はてなキーワード: 体裁とは
おしえてください
本宮ひろ志さんで、舞台は江戸時代、とある地方に、とにかく厳格かつ仏頂面で有名な殿様がいて、笑わせたら褒美をとらす、という場面で、若い男性が猿回しを披露する体裁で面会し、その芸のオチで猿かその男性本人かどっちか忘れましたが、ヘソ踊りの尻バージョンで尻にその殿様の目と眉を描き、鼻として人参を尻の穴に刺して「似顔絵」ってヤッちゃったのですが、周囲が無言で騒然とする中、堂々としていた若い男性芸人に向かって破顔一笑した殿様、立ち上がって唐突に男性の玉袋を服の上から掴み、後の事は任せた、みたいなセリフを伝えて、周囲の部下たちが「ちんちん公が後継者を定めた!」と大騒ぎするシーン、
この時期忙しくって私は飛び込み前転をすることも忘れるぐらい飲食店にお昼行くランチの暇とか隙とかゆとりとかがなくて
毎日がそんなお昼を優雅に行きたい山脈に向かってヤッホーって叫んでるんだけど、
これ幸いか、
食べ物の差し入れをこの時期のシーズンの期間中は限定的によくいただくのよね。
で、
でよ!
いただいていて文句を言うのは本当にけしからん山脈に向かってヤッホー!って私が叫ばれてしまいそうな勢いでものを言うんだけど、
小分けして入れてくれる食べ物のプラスチック容器に入れたもの。
あれあらって返却しなくてはいけない手間とか手間とか手間とかがかかるの。
軽い軽量のプラスチック容器だけだと
水流の勢いで中がプラスチック容器がごちゃごちゃになっちゃうのよね。
そう言う勢いの食洗機あるじゃない。
だからそれ重しにダミーの陶器の重みのある食器を重しに乗せて、
プラスチック容器が水の水流の勢いに飛ばされないようにしなくてはいけない手間もかかんのよね。
プラスチック容器が水が切れない方向に
言うならば通常の食べ物が入っているテーブルに並ぶときの方向で向いていたら、
水がまんま満タンにそのプラスチック容器にあるがまま残っているのよ。
そう言うことがかつて昔にあったから、
プラスチック容器だけだと
それだけだと頼りないので、
プラスチック容器の上に重しの綺麗な食器をわざわざテクって技で乗せて洗うのよねー。
食べ物の差し入れもらって文句を言って申し訳ないわーって思うわ。
要はプラスチック容器をたくさん洗わなくてはいけない逆に手間がかかるのが鬼よ。
それなら保存のきく食料をいただく方が助かりまくりまくりすてぃーなのよ。
ほんと私ってドイヒーな人だと思わないでね。
この時期本当に忙しいから
返ってもスプラトゥーン3を1勝するまでやってばたんきゅーなのよ。
すぐ寝ちゃう感じ。
そんで寝ながらタブレットで動画を見ていたら寝ぼけて手から落ちちゃって
顔にヒットするという
もうこれ何度もやってしまっているのにー。
なので、
ちゃんと早く寝るようにするわー。
差し入れもらった以上に手間がかかるのは手間だわ!ってお話でした。
うふふ。
朝の蕎麦活よ!
