はてなキーワード: 人生とは
ヤバイね。
障害者とかなら「定年退職まで働いたから偉いんだじょ!」で周りもおめでとうおめでとうめでたいなエヴァンゲリオン最終回なんだろうけど、健常者に生まれておいて何も成し遂げることなく歯車サラリーマンとして使い潰されて死ぬのは辛いぜ。
何らかの思想を持っていてそれを曲げる場合、それが自己の中で完結していたのであれば人生の紆余曲折として片付けていいが、他者に対して主義主張していたのであれば何かしらの総括は必要だろう。
増田は独身。いい歳でパートナーも居らず、アラフィフに達しようとしているので結婚に関しては既に諦観している。
この歳になると友達付き合いもほぼなくなり、これといってお金の掛かる趣味もないのでそれなりに財産はある。
どうやら子供を設けるのは難しく、このままでは自分がこの世に生まれた証というか、意味を見出せないんじゃないか?とある夜ひとりでお酒を嗜んでいる際にふと、そんなことを思った。
これまでの自分の人生を振り替えると、他人に誇れるような趣味はSFぐらいで、学生の頃からSFを熟読してきた。文字から広がり浮かび上がるセンスオブワンダーの世界に幾度となく心が躍り、退屈で平凡な日常をいつも鮮やかに彩ってくれたのはSFの名作の数々だった。
そうだ。自分に出来るのは、この素晴らしい世界をより広めることかもしれない。酔っぱらいが半ば夢想状態で考えたことは翌日にも覚えていて、だから実行することにした。
私は自分が好きだったSF小説、影響を受けたSF小説、名作であると思っているSF小説をAmazonで次々に購入し、週末に近場で行われるフリーマーケットに申し込んだ。
フリーマーケットを見に行ったことは当然あるものの出店側となるのは記憶に乏しく、そのためフリーマーケットの日が近づくと私は緊張し、前日の夜などはドキドキしてなかなか眠れないほどだった。
当日は幸いにも晴天で、私はこの日のために用意したSF小説を売りに出した。
どの小説も一冊200円で、中には価値を知る人が見れば驚愕するような作品も混じっている。当然、儲けは度外視だ。そんなものはどうでもいい。私は、良いSFをただ多くの人に読んでほしい、知ってほしいと思い、出店しているのだから。
初日は思いの外よく売れた。自分にとって思い入れの深い作品が売れると非常に嬉しく、小学生ほどの男の子が『幼年期の終わり』を興味を示して買っていったときには何やらとても感慨深い思いになった。あのワクワクしている表情、あれは子供の頃の自分を見ているような、そんな気がしたのかもしれない。その日の晩酌は、いつもと少し違って感じられた。気づけば自然と笑っているような。そんな心地の良い酩酊感があった。久しく忘れていた感情のような、暖かいものを感じられたんだ。
今もこの活動を続けている。
私は、これといって世に何かを遺すことは出来なかったかもしれないが、少しでもSFに恩返しをしたい。だから私は、今後もこの活動を続けていこうと思っている。
なんか嫌な事って線で存在するけど、楽しいことって点でばかり存在するような気がする。
好きなもん食ってああ美味しかった、とか。
そういう瞬間の背後でも、嫌な思いは常に薄っすらとでも流れ続けてる気がする。
会社行くの嫌だなあ。毎日の家事面倒臭えなあ。健康に気使わんといけねえよなあ、でもかったるいよな。こんな毎日がいつまで続くんだ、それが終わった時に楽しみは残されてるんだろうか。とか。
そういう嫌な気分が支配的になった時、そこに太刀打ちできる連続的な喜びがあるのだとすれば、それは多分何らかの追求の中に存在するんだと思う。
