はてなキーワード: 比喩的とは
結婚を仄めかしてきた彼女に対して「国の決めた制度としての結婚自体はどうでもいいと思っていること」は伝える必要のない情報だし、なんならまったくズレた答えだった。なぜなら、結婚という言葉で彼女が問うているのは「将来二人はどうあるべきか」というテーマであって、紙切れを出すか出さないかはもともと二次的三次的な問題だからだ。結婚という言葉で彼女が求めているのは、二人の将来に対する増田のビジョンとそれに基づく誓約であり、国の定めた制度が話題なのではない。増田と彼女の間でそこが決定的にズレている。
まさにこれが彼女の望んでいる言葉だ。ならば、「君が望むなら」とかいうクソどうでもいい前提抜きに(なぜなら望んでいることはすでに確認の必要なく明白なので)その「僕は僕で、一生君と一緒にいて、君を幸せにしたいと心から思っている。」という決意と事実だけを伝えればよかった。君を幸せにすることに比べれば、あらゆる面倒ごとはなんでも引き受ける決意だ、と。
さらに、元増田の問題は、「君が望むなら」というクソしょうもない前置きが、一般的には「僕は結婚がイヤだ」という意思表示と受け取られることが理解できていない点だ。口に出すというのは単なる説明ではない。口に出すこと自体が一つの行動(言語行為)となるケースがある。たとえば「一生一緒にいると誓います(誓約)」「お前をひどい目に遭わせたい(脅迫)」「誓います」と言えば「誓い」という行為は完結する。「ひどい目に遭わせたい」と口にすれば「脅迫」という行為は成立する。その流れで言えば、結婚したいという相手に対して、結婚に対して積極的でないという所感を述べるというのは、明白な「拒否」行為だ。そりゃ泣くよ。
重ねて言うが、こういう「言えば即それが行動となる」ケースで、内心をいちいち説明してはいけない。というか、一般社会の人間関係においては、大体のところ君が内心どう考え感じているかをいちいち言語化しなくていい。「二人の人間の間で、思っていることを全て口に出せば、大体殺し合いになる」とは比喩的に言われることだが、この社会では、考えていることを口にしないことが大体において社会を円滑に運用することにつながっている。夫婦関係においてもそれは大体同じだ。
とりあえず彼女に対して、自分の意図していないことで傷つけたと思う、と、まず謝罪すべきだ。そして、どうするつもりなのかだけを率直に言えと言われたのでそうする、と前置きして、増田が将来においてどういう二人であろうと決意しているか、行動するのかだけを率直に述べよう。それが「ビジョンと誓約」だ。そして、それで(不思議に思うかもしれないが)君が考えていることはきちんと伝わる。
いいか? 向こうの親に「君は結婚というものをどういう風に考えているんだい?」とか聞かれても、結婚制度について所感を一席ぶつ必要はないんだぞ。誰もそんなん求めてないからな。
「自分は、相手に対して誠実に向き合い、どんな困難にも二人で立ち向かい、ずっと一緒にいたいと考えている」と言えばよい。結婚という言葉で求められているのは「ビジョンと誓約」なんだ。それを忘れるな。
アダルトビデオへの強制出演が、ホッテントリで話題になっている。
私がアダルトビデオに出演させられるまでに起きたこと 被害の実態
現役も志願者も必読!AV女優のお仕事事情 - Togetterまとめ
AV出演強要騒動 訴えたのは*****だった! - NAVER まとめ
有名(出演多数)のAV女優がいることから、「強制だとは思えない」という声もあるが、麻美ゆまの証言からもわかるとおり、最初に強制があったということが問題なのだ。いったん強制の泥沼に嵌まったあとで、自発的に出演することがあったとしても、それは当初の強制があったことを免責しない。
比喩的に言うと、強制的に麻薬を売ってシャブ漬けにしたあと、麻薬中毒になった患者が自発的に麻薬を欲しがったとしても、最初に強制した人が「あれは自発的だったんです」と言い逃れをすることはできない。最初の強制と、事後とは、別のことだ。
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手が足りないからか? いや、ろくでなし子の事件を見ればわかるように、被害者のいないただのわいせつ物陳列罪のためには、警察は多大な手間暇をかけている。女性器の展示というようなことになると、警察は圧倒的な労力をかけて、これを摘発しようとするのだ。労力ならばありあまっている。
考えると、 AV女優の被害は、強姦(正確には準強姦)と同様である。Wikipedia から引用しよう。
暴行・脅迫によらない場合も、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は女性を心神喪失・抗拒不能にさせて姦淫した場合は、準強姦罪が成立する(刑法178条2項)。
心神喪失とは、精神的な障害によって正常な判断力を失った状態をいい、抗拒不能とは、心理的・物理的に抵抗ができない状態をいう。睡眠・飲酒酩酊のほか、著しい精神障害や、知的障害にある女性に対して姦淫を行うことも準強姦罪に該当する(福岡高裁昭和41年8月31日高集19・5・575)。医師が、性的知識のない少女に対し、薬を入れるのだと誤信させて姦淫に及ぶのも準強姦罪となる(大審院大正15年6月25日判決刑集5巻285頁)。
