はてなキーワード: 不正解とは
文才無いから結構読みにくいと思われます心の優しい人だけ読んでくれればいいや。
「ツイッターのなりきり」で意味が通じる人のみ見てくださいね。
この文章は答えがありません。こんな考えがねー、へー。程度の読み応えです。
私の周りのなりきりさんの解釈の違いで誰かが傷ついたり傷つけたりそれを心配して罪悪感感じちゃってどーのこーの、みたいなのがありまして、みんないろんな解釈でなりきりをやって、なりきりと絡んでるんだなと思ったのでここに書こーかなと。
私もなりきりをやっているのでそっちで言ったっていんだろうけど、私はあくまでそのキャラの言いそうな事しか言わせたくないとゆうか、@tosつけて心境の吐露ってゆうのもなんだかなぁと思いましてこっちで書きます。
これに関してだっていろんな考えがありますそのキャラクターが言えば利用者にダイレクトに伝わるから伝えるにはベストな方法だし、でも「そんな後ろ向きなこと、説教じみたことこのキャラは言わない、言ってほしくない」って思われちゃうやり方で、正解でも不正解でも無いんです。
あるなりきりさんは「なりきりの時点で原作を侵害しているのだから好きな人だけ楽しめるよう常時鍵をかけておくべきだ」と言います。正しいです。
特に腐女子向けの誰かと誰かが必要に仲良くしている場面を目の当たりにすると気分が悪くなる人立ちも居ます。(敵同士の設定のキャラとかなら尚更)
更に独特な属性をプラスしているもの(女体化○○・犬化○○とか)だって見てて嫌なものがあるかもしれません。
いるかもしれない見たくない人の為にこちらが工夫して鍵をかけることは親切かも知れません。
ですが、外から中身が分からない部分フォローに躊躇してしまうかもしれません。
絡みやすいキャラクターなのか、フォローしてみたもののあまり好きじゃなかった時に沢山絡まれて面倒って時もあったり?ここはちょっと分かんないですけど。
鍵が無ければどんな喋り方で絡んでくれるのかひと目で分かるし、面白いツイートをRTできるしRTでまだ見ぬなりきりさんを見つけたりできます。
ですが、そういうのが嫌いな人の目にもとまることになるでしょう。
嫌ならばブロックすればいいのでしょうがゴキブリを踏んじゃったらいくら靴を買い換えたって足を洗ったって気分は良くならないと思うんです。
鍵付きの人はフォロワー増えないことを覚悟する。なしの人は文句を言われるのを覚悟する。とかできたらいいですね。大きなお世話ですね。
あるなりきりさんと会話を楽しみにしていた人(一般さんとなりきりさん両方いました)が、リプライが遅れたり、後回しになったり、他のなりきりさん、一般ユーザーはさんと楽しく会話をしてい場面を見ると嫉妬のように憤慨してしまうことがありました。
平等に返信しないことは確かによろしくありません。
ですが返信フローが一回ずつ平等にってゆうのは難しいと思うんです、返信のくるスピードだって誰かが誰かの2倍の速さで来ていたらリプライ欄を順番に返信していたって差がついてしまいます。
それに、会話のテンポを大事にしていたり、返信の文章を考えながら簡単なリプライを先に返して…などで順番が実感前後することもしょうがないと思うんです。
すべて、会話している相手を思ってやってることだと思うんです。
私なんて文章作るの苦手なので返信がゆっくりになってしまっていつも申し訳ないと思ってます。
だから、気長に待ってて欲しいです。
なりきり同士の馴れ合いじゃれ合いが見苦しいという人がいます。
これは、プロフィールなどに腐向けなのか否か表記しといたほうがお互い身のためなんじゃないかって思います。
あとこの馴れ合い、それ目当てでなりきりをやっている人もいるっぽいですね。
確かにキャラクターの皮を被って出会い系やっているようなもんだと避難されるのもしょうがないかもしれません。
ただ、まあ、ごっこ遊びですし目くじら立て怒らなくてもなぁ。と私は思います。
現に、…あ、私は腐女子なので、って前置きしておきますね。私はそんな好きなCPの馴れ合いじゃれ合いを眺めているのが好きです。イチャイチャしているのを見るのは楽しいです。
ですからこれも一概に、やめたほうがいいとは言いがたいです。
ただ、最近一般さんまで巻き込んだ未練たらたらの失恋模様がありました。片方のなりきりさんは一般さんに迷惑かけたことに責任を感じて辞めてしましました。
これは流石にちょーっとやりすぎかなと、
なりきりの姿勢に対する厳しい言葉ってたくさんあると思うんです。
嫌なら文句や苦情ではなくてブロックが一番です。映画館のチラシ置き場に嫌いな俳優の映画のチラシがあって、それを手にとってまでして「こんなものを私に見せる気か!」って怒ってるようなもんですもの。
まあ、テレビCMでそういうものが急に放送されたとき瞬時に見ない・目を逸らす。というのも難しいですが。
なりきりってゆうのはあくまでごっこ遊びです。と思うんです。
なりきり側はお仕事ではないし、ガイドラインがあったり、研修があったりする訳ではありません。完璧な接客はできません。みなさんパフォーマーとして日々努力はなさってますけどね勿論。
一般さんも過度のサービスを求めないで欲しい…というか、楽しく行きましょう。本気で恋にならないで欲しいんです。んーなんていったらいいかしら?