ツルッと行けちゃうので食欲なくても本当は食欲あるけど、
食欲が無い体裁でもサクッと食べられるのよね。
美味しいし。
もはや追いレモンもする気力も無いぐらい朝はくたーってなっているわ。
何事も体力が基本よね。
この夏を頑張って乗り切るわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
読んでみた
確かにこの話だけ毛色違うわ
なんか読み切りマンガとして通常のこの作者らしさが悪い意味で感じられない
あとがきでこの話についてのコメントは、「挑戦してみた」との一言だけ。
何に挑戦したのかは明言されてないけど、うすっぺらな想像じゃなくて自分の人生の一部をはじめて切り売りしてみた、ということだと読めなくもない。
ただやっぱりこの作者は自分にはあわない
あさくてぺらぺらで読んだ後に何も残らない、ポエムで間をごまかしてなんとか体裁を保っているようにしか感じられない
ならもう読むなよというかんじだし実際読まない
素晴らしいですね。処世術としては満点じゃないでしょうか。ただし日本の起業の悪いところがギュウギュウに詰まったアドバイスですね。感心しました。これくらい適当でいい加減な人間だけが生き残るのが日本企業なんだという有様を見せて頂いたという感があります。
不器用にも程がある。
冒頭にこれ。
日本社会の悪癖を詰め込んだアドバイスこそが器用な対応だと信じているということがよく分かりますね。
威張って堂々とな。
散々、技能実習生や外国人労働者に対するパワハラや差別的な対応が問題になっているのにこれ。上下関係はあるだろうが、お互いに相互理解の上で仕事をするということが頭にない。上下関係で威圧することしか考えていない野球部的思考。日本の頭の固い管理職によく見られる態度だとしか言いようがない。
「儀式だから体裁だけ整えてりゃいいの」みたいなこと。そういうことばかり繰り返しているから失敗、不具合、事故の原因は明らかにならず、それを解消することもできず、同じ過ちを繰り返して、儀式ばかり増える。そして儀式とその体裁を整える仕事ばかりが増えて実業務の効率は低下する一方となる。日本の会社や行政でどれだけ意味のない手続きがあると思っているのか。そしてそれを解消しようとは微塵も思っていない。自分が改善や改良を進言し実施する一員だという意識がまるでなくただ既存のシステムに心と体を適用させて生き延びようという怠惰な保守主義しか見られない。だから駄目なんだよ。
結局、物事を解決するよりも自分の責任と労力を回避する手立てを勧めているに過ぎない。無責任極まりない。そういう無責任で他人に糞を押し付けるような利己的な態度で仕事をしているから全体の制度も一向に改善しない。無責任であることを勧めるよりも各員が自分の責任範囲で責任を分担し全体を支えていくことで組織は円滑に駆動するのに、そのようなことが念頭にない。こういう奴ばかりだから会社も行政も何も改善しないし無駄は減らない。そして責任者の所在は玉虫色で誰も責任を取ろうとしない日本社会の悪癖がここにくっきりと現れている。
唯一正しい。こういうことを上に進言して改善を促すことが全体の改革にも結びつく。
無責任でいいんだよ。
「たかが仕事くらい」「無責任でいいんだよ」といった安易で他人任せの責任放棄的な態度でいるから何も改善しない。しかし誰かがその責任を受け止めて葉を食いしばって押し留めて仕事をしているから此奴はこんな風な態度でも生きていけるのであって、真面目にやっている誰かの仕事にフリーライドしているだけでしかない。誰かが真面目にやっているからお前はそんな態度でいられるのだ。皆が皆お前と同じ人間だったらこの世の中の制度も倫理も崩壊するのだぞ。
責任持った生き方をしろ、なんて道徳を叩き込まれたんだろうが、あんなもん人を都合よく使いたい支配者の戯言だ。真に受けるな。
頑張れ。賢く生きろ。
確かに支配者、経営者たちが労働者を都合よく給与以上に働かせようとしてそのような道徳を吹き込む場面はあるだろう。しかし労働者として給与に見合う仕事をしているからこそ経営者の怠惰と無策を批判できるのであって、労働者として不良に成り下がってしまっては奴等を批判することもできないのだ。そして会社、企業で真面目に働くことは一緒に働く同僚の仕事と生活を守ることでもあるのだ。一生懸命働くことは経営者に奉仕していることではない。
なのにそのような真面目に真摯に仕事に取り組む人物に「真に受けるな」とか「賢く生きろ」などという言葉を告げる。不良になれとしか言っていないではないか。それのどこが「賢さ」だ?そういうのは「ずる賢い」というのだ。
全体的に世の中や社会や会社の制度や慣習を改善しようと改良のための提言をしようといった姿勢が微塵も感じられない。ただ現行の制度の裏をかいて要領よく生きようとするずる賢さしか感じられない。こんな処世術が蔓延しているからこの国はこの国の企業は駄目なのだ。この国と企業文化の悪癖をささえているのはお前たちだということを覚えておけ。