これに対しては、次の抗弁が成立しそうだ。
「心神喪失・抗拒不能したのは会社側であり、姦淫したのは AV男優である。ゆえに、両者は別々だから、どちらも強姦したことにはならない」
しかし、これは成立しない。Wikipedia には、こうある。
2人以上の者が共同して強姦(準強姦含む)した場合、集団強姦罪として法定刑が加重される。なお、集団強姦罪の場合は、実際に性行為に参加していなくても、その場にいれば成立する。
これゆえに、準強姦は成立する。AV男優については、「自分はそうとは知らなかった」という弁明が成立する(ゆえに罪が軽減される)ことはあるだろうが、会社側は主犯として弁明は成立しない。
ではなぜ、強姦罪は、わいせつ物陳列罪ほど、摘発されないのか? その理由は明らかだろう。
「警察は、強姦を、わいせつ物陳列罪よりも軽い罪だと思い込んでいるから」
要するに、「レイプすることは、出歯亀みたいに覗きをすることよりは、罪が軽い」と思っているわけだ。だからこそ、警察は、強姦には甘いのだ。
これが真相であろう。
ただし、別の理由も考えられる。それは、「警察は、自分自身がしょっちゅう強姦をしているので、自分自身が逮捕されないために、強姦を見逃すのだ」
これは、案外、考えられる。というのは、次の事実があるらしいからだ。
「警察は、留置場における同性レイプを見逃す。とにかく、やたらと留置することばかりに熱中しているから、同性レイプんかがあっても構わない」
こういう状況があるから、警察は、レイプに甘いのだろう。自分自身がレイプをするのではなくても、レイプの管理者になっているからだ。
その意味では、警察も、AV会社も、そっくりなのである。AV会社を逮捕することになったら、警察自体も逮捕されかねない。だからこそ、AVの強制による強姦を見逃すのだろう。
《 余談 》
しかし、一部で摘発しても、業界全体のほとんどは見逃されている、という現状がある。これはろくに解決されない。
警察の主力は、やはり、ろくでなし子みたいな「被害者なき犯罪」だけなのだろう。こういうのなら、楽に摘発できるしね。
> http://anond.hatelabo.jp/20160524045830
釣りにまじめに反応するのもどうかと思うけど、「投資」は失敗する確率もあるからこそ投資で、単に空振ったってだけの話では。全部の投資が成功するなら有限責任も保険もいらねーんだよ
だが、ここで論じているのは「投資としての教育をやるかやらないか」ではない。
「投資としての教育をやるかやらないか」を論じるのならば、上記のブコメは批判として成立する。
「全体として成立すればいいから、教育への投資をやるべきだ」となる。
だけど、元増田が論じているのはそういうことではない。「投資としての教育をやめろ」なんて主張はしていない。
「教育には投資という面があるから、無駄な投資はするな」と言っている。
比喩的に言えば、投資の成功の見込みが低いボロ株からは手を引け、と言っている。
決して「投資のすべてをやめろ」とは言っていない。
なのに、上記のブコメは、「投資のすべてをやめろ」と曲解して、それへの反論をしている。
はてなー は、やたらと曲解が見られるが、本当にひどいね。知性レベルを疑う。
「おまえ、ちゃんと味見してる?」
「あとで自分も食べなきゃならないのに味見なんてしないしレシピ通りに作ったからこれで正しい」
おのれクックパッド
増田はクックパッドのせいにしているが、クックパッドが悪いのか?
メシマズは味見をしない。これは2ちゃんねるメシマズ板にも集約された偉大なる結論のひとつである。とにかくあいつら、ご飯を人に出す時に味見をしないのだ。
まだ完食する人間は善良だ。最悪のメシマズは「自分で料理を作っていたらおなかいっぱいになっちゃって」と味見していないものを人に出してくる。で、後で本人は菓子パンを食べていたりする……。
メシマズは味見をしない。ではなぜ、そうなのか?
「とにかくあいつら、ご飯を人に出す時に味見をしないのだ」
という書き方だと、まるで一種の人種みたいに見えるが、そういう先天的なものなのか?
私の考えを言えば、メシマズというのは、先天的な人種でもないし、先天的な性格でもない。では何か?
第1には、後天的な料理経験の不足だ。誰だって料理能力を持つには、十分な経験が必要だ。メシマズの人は、まともな料理経験がない。修業不足だ。これが根底にある。
第2には、(経験不足による)能力不足を、認めないことだ。これが決定的に大きい。味見をしないのはなぜかというと、味見をすることで料理の不味さと直面するのを避けているのだ。比喩的に言えば、学力不足の人がテストを避けるようなものだ。テストをすると、自分の能力不足があらわになる。それが怖いから、テストを避けたがる。……そういうのと同様に、自分の料理の不味さと直面するのを避けたがる。だから、味見をしないのだ。
上の二つについて、どう対処するか?
