はてなキーワード: 不正解とは
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
世の中にはやってみたい事ややりたい事がたくさんあって、それを達成したり諦めたりするうちに増えたり減ったり変わったりする。どんなことであろうが叶った時は気持ち良いし、やってて良かったと感じる。でもそれを達成することで少しずつ方向は変わっていく。
プロはすごい。努力して、自分を売り込んで、仕事を請ける。自分はプロと同じ場所にいるが、ただそれをやりたいだけだから、そこまでの情熱はない。そして上を目指すことすべてが決して良いとは思えない。今は純粋に上手くなりたい。上手くなった先は考えてないけど、上手くなれば喜んでくれる人がいる。それだけだ。
人生に正解不正解はないし、だからこそ自分の答えが正しいとも正しくないとも思わない。だけど、共感してくれる人が少しだけいてくれたらいいな。と、そう思う。
本物ってどこにあるんだろう。
いい例が音だ。
本物の音ってどこで聞けるのだろう。
ギターの弦が弾かれた音ひとつとっても、アンプを通したりパソコンで加工したり、生演奏だって言っても雑音が混じってしまっては首を傾げてしまう。
良い音ってなんなんだろう。人が心地よく感じるものって何なんだろう。
加工された純粋じゃないものに触れてより良く感じるのだとしたら。
味。調味料にしてもそうだ。その果物が使われているわけじゃないのに、その風味を好む。
ともすれば、初めて純粋なものに触れたとき味気なく感じるかもしれない。
加工された現実で生きる感性は麻痺しているのかしら。その麻痺はもう二度ととかれないかもしれないのだけれど、それってどうなんだろう。
良い悪いじゃなくて、少しもやもやする。本当に、ほんの少しだけ。
錯覚し続けることが生きること。加工された心地よさに酔っていれば、どんな姿をしているともわからない純粋なものを知らなくて済む。
でも、純粋なものってなんだ。純粋な味ってなんだ。純粋な音ってなんだ。純粋な光景ってなんだ。
純粋って幻想なのか。純粋ってあやふやなものなのか。振れ幅が大きな純粋と加工されたものとの境界はどこにあるんだ。知らされていない状況で判別は可能なのか。
自己満足とか自己判断とか自己決定とか、そんなものでしか結局物事を感じ取れない。
感じ取った物事が誰かの感じ取った物事と合致しているのかわからない。
わたしは正解を当てたのか。不正解を引いたのか。
言葉はうそをつくので信用できない。言葉は記号なので、それ自体から得られるものは結局自己判断になる。
どうして数式は正しい答えがあるんだろう。数式ってすごい。改めてそう思う。
たぶん、数字はその記号世界だけで完結しているんだ。すごく正しくて不正のない存在なのだ。
珍しいと思う。でも、もしかしたらそれはそうであるものとして作り出されたからなのかもしれないけれど。
作り出されたもの、そうであるとものとして生み出されたものに疑問を持つことは愚かなんだろうと思う。
でも、すでにそうあったもがどうしてそのようにしてあるのか考えるのであればわくわくする。
わくわくしていられれば、それで十分なのだろう。
いや、十分てことはないのかもしれない。おそらく十分条件足りえる事柄なんてないのだろう。
今日はある科目の小テストが実施された。出題範囲はあらかじめ指定されていたから、それに合わせてちゃんと勉強をした・・・つもりだった。
小テスト開始。問題を見てびびった。
問1、2、3で構成されていたんだけれども、問2が予想以上に難しく、問3は問1と問2を解かないと書けないという問題。
問1については易しい問題だったのでちゃんと解答を記入したけど、問2、問3は空白。これはやばい。
小テスト終了後、先生がすぐに採点。採点が終わると先生が怒り出した。いつにも増して結構強い口調。どうやら、おれだけでなくみんなの点数もひどかったらしい。
あの怒り方を見ると、来週の答案返却が怖い。そのときまた怒られるんだろう。出席したくねえな・・・。
家に帰ってから、もう一度その問題を見直してみた。簡単な問1もつまらないミスで間違ってた・・・。コレで全問不正解、0点確定。勉強したのに0点。おわた。
来週の講義がますます怖くなった。
先日の「16歳の高校生が公認会計士試験」のニュースもあって、無力感・焦燥感がやばい。
この状態を脱するには勉強するしかないんだけど、全問不正解が判明してからショックでもう5~6時間ぼーっとしている。おれはなにをやってんだろう。