それから発達障害の人間に対する社会の無理解、その批判(皮肉)。
最後に
「これでまだ何も改善しようと思わないようなら本当に障害かも知れないなという気もする。」
とまとめて
完璧です。お見事です。
皮肉啓蒙とわかる体裁で発表してもバカが文字面だけ読んで批判するのが現代。
(実際案の定文字面だけ読んでコメントしてるアホが大勢いる、こんなもん人並みの国語力があれば発達障害に対する理解向上を願ったテキストであることはわかるだろうに)
忸怩たる思いで書いたんだろう
わかる
ご苦労さまです。
暇なんでマジレスしてやるがオマエが悪い。
不器用にも程がある。
外国人は別の文化や常識や価値観を持っていることに不見識すぎる。
オマエはベトナム人に対して上司であり昇給や配置などの決定権を持っていることを誇示しなきゃならない。
威張って堂々とな。
あと仕事の指示、文書で出したか?口頭指示なんて誰も聞かねぇよアホか。
あいつらマニュアルを出せばそれには素直に従う。曖昧な口頭の指示は縛りがないものとしか認識されない。
あのな、社会は建前で回ってるの。
書面体裁が整えばいいの。管理会社の人間は「下から書面を取った」って事実をエビデンス付き(反省文)で「残す」ことにしか興味が無い。ようは管理会社責任者の責任逃れの体裁を整えてやればいいの。
テンプレ反省文をコピペで作ってせいぜい本人にサインさせるだけでいい。
オマエは方方から放り投げられてくるボールを素直に受け取っちゃってるの。無駄
どんだけ不器用なんだ。
クレームが来たら会社に「ちゃんと教育した人間を寄越せ」と文書(メール)で放り投げるの。
教育はオマエがせぇと返されるだろう。
「それは俺の仕事では無い」「他人を教育をするスキル教育を受けてない」って意味の返事をぶん投げる。
アホみたいにそのまま書くなよ。
やんわりとだがそう解釈せざるを得ない、自分は責任を負いませんよというサジェスト込みの文書を書くの。これ社会で重要なスキル。
念のために「他人を教育をするスキル教育を受けてない」を補足しとくぞ。
オマエに他人を使役する能力があるかってのも含まれるわけだが、それが欠けているならその職能を取得させる教育投資をするのは会社の責任なの。金がかかるの。
そういう会社ならそういう会社で生き延びるスキルも身に付けなきゃならない。
無責任でいいんだよ。
責任持った生き方をしろ、なんて道徳を叩き込まれたんだろうが、あんなもん人を都合よく使いたい支配者の戯言だ。真に受けるな。
頑張れ。賢く生きろ。
何かきっかけがあったわけではなく、気づいたときには妊婦に性的興奮を覚えるようになっていて今に至る。お腹の大きな女性が視界に入るだけでドキリとする。もちろん普段は自制しているが、万が一にも変な気を起こさないように妊婦さんを見かけたら物理的にも精神的にも距離を置くようにしてきた。
なのに、職場の配置換えで産婦人科の担当になってしまった。今まで男性が担当していたが、担当を女性へ交代するよう病院から要請があったらしい。私が選ばれた理由はチーム内の女性が私だけだったから。もちろん立候補なんてしていない。
当たり前だが毎日毎日職場で妊婦さんを見ることになった。視界に入るたびに欲情しているが、それを表に出したら終わりだからなんとか平静を装っている。いつか慣れると信じて働いているが、配置換えから3ヶ月経った今でも慣れる気配はない。
女性にとってきわめてプライベートな空間に男性がいるのを避けたいというのは分かる。だけど男性の交代要員で異常性癖女性こと私がいるのは、下手したら男性を配置するよりよろしくないのではないか。
もちろん病院にも職場にも私のフェチを伝えたことはないから妊婦へ欲情する女が産婦人科に配置されてしまったわけだけど、女性を無条件で信用しすぎじゃないのか。女性にもヤバいやつがいる可能性とか考えないのだろうか。
毎日邪な気持ちと、各方面を騙している罪悪感を抱きながら何でもないような顔をするのがしんどい。性欲と感情と体裁が全部バラバラな方向を向いていて頭がおかしくなりそう。
理由が理由だから配置の変更を上長に申し出ることもできずひたすら耐えている。早く新しい女性社員が入ってくれて、自然と交代してもらえることを祈るしかない。だれか助けてくれ。
編集ってどっちかっていうとインテリだから保守的というか杓子定規な嫌いあると思うけどね。
体裁整ってないのはたとえ面白いと思ってもそれは編集個人の感想であって、市場的には手抜きとかと受け取られ売れないと考えて連載しないもんだろう
なぜみなみけはあんなに背景真っ白で通常の漫画の常識から見れば体裁をなしているとは言えないものなのに、そもそも企画の段階で連載が通ったんですか? そのときのネームはちゃんと背景を描いていたんでしょうか?それとも賄賂的な?