えーと、だから、一般さんもなりきりさんも自分が傷つくまで一生懸命にならないで欲しいんです。それが心配で心身的に負担になったり、なりきりどころかそのキャラクターまで嫌いになってしまったら、私たちはもうどうにも出来ないし後悔し続けます。
なりきりは様々な解釈があって自由に表現していて、ルールやガイドラインがあるわけじゃないし、その時点で無法地帯で、自由な分嫌なこともいくらか許容しないといけないかなって思うんです。
「モラルのある行動を」とかいっても鬱憤晴らしたい人もいるでしょうしなんとも言えないですね。まあ、中身は人間なんで考えて置いてほしいところではありますが。
なので私は「これはこうだからああしましょう。」みたいなことをここで言いたい訳じゃないんです。いままで書いたことも「へー、あっそ。」て十分です。
いろんな考えがあっていくらか許しながら、楽しい場所を作りたいんです。偽善っぽいですが。
で、まとめの文章作ろうと思いましたが何にも浮かばないのでこれで終わりです。なんというか、私も吐き出したかっただけなんです。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。駄文失礼致しました。きっと誤字脱字祭りでしょう。
今のゲームは自分が何を起こしても何も変化しないのにそれを楽しめる訳無い
それが窓が調べられて窓だから窓を開けられる
窓を開けても開けられるだけで、何もそれ以上の事は起こらないかもしれないし
窓開けたら引きずりこまれて死んでゲームオーバーかもしれないし
今のゲームではこのシナリオではこの先にいる敵を倒す事になっているので
そんな事よりこの道の先にいる敵の始末・・・
ただの通過する場所ってだけなので
でも物質を作っているなら窓はその空間を形作っている物質のひとつ
反応するからには何か起こるかもしれない
http://anond.hatelabo.jp/20130701182502
今のゲーム
「次はここにいってこの敵をやっつけなさい→次はこの仕事をしなさい→次はどこどこに行って何々をとってきなさい→次は何々を使いなさい(要所要所に感動的な演出が入る)」
・無事いった事をこなすとエンディング
昔のゲーム
「あなたにこの自由に動ける一つの空間を与えます、この全ての中から必要だと思ったものを選びなさい、但し正しい物と間違った物が混じっています、また選ぶ順番にも正解不正解がございます、また選んだ選択によって今まで無かった選択が増える事もございます」
・正しい選択を選び続けれらればベストエンド、それまでに間違いがいっぱいある
どっちが面白そうか一目瞭然
「色々な部屋を探して脱出に必要なものを自分で探して外に出ました」
っていう話と
「まず鍵を取りなさい、次に何々しなさい、次ジャンルの物に見えてるような気がします
あらすじのストーリーをたどるゲームはあらすじに必要な道筋しか存在しない
目の前の無関係そうなものが何かに発展するかもしれないし、悪い事が起きるかもしれない
次の場所に進みなさい、次の場所で起こる演出はこれ、その次はこれ、見たいになってる話はその途中にあるトイレ何て何の意味も無い
トイレには惨殺された人が死んでるかもしれない
「次の場所」にも「トイレ」にも同じだけの意味と価値があるからやる人はトイレも調べるのであって、「次の場所」に向かいなさいだったら「トイレ」何て調べても何も起こらないし調べない
「次の場所」にも「トイレ」にも「テーブルの上のりんご」にも同じだけの意味と価値が並列にある
だからやる人は、「次の場所」か「トイレ」か「テーブルの上のりんご」かどれを選ぶか悩めるし、選ぶのが楽しい
正解はこの中では「次の場所」でしかないのに、間違いである「トイレ」にも「テーブルの上のりんご」にも同じだけの調べる価値がある
やってる人から見れば「トイレ」も「テーブルの上のりんご」も「次の場所」に見える
本当の「次の場所」に進んでも、次の「次の場所」に進む為にはまた色々な選択肢が落ちている
そういう選択を繰り返しながら話が進むのが昔のゲーム
今のゲームでは選択の過ちでゲームオーバーになる事はめったに無い
今のゲームでゲームオーバーになるのは「次の場所」に向かう途中にある障害物の処理が難しいからプレイする技術のミスでゲームで死ぬのが主なゲームオーバーになる理由
「途中にいる敵が強い」とか「連打に失敗した」とか
昔のゲームではスイッチを入れるのを忘れたとか、ガスを閉め忘れたとか、プレイヤーの技術と無関係な部分が死ぬ理由
今のゲームを簡潔に例で示すと
「次はここにいってこの敵をやっつけなさい→次はこの仕事をしなさい→次はどこどこに行って何々をとってきなさい→次は何々を使いなさい(要所要所に感動的な演出が入る)」