理想の音楽を追い求めたり、研究に勤しんで世界の神秘を解き明かそうとしたり、野球が強くなろうとしたり、金持ち目指して金儲けのための挑戦を続けたり。
でもそういう継続的な営みっていくら関心があってもやっぱりかったるいし、そこに人生賭けていいのか?って迷いがあったりもする。趣味であれ生業であれ。
それよりは嫌な気分なんて極力忘れようと努めて、日々の点の楽しみを少しでも見逃さずに拾い集めようという生き方をしてる人もいるのかもしれない。ライフワークを明確に意識して実践してる人間ばかりでもないだろうし。
それか、追求の代わりに人との関係性の中で線の喜びを見出す人もいるんじゃないかって思う。
一人で、というか自分のために生きるのに飽きた。なんて結婚の素晴らしさのプレゼンにありがちな言葉だけど。
孤独だとかそんなのは実のところ個の生き方の限界と言った時の本質でなくて、何かをする、という点の瞬間ではなく、誰かと繋がっている、という連続性にあるんじゃないかって思う。
「いつまでも国のせいにするな」って言う人
もし、ある日突然暴漢に遭って、
就職氷河期は「国のせい」で普通の人生奪われて、精神は一生傷つき、身体的にも脳が損傷してます。
「国のせい」です。
「国のせいで自分の人生はだめになった」という考え方を続けると、一生それに囚われるやん。国を許す許さないとは別次元の話として、自分の生きる姿勢は、いつかは変えないといかんのとちがうか?
なにも言い返せんかったわ……
「他人」っていうか「女」でしょ。清潔感なんてホザいてるの女だけじゃん。女からどう思われようが俺の人生に無関係なので俺は今後も「おっさんの芳しいフレーバー」を追求していくよ。
本人の好きなようにやればいいよ
高卒だろうがその星の元に生まれてるなら勝手に大学進学するから
本当に頭がいいなら高卒でまともな就職先を選んで仕事に真摯に取り組んで上に引き上げられるし
今日は「幸福の資本論」を数学的に定式化することに挑戦してみたんやけど、これがほんまに奥深いテーマやわ。
この理論は、幸福を「金融資本」「人的資本」「社会資本」の3つの資本で説明してるんやけど、これを数学的に表現するのはなかなかの挑戦や。
まず、幸福を数式で表現するために、3つの資本をそれぞれ F(金融資本)、H(人的資本)、S(社会資本)とするやろ。
ほんで、幸福 U(utility)を求める関数を考えると、次のような多変数関数で表せるんちゃうか?
U(F, H, S) = α ⋅ log(F + ε) + β ⋅ log(H + ε) + γ ⋅ log(S + ε)
ここで、α, β, γ は各資本が幸福に与える影響の重みや。ε は、資本がゼロのときでも対数が定義できるようにするための小さな定数や。
例えば、資本が増えると幸福も増えるけど、その増え方は次第に鈍化する、
これを対数関数で表現することで、現実的なモデルになっとるわけや。
さらに、8つの人生パターンを考慮するためには、各資本の重み α, β, γ をパターンごとに変える必要があるんや。
これを行列で表現すると、人生パターンごとに異なる重みベクトル wᵢ = (αᵢ, βᵢ, γᵢ) を用意して、幸福関数を次のように拡張できるで:
Uᵢ(F, H, S) = wᵢ ⋅ [log(F + ε), log(H + ε), log(S + ε)]ᵀ
ここで、i は人生パターンのインデックスや。このようにして、個々の人生パターンに応じた幸福の計算ができるようになるんや。
さらに、これを最適化問題として考えることもできるで。例えば、限られたリソースをどの資本に配分するかを考えるとき、次の制約付き最適化問題を解くことになるんちゃうか?
