタイプで、自分のやりたい事・目標のために実績を積み上げて、転職だとかでステップアップして自分の想像を超えるような世界まで持っていってるんだけど、自己肯定感は全然ない。こんなんじゃダメだあれも出来ないこれも出来ない、と常に感じる。
それだけのことで自信満々になれる人ってどういう思考過程なんだろう?
この記事を読みました。
http://bokurasha.hatenablog.com/entry/2014/04/01/115953
「当然男子の方が自己肯定感が高かった」という部分に衝撃を受けました。
なぜなら生活満足度も幸福度も、男性より女性のほうが高いのです。
男性のほうが生きやすいというデータもあるので、大学生に限っては女性のほうが男性より自己肯定感が高いのかもしれません。
そうした現代女性の悩みの多くが対人関係であるのも、そのとおりなのでしょう。
しかし、自己肯定感が低いことは日本人全体の問題であって、女性特有の悩みではありません。
ぼくら社Blogさんは人材業界にいらっしゃるということですが、女性の割合が多い業界です。
もしかして女性労働者を監督する立場から、意識の高い考え方に縛られてはいないでしょうか。
「自己肯定感が低い」のは同調圧力が強くて生きづらいこと、また建前と本音が矛盾していることが原因です。
「先進国の女性らしく働きたい、けれど専業主婦にもなりたい。」
「男性に大切にされたいが、結婚前のパートナーとは気軽にお付き合いしたい。」
高度成長時代を経て女性の権利は法整備されましたが、男性同様に働きたいという人がいる一方で、女性らしく生きたいという人も多く、女性の意見がまとまらない現状があります。
ぼくら社Blogさんの考え方には、女性の教育に対する不公平感、それが良いことでも悪いことでもあるのに、女性だけが不利な立場にあるという思い込みがあるようです。
女の子、女らしく、良き妻、といった固定観念は、そのまま男性にも、男の子、男らしく、立派な夫、というように対称的に存在します。
「お母さんの愛情を過多に受け、お母さん大好きなマザコン男性がはびこる日本」というのは、不幸な男性もいることについては想像できなかったのでしょうか?
高度成長時代の母親が教育に迷っていたというのは、家族観の変化が激しい時代だったのでそのとおりです。
日本の教育が迷走しているのは「母親」に限ったことでも、被害者は「女性」に限定されたものでもありません。
娘や息子が未婚のままで、母親が人生を嘆くというのも、ごく自然な光景でもあります。
と嘆いているのは、娘の母親だけではありません。
男子は「勉強」か「スポーツ」どちらか頑張っていれば、競争社会に適応できると判断され、良しとされてきた、と書かれていますが、その反面、男性のほうが競争が激しい面もあるのです。
引きこもりやニートに男性が多いのは、そうした背景があるからです。
男性のほうが成功体験、安心体験に繋がり、「自己肯定感」という分野においては、傷を受けづらかったというのは読み間違えているのではないでしょうか。
母親が「男の子だからしょうがないわ。」とスルーできた場面があれば、「女の子だからしょうがないわ。」とスルーしていた場面もあったのです。
「母親から愛されていると感じたことが無い。」という女性が多いというのは同意しかねますが、上から目線で「それでも私たちはそろそろ、母親を許しませんか?」という提案で本当に幸せになれるのでしょうか?
家族というものは許す許さないに関係なく、続いていくものです。
母親の教育が間違っていたのだと被害を主張するのではなく、もっと身近な幸せにつながることを模索したほうが現実的だと思います。
「容姿に恵まれとても魅力的だったりする人」であろうと、そうでない人であろうと、男であろうと女であろうと最低限の幸せが得られる社会が望ましいはずです。
どれだけ努力しても出来ない
無理に努力しても
これだけやっても自分を変えられない自分はなんてダメなんだろうと思うだけだ
よしんば何か成し遂げても、もっと凄い人間が沢山、当たり前に居ることに絶望する
自分は世界で一番下らない誰からも嫌われる必要のない人間だ思って生きていけばいい
開き直ればこの世は地獄だけど、それなりに楽
心が死んでもとりあえず生きていけるよ
生きてる意味は無いけど
http://anond.hatelabo.jp/20140322221024
自分では虚言癖だと思っていましたがみなさまのコメントによると違うようで、素人判断で書いてしまい申し訳ありませんでした。
親から虐待を受けていたこともあり、未だに他人の顔色を伺ってしまう癖があります。
断れない性格です。自己肯定感は低いと思います。相手の期待に応えようとしすぎる癖もあります。
しかし結婚や交際については相手から迫られたわけではなく、自分から話を持ちかけています。
相手の気持ちを先読みして話しているのかもしれません。無意識にそのようなことができるのかわかりませんが。
ずっと夢をみているような感覚で、自動的に話したり動いたりする自分をガラス越しにみているような感じです。
実際に話していることと考えていることが全く違っていて、重度の嘘つきだと思っていましたが、一度病院へ行ってみようと思います。
まぁ、それが実際に死につながるのかはよく分からない、というか多分こんなふざけた文章書くような人間が死ぬことはないと思うのだけれど、とりあえず「死にたい」という気持ちはあるので。
