私は自己肯定感が弱い。
小さな小さな子供の頃には無邪気にそんなことは気にせず生きていたはずで、いつからこうなったのかは定かではない。
しかしち○こが小さいとか、顔が脂ぎっているとか、手汗や脇汗が酷いとかといった身体的な後天的な悩みや学歴、自分でも自覚できる話の浅さ薄さつまらなさ、鳴らない電話が物語る交友関係、人としての器の小ささなどが、より弱くしているのは間違いない。
まずは自己肯定感が弱いとどういう症状で苦しむのかお話したい。
たまには考えたり思い出したりする、あの時はこうだった、ああだったと自分の過去を。考えるだけでつまらない。
つまらないどころか、そのうち後悔や恥ずかしさばかりになってしまう。
普通の人の「あの時は楽しかったな」が「あんなことしなければ良かった」に変換される感じだろうか、そもそも思い出すのが嫌なことばっかりなのかもしれない。
自己紹介から、ランチでの他愛もない会話で繰り出される「休みは何してた?」から、果ては業務の報告まで、自分にまつわるエトセトラを自分の口から語るのがとことん苦手である。面接での自己PRなんかは地獄である。
ただ苦手というだけではない、汗が出る。それも大量に。
心からつまらないと思っていることをさも価値が有る様に話さなければならない苦しみ、案の定つまらなかったというリアクションを頂いた時の苦しみ、四苦八苦に加えて欲しい苦行である。
その人が面白いとか面白くないとかいい人悪い人関係なしに、「俺が俺が話」とか「俺さんスゲー話」とか「俺さん可愛い話」とか「俺さんイケてる話」を聞くと、あまりの気持ち悪さにいらっとする。
まったくもってこちら側の一方的な都合で申し訳ないと思いつつも、決定的に辛い訳ではないその感情を抱えながら会話を継続するのは結構しんどい。
どうしてそんなに自分に自信が持てるのか、自分を肯定できるのか、自分の行いにうっとりできるのか、一度心ゆくまで問い詰めてみたい願望に心を奪われる。
成功回避欲求とか敗者の脚本と呼ばれているらしい。(http://2chcopipe.com/archives/51559636.html)
後から振り返ってみると潜在意識が悪い方悪い方へと導いている気がしてならない。
最初は失敗を喜ぶ悪魔が住み着いていると思ったがどうやらそうでもないらしい。
恐らく正しい選択の結果に得られる成功体験に耐えられない精神を守るために、潜在意識が制限を掛けているのだろう。云わば幸せの総量規制を忠実に守っているようである。
巷間では承認に対する議論が喧々諤々である。最近ではスラングの一つとして立派?に機能している。
かつては私も他者からの承認が欲しくて欲しくてたまらなかった。自己肯定感の弱さを他者からの承認で埋めたかったのだろう。
まだ若かった頃には今ほどインターネットも普及してなくてSNSなんかまだなかった時代、コミュニケーションと言えばガラケーによる通話やメールだった。
そして私もガラケーを持ったものの、着信音が鳴ることは滅多になかった。
当時のガラケーは通話とメールぐらいしか機能がなかったし、i-modeはパケット代が恐ろしく高い代物で、そのくせたいした情報は得られなかった。
プリインストールされているゲームもすぐに飽きてしまえば、結局残るのは通話とメールだったが、鳴りもしない物に良くお金を払っていたと思う。いつか鳴る日が来ると信じずにはいられなかったのだろう、本当に残念だ。
しかし承認を渇望していた思春期時代が、現代の始終繋がっていることが当たり前の時代と重ならなかったことには少し感謝している。本質的には変わらないだろうと思うけれど、情報伝達の早さと広さを考えると往時より受けるダメージは大きく余計に心を擦り減らしただろうと想像できるから。
今のところ昔に望んだような他者からの承認はまだ得られていないし、この先も得られることはないだろう。
それなりに折り合いをつけて、こんなもんだろうと思えるようになったし、今さら電話やメールがやたら鳴っても面倒でしょうがないし、捌けるスキルも無い。
誰しも若い頃に適量以上の酒を無理に飲んで酔い潰れた経験があるだろう。そんな経験をするうちに自分の適量が分かり、それ以上を欲しなくなる。
今頂けている、ほとんどゼロに近いような承認の量が私には適量なのだろう。それ以上を欲することもなければ鳴らない電話を見ても当たり前の風景に何も感じなくなった。
それでも他者からの承認が欲しくてたまらないならば「承認に足るほど努力できる何か」を見つけ努力することを考えた方がいい。
何もない人には誰も承認してくれないし、例え承認されたとしてもただ空虚なだけで、あなたが望む形の承認ではないだろう。
あなたが望む形の承認を得るには、承認を得たい相手と同じレベルになる必要がある。
努力が実り多くの人から承認されるようになった暁には、きっと求めていない承認に頭を悩ませることになるだろう。
しかしその悩みを乗り越えて、是非とも承認する側に回ってあげて欲しい。他者を承認する資格があるのは他者から承認を得ている人だけだから。
そして世界中の被承認の需要は供給を遥かに上回っているのだから。
この世は人の心を圧し折るには充分すぎるほど不平等で不条理で不合理で、持っている人は与えられてさらに豊かになり、持っていない人は持っている物まで取り上げられる仕組みになっている。