はてなキーワード: 職能とは
昨今の流れに逆らって
という話。
最低賃金が上がれば自分の給与があがる。と勘違いしてるかたがたくさんいるようですから。
※あと私、40人くらいの会社を経営していますが、ポジショントークをするつもりはありません。
単純に、最低時給上がるとこうなるよ。という話です。
とはいえ実際に雇用者側ですから、そのあたりを考慮して読んでいただくのがよさそうです。
➤既に雇っている1500円以下の人の給与上げなきゃいけませんから、当然ですね。
➤失業者や生活保護受給者が増えますから、もちろん政府の社会保障費は増えるでしょう
➤あくまでも生産性が低い方に限られる。というのがミソですね。。
さて、誰が得して誰が損するのでしょうか。
この提案を推し進めているのは、このルールができたら得する人なのでしょうね。
[補足]
私は生産性が高くちゃんと働いてるのに収入が最低時給以下なのである!
という方もいらっしゃるでしょう。
そういった方は、ご転職なさるとよいと思います。仮に転職しても給与が上がらなかった、あるいは転職活動をしても内定がでない。
という方はつまり「生産性が低く自身の生産性よりも収入の方が高い」という状態にありますからそのままでいるほうがおトクかと思われます。
➤生産性の低い(または単価が安い)仕事を他の人に任せられるし、生産性が低い人の給与にも余剰ができますからね。
➤働いた分だけ給与がもらえる状態ですが、生産性が低いのでまぁ減りますよね。
➤特に最低賃金に満たない生産性しか持たない人にとって就業機会が間違いなく増えるでしょう。
高齢者や学歴のない方、障碍者等の社会的弱者といわれる方々にも直接的な就業機会がやってくるでしょう。
収入は少ないでしょうが、まったくないよりいくらかマシそうですね。
➤生産性の低い人の収入が減少すると同時に、生産性の高いひとの収入は増えるでしょう
➤働くひとが増えて、安い労働力も増えて、出来る人の収入があがりますから、当然ですね
➤仕事の生産性が収入に直結するルールなので、これも当然ですね。
さて、改めて見直してみると。最低賃金が上がった場合はデメリットだらけで得する人は一握りである一方で、
最低賃金を撤廃した場合はメリット沢山でデメリットは少な目に見えますね。
もし、最も重大なデメリットである”低パフォーマーの生活困窮”に対して社会保障でお手当できれば、最低賃金を撤廃したほうが社会全体にとっておトクに見えそうですね。
例えば、
実際の時給と基準時給1500円の差分を社会保障として給付する。というのはどうでしょうか。
結構お金がかかりそうなものですが、時給1500円以下の人たちが全額生活保護&雇用保険よりも、いくらかは足しになりそうですし、さらに企業内で就業機会や教育機会を得られて一石四鳥くらいじゃあないでしょうか。
また、GDPや税収に対しても好影響があるでしょうから、減税とセットでできれば完璧ですね。
ということで、「最低賃金を上げよ」という議論は、大企業の労働者が加入する労働組合が推し進めることになったわけですね。
だって生産性低いままで給与増えるし、労働組合が強いから最低時給以下の働きだったとしても辞めさせられることはない、そんな安全圏にいるんだもん。そりゃ最低賃金あげろー!ってやりますよ。
ただ問題は、この報道に対してなぜだか「自分の給与が上がる」勘違いしている方々、あるいは社会全体の富が増えると勘違いしている方々など、最低時給が上がったら損してしまう側の立場の人たちが最低時給アップに賛成してしまっているってことなんですよね。
賛否あれど、はてな民にも同様の問題意識があってすごくうれしいです。
➤社会に富を還元できない企業は滅びるべきであるという意見でしたら心の底から同意します。
しかし問題は、潰れたことで失業者が発生し、そのうちのほんの一部に時給1500円以上の生産性を持たない方がいることなのです。
最低時給を設けることで、残念ながらその方々の転職は叶わないでしょう。
最低時給さえなければ低い賃金からかもしれませんが職にありつき自身の労働資本を増やしていくことができたはずなのに。
最低時給は企業をターゲットにしているように見えて、実は弱者がターゲットになってますよ。ということです。
➤正直私もそう思うのですが、悲しいことに時給1500円以下の仕事にもつけない方々が日本にはたくさんいるのです。
そういった方々も、しっかり働けて自身のスキルアップに取組めるような社会になったらいいよねと思います。
そのためには、時給1500円以下の労働力しか持たない人もちゃんと就職できるようなルールにしたらよいのでないでしょうか。
そう、最低時給を撤廃するのです!