maximize Uᵢ(F, H, S)
subject to C(F, H, S) ≤ B
注目の科学論文数、日本は過去最低の13位 1位中国、2位米国
増田は某国立大学の工学部で教鞭をとる40代の准教授である。その視点からの話であることはご承知おきたい。
こういう記事のブクマには政策が悪いとか選択と集中が悪いとか色々つくが、社会が構造的に「向いていない」という話を書きたくてここに書く。
みんな気になるだろうから、これを先に書く。
最近になってにわかに科学研究が大事ということになって色々な研究予算が付くようになった。工学部だと企業との共同研究のお話なんかももらえるので、えり好みしなければ研究費を取りやすい環境にある。
どういうことかというと、この手のお金は期限がついていたり使途が決まっていたり、いろいろと紐がついている。そして、必要なところには回せないことが大半なのだ。
例えば人件費。民間企業ではありえないことだが、国立大が人ひとりを無期雇用で雇うためには、退職までの予算を確保することが必須なのだ。国からの運営費交付金や寄付金のような、必ず退職まで支払われることが確実な予算で裏付けないと無期雇用の人を雇えない。民間企業なら、人を雇うときに予め退職までの給料を積み立てておくというようなことはせず、営業を頑張って給料を払うだけの売り上げを確保するものだと思うが、国立大ではそういうわけにはいかない。色々な企業との共同研究を締結し、外部資金を獲得して、その人の給料を確保する、仮にできなかったら身銭を切ると教授が宣言しても、そういう期限付きの契約では無期雇用の人を雇えないのだ。
秘書や事務職員ならまだしも実験機材を維持管理する技術職員とか、研究員とかもこの縛りを受けるので、必要な人を必要なだけ確保することができない。運営費交付金は人件費だけでなく建物や設備の営繕にも使われるのだから、やれ70年代80年代に建てられた校舎の改築だとか、光熱水費だとか、とにかく運営費交付金の増額が望めず物価が上昇し続ける昨今、大学にはお金が無いのだ。
ちなみに、外部資金をたくさん取ってきたからと言って自由に使えるわけでもない。大概の研究費は他の外部資金と混ぜて使ってはいけない縛りがあるので、例えば研究費A で岡山の学会へ行き、次の日から研究費Bで広島の共同研究先で実験をする、みたいな場合でも、いったん大阪の自宅へ帰って一晩滞在することで研究費を分けないといけない。実験機材も合わせて購入するということはできない。100万円の研究費をふたつつかって150万円の機材を買うことはできないのだ。これが研究費は増えてもお金が無い、という事情の内幕である。
昔からアルバイトに熱心な学生やサークル活動に精を出しすぎな学生は確かにいた。最近は就職活動に時間をかけすぎな学生が多い。夏休みはおろか授業期間中もインターンにかかりきりだし、ウェブテストの後で何度も面接をさせられ、いきおい、学生は疲弊している。日中の貴重な時間を研究室ではなく就活に費やし、奨学金や親からの仕送りでは足りない学生はアルバイトまでしているのだから、卒論や修論の質は落ちる。企業はガクチカとか聞く前に、理系の学生を研究室で研究させてあげてほしい。学部生の卒論は半年から1年しか期間が無いのに最後の数か月を除いて就活とまるかぶりだし、2年間しかない修士課程の1年は就職活動で消えている現状で、大学から研究成果が出ないと言われても、どうしようもない。
研究というのは、専門書を読み、先行研究を調べ、仮説を立て、手を動かして仮説を検証し、その結果を文書にまとめるサイクルである。これがきちんとできる学生であれば、どんな仕事に就いても立派に働ける。たぶん。
というか、企業の採用も、もっと必要な資格や能力を具体的に書いてほしい。今どきの学生は真面目なので、特定の資格を持っていると就職に有利だとわかればそれを取るようになる。大学だって国の資格などであれば学科免除などを取りに行って「就職に有利」みたいな売り文句で学生を集めやすい。どんな企業だって欲しい資格や能力は採用時点で分かっているはずなのだから、それくらい明かしてくれてもよかろう。