補足
漫画って連載するまでには編集はちょっとしたことでも揚げ足取り取ってきそれがずっと続いてもう載せる気ないんじゃないと嫌気がさした漫画家の話とか聞いたことありますし、それなの背景がろくに描かれてないなんて素人でも分かる明らかな不備で連載が通るって一体どういうことなんでしょ
あの漫画はおもしろさの根幹がキャラクター同士の掛け合いのみなので、漫画のカタチをした漫才やコントみたいなもんです。
漫才やコントは舞台だけだし、あっても小道具くらいでしょ。それと同じで最低限の背景でいいという事になったんでしょうね。
知らんけど笑
男性向けラブコメの多くは告白をゴール、あるいはラスボスと捉えている傾向にある。
それまでデートや贈り物やら恋人がやる事は一通りやっているのに、最終話まで付き合っていないという扱いである。
告白が最後の重要イベントなのは以下の理由があると考えられる。
逆に最初から告白して恋人付き合いを始めるという展開の場合、こういった便利な武器に頼れない。
他に刺激のある展開となると性行為、倦怠期による破局の危機や浮気、事故や病気の克服などディープで年齢の上がったテーマを扱う事になるだろう。
勢いで書いたものなのでまともに推敲しておらず体裁も整っていないので、物凄く読みにくいと思われます。申し訳ないです。
私は近畿に住む21歳の大学4年生だ。およそ半年前、初めての彼女ができた。21の誕生日を迎える少し前のことだ。そして先日、私は彼女を振った。
20歳(それもギリギリ)で初めて彼女ができるというのは、どちらかというと遅めなのだろう。片思いして振られたり告白されて振ったりしたことはあったが、両思いで交際に至るという恋愛経験がなかった私は、キラキラした幸せを恋愛に見ていた。そんなものは幻想に過ぎなかった。
付き合った経緯に関しては結構複雑なので端折らせてほしい。付き合って1か月くらいは幸せだった。毎日全てが満たされていた。ただ、違和感を覚えることは多々あった。2か月3か月と時が経つにつれ、その違和感がどんどん膨らんでいった。
束縛や嫉妬が激しいタイプの人だった。そんな彼女を安心させるためにも、就職活動や卒業論文の執筆で忙しいなか、できる限り時間を取って毎日大量にLINEのやり取りをしたり長時間通話したりしていた。
同性の友人と遊ぶことも制限された。「今度○○(私の友人)と遊んでくる」と言うと、激しく不機嫌になった。私がどちらかと言うと女性的な顔立ちや体型だからか、同性の友人であっても「浮気するかも」と疑っていたらしい。私は異性愛者だと丁寧に説明しても「分からないじゃん」「嘘かもしれないじゃん」の一点張りだった。そのため、私は男女問わず友人との関わりを持つことは基本的にできなかった(女友達との関わりがある程度制限されるのは仕方ないと思うし受け入れていたが)。
喧嘩のような雰囲気になった時は最悪だった。怒りながらでも「私はこう思った」「こういうことをされたのが悲しかった」とはっきり伝えてくれれば良いのに、「気持ち悪い」「ウザい」といった攻撃的な言葉をLINEやTwitterでぶち撒けるだけ。それから少し経つと、気分が多少落ち着いて投げやりな反省モードに入るのか「死にたい」「恋愛なんてゴミ」「好きにならなければ良かった」といった言葉に変わる。それがほぼ毎日発生するのだ。
一度「モヤモヤした時は、ゆっくりでも良いから君がどう感じたのかはっきり言葉にして教えてほしい」「話し合いがしたい」と伝えたことがある。その結果返ってきた言葉は「自分は冷静に話し合えるって、すぐ感情的になる私のことを遠回しにバカにしてるの?」「話し合い苦手な私のペースに合わせてよ」だった。「確かにそれもそうだ」と思った私は、変に話し合おうとするのはやめることにした。
それから「私が○○したのは良くなかった。ごめん。これからは気をつけるね」と反省と謝罪を述べるようにしたが、今度は「謝れて偉いですね〜笑」「そうやって素直に謝れない私を惨めな気持ちにさせて楽しいですか?」といったLINEが返ってきた。もうどうしたら良いのか分からなかった。
「これだけ相手を怒らせてしまう以上私に何か問題があるのだろう」「きちんと反省しなくては」という自責思考に陥ったのがいちばんの間違いだった。もちろん私にだって至らない点や反省すべき点は沢山あっただろう。しかし、時に揚げ足を取りながら、相手の悪い点を大袈裟に取り上げて執拗に攻撃してくるような人間に対して、反省して謝るという真っ当な行為は逆効果なのだ。