池谷裕二という、九九も漢字もほとんど覚えてないのに、東大薬学部も大学院も主席で入ったという人がいてだな…
その人は、数学の公式も覚えられないので、問題を解く度にいちいち自分で公式を導き出して計算していたらしい。掛け算も、九九を覚えない代わりに独自の計算法で計算しているらしい。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
例えば、分数の割り算はだいたい皆できるよな。分母と分子をひっくり返して掛ければ正しい答えは出る。でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
世間では、公式や計算式や九九を暗記してこなすことが基礎だと言われているが、本当はこの「なぜそうするのか」という理論の部分こそが基礎なのであって、ここをみっちり教えないといけないんじゃないのか。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
でも、一旦「なぜそうするのか」を理解して覚えたことは、なかなか忘れないものだよ。そして、そうやって身に着けた思考法は、将来何かしら役に立つんじゃないかな。
でも、詰め込んでいる期間だけ「できる」人間を育てるやり方は、指導する側にとっては楽なやり方なんだよね。評価もしやすいし。
それに、なまじ答えが合っていてできていると、わかっているように見えるもんな。実際はわかってなくても。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。
ブクマで感心しているブックマーカーは、フィクションの読者の立場で捉えている。
コンテンツとして消費はそうだろうが(ネットで読む人生相談にそれ以外どうしろと?)
「唯一無二の正解だと思ってる」だとか「元増田だけが別の可能性に気付いてる」とかは勘違いだよ。
みんなソレぐらいわかってて楽しんでるだけ。
慎重にあらゆる可能性に配慮した回答と言うのは
「この情報だけではわかりません」と常に何も答えないことだ。
それではコンテンツは成り立たないので、
こうでしょう、と回答するだけのこと。
「問題あるのはとーちゃんよりむしろかーちゃんだろ」という「解」答は
鮮やかだし最も説得力がある。
元増田のような人は「自分だけが別の視野、他の可能性を見てる」と考えるんだけど
みんなのようなコンテンツ消費の前提に達していないだけだったりする。
みんながショーだと知って消費してるプロレスを、
http://anond.hatelabo.jp/20100316181057
制限速度は指定速度の+10km/hが原則
ぶぶー、不正解。+5㎞/hです。ゼブラカラーの車に追いかけられても「法定速度だと思ってました」と言い訳できる最高速度だからです。このくらいなら「表示の誤差」で済みます。
それから。
停止線は守りましょう。右折車が流れを妨げないように、長い右折帯が作られているのに、停止線まで行ってしまうと右折しにくくなるからか、対向車のど真ん中に居る気分になるからか、右折帯の真ん中で停まっている車がよくいます。あなたのせいで後ろは渋滞しています。あと車3台分前に出てください。停止線を守っているだけですから、それで対向車がぶつかってきたら、相手方が百パーセント悪いのです。
元増田の言い分があやふやだ、という指摘は正しい。
そもそも元増田の感じてる「心地の良い状況」にあたるゴールはどこにあるのか?を問うと
結局それは「今の現状」に限りなく近い。
つまり「今の現状」を壊さない形で自分にフィットする相手がすんなり入ってこないかなぁ、という言い分だ。
ただ、非モテが騒いでるという点においては見方がいくつかある。
それは単純にネット上で「女の子がいれば男が群がる」という図式を、ひとつのギャグのパターンとして見て反射的に行ってるヤツもいれば、中には本気のヤツもる。
そういう事態に指摘を入れることが、すでに彼らと同じ目線になっているし、その事を指摘しようとしてるこの書き込みもすでに同じ視点にまで落ちているという事だ。
本題に対するコメントはありきたりになりそうだからおいといて
ヒントを見せなければ協力した事にならないんだろうか?だったらヒントをお互いに見せない上で一人ずつ違う数字に賭けて10/11を狙い、参加賞500円を人数分と1万円をゲットするというのはどうだろう。
で、互いのヒントを見ないで数字を割り振るわけだから、自分に割り振られた数字が明らかに正解じゃない事がヒントから導き出せる場合は当然違う数字に賭けて良いという事にする。そうすれば賞金の総額は更に上がる可能性が出てくる。