第1に、料理経験の不足については、学習することで上達が可能だ。ただし、もともと自分の無能を暗黙裏に感じているので、学習を厭がる。そこで、夫婦で協力したり、ゲーム感覚でやったり、あれやこれやと楽しい料理学習をするといい。たぶん、現時点では、料理をするのが苦痛になっている。この苦痛を取り除いて、楽しい料理ができるように、何らかの案内人がいるといい。(本やウェブだけでは無理だろう。)
第2に、能力不足を認めないことは、これはもう、一種の病気である。精神病。プリントアウトしてお医者さんへ……と言いたいところだが、お医者さんももてあますだろう。
(1) アメというのは、料理の下手さをはっきりと認識させた上で、「でもきみは料理は下手でも、女らしくてかわいいから好きだよ」と褒めたり、「今は下手でも努力するところが好きだよ」と支えたりすることだ。料理の下手さを、別の点で補って、相手の不安を取り除く。(これは一種の精神科医的な治療だ。)
(2) ムチというのは、自分のメシマズを直視しないでいる点を、はっきりと直視するようにひっぱたくことだ。具体的には? 彼女たちはこう思っている。「私は料理は下手だけど、かわいくなるように、お化粧やファッションですごく努力している。彼に愛されるように努力しているんだから、お料理ぐらい下手でも大丈夫よ」。こういう認識を崩壊させるといい。具体的には、こう言う。
「僕はきみのことがすごく好きだよ。かわいいし、優しいし。だけど、メシマズの点だけは、どうしても我慢できない。きみのことは好きだけど、このままでは死んでしまうか、病気になる。だから、きみのことは好きだけど、離婚してくれ」
これだけはっきり言えば、否応なしに、自分のメシマズ具合に直面するだろうし、泣き出すだろう。女が泣き出したあとで、慰めて上げればいい。目的は、離婚することじゃなくて、自分のメシマズ具合に直面するようにすることだ。現状を変えるには、いったん、現状を破壊するしかない。現在の安定した状況を破壊すること。そのためには、離婚の申し出は必要だ。
(ただし、「嫌いだから」と言ってはならない。「好きだけど仕方ない」というふうに言う。)
(泣いた嫁さんが「これからは頑張るから離婚しないで」と言ったら、万事丸く収まる。「努力するくらいなら離婚する方がマシ」と言ったら、離婚した方がいいね。こういうタイプは、子育てもできないし、子供も餓死するかもしれないぞ。)
※ ブコメについて。
eqph 結局、飯が不味いのが気に入らないなら離婚しちゃえよ、という、極論。離婚まで持ち出した時点で、すでに関係が終わっていると思います。
ちゃんと読んで。離婚は、口に出すだけです。実行する気はないんだよ。
実行するとしたら、相手が「メシマズを直すくらいなら離婚する方がマシ」と言い出した場合。
この場合には、当然、慰謝料ゼロでしょ。向こうが離婚したがっているんだから。
こっちが慰謝料をもらえるかも。
まさしくその通り。私の趣旨を正しく読み取っているね。こういうふうに読み取る人が、頭がいい。
で、「飯まずは指摘を受け入れることができないのが問題であって」ということの対処として、「離婚を口に出す」というショック療法を取るわけ。それだけです。
これを読んで、「現実の離婚に進む」と読み取る人は、どうかしている。目的は、喧嘩することじゃなくて、夫婦で仲良くすることだ。正しく読み取ってほしい。
guinshaly うわーん!これ、ダイエットにも言えるやつだー!!信頼関係にある相手ならビシっと言ってくれたほうが、問題と直面しやすいかも。信頼関係にあればの話だけど!