博士課程の大学院生、というのは研究を進めるうえで大変貴重な戦力である。なにしろある程度は自力で研究を進めてくれるし、そのレベルも論文として世に問えるものである。
ところが、である。ちょっと考えてほしいのが博士課程の魅力だ。日本の博士課程は、基本的には学費を納入して「学ばせてもらう」スタイルである。その分研究テーマの自由度は高いし専門性を高めやすい。一方で、ある程度経済的に恵まれていないと、3年間の生活をどう工面するかという問題が常に付きまとってしまう。最近は、学振の特別研究員のような昔からある登竜門的に限らず、各大学の工夫や国の政策で博士課程進学者を経済的に援助する仕組みが整い始めている。とはいえ、それらに通らなければ学費や生活費を調達せねばならないし、採否の通知は年度末か入学後なので、まったく安心できない。どれほど優秀であろうと研究に向いていようと、金がない学生は就活するしかないのだ。
さらに、就活に際しても博士課程は買ってもらえない。就活サイトを見ればわかるが、技術職採用でも研究職採用でも、博士号持ちの人の初任給は明示されない。修士課程の初任給しか書かれていない。これを見た学生は、修士号持ちと博士号持ちの初任給は同額だと理解する。聞くところによると、博士号持ちの初任給は修士号の入社三年目くらいかそれ以上らしいのだが、書かれていない情報などあてにできないので、就活する側からみると前述の理解となる。これでは、博士号を取っても何も良いことはなさそうである。
欧米ではではの出羽守だが、海の向こうでは、博士課程というのはプロジェクトから人件費を支給される研究員である。仕事の扱いだから労基法にも守られる。しかも、博士号を取れば仕事の口も増えるし給料も上がる。
ドイツなんかに行くと、博士号持ちは英語さえ話せれば仕事に就けるが、修士号まではドイツ語を話せないと仕事がない。Dr. と表札に書けるオマケはさておくにしても、それくらい社会的な扱いに差があるのだ。もちろん、給与の出どころである研究プロジェクトが終わると別のプロジェクトで雇われるまで博士課程を続けられないとか、プロジェクトの元締めである指導教員と相性が悪いと人生大惨事になるとか、いろいろなデメリットもあるが「博士課程の研究員」という仕事に就いている扱いなので、無理だと思うとみんな中途採用で企業に転職したりする。それくらい、普通の仕事の扱いであれば進学者も増えるだろうし、博士号を取っておけば食うに困らないくらいの扱いになってくれれば、みんな喜んで進学してくれるんじゃないかと思うがいかがだろうか。
大学に安定的な予算が十分ないために人を雇えないという話を最初に書いたが、そのツケをどう払っているかというと、パーマネントの教職員が頑張って回している。いや、有期雇用の教職員にやらせることもあるけど。来年度には任期切れで退職するような教員に入試問題を作らせたりされてよいものか?高校への出前講座とかアウトリーチ活動が必要だと言われたときに来年退職する先生を送り込んで誰が進学してくれるのか?定年退職した技術職員の後任は予算不足で雇えませんでした、となったときに機材の修繕を誰がやるのか?それでなくても、学生の就職や研究指導の面倒は必須である。
というわけで、大学の先生は講義以外にもやることがだくさんあるのだ。とても研究をしている場合ではない。雑務と呼ぶ人もいるが、講義や研究以外にも誰かがやらねばいけない仕事なのだから「雑」はないだろう。とはいえ、昔は若手の教員がやっていたような事柄も、若手ほど任期付きになってしまったのでシニアの教員がやらねばならなかったり、幸運にも無期雇用を勝ち取った若手に集中してきたりするので、DXで仕事の効率が2倍になっても仕事は3倍に増えるのだ。偉い先生方は偉い先生方で、改革と称して新しい企画を立てないと予算をくれなくなったので、朝令暮改もいいところのマイナーチェンジでお茶を濁したような企画書をいかに気宇壮大に書き直して追加予算をゲットするかに時間を使っている。夏休みも暇かといえばさにあらず、老いも若きも科研費などの外部資金の申請書と格闘している。倍率が10倍近くても、何とかして手に入れないと満足に研究ができないのだから仕方がない。