同時に雇用がより流動的であれば、企業間での競争によって生産性が高い方の収入は増えるでしょうから、賃金と雇用はより流動的である方が望ましいと思います。
最低賃金があると、賃金格差を付けにくくなるわけですから、賃金の自由度が下がり生産性が高い方の給与をあげにくくなるでしょう。
➤資本集約型であっても、収益性が高くても、賃金以下の働きしかできない方が雇用されることはないでしょう。
営利企業が、資本集約型ビジネスであることを理由にあえて収益マイナス人材を採用することは考えられません。
一方で、最低時給がなければ、すくなくともそれらの方々を雇用し教育するインセンティブははたらくのではないでしょうか。
※今回の投稿は私の会社について語っているのではなく、一般的な話をしているのです。ということだけお断りをしておきますね。
➤これはその通りですね。企業の収益性を高め、働く人の生活/収入、あるいは能力を上げていくことは経営者の一番重要な仕事だと思います。
ところで、今回の投稿ですが「会社の生産性の良しあし」ではなく「最低賃金アップによる経営判断の変化およびその影響」
といったところなのです。
さて、一般の労働市場において、最低時給以下の労働力しか持たない方々はどのように自身の労働力を売ったらよいとおもいますか?
時給1500円以上の価格で売らなくてはいけないという価格制限が付いてしまいますから、弱者に対して極めて非道なルールだと思いませんか?
➤上記の議論には全面的に賛成です!一方それを最低賃金で実現しようとするのは乱暴すぎやしませんか?
でしょう。3点目の社会に対して貢献できていない企業が潰れる分には問題なさそうですし、生産性の高いプレーヤーは転職してくれ。という話になりますね。
一方で1番の「時給分の働きができない人は失業してくれ」というのはあまりにもヒドイ話です。
賃金アップによる消費の増加と"最低"賃金アップによる消費増加は分けて議論する必要がありそうです。
失業者をへらさずに労働者全体の賃金があがる政策には賛成です。
ところで、最低時給を撤廃したら今まで働けなかった人たちが職にありつけますから失業率が低下し賃金の総額は増えそうですね。
➤他の方が指摘するように企業は高額な人件費を削ろうとして自動/IT/効率化を進めるでしょう。
一方、IT化によって職を追われた方々は、最低時給があるばっかりに新しい仕事に就けなくなってしまいますね。
最低時給がなければ企業に就職し職能開発の機会を得ることができたはずなのに。
2:時給1000円(+給付金500円)で企業内で職業訓練が受けられる
ほんとうに1番の方が良いとお考えなのですね。悲しいなぁ。
➤これはその通りですね。なので雇用をもっと流動化し、簡単に転職されてしまうようなルールと一緒に進めたい所ですね。
求職者が自身を適正に評価してもらえる企業へ入社するインセンティブが働けば、企業もまた適正な評価をせざるを得ないでしょう。
なので雇用の流動化をセットで進めたい所です。
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210423151119
こういう記事をみて、「n=1だけで何を言う」みたいなコメントを時折見かけるが、
俺たちはn=1の世界で生きている。
"自分自身"がアファーマティブアクションとやら言う大義のために、
自分より職能の劣る女性にポストや昇進の機会を奪われて、不平・不満を抱くなと言われて納得できるだろうか?
「女性管理職の数を〇人まで増やす必要があるから、君はしばらく昇進できないよ」と言われて?