「死にたい」なんていう気持ちは、自分が大嫌いな人間がなるもの、だから、自分が大好き、自分が他の何よりも一番大事と思っている僕が、そんな「死にたい」なんてことを思うわけがないし、実際これまでもそんなことはほぼ思わずに生きてきたわけだけれど、最近、その「自分が大好き」であるということが、むしろ「死にたい」という気持ちに結びついてきてしまっているのです。
原因はまぁ簡単で、人生で初めて正社員として働き出したんですよ。ずーっと親のすねかじりながらブラブラしていたんだけれど、とうとう親から「もうお金は出せない、就職しろ」と言われて、就職したわけ。
そしたらまぁ、これはもう普通の社会人なら20代前半で経験していることなんだろうけど、注意されたり、お前は間違っている・怠けている・だらけている・残念だとか言われて、自分を否定されることは多々あるわけです。
で、普通の人間なら、あーそうか自分はダメな人間なんだなと思って、否定を謙虚に受け止めて、ダメさを指摘してくれた人にむしろ感謝なんてこともしたりすると思うのですが、何しろずーっと自分が大好きで、自己肯定感だらけの人間だったものですから、その否定を受け止めることができないんですね。注意されたら直せばいいのだけれど、その直すということが許せない。なぜなら、注意されて自分を直すということは、その直される自分を否定するということなわけですから、そんなことが自分を肯定している人間に出来るわけがない。
しかしそれを直さないことは、学校とかとは違い仕事の場では許されない。さらに言えば、学校という場は期限付きの場所だったけれど、仕事というものはこの先一生付き合っていかなければならない場所なわけです。例えどんなに出世したって自分に命令することによって自分を否定してくる人間は、常に存在し、そしてそういう人間からの否定を受け止めて成長していくことが、この常に成長を義務付けられた資本主義経済というシステムの中における仕事では、絶対に必要とされるわけです。
もう、自分を大好きな人間が、そんな場所で生きていけるわけがないでしょ。そんな世界で生きれば生きるほど自分という人間は否定され、汚れを背負わされるわけですから。逆に言えば、死んでしまえばそんな汚れを一切背負うことなく、この自分を好きな自分が、好きな自分のままで、自分を否定すること、そしてそれを許すことを認めるようなメンタルの汚れを身につけないままで、死ぬことが出来る。だったらもう、死ぬしかないんじゃない?と、そんなことを考える、今日このごろなのです。
といっても実はこれはそんなに特別な感情ではないし、むしろ近代においてはごく自然な自殺の類型とさえ言えるわけだけれど、デュルケームなんかは『自殺論』の中で、まさしく「自己本位型自殺」という、自分のために死ぬという自殺の類型を挙げているわけだから。
だから、こんな所にわざわざ文章を挙げる特筆性は、全くない。ただそれでも、なんかこう、書きたくなったから書きました。どうぞ、ご笑読下さい。
http://gesusu.hateblo.jp/entry/2014/03/10/024102
日本の腐女子の中には「私たちは異常だから隠れるべき」という理屈で自重する人たちも多いようですが、「思いやり」という名目で女子だけが自重していないか。
あなたがたが全てを振り切って、ご自分の「萌え」を大切にされるのも結構ですが、それが社会から許され好意的に受け入れられるときが来たらいいのに、なんていう期待は持たないでほしいです。自由に好き勝手に萌えるというスタンスを保ちながら異性にも受け入れられたいなんていう理不尽な期待を持たないで欲しいし、萌えの対象となるアイドルから好感を持たれたいだなんていう理不尽な期待も持たないで欲しいです。そもそも、その期待が相当に理不尽であることをちゃんと理解して欲しいです。
別にアイドルオタクだけを叩きたい訳じゃありません。むしろこうした無理解はリア充の間にもナチュラルに蔓延しています。「仲人欲」みたいなものです。安定した関係の恋人や配偶者が居るリア充は、恋愛面でヒマになってしまい、刺激に飢えています。だからといって浮気をすると、恋人や配偶者との安定した関係を壊すことになってしまいます。その結果、恋愛していない知人を探し、世話を焼いてくっつけようとするのです。この種のリア充は恋愛相談を受けるのが大好きです。「恋愛上級者な頼れるオレ・アタシ」を実感するのが大好きです。そして片思いしている側から相談を受けることで、片思い側に共感したり入れ込んだりし過ぎて、片思われている側の感情を完全に無視するようになってしまいます。「オレ・アタシの手助けによって結ばれて幸せになった二人」というハッピーエンドなストーリーが頭の中で描かれているため、片思われている側が「嫌です」とでも言いだそうものなら、片思われている側は即座に悪者です。
萌えや妄想は脳内の好き勝手なものであり、対象の意志を完全に無視したものです。前段落で書いたリア充の話は私の実話です。ある男性が私のことを好きであると既婚リア充男性に相談したため、既婚リア充男性の仲人欲が炸裂し、私の意志を完全に無視してくっつけようと策を巡らせて来ました。高いコミュ力があるため周囲を巻き込むのも上手く、周囲から「お似合い」「応援してるよ」と言われて逃げ場の無い状態になりました。コミュ力とは空気を作る能力だと思っています。彼は、ノーと言えない空気を作るのが本当に上手かったです。私の意志は無視されました。まさに恐怖でした。私はその趣味のコミュニティから逃亡しました。