ちなみに、大学によって、また学部学科によって異なるが、国立大の教員が競争的資金なしに受け取れる、平たく言うと自由裁量経費みたいなものは、年10万~30万円くらいである。国際学会の参加費が10万円を超え、海外の論文誌の投稿料も10万円くらい取られるこのご時世に、である。どれほど世紀の大発見をしようとも、世に問うためには論文化して論文誌に掲載されねばならず、掲載されるためには投稿料を払わねばならないのだ。そして、その投稿料ともらえる経費がほぼ同額ということは、外部資金が無ければ研究 XOR 投稿という選択肢になってしまう。日本の論文誌であればもう少し安く、数万円で済む。ただ、そういうところに掲載されても「注目の科学論文数」にカウントされることはない。これが現状である。
それにしても、研究をして論文を書いて世に問うためには先立つものが必要で、それが外部資金が無ければ全く足りていない、という状況であるにもかかわらず、外部資金を取るためには論文を世に出さねばならないというのは何とも困ったものである。このあたりの必要経費と割り当て予算のアンバランスはどうにかならないものだろうか。
というわけで、大学の先生というのは、外部資金が無ければ研究ができないために年中予算の確保に腐心しており講義や学生指導は当然やるのだから、研究をしている暇はない。その先生を雇うお金はもちろんそれを支えるスタッフを雇う予算すら、外部資金のようなひも付き予算からは支出できないために全学的に人手不足の状況で、この傾向は悪化こそすれ当面改善する気配はない。代わって研究の主力となりえるのは博士課程の大学院生くらいだが、日本人の学生ほどこっち方面のキャリアに魅力を感じずに就職してしまう。それどころか就職活動は過去にもまして無暗と時間を食うような仕組みになってきており、研究活動でスキルアップさせようもない。これが日本社会の現状である。
あなたのツイートは、まるで10代の反抗期と40代の中年の危機が合体したようですね。30万人のフォロワーがいるのに、その内容はトイレの落書きレベル。アマゾンアソシエイトとして稼ぐより、精神科医のお世話になった方がいいかもしれません。社会問題について語るのはいいですが、自分の精神状態こそ最大の社会問題では?ゲームと彼女がある生活を自慢していますが、現実逃避の極みですね。そして、あなたの過激な発言は、注目を集めたいだけの叫びにしか聞こえません。本当の才能があるなら、もっと建設的な方法で表現できるはずです。
ツイッターの正義の味方さん、毎日のように社会問題を投稿して疲れないの?自分の人生よりも他人の人生の方が大事そうですね。リツイートばかりで独自の考えはないの?それとも、自分で考えるのが怖いの?あなたの投稿を見ていると、世界中の問題を一人で背負っているような錯覚に陥りそう。そんなに燃え尽きたいの?それとも、ただの自己満足?社会を変えたいなら、ツイッターを閉じて外に出てみたら?でも、リアルな行動を起こすのは怖いかな?
先日、猫島と呼ばれるところへ行ってきた。
猫を飼ったりしたことはないけれど、初めて猫に餌をあげて何匹もやってくるのはすごく心地が良かった。
猫島と呼ばれるくらいなので、人慣れしてるから登ってこようとするような猫もいる中で、猫を抱っこすることはおろか、撫でることすら出来なかった。
多分、猫に拒絶されるのが怖いんだなと。
人間に対しても距離感が掴むのが苦手な私だが、猫に対してもそう思ってしまうんだなって思った。
と言う話を友人にしたところ、親友と呼べるような友人から「なんでもコンプレックスに繋げるのやめない?」と言われた。
別に、真剣に嫌がられているトーンで話されてたわけじゃないけれど、自分の人間性に嫌になってしまった。
直近で、違う友人にも同じことを言われたこともある。