社会の全体最適のために、犠牲になってくれと言われているようにしか感じない。
そういった全体のために生贄に捧げられる個人の、不満や悲しみに対する"共感"を源流にしているのではなかったのか?
「それってn=1ですよね」と冷淡な反応したのだろうか?
またか。どうでもいい話だ。まあ、どうでもいいので、顕性と潜性になってもいいと思うよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1700955
みなさんが生活上どういう場面で優性と劣性という言葉に出会うのかわからないが、仕事上日常的にこれらの用語を用いている職業がある。遺伝専門医と遺伝カウンセラーである。これらの専門家の職能集団からなる学会が、「日本人類遺伝学会」。「日本遺伝学会」ではない。わかりにくいな〜と思われると思うが、これは欧米にある同様の名前の学会の日本語訳だから(つまり優性or顕性と同じ問題だ)。
日本人類遺伝学会は、The Japan Society of Human Genetics
日本遺伝学会は、The Genetics Society of Japan
英語にしてみるとなおのこと、「顕性と潜性」に勝るとも劣らないどうでもいい違いだが、しかし所属している人間は丸々違うのである。
日本遺伝学会は静岡の三島の国立遺伝研が率いる学会であり、進化とか集団遺伝とか縄文人とか、そういったことをやっている(と思う)。生物学とか数学とか(遺伝学は割と数学が幅を効かせる学問)。世界的な遺伝学者であった故木村資生先生はこっち。一方日本人類遺伝学会は国内の遺伝病患者を診ているような医療機関(ほぼ大学病院)が持ち回りで運営している。病気寄りで、医者が中心。国際ヒトゲノム計画のときも、日本代表は日本人類遺伝学会の榊先生だった。別に取り合いになったわけではなく、国立遺伝研は「そんな労働みたいなくだらないことに研究者を参加させるわけにはいかない」とかいうわけで参加を拒否したらしい。一方、日本人類遺伝学会会員は比較的、労働的な研究を好むような気がする。次世代シーケンサーとか。
さてここで優性/劣性を、顕性/潜性と変えようとしているのが日本遺伝学会である。
日本人類遺伝学会はそうでもない。なんだかやる気のない声明文を出している。
興味深いのは、ヒトを、遺伝性疾患を診ている日本人類遺伝学会は大して興味がなく、サルとか縄文人の日本遺伝学会が必死に優性/劣性を変えようとしている、という構図である。
実務的に見ると、常染色体劣性遺伝性疾患の患者さんが、「劣性」という言葉に強いコンプレックスとか別に感じていないように思われる。
なんなら、常染色体優性遺伝性疾患の患者さんが自分は優れているだなんて鼻にかけるなど微塵もあり得るはずがない。
そうである。単純な話、常染色体劣性だろうが、常染色体優性だろうが、伴性劣性だろうが、辛いものは辛いのが遺伝病である。言葉遊びはどうでも良い。
優性だから優生思想で優遇されそうもないことは、ちょっと遺伝カウンセリングを受ければすぐわかる。
そう、優性疾患の原因バリアントは、劣性疾患よりも強い選択淘汰を受け、集団頻度が低いのである。ほとんど全ての人間が、劣性バリアントをヘテロ接合体の形でたまたま持っているが、優性バリアントをたまたま持っている非遺伝子疾患の人というのは定義上いない(浸透率の問題はあるが)。
そしてまた、優性だろうが劣性だろうが遺伝性疾患には耐え難い精神的辛さがつきまとう。なぜならそれは遺伝する病気だから。親が自分を責めずして誰を責めることができよう。そんな親に、自分を責める必要はないと伝えるのが遺伝カウンセラーや遺伝専門医の仕事である。優性とか劣性とかどーでもええわ!遺伝病そのものが差別の対象であり、取り組むべきはスティグマとしての遺伝病という見方の改善である。優性・劣性にこだわるのは実務を知らない人間たちである。私たちには他に、もっと先に、もっと多大な時間をかけて解決しなければならない問題がある。
もちろん、世の中というのは実務者というブルーワーカーとは関係なく変わっていくので、いずれみんな特に迷いもなく顕性と潜性に変わっていくだろう。精神分裂病を統合失調症と言い換える、至極どーでもいい言葉遊びがきちんと定着したのと同じように。
統合失調症になって何か変わりましたか?誰かが救われましたか?