そうですねー。だから、「アメとムチ」というセットです。信頼関係を構築すると同時に、厳しいことも言って、現状を打破するというわけ。決して鞭だけでひっぱたくわけではない。まして離婚をめざすわけでもない。本稿を読んで「離婚が目標だ」と勘違いしている人もいるけどね。
※ 最後に「訂正」あり。
この二つが話題になっていた。
元ページ
http://hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/14/104818
http://hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/15/142831
http://b.hatena.ne.jp/entry/hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/14/104818
http://b.hatena.ne.jp/entry/hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/15/142831
ナッシュ均衡は、理系の概念なので、理解している人が多いようだ。ここでは特に解説しないが、次の点を理解しよう。
一方、ワルラス均衡は、文系の概念なので、理解してない人が多いようだ。次のページでちゃんと勉強してほしい。(簡単だ。中学で習ったはずだ。)
http://chu.benesse.co.jp/qat/3519_s.html
http://homepage1.nifty.com/gujyo-economic-res/micro.files/w-antei.htm
ここでは、次の点を理解しよう。
ここで、元のページに戻ろう。
これは、明らかにワルラス均衡だ。どこでも普通に見られる現象である。「それ以上下げられないところ」とは、「それ以上下げられない価格」のことだ。こうして価格が一定の水準に安定するのは、前述のワルラス均衡そのものだ。(ワルラス的調整過程という。)
※ このことを理解できなければ、上の中学生向けのページを読んでほしい。
具体的な例で示そう。
たとえば、イオンは徹底的に価格を下げるので、利益率が1%ぐらいになる。これよる高くしてもいいのだが、そうすると、客が逃げるので、価格を下げざるを得ない。「これ以上下げたら利益がゼロ同然になって困るから、これ以上は下げようがない」という水準が「利益率 1%」という水準であるわけだ。
一方、セブンイレブンは、価格をあまり下げなくても、客が来る。利益率が 10%ぐらいになる。「これ以上下げたら儲けが減って悔しいから、下げてたまるか」という水準が「利益率 10%」という水準であるわけだ。
どっちにしても、ある程度まで、価格が下がる。これはワルラス的調整過程だ。
一方、全員でカルテルまたは談合をすれば、大幅に高値に設定することができる。普通の市場でのカルテルは困難だが、官庁の入札では、参加者が少数だから、談合によって大幅に高値を設定できる。
このような高値設定は、連続的に到達できる点ではなく、懸け離れた特異点である。したがって、談合による価格は、「ナッシュ均衡」と見なせる。ここでは、戦略によって、特異点に移行するわけだ。
以上によって、説明ができたことになる。
経済学の理論と、ゲーム理論とは、まったく別のことなので、きちんと区別しよう。
特に、中学で習ったはずの「需給曲線」については、きちんと理解しよう。これは決してナッシュ均衡と対比されるようなものではなく、ナッシュ均衡とは全然無関係で別の話だ。
ブコメで、「ゲーム理論と経済学を区別する必要性は感じない」というのがあったが、それは、「戦略と、価格・数量を区別する必要はない」というのと同じで、狂人の発想だ。
例。
社員 「この新製品の価格と数量は、どのくらいが見込めますか? 10万円で 1000台ぐらいでしょうか? もっと安くして、数量を多くしましょうか?」
社長 「ナッシュ均衡になるように、カルテルを結ぼう。それが正しい戦略だ」
これじゃ、会話にならないし、論理にもならない。気違いの錯乱論理だ。
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ワルラス均衡は企業と消費者をプレイヤー、生産計画と消費計画を戦略集合、利潤と効用を利得とするゲームのナッシュ均衡に過ぎない
そんな発想では、プレイヤーの数が無限になり、選択肢の数も無限となり、意味不明になる、という矛盾はさておき。
ナッシュ均衡で得られるのは「戦略の均衡」であり、ワルラス均衡で得られるのは「価格と数量の均衡である」という点を理解できてないね。中学校の教科書を学び直すといい。
なお、「価格と数量は、戦略の一種だ」と思う人もいるかもしれないが、違う。戦略は、個々のプレイヤーレベルで決まるのであり、いくらでも個別に戦略の変更は可能だ。一方、市場の価格と数量は、市場の全体によって決まるのであって、個別のプレイヤーレベルでは決定できない。たとえば、どこかの誰かが、特別に高い価格を戦略的に決定しても、その価格は、市場の価格には影響せず、市場外の価格となるだけだ。
どうも、上記見解の人は、ゲーム理論ばかりを見て、経済学の知識が中学生ほどもないようだ。まずは、中学校の教科書を理解するべき。「市場原理とは何か」「需給曲線とは何か」を理解するべき。それがわかっていないから、すべてを個別のプレイヤー理論で解釈しようとする。
トラバにも、同じ誤解が見られる。
市場価格というのは、個別企業の問題ではなく、市場全体によって決まる、ということを理解できていない。市場価格というのは、経済学の問題であって、ゲーム理論の問題ではない、ということを理解できていない。比喩的に言えば、「個人がどうするべきか」ということだけを考えていて、「国レベルでどうなるか」ということを理解できていない。マクロ的な認識ができていない。
しかしまあ、はてなーというのは、ゲーム理論の知識だけはたっぷりとあるということは、よくわかったよ。あと、文系の知識は、中学生レベルほどの知識もない、ということも、よくわかったよ。