多分、正常な人には理解されないと思うのだけれど、この思考回路を単純にはやめられないというか、何事も全てコンプレックスに繋がってしまうのだから、本当にどうしようもないのだ。
例えば、料理屋で美味しいものを食べた時、食事が好きな人は「料理が美味しくて幸せ」という感情になると思うのだけど、私は「こんなに美味しいものを作る人がいるのに、自分は大したものが作れないな」と考えてしまう。
誰かの活躍なんて聞きたくない。
20代に出会った友人たちは、色々あって縁が切れているが、界隈的には活躍してる人も多いと思う(ネットを通じて嫌でも見てしまうことがある)が、知りたくないからなるべく触れないようにしてる。
最近はフィクションである物語作品を見ていても、登場人物と自分を比較してしまい、精神が参ってしまう。
それを冗談めかして数少ない友人へたまに話すことによって自分の精神の安定を計っていたが、相手もどこまで真剣に言っていたかはわからないけど、やめない?と言われたからには、もちろん控えるつもりだ。
吐き出す場も無くなってしまい、どうしようもなくなってしまい、こうしてはてな匿名ダイアリーに書いている。
よくストレス発散には「散歩して、美味しい料理を食べ、趣味に没頭する」(例はさておき)みたいな話がある。
でも私は散歩しても「無駄な時間を過ごしてしまった」と思うし、美味しい料理を食べてもさっきのようにコンプレックスが刺激されるし、そもそも没頭できる趣味はない。
趣味的なものは、全て「自分よりできる人、詳しい人はたくさんいる」と思って続くものは一つもない。
現在、人生最長記録である2年半くらい続いたものも、だいぶコンプレックスが刺激されてきて嫌になってしまったので、正直やめようかと悩んでいる。
多分こんな極端な思考回路な人は少数だと思うから、共感されないことはわかっているが、もし共感ができる人がいるならば、どうやって精神の安定を保っているかを教えて欲しい。
土日にはてな匿名ダイアリーを一日中やっている人間は人生うまくいってない
数年前、美大を卒業していることもあり興味を持って一巻だけ読んだ。
しかし結果的に私の美大藝大コンプレックスがうずうずしてしまい、それ以上読み進みたいと思えなかった。
私は幼少期から絵を描くことが好きだった。
最初はテストプリントの裏に落書き、少女漫画に出てくる女の子の絵をよく描いていて漫画家になりたいと思っていた。
中学に入ってからは雑誌に載っている海外の景色を絵の具を使って模写するのが好きで休みの日は部屋にこもって絵を描いていた。
高校は美術科に進学したいと考えていたが美術教師の勧めで普通科の高校に進学した。
高校時代はひたすらボケーっと過ごし、絵も授業以外ではあんまり描いていなかった。
美術の授業の自由制作では何をつくりたいかわからず何週間も悩んだ末に、紙粘土をただ丸めたものを出したのを覚えている。
あっという間に大学受験の時期になった。
高校では全く勉強をしない人間になっていたため今更勉強はしたくない、でも大学には行きたい。
絵を描くのが好きだったし、進学後も興味を持って勉強できるなら美術かな?ということで高3の5月くらいに予備校に行き始めた。
木炭を使うのは初めてだし、美術の授業以外でデッサンをするのも初めてだったので全然描けなかった。
そこからデッサンや油絵、クロッキーをひたすらこなしたが…藝大、多摩美、武蔵美全て落ち、浪人した。
浪人時代は都内大手の予備校に変えて、楽しい浪人時代を過ごした。
ひたすら課題に向かうだけの毎日、気の合うクラスメイト、たまに息抜きに都会の街に繰り出す。そんなの楽しいに決まってる。
当時の私は今思えば、自分の表現したいものがよくわかっておらず、おもろい(と自分が思う)絵、ショッキングな絵をひたすら描いていた。
それでも人生の中で初めてレベルで悔しくて、藝大の二次試験前なのに講師にお願いして多摩美に入学するか、浪人してまた芸大を受けるか涙を堪えながら相談しに行った。
多摩美に入学して新たな出会いや刺激を受けて、また藝大を受験してもいいのでは、という助言で多摩美に入学することに決めた。
