思考を変えることは難しい、けれど諦めず思考を変える努力をすれば、いずれ自分も変われるはずだ。
自分の思考の傾向としていじめをうけたり人格を否定されることが多く、マイナスの思考をしたり、高校生や大学生などの若い奴に対して、無意識に拒否反応を自分が起こしていた。
だから自分はうまく相手と溶け込めず、遠慮ばかりで話そうとしない客観的に見てつまらない人物像が出来上がった。 自分としてもそういう偏見のようなものをうけたり友達彼女が全くいないせいで、とても苦しく憎しみ悔しさがこみあげてくることがある。
この現状を変えるため思考の方法を変えようとおもうけれど僕がなりたい思考は、誰とでも社交的に楽しく話せるような思考だ。いままで生理的拒否反応を示してしまう相手に対してどのように接すれば、自分も普通の大学生になれるのかを考える
まず第一に他の人が楽しそうにしゃべっているのを見るととても嫌な気持ちになり、ストレスをかんじる。これはなぜなのか? やはり自分にも友達彼女と楽しくしゃべりたい欲求を持っていて、それが叶わない欲求不満と妬む気持ちが混同しあってそうなってしまうのだと思う。
この状況は異常とも言えるが、友達彼女が欲しい羨ましいという気持ちがもたらしたものだから何ら改善する必要はないかもしれない。いつもいつも電車やバスに一人で乗り、大学にいっても一人でいると誰かからバカにされているような気がしてとても自尊心が傷つけられ悔しい気持ちになる。
自分は毎日それを繰り返しているのだ。その繰り返しはしたくない。その感情は時には殺意となって現れてくる時もある。 とにかく辛く何かと努力しても報われず、最初からハンディキャップを背負った人生を送ってきた自分は、とても不公平感を覚えこんなにも不公平な世の中であって何も報われないなら罪を犯したってしょうがないではないか、とよく思う。秋葉原の無差別殺傷事件の犯人だって不幸で努力したが何も報われずバカにされるだけ、それにたいしての怒りや憎しみがああいう結果になったのではないか?世間的にはどんな理由であれ罪をおかしたものは屑だ、生きている価値がないという風潮があると思っている。そのようなことは、本当の不幸な経験をしたことがないから言えるのだ
。本当の不幸というのは人格を幼い頃から執拗に否定された者のことだ。子供のころバカにされたりいじめをうけて社会に適応できない、コミュ障になる、それをその人が悪いと理由もなく決めつけて、嘲笑う、そしてバカにしてしょうもないやつだという。世間一般のひとであっても、バカにはしないが、ダメな奴という烙印をおす。これじゃぁどうあがいたって不幸な者這い上がれない
これじゃぁ殺人罪みたいな犯罪を犯したって不思議ではないだろう。よくマスコミが殺人事件の犯人は、学校や職場ではとてもおとなしい人でしたという関係者の証言を報道するが、友達彼女がいてべらべら喋れる人なんか自分が感じているような憎しみなどあるわけないじゃないか。それなら当然現実に不満をもった、言葉の印象がよくないかもしれないが陰湿な人の犯罪が多くなって当然だ。そんなことを考えることも出来ず、暗いやつは清い心を持っていない、何の痛みも感じたことがないやつの方が良い性格だと本気で思っている。
何の苦労痛みも知らない奴ならとうぜん憎しみ妬みなど生まれてくるわけがない、もし自分がそういう人生を送れたら自分だってそうだろう。ここでの苦労苦痛とは、当然人格面においてのということだ。 それなのに世間では暗い=性格が悪いということが一般的となっている。こんな現状で本当に殺人が絶対悪かということを考えてほしい。やむを得ずやってしまったということもあるのだ。自分の意見としては、殺人の犯人が、不幸な境遇だったかで明確に区別し、死刑の適用をおこないうことはしないでほしい。とにかくそこは明確 にすべきだ。 という思考が固着して改まりそうにない
ヒトは社会的動物であり、ほぼすべての人がなにかしら他人と関係して生きています。他人と関わろうとするのは生存本能です。 他方で、過去の危険体験の繰り返し(もしくは強烈な危...
ああ、あと特別なことを何かしてくれるわけではないが、例えばEmotions Anonymousだとかの自助グループに行けば、自分の苦しみや悩みを匿名で吐露したり、似たような悩みかどうかはわか...