昔のゲームを簡潔に例で示すと
「あなたにこの自由に動ける一つの空間を与えます、この全ての中から必要だと思ったものを選びなさい、但し正しい物と間違った物が混じっています、また選ぶ順番にも正解不正解がございます、また選んだ選択によって今まで無かった選択が増える事もございます」
物流某社の筆記で出たフェルミ推定とかいう奴だけど、数字に弱いからあんまり巧く書けなかったな。
フェルミって、理系の専門分野だろ?文系は本とかしっかり読み込んでないとヤバいし読み込んでても分からん事があるよ。
言換えれば文系は理学的数学的問題を解く力を要さない。ま、必要ないからさ。
当り前だ、文系はそういった数的根拠に基づく実証実験を放棄してるんだから、授業カリキュラムからも余裕の除外。
大学から、あるいは高校・中学入試から数学的な計算問題に慣れ親しんでいない文系学生にしてみたら、一般常識ほど
一般的でないと感じる事が多いよね。事実、ニュートン算とか鶴亀算っていうのは文系コースでは絶対習わないものですから。
こういう矛盾があるのにも関わらず、企業っていうのはこんな、文系にしてみれば難解な問題が一般常識として出題されるのですから
如何ともし難いわけですよ。
じゃあ何?スイカの種っていうのは、フェルミ推定っていうのは理系向けかというと、要は考え方なんだろうね。
でも、それは果たして正解なんだろうかしら?
数字的な解答が正解なら、仮に文系的に根拠立てて「・・・と仮定するとスイカの種の数は〇〇だ」と結論付けても不正解という可能性だってあるわけで。
要はフェルミ推定が出ると、こちとらお手上げ状態なんですわ。
選んだコースが文系だっただけで、理系問題が解けないだなんてあんまりですわ。
至極無駄な気がしてならない。
なんか、マークシートの正解の欄のところだけマークがされてて、それ以外は不正解っていうアレね。
学歴欄に東大とエントリーに書かれてあったらそれをマークシートの自動認識で読み取って“通過”とするといったシステム。
実際、エントリーシートっていうのはそういう仕組みなので、よく“人物評価”“人で採用する”といったような採用システムを導入している会社に限って
こういった正解付きのエントリーシート方式を取る。
だから、低学歴の皆さんはエントリーしても時間と考えるだけ無駄ですよと公言してればいいのだけれど、法律でそういった差別は良くないって定められてるからさ
いっそ岩波書店のようにコネでしか採らないよって公言してくれた方が潔いし、受験者に親切だと思う。
なんかね、望みを持たせるようなことをして実際そんなことはなかったということはザラで、
件の採用方式を取ってる会社の採用実績を見ると、殆どが難関大学ないし東大京大で底辺四大を採りましたといった実績が大体書かれてない。
要するにマークシート方式だから、東大京大じゃないと不正解な学歴欄のようなもんで、初めから採る人材が決まってるわけ。
エントリーシートって別に応募システムってわけだけじゃなくて、その時点から篩にかけてて、学歴採用であったりコネ採用であったりと分かれてる。
「文部科学省が教員増員を予算要求しているのに対して、財務省側は、
「クラスサイズパズル」を理由に、「むしろ減員すべき」と突っぱねている」
というニュースがあった。
確かに、学習効果、「クラスサイズパズル」で議論すれば、文部科学省側の分は悪い。
しかし、これって、「クラスサイズパズルだから、教員削減する」というのは、
これって、「子供を作ろうかどうか、躊躇している」という既婚層に対して、
「国は教育に予算を優先投入しません、子育てを軽視します」とメッセージを発している、と受け取られてしまい、
要は、
ということになりかねない。
クラスサイズパズルより、少子化マインド醸成の副作用の方が大きい気がする。
あれも、可視化された「費用対効果」だけ見れば、税金を都心エリアの子育て層に
優先投入することの理屈付は難しい。
が、「こどもの城の廃止」は、
「経済力あるのに子供を作ろうとしない渋谷区民」の「子作りマインド」を一層冷やしかねない、という点で
※私見では、「渋谷区や東京都のような金満自治体が、こどもの城を引き取ればいいじゃん」と思っているのだが
全体的な文意には賛成だけどたぶん動物って
ですらなく、交尾したいからしたら、結果的にできましたってくらいなもんだよね。老後のことなんか考えずに盲目的にって意味ではその通りなんだけど。
人間でも、コンドームがないときは(ということはつい数十年前までは)そういう「側面」もあったんだよね。
ただ、あくまで「側面」の問題であり、別の側面からだと「子供に親の面倒を見させる」っていう「側面」もゼロじゃなかった。問題は複合的だからね。