それを山分けにすれば、一人しか正解できなくとも不正解者は参加賞の500円をもらえる分一人あたりの総額が上がる。二人以上正解すれば山分け金額ももっと上がる。
一攫千金を狙いたい奴がいれば、賞金の総額を賭けて山分け派とくじでも引けばいい。山分け派が勝ったら山分け派だけで分けるという事で。
一応1/11のリスクはあるけど、割り振りがヒントによって変わる可能性も考えるとかなりリスクは低いと思われる。
まあ、結託して違う数字に賭けるのは協力した事になるだろうから実際はやっちゃダメなんだろうけど。もし許されるのであればこれが自分の考えた最良策。今の段階ではね。ま、何の意味もないんだけどさ。
■追記
なんだか社畜選別方法だとか言われていますが、そうなのかもしれません。
ただ以下のことが自己分析ののちに実体験として語れる学生は入社してから伸びることが多いです。タイトルにもありますがこれは新卒文系が内定を取るための方法です。文系の新卒の8割はモラトリアムを満喫しただけで単位のための勉学しかしていません。その子たちが急に就職活動に挑むとなった場合大体玉砕することになります。ですがその子たちが空っぽなのかと言われればそんなことはないですし、当然モラトリアム中という18~20歳ぐらいまでの間に体験、経験したことはその人の人間的成長を語る上では外せない時期となっています。だからこそそこをうまく就職活動で見せられるような人が欲しいのです。わざわざエントリーシートでこの子はどんな子なんだろう、なんて思いを馳せるのは無理なので。(追記終了)
http://anond.hatelabo.jp/20091024224652
全員が全員自分の成功体験談を書くからどれを信じたらいいかわからないということが多いので。
ちなみにわたしは人材コンサル→大手人事部→大手人事部の経歴。人事としての経歴と転職活動、就職活動を通しての話です。
わたしは傾向としてスジが通っている人を採用する傾向にあるので、論理重視ですが、参考までに。
マーチクラス以上(自分の大学がマーチクラスかギリギリアウトかなーみたいな人はたぶんアウト。)
この辺の学歴がないとエントリー時点でサクッと学歴足切りがあるので。
こればっかりはもうどうすることもできません。
3業種30社と言われますが妥当だと思います。
最初のうちはマスコミから始まりますが受けておきましょう。すべて練習と割り切って受ければいいです。
多くの就職活動本に書いてあることと重複してしまいますが、必要なのはあなたがどんな人間か浮かび上がらせることです。
あれも話したい、これも話したいとか思わずにまずは自分の中でのキラーコンテンツを見つけてください。一般的にいえば、部活、サークル、バイト、ゼミです。
学業をがんばったアピールしても専門的な内容になればなるほど、面接で面接官が聞いていて楽しくないので落ちることが多いです。
重要なのは
(1)ここはシンプルですね。読んでいる人の心をつかむために奇をてらう必要はありません。シンプルに前述したものを中心に大学生活4年間を思い出しましょう。
(2)ここはそれなりに大事です。バイトでお金のためにとか言ってしまうとおそらく事実でしょうが、元も子もありません。ある種自己犠牲的な目的だと偉いね、という感じになります。
例・みんなの役に立ちたかった。
(3)ここが重要です。正直(1)~(2)を話す人が多いのですが、重要なのは(3)です。結局キミがどう成長したのか、どんな価値観を得たのかという部分を知りたいのです。
例・(便宜的にざっくりしていますが)○○をすることで人に感謝される喜びを知り、そういったことに興味を持つようになりました。→ここは充実感を持つようになった。ぐらいだと嫌味になりません。
このあたりが抑えてあればまずはOKです。
これだけ抑えるだけで同じ大学のライバルが10人いたとしたら2人には勝てます。
ここも、もちろん重要です。ここは他人と差をつけるチャンスです。
自己PRを転用してまずは志望動機にしてください。転用するのは
この2点のうちどちらか、もしくは両方です。
前者はシンプルな話になるので強いですね。○○の部分が会社の事業内容につながっていればいいだけです。