日本では実在の人物をネタに同人活動をする際は所謂「生モノ」として本人はおろか同じ嗜好の人ですらなかなか探せないくらい他人の目に触れさせないためのあらゆる手が尽くされますが、中国のユンジェ信者たちは、ジェジュンがいない東方神起のコンサートでユンジェの垂れ幕を掲げたりしてやりたい放題でした。
全面的に肯定はできませんが、私はこの自分の欲望に素直なアジアの女子たちのパワーが大好きです。日本の女子よりも自由に見えるからです。
この本人の意志を無視したやりたい放題な振る舞い、私が実害を被った「他人の感情を思うままにコントロールしたい欲求」を思い出してゾッとします。日本の腐女子が生モノ萌えを自重する感覚は人として正常です。相手を意志ある人間だと認識していたら、本人の目に触れないよう自重します。二次元の場合は対象が存在しませんが、せめて原作者には配慮すべきでしょう。「萌え」は対象の意志を踏みにじっているのです。踏みにじられてニコニコしていられるのは「ファンって所詮そういうモンだよね」「妄想をぶつけられるのが商売みたいなもんだからね」「それで食っていけてるからね」という諦観があるからで、対象の精神がかなり大人だから受け入れられているのです。リップサービスに過ぎません。自分の意志を無視されて、寄ってたかって妄想を一方的にぶつけられるのが「心からの幸せ」だなんて人は、自由意志や自己肯定感が完全欠落した病人だと思います。心療内科に行った方がいいのではないでしょうか。
アイドルに萌えることを否定しているわけではありません。恋愛相談に乗ることを否定しているわけではありません。しかし、対象の意志を無視して好き勝手な行動を取ることを「自由」と正当化し、許されることを期待するのは異常で理不尽な要求だと思います。少なくとも私には到底受け入れがたいですし、そうした人格が歓迎される時代など永久に来ないと思います。
タイトルは半分釣り。診断やカウンセリングを受けたわけでもないし、そもそも自分の状態に気付かない、認めないのがこの人格障害の特徴らしいので。「少なからずそういう傾向を持っている」位に捉えて読んで欲しい。
気付いたきっかけは、入って1年ちょいの職場で孤立し、完全にどうしようもない状態になったことだ。ショックだったのが、あることをきっかけに、「突然」周囲の態度が変わったこと。つまり、前々から自分の仕事ぶりや態度が先輩・上司達の間で大問題になっていたのに、自分はそれにまったく気づいていなかった。
転職してから、仕事がまったくできない、コミニュケーションも上手くとれないというのに悩んではいた。発達障害、ADHDを疑ったりもしたが、まさかあそこまで嫌われたり、実際に処分が下されたりするほど自分がダメという認識はまったく無かった。
自分でも違和感を感じたのは、完全にどうしようもない状態に追い込まれているのにも関わらず、どこかで「まだ自分は大丈夫」という気持ちがあったこと。言葉を換えれば、悲惨な状況なのに妙に自己肯定感が高いのだ。流石に自分でもおかしいと思い、自分のこれまでの仕事ぶりをなるべく「客観的に」振り返ると、
・「直接怒られていないから」このままでいいだろう
・入ったばかりなんだからダメでも許してよ!サポートしてよ!でも自分の仕事以外はやらないよ!できないから仕事覚え悪いけど許してね!努力は(ちょっとだけ)してるよ!一応悩んでんだよ!悩んでるとこ見て!
根本にあるのは、自分がどんなにダメでも受け入れられるべきだという幼稚な自己愛と、誰かがなんとかしてくれるだろうという醜い他者依存性。ここまで書けば分かると思うけど、「気付いてなかった」「認識は無かった」と前述したのは、気付かないふりをしていただけなのだ。気付かないふりをすれば自己愛の中では無かったことになるから。自己愛な思考サイクル(と勝手に名付けた)の中では自分は絶対に悪者にはならないのだ。だからこの状況下でも自己肯定できる。こんな状況になったのは俺も悪いけど、周囲もちょっとは悪いよね、とか。最初に発達障害を疑ったのも「自己愛性」ってのがあまりにもかっこ悪いから無意識に否定していたんだ、今思えば。自己愛な思考サイクルの中では、「自ら動かない」「仕事しない」理由がどんなにちっぽけなものでも正当化され、自分に都合の良いように脳内変換される。守りたかったのは小さな自分のプライド、失ったものはものすごく大きい。
自分は「過敏型」に該当しそうだ。自分では傲慢な態度をとっているつもりはないのだが「偉そう」と言われたこともあるので「混合型」かも。家族に女に甘やかされ甘えて、自分を顧みることをしなかった結果こんな人間になってしまった。
治せるんだろうか。
こわい。