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通常2名というのはただの思い込み
実は、ここでいう2名とは、「自己」と「他者」のことである。「他者」は複数でもいいが、一貫して「1名」と同じふるまいをすることが必要となる。
たとえば、カルテルは、「他者」が1名として同じ行動を取ることが要請される。仮に、「他者」が分裂して、複数の行動を取るなら、カルテルは成立しなくなる。「カルテル破り」が出て、カルテルが崩壊するからだ。
この意味で、通常2名という単純化(モデル化)が、ゲーム理論では必要となる。一種の前提のようなものだ。
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市場の価格決定は、市場によって決まる。個別企業の選択肢は、市場の価格決定には影響しない。
たとえば、市場価格が 100円であるときに、120円という価格で販売しても、それは、市場には影響しない。その企業がそういう戦略を取ることは可能だが、それは市場価格には影響しない。市場価格は、ワルラス均衡によって決まるのであって、個別企業の戦略によっては決まらない。120円という価格で出した企業は、取引が成立しないので、市場外となるだけだ。
ここで論じているのは、市場価格であって、企業の戦略ではないのだ。
話題となっているのは、プレイヤーの戦略ではなくて、(市場における)価格決定の過程だ、という点を理解するべきだ。(企業における)価格決定の戦略は無関係だ。企業の価格決定は、決して均衡しない。どのような価格決定もできる。100円でも 120円でも、好き勝手に値付けできる。しかし、市場における価格は、決定される。それが均衡点だ。
ごめん。「ナッシュ均衡」という用語の意味をよく理解してなかった。
この用語は、私が理解していたよりももっと広くて、一般的な「均衡」のことを意味していた。
私は「パレート最適」でない場合のことだけだと思っていたが、「パレート最適」である場合を含んでいた。この点は用語を勘違いしていたので、お詫びして訂正します。
ただし、「パレート最適」である例を「ナッシュ均衡」という用語で説明することは、ほとんどない。「パレート最適」である均衡は、昔からずっと知られていたし、ナッシュが発見したり解明したりしたわけではない。市場における価格均衡も、ナッシュ以前からずっと知られていたし、ワルラスが解明していた。
したがって、市場における価格均衡を「ナッシュ均衡」と呼ぶことは、間違いではないにせよ、適切ではない。また、ナッシュ均衡の例を示すために、市場における価格均衡を持ち出すことも、適切でない。
市場における価格均衡を説明するには、「ナッシュ均衡」ではなく「ワルラス均衡」または「マーシャル均衡」という概念を出すのが適切だ。
また、ナッシュ均衡の例を示すのならば、市場における価格均衡を持ち出すのは、間違いではなくとも不適切であり、囚人のジレンマのような例を持ち出すのが適切だ。
私がこれまで「間違い」と指摘してきたことは、「間違い」と言うより「不適切」と呼ぶべきだった。この点は、お詫びして修正します。
参考:
「じゃ、どうすりゃいいのよ」
という質問には、こう答える。
「市場における価格均衡を説明するには、中学生の教科書のような図で説明するのが最適であり、ナッシュ均衡を持ち出すのは過剰である。ナッシュ均衡を持ち出すのはは、紙を切るのに日本刀を持ち出すようなもので、中学生が基本概念を理解するには重武装過ぎて、不適切。元の話の例では、ナッシュ均衡という概念は、一切必要ない。(間違いとは言わないが。)」
http://anond.hatelabo.jp/20151019213445
「努力が足りないのだ」と叱責する者が多いが、まるで見当違いだ。あなたは全然悪くない。ユーモアのつもりであなたを責め、戯れ言に興じる小物たちの言葉など聞く必要はない。
なぜ魔法少女になれないのか。
なぜならそれは、魔法少女になった人間がこの世に存在しないからだ。あなたに絡んでくる者、あるいはあなた自身も、その残酷な事実を受け入れられない。いや、分かっていても分からないふりをして、虚構の世界と夢を守ったフリをして気取っているのだ。しかし、前例がないからといって、イコール魔法少女になることが不可能なわけではない。
あなたがこの世界で最初の魔法少女になればいいのだ。最初の魔法少女なのだから、自分自身がルールなのだ。ただし、「俺は魔法少女だ!」と高らかに宣言したとき、そこにいる観衆の大半が「こいつは本物だわ」と納得しなければならない(もちろん、他者を納得させる必要はないという論もある。しかしここでは取り上げない)。つまり、俺ルールを作り上げてもいいが、他者をも納得させる妥協点を探る必要がある。「魔法」とは何なのか。「少女」とは何なのか。その言葉が規定する可能性をどこまでも掘り下げ、2つの概念を矛盾なく結合させる点を探る。そしてそのプロセスを雄弁に語る必要がある。
困難な作業になる。しかし、不可能ではない。もし行き詰まるようなら、著名なテキストサイトの管理人やネタブロガーを見習うのがいいだろう。
「いや、そんな理屈をこね回してネタで魔法少女になりたいわけじゃないんだよ!」
その気持ちもわかる。だが、あなたの知っている魔法少女もそうやって出来たものではないとどうして言えようか。演出やエフェクトが描き出す「魔法少女感」の裏に、必ず、どうしたら「魔法」で「少女」に「見えるのか」という生みの苦しみがあったはずだ。そうしたネタ出しの初期の姿は歪で陳腐なものだったかもしれない。
何かを生み出す時には、つねに柔軟な発想が求められ、そうして出来たものを貫き通すことが説得力を生む。たとえばあなたの知っている魔法少女の中に、魔法は使わない物理攻撃型の少女はいないだろうか。しかしあなたは彼女を「魔法少女だ」と認識している。あるいは、もはや少女とは言えない体格の魔法少女もいるかもしれない。でも受け入れているだろう。それはどういうことだろうか? 契約をしたから? 体や装備が魔法体だから? 本当にそうだろうか? そういう説明をされる前から、あなたはコンテクストで「この子たちは魔法少女」と確信していたのではないか?