コンドームと同様、「年金」も(国民皆保険的な意味では)ほんの数十年前まで存在しなかったから。
子供に親の面倒を見させる実例は、過去の日本を振り返らなくても、統計なんか取らなくても、今こうしてる現在、ちょっと後進国に行けば実例が腐るほどあってさ。
ほぼすべての後進国では、たくさん産んだ子供が働ける年齢になると親は若くても働かなくなる。求職常態ですらなくなる。子供は、子供の年齢のうちから働く。よく東南アジアの児童売春の問題がクローズアップされることがあるが、あれは児童売春の問題でありながなら、その根っこは児童労働の問題なんだ。
昼間から「何もしていない大人」っていうのはちょっと中国の田舎とか行けばいくらでも見れる。店の前とかでイスに座っているだけの。彼らは何をしているのか?と通訳に聞けば「何もしていない」と。失業状態ですらないらしい。
彼らにとって「働く」ということは人生のスタンダードな常態ではなく、急場をしのぐための緊急避難的なものであり、自分を食わせてくれる何かが現れたらもう働く必要はないんだね。
先進国になるような国の人々は、その歴史の過程で身分(一生ついて回るもの)と職業が一体となった期間がある。人生=職業なわけ。貴⇔賎という単純な区別ではなく、士農工商というような。後進国では貴⇔賎くらいのおおざっぱなくくりしかなかったりする。
我々っていうのは人生と職業がかなり深く結びつくように歴史において刷り込まれている。
が、そういう過程を経ていない人たちはかなり原始的、動物的な感覚をそのまま持ち続けていて、それが「子供に働かせる」という状況を生み出す。
「何も考えずに交尾したらできてしまう」というのも動物的で、人間の行動原理の一つであるけれども、同時に「子供に働かせる」というのも同様な動物的行動原理としてはまったくゼロじゃなく、脈々と受け継がれている部分でもあるという話。
などというフレーズが日常的に飛び交う現場で3年目の夏を迎えた。
小さい会社だ。独立系ITベンダの皮をかぶっているが、何次請けなのかも分からないような仕事を丸投げされて、数名単位のグループで現場に送り込まれるという、典型的な人出し派遣零細企業だ。俺も本社にいたのは研修期間の最初の半年だけで、それ以降は海の近くの巨大なビル街のあちこちを転々としている。プロパーの目を気にしながら食べる昼食の味にもすっかり慣れた。
最初の1年で2人やめた。理由。1人は「公務員試験を受ける」。もう1人は「仕事についていけないから」。
前者は同期数名だけのささやかな送別会の場でこんな事を言っていた。「毎日遅くまで残業させられる上に、20も30も年上のベテラン社員がペラペラの安っぽい背広を着て若手と同じような仕事をしてる。あれが俺たちの未来の姿だと思うと耐えられない」。懸命だと思う。その後、何度か彼とはメールのやり取りをしたが、公務員になったという話はついぞ聞かない。知らせがないということは、芳しくないということなんだろうと思っている。
「仕事についていけない」後者は、俺たち同期の目から見ても、プログラミングという仕事が向いていない男だった。コードが書けないだけでなく、「どのような処理が求められているのか」ということすらなかなか理解できない。体育会系で気持ちのよい男で、入社直後は朗らかにみんなの輪の真ん中で笑っていたのだが、研修が進むにつれてだんだん笑顔が減っていき、暗い顔で研修室に毎晩居残るようになり、何とか研修期間が終わって現場にアサインされた数日後には本社に突っ返されてきた。彼もきっとすぐに辞めて懸命だったのだ。ここは彼がいるべき場所ではなかった。と言うより、誰もがこんな場所にいるべきではないのだ。
彼らの頃は、まだ「あいつ、会社やめるってよ」というフレーズがショッキングな響きを維持していた。その後に、「何もやめること無いのにな」という言葉が続いたりもした。
2年目には6人やめた。1つ上の代で、胃に穴をあけて倒れる先輩、心を病んで休職する先輩、誰にも何も言わずに消えた先輩が3人立て続けに現れたことが引き金になったのか、6人中4人はわずか2ヶ月の間に立て続けにやめてしまった。そのうちの1人、女性なのだが、泣きながら「このままだと病気になる。今すぐやめさせてほしい」と談判して、結構な火の吹き方をしている現場からそのまま離脱退職したそうだ。俺は、彼女もまた懸命だと思う。俺たち若手の代わりなんて幾らでもいる。燃え盛っている火の中で心身に大火傷を負いながら得られるものなんて、安っぽい達成感と、上長からの「こいつは無理がきく」という評価だけだ。そんなもんガソリンぶっかけて火をつけちまえ。