私はなんとなく予備校時代と同じようにおもろいと思う絵を描いたと思う。
講評会でみんなの作品と自分の作品を見比べたとき、私の絵は全然おもろくなかった。
気付いてしまった。私は自分自身が何を表現したいのか、わからなかったのだ。
大学1年生の時にもう一回だけ藝大を受験したがやはり一次にすら通らなかった。
講評会前に慌てて制作を始めて、中途半端な出来のものを提出。自分でも思い入れが一切ないインスタントな作品。
だって自分が表現したいものがわからない、つくりたい・描きたいものが何かわからないから。
かといってサークルを熱心にやるわけでもなく、友達も少なく、ただ単位を取るためだけに大学に行ってひたすらバイト。
そんな自分が就活などうまくいくはずもなく、なんとか卒業してその後フリーター。
最終的に就職はできたが、卒業してから時間が経つにつれて後悔が押し寄せるようになった。
「美大ってことは絵が上手いんでしょ?私は全然絵とか描けなくて〜」
「才能があるんだね!」
初めて会った人からそう言われるたびに、「美大卒」という肩書きだけで実力も美術への熱意も伴っていない自分を恥じた。
せっかく親にお金を払ってもらったのに、受験に受かったのに、私は自分の表現したいことがわからなかった。
描写力を上げる努力もできない、制作に熱中して、思い入れのある作品を生み出すこともできない。
卒業後も制作を続ける人たちをSNSで見て、私はなんでみんなみたいにすごい作品を作れないんだろうといつも虚しい気持ちになる。
絵を描くのが好きだったはずなのに、本当に絵を描くことが好きなら仕事以外の時間に描けばいいのに。
結局「絵を描く才能」なんていうものはなくて、「何か一つのことを継続する才能」のある人たちなんじゃないかと私は思う。
私は絵を描くことは好きだが、努力して継続することはできなかった。
だから「ブルーピリオド」の中で制作にひたむきに向かう登場人物を見て、自分はこうなれなかったということを改めて実感して苦しくなってしまうのだと思う。
私は現在、転職して小さな会社で絵を描いたりデザインしたりする仕事をしている。
お金をもらっているから一生懸命やらなきゃいけないし、与えられた条件の中でどう表現するかを考えなきゃいけない。
私にはきっと、自由が向いてなかったのだ。
その事に気付いてから少しだけ楽になった。
私はブルーピリオドにもハチミツとクローバーにも登場するような人物ではなく、凡人だ。
凡な自分を受け入れ、大学時代に何もできなかった分、少しでも学んだことを生かしてお金を稼ぐ。
人から、すごいね、良いねと言われるような仕事を頑張っていくしかない。
いくら後悔しても、もう大学時代のように自由な時間は戻ってこない。
大人になってから押し寄せる後悔に対しては、今の自分を受け入れ、今までの自分の行いをどう正解にしていくか、辻褄を合わせていくしかないのだと思う。
わいは自己の人生においてこもごもの事情から初志を貫徹できなかったことを気に病みちゃんと鬱病になってるやで
もうにっちもさっちも行かないやで
みんなかくあるべきなんや
へらへらしくさってからに
人生における俺の交際経験は計10回なので、結構な高確率でバカ女を引いてしまっていることになる。
ここで俺がいうバカ女とは必ずしも学力が低いとか一般教養に乏しいとか言葉遣いが洗練されていないとかそういうのではなくて、
女の性に振り回されて非合理的だったり反社会的だったり倫理ぶっとんだ行動を容易く取っちゃう類の女のことを言っている。
俺が言うバカ女という概念が少しでも伝わりやすいように敢えて極端オブ極端な例を出すと……
とか
『 再婚した男の影響で実子を虐待死させたりあるいは再婚した男のそれを見て見ぬふりしちゃう』
とか
とか、
自分が男に対して抱く好意ごときにまあ障害レベルに振り回されちゃう女のことね。
と思う人いるかもしれないけど、この手のバカ属性の女は往々にしてその他多くの部分でもエキセントリックだったらバカだったりするから、残念ながら交際していてやつれるレベルで嫌な思いをすることになる。