このことは、表現を受け取る側の人間も、相当に柔軟になりうるという事を示している。それは人間の美しいあり方でもある。柔軟になるだけのコンテクストを共有していない人間からみれば、その発信者も受信者も「宗教くさい」と蔑視されることもあるだろう。しかし、そのような美しくない眼差しを考慮する必要はない。あなたと、受け手が信じてさえいれば、そこには何だって降臨し得るのだ。実際、あなたは創作上の魔法少女という存在を、彼女らが与えてくれた感動と社会的ムーブメントを、虚像だとは思っていないだろう。そこに「ある」と信じることで物は生み出され、定義される。それは儚くも尊い、人間の壮大な営みの一部だ。魔法少女なんてものはその極致のようなもの。それに素直に憧れることができたなら、もう一歩先に進む人がいてもいいはずだ。
……ここまでの内容を消化し昇華するだけでも、魔法少女になれる可能性は十分あるだろう。だが依然として困難を感じている人も多いことと思う。それは、「魔法」というものに対して説得力を出すことが難しいためだ。
あらかじめ潰しておくと、「少女(見た目)」についてはどうとでもなる。仮に、あなたが男性だったとしても、いまは「男の娘」なんて言葉があるくらいに、男子が女子と見られるためのノウハウや文化の蓄積がある。あなたが青少年とはかけ離れた年齢だったとしても、歳をごまかすテクニックはそれ以上に長年の蓄積がある。なんなら手術という手もある。その上、それらが完璧でなくても、受け手の柔軟さを上手に喚起してやれば受け入れられるはずだ。あとは自分自身が自らの姿を受け容れるだけの精神性を築き上げればすむ。
だが魔法はすこし性質が異なる。魔法というものはこの世に存在していない。いや、ありふれていないと言ったほうが正しい。馴染みのない概念は、当然ながら受け入れるのが難しくなる。創作上の魔法を受け入れているのは、「これは創作だから」というモード切替スイッチが人々の頭についているからだ。とはいえ、現実世界にも「魔人」「魔法使い」と称されるような人間は存在する。スポーツ選手などが思い浮かぶだろう。しかし彼らは「魔」や「魔法を使える」存在ではなく、同じ人類だ。比喩的表現。つまり、同じ時代に生きている人類とは思えないほどの所業をやってのけることが「魔法」なのだ。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉を引用するまでもなく、我々は魔法という言葉に魔法性を過剰に感じすぎているせいで、自ら「魔法」の枠を狭めがちなのだ。創作上の魔法は、ファンタジーと分類されることが多いが、細かい原理を説明していないだけの超科学が常識的に利用されている世界と捉えれば、SFと同列である。
とは言ったものの、我々のような凡人が、人々の目を欺くような超科学、最先端技術を操れるわけではなかろう。習得しやすいのはマジックような技巧の類だ。現実世界ではマジシャンが一番「魔法使い」の称号に近いところにいる。なので、順当に考えれば、「マジック少女」から「魔法少女」に昇華させる線が現実的に思える――ところがここで問題が起こる。我々の知っている魔法少女は、マジック少女のすごい版ではないのだ。人のために働く、助ける、守る、攻撃する、あるいは駆けつける、着替える、契約する、それらのタイミングで魔法が行使されるのが普通だ。なのでベースの行動をそのあたりに設定する必要がある。その際の「普通のやり方」を「魔法みたいにすごいやり方」に変えることが、魔法少女の必要条件だといえるだろう。ただ、これだけでは、「早着替えをマジックと映像技術で魅せるパフォーマー」程度どまりだろう。
魔法少女たるには、「魔法」的存在である事の他にもう一つ欠かせない要素がある。ヒロイックであることだ。すなわち、何かの使命をおびている。何かを背負って、何かに突き動かされている。別に世界を救うレベルでなくもいい。ご当地ゆるキャラ並の小さな使命感でもいいから、何がしかのパッションが滲み出る象徴的なキャラだと認識されなければならない。
さて、私の陳腐な魔法少女論はここまで。あとは「自分の頭で考えよう」。長年夢見てきたあなたの中には、きっと何らかの「魔法」の種火と、小さな使命感の欠片があることだろう。あと生まれ持った体と。それらの調理法を考えるだけの話だ。理想の魔法少女像との乖離は、きっとあとから埋まってくる。最後に叱咤の一言で締めくくろうと思う。
「努力が足りないのだ」
とはちょっと違うかもしれないけど、芸術人の孤独みたいなものがやっぱりあるよね。あるよね?
我々音屋にしてもそうで、なかなか目の前の音を観てくれない。
オーディエンス(聴衆)が互いに隣や周囲ばかり見ててステージのほう見てくれない。比喩的な意味で。
そこには芸術家の苦悩が赤裸々に綴られていた。やっぱりそういうのあるよね。
今の時代はルネッサンスと違って、インターネッツで観衆どうし簡単にやりとりできる。
作品そのものを見てほしいのに、作品が独り歩きしてファンの間で共有されていて、
正直今どきそんなの気にしてる時点で向いてないよと言われちゃったけど。
ネット見なきゃいいじゃんとも。そういうことじゃないんだよな。ちゃんと伝わってほしい。
良いものを作ってれば伝わる人には伝わるとも言われた。それは一理ある。
だけど俺の場合伝わったと思ったら伝わった旨を作者にメールしたくなるんだよな。俺だけ?
