最近のラノベでも最近のアニメでも最近の漫画でもいいですが、この手の批判(?)をネット上ではよく目にします。
「最近のラノベはいじめられっ子の中高生が自己投影して楽しめるように初めから一切努力せず異世界とか行って無双するものしかない」みたいなのね。
1.フィクションに自己投影して楽しむのが悪いかのように言っている
全く悪くありません。フィクションの楽しみ方は人それぞれです。
全くいないとは言いませんし聞いたわけじゃないので完全に想像なんですが。理由は3に絡めて語ります。
3.フィクションに自己投影するのが「楽」で「弱い」楽しみ方だと思われている
これは1の「悪いとされる理由」にも関わるでしょう。
別に楽で弱くても全然悪くはないし、悪いと見做す態度こそ悪しきマッチョ主義だと思うのですが、そもそも「楽」というのに大きな誤りがあります。フィクションに自己投影して楽しむというのはなかなかできることではありません。
物語を描く上で「共感を得られるキャラクター作り」は極めて重要だと言われます。
たとえ現実離れしたキャラクターであっても、何かしら弱点を設定するとか、普通の人間にも通じる悩みを抱えているとか。
これは現実でもそうですが、人は他者を見るとき、相手が自分と重なる部分があると思うからこそ、「自分だったら」という感情が働き、相手の内面を想像しようとするのだと思います。
そういった意味では誰もが現実非現実を問わず他者に「自己投影」しているのでしょうが、一般に言われる「自己投影」は相手を自分の分身と捉えることだと思います。
しかし、そんなことがそう簡単にできるでしょうか。
「ラノベ主人公はオタク中高生が自己投影できるように無個性な『普通の高校生』に設定されている」とか、その逆に「自己投影して楽しめるように最初から最強で一度も負けない主人公しか受けない」とか言われます。
前者に関しては、「共感」しやすいように平凡な造形にしている面はあると思います。しかし、読者/視聴者が同一視できるほど彼らは無個性でしょうか。
後者のキリトや司波達也はもちろん、前者に分類されそうなキョンも折木奉太郎も阿良々木暦も高坂京介も、自分が見た限りはっきりと人間性を描写されています。
人間としてのディティールが細かくなればなるほど、当然に読者と「違う」部分は増えていくでしょう。彼らは自分なら言わないことを言い、しないことをします。明らかに彼らは自分じゃありません。
また、多くの作品では主人公はもちろんその仲間たち、敵に至ってもそれなりに共感できる部分を描かれています。作品世界で主人公だけが共感できる対象ではないのです。
こうした状態で自己投影ができるなら、それは(皮肉でなく)稀有な才能と言えると思います。
また、自己投影したとして安楽に無双やヒロインたちに愛される快楽が得られるかというと、これもそうとは思えません。
私は自己投影してプレイしたことのあるゲームがあります。艦これやデレマス(音ゲーじゃなく、最初の「モバマス」と呼ばれていた方)などで、あれらの作品ではPCの人間性がほとんど描かれていません。
プレイヤーが彼らを「自分の分身」として操り楽しむためだと思います。
キャラクターの中には提督やプロデューサー(=私)にとりわけ強い好意を向けてくる子がいます。その結果、私は幸せになれたかと言うと、そうでもないです。むしろ愛されることに変な罪悪感があるのです。
「俺なんかのことを愛さないでくれ」「俺はお前の仲間をよその事務所に売却したし、中破した状態で進撃してお前の仲間を轟沈させているんだ。そもそも鼻くそほじってアニメ見ながらプレイしてる」「俺に愛される資格なんかないんだ」
というような。
私がガチ勢で決してキャラクターを犠牲にしないプレイをしていたなら、女の子に愛されてもまだマシだったかも知れませんが。
(個人的に、自己投影して気楽に楽しめるゲームとはPCの人間性が描かれないのに加え、NPCがPCに対して一切人格面での好意を向けず、ゲーム中での成果についても過大に讃えたりしてこない作品だと思います)
つまり、自己投影というのは主人公のキャラを立てざるを得ない多くの小説や漫画、アニメといった作品では難しく、仮にできたとしても批判者が考えているような「楽して無双やハーレムの快楽を享受できる作品消費」ではないのです。
なんというか、「正しい楽しみ方なんてない」と言いましたけど、結局、大抵の人の楽しみ方ってそんなに多様なものではないと思うんですよね。個々の作品への好みはあるでしょうけど、オタク中高生が異世界でチーレムする作品を愛好する中高生も、筋肉もりもりマッチョマンな歴戦のオッサンが泥臭く戦う話を好む(自称も含む)オッサンも、多分同じような楽しみ方をしてますよ。前者が後者を楽しむことも、もちろんその逆も普通にあるだろうしね。
人間だから、好みが正反対の人間でも重なる部分があったり、すごく気の合う人間ともわかり合えない部分があったり、自己投影という鑑賞姿勢を批判する人はそういった認識が欠けてるんじゃないでしょうか。
結果が先で、理屈が後というだけのこと。 要は叩ければ何でも良いってわけ、本質だよ。
とうえい【投影】 ( 名 ) スル ① 物の影をある物の上に映すこと。また,映った影。 ② (比喩的に)ある物事を他に反映させて現し出すこと。 「作者の屈折した心情を-した作品」 ...