まあどっちでもいいっすよね。
そんなことよりも実務家は、本当に深刻なことを防ぐために努力しなければならない。
うつ病になりやすい遺伝的因子を持っていたら、就業時に差別される・・・そんなことを許してはいけない。そんな社会にならないように、今すぐ動かねばいけないんです!私たちは実務家で、馬鹿だから、優性とか劣性とかいう言葉で誰が不幸になるのかよく知らない。しかし、遺伝情報差別禁止法がないために不幸になる人間は、今後きっと現れる。一刻も早く手を打つべきなんです。
くだらない言葉遊びはやめよう。本質的な意味で、今のゲノム研究の進歩は危険だ。現代のゲノム研究の進歩に基づき、社会倫理的にまずやらねばならないことは、遺伝情報差別禁止法だ。優性か劣性かの言葉遊びなんかじゃない。みんな目覚めてほしい。
俺はもっと家事をしたい。家事労働はヒトを幸せにする。掃除や洗濯や修繕や調理を通じて、また、傾聴や会話やスキンシップを通じて、妻や子どもに尽くしたい。それこそがヒト(俺に限らない)の幸せに直結することだからだ。
ヒトは群れで生活する動物だ。他の構成員をケアし、食べ物を分け合って一緒に食べることに幸せを感じる。これは本能だ。また、ヒトは子育てする動物だ。同じ性質を持った他の生物と同様、子育てに喜びを感じるようにあらかじめプログラムされている。
ベンジャミン・フランクリン効果(助けた相手のことを好きになるという認知的不協和)も無視できない。手がかかる子ほどかわいい、という結果は、手をかけたという事実が生むものだ。家族に尽くせばつくするほど、家族への愛着は深まる。
幸せというのは、受け取った愛情で決まるのではなく、与えた愛情で決まる。愛されているから幸福なのではなく、愛しているから、愛を表現しているから幸福なのだ。実際に手をかけて、家事をし、話をし、食卓を囲むことで、そのように愛情を行動に移した者の幸福度が上がる。家事はその担い手を幸福にする。
しかし現実、俺の家事負担は小さい。週にわずか6回、土曜の昼食から月曜の朝食の調理(買い出しと後片付けを含む)を担当しているのと、家や家財や車や自転車などの修繕全般を担当しているほかはすべて手伝い程度で、家事らしい家事は何も担当できていない。俺が長時間の賃労働に縛り付けられているためだ。
家事だけではない。育児も限定的だ。子どもの世話をしたり、子どもとともに食卓を囲んだり、さまざまな話をしたり、勉強や料理やスポーツを教えたり、宿題を手伝ったりといった、育児にかかわる時間の大半を賃労働に奪われている。これもまた、俺のヒトとしての幸福を大いに損なっている。
本邦の男女には世界一の幸福度格差(女性の幸福度が高く男性のそれは低い)がある。これを男性の視点で説明するなら、賃労働負担の大きさと、家事参加の少なさという両面が原因だ。とりわけ家事の少なさは重大だ。我が国の男性は世界一家事をしない。多くの男性は幸せを賃労働に奪われているのだ。
我が家も結婚当初は、夫婦両方がフルタイムで働きつつ、平等に家事を分担し、夫婦の両方が幸福を感じていた。だが子どもができて夫婦で話し合った結果、俺がフルタイム労働でさらに残業を増やして家計を支える中心となり、妻はパートタイム労働の兼業主婦になることにした。
俺がパート主夫になる案も真剣に検討したものの、却下せざるを得なかった。理由は、当時30代前半だった俺が昼間にパートまたは時短で働けて、家から近い職場がないことだった。ジェンダー不平等を実感したのはこのときだ。オッサンが兼業主夫になるのは非常に難しい。
結果、俺は大半の家事を妻に任せ、ごく一部しか担当できなくなってしまった。うちの場合、家事全般について妻より俺のほうが得意である(あくまで自己評価だが)にもかかわらず、だ。逆に、賃労働の能力は俺よりも妻の方が高い(と俺は思う)にもかかわらず、彼女はフルタイムの労働を失った。