その頃には「あいつ、会社やめるってよ」が、まるで時候の挨拶のように軽い響きのフレーズへと成り下がっていた。だけど、俺は誰かの退職を知るたびに心の中でこう思っていた。「あいつ、やめるのか。うらやましいな」。そう思うのなら、俺だってやめればいい。簡単な話だ。だけど、俺はやめられなかった。怖かった。ろくに貯金もなく、技術もなく、経験もなく、はっきり言って社会性も大してない。ついでに言うと、俺以外の連中もその辺りの事情は大差なかった。何のことはない。この会社は他の会社では通用しないような人間をかき集めて、頭数を揃えて、泥臭い作業要員として使い捨てにしているのだ。ここを抜けだしたとして、他にもっとマシな場所があるのか。その先にあるのは、さらに深い下請けの下層ではないのか。この会社に居続けることが不正解だということは分かっている。だけど、会社をやめることが正解だとも思えない。
そして3年目。同期で残ったのは俺ともう1人だけだ。もう1人、便宜的にそいつのことを「増田」と表現してよいだろうか?紛らわしいことは承知の上だが、他に適切な名前も思いつかない。
増田はずっと、本社の経理にいる。簿記の資格を取っているということで、他の同期がJavaの研修などを受けている1年目の5月、6月の時点で経理に配属されて、そのままそこで働き続けている。毎日、ゆっくりと出社して、昼は社長と昼食に出かけて、夕方は定時に帰る。会社全体規模で行われる飲み会には必ず参加して、常に社長の近くで酌をしたり、社長の話に懸命に相槌をうったりしている。要は、増田は社長から殊更の寵愛を注がれていたのだ。増田は年不相応に幼く、ともすれば中学生ぐらいにも見える。そんな増田が、ゴルフ焼けした老ゴリラのような社長とべったりしているさまは、一見すると祖父と孫のようでもあり、それでいて2人に間を飛び交う視線にはどこか湿った情念のようなものが常に漂っていて、それがひどくグロテスクに感じられた。
そんな増田が8月いっぱいで会社をやめる。さすがに今回ばかりは「増田、会社やめるってよ」という言葉が、驚きと好奇心を伴いながら現場中を蔓延した。社長に新しい愛人ができたのか、はたまた増田にもっと別の若くて甲斐性がある彼氏ができたのか、あるいは地元に帰って見合いでもするのではないか、様々な噂が飛び交った。俺も表面上は周りの社員とそんなゴシップ話に興じてみせるのだが、心中はいよいよ穏やかではない。とうとう、俺だけが残されてしまった。俺だけが逃げ遅れた。そんな焦燥感に駆られながら、俺は煙草くさい先輩社員達が繰り広げる増田に関する下品な噂話に精一杯の作り笑顔で受け答えしながら、冷や汗をかきながら、この会社での3年目の夏を終えようとしている。
ES出したり説明会行く時期だっていうのがネックだね。
これから自分で自分の中に行動動機を見出そうにも、なかなかそんな暇が取れないんじゃなかろうか。
インターンシップとかもう行ってると思うけど、そういうのやる中から何か見えてくるかもよ。
「で、きみのやりたいことは何なの?」
わたしが就活生だと言うと、まるで世界中のひとが帳尻を合わせてるんじゃないかって程に、こう聞いてくる。バイト先のお客さんも、友達も、恋人も、面接官も、わたしをとりまく世界中のひとみんなだ。わたしはその質問に閉口して、絶望して、「んーよくわからないんですよね」と口に出すたびに泣きそうになる。ほとんど泣いている。それでも、泣いたら変なので、泣かない。
やりたいことなんてわからないし、だからと言って口先だけの嘘もつけない。インターネット越しに、なんとなく興味があるかな?という企業にエントリーをする。説明会を聞きに行って、なんとなくいい感じかも?と思う。OB訪問をする。数時間かけてこしらえたエントリーシートを出す。面接をする。もちろん会社は素敵なのだ。業績とか人とかサービスとかビジョンとか、そういうの。一緒に働けたら、わたしも頑張れるだろうなと思う。だけど、わたし個人にやりたいことがなければ、働く理由や目的を他人に依存していては、だめらしい。気持ちの入りかたが違うから、「御社」の当事者になりきれないみたいだ。それでも、嘘とも本当ともつかない回答を、わたしは面接官にプレゼントしなければいけない。
やりたいことなんて無いのが当たり前なんだから、と優しいなぐさめをしてくれる人がいる。それでも、経験と論理と情熱に裏立てられた「やりたいこと」が無いと、わたしは働くことができない。
小さなことでもいいから、やりたいことを100個リストにしてみた。30個くらいで一旦手が止まったけど、なんとかひねり出すことができた。よかった。人に見せた。「行きたいところいっぱいあるね、どうしてここに行きたいの?」と聞かれた。ヨーロッパのきれいな街並み見たいとか、きつね村に行きたいとか、そこには書いてあった。「あ、なんか友達が行きたいって言ってたから・・・」と答えると、「そうかあ、それはきみが本当に行きたいところなの?」と聞かれた。途端に、分からなくなった。行けたら嬉しいかもしれないけど、別にどうしても行きたいわけじゃない。だってわたしは飛行機に乗ったことがないし、旅行もほとんどしたことないから楽しさなんて知らないし。だから、お金をためる気も、プランを考えるやる気も出ないし。他の項目も、「それ本当にやりたいの?」って問いかけたら、どんどん消えていった。それでも、わたしは、「本当にきみ自身がやりたいことをリストアップ」しなければいけない。