勘違いなのに理解者を気取ってるかもしれなくて怖いけど、迷惑かもだけど、送ってしまう。
だけど、そういうメッセージを貰った話は身近では聞かない。メールでも口頭でもいいんだけど。
それって伝わってないってことなのか、そもそも伝えようとしてるものが大したものじゃないのか。と考えてしまう。
根本にはひらめきや気付きで美しいと思ったものの完成した姿を見たいという動機があって作ってるんだけど、
総合的な話題の帰結がコンビニバイトというわけではないとおもうんだ
ただこの枝の現時点での主体がそうなっているのかも
流れ的には
1000万円を稼ぐ人は別に1000万円の生産をしている人とか能力を保持しているわけではないこともある
1000万円稼ぐ人と100万円稼ぐ人が結果的に同じ手取りになるように税金で差し引かれるようになると
1000万円稼ぐがんばりをしなくても100万円くらいのがんばりでいいやって思うようになるんじゃない?
今手取りでそれだけある人から差し引けばその分税収はふえるけど次に1000万円チャレンジする人がいなくなるから
今年900万円の税収があっても来年はゼロになるかもしんないじゃん?
全員手取り100万円にしてみ そんなに世の中かわらんよ
実際1000万円もらってるやつなんてたいしたことしてない
減っても変わらないなら増えてもかわらないんじゃない?
少ないから多いところからもってこようという話をしてたんだとおもってた
このいま入れた数字はご質問から引用したもの で上記のやり取りで例えに使用したのがコンビニバイト
別に昼間でも「塩多め」で注文すればマックポテトに塩をかけてくれるんだけど、だいたいの店員は塩ポテトがそんな好きじゃないので塩加減が分からずたんにめっちゃしょっぱいだけのマックポテトを作る。そういうわけで、四時くらいのフツーなポテトの塩っぽさがちょうどいい。
四時のマックでおれはバーガーセットを頼まない。別にバーガーが嫌いなわけじゃない。でも、四時ポテの塩味にバーガーは合わない。バーガーはケッチャップがやたら強くて甘いか、チーズかパテの塩が聞いていて四時ポテの塩を相殺してしまうかのどちらかのタイプしかない。俺は純粋な塩ポテトが食べたいんだ。でも、四時にマックにやってくるような大学生どもはママのおっぱいを忘れられない味覚未成人どもばかりだから、バーガーを食う。アホだ。
ところが純粋ポテトは純粋がゆえにかなり難易度が高い。純粋すぎる水は人を殺せるというアレだ。四時ポテだけ食ってるといつしか自分がポテトを食べているのかそれとも塩のかかった油の固形物を食べているのか、わからなくなる。
わからなくなるといっても比喩的な表現なので、もちろん自分がポテトを食べていること自体は認識できるんだけど、要するにうんざりしてくる。わかりやすくセックスに例えれば、松潤とは夜通しヤれるかもしれないけれど、剛力彩芽とは三回が限界かな、みたいな気持ちだ。
というわけで、つけあわせがひつようになる。マックはえらい。四時ポテファンのニーズをたくみにうけとめて、「セット」という概念を発明した。さすが世界一のバーガーチェーンである。
なので、ドナルドの厚意に感謝しつつ、四時ポテのセットにはマックナゲットを頼もう。
マックナゲットとて純粋ポテトの純粋さ、そのヴァージニティをまったく汚さないほどの紳士というわけでもないけれど(ここにはマックの「あらゆる商品が主役になれるだけの自己主張の強さをあたえる」といういかにもアメリカン・ウェイ・オブ・ライフ的な思想が反映されているのだがこの文では置いておく)チキンの適度な弾力感と油っ気が四時ポテの塩感をアシストしてくれて、なによりそのパリッとした衣! ふにゃちんバーガーどもは一線を画するたくましいマッチョイズムを体現した武骨な食感は塩ポテ自体の硬派さと相まって、まるで厳格な規律で知られる名門野球部とバンカラ応援団のようなアツい漢のハーモニーを奏でてくれる。たとえ極寒のマックであろうと、マックナゲットと四時ポテが揃えば、そこにはもう夢の大舞台、夏の甲子園決勝戦だ。
そういうわけで、脳内ブラスバンドがピンク・レディーの『UFO』を響かせるなか、今日もきょうとて午前四時にポテトとマックナゲットのセットを買いにきたのだが、どうも店内の様子がおかしい。
なんというか……メニューのデザインが変わっている。シンプルを越えて貧乏くさくなってる。なんとなくエコくさくなってる。日本の四倍の面積のアマゾン天然林を毎日切り倒して恥じない、資本主義の暴虐を体現するあのドギツい原色はどこへ?