俺は、この国のジェンダー不平等を恨んでいる。俺を賃労働に縛り付け、家事や子育て(つまり俺の幸福)を奪ったからだ。
また、ほどよく分担できていれば、家事労働はそれをする者を幸福にする。だが、過分に割り当てられてしまえばそうも言えない。俺の妻はそれほど家事全般が得意でないにもかかわらず大半の家事を負担しており、せっかくの家事労働の多くが単なる面倒なタスクになりがちだ。これは幸せなことではない。
ジェンダー・ギャップ、幸福度格差、不公平な家事負担、結果としての男女の賃金格差などはすべて、要するに労働問題だ。男女で賃労働と家事を公平に担当しにくい現行制度に原因がある。なので以下のようなことを強力に推進すれば、諸問題はすべて(少なくとも我が家が抱えているものはすべて)解決する。
俺は「意識のアップデート」だの「意識改革」だのというものには期待していない。そんなものに期待していたら、ジェンダー・ギャップは永遠に解消しない。なぜならジェンダー・ギャップは、制度的な介入をせずに放置していれば自然に拡大していく性質を持っているからだ。
これは良い悪いの話ではない。生物としての自然な本能と、適応の結果に過ぎない。
まず女性の上昇婚志向がある。これは世界中のどんな社会にもあるものだそうなので、生物としての本能と言える。より多くの資源を獲得する能力を持つオスに魅力を感じることは、生物としてまったく自然だ。そして、ヒトのオスがそれに適応しようとするのもまた本能であり、生物としてまったく自然なことだ。
ただし社会全体でこの本能に適応すればするほど、ジェンダー・ギャップは拡大する。女性の上昇婚志向に適応した男性たちは、すべての資源を男性たちだけで独占し、資源へのアクセス権を女性から剥奪する。前世紀まで、まさにそのような社会が世界中で構築された。
このようにヒトの本能はジェンダー・ギャップを拡大し固定化する方向に作用するため、ジェンダー平等が自然に実現することはない。相手は無意識下の本能だ。意識改革では解決できない。制度改革でしか実現できないものだ。
現実的な解は、強制的なクオータ制の導入だ。繰り返すが、意識で本能は変えられない。だから制度を変えるのだ。クオータ制は、結果平等の観点で厳格なものであればあるほどよい。
政治家や企業役員はもちろん、あらゆる職種で男女比が1:1なるように枠を設け、罰則付きで厳格に運用する。外科医も、看護師も、消防士も、保育士も、研究者も、レジ係も、漁師も、助産師も、土木作業員も、歯科衛生士も、自衛官も、すべて男女同数にする。当然、仕事内容も拘束時間も賃金も男女平等にする。
当初は各職業における職能水準の低下が問題になるだろう。しかしそんなものは、ほんの20年か30年もすれば解消される。学齢期や新卒時を見ればわかるとおり、平均的な女性の能力は平均的な男性のそれを上回っている。クオータ制の導入で一時的に起きる職能水準の低下の問題は、ほどなく時間が解決するだろう。
賃労働も家事労働も、男女がどちらか一方に押しつけることなく、平等に負担し合う。夫婦のそれぞれが週に20〜30時間ほどずつ賃労働を負担し、あとの時間で生物として家族としての幸せを追求できる世の中になるのが理想だ。
こうなるともはや、主婦(主夫)という概念は崩壊だ。だがそんな概念は産業革命以降にでっち上げられたもので、男性を賃労働で使い倒すための便利な、そして非人道的なジェンダー・ロールだ。こんなものは徹底的に破壊し、すべてのヒトがヒトとしての幸福を追求できる社会を目指したい。
最後にもう一度強調しておく。家事労働を制限されることは、幸福を制限されているに等しい。より多くの賃労働を負担している者は、幸福度において劣後する。