後者の方は少し工夫しましょう。人に感謝されることがよかった→人の役に立ちたい→自分が興味のあることを通じて役に立ちたい→御社の事業内容を通じて役に立ちたい。という変換ですね。ここは自分の興味と事業内容をどうつなげるかが大事ですが、大手企業だったら自分の生活とつなげて興味を持ったぐらいは言えるようになってください。ニッチな産業であったり、マイナーな事業の場合は、その産業をほめて貢献したいと言いましょう。
もちろんこれだけではだめです。
ただしここはあまりウソで塗り固めても内定を取るだけで働いてからギャップを感じたり、本当に向いていない業界の可能性もありますのでホドホドに。
ここにさらに御社じゃないとだめなんです。という要素を足しましょう。
このあたりは同業の中での強みをほめるのが鉄則です。業界ナンバー2だろうがナンバー5だろうがなんか強みがあるハズです。そこに惹かれたというのがベストです。ただ、やっぱり大した強みのない会社もあります。残念ですがその場合は企業理念を引っ張ってきましょう。
例・御社の○○という社訓や、創業者の△△という理念に共感したため御社を志望しました。
こうすることで、あなたの大学生活からどうしてこの会社に興味を持ったのかまでがつながります。
このメリットは後述しますが、今はつなげるとイイということを覚えてください。
これで残った7人の中からさらに2人勝てます。
自己PRと志望動機が前述したようにあればなんの問題もありません。趣味・特技の欄はアイスブレイク的なもので使ったり、面接官にちょっと興味を惹かせるためのものなのでそこを一生懸命書いてメインにしないでくださいね。
よく、読書、映画鑑賞、音楽鑑賞はまずいと思っている人もいますが別にまずくはないです。逆に無難に書くと面接官になんとなく突っ込まれたときに痛い目を見るので正直に書くか、聞かれた時のために全力でねつ造しておきましょう。読書なら最近のベストセラーで十分です。その作家の過去の作品5作品程度抑えておけばなおよしといったレベルです。
わたしが前提であげた学歴の人なら国語は問題ないでしょう。算数(あえて算数と言います)に関しては私大で数学を捨てて受験した方は問題集1冊買うぐらいの投資はしておきましょう。あと筆記試験というのはいろんな企業でやっています。早めに就職活動をしておくと同じ問題にめぐりあうこともありますし、練習感覚でどうでもいい企業のを受けるというのもありです。
さすがにこのあたりは多くの本でも書いてありますが、希望する業種において必要な性格になりそうな答えを意識してください。
一人ぐらい馬鹿正直な性格を申告してしまうので残りライバルは5人です。
どこかのダイアリーにもありましたが、ここで恥ずかしがったり格好つけてはいけません。必死さを出す必要はありませんが、まじめにやりましょう。
ここは与えられるのは自己PRを1分と志望動機30秒レベルでしょう。あとはよくある質問です。
ここで自己PRと志望動機をつなげておくとイチから説明することもなくスムーズに話せますし、当然面接官の頭にも入りやすいので好印象で、「コイツは論理力がある」と思われやすいです。
よくある質問なんていうのは、学生時代頑張ったことだとかそのレベルです。自己PRをさらに強化する時間です。余裕があればだからこそ御社でみたいなことを言っておきましょう。いやらしいですが面接なんていうのはそんな場です。
最後の質疑応答は個人的にはあまり重要視していませんが、まあ当たり障りのないことを聞くか、面接官の当時の志望動機とか聞いてみるのもいいですね。
悪い意味で印象に残っているのは、もう一度就職活動をするとしたら、御社を受けますか?と聞かれたことですかね。あたりまえだろ。
良い意味印象の質問だと、わたしの話はわかりやすかったですか?という質問は嫌いじゃないです。採用に関わるのであまり確信的なことを言えないのですが軽くフィードバックをしてあげました。
まあこれぐらいですが、集団面接ということで暴走して話しすぎる人は落とされやすいので指定された時間は意識しておくこと。自己PRに関してはこれから何十回ということもあるので30秒バージョン、1分バージョン、2分バージョンぐらいは用意しておきましょう。
暴走して一人、テンパって一人計2人ぐらい脱落するんじゃないでしょうか。
初めに言っておきますが、所詮学生のGDです。すごいビジネスにつながる意見を求めているわけではありませんし、変な爪痕を残そうとするのはやめた方がいいです。
みたいのはこの子が会社に入ったらどんな感じで発言をするんだろう。会議におけるポジションを見るだけです。
欲しい人材っていうのは
こんな感じです。どれが自信ありますか?その自信のある能力をすべてのGDで発揮できますか?