決して世の中に無関心なわけではない。ソーシャル系のイベントもよく行くし、ひと月でいろんな人に出会うし出会おうとしているし、本だって週に1〜2冊は読むし、おしゃれだって好きだし、音楽も漫画もインターネットも消費するし。大学は二流の私立に通っていて、友達も多くはないけれど好きなひとたちに囲まれているし、刺激的ではないけれど、それなりにゆるい幸せがだらっと続いている。それでも、人生の目的なんてまるきり無い。
やりたいことがない、なんていう弱音の、すべての原因は自分にあることは分かっている。理屈では。飛行機乗ったことないなら乗ればいいじゃない、写真でも撮ってみればいいじゃない。とりあえず何でもいいから、できることからやってみればいいじゃない、と人は言う。プログラミングをやってみればいいのか、英語を学んでみればいいのか、文章を書いてみればいいのか、「とりあえず」で始めたことを、果たして続けることはできるのか。わたしは、何も続かなかった。それでも、「そんなこと言ってないで」、わたしは武器を身につけなければいけない。
今まで、与えられたことしかやってこなかった。つねに目の前にはやるべきことがあった。習うべきピアノがあり、取るべきテストの点数があり、歌うべき合唱コンクールがあり、演じるべき文化祭があり、いっしょに努力すべき仲間がいて、入るべき高校があり、入るべき大学があった。それを淡々とこなしていれば、それなりに日々は充実していて、それが生きがいだと思っていた。思い込んでいたの間違いかもしれないが、すくなくとも安心はしていた。こなすべきことたちが、目の前にいてくれることに。それを順々に片付けさえすれば、評価してくれる他者がいることに。21年間そうやって生きてきた。それでも、その考えかたを、根本的に、変えなければいけないタイミングらしい。
誰のためでもなく自分のために生きる。評価軸は他人では無く自分が持つ。そう考えるとしあわせになれるらしい、よく分からないけど、なんとなく、そういう時代らしい。でもわたしはそれにどうしてもとまどってしまう(みんながそうか)。「"自分のために"ってある意味ではとても利己的だよね」とかそういう理由ではない。ただ単純にそれは大変な作業なのだ。自分の頭のなかで考えることが何倍にも増える。正解不正解も分からなく、将来誰のことをしあわせにしてあげられるかも分からない。ひとの顔色をうかがいつづけて、他者の目標のために、生きてきたわたしにとってそれは、「強すぎる」生き方なのだ。
そんな強い生き方をしている人たちが言う。わたしがここ数ヶ月のあいだに出会い、素敵だ、と思ったひとたち。解放された、自由な人生は、ほんとうに楽しいものなのだと。彼らの目には、初めて見るようなエネルギーがあり、言葉には力が宿っていて、欺瞞が無く、周りのひとたちを、いるだけで一つ上の段階にひっぱりあげてくれるような、そんな力がある。あのひとたちみたいになりたいと、わたしは間違いなく思っている。間違いなく。
ウチの係は、標準的な想定で、高校入試レベルの問題を一度に3問解くくらいの処理能力で、
でも、今年に入って、中学レベルが2問、高校レベルが1問増え、さらに中学レベルだった問題が大学入試レベルにクラスチェンジした。
つまり、問題の数が2.5倍(2→5)に増え、標準的な想定よりかなり上の難易度の問題が出てきた。
そんで、昨日は中学レベルの問題を片付けるための大きな山場の前日だったところに、中学レベルの問題がもう1問増えるお知らせがあった。
合計6問だ。3倍だ。
係長と
「今年はおかしいっすねwwwwwww」
「ちょwwwww止めてくださいよwwwwwwww」
とか言ってた。
そしたら、今日になってさらに「大学レベルもお願いします」って言われた。
フラグ回収って奴だ。
課内には戦慄が走った。
何故ならウチの能力では大学レベルの問題は解けないかも知れないからだ。
(というか、そもそも正解がないような気がしている。)
そして、なお悪いことに隣りの係でもほぼ同じ規模のハプニングがあり、ウチの部署には、もう、何とも言えない諦めの空気が漂った。
仕事の量に比例してテンションが上がるワーカホリックの部長がとうとう漏らした苦笑が忘れられない。
昨日まではまだ余裕があった。
でも、今日は違う。