生活保護受給者って居留守するんだね。人と関わらないからノイローゼになるのか。孤立するのが問題点なのか。おれにとっては最高の環境なのに。人と接することは嫌だよね。特に生きていることに引け目を感じていると。談笑しながらメシを食ってみたいか。俺がそういったものに執着していないのはそんなものが大していいものではないと体験しているからなのか。だとすれば俺はなかなかに恵まれている、特に孤立に対しての耐性があるという点では。布団にくるまったまま死ぬって一体どんな状況なんだろう。人が死んじゃうってそんな簡単なことじゃないとしても、簡単に生まれるから問題なんだろうな。孤立死は緩慢な自殺。自己責任論は社会無責任論というのは分かりやすい。自己肯定感の問題はなあ。なんともいえない。俺もそうだし、まったく自己肯定感が育っていない。self-esteemの問題ってなかなか分からない。社会との接点を見つける。稼働年齢層に働けっていうのは至極最もだと思う。物質的に充実していていれば、俺はほんとにもう黙っとくんだけど。生きづらさの臨界。愚痴が言える相手がいるってのが必要なのか。それこそ自分で作ってろよと自己責任論に転化されそうな条件に思える。コメントを見ても。貧困はお金がないってことじゃないにしても、俺にとってはお金がないことなのでお金が欲しい。しっかし、そうしてみると俺はお金さえあればいいんだから、運が良かったら人生まっとうできるかもしれないね。働きたくないでござる。人の役に立ててることが幸せの条件の一つ。人の役に立てなくてもダラけた生活ができればいいのだが。俺は自己責任論者にスルーされるくらいに見せかけの努力をでっちあげる必要があるな。それさえできれば、本当に俺は人生を手放すこともないかもしれないのに。
俺も東京に行きたい。東京に住みたい。地下鉄の階段にホームレスの巣窟がある。完全個室になっている段ボールがあって面白い。段ボールを持っていない人もいる。寒いだろうに。4時になったらシャッターが上がるのか。最大でも睡眠時間5時間くらいしかとれないのか。新宿中央公園で炊き出し。若者のホームレスが増加って、30歳が若者扱いになるのか。建築関係の派遣社員はきっついだろうな。俺も同じ境遇だからよく分かる。ネットカフェで寝どまりは騒音問題があるから俺には無理。残金が6円。こぎれいなホームレスだけどダサい。生活保護で8万円。低いね。簡易宿泊所を住所指定して生活保護を受給しているらしい。ヨシオ、ハローワークに仕事探しをしているフリをしにいく。生活保護のための実績作り。これ、叩かれるやつだ。都営のパス券も生活保護で貰えるらしい。炊き出し行脚なんてあるんかい。一月8万6千円。軽快なBGMでヨシオがサングラスを購入。くそダサい。センスがない。俺も叩きたくなってきた。エスニックレストランに行くヨシオ。1000円。まあ普通の値段だね。ヨシオこれによく出演したな。「生活保護は小遣い」っておいおい。そういう方向性の番組だったのか、これ。ヨシオ、すっごくチビ。次はコウジ。不況が悪いわけではなって。自分が戦うのは自分自身……あーこういうやつね。コウジ、背が高くてシャキッとしている。パチンコの清掃か。まあ楽ではないと思うけどあんまり精神はすり減ることはなさそう。つーかみんなスーツを着てホームレスやっているんだ。対極的な二人を見せるって番組構成だったのか。衝撃のラストwwwコウジが声優になってコブクロが流れたwwwwwwwwwwwwwwwwwなんだこれwwwwwwwwwwwwwwwヨシオがただのクズになっちゃうじゃねえかwwwwww
私は自己肯定感が弱い。
小さな小さな子供の頃には無邪気にそんなことは気にせず生きていたはずで、いつからこうなったのかは定かではない。
しかしち○こが小さいとか、顔が脂ぎっているとか、手汗や脇汗が酷いとかといった身体的な後天的な悩みや学歴、自分でも自覚できる話の浅さ薄さつまらなさ、鳴らない電話が物語る交友関係、人としての器の小ささなどが、より弱くしているのは間違いない。
まずは自己肯定感が弱いとどういう症状で苦しむのかお話したい。
たまには考えたり思い出したりする、あの時はこうだった、ああだったと自分の過去を。考えるだけでつまらない。
つまらないどころか、そのうち後悔や恥ずかしさばかりになってしまう。
普通の人の「あの時は楽しかったな」が「あんなことしなければ良かった」に変換される感じだろうか、そもそも思い出すのが嫌なことばっかりなのかもしれない。
自己紹介から、ランチでの他愛もない会話で繰り出される「休みは何してた?」から、果ては業務の報告まで、自分にまつわるエトセトラを自分の口から語るのがとことん苦手である。面接での自己PRなんかは地獄である。
ただ苦手というだけではない、汗が出る。それも大量に。
心からつまらないと思っていることをさも価値が有る様に話さなければならない苦しみ、案の定つまらなかったというリアクションを頂いた時の苦しみ、四苦八苦に加えて欲しい苦行である。
その人が面白いとか面白くないとかいい人悪い人関係なしに、「俺が俺が話」とか「俺さんスゲー話」とか「俺さん可愛い話」とか「俺さんイケてる話」を聞くと、あまりの気持ち悪さにいらっとする。
まったくもってこちら側の一方的な都合で申し訳ないと思いつつも、決定的に辛い訳ではないその感情を抱えながら会話を継続するのは結構しんどい。
どうしてそんなに自分に自信が持てるのか、自分を肯定できるのか、自分の行いにうっとりできるのか、一度心ゆくまで問い詰めてみたい願望に心を奪われる。
成功回避欲求とか敗者の脚本と呼ばれているらしい。(http://2chcopipe.com/archives/51559636.html)
後から振り返ってみると潜在意識が悪い方悪い方へと導いている気がしてならない。
最初は失敗を喜ぶ悪魔が住み着いていると思ったがどうやらそうでもないらしい。
恐らく正しい選択の結果に得られる成功体験に耐えられない精神を守るために、潜在意識が制限を掛けているのだろう。云わば幸せの総量規制を忠実に守っているようである。
