2012-01-20

言葉表現しようとするには感覚的、だけど可視化された実感




最近思うのは、正解とか不正解とかっていうのはあんまり関係ないのかなぁと。

知識も意見も思想も、誰かと繋がるための触媒なのであって、

繋がろうとする時の”摩擦”を起こすのが何よりも大切であっ

て正しさとか納得ってことよりまずはことばのやりとりによって、存在を認め合うことが最優先の目的だと







<h2>アルテイスト?</h2>

なんだろう、この全部が一つの円の中に入るんじゃないかって言う感覚

それぞれが異なった領域にあって、全く関連が無いように思える事象であっても、

なんだか全てが繋がっていて孕んでいる本質は全てに共通しているんじゃないか?という

漠然曖昧、でも確信めいた感覚。点と点が線になり線で織り成す集合体は

円になるような感じ。







私たちはチャンスをつかむためではなく

チャンスを逃さないために日々研鑽を積んでいる。

どこから訪れるかわからない、

訪れていることに気づける自分であるために。

無駄時間を過ごすためにある場面では無駄を省き効率的に進むことを

求める。

そして、むだにだらだらする時間存在がやる気と

ちょっとサボってしまったという罪悪感を呼び、

さらなる効率的にすごそうとする意志に変わっていく。







点と点が結びついて線になる瞬間は

本当にフレイクスルー!!って感じがする。

そことそこが結びつくのか、とか

そんな分野にヒントがあったなんて!って思う。

悲しいけれど私たちには

点と点を結ぶ方法はない。

点と点のお見合い成功させる仲人にはなりえない。

結ぼうとしても無理。

唯一できるのは点を増やすことだけ。

線の材料になる

点を増やすことだけ。






別々の場所にあって独立した存在であるはずのものたちも

本質的には全部同じものであって、

切り離して考えると損をしてしまうような気がしてならない。

全てが繋がっていて、

全部一緒なんだと思う。

見えてる形とか表現の仕方は違っているけれど

それぞれの領域で最終的に行き着く本質

どれも一緒なんじゃないかと思う。

誰もが自分の虹に辿り着ける。

そんな感じ。

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