っていうか、デザインどころかメニューそのものも変わっている。なんというか……なんだろ、サイドメニューが選択式になっている。ポテイトオ一択だった頑固なラーメン屋感は消え失せ、ポテトやサラダやマックナゲットのヴァリエーションからお好きなものを選んで下さいという消費者へ媚に媚びた娼婦のような仕様になっている。似たようなシステムの娼婦にKFCがあるが、あれはフライドチキンのつけあわせに揚げた鶏が選べるという極めて硬派な、辰巳芸者のような反骨とダンディズムあふれる売笑なのであって、こんなポテトのサイズによってセット価格が50円引きになったりするような軟弱なものと一緒にしてもらっては、南北戦争で二百万人を殺し、大阪では七百万の阪神ファンを何十年にもわたり絶望のどんぞこへたたき落とした怒れる神、サンダース大佐も大激怒だ。
なにかがおかしい――おれは動揺をおさえ、平静をよそおいながらマックナゲットセットを注文した。ところが店員はキョトンとした顔で、
「マックナゲットはセットにできませんよ」と事も無げにぬかしがる。
曰く、マックナゲットは「サイドメニュー」なので、おなじ「サイドメニュー」であるポテイトオとはセットにできないということだった。
理不尽である。なぜ一ヶ月前にできたことが突然できなくなったのか。なぜサイドメニューのセットでサイドメニューを頼んではならないのか。ポテトのMとポテトのSのセットを食べたい客はこれからどこへ行けばいいのか。おれはこれからどうすればいいのか。
「できませんか」と一縷の望みをかけて俺は再度問う。
「すいませんが」と即答する店員。
「そうですか」……とこんな短い問答のあいだに僕は驚くべき速度で自分を立てなおしていた。そこは大人である。
セットにできないなら単品で頼めばよい。
ポテトのMと、
ドリンクのM。
しめて670円。
670円?
670YEN?????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
天帝よご照覧あれ、だ。こんな大理不尽がまかりとおっていいのか。メニュー改定前は500円そこそこだったはずのマックナゲットセットが、今はちょっとしたカフェ飯価格とは!!! この世から正義は潰えてしまったのか!!???
でもやはりそこは俺も大人である。
だったら「成長できる職場です」というのは一体全体どういう職場なのか。
言葉に付随するイメージを援用するためにあえて比喩的に用いる行為も、うまくやってのけられたなら賞賛に値する。
文句があるとすればその程度の詐術に社会丸ごと引っかかる馬鹿さ加減のほうだ。
成長という言葉は発育という言葉とほとんど同義で、組織の不可逆的な大きさの変化、複雑化のことを表している。
人間の身長は20歳を迎えるころには既に変化しないものだし、したとしてもそれは遺伝的な要因だろう。思春期にバスケやったら身長伸びるとかじゃあるまいし、仕事場でどうこうなるものなわけがない。
こういうことを言うと、精神的に成長してるだのなんだのという反論が当然出てくるだろう。
しかしながら脳組織は体よりも成長が早く年齢一桁代で八割方完成しているものだし、経験はあくまでも経験である。処理プロセスの最適化を成長と言い張られても困る。私のパソコンが毎週金曜の夜に成長していることになる。前よりだいぶ遅くなってるのに。
まあ、新しいことを覚える、というのが成長というなら一部は認める。泳ぎ方とか自転車の乗り方とか、一度習得したら二度と忘れないのに関してはそうかもしれないが、エクセルの使い方なんぞ私自身前に覚えたが、使う機会がなかったのでもう忘れてしまった。
つまるところ要するに、巷で言われている成長というのは、周囲の環境に合わせての可逆的な変化、つまり適応のことを言い換えてるだけなのだろう。
そりゃあまあ郷に入っては~とは言うし、社会生活を送る以上はあるていどの適応はやむをえない。しかし適応するのは大抵その環境が好ましいから、という理由であって、適応するために環境を選ぶなど、よほど実験的な目論見でもない限りやることじゃないのではなかろうか。
適応を前提とするというのは、あなたの人間性がこの職場に合っていようが合っていまいが一律に部品として矯正しますね、と宣言しているに等しい。
はっきり言ってそういう不合理で不愉快な環境に適応する気はさらさらない。
さて、野垂れ死ぬまで後何年?
暴論。
早生まれ・遅生まれの発達差は小学1年生レベルでは大きすぎる。
4~9月生まれにとっては、小学校1年の授業は退屈/体育だと体格差が大きい。
⇒児童数が多いエリアでは、4~9月生まれを10月に進学させ、半年早く義務教育をスタートさせては?
そうすると、児童の半数が半年早く教育をスタートさせることになり、教育レベルの引き上げ効果が大きい
比喩的表現をすれば「0.5年生/1.5年生」を創設するイメージ
ただ、交通整理の意味で、「●.5年生」制度は小学校期間までに止め、中学からは4~3月生まれが一斉に入学するようにする。
4~9月生まれが6年生カリキュラムを9月に終えて以降は、「自由時間」とする。学校に行くもよし、自由研究するもよし。
で、私立中学受験は4~9月生まれ組は8月に実施、10~3月生まれ組は2月に(従来通り)実施。定員は半々とする