巷間では承認に対する議論が喧々諤々である。最近ではスラングの一つとして立派?に機能している。
かつては私も他者からの承認が欲しくて欲しくてたまらなかった。自己肯定感の弱さを他者からの承認で埋めたかったのだろう。
まだ若かった頃には今ほどインターネットも普及してなくてSNSなんかまだなかった時代、コミュニケーションと言えばガラケーによる通話やメールだった。
そして私もガラケーを持ったものの、着信音が鳴ることは滅多になかった。
当時のガラケーは通話とメールぐらいしか機能がなかったし、i-modeはパケット代が恐ろしく高い代物で、そのくせたいした情報は得られなかった。
プリインストールされているゲームもすぐに飽きてしまえば、結局残るのは通話とメールだったが、鳴りもしない物に良くお金を払っていたと思う。いつか鳴る日が来ると信じずにはいられなかったのだろう、本当に残念だ。
しかし承認を渇望していた思春期時代が、現代の始終繋がっていることが当たり前の時代と重ならなかったことには少し感謝している。本質的には変わらないだろうと思うけれど、情報伝達の早さと広さを考えると往時より受けるダメージは大きく余計に心を擦り減らしただろうと想像できるから。
今のところ昔に望んだような他者からの承認はまだ得られていないし、この先も得られることはないだろう。
それなりに折り合いをつけて、こんなもんだろうと思えるようになったし、今さら電話やメールがやたら鳴っても面倒でしょうがないし、捌けるスキルも無い。
誰しも若い頃に適量以上の酒を無理に飲んで酔い潰れた経験があるだろう。そんな経験をするうちに自分の適量が分かり、それ以上を欲しなくなる。
今頂けている、ほとんどゼロに近いような承認の量が私には適量なのだろう。それ以上を欲することもなければ鳴らない電話を見ても当たり前の風景に何も感じなくなった。
それでも他者からの承認が欲しくてたまらないならば「承認に足るほど努力できる何か」を見つけ努力することを考えた方がいい。
何もない人には誰も承認してくれないし、例え承認されたとしてもただ空虚なだけで、あなたが望む形の承認ではないだろう。
あなたが望む形の承認を得るには、承認を得たい相手と同じレベルになる必要がある。
努力が実り多くの人から承認されるようになった暁には、きっと求めていない承認に頭を悩ませることになるだろう。
しかしその悩みを乗り越えて、是非とも承認する側に回ってあげて欲しい。他者を承認する資格があるのは他者から承認を得ている人だけだから。
そして世界中の被承認の需要は供給を遥かに上回っているのだから。
この世は人の心を圧し折るには充分すぎるほど不平等で不条理で不合理で、持っている人は与えられてさらに豊かになり、持っていない人は持っている物まで取り上げられる仕組みになっている。
いや、よくわかんないけど、ネットでは同じような連中で集まってるからそこで個性にならないだけで、
3次元でもapple信者が集まればそこでは個性にならないわけで。
いったい何がしたいのかわからん。
自己肯定感が低い、って、
それを周りが認めてくれない、ってだけにしか見えん。
例えば、友だちと遊ぶときに、映画みたい、って言っても友だちはカラオケ行きたいから否定する、みたいな話だとまた全然違うし。
仕事上でなら、只管否定だけする上司、みたいなのも居るだろうけど、
大概の場合はそれまでの行動から評価されてるだけの場合が殆どで。
今までずっとそういうことを感じてきたなら、それはどこに原因があるか分かるようなものでしょう。
・勉強はできるけど、みたいなこと言われる。
例えば、こんなことも、東大まで入れば例え言われたとしても鼻で笑って返せるだろう。
(もし、ホントに勉強だけできる屑なら知らんが、ただただ、周りがやっかみみたく言ってくるだけのことなら、ね。)
・過去の失敗を笑われる。
どういう状況だかわからないけど、貴方が話すときに、笑ってもらうように話してる、と勘違いされてる可能性は?
真面目に相談したりしてる時に、相手がばかにするように笑ってるだけ、というなら、それは相手が悪いとしか言いようがないけど。
自己肯定感が低いのは分かっている。
小さいころから面と向かってではないけど否定されて育ってきたからかも知れない。
・勉強はできるけど、みたいなこと言われる。
・過去の失敗を笑われる。
このようなことがあって、恐らく自己肯定感が低いのだと思う。
自己肯定感という言葉を知って今気づいた。そしてこれまでの自分の行動原理が理解できた。
私は今まで親に認めてもらいたくて今までいろんなことを頑張ってきたのかもしれない。
勉強、部活、恋愛など親に認めてもらいたかったのではないか。今書きながら変な感情が沸き上がっている。これはなんだ。
子供みたいな行動原理で動いていた、幼稚な自分が恥ずかしいという感情なのかもしれない。
否定したい。これまでの頑張りは、自分のためだと胸を張って言いたい。これまで決めてきたことは、自分の将来のことを考えて自分自身で選んできた道だと胸を張って言いたい。
だけど、言えないと思う。
そんなしょうもないことに縛られてきた自分が恥ずかしいし抜け出したいけどどうしたらいいのかわからない。
そんなしょうもないことのために頑張ってきたのなら俺の人生は何だったのだ。
誰かボクのことを理解して欲しい。
わかってほしい。