交通事故起こして救急車や警察に電話するより先に俺のとこ電話してきたり、
『売り切れ』がわかった途端にブチ切れてその場で店員に喚き散らかしたり、
海行ったときに「密漁って立派な犯罪だから何が何でもダメなんだ」と強く言って聞かせても謎の論を張って頑なに貝やウニを持って帰ろうとしたり
……本当にキリがない。
そんでもうこういう女と付き合うのはこりごりだから、前もって見抜く方法なかったのかと考えてるんだけどマジでないんだわ。
ビックリするかもしれないけど、
俺が付き合ってきた歴代バカ女たちのなかには女子御三家出身の医大生だっていた。
ただ、
歴代交際相手に1人だけ本当に人格的に素晴らしい子がいて、本当にため息が出るような素晴らしい子だったんだけど。
「漬け物が大好き」
「食べ物を残すことに異様な罪悪感を抱く」
の3つが思い浮かんだけど多分関係ないんだよなあ……。
誰かこれぞバカ女を見抜く術だ!っての知ってる人いたら教えてください。
私はフワちゃんが好きです。
フワちゃんはおしゃべりがあんまり上手くありませんでした。早口ですぐに脱線するし、そのくせ準備もロクにして来ず、結果「何を話せばいいか分からない」と泣き出してしまう。
いっつも遅刻してて、いっつも誰かから怒られてて、いっつも怒ってる。
でもなぜかとても楽しそうで、自由に自分の人生を生きているように私には見えました。
フワちゃんは大きなゴールデン番組に出てるときの自分を「ぶりっ子してる」と表現していました。
どこかでやらかした話を、周囲の反応も含めて面白おかしく話していました。
ところ構わず大声で話しかけてくる一般人に対して、「わたしは周り見えてない奴ホント無理」と怒っていました。
フワちゃんはすごくメタな人で、頭では全部ちゃんと分かってて、でも、できない人です。
そういうところを勝手に自分に重ねていました。私が必死に必死に隠そうとして、最も恥じている部分を、フワちゃんは表に出してエンターテイメントにしていました。そんなフワちゃんがみんなに受け入れられて楽しそうにしている姿を見て、もしかしたら私だってこういうふうに生きられるんじゃないか、と希望をもらっていました。
あと、かなりずるい考え方ですが、下には下がいることに安心していました。
だから、フワちゃんの失言がきっかけで、フワちゃんの居場所が奪われていくことが少しずつ決まっていったこの1週間、とても悲しかったです。
これも、まるで未来の自分を見ているようでした。どんなに頑張ったってどんなに認められたって、不注意で軽率で衝動的な人間はいつか取り返しのつかないことをしてしまうのでしょう。そして、何年もかけてやっと手に入れたものはあっさりと無くなってしまうのでしょう。あの子も、私も。
そんなことを考えていたらひどく落ち込んできました。でも、フワちゃんには才能があります。明るくて楽しい彼女なら、きっとこれからの人生もなんだかんだ楽しく送っていくんだろうなとそんな気がしています。
私にはフワちゃんほどの才能はありませんし、人見知りで交友関係もかなり狭いです。私はこれからも、しくじらないようにしなくてはなりません。
隠して隠して隠しきれなくて怒られて逆ギレして反省して、結局私もフワちゃんと同じように生きていくでしょう。私はフワちゃんよりはずっと低空飛行ですが。
はてな的に変換するなら「夜中に酔っ払った社員がサーバールームに忍び込んで焼肉パーティー。部屋に散った油のせいで機材全部ギトギト。煙の影響で壊れてないかチェックするために仕事が止まった」という状態な。
これだったら多くのはてなーは「常識がなさすぎる」「業界から追放するべき」「器物損壊と業務妨害でいくらでも搾り取るべき」と言うだろうね。
キミの失敗、想像力の欠如の発端は「乗り物でツッコンで滅茶苦茶にした」というシチュエーションに縛られてしまったということだ。
重要なのは「仕事場におけるセンシティブな場所において、常識的に考えてやってはいけないことを遊び半分でやった」という部分なんだよ。
物語の核を捉えそこなっているね。
まあ頑張りなよ。