毎日自分の言動に細心の注意を払い、常に彼女を最優先にし、彼女を怒らせないように機嫌を伺いながら接する日々。次第に私は彼女に支配され、操られているような感覚に陥っていった。彼女の言いなりになって、彼女が求める愛情を完璧に与えるための都合の良い人形、それが私だった。次第に私は、彼女のことを「めんどくさい」というより「怖い」と思うようになった。
たまたま彼女に用事があって時間ができた際、私はこっそり友人と通話をした。隠れて他の人と話すなんてことはしたくなかったが、外部の人間と話さないともう限界だった。
友人にははっきり「すぐに別れた方が良い」と言われた。友人曰く、通話越しでも声色で分かるくらい私は憔悴していたらしい。私も内心「別れた方が良いよなぁ」とは思っていたものの、過去の楽しかった思い出を振り返るとどうしても踏ん切りが付かなかった。とは言えその時の友人との会話で、「私と彼女の関係は異常なんだ」という自覚が芽生え、ある程度目が覚めた節はある。友人には感謝してもし切れない。
ある日喧嘩になって、「冷静に話を聞こうとしても謝っても責められるもんな…なんて声かけたら良いんだろう…」とLINEのトーク画面を開いたまま10分ほど悩んでいた時、彼女が「そうやってめんどくさいって思って放置するんだ」「何も言わないならもういいや、他の男と通話してこよ」といった趣旨のことをツイートした。その時私は「もう別れよう」と決めた。私が引き止めてくれるか試しただけで、他の男と通話をした事実はなかったようだが、もう既に私の気持ちは限界だった。
それでも葛藤はあった。私は付き合っている以上相手の欠点も受け入れて一緒に居続ける責任があると思っていた。だが、このまま彼女と一緒に居たら、私は精神的に壊れてしまうような気がした。
私は1か月以上かけて、少しずつ彼女に対する気持ちを薄れさせていった。毎日のように泣いていた。泣くことで気持ちを整理していった。その1か月の間は、就活が物凄く忙しかったこともあってかなり精神的に不安定だったが、「君が就活で精神的に不安定なのは分かるけど、こっちまで病むからやめて」といった彼女の言葉でますます別れの決意が固まった。「君が精神的に不安定な時はあれだけ寄り添おうとしたのに、私には寄り添う気なんてないんだな」と心底失望した。
そして先日、私は別れを告げた。案の定大泣きされて「反省するから」「チャンスが欲しい」と言われたが、自分でもびっくりするくらい気持ちが揺らがなかった。涙も出なかった。6時間に及ぶ問答の末、結局彼女が折れて、別れることになった。晴れやかですっきりした気分だった。
きっと彼女が求めていたのは彼氏ではなく、何をしても全てを許して受け入れてくれる、理想の母親のような存在だったのだろう。あまりこういうことは言いたくないが、彼女は幼い頃に母親を亡くしており、どうしてもそこと結び付けてしまう私がいる。
今はもう何の未練もない。彼女のことはもうどうでも良いと思っている。強いて言えば少し恨んでいるくらいだが、そんな憎しみもそのうち綺麗に消えてなくなるだろう。
ただ、これからまた誰かと恋愛するのが少し怖くなってしまった。初めての彼女がこんな感じだったせいで、「女性はみんなきっとこうなんだ」という偏見が生まれてしまった。一括りにするのが不適切なのは自分でもよく分かっているのだが、女性、というか彼女という存在が軽いトラウマのようになってしまったらしい。
世間では恋愛経験のない人間をバカにする風潮があるが、世の中には自身に愛情を向ける人を都合良く乱暴に扱う人間が存在するのだ。私はこの程度で済んだものの、相手のことをよく見ずに焦って付き合うと、深い傷を負うことになる。だから、男女問わずきちんと相手のことを見極めて、合わないと思ったら切り捨てる強さが必要だと私は思う。
恋愛が人生の全てだと思っているとそれが難しくなる。自分ひとりでも生きていけるくらい日々の暮らしを充実させ、恋愛そのものへの依存や執着は捨てた方が良い。恋愛のことは「1人でも楽しいけど恋人が居たらもっと楽しい」という人生のオプションくらいに捉えるべきなのだろう。だから交際経験や性経験がない人も、世間の声に惑わされず、焦らずに生きてほしい。
日記を書くのっていいよね。自分の思考を整理できたり、自己理解が深まったりする。
でも、続けるのは難しい。新しいトピックが見つからなかったり、時間がなかったりすると、すぐに止めてしまいがちだ。