そして認めて欲しい
受け入れて欲しい
こんなことばかりが頭に浮かんでくる。
これも自己肯定感が低い証拠なのか?だれか助けて。誰か理解して。
例えばアフリカに多額のODAをぶちまければ、そこの政府権力者は日本になびくようにはなるかもしれない。それで、資源や利権を買い取るわけだ。札束でほっぺたしばきに行ったということだ。
当該国の政府権力者からすれば、開発が進み、また現地の産業が進んで、支配体制を正当化するかっこうの口実になる。
だが、それではたして、当該国の格差は縮まるのだろうか。民主化は進むのだろうか。むしろ、ODAをぶちまけることは、当該国の格差を容認することを意味するのではなかろうか。
プラントを建てるのにしても、紅茶やコーヒーをプラントするのと同じように、権力者が多額の収益を得て、労働者は搾取される。その構造は中東の産油国を見てもわかるだろう。
実際にいままでも日本は多額のODAをばらまいてきた。だが、それで例えばアフリカは豊かになったのだろうか。
むしろ、ODAは費用対効果が低く、日本企業が居て道路でも敷いている間はいいが、いなくなった途端にボコボコになってムダになる。例えばソーラーパネルを設置しても、壊れたら放置される。
端的に言ってしまえば、多額のODAをつぎこんで道路を敷いたりプラントを建てたりするのは、ゼネコンなどの日本企業に対する公共事業を海外に輸出するということだ。国内で費用対効果の低い公共事業をやると「ムダだ」といって速攻非難されるのに。
いわゆる「バラマキ」の典型で、しかも一般庶民に対してゆきとどかない、格差是認型のバラマキだ。ばらまいたカネは、一部の者たちにしか還流しない。当該国の権力者は、カネをくれるスポンサーになびいて、自国の市民をかえりみなくなる。
それでも、札束で外国をしばいて、いいカッコして、そりゃあさぞかし気分のよいことでしょう、自己肯定感の足りない卑屈な「愛国心」が満たされることなのでしょう。
ヒトは社会的動物であり、ほぼすべての人がなにかしら他人と関係して生きています。他人と関わろうとするのは生存本能です。
他方で、過去の危険体験の繰り返し(もしくは強烈な危機的状況)によって学習する本能もあるわけで、他人が危険だと学習すれば、他人と関わるまいとする学習的行動が起こります。言い換えれば、恐怖です。
そのふたつの背反(アンビバレンツ)、いわゆる葛藤(コンフリクト)が、苦しみになります。
ちなみに、他人と比べようがないけれど、私の境遇もやはり不幸なもので、産まれる前からずっと他人から危害を加えられてきました。
「幸せ」というのは、「して・あわせる」というわけで、つまりは与えられた境遇ですから、「不幸」とは適切な居場所がないということだと思います。「責任感をもたなくていい」だとか「努力しなくていい」だとかは決して言いませんが、同時に、客観的にみたら、不幸だからしかるべき思考行動形態をもってしまうわけですし、ときに他人を殺傷してまで苦境をぶち壊そうとする発作的衝動が現れるのでしょう。「自由意志」「自己責任」を強調する多くの人間は、比較的恵まれていながら、他方で自己肯定感が低くて僻みがあるのでしょう。
ここまで言ったところで何も解決するわけではありませんが。私自身も、虐待やイジメやパワハラ、セクハラ、ストーカー被害など各種犯罪被害を受けてきたし、いまでも殺人犯に怯えながら暮らしていますから。日常社会生活もままならないし、精神的にも滅入ってしまってかなり重度の精神障害になりましたが。私の死んだ母親も、生前はボロボロで、入退院を繰り返し、多量の投薬でフラフラで意識朦朧とした常況にあって悲惨でしたし。私も母親と似たような道を進んで死ぬのだろうなあという気がしています。
「女は産む機械」って発言したら袋叩きじゃん。でもさ、「男は仕込む機械」って言ったところで全然叩かれないじゃん。どう考えても男女平等じゃないよね。歪んでる。狂ってる。卑怯。差別主義。人権侵害。人間じゃない。
これと似たようなことで、「男は女を性欲を満たす道具扱いしている」ってヒステリックに叫びまくる女はいっぱいいるよね。でもさ、実は女の方こそ男を道具扱いしてんだよ。
女は何であんなに恋愛の話が好きかわかる?
それはさ、恋愛そのものが女コミュニティの中で強力なステータスなんだよ。男コミュにおいても恋愛にはそれなりの価値があるけど、女コミュにおいてはずっと強力。女は「恋愛している自分の方が上よ」と主張することで女社会ヒエラルキーの上に立てるの。男なんて恋愛をするための道具なわけ。アクセサリーなわけ。
いい男であればあるほど、見せびらかしてて楽しい綺麗なジュエルってわけよ。
男なんて見せびらかして闘争欲求を満たすための道具にすぎないの。そう、「女は男を闘争欲求を満たす道具扱いしてる」んだよ。え、お嬢さんがたそんなことないって? よーーーーーーーーく自分の内面を見つめて考えてみ? そしてよーーーーーーく今までの人生における、恋愛状況と女コミュでの立ち位置を見直してみ?
まあ、女に限ったことじゃないんだけどさ、男よりかずっとこういう傾向が強いの、女は。個人差もあるから、局所的なサンプルでは違うことも多々あるだろうけどね。でも無視していい程度の偏りじゃない。あとさ、「性欲を満たす道具にしてる」っていうけど、男に性欲を満たさせるかわりに女だって同時にある欲望を満たしてんだよね。まあ、承認欲求なんだけどさ。
わかるっしょ?