「どんな答えを出しても不正解であり、それでも何らかの答えを出して、『ウチは正確と考えています』と強弁せざるを得ない状況に追い込まれるのではないか」
と感じ取っているから。
先は多分、長い。
嘘つくなよ。
広く日本の世間に共通しているらしい最大多数認識を採用するのと同じだろうがよ。
大学入試の足切り問題よろしく「ブー全員ふせいかーい!」とかやれて満足かい。
ところがこれは自由記述の増田記事だから正解も不正解もないんだよ。
元増田は「最近悪女見ない」を前提に、「悪女これから増えないかなー?」と言っている。
この「増えないかな」は疑問文だけれども意味するところは「増えて欲しい」という期待だ。それは明白だ。
分析派は「悪女見ない」という前提を分析して、「見ないのは何故か?」をはじき出す。
そして「見ないのは何故か?」が覆えることで、「増えて欲しい」という期待が叶うかもしれない、という話をする(覆らなきゃ無理じゃね、という話もする)。
いるよ派は「悪女いるよ。これなんかそうじゃね?」と、「悪女見ない」の前提をいきなり覆す。
「既にいるけれども見つかっていない(らしい)悪女」を新たに提示することで、「増えて欲しい」の期待に応える。
キミは日本語がちょっと不自由だから、元増田の期待を読み取れない。疑問文の形しか見えてない。
あるいは意地を張りすぎちゃって、今更頓珍漢な自分の指摘を引っ込めるわけにもいかなくなったので、敢えて元増田の文を徹底して機械的に解釈し、文章の背後にある元増田の「増えて欲しい」という期待を無視する。
だから回答はイエスノー形式にこだわるし、そうでない回答は一律間違いということにしたい。
ので必死こいてそう主張し、「とにかく自分は間違ってない」という点にしがみついている。
しかしイエスノーで答えていないツリー記事のいずれもが回答として間違っているなんてことはない。
どんな根拠を並べようと今後増えるか増えないかなんて未来予知は誰にも出来ないし、行ったところで検証できないんだから水掛け論にしかならない。その意味では誰も正答できない。
横だけど、トレーニーはみんな仮説ぐらいは持ってるよ。
やり方が色々あって、不正解が見つかりにくいのがウエイトトレーニングっていうだけのこと。
体調や関節の痛みなんかでもメニューはフレキシブルにどんどん変わるし負荷も変わる。
あなたは回数にこだわってるみたいだけど、セット間の休憩をどれぐらい取るかも凄く大事だし、
ウエイトトレーニングでもっともっと大事なのは栄養だったりする。
ツリー読むとあなたは「高負荷」とか「10回」とか「糖質制限」とか、ウエイトトレーニングについて一応は勉強したつもりなのはわかる。
でもその知識ははっきり言ってまだ何の役にも立たないレベル・状態と言わざるを得ない。
何を専門にしてる人なのかわからないけど、「全体感」とか「フィードバック」とかいう用語にしても
血肉になっていないふわふわ感を感じる。一事が万事。
どうもちょっと、勉強や座学ばっかりで理論倒れ傾向になってる学生さんのような印象を受ける。
最近思うのは、正解とか不正解とかっていうのはあんまり関係ないのかなぁと。
繋がろうとする時の”摩擦”を起こすのが何よりも大切であっ
て正しさとか納得ってことよりまずはことばのやりとりによって、存在を認め合うことが最優先の目的だと
なんだろう、この全部が一つの円の中に入るんじゃないかって言う感覚。
それぞれが異なった領域にあって、全く関連が無いように思える事象であっても、
なんだか全てが繋がっていて孕んでいる本質は全てに共通しているんじゃないか?という
漠然で曖昧、でも確信めいた感覚。点と点が線になり線で織り成す集合体は
円になるような感じ。
☆
私たちはチャンスをつかむためではなく
チャンスを逃さないために日々研鑽を積んでいる。
無駄な時間を過ごすためにある場面では無駄を省き効率的に進むことを
求める。
さらなる効率的にすごそうとする意志に変わっていく。
☆
点と点が結びついて線になる瞬間は
そことそこが結びつくのか、とか
そんな分野にヒントがあったなんて!って思う。
悲しいけれど私たちには
点と点を結ぶ方法はない。
結ぼうとしても無理。
唯一できるのは点を増やすことだけ。
線の材料になる
点を増やすことだけ。
☆
切り離して考えると損をしてしまうような気がしてならない。
全てが繋がっていて、
全部一緒なんだと思う。
見えてる形とか表現の仕方は違っているけれど
それぞれの領域で最終的に行き着く本質は
どれも一緒なんじゃないかと思う。
誰もが自分の虹に辿り着ける。
そんな感じ。
http://anond.hatelabo.jp/20111026224025
ここだけ読めばその通り。
だけど、大元の説明が間違い。