ですが、誰にでもある程度、積極的に現状分析ができ、役割を意識できる人間であることをアピールできる方法があります。
議長です。
議長をやれば、別に正しい意見は言わなくていいんです。話を聞きながらステップ毎にいったん話をまとめるだけです。ですが要所でまとめるだけでも印象はとてもいいです。さらにメリットとしてはGDでは最後に発表するケースが多々ありますが、往々にしてプレゼンターは議長になります。立候補しても納得度が高く信任されるのでお得です。どうですか?議長さえしっかりやればGDなんて怖くもなんともありません。
議長になりたい場合これは戦争です。事前にGDという告知はしてあると思うのでそこは上手に立ち回りましょう。
最初に待合所にグループで通されたときから仕掛けるべきです。まずは社交的に全員と話すこと。大学名はサラっと言い、サークルでのポジションでちょっとしたリーダーをやっていた、バイトでリーダーをやっていたみたいなことをウソでもいいので言えばなんとなくコイツしっかりしてると思われます。そしていざGDが始まったときに、なにがあっても一番最初に口を開くことです。GDの最初なんてのは役割決めですから。「じゃあ僕、わたし議長やろうか、そういう仕事慣れてるし」と一言言えば反論はそう来ません。来た場合は、時計を気にして「じゃあキミに任せるよ、他の役割も決めよう」と言えば大人の対応です。GDでの発言になんとなくの権威が生まれてあわよくば発表者にはなれます。
ここまで来ると同じ大学のライバルはあと3人ってところですかね。
ここで人事が知りたいのは、結局自己PRと志望動機です。それをじっくりと聞くだけの場です。まあきっとしっかり作りこんでいるでしょうし、このころには他の会社でもいろいろトライアンドエラーをして立派なものになっているでしょう。そうした場合、他のライバルの連動のない自己PRと志望動機に対して圧倒的に強いので大丈夫です。あとは自己PRの引き出しを増やしておきましょう。そこについて突っ込まれたときにどう論理的に返すかがカギです。なんでそう思ったのか。なんでそれをしたのか。起こした失敗は?(失敗に関して失敗を本当に語らないでください、聞きたいのは二度と失敗をしないようになにを心掛けているのかですから。)レベルは考えておきましょう。
あとは第一志望の理由ですね。業界トップじゃない会社であればあるほど聞いてきます。間違っても第二志望とか言わないでくださいね。志望理由と一緒に時にはウソをつけるかというのも地味に見ていますので。他のエントリーしている企業は他業種2社、同業2社ぐらいが無難です。同業2社の出し方は難しいですが御社が第一志望である理由と、同業の会社は御社がダメだったときと言えば基本OK。しつこく他の企業を受けている理由を聞かれた場合には実際同業の会社のいいとこを言ったうえで、でも一番は御社です。という結論へ。もし本当に持ち駒が0のときは、ウソをついてください。正直0は他の人事が見向きもしなかったという証以上の効果はありません。昔泣きだした女の子がいましたが落としました。
まあここまで出来ていれば大丈夫でしょうが、付け加えておくことと言えば、勉学をちゃんとやっていたかどうかです。一応会社ですからちゃんとそこも確認します。ゼミで一番調べたことの話をすればいいです。もしくは営業志望ならバリバリの体育会を自認するでもいいですが。
さあ後は最終面接です。きっとライバルはあなたとあと一人となっています。
一応人事面接で前述レベルでしっかり出来た人は人事からもプッシュしますが、多くは運ですね。
ワンマン社長みたいな会社では対策できませんが、大手の場合は安全枠というか、まあ悪く言えば社長や取締役がダメと言っても人事的に高評価な人を取ってバランスを気をつけるのでしっかり話せれば大丈夫でしょう。
本を書いている人の内容が薄いくせにいっぱい儲かっているのが悔しかったんだと思います。
面接系の本は学校にあるはずなので、筆記用と業界分析用の本だけ買えばいいですよ。
それでは皆様のご武運とエントリーお待ちしております!