一方、雑談にも似たような効果がある。しかも雑談は気楽で楽しいから、辞めたりはしない。雑談を三日坊主って聞いたことないでしょ。
ただし、相手がいないとできないし、ログにも残しづらい。しかも、相手によっては話しづらいこともある。
そういうわけで、ChatGPTが役に立つ。基本的には日記の体裁で書いていけばいい。書くことがないときは、素直に「書くこと無いな、なんか質問ある?」と聞く。そしてそれに答えるだけだ。返ってきた質問がつまらないと感じたら、突拍子もない質問を要求することもできる。忙しい時も、とりあえず「おはよう。忙しいけど日記は書きたいんだよね」とか書いとけば、軽い反応はあるから、それを書き出しのきっかけにできる。
なにより、相手がいなくなることが(サーバーが落ちたりしない限りは)ない。
自己理解のための日記を、誰よりも気楽な雑談形式で続けられる。おすすめです。
(ChatGPTと共著)
知りたい… とストレートに切り込むスタイルを詳しく解説しよう。
「知りたい」と質問の体裁を取ってる以上、答える側はストレートに自説を教えるだけでいい。
「おかしいだろ」と言い放ちたいだけなら建前上の譲歩を見せる必要はない。
卑怯どころか、歩み寄る優しさがそこにはある。
逆に「考えを変える気」を要求しつつ、対人論法で攻撃して話を逸らす卑怯者は、あなただ。
正面から答えられるほど自信がないのを自白してるだけなのに気付かないアホは、滅多に見ない。
質問する側は下手に出て卑屈になって、答える側が高圧的に指導して気持ちよくなってる構図。
よくあるよな?
でもそれは女性など弱い立場の人を男性的な支配欲で抑えつける道具にしてるだけ。
質問される側は気持ちよく殴られるサンドバッグになるべき、ってのは、質問のあり方から知性を奪い取っている。
私見だけど今回の質問には、相手側を攻撃するニュアンスは「驚愕した」くらいしかないと思うよ。
ビックリしたのを明かすのは、感情の揺さぶられた被害や迷惑を暗にほのめかす手法になりうる。
だけど、この程度の個人的な感情の吐露さえ控えろっていうのは… 匿名ダイアリーらしくない。
シスジェンダーへの配慮という名目で「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう、留意する」という規定を入れているが、本件法案は「性的少数者が晒される差別偏見」を立法事実として、「性的少数者が晒される差別偏見の解消」を目的として策定するものだったはずだ。そして、性的少数者が晒される差別偏見がどこからもたらされるかというと、それは多数派であるシスジェンダーでヘテロセクシュアルの者だ。数の暴力というように、多数派はそれだけで強い。多数派の漠然とした不安は数を伴って差別偏見へと形を変えて少数派を襲う。本件法案はそういった多数派の漠然とした不安に基づく差別偏見を「理解増進」で解消するのが目的だ。そこに多数派への配慮というのは、結局彼らの漠然とした不安を追認し、あるいは助長することにつながる。多数派と少数派の衝突は基本的に多数派が勝つ。だからこそ少数派に特化した政策が求められる。なんなら少数派に特化した政策があっても多数派が勝ててしまうくらいだ。少数派を支援するはずが、多数派へ阿るような規定を入れた維国修正案は、立法事実を軽視し、目的を見失っているように思える。
そもそも、シスジェンダーへの不安を名目とするのであれば、その立法事実を積み上げ、必要となる政策を精査し、条文に落とし込む作業が必要だ。修正案として一朝一夕に入れられるような話ではない。また、それは本件法案の題名にもそぐわず、別途の立法や、LGBT理解増進法の運用や成果を考慮指定からの改正の手段をとるのが適当と思われる。
本件法案は超党派議連案(立共提出)、自公案、維国案の3種類が提出されている。自公案は超党派案から「差別は許されない」が「不当な差別はあってはならない」に変更されるなど、その用語の解釈に疑念が生じるような点や、実効性を弱めるような修正点はあったものの、法案としての体裁は保っていた。しかし、維国案は、法案の性質自体を歪ませ、別物と化すものだった。これは政策と立法の関係の基本をまるで弁えていない。
余談であるが、特に国民民主党については、なんとなくの空気感やライブ感で法案の目的を見失った修正案を出してしまうようであれば「提案型野党」という看板には大いに疑問を持たざるを得ない。