「こんなに男を虜にしちゃって、あたしったらなんて素晴らしい、素敵な、グッドな、なんて価値のある女なんでしょう、きゃっきゃっ」
ってわけよ。
メンヘラ女にはビッチが多いじゃん、ね? 要するにメンヘラってのは自己肯定感が薄くて、認めてもらいたくてしょうがなくて、どうしようもなくつらいわけよ。そういう時、セックスで承認欲求解消に走るわけ、「ああ、あたしったら必要とされてるぅ~きもちいぃ~満たされるぅ~」。そう考えるとさ、やっぱりセックスを通して女は男を「承認欲求を満たすための道具」扱いしてるんだよ。
だから、女を性欲のはけ口として扱う男を叩くのなら、平等に男を承認欲求のはけ口として扱う女を叩かないとだめなんだよ。もしくはどっちも叩かないようにすること。それが男女平等でしょうが。ま、男女平等が善かというとわかんないんだけどね。ああ、この記事の出だしは話のテンポをよくするためのジョークだからね。真に受けんように。
で、今の社会では、男を承認欲求を満たす道具扱いする女に対する批判が甘いよね。承認欲求ってのはその凶悪さ(基本有用だけど)に比して表だって見えにくいからね。少なくとも性欲よりかは分かりにくい。
まあ、みんな薄々感じてきてるんだけどね。この前の三鷹女子高生殺害事件とか、最近の千葉女性刺殺事件でさ、「ビッチは殺されて当然」って声がけっこうあったよね。あれはさ、「男を欲望を満たす道具扱い」していることに対しての憤りなんだよ。その憤りが爆発してああいう発言になったわけ。んだけど、言葉というか頭が足りないから、「ビッチであること」と「殺されていい理由」とを切り離して考えらんないっつーね。そこ残念。でも気持ちはわかる。
こんなこと考え始めたきっかけはこれ。
http://anond.hatelabo.jp/20131202152843
何でさ、わざわざアイコンを半裸の女にするのかってーとさ、承認欲求をためこんじゃって辛くなったからだよなあって思ったわけ。ちなみに当該ブログはこれね。
http://meerkat00.hatenadiary.jp/
男の性欲を逆手にとって注目を集めて、「あたし認められてるきもちいぃ~」をやりたくて、やらざるを得なくて、だからやっちゃったんだろうね。まあ、そこまで考えてないんだろうけど。文章からはそういう方向性にいかざるを得ないほど追いつめられてる雰囲気はなかったんだけどなあ。まあ、わからんね、女心は。
はてな女子のブログみるとさ、そういうのがけっこうあるよなあって思うのね。
有名どころはこれかね。
http://luvlife.hatenablog.com/
この人は完全に男を「承認欲求を満たす道具扱い」したくてしょうがない感じやなあ。かなり自己肯定感が薄い感じはあって(メンヘラというほどじゃない)、かあいそう。ビッチ目指してる理由として「奔放な性に罪悪感を感じない、自由な存在になりたい」って言ってるけど、おかしいやん。
別に「奔放な性に罪悪感を感じない」ためにビッチ行為を無理にする必要なくね? 別に超清純な修道女的生活を送りながらでも、「奔放な性に罪悪感を感じない」精神状態にはなれるやん。
ビッチ行為をせざるを得ないんでしょ。自己肯定感が欲しくて承認欲求を満たしたくて、ビッチやらざるを得ないんでしょ。本質は「承認欲求を満たしたい」わけでしょ。「男を手玉にとって虜にしてるあたしって素敵ぃ~」をやりたくて仕方ないほど、追い詰められてるんでしょ。性の自由人を目指す前にその薄い自己肯定感をどうにかせんと。自己肯定感が満たされれば必死こいて「ビッチ目指してます」なんて主張したくなる気持ちは消えるよ?
一方でビッチぶりを晒してはいるけど、「男を承認欲求を満たす道具扱い」は、してないのもいるんだよね。
http://gokkun-ramune.hatenablog.com/
ここらへんはしょーもないビッチだけど、なーんなんやろな。わりと対等なんだよな。ちょっと自分でもよくわからん。考えとく。
長くなったんでまとめに入るかね。
「男なんて所詮、女の欲望を満たす道具」ってのはやっぱり真実なわけよ。んで道具扱いされた男の悲しみも真実なわけよ。
それをもう少しさ、世の中の女性には分かった方がいいと思うわけよ。誰にとっていいかってーと女性自身にとってね。道具扱いされる男の悲しみを想定して行動することが、女性にとって快適な環境をつくるのは間違いないよ。
三鷹の女子高生殺人事件のさ、チャールズ・トーマス容疑者だっけね。彼のやったことは一切肯定できないけどさ、彼の気持ちってのは想像を絶するもんだと思うよ。不憫。
ストーカー男ってさ、すごーく叩かれるけれど、今の社会にとってこうなんというかね、進化を促す寄生体みたいな意味合いがあると思ってる。もっと簡単に言うとワクチンか。今、世の中には、女性が「道具扱いされた男の悲しみを考慮していない」という脆弱性があるんだと思う。その脆弱性を突く存在としての面があると思ってる、ストーカーってのは。こういう事件が一切おきず、男がされるがままの世の中が永遠に続くなら、女が好き勝手に男を道具扱いする世の中も永遠に続くよね。そこに一石を投じる存在なんだと思う、ストーカーは。
被害者の女子高生がさ、もう少し男心について深い洞察をもって完璧に立ち回ったところでやっぱり殺されたかもしれないけどさ、でも、「男性を道具扱いするのはまずい」という価値観はある程度、浸透した方がいいとは思うんだ。社会にとって有益と思うよ?