社会は多様で10人いれば10様の性格の人間がいると思って差し支えありません。
その中で、あなたや世間にとっての「当たり前」を当たり前に受け止めてくれない人もいるかもしれません。
あなたのメールを受け取って件の教授がどう考えたのか考えみると違った受け止め方ができます。
サラリーマンであれば儀礼的なメールや格式的なメールは間違いではないと言えるでしょう。
そういった儀礼的なメールに「何故」を突きつけることができること自体
研究者の心構えとしては尊敬すべき、見習わざるを得ないこと、と考えられるかもしれません。
少なくとも話を伺う限り失礼な文面になってしまっているとはお見受けしますが
多忙な職務の時間を割いて返信をしてもらえた、というのはそれだけで感謝に値することだと思います。
少なくとも私が同じメールを受けとったらそのように受け止めます。
また、逆に「私が教授だったら…」と考えると
新しい研究生に踏み絵的な意図でそういったメールを送ることもあるかもしれません。
貴方が学問としてどういった分野を専攻されているかわかりませんが
学生を卒業しプロフェッショナルな研究者としての一歩を踏み出すにあたって
絶対的なアドバイスとして伝えられる何かがあるとしたら、
学生時分のように正解と不正解に仕分けできるような単純な「答え」は存在しない、という事実です。
曖昧模糊な価値基準の中でその時その時の「ベスト」を尽くして行くしかありません。
「私は考えすぎなのでしょうか?」と仰っていますが
貴方は考る段階にすら至っていないのではないか、というのが私の感想です
駄文ですがご参考までに私見を述べさせてもらいました。
そして最後にもう一つ。
これは私が最近の若い方の相談を受ける際に例外なく言わせてもらっていることですが
この点が現代の学生達が総じて伸び悩むボトルネックのような気がしています。
「これから貴方が出会う貴方の先輩たちはすべからく貴方に興味がない」
貴方の舞台は主役ではなく脇役から始まる、ということです。
長文失礼致しました。
長い研修も終わり、一応「使える」形になってきた新入社員がいろんな部署に配属された。
社内では「○○の部署は一番期待されてる奴が行く」といった部署もあり、
新入社員はその話を知ってるのかはわからないが、先輩たちはニヤニヤと配属を見ていた。
で、自分が世話してた奴が「期待されてる」とされる部署に行ってしまった。
それなりに出世コースというところだろうが、
こないだ一緒に飲みに言った時にそいつが言った言葉に驚いた。
曰く、「期待の部署と聞くが、自分が期待される理由がわかりません。」と。
正直、自分にもわからない。
目立たない奴だし、主体的で行動力があるわけでもない。
ただ、正解不正解はともかく空気を読まず率直に意見を言うタイプ。
それでも周りより少しだけ仕事を任せても安心感が(感だけだけども)ある所が良いところだろうか。
しかし、その部署に行ったからには期待されているという事実があるはず。
そこでそれなりに成績を残せば出世コースに乗るだろうとは思うが、
そんなにも自分に自信がない後輩にそれが出来るかどうか。
先日、見ていたブログで数学の問題が書いてあった。コメント欄には「簡単ですね」のコメント。
愕然とした。全然わからなかった。
小学校の途中から全く勉強せずに成人した。中学では遊び呆け、高校は夜間に行った。ゲームセンターでゲーム、残り時間はバイト。高校数学なんぞ触ってすらいない。
そんなやつでも時間がたてば成人扱い、全くの駄目人間ができあがる。
論理立てて考える事ができない。思考している間に横道にそれて、斜め上を飛んで、適当で大雑把な結論になってしまう。集中力もないし、察しも悪い。手先は器用でもないし、運動も駄目だ。
どうにかしようと思って高校生用の数学の参考書と問題集を買ってきてみた。何問かやって、不正解と正解を繰り返した。正解するともちろん嬉しい。しかし同時に、何をやってるんだろうという気分になった。