「自分が好みの異性を、レイプして人を殺すことを妄想して楽しんでいる人」
に対して
「自分が好みの異性が、(他の人を)レイプして人を殺すことを妄想して楽しんでいる人」
という例を挙げて「一緒でしょ」と伝えても、伝わるわけがない。通じるわけがない。
それに対し「通じなかったのか、嫌な顔された」と書くこと自体が、間違い。
受験の現代文と違って、筆者が自ら考えを吐露しているんだから、他人である問題文作成者が勝手に作って提示した選択肢よりは真に近いですよ。
あなたの考えと、「男」の考えは違うし、そもそもあなたの述べている「一緒でしょ」の理屈が間違っているから、あなたの考え=正解にはなりません。
そもそも、筆者が何を考えて書いたかではなく、「書かれた文章から何が読み取れるか」が国語ですからあしからず。
もし筆者が意図したものと違う答えだったら、それはあなたが意図した通りに文章を書けていないからでしょう。
あなた自身は、男に話が通じないで、嫌な顔されたことに対し
『普段あれだけ巨乳がどうこう貧乳はアカンとか何とか所構わずエロネタ振りまいてくるくせに自分がオカズにされんのは拒否反応』
と書いていますが、そもそもあなたの男に対する説明が論理破綻していた時点で、男の反応が何によるものだったのか正確にわかりません。
それを、
『普段あれだけ巨乳がどうこう貧乳はアカンとか何とか所構わずエロネタ振りまいてくるくせに自分がオカズにされんのは拒否反応とか都合良すぎンだよカスが』
と断じているところに、問題があります。
あなたの説明では、「いや、異性に対する性的興味でエロネタ話すのと、異性がホモセクシャルであるという妄想広げるのは違うだろ」と思われたから、通じず、嫌な顔をされた可能性がありますよ、と。
何度言えばいいんですかね。
答一 ア
答ニ ウ
答三 ア~エ全て(全てあり得る)
http://anond.hatelabo.jp/20111026222633
そもそも、元増田のたとえは、おっぱい星人と太ももも至高派との対立とも違う。
自身が異性が好きで、その異性の良しあしを語り、自己の性的欲求を語るのと、自身が異性が好きだが、その異性が他の異性と性的交渉を重ねていることを妄想して楽しむのとでは、大きく違う。
http://anond.hatelabo.jp/20111026222713
をやり直し。
http://anond.hatelabo.jp/20111026220956
http://anond.hatelabo.jp/20111026220541
想像力と理解力の欠如。
下の練習問題をやってから、
http://anond.hatelabo.jp/20111026222713
をやり直そう。
問一 婦女子をレイプするのが大好きで、暴行殺人ばかりしている男に、「お前も人殺してるんだろ。それと一緒で、俺も殺人見るのが好きで、よくスナッフフィルムとか見るんだよね」と言った。
問二 問一の発言に対し、男が「お前のそれと俺のそれは同じじゃない。お前の行動は理解できない。俺は自分がレイプするのが好きなんだ。人が殺してる現場なんか見ても何も楽しくない。人が殺してるのを見るだけで何が楽しいんだ。わからん」と答え、嫌な顔をした。
この際、論理的に間違っていたのはどちらか答えよ。
シチュエーションを理解しよう。
以下の練習問題からやり直そう。
問一 元増田いわく「女の品定め」ばかりする男。彼の行動は、次のア~エの内どれによるものと推測できるか
問二 元増田が男に例示し、「(男も女も)一緒でしょ」と示した話は次のア~エのどれか
ア 生物学上男のヘテロセクシャルが、生物学上女の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
イ 生物学上男のホモセクシャルが、生物学上男の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
ウ 生物学上女のヘテロセクシャルが、生物学上男の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
エ 生物学上女のホモセクシャルが、生物学上女の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
問三 その話は、男には通じず、嫌な顔をされたらしいが、その理由として考えられるものは次のア~エのうちどれか、当てはまるものをすべて選べ
ア 元増田の話で、自分自身も異性から性的視点で見られる対象だと自覚したから
イ 元増田の話で、元増田がバカで論理性の欠如した人間だとわかったから
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。