ぜんぜん、まとまんねー。
無理にまとめると、要するに世の女性は、男を道具扱いする時には、ある程度、リスクを覚悟して下さい、ということ。それが嫌なら男を道具扱いしない方がいいし、男を道具扱いせざるを得ない状況にならないよう、精神状態を別の方法でケアした方がいいよ、絶対。
男を好き勝手道具扱いして、キレた男がなんかしたら「あんたまちがってる、しになさい」を一切の罪悪感なく、自分に正義があると骨の髄まで信じ込みながら叫ぶのはやめた方がいいよ、これは最悪。
特に、上にあげたひきこもり女子の方なんか、ちょっとそういうとこあるよねえ……。
三鷹の事件も、千葉の事件も、何のせいで起きたかっていうと、あらゆる条件が複雑に絡み合って起きたわけで、簡単に「ビッチだから殺されたんだ」という一つの意見に集中するのはよくないけどさ。
私は人見知りな気質である。ただし、一般的に言われている人見知りとは性質が異なるので、自分のこのちょっと変わった気質を何と表現するのが妥当かと考えた末、「遅効性(周期型)人見知り」という名前を付けることにした。
遅効性人見知りの気質を持つ人間は、初対面の相手にはなんの問題もなくコミュニケーションをとることができる。なぜなら初対面の人に対して何を話すべきかはある程度マニュアル化できるからだ。シミュレーションと実践を重ねれば、初対面の相手と滞り無く会話する型を修得することは比較的容易である。
しかし、ある程度(3〜4回)顔を合わせた相手になると、むしろ初対面の頃よりも会話が下手になる。対人関係というのは時間を重ねるほど会話の内容や関係性が多様化していくものだ。ある程度顔を合わせた相手に対しては、その時の状況を見て瞬時に判断する能力が必要である。それが私には難しいのでうまく会話を続けることができない。
話題が思いつかない、というだけであれば人見知りとはいえないかもしれない。私が自分の気質を人見知りとする理由は、話題が思いつかなくなるのと並行して、徐々に恥ずかしさが増していくのだ。きっと相手は、初対面の時に受け取った私の第一印象とは異なることに気づき始めている。初対面の頃に取り繕った印象と比して、実際にはさほど真面目ではないし、頭も良くないし、そんなに人付き合いが好きではない。そういう、人付き合いをうまくしていこうとして自然とついたウソがばれて失望されていくことを次第に恐れていくのである。
上のような気質を持つため、私と会う人は初対面の時は人付き合いが好きそうに見えるのに、時間が立つにつれてやけに緊張して対応されてしまうということになる。本来は顔を合わせることが多ければ多いほど親しい会話ができるようになるはずだが、そうならないので変な人とみられるようになる。これが遅効性人見知りと名づけた理由である。
実はこの現象は何年も付き合いのある友人との間でも周期的に起こることであり、その周期にいたるとよく知っている相手でも、本当に伝えたい感情を伝えることが難しくなる。そういうときは言いたいことを言えと突っ込まれる。
考えるに遅効性人見知りというよくわからない気質を持つようになったのは、本来は人見知りな正確なのに応急処置的な対策をとることに集中してしまったためにこじれてしまったのではないだろうか。
本当はもっと本質的な、人と親しい気持ちになるような感情をどう出していくか、どうしたら自己肯定感を保ちながらコミュニケーションをとれるかを考えていくべきだったんだろう。
しかしながら、私はある程度生活や仕事に支障がないようにする「応急処置」に依存することで生きてきたので、本質的な問題を解決する機会が与えられずにいる。
さしせまった悩みでもないので、本来は日記にでも書いておくような内容なのだが、他にこういう人はいるのだろうか、自分が勝手につけた名称以外にもっと的確に悩みを言い表す表現がないのか等、増田たちに聞いてみたいと思ったので投稿してみた。
http://anond.hatelabo.jp/20130913141354
結婚だけど、こればっかりは組み合わせの問題なんで、仮に上司の嫁さんに問題が無かったとしても、どうしようもない事もあるんじゃないかな。
単純に嫁さん悪いって可能性もあるし。 君も別に確信が得られないなら結婚しなくても良いのでは。
あと、私も嫁さんと想い想われる関係を、ぼーっと望んでいた気がする。 おんなじような価値観、イメージを共有できるような関係性。 いいよね。
特別な1人がいるのってすごく心強くなるし、安心感があるじゃない。
これはそう。安心感あるし。 あとね、考えることが減りました。 自己肯定感みたいなものに悩まされなくなった。
昔は、というよりこれは私が30手前の中年に差し掛かるころだったんですが、「俺って役に立ってるのかな?」という不安に覆われるような時期が来た。
いやだってネットみれば凄い人は雲の上のような感じだし、職場で上を目指せるかってーと限界が見えたりもする。自分の市場価値は?とか。
そういう時に仕事に失敗すると本当に落ち込む。
誰だって自分は価値がある、と思いたいものではないだろうか。 それは心の弱さではあるけど、でもそういうものではないだろうか。 私は誰かの役に立ちたいな、と思ってた。 仕事以外でもいい、なにか別の評価軸、誰かのために何かをして、ありがとうって言われたくなった。
今の嫁さんと出会った。 別に嫁さんは美女という訳でもないし、料理人って訳でもないんだけど、
花を贈ると喜んでくれた。 深夜作業あけに会いに行くと労ってくれた。 あと彼女が焼きうどんを作ってくれた。
当時の私は松屋とすき家と吉野家のローテーションで、学生時代から+20kgでビタミンは足りず、なんか体に塩気が溜まってくような感じだった。
彼女の作る焼きうどんは、屋台なんかとは違って薄味で野菜がたくさん入ってて、食べるたび、体に栄養が染み渡る感じだった。 砂漠に水が吸い込まれるような感じで、腕や足に沁みていくのを感じた。
この辺の感覚が分かるようになっただけでも歳をとって良かったな、と思った。 歳を取ると野菜が美味しくなる。
花を贈る相手ができた事が嬉しかった。 で、会うたびに新しい花を贈ってた。
「まだ前にもらった花も枯れてないですよ」という彼女に「でも、花を贈る相手がいる、という事も幸せなことですよ」とか返していた。
なにかできる相手がいるってことが楽しかった。 別に相手は誰でも良かったのかもしれない。コンビニの店員なら客でもいいし。仕事の同僚でもいいし。NPOなんかでもいいと思う。ただ私は彼女になにかをしたい、と決めた。
昔は誰かに愛されることを望んでいた。その方が幸せなんだろうな、と今でも思う。 ただ歳を取るとその辺はどうでも良くなってしまって、ただ愛したい、だけが残ったような気がする。
山本 夜羽の漫画の帯だったか「愛を知らない人間だけが知る愛がある」ってフレーズがあったような気がする。私の場合はそうなんだろう。 今もあの時の気分が続いてる。