しかし、現行の制度の中で各家庭が個別に部分最適化を進めれば、多くの家庭では、夫は賃労働の奴隷、妻は兼業主婦、という形をとることになる。これは不幸なことであり、制度そのものを改めるべきである。そして、ここまで述べてきた制度改革の過半は、すでにアイスランドなど北欧諸国において実施されている。
職能訓練校一回入ったら
反応ありがとう。
日本の小学生について性差と科目を結びつける圧力がどのぐらいあるのかは、コミュニティにも依存しそうでちょっと判らない。個人的には、特に上位層に関係しそうなコミュニティではあまり違いを強調する育て方はしていないように見える。少なくとも、中学高校以降で見られるような何らかの選別(理数コースとか)があるというシステムにはなっていないように思う。
また国際的に見ても初等教育時点での能力差はあり(小学校は見つけられなかったけど15歳の参考↓)、特に算数の上位層では男子の優位性が顕著になるという傾向はあるように見える。逆に国語は女子の能力が高いが、その差は下位層で顕著であり、上位層になるにつれて減少する。
参考:Gender Gaps in PISA Test Scores
(なお上記の資料では、母親から娘への社会的影響が重要という結論になっている)
あるいは、理由はともかく小学生でこれだけ顕著な差が現れているなら、対策をするならその段階以前から取り組むべきであり、大人の職能集団のレベルでなんとか辻褄を合わせろという圧力は不毛だと思う。
子どもが中学受験を目指していて模試の成績表などを見ているのだけれど、小学生の時点でかなり明確に
の傾向が出ていて驚く。(サンプルはn=数千人程度で、受験者の比率としては男:女=55:45ぐらい)
正確に言うと、成績の分布自体は男女で重複しており、平均点も上記の傾向はあるにせよ、数点しか変わらない。ただ、上位層を見ると特に算数理科の成績について男女比に大きな偏りが有り、上位20%程度で男:女=75:25、上位2%程度では男:女=90:10ぐらいになる(両方とも有意差有り; p<0.0001)。
上記はあくまで小学生向けのペーパーテストの結果であり、将来的な能力全般を代表するものではない。一方で、おそらく性別を意識した社会的圧力にそれほど曝されていないと考えられる小学生(中学受験生)時点においても特に上位層でこれほど明確な差があるのは、集団として何らかの性質の差があることを示唆するものではあると考える。
この事実からは、全体の傾向としては男女の知的能力差なんてあるとしても微々たるものだ、一般的な職能を判断する場面で男女を分けることは無意味であり、結果に男女差があるとすれば何らかの差別的傾向が示唆される、という主張は成り立つとは思う。一方で、高度な専門的技能が必要とされる職種(少なくとも人口の上位数%以内程度の能力がないと適性が見込めない/競合に耐えられないような専門職)においては、全く差別的待遇がなかったとしても9:1程度の偏りが生じることは自然なのではないか、とも考えられる。
能力の問題ではなくてダイバーシティが重要なのだ(ダイバーシティを確保するためには能力の低い個体も含めるべき)、とか、小学生は既に性的圧力の影響下にあるのだ、とする立場もあるとは思う。ただ、現実の専門職集団で9:1程度の偏りがあるとして、それは差別であり人口比と同等(5:5)の"自然な"状態に導くことがその構成員の責任だ、とするのは若干留保が必要な主張にも思える。あるいは、集団の性質をその能力で持って論じる際には、平均だけでなく分布全体や上位層の偏り等も含めて考慮する必要があると考える。
注:上記は昨今明らかになった医学部入試における男女差別のような、選考側の明確な不正を正当化するものではない。ただ、厳密に知的能力で選考・競合が行われたとしても、職能の性質や要求水準によっては男女の偏りは生じうるのであり、それ自体が不正を意味するとは限らないのでは、というお話。