数学だけじゃない、文も書けるようになりたい。語彙も増やしたい。英語も少しはわかるようになりたい。
だけど集中できない。なんで遊んでしまうんだ。何かの発達障害なんだろうか。
わかってる、こんな自分はどうせやり直しても遊んでしまうだろう。
ホッテントリから。
「仮説ドリブンアプローチ」や「納得解」のような実践型教育、「正解のない教育」は、教える側にかなりのスキルを求められるだろう。「指導要領」みたいなものに画一化するのもむずかしくなるから、まず文部科学省は嫌うだろう…(中略)…
従来型の学校教育をほとんど全部ひっくり返すような、ラディカルな改革が求められる。
……
まあ、今更感が強いけど、一般の人に教育に興味を持って貰えるのは一応有難い。
できればついでに「ゆとり教育」というのがどういう「学力」を目指した政策か、
そして、そこではどのような授業、どのような教育が実現されているか、
そういうことを、少しでも調べてから書いて貰えると、もっと有難い。
(現行指導要領の「生きる力」と、それを引き継ぐ新学習指導要領の基本的考え方について
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/idea/index.htm)
文部科学省が今やっきになってやろうとしているまさにその『ラディカルな改革』の方向性に対し、ありもしない「学力低下」のかけ声で国民が足をひっぱったりすることの無いよう、心からお願いする。
「人と人が意見を交わし合う」って時に、「自分は一切譲らずに、相手が100%譲るまで絶対動かない」って人居るじゃないですか。
そういう人と言葉を交し合ってる時の絶望感ったら、ない。それでも仕事だから話さないわけにはいかないんだけど、虚しさしか残らない。
「はっ、バカじゃないの?」(はなっから自分=正解、相手=不正解としか思っていない態度)
「いいかい、君が間違ってるんだからそこを認めてくれないとこの話は始まらないよ?」(一切譲り合う気のない態度)
「一応君の言い分を聞いてみたけど、・・・全部無駄だったwこの時間返してよ、ねえww」(半笑いで勝手に勝利宣言)
「だって君が俺に知識・経験・キャリアその他あらゆる全てで勝ってるところなんて一つもないじゃん。イコール、君の意見が俺より正しいなんてありえません」(もはやこの自信ははすごい)
「そんなの知らないよ。別に俺は困らないし」(なんか話が摩り替わってないか?)
「いや、これは会社命令であり、俺からの上司命令なんだから君はうんと言えないならもう会社来なくていいよ」(結局最後はパワハラに頼る)
カツカツの現場からは「これ以上シフトを絞るなんて事務所の人間はどういうつもりなの!?」とどやされて、
バカ総務は「フロアの連中が納得しないのは君の人間力が足りないから悪いんだよ。俺が説得すればみんな喜んで納得してくれるだろうね。絶対行かないけどw」とはなから相手にされなくて。
条件分けの中でいうと
(1)愛のない両親から生まれて「デフォルトでは」価値のない存在だとしたら、自分の価値を高める努力をしたい
「ただ存在するだけでは意味がないので努力する、それを『生きる』という」
が正解なので、一般には(1)で大体おk。(3)は「愛が無くても居る」、(4)は「居るだけでは意味がない」なのでどちらも不正解。その辺は大体半世紀くらい前に片づいた。
ちなみにもっと言えば本当は『生むか生まないか』より『生みたいか生みたくないか』が問題。主体の判断を置き去りにしたまま、どこかに『客観的基準』があるかのように考えそれに従おうという発想は良くないと思う。
「この行為は論理的に正しいかどうか」という思考に陥ること自体が、論理性という客観への「逃げ」である可能性を考慮すべきでは。この世界では、『過ちうる』という可能性も含めて人間は自由なので、そこで必要なのは「貫く意志」である。そしてそれ無しにはどんな論理的思考も無に帰するだけなんだ。